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ひもろぎ逍遥

カテゴリ:万葉・日本書紀の風景( 5 )

万葉の里 糸島市綿積神社 遣新羅使や柿本人麻呂が詠んでいる


万葉の里 糸島市綿積神社 

遣新羅使や柿本人麻呂が詠んでいた



糸島市志摩船越竜王崎の綿積神社の境内は「万葉の里公園」ともなっています。

まずは福田赳夫元総理の揮毫による石碑があるのに驚きました。





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万葉集巻十五 3674

天平八年(736) 遣新羅使人 引津亭舶泊之作歌

草枕 旅を苦しみ 恋ひ居れば 可也の山辺に さ男鹿鳴くも

(長い旅が苦しく あなたを恋しく思っていると この糸島の可也山の山辺で 雄鹿も鳴いている)るな訳

新羅への使者を乗せた船は難波津からこの糸島まで来るまでも、難儀の旅だったようです。

掲示板にその航路が描かれていました。












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掲示板に書かれている文を読んでみましょう。

<天平八年の遣新羅使人の航跡

天平八年(736)、阿倍継麻呂を大使とする遣新羅使人の一行は、旧暦六月に難波を出航し、瀬戸内海を西に進んだ。

途中、佐婆の海(周防灘)で暴風のため遭難し、分間(わくま)の浦(大分県中津市付近)に漂着した。

七夕の頃に博多湾岸の筑紫館(つくしのたち)に着き船団を立て直して荒津を船出したが玄界灘が荒れていたため、韓亭(からどまり・西区唐泊)で三日間海が静まるのを待った。

糸島半島を廻って引津亭(ひきつのとまり・志摩町引津湾内)に停泊し、狛島亭(こましまのとまり・唐津市神集島)から壱岐・対馬を経て朝鮮半島へと渡って行った。>

神功皇后伝承で見かけた地名があるので、何となく様子が分かります。

佐波海から関門海峡を目指す時、暴風の為に大分に流されています。

分間は和間の浜のことでしょう。
そこなら、船大工たちがいた所なので修理もできたと思われます。

荒津は鴻臚館があった所でしょうか。
そこで船団を立て直して糸島に出るまでにも嵐に遭い、この引津湾に避難したのでしょう。

ここまで来るのに航路の三分の二を要しています。

ここから新羅への方が短い距離なのに、いよいよ外海に出るのですから、大変な思いをしたことでしょう。







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こちらの歌碑は巻七の旋頭歌です。揮毫した人の名は見当たりません。(正面からは)

柿本朝臣人麻呂之歌集出 1279

梓弓 引津の辺なる 莫謂花(なのりそのはな) 
摘むまでに 逢はざらめやも 勿謂花(なのりそのはな)


(引津の浜辺の「なのりそ」の花
摘むまでは 逢えないが 摘む時が過ぎたら 逢えるので 人に言わないでください)るな訳

「なのりその花」は「莫告藻」とも書き、ホンダワラという海藻を指します。
花は丸い実のように見えるものを指しているのでしょう。

志賀島の沖津宮でミソギの時に採る海藻の「ガラモ」と同じもののようです。

「逢う」の漢字は男女の逢瀬を指すので、恋人に逢いたい気持ちを表します。

ホンダワラの花が咲く季節までには必ず逢います。
でも、「莫謂」(言うなかれ)のように、人には言わないでくださいという意味が込められています。

秘密の恋人に逢う約束をしているようですね。

柿本人麻呂はこの引津湾まで来たのでしょうか。
秘めた恋のお相手はどなたでしょうか。

和歌は公でも私事でも詠むので、秘密の恋なのか、みんなの気持ちの代表なのか、一首だけでは分かりませんね。







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(綿積神社に奉納されていた海藻。茶色の藻に花のような袋がついている)








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この引津湾で詠まれた歌はもっと沢山あります。

日本書紀には筑紫の事が沢山書かれていますが、万葉集もまた各地で詠まれていて、そこに立つと嬉しくなります。魅力的な世界ですね。


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by lunabura | 2019-04-20 21:47 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

「令和」にちなむ大伴旅人宅の場所



「令和」の典拠となった万葉集の梅花の宴の場所ですが、何処かに書いていたなあ、と思っていたら、検索が集中して、ブログ内の記事ランキングのトップに上がっていたので、探さずに済みました!(^^)!

