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ひもろぎ逍遥

カテゴリ:<地名の由来>( 7 )

剛羅、酒匂、佐甲、合屋の由来 ベンガラと採掘現場




<相模足柄(神奈川)で赤鉄鉱剛羅(ごうら)とも酒匂(さかわ)ともいう。今も湯の名、川の名で残っている。

噴火の灰が天の雨と地の熱で分解した鉄分の多い土砂のことで、紅柄(べにがら)(辨柄(べんがら))の名が通っている。

昔は山の斜面を鋤でけずってその斜面に露出した地層の重なりの中から、特に古い湯脈の筋目にそって縦に切り割り、掘り刳る採掘現場佐甲(さこう)あるいは合屋(ごうや)といった。

 ここに「ごふ」とは果実の中の種子のかたまりを言い、また人間の臓腑のことをいった古語である。(略)

その昔は深く入れば入るほど無限の金と力を無料で与える鉱脈のことであった。竹取物語のあたりから「さか」も「そこ」も女人の陰唇の隠語になって本来の意義は隠されたのである。>
                          儺の国の星拾遺 239


以上はオリオン座の右上に輝くベラトリックス星の説明に出てくる文章である。

ベラトリックス星は「陰(さかの)星(ほし) 允(さかの)星(ほし) 胤(さかの)星(ほし) 」と呼ばれた。


「さか」とはもともと赤鉄鉱を指す言葉で、それがオリオンの星につけられたという。


剛羅、酒匂はベンガラ。
佐甲、合屋はその採掘現場のこととする。


あらためてベンガラをウィキペディアで確認すると、
ベンガラはオランダ語であり、

<日本では、江戸時代にインドのベンガル地方産のものを輸入したために(天竺国であるベンガルの地名が起源)「べんがら」と名づけられた。>

とある。ベンガラという単語自体は江戸以降に使われたもので、それ以前は「さか」「ごう」が基本語だったことになろう。


20190624

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by lunabura | 2019-06-24 21:17 | <地名の由来> | Comments(0)

「くまもと」とは観星台 


「くまもと」とは観星台 
京都の門の開閉時間の基準は熊本にあった


今日は「くまもと」という言葉が星の観測に関連ある言葉だという一文を
見つけたので、書き写します。
例の眞鍋大覺です。囲みの中はスルーして大丈夫です。

 
<天官は終夜の観測と事としていた。全天を隈なく見わたすところから、察するに宣命暦が公布された清和帝貞観3(861)年あたりの古語かと思われるが、観星台のことを隈本とよんでいた。

 「くま」はただちに近東の神話に出てくる斗極の熊の物語を思い浮べるのであるが、祖先は宇宙空間を九間(くま)と書いていた。

「くまもと」とは「くまのむち」即ち、天文観測の長者達人を言い、又「くまのまる」即ち天文台観星台の略でもあったかと思われる。

 九間とは八方と玄天、即ち八方の中心なる北辰の座のことであった。
  韓愈(かんゆ)(786~824)の作詩の一節に
   一封朝(あした)に奏す 九重の天
   夕に潮陽に貶(へん)せらるる路八千
は、まさに九間の言葉をよく表現している。

天官は星座をすべて暗誦して星位のみならず、新星の発見と動向には細心の注意をおこたることがなかった。「歳月人を待たず」の諺そのもののごとく、一寸の光陰に時のたつを賭けて一生を果したのであった。>
『儺の国の星拾遺』p173


<全天は水平線から天頂までが九尺となり、これが唐代(618~975)の詩文に出る九重天(きゅうちょうてん)の由来となる。>
『儺の国の星拾遺』p70 58磯城星 ヘルクレス座α(64)ラス アルゲーチ

今回注目したい内容をまとめましょう。

天官は一晩中星の観測をしていたのですが、
全天を「隈」なく観測していたことから、観星台を「隈本」と呼びました。
その「くま」とは「九間」と書きます。
北極星を中心に八方を描き、北極星+八方=九間と捉えていました。

