ひもろぎ逍遥

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カテゴリ:メモ( 16 )

楊貴妃は蜀の人だった




楊貴妃は蜀の人だった




三星堆の不思議な青銅の仮面像から蜀の文化を知ったが、楊貴妃がこの「蜀」の人だと知って驚いた。

唐文化華やかな時、玄宗皇帝に愛された楊貴妃がライチが好きだったとか、傾国の美人とされたこととか、ワンパターンの知識でしか見ていなかったが。

ライチは蜀の産物だったのだ。
故郷から700キロも離れて暮らす楊貴妃。
故郷の思い出と共に食べていたことになる。

彼女は胡舞を舞う美しい娘だったという。
胡舞とは胡人の舞。
胡人とは西域の異民族。
南方の蜀の娘が胡人に紛れて生きた。

当時の胡舞のスタイルはまるでベリーダンスのようなヘソ出しファッション。
その美しさで注目された楊貴妃が皇子の妃となり、その父皇帝に召し抱えらえた。

なよなよとした姿で描かれる楊貴妃だが、胡舞を舞うとなると、纏足(てんそく)もされておらず、生き生きと動く官能的なスタイルの女性だったことになる。

蜀の娘が胡舞族の一員となったのも、哀しい背景があったのだろう。
それ相当の覚悟を持って生きていたと思う。

安史の乱(755)の時、玄宗皇帝が城を脱出して楊貴妃を連れて向かったのが「蜀」だった。そう、二人は楊貴妃の故郷に向かっていたのだ。

安史の乱のうち、安禄山はイラン系ソグド人。
ラクダに荷を乗せてシルクロード交易をする商人、すなわち異民族だった。

唐は多民族国家だった。
その縮図は日本にもあった。
一つ知ると、一つ見えてくる。

ところで、玄宗皇帝に重用された遣唐使に井真成がいる。
その「井」姓も気になるところである。















<2017年12月29日>




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by lunabura | 2017-12-29 20:04 | メモ | Trackback | Comments(2)

筑紫舞の琴は「叩く琴」だった



筑紫舞の琴は「叩く琴」だった




RKBラジオ「古代の福岡を歩く」の伊都国博編で、古代の琴の話題が出ていました。
伊都国博物館で「叩く琴」が展示されていたのですが、出雲大社でも叩く琴が神事に使われているということで、その時の実際の音色が放送されました。

叩いて音を出すのですから、弦の琴とは全く趣が違いましたね。

番組を聴きながら、どうやらこのディレクターは「叩く琴」を追求しているぞ、と思い、香椎宮での収録のあと、逆取材を試みました。

厚かましいですな(;’∀’)
でも、るな自身も「叩く琴」を追求していたので、すごくうれしかったのです。

( ..)φメモメモ

何故なら、雉琴神社(上巻31)の伝承に、「雉の声を琴の音かと思って目を覚ました」という話があるからです。

琴の音=「春の海」のような豪華絢爛な弦の響きと思い込んでいたので、雉の鳴き声と結びつかなかった。

そうして調べていくうちに、忌宮神社(上巻1)の「板神楽」を知って、神功皇后時代の琴は「叩く琴」だったのが分かったのです。それなら、雉の声に聞こえる。

そんな話を香椎宮の古宮から不老水に行く途中で話しました。
(これは放送されない)

で、収録が終わって尋ねているうちに、な、なんと!「筑紫舞の琴は叩く琴だった」という話を聞いたのです。

しかも、その言葉は西山村光寿斎さんからの聞き取りだったのです。

それを聞いたディレクターが前回書いたように、筑紫舞の番組を作られたのです。

その番組、聴きたいですよね。
筑紫舞の情報は、古田武彦氏と、私のブログの光氏からの聞き取りしかないのですから。

今度ディレクターに会ったら、再放送か、アーカイブをお願いしようと思いますよ♪
実現するかどうかはその先のこと。

まずは、お願いから。
どうぞ、希望がある方はコメントに書いてくださいね。
きっと、届きますから。






それにしても、日本の神社って、すごい。
2000年ほど前の奏法を伝えているんですから。




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by lunabura | 2017-12-16 20:56 | メモ | Trackback | Comments(0)

三星堆―古蜀国―イ族2 鳥居か?