大宰府政庁の北西部に坂本八幡宮があって、そこに「この辺りは大宰帥(そち)大伴旅人の邸跡と伝えられている」と書かれています。

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八幡宮の境内から外を写したもので、右手に大宰府政庁跡がある。








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場所的にも最高官の邸宅としてふさわしいですね。




過去記事のリンクを貼っておきます。







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by lunabura | 2019-04-02 23:05 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

「令和」によせて 筑紫歌壇の典雅な宴を重ねる



新元号「令和」。

「れいわ」

その柔らかな響きの中に、平和を絶対に守るという強い決意を見たのが第一印象でした。
何故なら私は最初、「令」を使役文字として読んでしまったからです。
「平和であらしめる」とね。

でも、「令」も「和」も万葉集の五巻の序文から採ったと知って、さらに嬉しくなりました。

平和だからこそ生まれる文化。
人々の調和の中から生まれる文化。
そんな背景が込められていたからです。

寒い冬を過ごして一輪、一輪と咲いていく梅の花を国民ひとり一人の開花に例えられていましたね。

そこで、万葉集を開いてみました。

序文の題は「梅花の歌三十二首」
とあり、天平二年正月十三日に大宰府の帥(そち)の屋敷に集まって行われた宴の歌の記録です。

この太宰の帥(長官)とは大伴旅人のこと。66歳の時。
このブログに時々登場する人ですね。

この時の宴は「筑紫歌壇」の代表的な梅花の宴です。

初春の空に掛かる令月(佳い月)のもと、冬の冷たい風が和らぎ、白い梅が白粉(おしろい)を塗った佳人のように輝き、帯に下げた蘭の匂い袋から香るように梅の香りが漂っている。

梅は夜になるとその甘い香りが強まります。いにしえの人は男性もポプリを入れた匂い袋を提げていたので、それに例えたのでしょうか。

「蘭」については「フジバカマ」という説があるそうで、アロマもあるのですね。序文の蘭が何かはよく分かりません。

この序文には長い続きがあって、曙の峰に雲が流れたり、松に霧が掛かっていたり、夕べの花の茎に露が結んでいたり、鳥が霧のために林の中で迷っていたり、庭に生まれたばかりの蝶が舞ったり、と風情ある光景が述べられています。

そして、膝を交えて杯を飛ばし、今日の歌は「落梅」を読もう、となかなか難しいお題が出されました。
だって、まだまだ寒いお正月の夜に梅の花が散る季節を詠まねばならないのですから。

梅が散るのは寂しいでしょうが、次に来るのは暖かい「春の盛り」なので、客人は一ひねりを要求されています。

招かれているのは高級役人はもちろんですが、筑前、筑後、豊後、壱岐、対馬、薩摩などの地方長官の名も見えています。九州のお話しです。

今日は、32首のうち当ブログに登場した3人の歌を読んでみたいと思います。

816
梅の花 今咲けるごと 散り過ぎず 我が家の園に ありこせぬかも
          少貳小野大夫
小野老は旅人と一緒に香椎宮に参拝して、香椎潟で歌を詠んでいましたね。
―今目の前の梅のように、我が家の梅も満開のまま散らずにいてほしいという歌です。

821
青柳 梅との花を 折りかざし 飲みての後は 散りぬともよし
          笠沙弥(沙弥満誓)
沙弥満誓は観世音寺の初代管長でした。
―冠に柳と梅を挿して飲んだ後は、もう散ってもいいよ、と呑兵衛の心境を代表しています。

823
梅の花 散らくは 何処 しかすがに この城(き)の山に 雪は降りつつ
          大監伴氏百代
百代は男性です。旅人のお見舞いに来た人たちを日守神社まで送っていましたね。
―梅の花はどこで散っているのかな?そうはいっても城山に雪が降ってるよ、とまだまだ寒い様子を詠んでいます。城山は大城山(四王寺山)のことかな。

以上三首でしたが、知った人が出てくると興味が湧きます。

蛇足ですが、この32首の直前には糸島の鎮懐石神社の神功皇后についての歌が載っています。(812番813番)本で紹介しています。

また、32首の歌群の後には松浦川の旅の歌が出てきます。神功皇后の鮎釣の場にみんなで出かけた時の歌。どこかで紹介しましたね。

旅人は隼人の乱鎮圧のために福岡に来たのですが、このような平和で文化高い筑紫歌壇に触れて、和の尊さを知り、その記録を残してくれました。平和こそ、一番未来に伝えたいものです。

「令和」に、春の月と白い梅を、また「曲水の宴」のような薫り高い文化を重ねて使おうと思います。




20190401


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by lunabura | 2019-04-01 20:10 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

