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ひもろぎ逍遥

カテゴリ:万葉・日本書紀の風景( 22 )

歴史カフェ ありがとうございました




今日の午後は歴史カフェ。
ご参加の皆様ありがとうございました。

そろそろビールを飲みながら、「酒をほむる歌」から座右の銘(?)を選び終えた頃でしょうか。
歴史カフェからの宿題でした♪

今日は雨の為に参加できなかった方もありました。
福岡の中~南部域の降雨はまだまだひどいようです。災害にならないように祈るばかりです。


さて、旅人と友人たちの交流にすっかりハマった私は、旅人の私家集(しかしゅう)なんぞを作りたくなりました。

手元に置いて、本のようにしてバラバラとめくりたい。
縦書きがいい。

そんな希望を叶えてくれたのが、100均で買ったA5版のクリアファイルでした。
そこにセレクトした万葉集を差し込んでみると、歌の世界がぐっと迫ってきたのです。

旅人は梅花の宴の32首や松浦川の海人の娘とのやりとりなどを都の吉田宜に送りつけた話は以前書きましたが、その返事を打ち込んで、独りニヤニヤしています。憶良なんか、生真面目過ぎるなあ、とか思ったり。




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これはまだ紹介していない、友人たちの別れの歌の数々。


今日はこの続きを縦書きに変換していきましょう。

もっともっと友情を知りたい、という声と、ホドホドにせえ、という声が聞こえてくるのでした。

20190721





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by lunabura | 2019-07-21 20:30 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

梅花の宴に陰陽師も参加していた



梅花の宴に陰陽師も参加していた



令和出典の「梅花の宴」には32人の歌が載っているが、その中に陰陽師の名を発見。(いや、私が知らなかっただけかも(;^ω^))

その名は
陰陽師磯氏法麿。

大宰府に陰陽師の職があったとは、大変興味深い。この人の伝承は無く、磯氏は磯部氏ではないかとの注書きがあるだけだ。

この梅花の宴の時の名前はいずれも簡略化されていて、山上憶良は「筑前守山上大夫」、葛井大成は「筑後守葛井大夫」という風に苗字だけになっているが、苗字が省略されている人もいる。
佐伯氏は佐氏のように、一字だけになっているのである。

野氏なら大野、小野、三野さん?
板氏なら板茂、板持さん?
荒氏なら荒木、荒田さん?
と、推測するしかなく、陰陽師の磯氏も磯部ではないか、としか推則されていない。

今でも、親しい間柄では苗字の一部だけで呼んだりするが、天平の頃から、くだけた所では「山さん、板さん」と呼んでいたのだろうか。

阿氏は阿部か。
土氏は土師か。
という例もあった。

何だろう、大人になって読む万葉集は現代の私たちにグッと近づいてくるものがある。

さて、話を戻して、磯さんの歌。
836番
梅の花 手折り挿頭して 遊べども 飽き足らぬ日は 今日にしありけり
うめのはな たおりかざして あそべども あきたらぬひは きょうにしありけり

(梅の花を手折って挿頭に挿して遊んでいるが、飽き足らぬ思いがする日は今日の宴だ)
すごく上手くまとまっている。ただ、御題の「落梅」は無視しているが(^_-)


さて、太宰府には国際的な呪詛返しの話がある。
「四王院が宝亀5年(774)に新羅による宗教的呪詛に対し、眺望のきく清浄の地を選んで建立された。」
という伝承が有り、実際に日本から呪詛返しをしている。

これは仏教による呪詛返しかもしれないが、場所の選定などは、陰陽師が関わったかもしれない。
ただ、磯さんは730年に活躍している人なので、直接関わってはいないだろう。


20190718

歴史カフェ 7月21日

太宰帥 大伴旅人 -万葉集から描く筑紫の日々ー

https://lunabura.exblog.jp/30342060/




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by lunabura | 2019-07-18 20:34 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

