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ひもろぎ逍遥

カテゴリ:万葉・日本書紀の風景( 27 )

ハマってる




万葉集が面白くてハマってます。


時代が新しい(古代史オタクから見て)ので、すご~く分かりやすい。
本の背表紙に思い切って番号を貼りつけました。







ハマってる_c0222861_13049100.jpg

るな風カスタマイズ。

思い出すのは、天河神社で宮司さんに
「あなたは和歌を詠むといいですよ」
と言われたこと。

当時、詠んでみようとしましたが、なかなか言葉は生まれて来ませんでした。

和歌を詠む気はさらさらないのですが、万葉集に今頃ハマるとはねえ。

大伴旅人や山上憶良が神功皇后ファンっていうのも面白い。
歴史は重なっている。

でも、一番の魅力は、人の心の機微に触れて心が安らぐ点かな。
苦しさも喜びも、皆経験してこその世界が広がってるんです。

<20200226>



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by lunabura | 2020-02-26 13:01 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

大伴旅人ゆかりの地めぐり3 旅人らは基肄城に登った






⑤二日市温泉

二日市温泉はかつて「吹田の湯」(すきたのゆ)と呼ばれていました。
ここに旅人が行ったのは鶴が渡って来た頃なので、もう冬になっていました。

でも、旅人は鶴の声を聞くと、また妻を思い出してしまうのでした。

961番
湯の原に 鳴く葦鶴は 我がごとく 妹に恋ふれや 時わかず鳴く                                                       







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(湯の原に鳴く蘆辺の鶴は わたしのように妻に恋して 鳴き続けるのか)









⑥基肄城(きいじょう)

さて、私たちは二日市(ふつかいち)を離れてバスで基山の基肄城に向かいました。
それは、旅人夫人の葬式の直後のことでした。

旅人は中納言という高い身分だったので、規定により、天皇の使いが朝廷から送られました。

勅使は馬を乗り継ぎ、乗り継ぎして早馬で駆けつけました。

勅使は石上堅魚(かつを)という人です。

葬式が終わると、せっかくなので、遠い都から来た役人を基肄城に案内することになりました。

旅人自身も大宰府の管轄する地が見渡せる所に行って見たかったのでしょう。
旅人らは馬で出かけたのでした。

私たちもバスで行ったのですが、舗装された登山道は急カーブの連続で意外にも厳しかったです。

私は子供のころ歩いて登ったことがあるのですが、道が違っていたのでしょうか、風景も記憶とは違っていました。








大伴旅人ゆかりの地めぐり3 旅人らは基肄城に登った_c0222861_20575878.jpg

草スキー場です。

その上に頂上がある…。しまったなあ。
さすがに、バスハイクで登山は問題ありだよね…。
ちょっと、困りました。

「皆さん、すみません。ちょっと登りがきつそうです。
行ける所まで行ってみましょう。
写真を撮りながら、何度も立ち止まって登ってくださいね」
と言ったのですが、
皆さん、元気。

登る、登る。








大伴旅人ゆかりの地めぐり3 旅人らは基肄城に登った_c0222861_20583188.jpg

20分ぐらいの山道だったでしょうか。
みんな元気に頂上に着きました。

やはり、周囲の景色は壮大で、筑紫平野、筑後平野、有明海、唐津方面、糟屋方面と、全方向を見ることが出来ました。
これぞ、大宰府の管轄地です。









大伴旅人ゆかりの地めぐり3 旅人らは基肄城に登った_c0222861_20585156.jpg

(なんと、頂上は磐座信仰の地でしたよ)



旅人らが来た時には白い卯の花が咲き誇る季節でした。
ホトトギスの鳴き声も響いてきて。


式部大輔(たいふ)石上堅魚(かつを)朝臣の歌一首

1472番 
霍公(ほとと)鳥(ぎす) 来鳴き響(とよ)もす 卯の花の 共にや来しと 問はましものを

(ホトトギスが来て鳴き響き渡っている (奥様が生きておいでなら)卯の花と共に来たのかと問えるのに)