万葉集「いざ児ども 香椎の潟に」の歌はココ 香椎潟での玉藻刈りはミソギ



万葉集
「いざ児ども 香椎の潟に」の歌はココ

香椎潟での玉藻刈りはミソギ







香椎廟参拝後、この香椎潟に大伴旅人が馬でやってきて、
玉藻を刈る歌を詠んでいます。






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(御島神社と香椎潟)


6巻 957番
 冬11月、大宰の官人ら、香椎廟を拝し奉りおえて、まかり帰る時、
馬を香椎浦にとどめて各々思いを述べて造る歌
 帥大伴卿の歌一首
いざ児ども 香椎の潟に 白妙の 袖さえぬれて 朝菜摘みてむ

(さあ、みんな、香椎潟で白い衣の袖も濡らして 朝菜を摘もう)

ここが神功皇后が海に入って禊をした海だということを承知のうえで
朝菜摘みすなわち、玉藻刈をしているんですね。

冬の11月。香椎廟に参拝しての帰りです。

大宰帥が赴任する時、必ず香椎宮に参拝して、
神官から冠に綾杉の枝を挿してもらうといいます。

それに加えて、別の機会にも参拝したのでしょうか。


万葉集では連番で、小野老(おゆ)の歌も載せています。

958番
 大弐小野老朝臣(あそん)の歌一首
時つ風 吹くべくなりぬ 香椎潟 潮干の浦に 玉藻刈りてな

(冬の季節風が吹く頃になった。香椎潟の潮干の浦で玉藻を刈ろう)

ここは北向きの浜。
北風が吹き付ける寒さ厳しい玄界灘です。
大弐とは副長官の身分。
小野老は「青丹よし 奈良の都は~」を詠ったことで有名ですね。

この人も、香椎潟に出て、玉藻刈りをしています。

この「玉藻を刈る行事」とは単なる食材採りの行為ではなく、
禊(みそぎ)のことと考えています。


福津市の年毛宮(としも)の拝殿前の石の棚に
砂混じりのワカメが置いてありました。

同じ福津市の風降天神社でも見かけました。

そこで、年毛宮の宮司に伺うと、
氏子さんが海に潜って禊をした証しとして、
海藻を二つ採って神社に参拝し、
一つは神社に奉納、一つは自宅に持って帰るそうです。

これはお汐井取りと同じ思想ですね。

和布刈神事とも根底は同じです。

和布刈神事は安曇磯良が神功皇后に
干珠満珠の秘法を伝える様子を現しています。

干珠満珠を海神(わたつみのかみ)から貰う姿が、
磯に入って海藻を採る姿になっているわけです。

志賀海神社でも、沖津宮で今も行っています。

干珠満珠は筥崎宮では「玉せせり」の二つの木玉に変化します。

形が変わりながらも、「ミソギ」という思想が通底しています。


太宰帥だった大伴旅人が香椎廟参拝後、わざわざ香椎潟に立ち寄って
みんなで禊をする情景を詠んだものでしょう。

あの岩礁の石祠に祀られているのは綿津見神ですから、
まさにミソギの神様にその姿を見せている訳です。


「朝菜」については、
朝餉の材料としてワカメを摘むと習ったのですが、
そうではないと思います。
太宰府の長官が朝餉を準備するのは何だかねえ。(´・ω・`)


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万葉集には連番でもう一首出てきます。
959番
 豊前守宇努(うのの)首(おびと)男人(おひと)の歌一首
行き帰り 常にわが見し 香椎潟 明日ゆ後には 見む縁(よし)も無し

(行き帰りに常に見ていた香椎潟も 明日から後は 見ることもない)

豊前守の宇努首男人を調べてみて、驚きました。

宇努首男人は養老4年(720年)に隼人の乱を征圧しています。
この時、大伴旅人が隼人征圧軍の大将軍なのです。


これが薦神社の創立と関わっていました。
薦神社について、ウィキペディアより。

<養老3年(720年)、大隅・日向の隼人の反乱(大隅国府襲撃)で
大伴旅人が率いる大和朝廷軍
および宇佐神宮の辛島波豆米(からしまのはづめ)率いる宇佐「神軍」が、


