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ひもろぎ逍遥

カテゴリ:万葉・日本書紀の風景( 11 )

嘉麻市 おすぎの本気度 からの、 山上憶良の役所跡



嘉麻市で山上憶良が自分の作品を選定したものが「嘉摩三部作」と呼ばれた話を昨日書いたが、これはその嘉麻市の観光案内パンフレット。


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ああ、おすぎのド、アップが…。(;^ω^)

なんと嬉しそう…。

おすぎは福岡のテレビやラジオに出ていて、時々その声を聴くことがあるが、数年前、テレビ番組で「福岡に嘉麻市(かまし)がある」と、聞いて、「どうして教えてくれなかったのお!」とのたまうことがあった。


「カマ」の言葉にかなりテンションがあがり、「カマ」の飯を作って披露していたような記憶があるが、一昨年か、嘉麻市の観光パンフレットの裏表紙にその顔を見つけて、彼の本気度を知った。(汗)





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表紙をめくると、嘉麻市は福岡のど真ん中にあるのが分かった。









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そして、え?まさかの、憶良の博多人形?

見ると、役所址の記事があるではないか!

でも、住所が書いていない( 一一)

で、地図を見ると、JR下鴨生駅の南東にその場所が記されていた。
これは楽しみ。
また、機会があったら、行くことにしよう。


おすぎの顔でも記事にしようと思ったら想定外の展開で、ほくほくだ♪


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by lunabura | 2019-06-17 20:22 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

山上憶良 嘉麻市で選定した三部作 「瓜食めば 子ども思ほゆ」


山上憶良 嘉摩三部作 


6月27日にバスハイクで飯塚市と嘉麻市に行くが、そこには重要な古墳がある。
王塚古墳と沖出古墳だ。

午前中に飯塚市の王塚装飾古墳館を訪れ、午後に嘉麻市の沖出古墳を見学する。

いずれもきちんと保護されていて、特に装飾古墳館には実物大のレプリカが作られ、その鮮やかな壁画が体感できるようになっている。また見学できるかと思うと、楽しみだ。

その古墳館の前に万葉歌碑があり、この筑豊もまた万葉集と縁が深い事が分かる。

山上憶良が筑豊で「嘉摩三部作」を選定しているのである。

嘉摩郡には郡家(郡役所)があり、筑前国守として赴任してきた憶良は筑豊にも視察に来ていたことになる。


今回、「嘉摩三部作」の詞書や後書きを読んでみた。
三部作は800番から805番。長歌と反歌計六首で成り立っている。

憶良はこの嘉麻市の郡役所で自分の歌を選定したのだが、日付が「神亀5年(728)7月21日」となっている。

実は、この年に大伴旅人の妻が大宰府でなくなっているのだ。
そこで、憶良の三部作の直前の歌を見ると、同じ日付で憶良による「旅人の妻への挽歌」が載っていた。

言い換えると、憶良は7月21日に旅人の妻への挽歌を上奏し、みずからの過去の作品の中から、三部を選りすぐって書き残していたのだ。



推測するに、嘉麻市に滞在していた憶良の元に「大宰帥大伴旅人の妻の死の知らせが」届き、その挽歌を創作したのだろう。この時、自分の過去の作品を見直して、創作のよすがとしたのだと思う。

そして自分の作品のベスト3を選んだ。憶良はこの時69歳になっており、自らの死も考えずにはいられなかっただろう。

大宰帥の妻の挽歌の製作を先方から依頼されたのか、みずから創りたくなって創ったのかは分からない。



今日は、歌を鑑賞するよりも、その状況を知っておきたい。


旅人の妻(大伴郎女)の死の具体的な日付は分かっていないが、神亀5年6月23日の日付で旅人が「弔問に応えた歌」が一首載っている。(793番)

ほかでホトトギスの歌が詠まれたものも多く、その死は今頃の季節だったのかもしれない。

794番は「日本挽歌一首」という長歌で、795番から799番まで、反歌が切々と詠まれている。「筑前国守山上憶良上る」と最後に書かれているので、憶良がその歌を奏上したのである。