 右は神亀五年戊辰、大宰帥大伴卿の妻大伴郎女が病に遭って亡くなった時に、勅使の式部大輔石上堅魚朝臣を大宰府に派遣して喪を弔い、あわせて物を賜う。

それが終わって驛使(はゆまつかい)と府の諸卿、大夫らと共に基肄城に登って望遊した日にこの歌を作った。
※驛使:駅鈴を下付され、駅馬を使って旅行する公用の使者。


1473番 大宰帥大伴卿の和ふる歌一首

橘の 花散る里の 霍公鳥 片恋しつつ 鳴く日しぞ多き
  (橘の花が散る里のホトトギスは 亡き妻に片恋しながら鳴く日が多い)
まだまだ、何につけても妻が偲ばれる旅人でした。



私たちはバスで太宰府から基肄城に登り、再び太宰府に戻りました。
バスでは2時間ほどの行程でしたが、
道が厳しい旅人の時代は、馬でも日帰りでは無理だったな、と思ったのでした。


<20191208>



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by lunabura | 2019-12-08 21:00 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

大伴旅人ゆかりの地めぐり2 観世音寺 満誓 男が男に惚れた



④観世音寺





大伴旅人ゆかりの地めぐり2 観世音寺 満誓 男が男に惚れた_c0222861_20113861.jpg

この後、私たちはすぐ近くの観世音寺に向かいました。

ここは斉明天皇の為の菩提寺ですが、80年近くも完成できず、沙弥満誓が造寺司として派遣されていました。

ここから満誓は旅人邸に日々通ったことでしょう。

そして、旅人の、妻を失って悲しみに暮れる姿、
酒におぼれる姿、
薩摩大隅の隼人の乱後、苦しむ人々を救うために朝廷に税を免じる特例を求める使者を送る姿、
そんな日々を見ていました。

隼人の乱は旅人自身が征伐の大将軍だったので、数年後に再び筑紫に来て初めて民衆の苦しみを知り、民を救済しようとしたわけです。
それが大伴旅人という男でした。

男が男に惚れる。

そんな思いを、満誓沙弥は「痛き恋」という言葉で詠み、旅人が都に戻った後に送っています。

573番 
ぬばたまの 黒髪変わり 白髪(しらけ)ても 痛き恋には 会ふ時ありけり
  (黒髪が白髪に変わる年になっても、激しい恋にあう時があるのだなあ)
 ぬばたまの:枕詞

旅人がいなくなって寂しがる沙弥満誓です。

こんな満誓も梅花の宴では
821番
青柳 梅との花を 折りかざし 飲みての後は 散りぬともよし笠沙弥(沙弥満誓)
(青柳と梅の花を折って 挿頭にして 飲んだあとは 散ってもいいぞ)

と詠み、豪胆な人柄が伺える歌を残しています。

「梅花の宴」の時、旅人は参加者が歌の準備をしているのを見越し、はぐらかして御題に「落梅の歌」を出したんですね。これには参加者が「え~~~」と叫んだことでしょう。

上手く歌えずに準備したような歌を詠む人もいたのですが、満誓は「散りぬともよし」と、見事に即興で「落梅」を歌いました。なかなかの腕前です。

そんな満誓沙弥がこの観世音寺を完成させました。



⑤戒壇院





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戒壇院は観世音寺の左隣にあります。
もともと観世音寺の一部でした。
鑑真が命がけで来日し、ここで初の授戒を行った所です。










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こんな素敵な小路を通って観世音寺に戻りました。



<20191203>


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大伴旅人ゆかりの地めぐり2 観世音寺 満誓 男が男に惚れた_c0222861_15184581.gif

by lunabura | 2019-12-03 20:13 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

第12回 バスハイク 大伴旅人ゆかりの地めぐり1 坂本八幡宮




②大宰府政庁跡

さて、大宰府展示館で梅花の宴のジオラマなどを見学したあと、すぐ隣の大宰府政庁跡に行きました。





第12回 バスハイク 大伴旅人ゆかりの地めぐり1 坂本八幡宮_c0222861_2092261.jpg

石碑の奥が大宰府政庁跡です。とても広いのですが、画像では線しか写ってませんねえ。
その向こうに蔵司(くらつかさ・地名)と坂本八幡宮大城山(おおきやま)が見えています。