薦神社の三角池に自生する真薦を刈って作った枕形の御験、
薦枕(こもまくら)を神体に、
神輿を奉じて日向まで行幸し、乱を鎮めたと言われる。>

波豆米はこのあと、鞍手の六嶽神社に三女神の優位性を説きに来ていましたよね。
その年、六嶽神社の神官の家系は断絶します。
何とも不気味に思ったことを思い出します。

香椎潟からここに繋がるとは思いもしませんでした。

また、大伴旅人の五世代前が大伴金村です。
筑紫君磐井を滅ぼした人ですね。

大伴旅人には万葉歌人としての側面と
磐井一族や隼人を滅ぼした武人の家系という側面があります。

「禍福は糾(あざな)える縄の如し」と言いますが、
歴史もまた、縒り合わせた縄のように、
表裏一体となっているのでしょう。

光と影。

歴史を学ぶということは、両面を学ぶということでもあるんですね。



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『神功皇后伝承を歩く』
下巻67 御島神社 神功皇后は髪をすすぐと美豆良に結った






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by lunabura | 2017-06-16 20:17 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(2)

『日本書紀』に書かれた「神功皇后の美豆良結い」の場所はココ 海の中の御島神社 

 


『日本書紀』に書かれた

「神功皇后の美豆良結い」の場所

海の中の御島神社





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香椎イオンに行く途中の橋の上に細長い公園があります。

そこから見える海の中の鳥居が御島神社♫

海ですねえ。
ええ、岩礁が神社なんです。
かつては大きい岩だったらしいですが。

向こうには照葉の新しい街が出来ましたが、ちょっと前までは海でした。

昔、この岩は船の人にとっては
香椎宮へ向かうための良いランドマークでした。

ここが『日本書紀』に書かれた有名なシーン、
神功皇后が海に入って
「戦いに勝つなら髪が二つに分かれますように」
とウケヒをした所です。

二つに分かれた髪を美豆良に結ったといいます。

それまでは海を渡っての戦いに躊躇していた皇后が
男装をして決意を示すパフォーマンスをした訳ですね。

このあと、御島崎(みしまざき)の浜に上陸して
香椎宮へと戻って行きました。
その続きの道のりが今も伝わっています。

この場所の話が『日本書紀』に書かれているので、
訳して紹介します。

※※ ※

皇后は橿日浦に帰還すると髪をほどいて海に臨んで言われた。

「私は天つ神、国つ神の教えを受けて、
皇祖の御霊(みたま)の助けを頼みとし、
青き海原を渡って、みずから西を討とうとしています。

今から頭を海水ですすぎます。
もし霊験があるなら髪が自然と分かれて二つになりますように」

海の中に入ってすすがれると、髪は自然と二つに分かれた。

皇后は男の髪型の美豆良に結われると、群臣に仰せになった。

「そもそも軍隊を興し、衆人を動かすのは国の大事である。
戦いが容易でも危険でも、勝ち戦さでも負け戦さでも、
軍隊に掛かっている。

今、征伐する国がある。戦いの指揮を群臣たちに命ずる。

しかし、もし勝つ事が出来なければ群臣たちが罪に問われる。
それは私に取って不本意である。

私は女で戦には慣れていない。
しかし、しばらく男の姿になって雄々しく戦おうと思う。

上は天つ神、国つ神の御霊の助けを頼み、下は群臣たちの助けを頼り、
兵士を奮い立たせて険しい波を渡り、
船隊を整えて財宝の国を手に入れよう。

勝利すれば軍功は皆と共にある。
勝利しなければ罪は私だけが引き受ける。
私はそう決心した。皆はどう考えるか、協議するがよい」

群臣たちは皆、
「皇后陛下。天下の為に、国家の安泰の為に全力を尽くします。
負けて罪を問われるような事態は決してありません。
謹んで勅命を承ります」と申し上げた。


※※ ※

『日本書紀』が饒舌な部分は作文だな、とよく思いますが、
それはそれとして、なかなか臨場感がありますね。

現地に立つと、群臣たちは浜辺に待たせたことが分かりました。
何故なら、ここは小舟でないと来れない場所だからです。

群臣たちは御島崎(みしまざき)の浜で
神功皇后のパフォーマンスを見ていたのでしょう。

浜から岩礁は良く見えています。


さて、ここはなかなか良い写真を撮るのが難しい所でした。






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こんなとか(´・ω・`)
いや、人の大きさがよく分かりますがね。

撮り直しに行ったのですが、Pm2.5 でモヤがかかっていて・・・

私の画像が黄色味がかっている時は、そんな時です。

今度のバスハイクでいいのが撮れたらいいな。
え?
来週は北部九州も梅雨入りですって?





『神功皇后伝承を歩く』
下巻67 御島神社 神功皇后は髪をすすぐと美豆良に結った





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by lunabura | 2017-06-13 20:20 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25