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ひもろぎ逍遥

カテゴリ:出土物( 10 )

馬門 阿蘇ピンク石が切り出された所に行って来ました


馬門
まかど
阿蘇ピンク石が切り出された所に行って来ました

久しぶりに天草トレッキングの報告の続きです。

行ったのが昨年の秋 \(◎o◎)/!
すっかり記憶が薄れています。
でもずっと心に残っていた所でした。

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大歳神社を後にして、山の方に向かって歩いて行きました。
斜度は緩やかで、登っているという感覚はありませんでした。

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そして、人家が途絶え始め、最後の人家が…。
とてもとても大きな屋敷です。
しかし、荒廃し始めていました。
こんな山の中にこれほどの大きな屋敷があったのですから、よほど栄えた場所だったのでしょう。
そこから右に曲がり一車線の舗装道路を進むと並行して川が流れています。

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そして、まもなく岩が散乱しているような場所が見え始めました。
ピンク?

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阿蘇ピンク石の石切り場です。
思ったより近い所にありました。

名前通り、石がピンク色です。

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乾燥の具合によって、色が違っています。

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丸く加工された石。これは現代アート。

ここで石棺がある程度加工されて、近畿に運ばれて行ったそうです。
何せ古墳時代です。
この石を知っていたことも驚きだし、
あんな遠くまで運んでも、この石の中に眠りたかった情熱に驚かされます。

美しいものを求める欲望と、それに応えようとする人々の
不可思議な連携のようなものに思いは巡らされ、
それが文化を創りだす原動力になったという人間力のたくましさに
感動さえ覚えます。

いったいどうやって運ばれたのか、
平成の人々の心をも動かして実験考古学がなされました。

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当時の運搬器具の修羅で運んだそうです。


私の頭の中は、この道をどうやって運んだのだろうという事でいっぱい。


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これは大歳神社へ戻る道。
唯一の緩やかな登りの場所です。左側には川が流れています。
考えたら、川の中を引いて行った方が合理的かもと思ったりしました。

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歩いて戻ってくると、再び大歳神社のピンクの鳥居が見えて来ました。
ここまでの距離を地図で見てみると500mほど。意外に近いですね。
そして、大歳神社で最後の祈りをして、


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広い川に出て、海へと漕ぎだしたのでしょう。
長崎の西海岸を通って、玄界灘、関門海峡を通り、
瀬戸内海を越えてはるばると運ばれたピンクの石棺。

どれほどの愛着がこれにあったのか。
古代の王たちの思いは測り知れません。

「ひもろぎさん、さっきの所に牧神社があったのに。」
「え?牧?」
「ここには牧があったのですよ。」
そんなあ。
まさか、あの石切り場の奥に神社があったなんて。
あの地形で?
知ってたら絶対行ったのに。(くすん)

そうか。馬に引かせれば意外に簡単だな。

聞くところによると、ピンクの石を産する所は数ヵ所あるそうです。
ここは今も変わらず地形が残っているので素晴らしいですね。

さて、当地から運ばれた石棺が出土している現地のようすは

ちょっと考古学
熊本から琵琶湖まで運ばれた石棺
http://blogs.yahoo.co.jp/hirotak24/14054787.html

の写真で見る事ができます。
副葬品として、金糸が出たもの、冠が出たものなどがあって、
やはりかなりの身分の人たちのようですね。

羨道の傾斜などは、九州の形式だそうですが、如何でしょうか。
そうだとすると技術者も行ったことになります。
あまり古墳の中に入っていないから、一メートルも傾斜のある古墳って
どこにあるかなあと思ったりします。
熊本の方の事情は

装飾古墳今昔紀行
http://blog.livedoor.jp/warabite/tag/阿蘇ピンク石

が詳しいです。
何?牧神社はピンク石で出来てたって?
そんなあ。
もう再訪する元気はないよ…。


地図 馬門

写真でも、ご覧ください。

天草トレッキングの過去記事は下のタグの ♯天草トレッキングからどうぞ。



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by lunabura | 2013-06-27 20:45 | 出土物 | Comments(8)

やっぱ、弩じゃね




昨日は垣生(はぶ)神社の所の推敲をしていて、
壁画の男をもう一度見直した。



武人が立ったまま馬に乗って、矢を射ている壁画だ。


弓を持っているのに弦を引いていない、変なイラストだなと思っていたけど、
よくよく見ると、これ「弩」じゃない?