大伴旅人は我が子家持を手放せなくなった




香椎東公民館で歴史講座をしてきました 

大伴旅人は我が子家持を手放せなくなった





今朝は香椎東公民館で「大伴旅人―香椎廟に参拝す」というタイトルで歴史講座の講師を務めてきました。ご参加の皆さま、ありがとうございました。

ブログではバラバラに記録している大伴旅人の4年間と交遊などを、時系列に通して流してみると、いくつもの発見がありました。

特に、福岡では縁がないと思われた壬申の乱や長屋王の変、藤原四兄弟など、隼人の乱も含めて、知る必要がありました。旅人らがその時代に生きて行く姿は、万葉集ならではの曼陀羅風景です。

大伴家持が十一歳で大宰府に来たのは父・旅人の遺言を聞くためでした。幸いに旅人は病が癒えましたが、妻の死後、我が息子に久しぶりに会うと、もう手放せなかったのでしょう。家持とその弟の書持を都に返さずに、手元に残しました。

十歳前後の男の子たち。その愛らしさは如何ほどだったことでしょうか。
旅人の生きる喜びを再び与えてくれたことでしょう。
この子たちの母は都に居たので、旅人とは手紙のやり取りをして想いを伝え合いました。

ところが、万葉集を最終的に編纂した家持なのに、自分の母の名を記録しませんでした。

それは、母の一族が謀反の誣告罪で、長屋王によって死罪を告げられ、皇太子の取り成しで流罪に留まったという事件があったからでした。
少し複雑ですが、系図を使って紐解くと多くの謎が解けていきます。

文章にするには数千字を尽くさないと説明が難しいのですが、口頭だと上手く説明できるんですね。
歴史カフェでは、これら豪族や天皇家の複雑な背景なども説明します。
それは大伴旅人の一部分でもありました。

歴史的背景を知ると、歌の数々が深い意味を持ち、それが現代に生きる私たちに生きる意味を問いかけてきます。

白と黒の世界がカラーになって、息づき始める。
それが学ぶ喜びだと教えてくれます。



20190713


歴史カフェ 7月21日

太宰帥 大伴旅人 -万葉集から描く筑紫の日々ー

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by lunabura | 2019-07-13 20:28 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

大伴旅人は「日本」と「ここ」(福岡)を分けて詠んだ。「ここ」とは「倭」



大伴旅人は「日本」と「ここ」(福岡)を分けて詠んだ

「ここ」とは「倭」






今回、大伴旅人の歌を訳していったが、参考書は岩波書店のものだ。

本には原典(漢字だけの文)と、書き下し文の両方が載っているが、書き下し文の所の「ヤマト」の表記が「倭」となっている。しかし気になって、念のために原典を調べると、「倭」「日本」の二種類があって、しかも別の場所として書き分けられていた。

今日は、今回見つけた「ヤマト」の表記を整理しておこうと思う。

956番  大伴旅人の歌
やすみしし わご大王の 食す国は 日本ここも 同じとぞ思ふ   
やすみしし わごおおきみの おすくには やまともここも おなじとぞおもう

  (わが大君のお治めになる国は 日本もここも同じだと思います)

956番では大伴旅人は「日本」と「ここ」を使い分けている。
これは大宰帥に赴任したばかりの時の歌だ。
天皇を「大王」と呼んでいるが、その大王がいる所が「日本」だ。

では「ここ」は何と呼ぶのか。明らかに福岡(及び九州)のことを指しているが、その答えは966番にある。



966番 筑紫郎子 児島  遊行女婦(うかれめ)
道は 雲隠りたり 然れども わが振る袖を 無礼しと思ふな
やまとぢは くもがくりたり しかれども わがふるそでを なめしとおもうな

  (倭道は雲に隠れています こらえきれずに私が振る袖を無礼だと思わないでください)



967番 大伴旅人
日本道の 吉備の児島を 過ぎて行かば 筑紫の児島 思ほえむかも
やまとぢの きびのこじまを すぎてゆかば つくしのこじま おもおえむかも

  (日本道の吉備の児島を通り過ぎる時 筑紫の児島が思い出されるだろう)