三星堆―古蜀国―イ族2 

鳥居か?


メモが出てきたので、もう少し記録しておこう。







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アーモンドアイを持つ三星堆の巨大な神像。










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これは額にある文字。
イ族が読むと「パ」という発音で「先祖」という意味になるという。









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中国の「戦国時代」図。古蜀国とは蜀のことのようだ。

紀元前316年、秦は軍資金を得るために蜀を攻めた。
紀元前2世紀、蜀は四つの郡に分割された。
3世紀に反乱を起こしたイ族は諸葛孔明によって鎮圧される。
13世紀にフビライはイ族の城を攻め、全員を殺害。





逃げに逃げたイ族は今、大涼山の頂上に3万人の少数民族として蕎麦や羊で暮らす。
姓にはアユ、ムポがある。
名にはテル、アブ、グフ、マル、アカ、マショ。
神の言葉を伝えるピモは100人以上いる。

前回書いた、死者の魂に故郷の道を教える歌は「指路経」という。
その指し示す地は馬牧河(ムンプク)。すなわち蜀の地。






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彼らの文字。








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羊毛節には生きた鶏を高く掲げる。鳥居か、あるいはソッティなのか。








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羊たちに、松で作った「浄化の門」をくぐらせると浄化されるという。
この松が日本では藁と紙垂(しで)になる。

イ族が武装を解除したのは、近年のこと。
その掟は「人の和を大切にする」だという。

蜀の文化は古代日本に通じている。





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by lunabura | 2017-12-11 20:40 | メモ | Trackback | Comments(0)

三星堆―古蜀国―イ族 



三星堆―古蜀国―イ族 




秘境中国謎の民「天頂に生きる」(NHK)の再放送があった。初回も見たのだが、これが驚いたことに、三星堆(さんせいたい)の遺跡を生んだ人々が追われて山の上に住むようになった話だった。

あの「三星堆」をタイトルに何故入れなかったのか、不思議で仕方がない。今日見ていても、惜しいと思われてならなかった。「三星堆」なら、誰でも見たいと思うのに。







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「三星堆」の巨大な青銅の像は数年前に九博にも来ていたので、その裏もじっくりと観察したことがある。これほどの技術を持った人たちはいったいどうなったのか。テレビではその答えが見事に説明されていた。








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三星堆は古蜀国にあった。
繁栄していたため、紀元前316年にその富を狙った秦に攻められて移動し、次には諸葛孔明に攻められて移動、と何世紀もの間、幾度となく攻められて逃げていった人々が「イ族」だった。
今は登山に6時間はかかる山の上に住んでいる。








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紀元前4世紀ごろの文字を今も伝えているイ族に三星堆の出土物の文字を読んでもらうと、読めるのだ。

人が亡くなると、その魂は三つに分かれるという。

一つは天に。一つは守護霊となって村に。そしてもう一つは元々住んでいた国に。

神の声を聴くピモが死者にそこへの道筋を教えるのだが、それを辿ると三星堆がある古蜀国につくという。









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祭りの時の娘の頭にはあの「かふり」がある。
そう、埴輪女子が被っている例の「かふり」だ。
上着も無地なら埴輪と同じ打ち合わせ方。

顔も日本人そっくりだね。



蛇足だが、熊本にイ(井)さんが集中する町があるという話を思い出した。






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by lunabura | 2017-12-10 20:46 | メモ | Trackback | Comments(2)

