2013年 05月 27日
「とひ」と「かひ」(2)纒向遺跡の場合
「とひ」と「かひ」(2)
纒向遺跡の場合

(復元想像図 『邪馬台国 九州と近畿』より)
纒向遺跡に大型建物があった痕跡を示す柱穴があり、その中心線が東西を向いているという話があるので、
今回はその中心軸を確認してみたいと思います。

図を見ると、東西線が右肩上がりでした。
春分秋分ラインは完全に東西でなくてはならないので、
この纒向の建物群の中心線は春分秋分の太陽祭祀線ではないことになります。
意外でした。
やはり自分の目で確かめないといけませんね。
この斜めのラインは夏至冬至の角度でもありません。
う~ん。
この傾きは「日拝塚古墳」と似ているな~。

と思って日拝塚古墳を見ると、こちらの傾斜は意外に小さいですね。
纒向遺跡の方が傾斜が大きいのが分かりました。
次は西日本新聞の記事です。(2011.4.28)

左下の図をみてください。
日拝塚古墳の東西線が右肩上がりなのは地殻変動によるズレかもしれないと思ったので、
纒向遺跡もその可能性があるかなと思って新聞の図を見ると、
四棟の建物のさらに東側に柱列があって、それが南北をきちんと意識しています。
ということは、このラインは地殻変動によるズレでもなく、太陽祭祀線でもないと思われます。
太陽祭祀線でなければ何でしょうか。
ラインの延長上に山の頂でもあれば山から気脈を引いたと解釈できるけど、
これは現地の人に観察をお願いするしかありません。
星かもしれない
もし山でもなく、やはり天体を意識したのではないかとこだわると、
あとは星の信仰の可能性が残っています。
一年の特定の日に東から姿を見せる守護星があったのでしょうか。
例えば、エジプトではシリウスの星の出がナイルの洪水を知らせるというように、
何かの星のイベントがあって、それを祀ったのかも知れません。
真鍋大覚は、「天皇は太陽を祭祀して、皇后は星を祭祀した」と伝えています。
香椎宮の場合、その星はスピカでした。
ベガという星があります。織姫星のことです。
古名で榧星(かやのほし)と呼んでいたそうです。
「カヤ」。
「カヤ」について「韓人倭人は織女を祈る天壇を伽耶と唱えた」と真鍋は伝えています。
(『儺の国の星』p158)
「伽耶」というのは朝鮮半島の南部の古代の国の名と思っていましたが、
「ベガを祀る天壇」もまた「伽耶」と呼んでいたというのです。
ベガはかつては北極星だった時代があるんですよね。
ざっと1万2000年前のことです。
今の北極星より強烈な光を発していました。
ベガが北極星の座を譲っても、その信仰は残ったかもしれません。
一方、神功皇后は背振山頂で双子座のカストルとポルックスを祀りました。
http://lunabura.exblog.jp/18632955/
このようなケースがあることから、何らかの星信仰を考えてもよいのかも知れません。
年に一回~数回、特定の日に、ま東より北にずれた方角から昇ってくる星。
1700年ほど前の星。
丹念にステラナビゲータなどを見て行けば分かるかもしれませんね。
「とひ」か「かひ」か、という点では現在の出土だけで判断すると、
槇向の人たちは「どちらでもない」ということになります。
でも南北の柱列があるのですから、その先に東西線が見つかるかも知れません。
もし別の建物が出てきたら、また推理を楽しみましょう。
ところで、槇向に景行天皇の伝承があり、都があったとしたら、
東征した神功皇后は最初にこの宮殿を目指したかもしれないな~。
亡き夫君・仲哀天皇の祖父の宮なのですから、縁故を頼るとしたらここしかないでしょう。
まずは祖先たちを祀るのが彼女のやり方ですから。
そう考えると、纒向遺跡の楽しみが新たに加わりました。
神功皇后はそののち、吉方を選んで稚桜宮に遷宮したのかもしれませんね。
※「かひ」とは夏至を元旦とする氏族であり、「とひ」とは冬至を元旦とする氏族です。
「とひ」と「かひ」(1) 吉野ヶ里は「かひ」族
http://lunabura.exblog.jp/20267331/
で説明しています。
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