山北と賀茂神社と田中幸夫コレクション
先日、くじらさんから「山北」についてコメントをいただいた翌日、
なんと、「山北」から出土した石戈と皮袋型須恵器を見る事が出来ました。
このシンクロニシティを忘れないうちにメモしときます。
「山北」は福岡県浮羽市にあります。
まずは、くじらさんのコメントの概要。
これは神武天皇 伝承の宮々(1)でいただいたコメントです。
ところで、すでにご承知かもしれませんが、加茂大神がこの国に最初に光臨したといわれる神社が浮羽市にあります。
山北の加茂神社といいます。(http://ja.wikipedia.org/wiki/賀茂神社_(うきは市))
境内摂社の三次神社は浮羽でも最も古い神社とのこと。
アジスキタカヒコネの伝承とあわせて考えるとおもしろいですね。
境内には非常に古い古墳があり、かつてはこの付近が筑後川の河口だった時代があったと思われます。物部郷も近くにあり、大陸からの渡来系氏族の重要な拠点のひとつと考えられます。
くじらさん、こんばんは。
「山北」ですね。それなら知ってるかも (^-^)
物部氏はかなり古いですね。想像以上。
あれほど福岡の広いエリアに分布するには、100年200年じゃないような。
何々、アジスキタカヒコネですか。
この神は、大国主命と宗像三女神のタギリ姫の間に生まれた神ですよ。
高良山の麓にも祀られていて、気になる神です。
うきは市の賀茂神社は加茂大神が最初に降臨?
興味津津。
早速ウィキペディアを引用してみましょう。
縁起う~む。
当社の行直大宮司が慶安4年(1651年)に誌した旧記には、
「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」
と述べている。
境内では縄文土器、石器、群集石棺群などが出土している事から鑑みこの旧記が有る真実を伝えているものと考えられる。
賀茂神社社家の初代は、武内宿禰(たけうちのすくね)(孝元天皇の曾孫)19世 波多臣広庭(はたのおみひろにわ)の後裔、波多次郎救家の嫡男 久家和州 としている。(熊懐氏参照)
祭神
神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)(神武天皇)
賀茂下上大神(賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)、
玉依姫命(たまよりひめのみこと)、
賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと))
宇佐から山北へ。
そして八咫烏となった。
これは奥深い伝承ですね。
いつかチャレンジしたい…。
さて、この翌日に出会った山北の出土品は
九州歴史資料館の田中幸夫コレクションの中にありました。

甕棺のイラストと石戈。
今回、このコレクションの撮影OKだったので載せておきます。
紀元前1世紀です。
もう神武天皇よりずっと後の人々です。
石戈を見ると刃先が折れています。
その後も使用した形跡がありますが、専門家はどう見るのでしょうか。
甕棺は二つ合わせて147センチになっています。
イラストの寸法が正しければ、かなり大柄な人です。
イラストの右上には石棺も見えますよ。

山北からは皮袋の形をした土器も出土していました。
時代はぐっと下がって6世紀。
これは福津市の奴山古墳群にも出てたなあ。
これらは現在展示中ですよ!4月7日まです。(2013年)
第13回企画展「筑後考古学研究の黎明 田中幸夫コレクション展」
今回の企画展で紹介する「田中幸夫コレクション」とは、昭和初期から戦後にかけ、福岡県内の遺跡を精力的に調査研究された故田中幸夫氏の考古資料コレクションです。 氏が生涯をかけて収集され、当館に寄贈された考古資料コレクションの中から、筑後考古学研究の黎明期を飾った県指定文化財3点を含む約100点を展示します。
会期:平成25年1月16日(水)~4月7日(月) 会場:第2展示室
九州歴史資料館 〒838-0106 福岡県小郡市三沢5208-3 TEL:0942-75-9575 FAX:0942-75-7834
http://www.fsg.pref.fukuoka.jp/kyureki/index.html
田中幸夫は立屋敷遺跡(遠賀郡水巻町)を発見した人なんですね!
珍敷塚古墳もですって!
出土地の地図があったので、とても分かりやすかったです。
(どの資料館の展示もこうして地図を出してくれるといいなあ。)
地図 山北
2013年2月8日投稿
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一宮神社と王子宮
北九州市八幡西区山寺町
http://lunabura.exblog.jp/17333319/
神武天皇の磐境神籬が現存していた ここは岡田の宮あと

