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ひもろぎ逍遥

カテゴリ:真鍋大覚ノート( 19 )

マルコポーロを乗せた閩人(びんじん)は日本にも宣教師を連れて来た

マルコポーロを乗せた閩人(びんじん)は

日本にも宣教師を連れて来た




マルコポーロ(1254 – 1324)は「東方見聞録」を書いた人で、日本をジパング(黄金の国)として紹介していることで有名だ。

このマルコポーロについて、
改めてウィキペディアを見ると、元のクビライの元で17年間過ごし、帰りに海路で中国の泉州の港から14隻のジャンク船団でインドネシアやインドの南を通ってイタリアへ戻っている。

途中、スマトラ島では風待ちのために5か月も滞在し、二年がかりで帰国した。

水夫を除いた600人の乗組員のうち、生き残ったのは18人だったというから、その旅の過酷さは想像を絶する。



「東方見聞録」は兵士となって捕えられたマルコが収監中に口述筆記したものというので、不思議な巡り合わせで本が出来たことになる。



そもそも、マルコが元に向かった理由が、クビライが「リベラル・アーツ(文法、修辞学、論理学、幾何学、算術、音楽、天文学)に通じた100人のキリスト教徒派遣を求めた」というのが面白い。



また、フェルナンデス・メンデス・ピントという人は1556年にルイス・フロイスらと共に日本へ渡っている。



で、今日の話はマルコポーロやピントではなく、彼らを乗せた船団が「閩人」(びんじん)であると、真鍋大覚が記録している点についてである。



閩人は水先案内として、日本にも渡来しているという。

宣教師などを日本に導いたのが閩人で、彼らは星を見て行く手を「三」とか「五」とか指図していたので、倭人は閩人を「三五殿」と呼んでいたという。

「三」が上下、南北を示し、「五」が左右、東西を示していたことは何度か書いたが、筑後川沿いに「三」のつく地名が多いのが、この「数字で方向を示す」文化によるものだ。

この閩人について、ウィキペディアによると、
琉球国王・察度(在位1350-1395)の時代、1392年に洪武帝の命により、多くの学者や渡海士などの職能集団が来琉したと言われ、閩(びん)と呼ばれた、現在の福建省からの渡来人であり、閩人三十六姓と呼ばれた、とある。

四大華僑族群の一つとも。



ダイナミックに南航路を操って多くの人と文化を往来させたのが閩人だということになる。


話は飛ぶが、「曽根崎心中」に出てくる丁稚(でっち)の名に「三五郎」という小僧がいて、それは閩人の末裔だと真鍋は記す。

江戸時代の人にはそのような共通認識があったのだろう。今では想像もつかない話だ。



これら閩人もまた、オリオン座を見ながら渡海したのである。



と、今日も歴史カフェの「オリオン座」の予習編。




「東方見聞録」もマルコポーロも名前を知っているだけなので、その生涯を見ると結構面白い。

「ジパング」という言葉も「日本国」の中国語発音のリーベンコウ、ジーペンクから来ていると言う説が書かれていた。

確かに、「日本」の発音はジーペンと聞こえる時がある。当時の日本は金よりも銀の方が価値があり、支払いを金でしていたので、黄金の単語と結びついていったようだ。
かなり、納得。



歴史カフェ623の案内は





20190613



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by lunabura | 2019-06-13 20:49 | 真鍋大覚ノート | Comments(0)

真鍋ノート 引田部赤猪子 ヒッタイト 観星の心得として読む


真鍋ノート


引田部赤猪子 

ヒッタイトの子孫 御諸歌を観星の心得として読む



「古事記」の雄略記に天皇から求婚を受けたのに、忘れ去られた乙女の話が載っている。
あらすじはこうだ。

雄略天皇が美和河のほとりで衣を洗っていた美しい童女を見初めて名を問うと、童女は「引田部赤猪子(ひけたべのあかいこ)です」と答えた。

天皇は「妻に迎えるので、嫁がぬように」と言った。

赤猪子は迎えを待ったが、八十歳になっても迎えは来なかった。ついに自ら参内したが、天皇はすっかり忘れていて、今更妻には出来ないのを悼んで歌を二首詠んだ。 ( )は綾杉訳