この二首(966番と967番)は大伴旅人が都に戻る時、水城で児島という乙女が別れの歌を詠み、旅人がそれに答えたものだ。

児島は[遊行女婦]という身分だが、「遊行」の「遊」とは「詩歌管弦」のことだ。
だから、児島は傀儡子のような女性で、例えば筑紫舞を舞うような女性だったと思われる。

児島はこれ以外の時にも、都に帰る人に対して別れの歌を公で詠んでいるので、大宰府直属の専属歌手というイメージを持っている。

その児島が「倭路」と呼ぶ所は、福岡を中心とした倭国の版図をイメージしている。
それに対して、旅人は奈良を中心とした新たな「日本」の版図をイメージして答えたのだろう。

故に、冒頭の歌のこことは「倭」となる。

西暦600年代の日本の事も記している『随書』には「倭国」と「日本」は別の国として著されている。

万葉集からは、西暦700年代になっても、その二国の勢力範囲を「倭」「日本」と使い分けしていたことになる。


20190712



歴史カフェ 7月21日

太宰帥 大伴旅人 -万葉集から描く筑紫の日々ー

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by lunabura | 2019-07-12 20:47 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

山上憶良 大伴旅人の妻への挽歌 



山上憶良 大伴旅人の妻への挽歌



 
初夏に亡くなった大伴郎女の葬儀が終わると、山上憶良は嘉麻の役所に戻ったのだろう。

そこで、これまで書き溜めた自分の歌集から三部を選んだ。これを「嘉麻三部作」と言い、著名な「白銀も 金も玉も何せむに 勝れる宝子にしかめやも」をその一つに選んだことを以前に記したが、その日と同じ日付で憶良は大伴旅人の妻への挽歌を上奏した。

7月21日のことだ。夏も盛りになっていた。

寂しく思っているときに、このような歌が届いたのだ。
これが旅人と憶良の友情を決定的に結び付けたとも思われる。

だから、憶良は旅人への歌には本音を詠めたのだろう。
この時、憶良は69歳。旅人は64歳だった。


日本挽歌一首   (山上憶良69歳)     (しらぬひ:枕詞)

大王(おおきみ)の 遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の国に 泣く子なす 慕ひ来まして      
息だにも いまだ休めず 年月も いまだあらねば 

心ゆも 思はぬ間(あいだ)に うち靡き 臥(こや)しぬれ 
言はむ術(すべ) 為(せ)む術知らに 石木(いわき)をも 問ひ放(さ)け知らず 

家ならば 形はあらむを うらめしき 妹(いも)の命(みこと)の
我(あれ)をばも 如何(いか)にせよとか 

鳰鳥(におどり)の 二人並び居(い) 語らひし 心背(そむ)きて 家ざかりいます


(大君の遠の朝廷として筑紫の国に 泣く子のように慕って来られて
休息もまだ十分でなく 年月もまだ経っていないのに

思いがけず 靡くように床にふせってしまったので 
どう言おうか どうしたらいいか分からず 石や木に問いかける術も分からない

家にいるならば 姿だけでもあろうに うらめしくも 妻は私に どうせよというのか
カイツブリのように 二人並んで語り合った 気持ちに背いて 家から離れてしまわれた)



反歌   
795番
家に行きて 如何にか吾がせむ 枕づく 妻屋さぶしく 思ほゆべしも
 いえにゆきて いかにかあがせむ まくらづく つまやさぶしく おもほゆべしも

(家に行ってもどうするというのか 枕を並べた妻屋も 寂しく思われるだろう)
  ※(枕づく:枕詞)妻屋:結婚する夫婦のために建てる家。男がそこに通う。



796番
愛しきよし かくのみからに 慕ひ来し 妹が情の 術もすべなさ
はしきよし かくのみからに したひこし いもがこころの すべもすべなさ

(ああ こんな結果になるだけだったのに 私を慕って付いて来た妻の気持ちを どうすることもできない)



797番
悔しかも かく知らませば あをによし 国内ことごと 見せましものを
くやしかも かくしらませば あおによし くぬちことごと みせましものを
   (あをによし:枕詞)
(悔しい こうなることを知っていたなら 国中ことごとく見せたかったのに)



798番
妹が見し 楝の花は 散りぬべし わが泣く涙 いまだ干なくに
いもがみし おうちのはなは ちりぬべし わがなくなみだ いまだひなくに

(妻が見たセンダンの花は散っただろう 私の涙が乾かぬうちに)