ウェールズの音楽は二進法



ウェールズの音楽は二進法




先日、関口知宏がイギリスの汽車の旅をする番組の再放送があっていた。

途中、ウェールズに立ち寄ってハープ奏者と出会う。
ハープ奏者は男性だった。

原始的なハープが出されたが、
忌宮神社で弾かれる琴と同じような大きさだった。
ノートパソコンより少し長いもの。

古代日本でも琴は男性が弾くものだったことを思い出した。


それから現代のハープが奏でられたが、その音色を聞くと、
妖精が飛び出してくるのではないか。
ハープとは妖精を呼び出す楽器ではないかと思われた。

その男性いわく、
ウェールズの音楽は二進法だという。

0と1。

それが意味する物は
「宇宙」と「地球のうつろう一瞬」
そのような意味だったという。

永遠と刹那(せつな)ということだろうか。
地球のすべてのものは一瞬たりともとどまらない。

ウェールズの音楽は、だから、
宇宙への呼びかけということになるのだろう。



真鍋大覚は、神籠石(こうごいし)は「0」と「1」で出来ているという。
ウェールズと同じ思想だ。

神籠石(正しくは「八葉の石畳」)の謎のヒントがここにあるのかもしれない。


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by lunabura | 2017-08-18 21:38 | メモ | Trackback | Comments(0)

古代の銅と鉄の話を聞きに



今日は古代の銅と鉄の話を聞きに行ってきました。

面白かったし、全体の流れとか、遺跡の名前とか、
沢山のことを知りました。

工学的な話と考古学そして私の伝承学(?)がどう繋がるのか、
が課題なんだなと、これからの目標も明らかになりました。

面白かった点、また疑問に思った点など、メモしておこう。

メモ
紀元前9世紀、ライン川やドナウ川上流域でケルト人がリモナイトを製錬していた。
(ケルト人はリモナイトで鉄を作ってた!)

阿蘇山のリモナイトと「火」を使った痕跡は
鉄のためでなく、ベンガラ生産のためである。
(ベンガラの需要がそれほど高かったのだろうか)

長登遺跡の銅精錬遺跡の「長登」という地名は
「奈良登り」と言って、奈良の大仏に銅が運ばれたことからついた
という伝承があったが、それが鉛同位体の調査やヒ素含有量、
木簡出土で証明された。
(奈良の大仏の銅は香春岳のものが一番多いと文献で見たが、
その話は出なかった)

弥生時代の銅の原産地は鉛同位体の比較の結果、
中国大陸か朝鮮半島のもので、日本では生産されなかった。

鉄の歴史は隕鉄から。ニッケルの含有量で判別できる。

組織的な金属生産は倭国ではなく日本国の時代から。

倭人はリモナイトではなく、磁鉄鉱(砂鉄)を製錬した。
世界的にも珍しいケース。

鉄が先か銅が先かは古来から論争があった。


などなど。







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by lunabura | 2017-07-08 23:26 | メモ | Trackback | Comments(0)

「弓削」(ゆげ)の話と「中西」の話



「弓削」(ゆげ)の話

「中西」の話

 


弓削の道鏡が建立した由義寺(弓削寺)跡が発見されたという
2017年2月13日の新聞記事をテーブルに置いたのですが、
先日歴史カフェでいただいた久留米市の文化財マップを
整理しようと手に取ってビックリ。


「弓削・北野地区」のタイトル\(◎o◎)/!

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「弓削」と「弓削の道鏡」!

これはいったいどういうシンクロ?

実は高良山に仏教が入り込んだ白鳳二年(673)。

この時、高良山の支配は安曇から物部に変わるのですが、
この物部氏が何故か、のちに武内姓を名乗るようになるのです。

武内宿禰は智将として人気があるとしても、
姓が変わるのはよほどのことと考え、

物部氏の社会的な事件が関わった可能性を想定したのですが、
この二つの資料が並んだ時、弓削氏から考えるようにと
示唆された思いがしました。

白鳳二年に出家したのが隆慶ですが、その母が弓削氏なのです。
つまり、物部氏と弓削氏はここで通婚しています。

この弓削氏だった母も白鳳7年に出家します。
正覚寺を営むとあるので、その寺は久留米で探さないといけないのですが。
(誰か教えて…)

