ひもろぎ逍遥

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カテゴリ:「ウーナ」( 43 )

ウーナ42 天山10 晴気天山神社1 三つの下宮社の中央の宮



ウーナ42

天山10 晴気天山神社1 

三つの下宮社の中央の宮
 



さて、三つの下宮の内、中央に鎮座するのが晴気天山神社だ。
晴気は「はるけ」と読む。



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天山から流れる川沿いに登っていくので、ずっと天山を見ていく感じがする。
右手の川の名は晴気川で良いのだろうか。







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道が途中で別れる地点だ。

正面奥が天山で、最終的に天山が望めるポイントになる。
天山にはどちらから行っても着くようだが、下宮に行くには右手に進む。

駐車場は民家が庭を提供してある風情で、数台止められる。








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「あめやまはし」を渡って行く。







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川の名は晴気川だろうか。
大岩がゴロゴロしていて、雨が降れば激流になりそうな川だ。










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一の鳥居。


山につけた石段をいくつも上っていく。






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拝殿前の広場に出た。


祭神は【小城郡誌】によると、
多紀理毘売命、狭依理比売命、多岐津比売命。
市杵島姫は「サヨリ姫」の名になっている。同一神だ。
古い名を伝えていると考えていいのだろうか。







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神殿の千木は縦と横の中間程度の趣。



住所は小城郡の頃、春田村大字晴気字本山だった。

「春田」は「原田」という表記を縁起で見かけた。
また「本山」という地名も縁起に出てくる。

20180527



歴史カフェ小城6月9日(土)第3回 3時~5時
1部:佐賀の女神たち よど・とよ・とよたま姫
2部:神功皇后の伝承
申し込みはコチラへ
詳細はコチラ
会場:小城鍋島家Ten

歴史と自然をまもる会HPはコチラ
バスハイクの旧記事はコチラ
申し込みは 092-408-7140
6月14日(木) 住吉の里
詳細はコチラ

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by lunabura | 2018-05-27 21:59 | 「ウーナ」 | Trackback | Comments(0)

ウーナ41 天山9 岩蔵天山神社2 七面天王



ウーナ41

天山9 岩蔵天山神社2 

七面天王
 

前回、岩蔵天山神社から見える山を載せると、すぐにチェリーが作図してくれた。






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以下、メールより。
「岩蔵天山神社からのカシミール画像を作成してみました。

(かなり広角にしてありますので、実際と少し違った感じになるかもしれません)
「天山」は見えるようです。直線距離で5.5kmくらいです。


「あめ山」と「上宮」は419mの山にギリギリ隠れてしまうようです。

きれいな三角形に見えるのは、ピークではなく、愛宕山から延びる稜線の端になります。
ここからなだらかに愛宕山まで登る地形になっていますので、愛宕山の頂上は見えません。
この三角形の左下を、明星山からのラインが通ります。

参道から社殿の方向は、真西より南へ2°くらい傾いた方向のようです。
少し角度がずれますが、lunaさんが感じられたように、この三角形に見える山か、ラインの通過点を意識して社殿が建てられたのでは?と私も思います。

まあ、その、たまたまラインの通過点を白い印にしてあるのですが、松の梢にとどまった「光」の場所をここに仮定すると、ちょうど「里に照り渡った」という感じになるんじゃないかと、ふと思いました。」
以上、メールから。

見えている三角形の山は愛宕山の稜線の端だそうだ。
ちょうど三角屋根の家を横から見たら三角形に見えるようなものだ。

此処から見える姿の美しさからは、このように見える場所だからこそ、
ここを聖地として選んだようにもみえる。



さて、光が松の梢に留まった場所についてはまだ不明だが、「あめやま」の頂点近くではないかと思っていた。

チェリーはラインが通る白い点の場所だったら、里に照り渡ったという描写に合致するのでは、という意見だ。
なるほど。
異なる意見を交わすことでより詳細な世界が描きだせる。








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これは境内の右手の道路から天山方面を撮ったものだ。

正面の少し尖ったピークより左奥に見えるフラットな山頂が「あめやま」のようだ。








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これは境内の池のようす。小島がある。
弁財天を祀る池のパターンと思われるが、その水の透明さは格別だ。







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そして、これは境内にあった祠。
石で作った神像が鎮座していた。