799番
大野山 霧立ち渡る わが嘆く 息嘯の風に 霧立ちわたる
おおのやま きりたちわたる わがなげく おきそのかぜに きりたちわたる

(大野山に霧が立ち渡っている わたしの嘆く溜息で霧が立ち渡っている)

神亀五年七月二十一日 筑前国守山上憶良奉る


独りになって言葉を失った旅人に成り替わって、その思いをせつせつと述べている。
憶良は旅人と大伴郎女の仲の良い姿を見ていたのだろう。

遠い筑紫まで付いて来ての結果がこうだ。
自分を愛してくれた妻の想いを考えると「術もすべなさ」どうしようもない。

そんな夫の無念さは旅人のみならず、人々の心を打つ。

すべての人に死別は訪れる。
きっとこの歌は共感をもって多くの人に書き継がれ、歌い継がれたことだろう。


歴史カフェ 7月21日
太宰帥 大伴旅人 -万葉集から描く筑紫の日々ー
https://lunabura.exblog.jp/30342060/

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by lunabura | 2019-07-06 21:00 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

松浦川2 大伴旅人のジョークに山上憶良はこう返事した 



松浦川2 

大伴旅人のあからさまな嘘に山上憶良はこう返事した 




さて、松浦川で鮎釣りをしていた美しい娘ら(複数)に声を掛けたら、求婚されたという手紙は漢文で書かれていましたが、それがわざわざ山上憶良の元に届けられました。

上司からこんな手紙が来た時、憶良はどう対処したのか、とても気になります。
万葉集には一人おいて二人目の所に憶良の返事が書かれていました。



憶良はかしこまってぬかずき、謹んで申し上げます

 憶良はこう聞いています。
「四方の山のような諸侯の長、都督(ここでは大宰府)の長官、国守などは典法によって部下を率いて巡行してその風俗を視察する」と。

心の中ではそうしたいと思う事が多いのですが、口には出しにくいものです。謹んで三首の田舎の歌で心の内の晴れやらぬ我が思いを除きます。

868
松浦県 佐用比売の子が 領巾振りし 山の名のみや 聞きつつ居らむ
まつらがた さよひめのこが ひれふりし やまのなのみや ききつつおらむ
(松浦県の佐用比売が領巾を振ったという 山の名だけは聞いております)

869
帯日売 神の命の 魚釣らすと 御立しせりし 石を誰見き
(たらしひめ かみのみことの なつらすと みたたしせりし いしをたれみき
(神功皇后の神の命が鮎を釣って御立ちになったという石を 誰が見たのでしょうか。私はまだみておりません)

870
百日しも 行かぬ松浦路 今日行きて 明日は来なむを 何か障れる
ももかしも いかぬまつらぢ きょういきて あすはきなむを なにかさやれる
 (百日もかからぬ松浦への路を 今日行って明日は帰って来れるのに 何の障害があって行けないのでしょうか)


オオマイゴッド。
まさかの返事は堅苦しすぎ。旅人の冗談を無視してる?
憶良は仕事一筋?堅物?
それとも拗(す)ねてる?
大伴旅人の妻が死んだ時の挽歌はあんなに素晴らしかったのに…。

ということで、憶良は想定外の返事を書いていました。
少し気鬱な感じも伝わってきますね。


さて、同じ手紙を都でもらった人がいます。吉田宣(よろし)という人です。
この人には「梅花の宴」の歌も一緒に送っています。

その吉田宣の返事には、旅人の冗談について、

松浦の仙媛(やまひめ)の歌に和(こた)ふる一首 (吉田宣)
865 
君を待つ 松浦の浦の 娘子らは 常世の国の 天娘子かも
きみをまつ まつらのうらの おとめらは とこよのくにの あまおとめかも
(君を待つ松浦の浦の乙女たちは 常世の国の天女かもしれませんね)

と、上手く合わせてくれていましたよ。

やはり、少しは空気読んでくれるほうが、嬉しいかも、ですね。

<20190705> 




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by lunabura | 2019-07-05 21:07 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