同じ日に、先述のように憶良は「嘉摩三部作」を選定した。その三部作のうち、反歌三首を挙げてみよう。長歌は省略する。


801 反歌
ひさかたの天路は遠しなほなほに家に帰りて業を為まさに
ひさかたの あまぢはとほし なほなほに いえにかえりて なりをしまさに

(天に昇る道は遠い 素直に家に帰って 生業に励めばよいのに)
ひさかたの:枕詞 


803 反歌
銀も金も玉も何せむに勝れる宝子に及かめやも
しろかねも くがねもたまも なにせむに まされるたから こにしかめやも

(銀も金も玉も何になろう 子という勝れた宝には及ばない)



805 反歌
常磐なす斯くしもがもと思へども世の事なれば留みかねつも
ときはなす かくしもがもと おもへども よのことなれば とどみかねつも

(永遠の石のようにありたいと思うが この世の定めなので 時の流れは留められない)

神亀5年7月21日、嘉摩郡にして選定しき。筑前国守山上憶良


子煩悩であり、老いに直面したようすが良く分かる。

803番 「銀も金も玉も何せむに」
のように、教科書に出てくる歌もある。これが、嘉麻市で選定されていたのだ。


郡家(郡役所)は今の稲築町鴨生にあったという。地元では郡家の場所は特定されているのだろうか。


嘉麻市について、流れを見ると、

3世紀には稲築八幡宮に神功皇后が訪れているので、協力的な豪族がここにはいた。
そのすぐ南にある沖出古墳の被葬者が4世紀後半に埋葬された。

安閑天皇2年(535年)に鎌屯倉が設置された。
そののち郡家が設置されて、8世紀に山上憶良が視察に来た。
となる。

ここは遠賀川中~上流域の右岸。軍家のあった鴨生には丘陵地帯があるが、ほとんど団地化されているようだ。

バスハイクではそこまでは行かないが、その南の漆生(うるしお)を廻る。あらためて地形を見るのが楽しみだ。


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by lunabura | 2019-06-16 21:28 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

大伴旅人 友情 筑紫歌壇から見送った沙弥満誓





天平2年(730)の12月に大伴旅人は大納言に出世して都に戻っていった。
妻を失って家に帰ると、今更ながら妻の不在はこたえた。

そんな、ある日、筑紫から文が届いた。
沙弥満誓(しゃみまんぜい)からのものだった。

沙弥満誓は旅人よりも四年前に筑紫に来て、観世音寺の建造の最高責任者になっていた。
観世音寺の初代管長でもある。

そこに旅人が来た。
この時から、筑紫歌壇は花を開かせる。

「令和」の由来となった梅花の宴にも参加し、旅人の歌より一番前に歌が掲載されている。


821番
青柳梅との花を折りかざし飲みての後は散りぬともよし 笠沙弥
あおやなぎ うめとのはなを おりかざし のみてのあとは ちりぬともよし
(青柳と梅の花を折って かざしにして 飲んだあとは 散ってもいいぞ)

以前、呑兵衛の代弁者と書いたが、出家とは思えぬ磊落(らいらく)さが何とも魅力的な歌だ。

旅人も酒壺になりたいほどの人なので二人は気が合ったのだろう。



旅人が一人ぽつねんとしているタイミングで手紙が届いた。


大宰帥大伴卿の京に上りし後、沙弥満誓、卿に贈る歌
572番 
真十鏡見飽かぬ君に遅れてや朝夕にさびつつ居らむ
まそかがみ みあかぬきみに おくれてや あしたゆうべに さびつつおらむ
   (見飽きない君に先に都に行かれたから 朝夕寂しいのだろう)
 真十鏡:枕詞

573番 
ぬばたまの黒髪変わり白髪ても痛き恋には会う時ありけり
ぬばたまの くろかみかわり しらけても いたきこいには あうときありけり
  (黒髪が白髪に変わる年になっても、人に恋することがあるのだなあ)
 ぬばたまの:枕詞