左の女神は「七面天王」と書かれている。
これは七面天女のことだろうか。そうすると弁財天となる。

「ひめちゃご」で七色が七回、七面山に登ったことを思い出した。





異世界小説 
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by lunabura | 2018-05-26 22:05 | 「ウーナ」 | Trackback | Comments(0)

ウーナ40 天山8 岩蔵天山神社 七歳の童女に神が懸かった



ウーナ40

天山8 岩蔵天山神社 

七歳の童女に神が懸かった
 

さて、今日は岩蔵の天山神社の紹介をしよう。


天山の麓にある三つの下宮社のうち、一番東に鎮座している宮だ。

九州横断自動車道で長崎に向かい、小城パーキングに新たに設置されたスマートICから下りていくと、すぐに三叉路に当たる。右折して祇園川沿いに遡っていくと、まもなく天山酒造が右手に見える。

その正面が岩蔵天山神社だ。ここにも「天山橋」があった。









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社前のようす。






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参道の途中に池があって橋が架かっていた。
橋は一枚岩でとても珍しい。古来のものが残されているのだろうか。






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肥前鳥居。









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祭神は『小城郡誌』によると、
多紀津毘売命、市杵島毘売命、多紀理毘売命の三柱となっている。
宗像三女神だ。

社殿は黒を基調にした色で、女神の宮にしては珍しい色に思えた。







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拝殿には鍋島家の杏葉紋(ぎょうようもん)が掲げられていた。











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神殿は赤と水の色。








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社殿の向こうに三角形の山が見える。
愛宕山らしい。真後ろではなく、微妙にずれているが、この山を見ていると思われた。


社殿は東に向いているので、ここで手を合わせると厳密ではないが、晴気(はるけ)や厳木(きゅうらぎ)の天山神社方面にも手を合わせることになる。



『小城郡誌』を口語訳しよう。

<当社は天山頂上にある上宮に対し、晴田村天山社、東松浦郡厳木村大字広瀬天山社と共にその下宮である。

当社は文武天皇の大宝2年(702)口宣によって建立したもので、伝記書によれば、42代文武天皇の大宝2年(702)4月1日、小城郡高隅の里(のち岩蔵と改めた)の北山に不思議な奇瑞が現れ、松の梢(こずえ)に清らかな光が輝いてとどまった。

 その松のそばに木こりの家があった。光は里に照り渡った。人々は奇異の目でその光を見守った。

その日の夕方、村の七歳の童女が急に物狂いして話し始めた。

「われは東海より飛んできた神である。この地に長らく留まって国家を守護し、もろもろの災難を祓おう」と。

 その翌朝、松のそばに池が出来て清水が湧き出した。この里の九郎康弘という者が、清水の湧出を見て里人を集め、その松のそばに社を建てて神霊を祀った。


 この時からこの村を松本村と呼び、この松を「影向(ようごう)の松」と呼ぶようになった。

 この童女の子孫代々は命婦(みょうぶ)となって神事、祭祀を預かり神座を勤めた。そして九郎康弘が亡くなると里人はその末社に祀り、九郎大明神と名付けて本社の側に安置した。>


当社は、文武天皇の大宝2年(702)に口宣によって建立された。
「口宣」とは天皇からの勅命を口頭で伝えたものを文書化したものだ。
だから、天皇の命令で造られたことになる。
文武天皇はこの時、16歳。そばには祖母の持統太上天皇が控えていた。

晴気(はるけ)の里は持統天皇が授けたものだから、文武の口宣は実質、持統天皇の命によるものと考えてよいだろう。

概要は、北山に光が飛んで来て、松の梢で光輝いた。
その村の七歳の童女に神懸かりがあり、国家鎮護を約束すると、翌日松のそばに泉が湧き出した。

そこで九郎康弘がやってきて村人を集めて社を造ったということだ。

この九郎康弘のことは広瀬天山神社の方では「安弘」と記され、藤原房前の生前の名ということが明らかにされている。
だから、小城と朝廷の連絡が直結していた理由がここにあることが分かった。

その3年後、この「光」が安芸宮島から飛来したもので、「北山」が「天山」となったことが『小城郡誌』の続きに【参考】として書かれている。



<【参考】
それから3年後、慶雲2年(705)に芸州厳島(安芸の宮島)の人が当地にやってきて尋ねた。
「近頃、宮島から清らかな光が輝き起こって、西の海の方に飛び去りました。それからずいぶん経ちますが、どこに飛んで行ったのか分かりません。不思議に思ってその光が留まった所を尋ねると、当地に留まったのが分かりました。何か不思議なことはありませんでしたか」と。