松浦川1 大伴旅人のあからさまな嘘に山上憶良は何と答えるのか…

松浦川

大伴旅人のあからさまな嘘に山上憶良は何と答えるのか…






大伴旅人は唐津の松浦川まで出かけていった。

松浦川の鮎釣りと言えば神功皇后の鮎占いで知られている。
衣の裾から糸を引き抜いて米粒を付けて川に垂らすと鮎が掛かったという。

この後、地元では女性は釣れるが男性は釣れないという伝説が出来た。
そのほとりにある玉島神社の岩に干珠満珠を置いたことから、神社の社号を「玉島」というようになった。


旅人がここにやって来ると、美しい娘たちが鮎釣りをしていた。家や名を尋ねても「家も無い漁夫の子です」と笑って答えるだけだったので、歌を詠んで贈ると、思いがけず返歌があって、その素養に驚いた。

しかも、「あなたと共寝をしたい」と詠めば「並みの方でないので、私も恋しく思います」と大人の対応をしてくれる。



このエピソードを、仙女が「夫婦になって共に年を取るまで過ごしましょう」と求婚してきたという「あからさまな嘘」の話に作り替えて、旅人は憶良に送り付けた。

長々と記した序文には中国の神仙の話を織り交ぜ、「憶良よ、どれほど背景の漢籍が分かるか」、という挑戦状のようにも見える。

海人の娘たちとの問答歌も、最後まで読んでいくと、旅人はホントに松浦に行ったのか疑わしくなって来るほど、歌のトーンが下がっていく。



今日はその問答歌の一部を。 皆さん、どう思う?


松浦川に遊ぶ序

折があって松浦縣に往って逍遥し、たまたま玉島の澤に臨んで遊覧していると、魚を釣る女子(おとめ)らに会った。

花のような顔の美しさは比類なく、光り輝く姿は比べる者がなかった。

眉は柳の葉を描いたようで、頬は桃の花が開いたようだ。

心意気は雲をしのぐほど高く、雅(みやび)さは格別だ。僕(われ)は尋ねた。

「どの郷(さと)の誰の家の方ですか、もしかしたら仙女ですか」と。娘らは皆微笑んで

「わたしたちは漁師の家の子、草庵に住むいやしき者で、郷もなく家もありません。お答えするほどのこともありません。ただ水に親しみ、山を楽しむだけです。

ある時には洛浦(らくほ)(ここでは松浦川)で魚をうらやみ、ある時には巫峡(ふきょう)(ここでは玉嶋峡)で寝転んで霞を眺めます。

今、偶然に貴い方に出会い、感激して真心を伝えております。
これよりどうして夫婦の契りを結んで共に老いるまで過ごさずにおられましょうか」と言った。

下官である私は「おお、つつしんで芳命を承ります」と答えた。

この時、日は山の西に落ち、黒馬は去ろうとした。ついに思いを述べて歌を詠んで贈った。


853番
漁する 海人の児どもと 人は言へど 見るに知らえぬ 良人の子と  
あさりする あまのこどもと ひとはいえど みるにしらえぬ うまひとのこと
 (漁をする海人の子と あなたがたは言うけれど、 見れば分かります 貴人の子だと)

答える歌
854番
玉島の この川上に 家はあれど 君をやさしみ あらはさずありき
 (玉島のこの川上に家はありますが あなたには気恥ずかしくて明かしませんでした)


蓬客(よもぎのように彷徨う自分)が更に贈る歌三首(のうちの一首)

857番
遠つ人 松浦の川に 若鮎釣る 妹が手本を われこそ巻かめ
とおつひと まつらのかわに わかゆつる いもがたもとを われこそまかめ
 (松浦の川で若鮎を釣る あなたの手本を われこそ巻きたいものだ)
 遠つ人:枕詞 

 
娘(おとめ)らが更に応えた歌三首

858番
若鮎釣る 松浦の川の 川波の 並にし思はば われ恋ひめやも
(若鮎を釣る松浦川の川の波のナミではないが、並みの方だと思うなら恋しく思わないでしょうが)