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真中に心棒があって、弓もかなり小さい。

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やっばり、弩だ。
中間市の歴史民俗資料館で見られます。

最近テレビで見たけど、秦の時代の弩(ど)は200m以上は飛んだという。
これは、衝撃。

羽白熊鷲が雑木山から矢で射られたという話があったけど、
射程距離が離れすぎていて、地元の人も変だと言っていた。
でも、弩が数百メートルも飛ぶなら、話が合う。

羽白熊鷲も、まさかあんな遠い所から矢が飛んでくるとは…。
と驚いたに違いない。

遠賀川流域の武人たちは
仲哀天皇がやってくると聞いて勇んで集まった。
きっとこの中間市の武人たちも参軍しただろう。
そうすると、この弩を持って朝倉まで行った可能性はかなり高い。
弩はきっと古墳時代より前に入っていた。

昨日はそんな事を考えました。
女神から武人と、話は飛びますね~。

ところで、羽白熊鷲と言えば、るなさん、いつもこの人を思い浮かべてしまうんだ。

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照英で~す。
そっくりでしょ。 (^-^)





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by lunabura | 2013-02-20 23:18 | 出土物 | Comments(2)

王たちのピンクの石棺と古代船・海王


王たちのピンクの石棺と古代船・海王

熊本県 宇土マリーナ

まだまだ時間が採れずにいますが、記事も書きたいよ!
と言う事で、天草北部の古代の旅の続きです。

この旅のメインイベントは近畿の王たちの憧れの
ピンク色の棺の採掘現場・馬門(まかど)への旅です。
今回はその搬出港に置かれていた、復元された古代船と石棺とのご対面です。

『大王のひつぎ海をゆく―謎に挑んだ古代船』という本をサイドバーで紹介していますが、
近畿地方に出土するピンク色の石棺がなんと熊本県でしか採れない石だという事で、
どうやって運んだのか実験が行われました。
1000キロの海を船で運ぶのですが、この宇土マリーナが実験船の搬出港だそうです。

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いかにも南国という印象のマリーナの一角に石棺と船が置かれていました。

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雨で汚れているようですが、ピンクが全体に残っています。

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近づいて見ました。削ったらピンク色が出て来そうです。
この後、採掘場に行きますが、本当にきれいなピンクなんですよ。

なんでこんな遠くの石が近畿まで運ばれたんだ、という謎を解き明かそうと、
実際に石棺が作られて古代船が造られました。

現場の説明板を書き写します。
実験航海
およそ1500年前、熊本県の宇土半島で造られた石棺が「大王のひつぎ」として畿内に運ばれました。どのような方法で重い石の棺が、有明海から大阪湾まで波濤を超えて運ばれたのか。

その謎に挑み、2005年夏、「大王のひつぎ実験航海」が行われました。復元した古代船は伴走の現代船の支援を受けながら34日間、22の寄港地をつないで有明海、東シナ海、玄界灘、瀬戸内海、播磨灘、大阪湾の1006kmの海路をたどりました。
大王のひつぎ実験航海実行委員会

これについて書かれた本に出会ったのは、図書館ですが、
ちょうど、香椎宮で崩御された仲哀天皇を竹内宿禰が下関市の豊浦宮まで
搬送する話が日本書紀に書かれていて、日付まで書かれていたのを見て、
疑問に思っていた時でした。

本に描かれた寄港地を辿ってみて、
香椎宮~豊浦宮の間が実際にその日数で航海できるのを知って、
日本書紀に真剣に向き合う気持ちが生まれました。

本の中で印象深かったのは、航海の旅程を組む時に停泊港を探すと、
ちょうどぴったりの所に必ず港があったという内容の一文でした。
ここからだと、22の港があって、一日漕げばちゃんと陸地に着岸出来たと言う訳です。