 里人が、奇瑞が起こって託宣が降りた話をすると、社人は大変驚き、宮島には帰らず、永らくここにとどまって社務をつかさどっているというのである。現在、馬場に宮島姓が多いのはこのためである。

 最初に松本に神霊が影向した時には、はるか南の松林からも清らかな光が見えたので、小さな石祠を建てて、下の宮というようになった。
それから後、祭の時には神輿(みこし)をそこまで降すといい、今は南松と称し、小祠がある。 

 同年の冬10月、国司が右の奇瑞を帝都に上奏して天山大神宮と勅許をえて、北山は天山岳と名付けた。>


文脈からは、下宮が建った所は神霊の影向が見えた「はるか南の松林」とあることから、この岩蔵がその地点という解釈でいいのだろうか。

広瀬天山神社の縁起の方には、
701年に白雲が天山から本山、広瀬、岩蔵の上に降りるのを見て、天御中主命を勧請して三つの下宮としたように書かれている。

光の飛来が見えたのは翌702年のことで、705年に宮島から来た人の話で光が市杵島姫と判明する。

安芸の宮島すなわち厳島神社(広島)は593年佐伯鞍職が市杵島姫を祀ったことから始まっている。当時、市杵島姫単独か、三女神合祀かは不明だ。

縁起からは下宮を一直線にするための積極的な理由は見当たらなかった。







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境内の右手から後ろの天山山系を撮ってみた。
天山そのものが見えているかは分からないが、光がここから見えたということになるのだろう。





20180516


小城市岩蔵2348









異世界小説 
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by lunabura | 2018-05-16 21:19 | 「ウーナ」 | Trackback | Comments(0)

ウーナ39 天山7「あめやま」と「てんざん」



ウーナ39


天山7

「あめやま」と「てんざん」
 



先日の画像からチェリーが山の名を特定してくれた。






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なんと、「あめ山」と「天山」がある。
左端のピークが「あめ山」だそうで、その頂上すぐ下に「天山神社上宮」があるという。
右のピークが「てんざん」だ。

何故、このように二つの似た名前となったのか。







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晴気天山神社の前の橋は右手に「天山橋」左手に「あめやまはし」と書かれていた。
比較的新しい橋だ。
つい最近まで「あめやま」だったのだろうか。

時系列から考えると、古代は訓読みで「あめやま」と思われ、「てんざん」は次の時代だと思う。
しかし、二つのピークによく似た名前をつけたのは何故だろう。

地元の人は二つの山の名を区別して呼んでいるのだろうか。


「てんざんスキー場」とか「♪酒はてんざん、男なら♪」としか聞いたことがない。

一つ分かれば一つ新たな謎が出てくる(´・ω・`)



ま、いいか。
せっかくワインを飲んだんだし。





異世界小説 

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by lunabura | 2018-05-13 21:14 | 「ウーナ」 | Trackback | Comments(21)

明日は小城 日本遺産の条件



明日は小城 

日本遺産の条件
 

最近、歴史カフェや講座などの前日は他のテーマに触れないようにして、頭の中をシンプルにするように心がけています。

それで、動かすのは身体の方。
掃除をチョコマカやって過ごしました。

天山神社関連の話を明日もするのですが、実はまだ神社には行っていない。

現地入りせずに話をするのは初めてです。
そこで、明日は早めに出て案内していただくことになりました。

先月、帰る時に高速に向かいながら霧が晴れていく山里の景色をみました。
それがとても幽遠な風情だったんです。
いかにも日本の山里の原風景のような美しさでした。

藤原安弘は逆に、天山山頂の雲が降りてくるのを見たわけで。

地名を見ていると、八丁ダムや愛宕山という地名があるので、大体見当がつくのですが、持統天皇が何故ここを知っていたのか、謎が解けると面白いなと思います。

明日は日本遺産の勉強もするのです。

日本遺産はストーリー性を重んじ、一市町村で完結するケースと複数の市町村でネットワークを結ぶケースがあるようですが、それを考えているとどんどんと思考が広がってしまいます。