旅人邸について、坂本八幡宮の掲示板に、「近くにあった」と記されているのですが、
旅人の歌には「わが丘」という表現がいくつか出てきます。

そして大城山を歌ったものが見られるので、「大城山が見える丘」が条件となります。

そこで、目を付けたのが蔵司の丘です。
ここからは多くの施設跡が発掘されています。
32人も一堂に会せて、食事が出せる場所ということで、蔵司が該当するのではないかと考えています。





③坂本八幡宮

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坂本八幡宮には新しく「令和」の碑が建っていました。そこから蔵司を撮りました。
この丘に旅人邸があり、ここで最愛の妻を亡くしたのかもしれません。

次は葬式の時の旅人の言葉と歌です。

大宰帥大伴卿の、凶(きょう)問(もん)に報(こた)ふる歌一首  
   (凶問:弔問)
 不幸事が起きて、弔問客が集まった。ひたすら心が崩れるような悲しみをいだき、独り断腸の思いで涙を流す。

ただ両君の大いなる助けによって、消え入りそうな命を永らえている。筆では言葉が書きつくせないのは古今嘆くところである。 
     (両君:未詳)
793番
世の中は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり
(世の中は空しいものと知る時 いよいよますます悲しいことだ)


神亀五年六月二十三日

二人の友達に支えられて何とか生きているように語っています。
この二人の友人とは誰か、分かっていないのですが、
私は山上憶良と沙弥満誓ではないかと考えています。

憶良は後に心打つ挽歌を嘉麻市で作ってくれました。

想像ですが、満誓は枕経を読んでくれたり、葬式の手配をしてくれたのではないでしょうか。

妻が死んだのはホトトギスが鳴く初夏の頃です。

しかし、秋になって萩が咲くころになっても悲しみは癒えませんでした。
オス鹿がメス鹿を求めて悲し気に叫ぶ声を聴くと、
まるで自分が亡き妻を求めて泣く姿に重ねてしまうのでした。

 大宰帥大伴卿の歌二首(内一首)
1541番
わが岡に さ男鹿来鳴く 初萩の 花嬬(づま)問ひに 来鳴くさ男鹿  (坂本八幡宮歌碑)
  (わが住む岡に牡鹿が来て鳴いている 初萩の花の咲く時 花妻の妻問に来て鳴く牡鹿よ)





第12回 バスハイク 大伴旅人ゆかりの地めぐり1 坂本八幡宮_c0222861_2010320.jpg

坂本八幡宮へ向かう小路。



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by lunabura | 2019-12-01 20:13 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

梅花の宴ジオラマ 博多人形 山村延燁



今日のバスハイクは天気に恵まれ、紅葉、黄葉が散り初め、秋が美しく装う一日でした。

最初に訪問したのが太宰府展示館です。

梅花の宴の博多人形がある所です。
今回は写真撮影がOKになっていましたよ!








梅花の宴ジオラマ 博多人形 山村延燁_c0222861_21156100.jpg

大伴旅人と沙弥満誓。








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粟田大夫と山上憶良(赤)







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女性は児島。
わずか十センチほどの人形ですが、指先までみごとです。





梅花の宴ジオラマ 博多人形 山村延燁_c0222861_21161566.jpg

作者は山村延燁(えんよう)。



博多人形です!



<2019129>




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梅花の宴ジオラマ 博多人形 山村延燁_c0222861_15184581.gif

by lunabura | 2019-11-29 21:17 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

歴史カフェ ありがとうございました




今日の午後は歴史カフェ。
ご参加の皆様ありがとうございました。

そろそろビールを飲みながら、「酒をほむる歌」から座右の銘(?)を選び終えた頃でしょうか。
歴史カフェからの宿題でした♪

今日は雨の為に参加できなかった方もありました。
福岡の中~南部域の降雨はまだまだひどいようです。災害にならないように祈るばかりです。


さて、旅人と友人たちの交流にすっかりハマった私は、旅人の私家集(しかしゅう)なんぞを作りたくなりました。

手元に置いて、本のようにしてバラバラとめくりたい。
縦書きがいい。

そんな希望を叶えてくれたのが、100均で買ったA5版のクリアファイルでした。
そこにセレクトした万葉集を差し込んでみると、歌の世界がぐっと迫ってきたのです。

旅人は梅花の宴の32首や松浦川の海人の娘とのやりとりなどを都の吉田宜に送りつけた話は以前書きましたが、その返事を打ち込んで、独りニヤニヤしています。憶良なんか、生真面目過ぎるなあ、とか思ったり。