「君に遅れてや」という言葉には、自分も早く帰りたいという気持ちがあったのがわかる。


「見飽かぬ君」というほど、頻繁に会っていたのだろう。
その君がいなくなったので、寂しくて仕方がないのだ。

それを「痛き恋」と言っている。
恋という言葉は男女関係なく使われていたようだ。




そんな手紙が筑紫から届いた。次はその返事。

 大納言大伴卿の和(こた)ふる歌二首
574番 
ここにして筑紫やいづく白雲のたなびく山の方にしあるらし

 (ここにいると筑紫はどこなのか 白雲のたなびく山の向こうにあるらしい)



575番 
草香江の入江にあさる蘆鶴のあなたづたづし友無しにして
くさがえの いりえにあさる あしたづの あなたづたづし ともなしにして

(草香江の入江で餌を探す葦鶴のタヅではないが、たづたづし(心細)くしています 友がいなくて)
 たづたづし:心細い

意外と旅人は冷めている。

筑紫がどこなのか、いつも見ている訳ではないらしい。
草香江(くさがえ・大濠公園付近)の入江の鶴(たづ)を引き出して、心細いと言ってくれた。

少し温度差のある二人だ。



満誓は66歳の旅人よりずっと年上だった。
生年が知られていない人だが、真鍋は643年生まれとする。
そうすると、89歳になる。

そりゃあ寂しいだろう。


去る人より、残された者のほうがずっと寂しい。



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by lunabura | 2019-06-07 20:52 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

大伴旅人 妻の死 大伴郎女




大伴旅人が大宰府に長官として赴任したのは神亀四年(727)63歳。

妻の大伴郎女が病で死んだのはその翌年だ。

旅人は妻との死別を数十日経ってようやく歌にしたようだ。


神亀五年戊辰、大宰帥大伴卿、故人(なきひと)をしのぶ歌三首

438番
愛しき人のまきてし敷栲の我が手枕をまく人あらめや
うつくしき ひとのまきてし しきたえの わがたまくらを まくひとあらめや

 (いとしい人が枕にした我が腕を 枕にする人はまたとはいない)

 敷栲の:枕詞
右の一首は 別れ去(い)にて数旬を経て作る歌。

――かけがえのない愛を失った悲しみがひしと伝わってくる。



439番
還るべく時はなりけり京師にて誰が手本をか我が枕かむ
かえるべく ときななりけり みやこにて たがたもとをか わがまくらかむ

  (帰る時になった 都で誰の腕を枕にするというのか)

――旅人は3~4年で都に戻ることになった。しかし、妻の居ない家を想像するとまた苦しみが増すのだった。



440番
京なる荒れたる家にひとり寝ば旅にまさりて苦しかるべし
みやこなる あれたるいえに ひとりいねば たびにまさりて くるしかるべし

  (都にある荒れた家に一人寝たら 旅にまさって苦しいだろう)
右の二首は、京に向かふ時に近づきて作る歌。

―― 思い出の詰まった家も、一人で寝ることを想像すると苦しみが増した。
孤独を恐れる旅人だった。


故郷の家に還り入りて、すなわち作る歌三首

451番
人もなき空しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり
  (妻のいない空しき家は 旅よりも苦しいものだ)

――やはり恐れた通りだった。


452番
妹としてふたり作りし我が山斎は木高く茂くなりにけるかも
いもとして ふたりつくりし わがしまは こだかくしげく なりにけるかも

  (妻とふたりで作った庭の山水は木も高く茂ってしまった)



453番
吾妹子が植ゑし梅の木見るごとに心咽せつつ涙し流る
わぎもこか うえしうめのき みるごとに こころむせつつ なみだしながる

 (妻が植えた梅の木をみるたびに 心むせび涙が流れる)

二人で庭を作り、草木を愛でた。木は思いがけず高く茂り、時が経ったことを教える。
流行の先端だった梅の木を植えて喜ぶ妻の姿が思い出されて、旅人の心の時間は止まってしまった。



さて、
旅人にはもう一人妻がいる。その妻の方に家持が生まれた。大宰府にも連れて行ったので、旅人は一人では無かっただろう。


それでも、大伴郎女との日々はかけがいのないもので、家持(やかもち)も成人して万葉集を編纂するとき、義母の死に嗚咽する父の歌を心を込めて編集したと思われた。



<20190606>

 
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by lunabura | 2019-06-06 21:45 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