また「九重の天」とは全天を水平線から天頂までを九尺としたということです。
地球儀に緯度と経度のラインを引きますが、
宇宙空間の場合は、北極星を中心として縦と横のラインと、
天頂を中心としたラインを想定していたわけですね。

それが「九間」と「九重」という言葉の由来だということになります。
「くまもと」とは天文観測の長者達人を言い、
「くまのまる」とは天文観星台の略ではないかと真鍋は言います。
「まる」って星の意味ですもんね。

「くま」の語源は普通、道や川の曲がりくねって入り組んだ所としますが、
これと合致しない地形もあり、
新たに天文観測所のあった地形を考慮すると上手く地名が説明できるかもしれません。

それにしても、クマモトとか、九重とか、熊本の地名と重なりますよね。

そこで思い出したのが、2014年の久留米大学公開講座での福山裕夫氏の発表です。

メモしかないのですが、
京都の門の開閉時刻は日の出と日の入に合わせられているのですが、
実際の時刻を調べたところ、京都の日の出日の入の時刻とは合っていないそうです。

これは、他の所で観測した日の出日の入の時刻を採用しているということになります。

そこで、基準となる緯度経度を調べると、
「熊本の玉名」付近辺りの観測値が当てはまるというのです。

その地に天文観測官がいて、正確な観測をしていたということになります。
そして、そのデータを京都では利用していたのです。

熊本に「隈本」がいた ( ´艸`)

絞り込むと玉名にいた。
神社とか丹念に調べていくと、天文観測所が見つかるかも知れませんね。
地名とか、地形とかが手掛かりです。
この近辺には安曇が入植したという話があります。

志賀海神社の遥拝所とか、香椎宮の古宮を把握して
安曇族の膳部の観測基準が明確になれば、
玉名との比較も可能になりますね。

ということで、追跡調査はTatsuさんに期待したいと思います。^^
(あいかわらず注文の多いブログです)

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玉名大神宮
ここには景行天皇がやって来た

<20150109>





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by lunabura | 2019-01-20 21:39 | <地名の由来> | Comments(4)

老司式瓦と「老司、野多目」の語源




老司式瓦と「老司、野多目」の語源



古代瓦が古代史の論点の一つに挙げられていますが、さっぱり分かりません。

で、西日本新聞に小田富士雄さんの聞き書きシリーズが掲載されているのですが、昨日(20181119)の記事に分かりやすい説明がありました。

これによると、大宰府政庁など九州にあった古代官衙(かんが・役所)や寺に使われた瓦の型式に、「老司式」(ろうじしき)と「鴻臚館式」(こうろかんしき)の二種類があるそうです。

老司は地名です。鴻臚館は古代の迎賓館的な所。

これを命名したのが小田富士雄さんで、老司式の特徴は唐草文様のデザインが片流れになっていて、三角形のギザギザの鋸歯(きょし・のこぎり形)の文様が付いているのだそうです。

これに対して、鴻臚館式は唐草文様が中心から左右対称になり、鋸歯紋が無いそう。

これで分かりました!







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この画像を見ると、ギザギザがあり、唐草文様が流れているので老司式と分かります。
画像は老司公民館からお借りしました。



で、「老司」という地名について。


今日もまた偶然ですが、これを読んだあと、たまたま広げたページに「老司」の語源を書いた文章が出て来たのです(笑)