歴史カフェ ありがとうございました_c0222861_20283868.jpg

これはまだ紹介していない、友人たちの別れの歌の数々。


今日はこの続きを縦書きに変換していきましょう。

もっともっと友情を知りたい、という声と、ホドホドにせえ、という声が聞こえてくるのでした。

20190721





歴史カフェ ありがとうございました_c0222861_21243378.jpg

by lunabura | 2019-07-21 20:30 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

梅花の宴に陰陽師も参加していた



梅花の宴に陰陽師も参加していた



令和出典の「梅花の宴」には32人の歌が載っているが、その中に陰陽師の名を発見。(いや、私が知らなかっただけかも(;^ω^))

その名は
陰陽師磯氏法麿。

大宰府に陰陽師の職があったとは、大変興味深い。この人の伝承は無く、磯氏は磯部氏ではないかとの注書きがあるだけだ。

この梅花の宴の時の名前はいずれも簡略化されていて、山上憶良は「筑前守山上大夫」、葛井大成は「筑後守葛井大夫」という風に苗字だけになっているが、苗字が省略されている人もいる。
佐伯氏は佐氏のように、一字だけになっているのである。

野氏なら大野、小野、三野さん?
板氏なら板茂、板持さん?
荒氏なら荒木、荒田さん?
と、推測するしかなく、陰陽師の磯氏も磯部ではないか、としか推則されていない。

今でも、親しい間柄では苗字の一部だけで呼んだりするが、天平の頃から、くだけた所では「山さん、板さん」と呼んでいたのだろうか。

阿氏は阿部か。
土氏は土師か。
という例もあった。

何だろう、大人になって読む万葉集は現代の私たちにグッと近づいてくるものがある。

さて、話を戻して、磯さんの歌。
836番
梅の花 手折り挿頭して 遊べども 飽き足らぬ日は 今日にしありけり
うめのはな たおりかざして あそべども あきたらぬひは きょうにしありけり

(梅の花を手折って挿頭に挿して遊んでいるが、飽き足らぬ思いがする日は今日の宴だ)
すごく上手くまとまっている。ただ、御題の「落梅」は無視しているが(^_-)


さて、太宰府には国際的な呪詛返しの話がある。
「四王院が宝亀5年(774)に新羅による宗教的呪詛に対し、眺望のきく清浄の地を選んで建立された。」
という伝承が有り、実際に日本から呪詛返しをしている。

これは仏教による呪詛返しかもしれないが、場所の選定などは、陰陽師が関わったかもしれない。
ただ、磯さんは730年に活躍している人なので、直接関わってはいないだろう。


20190718

歴史カフェ 7月21日

太宰帥 大伴旅人 -万葉集から描く筑紫の日々ー

https://lunabura.exblog.jp/30342060/




梅花の宴に陰陽師も参加していた_c0222861_21243378.jpg

by lunabura | 2019-07-18 20:34 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

大伴旅人は我が子家持を手放せなくなった




香椎東公民館で歴史講座をしてきました 

大伴旅人は我が子家持を手放せなくなった





今朝は香椎東公民館で「大伴旅人―香椎廟に参拝す」というタイトルで歴史講座の講師を務めてきました。ご参加の皆さま、ありがとうございました。

ブログではバラバラに記録している大伴旅人の4年間と交遊などを、時系列に通して流してみると、いくつもの発見がありました。

特に、福岡では縁がないと思われた壬申の乱や長屋王の変、藤原四兄弟など、隼人の乱も含めて、知る必要がありました。旅人らがその時代に生きて行く姿は、万葉集ならではの曼陀羅風景です。

大伴家持が十一歳で大宰府に来たのは父・旅人の遺言を聞くためでした。幸いに旅人は病が癒えましたが、妻の死後、我が息子に久しぶりに会うと、もう手放せなかったのでしょう。家持とその弟の書持を都に返さずに、手元に残しました。

十歳前後の男の子たち。その愛らしさは如何ほどだったことでしょうか。
旅人の生きる喜びを再び与えてくれたことでしょう。
この子たちの母は都に居たので、旅人とは手紙のやり取りをして想いを伝え合いました。