弓削の道鏡が孝謙上皇の病を完治させたのが761年。
隆慶の母が出家した白鳳7年は678年。

弓削氏においては仏教は、道鏡より筑後の方が百年も早いことになります。

百年後の弓削道鏡事件がきっかけとなった可能性、ありますね。

少し時間を掛けて精査したいと思います。
今日はアイデアを忘れないために φ(..)メモメモです。





さて、明日は飯塚での古代史講座です。
神功皇后の話もいよいよ渡海準備の段階になります。
いわゆる三韓征伐ですが、簡単には行けないのですね。

住吉族と安曇族との交渉、
軍事訓練、
決意のパフォーマンス、男装の美豆良結い、
複数の出港地説、寄港地説などを整理します。

神功皇后が渡海の時、「この風は何か」と尋ねると、
「中西」と答えたことから、その水手(かこ)に
「中西」と名乗るようにと告げた話があります。

これがよく分からなかたのですが、
赤間の喫茶店で筥崎宮の氏子さんが突然教えてくれたのです。

「志賀島から朝鮮半島に一気に渡ることが出来る風が吹く季節があり、
その風を中西というんですよ」と。

つまり、魏志倭人伝に出てくる、楽浪郡から糸島に至る航路の
抱える問題が解決したのです。

朝鮮半島から倭国に渡るのは簡単なのですが、
逆のルートは潮流が邪魔をするので、倭国から半島に行くのは難しいのです。

しかし、一年に数日だけ吹く「中西」を捉えたら簡単に行ける!
こうして、不思議な廻り合わせで謎が一つ解けました。

それは学説では出てこない生きた歴史ですね。
伝承とは私たちに伝えてくれる知恵でもあります。

明日は、スポット参加も出来ます。
興味のある方お待ちしています。





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by lunabura | 2017-02-15 21:23 | メモ | Trackback | Comments(26)

白鳳元年と白鳳二年



白鳳元年と白鳳二年




「白鳳年号」は正史には登場しない。
九州年号と言われている。

現在、『高良玉垂宮神秘書』の抜粋版を推敲している最中だが、
白鳳年号がいくつも出てくる。

白鳳二年に高良山では大事件が起こっていた。

それまで大祝として祭祀を務めていた物部氏の美濃理麿保続に
高良大明神が垂迹し、
「我は発心して高良大菩薩となる。俗体は保続に譲る」
と告げたというのだ。

そして、保続は訪れた修行僧の教訓を受けて出家してしまう。

それまで、仏教を受け入れなかった高良山に、ついに
仏教が入って来たという大事件が起こった年が白鳳二年だ。

この年は癸酉(みずのととり)とも書かれていることから、
西暦673年の事と特定できた。

この673年の事件について、「白鳳二年」と記す条のほか、
「白鳳十三年」と記す条が出てくる。
後者は「二中暦」で書かれていることが分かった。

また、同年を「天武天皇即位二年」と記述する条もあり、
あれこれと調べた結果、どれもが正解で、
673年を寺社暦では「白鳳二年」、二中暦では「白鳳十三年」と計算していた。

高良山では、混乱を避けるために、この年を
天武天皇即位二年「癸酉」とも書き、
表記に工夫をしていることが分かった。



さんざん「白鳳年間」のことを調べた結果、頭に焼き付いていたので、
今日、朝倉の恵蘇八幡宮を読みなおして、
ここにも「白鳳」の年号が出ていたことに驚いた。


その概略は、中大兄皇子がここに天降八幡社を創建したが、
天武天皇白鳳元年に社名を恵蘇八幡宮と変えたという。

ここでも「白鳳元年」という寺社暦が使われていたのだ。



恵蘇というのは恵蘇星といって、シリウスを指すが、
これはベツレヘムの星でもあり、
エソ、ヤソという連想を古代でも持っていたことが真鍋から読み取れる。


当時でもバタ臭い名前に変更したのは誰か。

それが天武天皇の勅命だという。



その翌年、高良山に仏僧が入って、大祝が出家してしまったのだが、
天武天皇の差し金ではないかと、漠然と思うようになった。


つまり、高良山への刺客だ。

神道の山に寺院が建てられるようになった。
この時、安曇と物部の高良山での棲み分けは終了し、
高良山は物部一色となる。

白村江の戦いでの敗戦が大きなきっかけに違いない。

天武天皇はあの竈門山(かまど)に宝満山と名を変えさせてもいる。

戦後処理という言葉ではニュアンスが多少違っているが、
天武天皇が筑紫の古い形態を書き換えようとした
痕跡が見られる「白鳳年間」である。




827の歴史カフェは「高良玉垂宮神秘書」ですが、
主にこの白鳳二年より以前の内容になります。

白鳳二年に関しては、少々触れる程度になります。





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by lunabura | 2016-08-20 22:56 | メモ | Trackback | Comments(0)