 御諸の 厳白樫がもと 白樫がもと ゆゆしきかも 白樫原おとめ
みもろの いつかしがもと かしがもと ゆゆしきかも かしわらおとめ

(神のいます 神聖な白樫のもと 白樫のもとにいる 神聖で触れられぬ かしわらの神に仕える乙女よ)

 引田の 若栗栖原 若くへに 率寝てましもの 老いにけるかも
ひきたの わかくるすばら わかくへに いねてましもの おいにけるかも

(引田にある 若い栗の林のように 若い時に 共寝をしたらよかったのに 年老いてしまった)

赤猪子の返歌二首。

 御諸に 築くや玉垣 つきあまし 誰にかも依らむ 神の宮人
みもろに きづくやたまかき 築き(斎き)あまし たれにかもよらむ かみのみやひと

(神のいます所に 築く玉垣を 築くように神に斎くのが長すぎて 陛下以外に誰に頼れましょうか 神に仕える巫女は)

 日下江の 入り江の蓮 花蓮 身の盛り人 羨しきろかも
くさかえの いりえのはちす はなばちす みのさかりびと ともしきろかも

(日下江の 入り江に咲く蓮 その蓮の花のように 若い盛りの人が うらやましい)

天皇は赤猪子に土産をもたせて帰した。この四つの歌は志都歌(しつうた)という。





この引田部赤猪子について、真鍋は、引田部とはヒッタイトの和訳で引田部赤猪子はその子孫だと記す。
渡来系の美しい娘だったのだろう。

引田部は大三輪朝臣の支族ということなので、三輪山の大己貴信仰にも新たな解釈ができそうな一文だ。


また、御諸とは「み・もろ」=見る星=観星のことで、「一瞬の間に星を観察して計る心得」を歌と話にまとめたものだという。

「もろ」とは星の意味の胡語ムルがムロ、モロと変化したものだ。そして、この志都歌を美望呂歌(みもろうた)と言ったという。


古代において、物部や平群、あるいは舟人などなど、星を観測する人たちがこの話を聞けば、星の観測の厳しさの訓戒と考えて、自らに戒めたのだろう。


いきなりの雄略天皇と赤猪子の歌だが、これは第22回歴史カフェ「オリオン」の予習編。
真鍋の話は広範囲にわたるので、少々知識を入れておこう。




<2090527>



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by lunabura | 2019-05-27 21:07 | 真鍋大覚ノート | Comments(0)

ユールとフライヤは日本で大山祇とコノハナサクヤに変化した?




那珂川市に残る「御火焚き」(おひたき)の行事の由来に、来年の暦の出来上がりを喜び、古い暦を焼き捨てるものだった、という話が真鍋の本に出てきます。

語源はギリシア語だといいます。

裂田神社や伏見神社に残っていて、拙著なら下巻の66番裂田神社の所に書いています。



その日の到来を告げる「御火待星」(おひまち)という名がオリオン座のベテルギウス星につきました。

この日本列島に来た様々な人種の中に、北欧から来た渡来人もいるわけで、春の到来を喜ぶ冬至の儀式が那珂川の御火待行事に継承されたのではないか、という考えを真鍋は示しています。


数万年前の氷河期、あるいは凍土の信仰や情景が古代日本に伝わり、現存する神事や行事、シャーマニズムにその残り香を見つけているわけです。

そして、糸島から那珂川、脊振山系に多くみられる大山祇やコノハナサクヤの神社については、その原型として北欧のユールとフライヤの姿を見ています。





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(画像出典 ウィキペディア)フライヤ





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(画像出典 ウィキぺディア)粥をもらうユール・トムテ





以下は該当部分です。

<北欧のノルマン民族はユールとフライヤの二神が去る年と来る年を渡しあう饗宴とされていた。

ユールは夜であり、フライヤは昼であったと説く学者もあれば、又ユールは冬であり、フライヤは春であると説く学者もあり、二千年も昔の神話の解釈は西洋の本家本元でもいろいろとわかれている。