後の人の追ひて和ふる詩三首 帥の老(おきな)  「後の人:旅人のこと」
862番
人皆の 見らむ松浦の 玉島を 見ずてやわれは 恋ひつつ居(お)らむ
(人が皆見ている松浦の玉島を見ずに私は恋しているのだろうか)


11首のうち、5首を紹介。
どこから、どこまでがホントか分からない。ちなみに旅人は66歳。

こんな困った手紙を送られた憶良はどう返事をするのか。

明日、訳してみようっと。
<20190704>





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by lunabura | 2019-07-04 22:46 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

大伴旅人 書殿でのうまのはなむけ 山上憶良 俺のこと何とか頼むと…


大伴旅人 書殿でのうまのはなむけ 

山上憶良 俺のこと何とか頼むと…







昨日はネット接続が不良になって、あれこれとやって、今日、ようやくサクサクと動くようになりました。

さて、今日は大伴旅人が大宰府を離れる時の話です。

天平元年に長屋王の変を受けて太宰大貮の丹比県守が帰京して、夜須で飲む独り酒を嘆いた旅人ですが、その翌年の12月には自分も帰京の想いが叶いました。


(時系列がバラバラですねえ。ブログでは、その日面白かった所を記録しているためにバラバラですが、歴史カフェではきちんと順を追って話しますm(__)m)


別れの時を迎え、旅人らは書殿で餞酒(うまのはなむけ)をしました。
「書殿」!!!ですよ!!!。

大宰府に書殿があった(*’▽’)



注釈では旅人の屋敷に「図書室」があったと書かれているのですが、「殿」が付いているので、これは大宰府の直轄の独立した建物の「図書館」ではないかと思っています。

どんな本が所蔵されていたのでしょうか。

日本書紀はどうでしょうか。
この天平2年は西暦730年です。日本書紀は720年成立なので、そのわずか10年後の話になると、写本が出来ていたかは微妙ですね。

日本書紀は沢山の本を参考にして編集しています。
ニギハヤヒの所などは十冊以上の伝承を分析して分類して記録しています。
三女神も数冊の本を整理して記録しています。

たぶん日本書紀ではなく、倭国時代の本が沢山あったんですねえ。
旅人や憶良たちは中国の古典を沢山引用しているので、そんな書物も収蔵されていたことでしょう。

最近は韓流や華流の時代劇の有職故実を見ています。考古学的には嘘が多いけど、それでも、日本人の知らない文物が沢山出てきます。


その中国や韓国の書殿の本の収蔵法は、今のように本が立てられる訳ではないので、冊子を横にして数冊積み重ねています。竹簡も多い。また、一枚紙を丸めて布で包むスタイルもある。

書殿の中には、本を読んだり書いたりできるような座席や机や照明器具があったりするので、広いスペースがあります。


大宰府の書殿でも、少なくとも数名以上で宴会をしたので、けっこう広い室内だったことが分かります。

この書殿での宴では旅人の歌はありませんが、出席した人が別れを惜しんで詠んだ歌が四首書かれています。

それに続けて山上憶良が三首、歌を詠んでいるのですが、自分の事ばかり詠んでいるんですね。
これがちょっと面白かったので紹介します。


敢えて私の想いを述べる歌三首

880番 
天ざかる 鄙に五年 住まひつつ 都の風習 忘らえにけり 
あまざかる ひなにいつとせ すまいつつ みやこのてぶり わすらえにけり
(天ざかる:枕詞)

(田舎に五年も住んでいて 都の習わしを忘れてしまいました)


881番
斯くのみや 息づき居らむ あらたまの 来経往く年の 限知らずて 
かくのみや いきづきおらむ あらたまの きへゆくとしの かぎりしらずて 
(あらたまの:枕詞)

(こうして溜息をついてばかりしているのだろうか 来ては去る年の際限も知らずに)


882番
吾が主の 御霊賜ひて 春さらば 奈良の都に 召上げ給はね
あがぬしの みたまたまひて はるさらば ならのみやこに めあげたまわね

(わが主の御蔭を賜って 春になったら 奈良の都に召し上げてください)