大伴旅人 酒壺になりたいなんて 何故にそれほど



大伴旅人の「酒を讃(ほ)むる歌」が13首も万葉集に載っている。

その一つ一つを読んでいるうちに、旅人は何故にそれほど苦しいのか、迫ってくるものがあった。
その一部を紹介しよう。


338番
験なきものを思はずは一杯の濁れる酒を飲むべくあるらし
(しるしなき ものをおもはずは ひとつきの にごれるさけを のむべくあるらし
   (甲斐もないことを思わずに 一杯の濁り酒を飲んだ方がいい)

339番
酒の名を聖と負ほせしいにしへの大き聖の言のよろしさ
(さけのなを ひじりとおほせし いにしへの おおきひじりの ことのよろしさ)
   (酒の名を「聖」と付けた昔の大聖人の言葉はすばらしい)

――この辺りは「なるほど」と思っていたが…


341番
賢しみと物言ふよりは酒飲みて酔ひ泣きするしまさりたるらし
かしこみと ものいふよりは さけのみて ゑひなきするし まさりたるらし
   (賢こぶって物を言うよりも 酒を飲んで酔い泣きするほうが勝っているらしい)


344番
あな醜賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む
あなみにく さかしらをすと さけのまぬ ひとをよくみば さるにかもにむ
   (ああ、醜い と小賢しく言って酒を飲まぬ人を 良く見れば猿に似ている)

――酒量が増えて旅人に忠告する人もいたようだが、それを逆恨みか…。




343番
なかなかに人とあらずは酒壷になりにてしかも酒に染みなむ
なかなかに ひととあらずは さかつぼに なりてしかも さけにしみなむ
   (中途半端に人間ではなく 酒壺になってしまいたい 酒にどっぷりと染まれるのに)


――あらあら



348番
この世にし楽しくあらば来む世には虫に鳥にも我れはなりなむ
このよにし たのしくあらば こむよには むしにとりにも われはなりなむ
 (この世で酒を飲んで楽しければ 来世は畜生道に堕ちて虫でも鳥でもなって構わない)
飲酒は仏教の五戒の一つ。

――開き直り…



旅人の心の苦しさは想像つかないほど深い。

この前後には筑紫歌壇の歌人の歌がずらりと載っているので、この歌も太宰府で詠んだとしたら、一緒に来てくれた妻の死が大きいのかもしれない。


老年になって大宰府に赴き、大きな帥(そち)屋敷に慣れたころ、妻は死んだ。


その屋敷の広さはこたえただろう。

旅人64歳。


いろいろと理由を付けて宴を催しても、

337番
憶良らは今はまからむ子泣くらむそを負ふ母も吾を待つらむそ
おくららは いまはまからむ こなくらむ そをおふははも わをまつらむそ
(私はもう退出しましょう 子が泣いているでしょう それを背負う母も私を待っているでしょう)

――と、話の分かる山上憶良も途中で帰ってしまう。生活感たっぷりに言い残して…


349番
生ける者ついにも死ぬるものにあればこの世なる間は楽しくをあらな
いけるもの ついにもしぬる ものにあれば このよなるまは たのしくをあらな
 (生ある者はついには死ぬものだから この世で生きている間は楽しくなくては)

――そうはいっても、広い部屋に 旅人は一人取り残されたのだろう



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by lunabura | 2019-06-05 20:20 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

大伴旅人は何故、対馬の琴を藤原房前に贈ったのか




万葉集の810番から812番に大伴旅人藤原房前(ふささき)に琴を贈った話が載っている。

対馬の桐で出来た小琴を手に入れて藤原房前に贈るとき、旅人はわざわざ夢物語に仕立てた話を手紙に記した。


琴の精霊が乙女の姿で夢に現れて言った。

自分は対馬の高い山で育った桐から出来た琴で、「常に君子の左にある琴」になりたいと、願って歌を詠んだ。その歌は

810番 
如何にあらむ日の時にかも声知らむ人の膝の上我が枕かむ
    いかにあらむ ひのときにかも こえしらむ ひとのひざのうえ わがまくらかむ
  (どんな時にか どんな日にか 音楽が分かる方の 膝の上を 枕にできましょうか)
という。