それぞれの海の条件を知り尽くした海人族や水軍たちのネットワークが
古代に既に成立していたんだと思うとワクワクします。

マリーナには古代船も展示してありましたよ。

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船底を見て下さい。丸木船が基本で、その上に波よけの舷側板が立っています。
これを準構造船というそうです。
「準構造船」とは良く聞く言葉ですが、現物を見てようやく理解出来ました。

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上から見られるようになっています。
オールとかその大きさに驚き。
二人乗りのボートか大きなフェリーしか知らないので、
この大きさは妙に人間臭くて、身に迫ってくるものがあります。

ロープがあります。
古代にロープがあったんだろうかと考えたりしますが、
ヨーロッパ辺りで、新石器時代(日本では縄文時代)だったでしょうか、
紀元前のロープが発見されたのを読んだことがあります。
写真で見る限り、現代と同じ編み方でした。
(場所も時代もきちんと覚えてなくて済まんです。)

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右にある臼の形をした大きな飾りは伊都国歴史博物館で現物を見たぞ。
調べると、「石見型木製品」(いわみがた)と言うもので、
糸島の釜塚古墳の周溝から出土したと書いてあります。
他には畿内と韓国月桂洞1古墳で出土。ふむふむ。

この船の材料はベイマツ。
それが書いてある説明文を読んでみましょう。

古代船「海王」
わが国では縄文から中世にいたるまで、自然の木を船形にくりぬいた丸木船が主流だったとされていますが、弥生時代以降、玄界灘をわたるような「新しい船」が登場します。

丸木船を船底として、両舷に波よけの舷側板を立てた準構造船です。
「海王」は五世紀後半の古墳出土の船型埴輪をモデルに出土船材の大きさや
当時の造船技術推定により設計・建造されました。

構造:樹齢500年のベイマツの原木を接合した木造準構造船
規模:長11.9m 最大幅2.05m 自重5トン
航行:舷側支点櫂18本による糟行、速度4~5ノット、乗組可能要員30人
基本設計:松木哲神戸商船大学名誉教授
建造:藤田造船所(福岡・志賀島)

そうか、「海王」は古墳の埴輪がモデルなんだ。

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これは当時の写真です。

どうして古墳時代には帆を使わなくなったんだろう。
神功皇后の時代は帆柱を使って帆を布で作ったという伝承が各地にある。
ところがずっと後の時代、遣唐船は帆を竹で編んだりしたもんだから、
バランスが悪くて遭難しやすかった。

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レッドクリフでは帆船が主体だ。
この映画は時代考証が間違っているのだろうか。
西暦208年という時代だ。
倭国からはいくつもの国が使者を送っていた。

彼らは帆船の技術を知らなかったのだろうか。
手漕ぎで玄界灘を渡ったのだろうか。
徐福たちも手漕ぎ船でやって来たのだろうか。

最近の私は通説の古代像に「?」ばかりになってしまった (+_+)



地図 宇土アリーナ
熊本県宇土市下網田町3084−5






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by lunabura | 2012-11-19 20:46 | 出土物 | Comments(4)

弩(ど)弥生の出雲に弩が出土していた


弩(ど)
弥生の出雲に弩が出土していた
出雲・姫原西遺跡
 

平成23年の吉野ヶ里での「よみがえる邪馬台国―吉野ヶ里と出雲王国」で見たのは
弩(ど)の復元品でした。「おおゆみ」とも言い、
ボーガンとかクロスボウとかいうタイプの弓でした。
まさか、弥生時代の日本にこのような武器が…。
かなりショックでした。

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これは現代で販売されているクロスボウ。

出雲の姫原西遺跡から出土した弩の写真はこちら。
http://www.web-sanin.co.jp/orig/news2/9-0512a.htm

復元品はこちらです。
リンクに入ったら50音図が出てくるので、
「ド」だけを入力→リストを表示する→弩の復元品
島根県立古代出雲歴史資料館
http://www.izm.ed.jp/db/search50.php

比較すると基本構造は同じです。
臂(ひ)という木製品が銃の形をしているのも驚き。
人が持ちやすい形を追求すると時代を越えて同じものが使われるんですね。

ネットで調べると、出土のようすが分かって来ました。
場所 出雲市姫原町の姫原西遺跡 川跡とみられる堆積層
時代 弥生時代終末期(3世紀前期)の木製品
出土部位 ライフル銃の形をした臂(ひ)と呼ばれる弩の本体で全長91センチ
所蔵 島根県立古代出雲歴史博物館