 御火待はまさに一陽来復を願う凍夜の民族の数十万年に及ぶ儀式の名残りであったのかもしれない。

御火待はまた一年の暦制を更新する復活の祭典であったかもしれない。

暦制は氏族一年の日程表に他ならなかったから、氏族各位の合議によって採択された。

その時の元旦は冬至にあったから、いながらにして冬至を心得る目標として神殿を冬至の入日にあわせて建てていた。(拾42)
 
 今から5万1500年前に始まり、1万2300年前に終わった第四紀氷河期の間は、一年の季節は冬と春だけであった。

夏と秋はなかった。現在の北極圏に近い地域の一年と同じである。

遠い祖先は冬をもってユールの神なる大山祇命なる氷河の高嶺をあて、春はフライヤなる木花佐久夜毘売の万朶(ばんだ)の花弁をあてた。

今も那珂川には山積(住)の社が背振から西畑に並ぶ。「儺」あるいは「奴」とは夏を知らぬ残雪の形容であり、花の色の白さの形容であり、胡語のニニ、あるいはヌールの和訳であった。>
(儺の国の星拾遺p43)


ユールとフライヤについては宗像大社の長手の所にも書いています。




<20190524>



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by lunabura | 2019-05-24 20:33 | 真鍋大覚ノート | Comments(0)

埴輪のヘアースタイル 島田ではなく布「かふり」である


埴輪のヘアースタイル
島田ではなく布の「かふり」である


古代人のヘアースタイルにとても興味があります。

だから、九博に兵馬俑が来た時、しげしげと兵士の頭を後ろから見ました。
すると、左右の耳の後ろから小さな編み込みの三つ組を中央に向けて編み込み、
またうなじからも上の方に三つ組を編み込んで、最後は三本一緒にまとめていました。

その髪型を再現する俑の細やかさに驚いたのですが、
兵士が髪をまとめるのに三つ編みを利用していたのには
カルチャーショックを受けました。

だって編み込みですから、自分では出来ない (><)
この兵馬俑を作る時だけ美容師が付いたのか、普段からそうなのか、
など、疑問も出てきます。

編み込み三つ組なら、髪が乱れることなく、戦うのには理想的です。
写真に撮ってイラストを描きたかったのですが、もちろん撮影禁止なので、
記憶に留めるだけでした。


他の兵馬俑はどんなスタイルなのか。
もっと知りたいのですが、兵馬俑の後ろ姿の写真なんかまずは存在しません。



さて、福岡では埴輪もめったに見られないので、これも出会ったら必ず後ろから観察します。


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これは群馬県から出土した埴輪。    画像出典 東京国立博物館

埴輪の女性のヘアースタイルは「島田」と言われて、
日本髪のルーツとされているのですが、
どうみても、自分の髪をこんな風に結うことはできません。

ヘアーゴムがない時代にどうするんだい?
と見るたびに考えていました。
もし、頭頂で結べたとしても、こんな風に根元をフラットにするのは不可能です。

で、「島田」説を疑問に思っていたら、同じ考えの女性がいて、
この頭の上の物体は「布」であることを中国の雲南や四川で発見して
紹介してありました。
次のブログにはその実例が沢山紹介されています。

http://ysiuruhasi.exblog.jp/13418349

で、真鍋大覚に出てくる謎の「被布(かふり)」が、これだろうと気付いたのです。
「女人は多く髪の上に布をおき、これに荷を載せた。」と真鍋は語ります。

それなら、この厚みが納得できます。
この埴輪の女性は巫女とされていて、「かふり」も実用的でなく、
装飾的になっているような様子です。

九博にはこの「かふり」を被った埴輪がありましたよ。
頭と「かふり」の接点をしげしげと見て、やはり髪の毛ではないと確信しました。


それと、上の埴輪の女性は腰に鏡を下げています。
五つの子丸が付いているので、「五子鏡」というのではないかと推測しています。

これを見た時、七支刀と共にもたらされた「七子鏡」って、
こんなデザインだろうなと、ワクワクしていたのですが、
九博では違うタイプが紹介されていて、しょんぼりしたのでした。



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by lunabura | 2019-05-21 20:26 | 真鍋大覚ノート | Comments(0)