ところが、万葉集を最終的に編纂した家持なのに、自分の母の名を記録しませんでした。

それは、母の一族が謀反の誣告罪で、長屋王によって死罪を告げられ、皇太子の取り成しで流罪に留まったという事件があったからでした。
少し複雑ですが、系図を使って紐解くと多くの謎が解けていきます。

文章にするには数千字を尽くさないと説明が難しいのですが、口頭だと上手く説明できるんですね。
歴史カフェでは、これら豪族や天皇家の複雑な背景なども説明します。
それは大伴旅人の一部分でもありました。

歴史的背景を知ると、歌の数々が深い意味を持ち、それが現代に生きる私たちに生きる意味を問いかけてきます。

白と黒の世界がカラーになって、息づき始める。
それが学ぶ喜びだと教えてくれます。



20190713


歴史カフェ 7月21日

太宰帥 大伴旅人 -万葉集から描く筑紫の日々ー

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by lunabura | 2019-07-13 20:28 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

大伴旅人は「日本」と「ここ」(福岡)を分けて詠んだ。「ここ」とは「倭」



大伴旅人は「日本」と「ここ」(福岡)を分けて詠んだ

「ここ」とは「倭」






今回、大伴旅人の歌を訳していったが、参考書は岩波書店のものだ。

本には原典(漢字だけの文)と、書き下し文の両方が載っているが、書き下し文の所の「ヤマト」の表記が「倭」となっている。しかし気になって、念のために原典を調べると、「倭」「日本」の二種類があって、しかも別の場所として書き分けられていた。

今日は、今回見つけた「ヤマト」の表記を整理しておこうと思う。

956番  大伴旅人の歌
やすみしし わご大王の 食す国は 日本ここも 同じとぞ思ふ   
やすみしし わごおおきみの おすくには やまともここも おなじとぞおもう

  (わが大君のお治めになる国は 日本もここも同じだと思います)

956番では大伴旅人は「日本」と「ここ」を使い分けている。
これは大宰帥に赴任したばかりの時の歌だ。
天皇を「大王」と呼んでいるが、その大王がいる所が「日本」だ。

では「ここ」は何と呼ぶのか。明らかに福岡(及び九州)のことを指しているが、その答えは966番にある。



966番 筑紫郎子 児島  遊行女婦(うかれめ)
道は 雲隠りたり 然れども わが振る袖を 無礼しと思ふな
やまとぢは くもがくりたり しかれども わがふるそでを なめしとおもうな

  (倭道は雲に隠れています こらえきれずに私が振る袖を無礼だと思わないでください)



967番 大伴旅人
日本道の 吉備の児島を 過ぎて行かば 筑紫の児島 思ほえむかも
やまとぢの きびのこじまを すぎてゆかば つくしのこじま おもおえむかも

  (日本道の吉備の児島を通り過ぎる時 筑紫の児島が思い出されるだろう)

この二首(966番と967番)は大伴旅人が都に戻る時、水城で児島という乙女が別れの歌を詠み、旅人がそれに答えたものだ。

児島は[遊行女婦]という身分だが、「遊行」の「遊」とは「詩歌管弦」のことだ。
だから、児島は傀儡子のような女性で、例えば筑紫舞を舞うような女性だったと思われる。

児島はこれ以外の時にも、都に帰る人に対して別れの歌を公で詠んでいるので、大宰府直属の専属歌手というイメージを持っている。

その児島が「倭路」と呼ぶ所は、福岡を中心とした倭国の版図をイメージしている。
それに対して、旅人は奈良を中心とした新たな「日本」の版図をイメージして答えたのだろう。

故に、冒頭の歌のこことは「倭」となる。

西暦600年代の日本の事も記している『随書』には「倭国」と「日本」は別の国として著されている。

万葉集からは、西暦700年代になっても、その二国の勢力範囲を「倭」「日本」と使い分けしていたことになる。


20190712



歴史カフェ 7月21日

太宰帥 大伴旅人 -万葉集から描く筑紫の日々ー

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by lunabura | 2019-07-12 20:47 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