この弩の出土により、弥生時代の戦争観がくつがえっていました。
(知らなかったよ。)
「3世紀前期」-これは仲哀~神功皇后の時代そのものです。
(4世紀説だと、さらに弩を使っていた可能性が高まります)

銅鐸や、その鋳型が吉野ヶ里と出雲の間で移動したように、
この弩が移動した可能性は高く、弥生時代の王たちが欲しがって、
神功皇后軍も所持していた可能性が出て来ました。

弩について中国では
戦国時代(紀元前5世紀~)斉の孫臏が弩兵1万を運用していた。
秦の始皇帝陵の兵馬俑坑から出土した。
唐の軍隊の約二割が弩を装備していた。

日本では
弥生時代 島根県 姫原西遺跡から臂(ひ)が出土した。
推古天皇紀 高句麗の使者が隋からの戦利品として弩を献上した。
奈良時代から各地を守る軍団の武器として二名に弩が配備された。

貞観8年(866)肥前国の一部郡司らが日本の国家機密である造弩法を新羅の一部軍勢に洩らして合同して対馬を奪取するという企てが事前に発覚して阻止された。
この流れから面白い推測ができます。

まず、徐福が佐賀県に上陸した時に弩を持って来た可能性がある。
徐福は秦の始皇帝から逃れて来たのだから、弩は当然知っているはず。
多くの技術を持って来たので、弩の製造法も含まれて、日本に伝えた?

貞観8年の「造弩法漏えい事件」を考えると
肥前国(佐賀県~長崎県あたり)では伝統的に弩を作っていた可能性がある。
(新羅と聞くと、磐井の君をついつい思い出す…)

弩の発射装置は青銅で作られるそうですが、
吉野ヶ里遺跡では鉄刀に青銅の持ち手を付けるような技術もありましたが、
この弩に関しては吉野ヶ里と限定せずに、肥前国全体に
弩を製作していた工房の存在を探してよさそうに思えて来ました。

弩は作るのも管理するのも難しいので、高度な技術集団がいたことでしょう。

実は弓矢については
忌宮(いみのみや)の仲哀天皇の話がずっと心に引っ掛かっていました。

新羅の塵輪たちが皇居を襲撃したときに、    
仲哀天皇はみずから矢で新羅の塵輪を倒した。

それを知って実は「え?」と思ってたんです。
仲哀天皇は弓矢が上手かった?
天皇は祭祀をする存在なのに、矢を射る訓練をしていたの?
弓矢なんかは簡単には射られないし、当たらないもの。
(まぐれ当たりか…。)

でも、この弥生の弩なら天皇でも射る事が出来ます。
忌宮の話がこれで納得出来ました。
秦の始皇帝の末裔の功満王が手土産に持って来たのかもしれませんね。

そして、羽白熊鷲が射られたのもこの弩ではなかったかと。

弥生時代についての認識が甘かったな~。とも思うのでありました。









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by lunabura | 2011-12-22 11:11 | 出土物 | Comments(0)

勾玉の作り方/出雲 玉作湯神社ほか


勾玉の作り方
出雲 玉作湯神社ほか


前回は石のビーズの作り方を出しましたが、今回は勾玉の作り方です。

勾玉って弥生時代から古墳時代のものかなと思っていたのですが、
縄文時代のものを資料館で見た事があります。
それは1cmほどの、大変小さなものでしたが、角ばりながら曲がっていました。
まだまだ原初的な形ではありましたが、
こんな昔から勾玉が愛されていたのを知って驚きました。

ずっと昔の教科書で勾玉は日本固有のものだと習ったのですが、
伽耶展で王冠にジャラジャラと勾玉がついているのを見て衝撃を受けたのを覚えています。
(今の教科書はどうなってるのかな?)