二人の玉依姫の違い


二人の玉依姫の違い



玉依姫は歴史上、複数いるようですが、
当ブログによく登場するのは海神豊玉彦の姫神である玉依姫です。

豊玉姫の妹に当たります。
夫はウガヤフキアエズ。

神武天皇を生んだことから、国母とされている女神で、
発音はタマヨリヒメ、タマヨリビメと複数見られます。
残念ながら、具体的な伝承の地にまだ出会っていません。



もう一人、玉依姫がいますが、それは賀茂建角身の姫神です。
この玉依姫の夫は「丹塗り矢の化身」で、「火雷神」です。

この賀茂氏の建角身八咫烏となって神武天皇を導いたということから、
二人の玉依姫の時代が意外にも近いことが分かりました。


この話はかつて浮羽市の賀茂神社で学んだのですが、
あまり呑み込めていなくて、
唐津市七山の賀茂神社の縁起を見て、ようやく理解できるようになりました。





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玉依毘媛(正しくは毘売)と書かれているのを見ていると、
多分、昔から、「海神」と「八咫烏」、どちらの玉依姫なのか混同するので、
「毘売」ビメの字を当てられているのではないかと思いました。









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「海神・豊玉彦」の娘は玉依姫。
「八咫烏・賀茂建角身」の娘は玉依毘売。
こんな書き分けが便利でよさそう。


神武天皇と建角身は同時代。
建角身が自分の娘に、神武天皇の母の名前を付けたのかもしれない、
と考えたけど、どうかな~。






それにしても、パソコンを変えてから、
系図を描いていたソフトが二つも使えなくなって困っています。
上の画像はワードで描いているので、「→」がついています (^^;

誰か、いいソフトご存知ないですか?







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by lunabura | 2016-07-10 22:12 | メモ | Trackback | Comments(0)

フツ餅とフツの御魂



フツ餅とフツの御魂



剣の話は魅力的だ。

本来、武器として進化したものが、神剣となって、
その霊力を崇められるのだから。
これは日本独特の文化だろうか。

ヨモギ(蓬)を「フツ」というそうだ。

「鞍手ではそう言った」とコメントが入り、
佐賀、あるいは長崎、大分、熊本、鹿児島、沖縄と
その単語圏が広いことが分かった。

その言葉は「フツ餅」「フツ団子」という形で残っていた。

薬草としてのヨモギの力は、現代でも人々を癒す。


この「フツ」という言葉を武門の雄たる香月氏の拠点で聞いたのだから、
私に限らず、誰しもが「フツの御魂」を思い浮かべたことだろう。


奈良の石上神宮では「フツ」の神剣の霊力をこのように伝えている。

フツの御魂(みたま) 武甕雷神の持つ神剣「フツの御霊」の霊威
フツシ御魂     素戔嗚尊がヤマタノオロチを退治した時の「十握剣」の霊威


物部氏は「二柱の神」の持つ神剣の霊威を崇めた。
武甕雷神や素戔嗚尊と物部氏はどう結びつくのだろうか。

物部氏の関連の宮のなかに、
素戔嗚尊を祭る所を何か所かで見かけて不思議に思ったことと繋がった。

賀茂氏と物部氏の縁。
出雲と物部氏の縁。

剣を追えば、また何かが見えてくるかもしれない。

これまでは剣を造る工人と素材に目が行っていたが、
武器としては使えない七支刀の謎を追っているうちに、
「ヨモギ」や「ヒカゲノカズラ」など、
植物に込められた倭人の精神世界に足を踏み込む自分がいた。

これも多分、長い旅になるのだろう。





コメントを下さった皆さん、ありがとうございました^^




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by lunabura | 2016-05-15 20:46 | メモ | Trackback | Comments(2)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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