811番
言問はぬ樹にはありともうるはしき君が手馴れの琴にしあるべし
 (物言わぬ 樹ではあっても うるわしき方の 手馴れの琴に なるでしょう)

旅人がそう応えると、乙女は「幸甚幸甚」と喜んだ。
しばらくして目が覚めた。

乙女の歌はもちろん旅人の創作だ。

こんな琴をあなたに進呈したい、と手紙を添えて、旅人は都にいた房前に贈った。

812番 
事問はぬ木にもありともわが夫子が手馴れの御琴土に置かめやも
    こととはぬ きにもありとも わがせこが てなれのみこと つちにおかめやも
  (もの言わぬ 木であっても わが背子の 手馴れの御琴は 地に置けましょうか)

と、房前(ふささき)は喜んで返事をした。

この時、旅人は大宰帥(だざいのそち)で65歳。房前は49歳だった。

房前。

そう、広瀬天山神社に神として祀られている安弘(康弘)のことだ。
房前は十代の時に、対馬に侵入した異国人討伐に赴いて勝利しているのだ。

旅人はその功績を覚えていて、対馬の琴に出会った時、房前を思い出した。
だから、琴を乙女に擬人化させて、手の込んだ物語を作って贈ったのだ。

房前が対馬に行ったのは、かれこれ30年も前の話だった。
誰もが忘れた話を旅人が覚えてくれていた。

房前はどれほど喜んだことか。
「お慕いする心は百倍です」と返事をしたためた。

琴といえば、香椎宮が琴の宮だ。
香椎宮や大宰府には珍しい琴も集まったことだろう。


で、タイトルの
大伴旅人は何故対馬の琴を房前に贈ったのか?
それは、海を渡って対馬で戦った若き頃の房前の業績を知っていたからだ。

自らは隼人の乱を鎮める総大将になって戦った苦い経験があったからこそ、房前の業績を覚えていて、評価した。

武人同士が知る思いだ。


この琴を贈ったのは天平元年(729)。

「対馬」の意味は忘れ去れ、現代人で、これを解釈に加える人はいないだろう。
房前が対馬で戦った話は、私とこのブログの読者しか知らないと思う。


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by lunabura | 2019-06-03 20:42 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

万葉の里 糸島市綿積神社 遣新羅使や柿本人麻呂が詠んでいる


万葉の里 糸島市綿積神社 

遣新羅使や柿本人麻呂が詠んでいた



糸島市志摩船越竜王崎の綿積神社の境内は「万葉の里公園」ともなっています。

まずは福田赳夫元総理の揮毫による石碑があるのに驚きました。





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万葉集巻十五 3674

天平八年(736) 遣新羅使人 引津亭舶泊之作歌

草枕 旅を苦しみ 恋ひ居れば 可也の山辺に さ男鹿鳴くも

(長い旅が苦しく あなたを恋しく思っていると この糸島の可也山の山辺で 雄鹿も鳴いている)るな訳

新羅への使者を乗せた船は難波津からこの糸島まで来るまでも、難儀の旅だったようです。

掲示板にその航路が描かれていました。












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掲示板に書かれている文を読んでみましょう。

<天平八年の遣新羅使人の航跡

天平八年(736)、阿倍継麻呂を大使とする遣新羅使人の一行は、旧暦六月に難波を出航し、瀬戸内海を西に進んだ。

途中、佐婆の海(周防灘)で暴風のため遭難し、分間(わくま)の浦(大分県中津市付近)に漂着した。

七夕の頃に博多湾岸の筑紫館(つくしのたち)に着き船団を立て直して荒津を船出したが玄界灘が荒れていたため、韓亭(からどまり・西区唐泊)で三日間海が静まるのを待った。