例えば、天山に飛んできた光は安芸の宮島から来た光で、それを追って来た人たちが宮島姓だと伝えていますが、その方たちが実際に住んであるそうです。

そうすると、市杵島姫つながりで宮島と結べます。

奈良の天河弁財天社から毎年参拝してあったことを確認できれば、弁財天つながりで天河と結べます。役行者が匂います。

空海が佐賀に寄港しているのですが、チェリーさんによると、空海の廟は天河の真西に鎮座するとか。ここも調べたら意外なものが出てくるかも。

さらには、三つの下宮社のライン上に乗ってくる明星山。これはどうも本来の祭神の天御中主命が関連する気配。滅んだ倭国の神。


記録されていた藤原四兄弟の房前の生前の名、そして忘れ去られていた十代の歴史。
持統天皇や文武天皇の勅命がどんどん届くことから、奈良との縁。

何処とつないでも「天山」の名にふさわしい広大なネットワークの姿が浮かぶのです。

日本遺産登録に必要な条件は「国指定・選定文化財」が含まれること。

でも一番必要なのは、地元の人たちの熱い思い。

歴史を知ってアイデンティティーを深め、熱い心で語り合うこと。

小城や厳木の人たちの心に火を点けたい。

何故かそう思われて仕方がないのです。






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by lunabura | 2018-05-11 22:22 | 「ウーナ」 | Trackback | Comments(6)