真鍋大覚の「那珂川の地名考」72です。

〈太宰府は武内宿禰が神功皇后23(223)年に異邦人の筑紫への入国、筑紫からの出国を掌握する官衙を設置したに始まる。〉

と驚く事を書いていますが、その大宰府が発展すると皿や壺などの陶器の需要が増し、窯元はその原料確保に奔走したそうです。


粘土の多い泥の底には赤土が沈殿していて、塩分を多量に含んでいるので、陶器の材料に適し、素焼きでも釉(うわぐすり)がいらない壺が出来たそうです。

この土を「に」と言い、土買いを「にかひ」と言い、新治(にかい)と書いたそうです。

こうして、塩分を含んでいるため需要が無かった土地の子孫が一躍、千万長者になったとか。

神話に出てくる塩土翁とは塩田、塩原を経営していた神で、それ以外に赤土の採掘権を保有する神でもあったとか。

これを万葉の頃には盧人(ろじ)と呼び、それが老司(ろうじ)に変化したそうです。

赤土は川が蛇行する所に堆積し、ここで土取りを深くしていくと水が溜まって仕事がはかどらなくなるため、川の水路をまっすぐにして水を流します。これが「野多目」だそうです。地名がありますね。


老司では良質の赤土が採れ、そこで瓦を作ったのですね。
そのデザインが老司式と呼ばれるようになった訳です。

これで、瓦の事が一つ理解できました♪



20181120 真鍋ノート

福岡市南区老司   野多目


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by lunabura | 2018-11-20 20:11 | <地名の由来> | Comments(0)

地名の由来 宇陀野 有年野 有智野 内野 宇都野 宇佐野 加茂


【真鍋ノート】 

地名の由来 


宇陀野 有年野 有智野 内野 宇都野 宇佐野 加茂



今日は地名の由来について。
「ウチ・ウヅ・ウダ」系の地名が
山麓に展開する扇状地につけられ、
そこには鉱物を求めて加茂氏が移り住んだようすを
『儺の国の星 拾遺』からみていきたい。



P10
<山麓に展開する扇状地を、万葉の頃までは
宇陀野(うだの) 有年野(うねの) 有智野(うちの)
内野(うちの) 宇都野(うつの) などといった。

大和、近江、筑前、駿河などの諸国に今も郷名として生きている。
昔は宇佐野ともいったらしい。

万葉集巻一 間人(はしひと)連老作
  たまきはる 宇智(うち)の大野に 馬並めて
  朝踏ますらむ その草深野

伊都の北、葛城の南五條のあたりの風景である
中世からは津江(つや)の邑が開拓された。>

ウチ系統の地名は山から運ばれた土砂によって
形成された扇状地につけられるという。

津江に「つや」とルビが振ってあることから、
砂鉄関連の地名だということも見えてくる。

伊都の北は加布里山からの土砂崩れをさすのだろう。
葛城とは福岡の犬鳴連邦から宝満山の山系を指すと思われる。
すなわち、太宰府の五條の地のことか。


上記の万葉歌については「ウチ考」というタイトルで
すでに過去に考察した。

古田武彦氏の著書に啓発されて、現地調査したのだが、
氏の指摘する地名「内野」は江戸時代まで存在しなかったことが
証明されるという残念な結果となった。




今日のテーマはこれではない。



この扇状地に加茂氏が好んで集落を形成したという話だ。

<加茂の氏族はこの「うづみの」即ち山が崩壊して沢を
押し潰したところを選んで部落を形成した。

鉱脈が粉砕され、これが土地の下敷に沈殿しているからである。

橐師(たくし)を石上(いそのかみ)といい、
石を打ち金を鍛(う)つから、
その常用必携の団扇(うちわ)や扇子(せんす)を
その地形に見立てたものと考えられる。
(橐=ふいごう)

沼沢地であるから、水鳥がよくそばまで泳いできた。
特に鴨や加茂なる氏名に採られて今も京都に残っている>
<前述の万葉集の歌は、その狩場の描写であった>

うきは市、唐津市七山、京都市の
賀茂神社系を思うと、どれも清流のそばに鎮座する。

特に唐津市七山の地形は急斜面だ。
加茂氏が日本に入植してきて、
険しい山の麓という、あえて土砂災害の危険な地域に住むのは、
その下に沈殿する鉱物の存在を知ってのことだという。