天鳥船と変光星ミラ クスノキ総覧


真鍋ノート

天鳥船 変光星ミラ

クスノキ 総覧


 変光星「ミラ」が光を増した頃、天草の乱が起こったそうです。

そして「ミラ」を「天草星」と呼んだそうですが、「あまくさ」という言葉の謂れは「天鳥船」(あめのとりふね)から来たものだそうです。それはクスノキで造った船のことでした。


真鍋大覚から

<天鳥船
 「あまくさ」とは古事記神代記に出てくる天鳥船またの名は鳥石楠船(とりのいわくすふね)、のちにこれを合して天盧樟船(あめのいほくすのふね)の略であった。

「いはくす」とは盤石のごとく根株を地上に盛りあげ、しかも枝を水平に広くさしのべた樟や楠の古木老樹を云う。

今も未だ然りであるが、樟の筏を海に浮かべると、水に溶けた芳香は大小の魚から蝦の類まで集めるので、漁師は労せずして居ながらにして水揚げができた。
『儺の国の星拾遺』p1>

「天鳥船」は「鳥石楠船」とも言い、「石楠」は石のように根が盛り上がった古木で造った船だといいます。

クスノキは神功皇后伝承の宮々でよく遭遇します。
船の材料になるので、意図的に植えられたのかも知れないなあ、と次第に思うようになりました。

クスノキは大きくなると空洞化するので、そのまま刳り船(くりふね)に利用できるとのことです。

クスノキの空洞を利用したボートに波よけの板を並べれば「準構造船」になります。

クスノキで造った「いかだ」は、その芳香が水に溶け、魚が集まったそうです。
芳香って、あの樟脳の匂いのことかな…。
う~ん。タンスの香り?


で、多分、真鍋が言いたかったのは、神功皇后の船に大小の魚が集まって来て、酒を流すと魚がしびれ上がって採れたという話が『日本書紀』に挿入されているけど、あれは特別な出来事でなく、普通の事だ、ということじゃないかな。

それは、仲哀天皇が下関の豊浦宮(忌宮神社)に遷宮し、皇后が遅れて向かう途中の話です。

<夏、6月10日に、天皇は豊浦の津に停泊した。一方、皇后も角鹿を発って、ヌタの門に着いて、船の上で食事をした。その時、鯛が沢山船のそばに集まりまった。

皇后は酒を鯛に注いだ。すると鯛は酔っ払って浮かびあがった。それで海人(あま)は魚をたくさん獲って喜んで「聖王の与えられた魚だ」と言った。

こういう事から、この辺りの魚は6月になると、いつも酔っ払ったように口をパクパクさせるようになった。>

クスノキで造った船なら、どの船でも魚が集まって来るんですね。魚をしびれさす漁法というのもあったらしいし。神功皇后を神格化しようとした文でしょうが、実は、魚が集まるのはクスノキのせいなのだ、と真鍋は言いたいんですね。

<やがて世が泰平になった頃、空にひときわ明るく輝きを増したのがミラであり、後の人が名付けて「天草星」と呼び、天国に昇った親戚、知己の冥福を祈ったのであった。その頃、九州でも極光(オーロラ)が昼もなお赤く空を彩る時代であった>

と真鍋は語っています。


さて、クスノキが船材になるということで、神社の境内では注意して見ますが、神功皇后伝承の宮々のクスノキは古過ぎて、使い物にならないくらいに空洞化しています。^^


クスノキは若いうちは(数百歳)真っ直ぐ伸びていますが、何百歳でしょうか、二股に分かれて左右に枝を伸ばし、根の所には大きな洞ができ、ついに枝を落としてしまう、という印象を持っています。



そうだ。今日はクスノキ・パーティにしよう。



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下関市 住吉大社




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古賀市 五所八幡宮 上巻35   ムーミンの木





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朝倉郡筑前町 松峡八幡宮 上巻41





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筑紫野市 松尾宮 下巻54





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大川市 風浪宮 下巻77







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宇土市 大歳神社








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佐賀市 與止日女神社 







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武雄市 川古








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武雄市 武雄神社

神!