ウーナ38 持統天皇4 対馬を守れ



ウーナ38

持統天皇4 対馬を守れ
 




讃良(さらら)皇女が27歳の時、父が死んだ。父とは天智天皇のことだ。

その直前、夫の大海人皇子は皇位継承の問題から皇太子の位を譲り、吉野に逃れた。
讃良皇女は10歳の子を連れて夫についていった。

しかし、夫は反旗を翻して戦い、勝利すると天皇に即位した。壬申の乱だ。
讃良皇女は皇后になった。


皇后が42歳の時、天皇が崩御した。
我が子は25歳。皇太子になっていて、天皇に即位するはずだったが、皇位継承の問題が起きた。しかし、ライバルは自殺した。

讃良皇后はしばらく天皇の代わりに政務を遂行していたが、その3年後に思いがけず、我が子が亡くなってしまう。我が子は28歳だった。

我が子は皇太子のまま亡くなってしまった。

孫はまだ7歳。
讃良皇后は自ら即位して持統天皇となった。このとき46歳になっていた。
当時の感覚なら、すでに老成した年齢だ。

気づくと周囲には誰もいなかった。
父も母も夫も姉も、そして我が子も黄泉の国に旅立った。

今、血を分けた身内は孫の軽皇子だけだった。

孫のために生き抜く決心をした結果の天皇即位だろう。

その持統天皇の耳に届いたのは対馬の国難だった。

対馬に異国人が上陸して、異国の風習を広めているという。
このままでは対馬を失う。

持統天皇は白村江戦の時の緊迫した情勢と敗戦の痛みを思い出した。
筑紫の陣営で出産した喜びと敗戦の恐怖。

対馬を守らねばならない。

持統は即断した。

この時の相談相手が藤原不比等だったのではないか。
不比等は亡くなった我が子に仕えていた男だった。30代。

不比等の母は蘇我氏。自分の母も蘇我氏だった。

しかも、不比等には天智の落胤説が根強くある。
これが事実なら持統にとって、不比等は異母兄弟となり、信頼おける間柄だった。

不比等の子・房前(ふささき)が討伐軍の将軍に抜擢されたのはこのような背景が考えられる。

討伐の年は不明だが、房前が15,6歳になって成人した時期であろう。

我が国は白村江戦でおびただしい船と兵士を失っていた。
房前が率いたのは新しく編成された船団だ。

持統の夫には自分が嫁ぐ前に既に妃がいて、武市皇子を生んでいた。30代で太政大臣になっていた。武市は宗像徳善の孫なのだから、宗像水軍の後ろ盾があったはずだ。

また、房前自身が不比等と讃岐国の海女の間に生まれた子という伝承がある。ここにも水軍の気配がある。

そして若い房前は軍船を率いて対馬に渡り、敵を退治した。

持統天皇の30回を超える吉野行幸にはこの戦いの勝利祈願が含まれていただろう。


勝利の知らせを聞くと、持統天皇は小城の「晴気の里」を褒美として房前に与えた。
房前はそこにある山に天御中主を祀った。それが天山である。

それから数年後。
701年、天山の雲が降りてきて、三つの天山神社が創建された。
持統天皇が孫に譲位して5年目のことだった。文武天皇も19歳になっていた。


702年4月には天山に光が飛来し、神託があって、泉が湧き出した吉兆が朝廷に届けられた。

この瑞祥を聞いた持統太上天皇は、これまでの苦労が報われた思いがしたことだろう。また、文武天皇の世の安泰が保障された思いがしたのではないか。

すぐに房前に天山池に蓬莱島を築かせた。これは文武天皇の口宣によるものというが、実際は持統太上天皇の命令だろう。持統太上天皇はその年の末に崩御した。御年59歳。

房前はその2年後、703年に巡察使となって東海道に向かう。蝦夷討伐に関わる派遣だった。歴史では房前の人生はこの703年からしか知られていない。

しかし、その前に対馬の役があり、勝利した実績があったことは誰も知らない。

天山神社の縁起には「房前の諱(いみな)が安広」だったことまで伝わっている。

佐賀には、失われた歴史の一部が奇跡的に残されていた。
それが天山神社の歴史なのだ。

対馬を守った持統天皇の功績を評価するときが来たのだと思う。

<2080507>



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異世界小説



歴史カフェ

第2回 5月12日(土) 3時~5時
1部:天山神社 創建の人たち
2部:神功皇后の伝承  香椎宮への遷都

会場:小城鍋島家Ten 佐賀県小城市小城町208-2 0952-72-5324
会費:1500円(別途ドリンク代)
申し込み先:小城鍋島家Ten あるいは 当ブログ コチラへ
  当ブログに申し込む方は
①氏名(あればハンドル名)
②簡単な住所(例 小城市小城町)番号は不要です。
③「歴史カフェ512希望」
と書いてください。

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5月18日(金) 安曇の里
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by lunabura | 2018-05-07 21:22 | 「ウーナ」 | Trackback | Comments(0)

ウーナ37 持統天皇3 31度もの吉野行幸は占いや祈祷のためか



ウーナ37

持統天皇3

31度もの吉野行幸は占いや祈祷のためか
 



持統天皇が崩御する前年の701年に厳木町広瀬の天山神社は創建された。


実は、私自身が奈良の天河大弁財天社に行った時、宮司に「奈良吉野と同じ地名が佐賀にある」事を話すと、「毎年、佐賀の天山神社に参拝している」と伺った。

当時の私は天山登山を二度試み、一度目は霧で、二度目は突然の雷雨のために断念していた。

だから天山といえば登山のイメージを持っていたので、天山山頂だろうと思いこんだ。

天山神社には三つの下宮があることを今知って、いったい何処に参拝されていたのか、思いを馳せている。

天山(てんざん)と天河(てんかわ)の関わりは深い。

その天河は吉野にある。




さて、持統天皇の話に戻るが、天皇は自ら吉野行幸を行っている。生涯で31度もの吉野行幸を行ったという。701年も行われた。

吉野は夫の天武天皇が壬申の乱で逃げ込んだ時、持統天皇(讃良皇后)も随行した所だ。そこで、天武天皇は國栖(くず)から腹赤魚を献上されている。


そこで思い出されるのが「ひめちゃご」で登場した「釣殿宮」のことだ。

みやま市(旧山門郡太神)の「釣殿宮」は別名「腹赤宮」という。物部の天文観測所と思われるが、ここで景行天皇や天智天皇が漁師から腹赤魚を献上された。

この腹赤魚を見て喜んだ天智天皇は「毎年朝廷に献上せよ」と言い、のちには大宰府経由で節会(せちえ)に献上されるようになった。

節会では皆でそれを食す。

この腹赤魚とはウグイのことだが、この魚を天智天皇が何故それほどに喜んだのか。その謎は読者の方々からいただいた数々のヒントで解けた。

腹赤魚という名は産卵期になると腹が赤くなることからついている。

この腹赤魚は北天に出る赤いオーロラ(赤気)の象徴だったのだ。

北天は天帝の座、紫微宮とされている。
そこに出る赤いオーロラは、天帝による「天皇即位を許可する知らせ」のシンボルと解けたのだ。








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天武も持統も筑紫にいて、天智の即位の状況を見守っていて、腹赤魚の意味を良く知っていたはずだ。