天平2年12月6日 筑前国司山上憶良謹んで奉る 


880番では憶良はもう五年も筑前にいると詠んでいるので、旅人より一年前に着任していたのが分かります。田舎に住み続けて都の風習も忘れてしまったと。

881番ではいつ帰京できるのかわからない状況に溜息をついています。

882番では旅人のことを「吾が主」と呼んで、大納言に出世するなら、人事権も掌握できるはずだから、「自分のことを都に召し上げてください。」とアピールしています。

こんな事、上司にはなかなか言えないものです。憶良は自分の事ばかり詠んでいますが、それが許されるような間柄だったんでしょうね。

憶良自身、遣唐使の一員だったから、漢籍に造詣が深く、旅人は「知ってるかな」という感じで時々、手紙に中国の書物の内容を盛り込んでいるのですが、憶良はそれを理解して一ひねりして返歌をしてくれるので、すごく気が合ったようです。
旅人の妻の挽歌を詠んでくれたのも憶良でした。

憶良が帰京したのはこの宴の二年後でしたよ。


憶良は日付をきちんと書く人で、おかげで旅人の時系列が決定できるところがいくつもありました。国司だからでしょうか。日付を書く人は少ないので、憶良が特別なんだと思います。手元にマイ・カレンダーを持っている人なのでしょう。当時は、なかなかカレンダーなど手に入らない時代でした。



<20190702>


歴史カフェ721 「大宰帥 大伴旅人 -万葉集から筑紫の日々を描くー





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by lunabura | 2019-07-02 21:47 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

柿本人麻呂 遠賀川 島門を通過す


柿本人麻呂 

遠賀川 島門を通過す







柿本人麻呂
が糸島の引津で「なのりその花」を詠んだ話は以前書いたが、筑紫に海路でやって来て、遠賀川河口域にある島門を見て歌を残していた。


柿本朝臣人麿、筑紫国に下りし時、海路にて作る歌二首

303番
名くはしき 稲見の海の 沖つ波 千重に隠りぬ 大和島根は
なくわしき いなみのうみの おきつなみ ちえにかくりぬ やまとしまねは

(名高い 稲見の海の 沖の波に 千重に隠れてしまった 島のように見える大和の山々は)

304番
大王の 遠の朝廷と あり通ふ 島門見れば 神代し思ほゆ
おおきみの とおのみかどと ありかよう しまとをみれば かみよしおもほゆ

(大王の 遠の朝廷として 人々が常に通う 島門を見ると 神代がしのばれる)

二首目に「島門」を発見!

「島門」については一般に「瀬戸内海の島々」などと解釈されているようだが、序に「筑紫国に下る」、304番に「遠の朝廷」(都府楼・大宰府)とあるので、これは遠賀川河口にあった「島門」を見た歌だと思われる。

拙著「神功皇后伝承を歩く上巻」p38に記しているが、河口付近には「猪熊島」と「島津島」という二つの島が門のようにそびえていて、これを「島門」と呼んでいたのである。(『水巻昔ばなし』(柴田貞志)より引用)

この「島門」が「島津」に変化する。

二つの歌の情景を考えると、303番では、奈良を離れて瀬戸内海を航行すると、奈良の山嶺が水平線の向こうに遠ざかっていき、兵庫辺りで波に消されるようすが歌われている。

304番では、瀬戸内海を過ぎていよいよ筑紫国に入って遠賀川に入る時、二つの島がまるで筑紫の門のように見えるという歌だ。海流の変化の厳しい関門海峡、そして響灘という初めての外海を通ったあとに見る島門は格別な意味を持っていただろう。


いよいよこの先は「遠の朝廷」への道のりだ。

島門を抜けると右手に鬼津岬があったので、その陰に船は入港したのではないか。


陸路なら鞍手から宗像へ抜ける神功皇后ルートが楽だったろう。秀吉も同じルートを通った。
宗像~福津を通る、坂上郎女の名児山ルートも女性が通れるほどなので、良かったかも。