<20150217>

再掲
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by lunabura | 2019-05-20 20:00 | 真鍋大覚ノート | Comments(2)

悠紀田・主基田の由来



悠紀田・主基田の由来


令和元年、大嘗祭で奉納される稲を育てるための悠紀田・主基田を作る県が卜占で決まった。

ウィキペディアによると、その語源について、
<「悠紀」は「斎紀(斎み清まる)」、「斎城(聖域)」とされ、また「主基」は「次(ユキに次ぐ)」とされる。>
とする。

これと異なる語源を伝えていたのが真鍋大覚である。

すでに何度か過去に記し、講座などでも伝えているが、今日は改めて「悠紀田・主基田の語源」として視点を変えて記してみたい。



「悠紀田・主基田」の由来は「水城」にあった。

まずは水城(みずき)について、話しておきたい。

水城は『日本書紀』に記され、福岡県に実在しているが、これ以外に「小水城」が十近く確認されている。

この水城築造の目的については、現代では「防衛施設」として説明されている。

しかし、大河や小川を堰き止めて、敵が来たら断ち切るという戦法は、下流域の洪水と田の喪失、伝染病の流行を招くため、守るべき人民と食料、国土を失うことが前提となる。

これでは亡国のための作戦となってしまう。

この「防衛施設」説は、国と人民を守るという、本来の目的を考えもしないトンデモ説と考えている。

これに対して、真鍋大覚は、水城は「農業用の貯水施設」だったことを伝えている。

洪水や渇水のため、田の水が不足してきた福岡平野の水を管理し、水田を潤すためのものだった。
そのため、水城の下には巨大な導管が四本も埋め込まれ、取水口の蓋を開け閉めしていた。
取水口を開く時には、水城の上で神事も行われていたという。

この水城は1.2キロの巨大なものだが、「小水城」は小さな川を堰き止めて出来ている。

土手の下には導管がやはり埋め込まれている。
この導管は「根太扉」(樋)(ねだび)と言い伝えている。
これは導管が発見される前から本に書かれていた名称だ。

さて、これが「悠紀田・主基田」の由来になるというのである。



川を堰き止める土手は、冬の積雪が崩れて怒涛の如く流れ出して、下流の水田や人家を埋めていくことに対処するものだったという。いわゆる山津波対策だ。

これが段々畑の形成の始まりとなる。

そして万葉の頃までは、麓の谷にこの小水城を置いたという。

小水城には、冬には土手の上手に「水」が蓄えられ、下手に「麦」が蒔かれた。

夏になると根太扉の閘門を開いて上手から下手に水を送り、下手に水が溜まると、「早生の水稲」を植えた。

やがて上手の水が無くなると、そこに「晩生の陸稲」を植えたという。

この上手の田を「悠紀田」と言った。「雪」が解けた水と言う意味だ。
下手の田は下田(すけた)と言った。「すく=受ける」という意味だ。

「雪田」が「悠紀田」へ、「すけ田」(受け田)が「主基田」と、好字に置き換えられたことになる。

この農法を真鍋は「瀦水塘耕作」(ちょすいとう耕作)と言っている。

筑紫の耕作法が何らかの事情で、皇室行事の名称に組み込まれたということになろう。

その時、本来の意味を知らない人が
<「悠紀」は「斎紀(斎み清まる)」、「斎城(聖域)」とされ、また「主基」は「次(ユキに次ぐ)」とされる。>
と新たに意味付けをしたと考えられる。


福岡の風習が皇室行事に組み込まれた例はこれだけではない。

他に探すと、今も皇室で奏上される阿知女作法がある。
安曇磯良という倭国の王を呼び出す歌だ。

また、腹赤魚を食す行事が五節会に組み込まれた。
この行事は旧山門郡や有明海に由来があり、高良山にも専門職がいた行事だ。

倭国の風習がこうして姿を変えながらも今に伝えられている。



20190516




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by lunabura | 2019-05-16 22:08 | 真鍋大覚ノート | Comments(0)