だから、逃げ込んだ吉野で国栖(くず)に腹赤魚を献上された時、すぐに意味が理解できたのだ。「天皇即位の許可は我に下りた」と。


筑紫と奈良に共通するのは「国栖」の存在だ。国栖は福岡では河童と呼ばれた氏族だが、天文観測に長けていて、占星術が出来たという。
 

國栖は占星術により、壬申の乱が天武天皇の勝利になると読み、「腹赤魚の献上」によって結果を知らせたのだろう。浄御原神社では今でもウグイが献上されている。




天武天皇の崩御後、愛する草壁皇子も失い、政争に明け暮れる朝廷にあって、持統天皇は生きていく術を占いに求めたのではないか。

そして、さらに修験者に出会い、祈祷を頼みにして吉野行幸を繰り返したのではないか。

自分の犯した罪、父の犯した罪、などなど、神道には存在しないカルマの思想も学んだことだろう。

自分の死後、天皇初の火葬を望んだのがその証拠だ。

この時代、役行者も生きていた。701年に大赦を受けているのも、持統天皇の判断による可能性も考えたい。

次々に襲ってくる困難を国栖や修行僧の占いと祈祷で、乗り切ろうとする一人の女性の細い肩が浮かんでくるのである。

それが31度もの吉野行幸の目的であると考える。


<20180505>


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第2回 5月12日(土) 3時~5時
1部:天山神社 創建の人たち
2部:神功皇后の伝承  香椎宮への遷都

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会費:1500円(別途ドリンク代)
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by lunabura | 2018-05-05 21:11 | 「ウーナ」 | Trackback | Comments(2)

ウーナ36 七つの珠9 任務完了



ウーナ36

七つの珠9 任務完了
 



2018年5月2~3日。

昨日と今日、ゴールデンウィークのさなか、私たちは宗像大島に一泊二日の旅をした。

海関係の七つの神社を探し出し、それぞれに珠を一つずつ奉納するミッションの期限は3月中だった。
私たちは無事にそれを済ませた。

代わりに受け取った法具を奉納するのは5月3日と指定されていた。
場所は大島の竜宮だ。
5月3日は竜宮祭の日だった。

大島はもちろんフェリーで行くのだが、竜宮もまた船でしか行けない場所にあった。

記録に無い竜宮を見つけた私たちは満を期して大島に前夜から宿泊した。

決行予定の5月3日、雨もやんで奉納する時を待つばかりだったが、波は2.5m~3mの予想で、船が出ない。

しかし、奇跡的なタイミングで凪(なぎ)になり、格別な計らいをもって、無事に奉納することができた。

七つの神社と大島の竜宮の場所については、ミッションが完了するまでブログに挙げないことにしていた。

無事に終了したので、次回から公開しよう。
玄界灘の「綿津見の神」を祀る聖地の数々だ。






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奉納後





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大島 厳島神社(弁財天さま)にて 竜宮祭のあと



<20180503>



異世界小説


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by lunabura | 2018-05-03 23:36 | 「ウーナ」 | Trackback | Comments(0)

ウーナ35 天智天皇



ウーナ35

天智天皇 


額田王が愛したのは大海人皇子。すなわち天武天皇だったという。

このあと、天武が出てこようとしたが、押しのけて出て来たのは天智だった。

菊如が私に「質問をして」というが、当時、私も天武と天智の違いさえよく分からなかった。

「てんちてんのうですか」
と尋ねると
「てんじ」
と訂正された。

次からは一問一答。すでに一部は「ことのかたり」に書いている。

「何故、朝倉に遷宮したのですか」
「朝倉は大事な地だった」

「遠賀川の磐瀬宮には何故来たのですか」
「磐瀬には船で来た。嵐に巻き込まれて海を回って来た。船が壊れて修理をした」

「長津宮はどこですか」
「佐賀の地だ」

これを聞いて驚いた。長津宮は真鍋は那珂川町、通説は高宮とする。訳が分からなかった。受け入れられずに「ことのかたり」では省略していた。

ところが今、こうして読み直してみると、まさに小城の歴史カフェとリンクしていた。

そう。
天山神社の創始には天智の娘、持統天皇が関わっていた。

持統天皇は大津宮で出産しているのだ。大津=長津と思っていたが違うのだろうか。

天智も佐賀の吉野ケ里の田手神社に来ているので、持統も付いて来たか、あるいは話を聞いていて土地勘があるに違いないと予想しているのだが、まさか、この結願に既に佐賀の名が出ていたとは思いもしなかった。