祭神 天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと) 神武天皇(元王子神社)
社伝
王子神社は神武天皇が日向の国より東征の途上、
筑前のこのところにおいでになり一年間政務をみられた宮居の地で、
境内には古代祭場など考古学的にも貴重な跡があります。
*
古事記に出て来る岡田の宮があった所で、かつては王子神社という名でした。
王子の名の由来は、神武天皇がまだイハレビコ皇子だったからだそうです。
現在は一の宮神社に合祀されています。
写真の「王子宮」の鳥居の左に進むと、
当時の磐境神籬(いわさかひもろぎ)が復元されていて、
古代の姿を直接見る事が出来ます。
礫石で円と四角が作られて、天神と地祇を祀った事が分かります。
蛇足ですが、同じように礫で作った神籬が熊本県にもあった事を思い出しました。
そこは三つの円でした。
まるでオリオンの三ツ星を地上に再現したような配置でした。
場所は覚えていないのですが <(_ _)>
神武天皇社
遠賀郡芦屋町
http://lunabura.exblog.jp/15809541/
イワレビコ命はここから東征を始めた?

この宮から松林に入った所に清らかな水が湧いていて、
そこで神武天皇と五瀬の命が禊をしたと伝わっています。
その池は今は自衛隊の基地の中です。
また、神社は第二次世界大戦で爆撃を受けました。
現在は伊勢神社から貰い受けた社殿があるだけです。
八所宮
(はっしょぐう)宗像市
http://lunabura.exblog.jp/i8
平和示現の宮 日本神話の始まりの四組の夫婦の神を祀る宮

御祭神
泥土煮の尊(ういじにのみこと) 沙土煮の尊(すいじにのみこと)
大戸の道の尊(おおとのじのみこと) 大戸の辺の尊(おおとのべのみこと)
面足の尊(おもだるのみこと) 綾かしこねの尊(あやかしこねのみこと)
いざなぎの尊 いざなみの尊
社伝
今を去る2千数百年前、神武天皇が日向の国から御東遷の際、
この地の御手洗池のほとりに鎮座を賜りました。
その折、赤い馬に乗った神が現れ、道案内されたとされ、
これが宗像市赤間(馬)の地名の起こりと伝えられています。
*
古事記の巻頭を飾る神々が祀られています。
神武天皇と赤い馬の神という伝承がいろんな形で今もなお語られています。
神武天皇の伝承地は筑紫にはまだまだあります。
これからも取材して行きます。
八咫烏についての考察

「神武天皇と八咫烏」は有名ですが、
高句麗の古墳の壁画にも八咫烏が描かれています。
時代は神武天皇の方がもちろん古いのですが、
その点についてちょっと考察しています。
高句麗壁画(1)八咫烏―高句麗と日本の賀茂氏そしてサッカーへ
http://lunabura.exblog.jp/15054896/
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神武天皇 伝承の宮々 (1)
今回は神武天皇のゆかりの宮の特集です。
記紀に書かれていない伝承です。
過去記事ですが、切り口を変えるとまた別の古代が見えて来ます。
日若神社
(ひわか) 飯塚市
http://lunabura.exblog.jp/i23/

祭神 伊邪那伎命 須佐之雄命 闇雄神
神武天皇は山を越えようとしたのですが、霧が立ち込めて
進めなくなって困っていた時、神が現れて、
ここの霊泉はイザナギ尊が産んだ中でも一番霊力があって、
天の真名井より優れていると言われた水だと教えられ、
その水に笹を浸して払うと霧が晴れたという伝承があります。
また田河の吾勝野の兄弟山の中峯で天祖を祀った時に、
馬見の物部の末裔の駒主の命が遠くから迎えに来ました。
天皇は駒主の命が献上した駿馬にまたがって筑紫に行幸し、
その家に行って皇祖を馬見山の上に祀られたと伝えます。
神功皇后もここで禊をして皇子の成長を祈りました。
馬見神社
(うまみ) 嘉麻市
http://lunabura.exblog.jp/i175/

祭神 伊弉諾尊(イザナギのみこと)
天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)
木花咲哉姫命(このはなさくやひめのみこと)
馬見の物部の末裔の駒主の命が案内した馬見山の中腹に馬見神社があります。
神武天皇は東征の時、ここに参拝されたといいます。
乗っていた馬が足の白い馬で「足白」又「馬見」の地名が起こったと言われています。
他に、馬に逃げられてしまって見送ったので「馬見」となったという伝承もあります。
撃鼓神社
(げっこ) 飯塚市
http://lunabura.exblog.jp/i135/

祭神 天太玉尊、天児屋根命、細女命(うずめのみこと)
神武天皇が東征する時に祈願されたと伝えます。
神功皇后も二度ここに立ち寄りました。
この写真は下宮です。上宮は石段を沢山登った所にあって、
祠だけがある不思議な境内です。
各神社にリンクを貼っています。
詳細はリンクからどうぞ。
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