糸島半島を廻って引津亭(ひきつのとまり・志摩町引津湾内)に停泊し、狛島亭(こましまのとまり・唐津市神集島)から壱岐・対馬を経て朝鮮半島へと渡って行った。>

神功皇后伝承で見かけた地名があるので、何となく様子が分かります。

佐波海から関門海峡を目指す時、暴風の為に大分に流されています。

分間は和間の浜のことでしょう。
そこなら、船大工たちがいた所なので修理もできたと思われます。

荒津は鴻臚館があった所でしょうか。
そこで船団を立て直して糸島に出るまでにも嵐に遭い、この引津湾に避難したのでしょう。

ここまで来るのに航路の三分の二を要しています。

ここから新羅への方が短い距離なのに、いよいよ外海に出るのですから、大変な思いをしたことでしょう。







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こちらの歌碑は巻七の旋頭歌です。揮毫した人の名は見当たりません。(正面からは)

柿本朝臣人麻呂之歌集出 1279

梓弓 引津の辺なる 莫謂花(なのりそのはな) 
摘むまでに 逢はざらめやも 勿謂花(なのりそのはな)


(引津の浜辺の「なのりそ」の花
摘むまでは 逢えないが 摘む時が過ぎたら 逢えるので 人に言わないでください)るな訳

「なのりその花」は「莫告藻」とも書き、ホンダワラという海藻を指します。
花は丸い実のように見えるものを指しているのでしょう。

志賀島の沖津宮でミソギの時に採る海藻の「ガラモ」と同じもののようです。

「逢う」の漢字は男女の逢瀬を指すので、恋人に逢いたい気持ちを表します。

ホンダワラの花が咲く季節までには必ず逢います。
でも、「莫謂」(言うなかれ)のように、人には言わないでくださいという意味が込められています。

秘密の恋人に逢う約束をしているようですね。

柿本人麻呂はこの引津湾まで来たのでしょうか。
秘めた恋のお相手はどなたでしょうか。

和歌は公でも私事でも詠むので、秘密の恋なのか、みんなの気持ちの代表なのか、一首だけでは分かりませんね。







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(綿積神社に奉納されていた海藻。茶色の藻に花のような袋がついている)








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この引津湾で詠まれた歌はもっと沢山あります。

日本書紀には筑紫の事が沢山書かれていますが、万葉集もまた各地で詠まれていて、そこに立つと嬉しくなります。魅力的な世界ですね。


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by lunabura | 2019-04-20 21:47 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

「令和」にちなむ大伴旅人宅の場所



「令和」の典拠となった万葉集の梅花の宴の場所ですが、何処かに書いていたなあ、と思っていたら、検索が集中して、ブログ内の記事ランキングのトップに上がっていたので、探さずに済みました!(^^)!

大宰府政庁の北西部に坂本八幡宮があって、そこに「この辺りは大宰帥(そち)大伴旅人の邸跡と伝えられている」と書かれています。

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八幡宮の境内から外を写したもので、右手に大宰府政庁跡がある。








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場所的にも最高官の邸宅としてふさわしいですね。




過去記事のリンクを貼っておきます。







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by lunabura | 2019-04-02 23:05 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

「令和」によせて 筑紫歌壇の典雅な宴を重ねる



新元号「令和」。

「れいわ」

その柔らかな響きの中に、平和を絶対に守るという強い決意を見たのが第一印象でした。
何故なら私は最初、「令」を使役文字として読んでしまったからです。
「平和であらしめる」とね。

でも、「令」も「和」も万葉集の五巻の序文から採ったと知って、さらに嬉しくなりました。

平和だからこそ生まれる文化。
人々の調和の中から生まれる文化。
そんな背景が込められていたからです。

寒い冬を過ごして一輪、一輪と咲いていく梅の花を国民ひとり一人の開花に例えられていましたね。

そこで、万葉集を開いてみました。

序文の題は「梅花の歌三十二首」
とあり、天平二年正月十三日に大宰府の帥(そち)の屋敷に集まって行われた宴の歌の記録です。

この太宰の帥(長官)とは大伴旅人のこと。66歳の時。
このブログに時々登場する人ですね。

この時の宴は「筑紫歌壇」の代表的な梅花の宴です。

初春の空に掛かる令月(佳い月)のもと、冬の冷たい風が和らぎ、白い梅が白粉(おしろい)を塗った佳人のように輝き、帯に下げた蘭の匂い袋から香るように梅の香りが漂っている。