「興玉」と猿田彦神



真鍋ノート

「興玉」と猿田彦神


「おきたま」とは月日を並べる暦作り


「甲斐」の由来は「夏日」


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興玉神

これは北九州市八幡西区の一宮神社の境内の「興玉神」の石碑だ。

駐車場から上る坂道の道端に鎮座している。

一宮神社は神武天皇の磐境・神籬を熊鰐一族が守り続けた宮である。記紀の岡田宮はここにあった。



この「興玉神」について、真鍋を紐解こう。



<「おきたま」とは、月日を置き並べる暦作りの意であった。

「た」は月でThala(ターラ)なる古代地中海語の略であった。



「ま」は胡語のMutso(ムツオ)、Mutesa(ムテサ)、Massa(マサ)なる日神あるいはMuruhなる星神の略と思われる。>(『儺の国の星』序p4~ 一部改変)




元来、「碁盤と碁石」は暦日算定の器であったという。

黒と白の碁石を「た」(月)と「ま」(日・星)に置き換えて、

それを並べて暦を作っていたという。




この「た」と「ま」の語源は地中海や中近東の

「ターラ」(月)「ムツオ」(日・星)などから来ている。




この「興玉神」は合祀されたのかもしれないが、

暦作りの痕跡を残す神ということになる。




神社での祭祀の日取りを決定するのに暦は欠かせない。




猿田彦

一方、「興玉神」とは猿田彦神のことでもある。

道端にあるのは道祖神として鎮座しているのかもしれない。




「興玉神社」はもう一つ、同市八幡西区木屋瀬(こやのせ)にもあり、

その祭神は猿田彦神だ。




また、伊勢二見「興玉神社」の祭神も猿田彦神である。




伊勢二見が浦から見る日の出は有名である。

これは夏至の日の出で、

運が良ければその朝、はるか向こうの富士山から日が昇るという。




夏至を元旦とする「かひ族」の象徴的光景であるらしい。




『古事記』猿女(さるめ)の君の条に

猿田毘古の神、阿耶詞(あざか)に座し時に、

漁(すなどり)して、比良夫貝(ひらぶがい)に

その手をはさまれて海水に溺れたまいき。

とある。




<「あざか」とは潮が引いて地肌があらわに出た干潟である、

「さるめ」とは衣裳を脱いだ空身(そらみ)の海女(あまみ)、

あるいは日に焼けた赤裸(そほみ)のことであった。>




猿田彦が干潟に出て漁をしている時、

貝に手を挟まれて海に引きずり込まれたという不思議な話だ。




<これは甲斐の峯(富士山)を凝視する神の姿を貝にたとえ、

夏日(かひ)に例えた古人の諧謔(かいぎゃく・ユーモア)が

秘められているのかもしれない。>



「貝」とは「甲斐」と「夏日」のことで、

猿田彦神が富士山からの日の出を見て夏至の日を確認する姿を

面白く描写したものとする。



なまよみの甲斐

<「なまよみ」は甲斐の冠辞である。

この「なま」は即ち「たま」と同義であるから

「なまよみ」とはまさに日月星辰の動向、或は方向を観測して

月日を読みとることであるから、

富士山はまさに日本人が暦日を見定める唯一の象徴であった歴史が

推察されるのである。

夏至を「かひ」、冬至を「とひ」と言った。

甲斐の国名の由来はまさに夏日(かひ)にあった。>



「なまよみの甲斐」の「なま」は「たま」がなまったもので、

「たまよみ」と同じだという。

甲斐の国名の由来は、この興玉神社から「夏日」(夏至)が

観測できることからついたということになる。



伊勢暦は太陰暦と太陽暦を重ね合わせて編纂されてきたもので、

今も「神宮暦」として、広く利用されているが、

その日月星の観測地に「興玉神社」があるということだ。




そこで、碁盤と碁石のような「暦日算定の器」を利用して

「た」と「ま」を計算していた氏族がいたことになる。



<倭人は春分秋分より、夏至冬至を重視する民族であったらしく、

古代の住居も陵墓も夏至冬至の朝日夕日に正対するか、

左右に見通す方向に設計築造した。>



倭人は夏至冬至を重視していたという。

そういえば、吉野ヶ里や周囲の神社のラインは夏至冬至が多かった。



伊勢二見のカエル

<夏至冬至を「日還」と書き「ひがえり」と訓じた。>

伊勢二見の興玉神社にはカエルがいっぱい奉納されているらしい。




これも夏至や冬至を境に日がUターンして昇る「日還」「ひがえり」が

「ひきがえる」になったためという。

(『儺の国の星』p38)