持統は小城の晴気(はるけ)の価値を知っているのは間違いない。
晴気には何があったのか、という問題が気になるのは、やはり知られるべき歴史が佐賀にもあるのだろう。


メモを見ると、このあと、私は戦う前の状況を尋ねているが、「船」「馬」という単語しか書き取っていない。

それから倭国と日本国の関係を尋ねた。答えは意外なものだった。

「日本は三つの大きな部族でできていた。日本国。倭国。青い目をした者たちの国」

三つ目が蝦夷(えみし)ではないかと思われた。平安時代にも異国として扱われている。

私は続けて物部の目の色を尋ねた。
「物部の目は何色ですか」
「黒だ」
「あなたの目は?」
「青だ」

ああ、ヤマトタケルと同じ目の色。驚いてばかりで思考が停止した。そのあと天智が自ら語った。

「天武とは母が違う。日本国はヤマトの国だ。
筑紫にはいろいろな国の者が入ってきてもめておった。新羅の船も襲ってきておった」

「唐と戦うための布陣はどこですか」
「本陣は長崎の諫早にあった。もう一か所は門司~山口あたりだ。
我らの船団は七艘だ。倭国の船の方が多かった」

「船には帆柱がありましたか」
「われらの船には3本の帆柱があった。我は航路をいつも考えておったぞ。九州の東から南回りで長崎の方に出る航路があった」

「白村江の戦いの時はどこにいましたか」
「我が船も百済に行った。が、この地、福岡に流れ着き、助けてもらった」

「白村江のあとは、日本はどうなったのですか?」
「新羅の後陣が倭国に向かい、二回攻撃してきた。唐は来なかった」


以上、全く想像もしていなかった世界が語られた。
日本書紀には書かれていなかった事が沢山ある。
確かに、唐と戦うのなら、諫早は適地だ。

これらを丸々信じる訳にはいかないが、日本書紀もまた丸々信じる訳にはいかなかった。
分かったのは、この時代を旅する必要があることだ。
滅びた倭国のトラウマを知る必要があるのだろう。

―2016年5月―


<20180501>



異世界小説 


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by lunabura | 2018-05-01 21:20 | 「ウーナ」 | Trackback | Comments(0)

ウーナ34 ヌカタノキメ



ウーナ34

ヌカタノキメ
 


さて、前回、額田王の事を書いたが、菊如からその具体的な話が知らされた。

宗像の猿田峠にある豊日社で、古代の物部が鼻息荒く言ったのは
「ヌカタノキメの鏡は何処に行ったのだ!ここに無いではないか!」
ということばだった。
「ヌカタノキメとは額田王の事ですか?」
と尋ねると、
「あーそうだ!」
と答えたという。


「ヌカタノキメ」という発音は珍しい。「妃女」で「キメ」と読むのだろうか、ということだった。

もともと「額田王」と書いて、「ぬかたのおおきみ」と読み、女性だと考えるのも、考えてみれば不自然だ。

初めて教わった表記が刷り込まれていっただけのことだ。

表記はこの他に、額田女王、額田姫王、額田部姫王というのがみられる。
読み方も定まってはいない。

だから、菊如が「ヌカタノキメ」と聴き取ったのは興味深い。
現代に伝わらぬ発音は多々あり、その一つなのかもしれない。


面白いのがもう一点ある。
この額田王の父は鏡王というのだ。
父の名に「鏡」が付いているとか、いったい誰が知っているだろうか。

その鏡王の娘が持つ鏡を物部が欲しがったというのだから、不思議な符合だ。
面白い。


ところで、その鏡の在り処は前回「安座」と書いたが、正しくは「安ノ倉」だった。

美しい緑の湖と赤い滝と川がある所だ。

過去記事を読み直してみた。

妙見神社  龍神と北斗七星



懐かしい。
このような秘められた聖地に既に案内されていたこともまた不可思議なことである。

ここで祈れば龍が北斗七星に祈りを届けてくれるという。

そういえば、鏡探査はまだだ。
再びあの聖地に出掛けるのが楽しみになった。

<20180430>







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by lunabura | 2018-04-30 20:24 | 「ウーナ」 | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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