このように古代の環日本海で愛された勾玉ですが、
ある時から出雲の勾玉が大流行しました。その理由が「穴」だったのです。

そんなお話がNHKテレビで放送されていました。

石に穴を開けるには片方から開けて突き通すか、両側から開けます。
両側から開けると穴がずれて、貫通させるのは難しいんですね。
穴がずれた勾玉を実際に見たことがあります。
それをきれいに貫通させた点で、出雲の勾玉は一躍ブランドになったそうです。
(もちろんその石の美しさも!)

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その具体的な資料が出雲の玉作湯(たまつくりゆ)神社にありました。
テレビで玉作湯神社の宝物殿が紹介されました。

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これが勾玉の「荒作」です。すでに少しカーブが生れています。
これがあんなにピカピカになる?どうやって磨くの?
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工房跡から出た出土品を並べると、その謎がよく分かります。
手前の一番の左に勾玉があります。
それを見ると左から、「荒作」「完成」「仕上げ」となり、最終的には半分の大きさになっています。

中央にあるのは管玉。右は丸石です。
奥の左には砥石があります。これで手作業でコツコツと磨いたんだ!
中央には石の棒がありますが、これで凹カーブを研磨したそうです。
根気がいりそうですね~。
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これは穴を開ける為の道具です。
上の方にある、十字になっているものが錐(きり)で、先端は鉄です。
縦横の棒に糸を絡めていますが、これがバネのような働きをします。

右の板の上の勾玉を見ると、荒削りの段階で板の穴に
半分沈めて固定しているのが分かります。(これがポイントみたいだな。)
手前の器には研磨剤が入っていて、穴に箸(らしき棒)で入れます。
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これは資料館の人形です。左手で石を押えて、右手で棒を上下させます。
その土台を見ると、丸太で、穴が開けてあるのが分かります。
なるほど、こうしたら勾玉が動かないので効率よく穴が開けられます。
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石に穴を開けたらいよいよ成形と研磨。
これが砥石です。磨かれて筋が出来ていますね。
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これも砥石ですが、側面を磨いたためにハート型のカーブの溝が出来ています。
こうして全体が磨き込まれました。
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見事ですね!深い色に光沢があります。
右下の分なんか穴開けの最初が失敗してますよ。(つなげば見えないさ。)
やっぱりかなり難しいんだ。
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これは青森県の丹後平21号墳から出土した勾玉群です。
すごいですね!赤色がきれいだし、緑も白も極上。
手にした時の質感が、想像するだけでも、ずっしりとした重みとして伝わって来ます。

7世紀後半という事は、天智天皇の時代ですね。
倭国が新羅と戦っている時代です。
青森にはすごい大王がいたんですね!(もう大王とは呼べない時代か…。)
全国の支配階級の人たちがこの出雲の勾玉を愛した証に、
筑紫でもやはり出雲製の勾玉が出土していますよ。(伊都国歴史資料館)

この石の産地はすぐ上流にありました。
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花仙山です。約200mの山で、勾玉の赤や緑の石が採れます。
産地と工房がそばにあるんですね。7世紀から10世紀の製鉄所跡もありました。
出雲には鉄の文化があるから、キリや箸など良い道具が作れた訳です。

勾玉製作を支える背景が探れる興味深い地域です。
今でも、この地では勾玉が作られて、毎年皇室に納めているそうです。
玉作湯神社は有名なパワースポットですが、古代史を楽しむのにも魅力的な神社です。

松江市立 出雲玉作(たまつくり)資料館
http://www.town.tamayu.shimane.jp/shiryoukan/index.html


地図 花仙山 出雲玉作資料館

地元の方、お勧めコースを教えて下さいね!
また、製鉄所は意外と新しいのしか出ていないのですね。
出雲全体ではもっと古いのが出ているのではないでしょうか。




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by lunabura | 2011-03-20 14:42 | 出土物 | Comments(8)

夜臼・三代遺跡群・石のビーズの作り方


夜臼・三代遺跡群
ゆうす・みしろ
石のビーズの作り方
福岡県新宮町立歴史資料館

各地の資料館に行くと、滑石で作った灰色のビーズを見かけます。
丸玉や管玉があり、その穴をどうやって開けたのかが謎でした。

ビースでネックレスを作った事のある人は分かるでしょうけど、
手芸品店で買ったビーズ穴に針を通すだけでも、ひと手間がかかります。

ガラスビーズの作り方は福岡市埋蔵文化センターで解決しました。
針金に粘土を巻き、ガラスを巻きつけるという方法です。
那の国ではガラス製品を作っていたし、インドから伝わったりもしていました。