山上憶良 大伴旅人の妻への挽歌 



山上憶良 大伴旅人の妻への挽歌



 
初夏に亡くなった大伴郎女の葬儀が終わると、山上憶良は嘉麻の役所に戻ったのだろう。

そこで、これまで書き溜めた自分の歌集から三部を選んだ。これを「嘉麻三部作」と言い、著名な「白銀も 金も玉も何せむに 勝れる宝子にしかめやも」をその一つに選んだことを以前に記したが、その日と同じ日付で憶良は大伴旅人の妻への挽歌を上奏した。

7月21日のことだ。夏も盛りになっていた。

寂しく思っているときに、このような歌が届いたのだ。
これが旅人と憶良の友情を決定的に結び付けたとも思われる。

だから、憶良は旅人への歌には本音を詠めたのだろう。
この時、憶良は69歳。旅人は64歳だった。


日本挽歌一首   (山上憶良69歳)     (しらぬひ:枕詞)

大王(おおきみ)の 遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の国に 泣く子なす 慕ひ来まして      
息だにも いまだ休めず 年月も いまだあらねば 

心ゆも 思はぬ間(あいだ)に うち靡き 臥(こや)しぬれ 
言はむ術(すべ) 為(せ)む術知らに 石木(いわき)をも 問ひ放(さ)け知らず 

家ならば 形はあらむを うらめしき 妹(いも)の命(みこと)の
我(あれ)をばも 如何(いか)にせよとか 

鳰鳥(におどり)の 二人並び居(い) 語らひし 心背(そむ)きて 家ざかりいます


(大君の遠の朝廷として筑紫の国に 泣く子のように慕って来られて
休息もまだ十分でなく 年月もまだ経っていないのに

思いがけず 靡くように床にふせってしまったので 
どう言おうか どうしたらいいか分からず 石や木に問いかける術も分からない

家にいるならば 姿だけでもあろうに うらめしくも 妻は私に どうせよというのか
カイツブリのように 二人並んで語り合った 気持ちに背いて 家から離れてしまわれた)



反歌   
795番
家に行きて 如何にか吾がせむ 枕づく 妻屋さぶしく 思ほゆべしも
 いえにゆきて いかにかあがせむ まくらづく つまやさぶしく おもほゆべしも

(家に行ってもどうするというのか 枕を並べた妻屋も 寂しく思われるだろう)
  ※(枕づく:枕詞)妻屋:結婚する夫婦のために建てる家。男がそこに通う。



796番
愛しきよし かくのみからに 慕ひ来し 妹が情の 術もすべなさ
はしきよし かくのみからに したひこし いもがこころの すべもすべなさ

(ああ こんな結果になるだけだったのに 私を慕って付いて来た妻の気持ちを どうすることもできない)



797番
悔しかも かく知らませば あをによし 国内ことごと 見せましものを
くやしかも かくしらませば あおによし くぬちことごと みせましものを
   (あをによし:枕詞)
(悔しい こうなることを知っていたなら 国中ことごとく見せたかったのに)



798番
妹が見し 楝の花は 散りぬべし わが泣く涙 いまだ干なくに
いもがみし おうちのはなは ちりぬべし わがなくなみだ いまだひなくに

(妻が見たセンダンの花は散っただろう 私の涙が乾かぬうちに)



799番
大野山 霧立ち渡る わが嘆く 息嘯の風に 霧立ちわたる
おおのやま きりたちわたる わがなげく おきそのかぜに きりたちわたる

(大野山に霧が立ち渡っている わたしの嘆く溜息で霧が立ち渡っている)

神亀五年七月二十一日 筑前国守山上憶良奉る


独りになって言葉を失った旅人に成り替わって、その思いをせつせつと述べている。
憶良は旅人と大伴郎女の仲の良い姿を見ていたのだろう。

遠い筑紫まで付いて来ての結果がこうだ。
自分を愛してくれた妻の想いを考えると「術もすべなさ」どうしようもない。

そんな夫の無念さは旅人のみならず、人々の心を打つ。

すべての人に死別は訪れる。
きっとこの歌は共感をもって多くの人に書き継がれ、歌い継がれたことだろう。


歴史カフェ 7月21日
太宰帥 大伴旅人 -万葉集から描く筑紫の日々ー
https://lunabura.exblog.jp/30342060/

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by lunabura | 2019-07-06 21:00 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25