「加茂」の地名も
山―川―扇状地
という地形で見ていくと、
全国に分布している理由がわかるのかもしれない。



                       <2017年10月17日>
                    <加茂氏><地名>




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by lunabura | 2017-10-17 21:11 | <地名の由来> | Comments(0)

高祖(たかす)の語源



高祖(たかす)の語源



【真鍋ノート】

白鳥座の十字の中心に、昔は赤い高津星があったという。
今はない。

いにしえの人はこの赤い高津星が銀河の中心を示し、
万物の生命の発祥として尊崇していた。
この祭壇があった所を「高祖・たかす」「鴻巣・こうのす」と呼んだ。

糸島の高祖山の語源がこれである。

のちには「託社(たこそ)」とも呼んだ。
倭人が巫女の神託を求めたことからくる。

倭人は上古は神産(かみむすひ)に祈り、
それから高麗系の南林を拝すようになった。

南林とは地中海の天地創造の二神のうちのガリヤという地の女神を
燕文に書き改めた神名である。

さらに次の時代になると、倭人は妙見や普賢や観音を唱えるようになる。

高津川とは、天の川のことである。


メモ 
鞍手六ケ岳の高祖も同じ由来か。   
高倉神社の神山は「高津の峯」という。神々が降臨した神奈備山。
「赤間」の語源も、この高津星が神武天皇の前に現れた赤馬に乗った神、
 ということからだと考える。





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画像出典
http://www.kvision.ne.jp/~ktmksdkh/14houkoku.html




『儺の国の星』p91

高津星

古今和歌集巻九羇旅 在原業平(825~880)
  名にしおはば いざこととはむ 都鳥 
  わが思ふ人は ありやなしやと
都鳥とは嘴(くちばし)と脚が赤いカモメである。 

空飛ぶ姿をみあげると、頭と腹に各々紅一点があり、
これが昔の白鳥座のありし日の姿であった。

眼光の位置には今も赤色巨星デネブが輝いているが、十文字の交点に
もっと赤く淀んでいた高津星は今はない。

高津星は夏の夜空に銀河の中心をしめす星であって、
万物の生命の発祥としての尊崇が古人にあり、
この祭壇があったところが怡土高祖(鷹巣)山(416m)、
那珂鴻巣(こうのす)山(100m)などとして、
名だけが残っている。

平安の頃は託社(たこそ)とよんでいた。

そして、わが心に思う女人の胸の内を告げる巫女が
里人の求めに応じて託宣(のりごと)を伝えていたときく。

倭人は天の川を「たかつがわ」とも称していた。
 




<2017年8月25日>

高祖山 上巻28 高祖神社
高津の峯 上巻11 高倉神社



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by lunabura | 2017-08-25 19:38 | <地名の由来> | Comments(0)

洞(くき)と企救(きく)の地名の由来



洞(くき)と企救(きく)
の地名の由来


北九州市に「くき」と「きく」という間違えやすい地名があります。

洞海湾を昔は「洞の海」と書いて「くきのうみ」と呼んでいました。
また、その東にある企救半島は「きく」と読みます。
菊や聞の字を当てるケースもあります。

「くき」の海と「きく」半島の地名の由来は
「北斗七星」から来ていると真鍋大覚は伝えています。


「北斗七星」を「規矩の星」(きくのほし)と呼ぶ集団がいました。
中国語で「規」とはコンパス、「矩」とはサシガネ(L字型定規)のことです。








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北斗七星の柄をサシガネに見立て、
マスの部分をコンパスで描いた円に見立てたのです。

そのサシガネと円の形を洞海湾と企救半島に重ね合わせた結果、
クキとキクという表現が生まれました。

洞海湾と企救半島に地名がまだ無い時代、
北斗七星になぞらえて表現した訳です。

サシガネとコンパスはいつの時代からあるのでしょうか。

伏羲(ふっき)と女媧(じょか)は
中国神話に出てくる「人類を創造した神」ですが、
女媧の手にはコンパス(規)、伏羲の手にはサシガネ(矩)があります。

太古からこの二つの製図道具があった証しです。

北斗七星は北にあるので、南に住む人が名付けたことになりますが、
真鍋は宇佐からの見立てだと言います。

宇佐に住む集団が北斗七星を見て、規と矩を連想し、
宇佐の北にある北九州市の地形を呼ぶとき、
洞海湾はサシガネのように細く曲がった地、
企救半島は円の中に入る地、
そんなイメージを持って、北斗七星の印象を重ねたということになります。