でも、石のビーズ玉の穴はこうはいかないのです。
考古学関係の本を見ると、石をビーズ型に研磨した後、
最後に穴を開けるように書いてありました。
そんなあ…。あんなに小さな石は後からは決して開けられない。
いったい3ミリの小石をどうやって固定するのだ…。
という、人様にはどうでもいい不満が新宮町の歴史資料館で解決!
やっぱり、先だよね。穴を開けるのは。

さあ、あの有名な夜臼の遺跡群では土器以外の工房がありました。
その石の工房で発見された未完成品を並べるとこうなりました。

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左から順に見て行きましょう。
1.まずは原石の滑石です。剥離が簡単そうな石ですね。
2.それがさらに小さく割られました。
3.固い石でこすって研磨して、フラットな石になりました。

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4.それに筋をいれて板チョコのように準備しておきます。

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5.その格子の中央に穴を開けます。さらに薄くして、チョコを折るように切り離します。

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6.砥石にかけて周囲を丸くします。
(最後の最後まで本当に削れるのかな…。つまめない。何らかの工夫がもう一段階要りそうですね。)

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7.そして完成。こんなに豪華なネックレスが出来ました。
ペンダントヘッドまで考案してますよ。イアリングにしたのかもね。
左上にある勾玉はまだ穴が開いていません。
この大きさだったら、あとから開けられるんですね。
(この前、人丸古墳の滑石の臼玉を載せてないけど、こんなのだったのかな。)

さて、夜臼と言えば土器が有名です。
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これが、教科書に載っている「夜臼式土器」です。
この形、板付遺跡にもありましたね!注ぐ時に水がこぼれないようなデザインです。

縄文から弥生にかけて、この新宮町の丘陵地帯では、かなり豊かな暮らしをしていたのが分かりました。
朝鮮半島からの技術もバンバン入って来ていました。ここは那の国の一部です。

地図 新宮町立歴史資料館(シーオーレ新宮 4階)


朝鮮通信使の研究をしている方はここに資料がありますよ。

ガラスビーズの作り方 ⇒「伊都国」三雲・井原遺跡でビーズが計1万個以上出土。
                 黄色や紫は日本では作れなかった。

夜臼式土器の出土⇒ 板付遺跡(1)弥生館 弥生人の足あと・縄文水田もあったって




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by lunabura | 2011-03-11 10:38 | 出土物 | Comments(0)

東大寺で出土した剣に陰剣・陽剣の刻印を発見・正倉院から移したものだった

ニュースより
東大寺で出土した剣に
陰剣・陽剣の刻印を発見


正倉院から取り下げて大仏の膝元に埋納されていたことが判明


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(写真は頼光和弘氏ー一部変更)

25日、東大寺の「陰陽の二振りの剣」についてテレビ報道がありました。
今回発表された二振りの剣は、大仏の膝辺りの土の中から、
明治時代にすでに発見されていたものです。
最近、改めてX線撮影された結果、「陰剣」「陽剣」という文字が
彫られていたのがくっきりと映し出されました。
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(元興寺文化財研究所提供)

調査の結果、その陰陽の剣はいったん正倉院に奉納されながら、
「徐物」となって持ち出された剣だという点が明らかになりました。
1250年前の話です。
その詳細の記事を、書き写します。

明治時代に東大寺大仏足元で出土
幻の宝剣と判明
正倉院から1250年間不明
 


聖武天皇が建立した東大寺(奈良)の大仏足元から明治時代に出土した国宝の「金銀荘太刀」(きんぎんそうのたち)二本が、約1250年間にわたり行方不明だった宝剣「陽宝剣」(ようのほうけん)「陰宝剣」(いんのほうけん)とエックス線調査で分かり、同寺と調査した元興寺文化財研究所(奈良)が25日発表した。

光明皇后が天皇の遺品として東大寺に献納後、正倉院から取り出し、埋納したとみられるが、理由は不明。皇后からの献納品目録「国家珍宝帳」の武器リスト筆頭に記した貴重な宝剣で、正倉院研究の上でも画期的史料といえる。