梅は夜になるとその甘い香りが強まります。いにしえの人は男性もポプリを入れた匂い袋を提げていたので、それに例えたのでしょうか。

「蘭」については「フジバカマ」という説があるそうで、アロマもあるのですね。序文の蘭が何かはよく分かりません。

この序文には長い続きがあって、曙の峰に雲が流れたり、松に霧が掛かっていたり、夕べの花の茎に露が結んでいたり、鳥が霧のために林の中で迷っていたり、庭に生まれたばかりの蝶が舞ったり、と風情ある光景が述べられています。

そして、膝を交えて杯を飛ばし、今日の歌は「落梅」を読もう、となかなか難しいお題が出されました。
だって、まだまだ寒いお正月の夜に梅の花が散る季節を詠まねばならないのですから。

梅が散るのは寂しいでしょうが、次に来るのは暖かい「春の盛り」なので、客人は一ひねりを要求されています。

招かれているのは高級役人はもちろんですが、筑前、筑後、豊後、壱岐、対馬、薩摩などの地方長官の名も見えています。九州のお話しです。

今日は、32首のうち当ブログに登場した3人の歌を読んでみたいと思います。

816
梅の花 今咲けるごと 散り過ぎず 我が家の園に ありこせぬかも
          少貳小野大夫
小野老は旅人と一緒に香椎宮に参拝して、香椎潟で歌を詠んでいましたね。
―今目の前の梅のように、我が家の梅も満開のまま散らずにいてほしいという歌です。

821
青柳 梅との花を 折りかざし 飲みての後は 散りぬともよし
          笠沙弥(沙弥満誓)
沙弥満誓は観世音寺の初代管長でした。
―冠に柳と梅を挿して飲んだ後は、もう散ってもいいよ、と呑兵衛の心境を代表しています。

823
梅の花 散らくは 何処 しかすがに この城(き)の山に 雪は降りつつ
          大監伴氏百代
百代は男性です。旅人のお見舞いに来た人たちを日守神社まで送っていましたね。
―梅の花はどこで散っているのかな?そうはいっても城山に雪が降ってるよ、とまだまだ寒い様子を詠んでいます。城山は大城山(四王寺山)のことかな。

以上三首でしたが、知った人が出てくると興味が湧きます。

蛇足ですが、この32首の直前には糸島の鎮懐石神社の神功皇后についての歌が載っています。(812番813番)本で紹介しています。

また、32首の歌群の後には松浦川の旅の歌が出てきます。神功皇后の鮎釣の場にみんなで出かけた時の歌。どこかで紹介しましたね。

旅人は隼人の乱鎮圧のために福岡に来たのですが、このような平和で文化高い筑紫歌壇に触れて、和の尊さを知り、その記録を残してくれました。平和こそ、一番未来に伝えたいものです。

「令和」に、春の月と白い梅を、また「曲水の宴」のような薫り高い文化を重ねて使おうと思います。




20190401


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by lunabura | 2019-04-01 20:10 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

万葉集「いざ児ども 香椎の潟に」の歌はココ 香椎潟での玉藻刈りはミソギ



万葉集
「いざ児ども 香椎の潟に」の歌はココ

香椎潟での玉藻刈りはミソギ







香椎廟参拝後、この香椎潟に大伴旅人が馬でやってきて、
玉藻を刈る歌を詠んでいます。






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(御島神社と香椎潟)


6巻 957番
 冬11月、大宰の官人ら、香椎廟を拝し奉りおえて、まかり帰る時、
馬を香椎浦にとどめて各々思いを述べて造る歌
 帥大伴卿の歌一首
いざ児ども 香椎の潟に 白妙の 袖さえぬれて 朝菜摘みてむ

(さあ、みんな、香椎潟で白い衣の袖も濡らして 朝菜を摘もう)