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一宮神社(神功皇后伝承を歩く上巻2)

<20170917>
20190409再掲
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by lunabura | 2019-04-09 20:39 | 真鍋大覚ノート | Comments(2)

土蜘蛛



真鍋ノート

土蜘蛛



土蜘蛛といえば田油津姫だ。

兄の夏羽も、その祖の神夏磯姫も土蜘蛛ということになる。

真鍋は、土蜘蛛は地中海のエトルリア人の子孫、トロヤ人、
フェニキア人、更にはペルシャ人を含むという。

金工の術に長じた西域出身の異邦人である。

「つくみ」とは夜の間も眼光炯々(けいけい)として目を輝かす
フクロウ(梟)ミミヅク(木菟)のことをさすが、
一方で、鉄を溶かす炉の火口(ほぐち)の形容でもあったという。

仕事が終わるまで昼夜の区別なく
赤く燃え盛る炎の中身を除く窓のことも指した。

近東では、火の加減はすべて未婚の女人があつかったという。

ギリシャ神殿では、神に供える料理を作るために
巨大なレンズで天の日(火?)を集めて火をともすのは
神殿の女官の務めであったという。
(儺の国の星拾遺 p108より)

2018平昌冬季オリンピックの聖火の点火は10月24日。




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<2017年10月24日>

20190405 再掲
そういえば、東京オリンピックの聖火の点火の時も大々的に報道されるんだろうな。


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by lunabura | 2019-04-05 20:00 | 真鍋大覚ノート | Comments(2)

林重徳 ついに水城の「多段型閘門式運河」説登場




今、西日本新聞の聞き書きシリーズで小田富士雄氏の「夢掘りびと」が掲載されている。

福岡の考古学の話は毎朝の楽しみだが、今日は「林重徳」の名を見つけて驚いた。

先週、その名を何度も見ていた。「水城」に関する私の原稿の中で。

数年前、私は、真鍋大覚の「天智天皇は水城に疎水を通した」という口伝の裏付けを求めて、水城に関するシンポジウムなど、行きうる限りの講座に出掛けた。

しかし、講演者の話は日本書紀の記事をなぞるばかりで664年に造ったという説ばかりだった。

しかも、土塁の下手に水を貯めて、矢を防御するというお決まりのパターン。

50mは矢の届かぬ距離だと言うが、弩なら数百メートルの距離を飛ぶ。
そして、二年前に西門には数メートルしか掘がないことが確認されて、防御説は覆された。
(しかし、いまだに防御説を唱える人はいる)

水は土塁の上流に貯めるものだという常識に対して、述べる人もいなかった。


敷粗朶という土塁の底に木を敷く工法が必ず出て、それは5~7月の頃の枝という。

それはもちろん大事な情報なのだが、もし初夏に一番底部の工事をするなら、わずか半年で完成させたことになる。
あれほどの工事を半年で出来るはずはない。
それに加えて80メートルの長大な木樋を四本も造って土塁の下に埋めている。

それについて何ら疑問を出さない講演者たちに、期待はしていなかったが、暗澹たる思いをしていた。


ところが一人、工学的に私の疑問に応える人が現れた。

それが林重徳氏だった。

水城の築造の試算をされ、一例を挙げると、4800人が毎日働くと一年で出来るが、それらには設計や複数の種類の土の探査や道路建設、道具の制作なとは含まれていない。食糧まで加えると1万人近い人員が必要になるという試算だった。