あるいは長崎街道の原形ルートがあったかもしれない。

遠賀川流域はニニギ、ニギハヤヒ、アメノオシホミミ、三女神などなどが山々に降臨した神話を伝えている。神武天皇や日本武尊や神功皇后が通ったのもこの島門だ。

人麻呂のいう「神代」とはこのような神話が花咲く遠賀川を詠んだものと考えられる。
筑紫国に入る高揚感が良く伝わってくる歌だ。

ところで、人麻呂自身の生没年は不明で、筑紫国に下ったのもいつなのか、序には記されていない。
これから先、人麻呂の歌に何処かで出会えば、また考察もできる。楽しみにしよう。


<20190630>






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by lunabura | 2019-06-30 20:40 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

大伴旅人 葛井大成 筑後からの通い道 




大伴旅人 

葛井大成 筑後からの通い道 




大伴旅人が太宰帥の任を終えて、奈良に戻ったあと寂しい思いをした男がもう一人いた。

筑後守葛井連大成(ふじいのむらじおおなり)という人物だ。
次のような歌を詠んでいる。


大宰帥大伴卿の京に上った後、筑後守葛井連大成が悲しみ嘆いて作る歌一首
576番 
今よりは 城の山道は 不楽しけむ わが通はむと 思ひしものを
いまよりは きのやまみちは さぶしけむ わがかよわんと おもいしものを

(これからは基山の山道は楽しくないだろう あなたに会いに通おうと思っていたのに)

葛井大成は筑後守だったので、久留米の御井町の筑後国府に赴任していたのだろう。

その人が大宰府への通い道に「城の山」すなわち「基山」を通っていたことが書かれていて、がぜん興味が湧いた。
彼は馬に乗っていた。

そうなると、御井町の船着場から船に乗って筑後川を北上し、基山付近に上陸して、驛家(うまや)で馬に乗ったのだろう。







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地図を見ると、そのルートが最短距離のようだ。

奈良時代の基山付近に船着場や驛家の史跡など伝わっているだろうか。
神功皇后の時代は津古(つこ)だった。

ヒメコソ神の話も風土記にあるし。風土記なんか参考になりそう。

古代のルートになると、がぜん興味が湧くのは何でだろ(*’▽’)
でも、今回は地元の方に調べてもらえたら嬉しいな。(と、人使いの荒いブログ)

さて、御井町の国府でも「曲水の宴」(きょくすいのえん)の遺構が発見されている。
水源は味水御井神社の湧水だ。
葛井大成も、きっと参拝しただだろうね。

この葛井大成は「梅花の宴」でも歌を詠んでいる。

820番
梅の花 今盛りなり 思ふどち 挿頭にしてな 今盛りなり 
うめのはな いまさかりなり おもうどち かざしにしてな いまさかりなり)
 
 (梅の花は今が盛りだ 気が合う同士挿頭にしよう 梅は今が盛りだ)
                     筑後守葛井(ふじい)大夫

大伴旅人がこの宴で出したのが「落梅の篇」というひねった御題だったが、葛井大成はそんな事、おかまいなし、忖度なしで、「今は盛りじゃあないか」と詠んでいる。気概が見えて頼もしい。

気が合う同士で挿し合おうという「挿頭(かざし)」とは、冠に付ける季節の植物などで、ここでは梅の花をつけ合った。

この筑紫歌壇には、大宰帥を囲んでも、自由に物が言える雰囲気がある。
「飲んだ後はどうでもよい」と歌った人もいたね。

それらを大目に見る旅人の態度が、葛井大成は好ましかったのだろう。
はるばると久留米から大宰府まで出かけても、会うのが楽しみだった。

葛井大成の歌を通して大伴旅人の人柄が伺える。



さて、歴史カフェでの旅人の準備をしているが、70首余りといえども、問答歌も多く、それぞれに名歌ばかりで、構成をどうしようか、悩むところとなった。しかも、福岡の話ばかりで楽しい。

忖度とか無し、空気読まず。哀しいなら哀しい。男同士でも好きは好き。
そんな世界が広がっていて、気分が高揚する。これが万葉集の魅力なのだろう。



例の如く、完璧な資料を作ろうとしている自分がいて、「ほどほどにせえ」とももう一人の自分が言っている。
歴史カフェ721の案内はあと少しお待ちください。






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by lunabura | 2019-06-28 20:39 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

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