ここが神功皇后が海に入って禊をした海だということを承知のうえで
朝菜摘みすなわち、玉藻刈をしているんですね。

冬の11月。香椎廟に参拝しての帰りです。

大宰帥が赴任する時、必ず香椎宮に参拝して、
神官から冠に綾杉の枝を挿してもらうといいます。

それに加えて、別の機会にも参拝したのでしょうか。


万葉集では連番で、小野老(おゆ)の歌も載せています。

958番
 大弐小野老朝臣(あそん)の歌一首
時つ風 吹くべくなりぬ 香椎潟 潮干の浦に 玉藻刈りてな

(冬の季節風が吹く頃になった。香椎潟の潮干の浦で玉藻を刈ろう)

ここは北向きの浜。
北風が吹き付ける寒さ厳しい玄界灘です。
大弐とは副長官の身分。
小野老は「青丹よし 奈良の都は~」を詠ったことで有名ですね。

この人も、香椎潟に出て、玉藻刈りをしています。

この「玉藻を刈る行事」とは単なる食材採りの行為ではなく、
禊(みそぎ)のことと考えています。


福津市の年毛宮(としも)の拝殿前の石の棚に
砂混じりのワカメが置いてありました。

同じ福津市の風降天神社でも見かけました。

そこで、年毛宮の宮司に伺うと、
氏子さんが海に潜って禊をした証しとして、
海藻を二つ採って神社に参拝し、
一つは神社に奉納、一つは自宅に持って帰るそうです。

これはお汐井取りと同じ思想ですね。

和布刈神事とも根底は同じです。

和布刈神事は安曇磯良が神功皇后に
干珠満珠の秘法を伝える様子を現しています。

干珠満珠を海神(わたつみのかみ)から貰う姿が、
磯に入って海藻を採る姿になっているわけです。

志賀海神社でも、沖津宮で今も行っています。

干珠満珠は筥崎宮では「玉せせり」の二つの木玉に変化します。

形が変わりながらも、「ミソギ」という思想が通底しています。


太宰帥だった大伴旅人が香椎廟参拝後、わざわざ香椎潟に立ち寄って
みんなで禊をする情景を詠んだものでしょう。

あの岩礁の石祠に祀られているのは綿津見神ですから、
まさにミソギの神様にその姿を見せている訳です。


「朝菜」については、
朝餉の材料としてワカメを摘むと習ったのですが、
そうではないと思います。
太宰府の長官が朝餉を準備するのは何だかねえ。(´・ω・`)


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万葉集には連番でもう一首出てきます。
959番
 豊前守宇努(うのの)首(おびと)男人(おひと)の歌一首
行き帰り 常にわが見し 香椎潟 明日ゆ後には 見む縁(よし)も無し

(行き帰りに常に見ていた香椎潟も 明日から後は 見ることもない)

豊前守の宇努首男人を調べてみて、驚きました。

宇努首男人は養老4年(720年)に隼人の乱を征圧しています。
この時、大伴旅人が隼人征圧軍の大将軍なのです。


これが薦神社の創立と関わっていました。
薦神社について、ウィキペディアより。

<養老3年(720年)、大隅・日向の隼人の反乱(大隅国府襲撃)で
大伴旅人が率いる大和朝廷軍
および宇佐神宮の辛島波豆米(からしまのはづめ)率いる宇佐「神軍」が、


薦神社の三角池に自生する真薦を刈って作った枕形の御験、
薦枕(こもまくら)を神体に、
神輿を奉じて日向まで行幸し、乱を鎮めたと言われる。>

波豆米はこのあと、鞍手の六嶽神社に三女神の優位性を説きに来ていましたよね。
その年、六嶽神社の神官の家系は断絶します。
何とも不気味に思ったことを思い出します。

香椎潟からここに繋がるとは思いもしませんでした。

また、大伴旅人の五世代前が大伴金村です。
筑紫君磐井を滅ぼした人ですね。

大伴旅人には万葉歌人としての側面と
磐井一族や隼人を滅ぼした武人の家系という側面があります。

「禍福は糾(あざな)える縄の如し」と言いますが、
歴史もまた、縒り合わせた縄のように、
表裏一体となっているのでしょう。

光と影。

歴史を学ぶということは、両面を学ぶということでもあるんですね。



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『神功皇后伝承を歩く』
下巻67 御島神社 神功皇后は髪をすすぐと美豆良に結った






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by lunabura | 2017-06-16 20:17 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(2)

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