「キ」と「ク」だけでは分からないので、
「キクのキ」「クキのク」と強調表現をしたのでしょう。

新羅が攻めてこないように、関門として、北斗七星を並べたそうです。
北斗七星(規矩の星)の守護を願ったのでしょうか。




<2017年3月19日>

※ コメント欄が現在使えないようです。連休明けに直るかな? (´-ω-`)


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by lunabura | 2017-03-19 21:42 | <地名の由来> | Comments(2)

地名 古賀・通古賀・遠朝廷 こが・とおのこが・とおのみかど



地名 
古賀・通古賀・遠朝廷 
こが・とおのこが・とおのみかど






筑紫(ちくし)では海浜の水路を古賀(こが)という。
渚(なぎさ)に平行に水を通すところから通古賀(とおりこが)の名があった。

察するに網引(あびき)がはげしく海底の土砂を汀に打ち上げるから
疎水はいつも汀線(みぎわせん)に沿うことになり、
これが自然に溝の海側の岸を高く積み上げ、
ついには巨大な砂丘を形成して松原が育つことになるのである。
『儺の国の星拾遺』p58



【古賀】こが
福岡県古賀市は玄界灘に面していて、
松原を抜けると防波堤があり、すぐ近くに波が寄せている。

渚に沿った水路は思い浮かばないが、
段丘の形成前にはそんな水路があったのかもしれない。

このような地形の名称は何というのだろう。
「海岸段丘」かと思って調べると、これは断層による段丘を指すらしく、
うまく名称が見つからない。






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思い起こせば、志式神社裏手の奈多の浜や










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福津市・年毛宮(としもぐう)の裏手の弓ケ浜の砂の段丘と松原は

どちらも防波堤がなく、自然のままだ。


特に年毛宮の宮司の話によると、
昔は海藻が子供の背丈ほど積み上がったというので、
寄せる波の強さが想像できる。

年々、砂が打ち寄せて段丘が形成された。


この時、年毛宮もまた安曇族だと言われた。
また、宗像族とも通婚しているとも聞いた。

沖ノ島に向かう船が立ち寄り、水を汲んでいったという。
それには、安曇族も宗像族も関係なかったのだろう。

沖ノ島祭祀に関しては、宗像族だけで論考すると見落とすものが多い。


【通古賀】とおのこが

さて、通古賀(とおのこが)は太宰府市にある。
陸地奥深い所にあるが、「とお」とは「船」のことだ。

そこまで船が入る水際という意味になる。
「ありなれ川」の時代のことだろう。

「たぶ」「だぶ」も船を指す。
「タブの木」は「船の木」という意味で、
船材になることから付いたと思われる。

「とお」に「唐」の漢字を当てたケースもある。

「唐ケ崎」の地名が鞍手にあるが、
船が停泊する湊があったと考えられる。

遠賀川左岸にある「唐ノ松」神社の場所もかつては島だったことから、
「とう」(船)が泊まることのできる小島だったのだろう。
伝承では「渡海の松」が始まりだという。




【遠の朝廷】とおのみかど

「遠の朝廷」は「とおのみかど」と読むが、
「船が行き交う」朝廷という意味から来ているという。

通説は「近畿から見て遠い朝廷」というが、
改めて見直すと不自然な説明だ。
日本に二つ、朝廷があったという前提になってしまう。

倭王朝と日本王朝があったとすれば一応説明はつくが。







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by lunabura | 2016-11-05 22:51 | <地名の由来> | Comments(6)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25