また、水城の上流に水が貯められている光景を読んだ和歌を紹介された。

水城の水は上流に貯めた。

これこそ、私の知りたい話だった。

そして、土塁の中央が切れている点について林氏だけが見解を述べた。

欠堤部からは古代レンガや石敷きが出ている。

林氏はそこに矩形の道の痕跡を見つけた。

そして、その理由を井関(洗い関)があったのではないかとされた。

しかし、私はそここそ、疎水が建造された跡ではないかと思った。

それまでは東西の門のそばだろうと思っていたので、久留米大学ではそう話し、歴史カフェあたりでは、中央説を採るようになった。

私はシンポジウムの時、林氏に「水城の水は上流に貯めたのではないか」という質問を書いて提出した。

林氏は壇上で喜ばれて、次の週にも別の所で話すので是非来てくださいと言われた。
もちろん、質問者が誰なのかはご存知ない。


そこで私は翌週も出かけて拝聴したのだが、この時、真鍋大覚の資料を持っていった。
多分、久留米大学で配布した資料だと思う。
閘門式の疎水があったという資料だ。

林氏はそれを一目見るなり、はっとされたのが印象的だった。

氏なら、あの欠堤部にある矩形から疎水を見出すのではないかという期待があった。



そして、今朝の新聞で林氏が亡くなったのを知った。
その病床で完成されたのが「水城に関する土木計画・技術・構造論的考察」だ。

そこには「多段型閘門式運河」を推定したと書かれていた。
まさに、私の思いは通じていた。

氏の最終的な説は「一日3200人で施工日数303日」

「門の開閉で水位を調整し、上流にある政庁東の「学校院」まで船を通す、パナマ運河と同じ仕組みがあったのではないか」
というものだ。

これこそ、真鍋が伝えている疎水を具現化したものだった。

ここに、その研究に感謝したい。

そして、ご冥福を祈る。



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by lunabura | 2019-01-30 21:27 | 真鍋大覚ノート | Comments(0)

【真鍋ノート】南十字星と大宰府

【真鍋ノート】


南十字星と大宰府


真鍋大覚の星に関する史料は『石位資正』といい、
漢名の星宿の項目に対し、日本の古い和名を列記したものだという。
中国の星名と日本の星名の照合表のような感じなのだろう。

この『石位資正』が書かれたきっかけは、
刀伊の入寇という侵略事件だった。
この時、異国の天文知識に接した藤原隆家が編纂したものという。
隆家はこの時、大宰権帥だった。

当時は太宰府から南十字星がまだ見えていたという。
南十字星が将来見えなくなるにつれて、
星の和名が消えることを案じたことからの編纂だった。



緒言より(改変)
<『儺の国の星 拾遺』の原本は『石位資正』で、
藤原隆家が1039年に大宰権帥に再任された時、
九州で星暦についての古今の見聞録を編纂したものである。

執筆の契機は1014年から1019年の任期中に
刀伊の入寇に遭い、大陸の夷狄(いてき)の
偉大なる天文知識に感銘してからのことと伝える。>

ウィキペディアによると、
藤原隆家が大宰権帥になったのは
眼病(突き目)の治療のために筑紫行きを望んだからだという。
この時に、刀伊の入寇に遭い、応戦している。
刀伊とは満州の女真族と考えられ、
壱岐・対馬を襲い、筑前まで上陸したという。

この時に隆家は敵ながら天文知識の豊富さに感銘したのだろう。

この頃は太宰府から南十字星が有明海のかなたに沈むのが見えていたが、
将来、この星座が見えなくなるとともに、
世人の関心が星空から離れていく気配を察してこの本を企画したという。

太宰府から最終的に見えなくなったのは明治15年(1882)だそうだ。

真鍋大覚の父、真鍋利市は明治43年(1910)3月27日に
脊振山頂から南十字星のγ星(一番上の星)を有明海上に見たという。

今年(2017年)、脊振山系から南十字星のγ星が撮影されて、
話題になった。
まだ、年に数回は観測することができるらしい。

済星(さいせい)
韓人は南十字星を「済星」と呼んだ。
巨済島や済州島はこれに由来する地名で、
昭和60年から換算して35年~309年前に出来た名である。

わたしの星

倭人は南十字星を「わたしの星」と呼んだ。
「済」が菱形の川瀬舟をさすことからついた。
「済」(さい)がなまって「さやのほし」と呼ぶこともあった。



真鍋の本は文章だけなのに、色彩があふれている不思議な本。


<2017年10月16日>



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by lunabura | 2019-01-29 22:00 | 真鍋大覚ノート | Comments(0)

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