東大寺と正倉院事務所によると、六百数十点の献納物を記載した国家珍宝帳には、今回の宝剣を含め「徐物」(じょもつ)の付箋(ふせん)を張って、リストから外した宝物が7件あるが、所在が判明したのは初めて。

「陽宝剣」と「陰宝剣」は鉄製で、長さはいずれも1メートル弱。さやは木製の漆塗りで金銀の金具で装飾されている。

明治末期、作業用の柱を立てるために大仏の台座そばに穴を掘った際、右ひざ近くから出土。同時期に見つかった別の太刀、銀製のつぼ、水晶合子(ごうす)などとともに「東大寺金堂鎮壇具」(ちんだんぐ)そして1930年に国宝指定された。

これまで奈良国立博物館が預かっていたが、保存修理に備えて、元興寺研究所がエックス線写真を撮影し、刀身の柄に近い部分に象眼の「陽剱」「陰剱」の銘文を発見した。 
                    (2010年10月26日 西日本新聞) 
 
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これが正倉院の「国家珍宝帳」です。
光明皇后が亡き聖武天皇の遺品を納めたリストです。
太刀を百振りも納めていたのが分かります。
そして話題の「陽宝剣と陰宝剣」が筆頭です。最高の太刀です。
寸法や細工のようすが書かれています。紫、黒紫、紅という字も見えます。
その上に「除物」と紙が張り付けてあって、取り下げられた事が分かります。

756年に聖武天皇の四十九日の法要があって、
その時に献納した太刀と特徴が一致しているそうです。
光明皇后が遺品をこうして納めたのですね。
東大寺こそ夫の聖武天皇が建立したものだから、
そこに最高のものをと選んだ気持ちが伺えます。

正倉院内の御物は鉄の刀でも今なお錆びないで光っています。
しかし、この宝剣は土の中に埋められたので錆びています。
それでも、他の鉄の出土物から見ると、ずいぶん良好な保存状態で、
細工のようすもよく伺えます。
これをじっくりと見ると、やっぱり細工がすごい。

宝剣と同時期に見つかったのが、別の宝剣と銀製のつぼ、
水晶の合子(ごうす・ごうし 蓋付きの器。)
(クリスタルの小さな入れ物なんて、すごいなあ。)
具体的な埋納状況が知りたいですね。

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東大寺大仏
(この右ひざの下あたりで出土)

光明皇后が取り戻した7点のうちの他の2点については、この夏、
NHKテレビ番組で「天皇の愛用の品を取り戻していた」という内容で
放送があっていました。
あいにく、具体的な品物の名は忘れたのですが、
亡き天皇をしのぶ皇后の思いを初めて知りました。
だから、今回の太刀を知って、あれこれと想像しています。
再放送がないかなあ。



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by lunabura | 2010-10-28 21:56 | 出土物 | Comments(4)

「伊都国」三雲・井原遺跡でビーズが計1万個以上出土・黄色や紫は輸入品


「伊都国」三雲・井原遺跡
いとこく みくも・いはら遺跡
ビーズが計1万個以上出土
黄色や紫は日本では作れなかった


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西日本新聞に「伊都国(いとこく)」で出土したビーズについての記事が載っていました。
分析の結果、黄色と紫はアジアやアフリカなどに分布するガラスだった事が判明しました。
次はその記事です。

古代「伊都国」の王都があったとされる福岡県糸島市の三雲・井原遺跡(みくも・いわら)で出土したガラス小玉(弥生時代後期)に、国内では極めて珍しい黄色紫色の小玉が含まれていたことが4日、分かった。

 同市教委によると、ガラス小玉は黄色が2004年度、紫色が06年度の発掘調査で見つかった。その後成分分析で、当時の国内では着色できない色であることが確認された。

 黄色は直径約5ミリで、甕棺(かめかん)の中から青、緑色のガラス玉と一緒に4個が出土した。
紫色は二つの木棺からそれぞれ中国製の銅鏡とともに発見された。直径1ミリの小玉が計185個で、いずれも穴があり、ひもを通して首飾りなどに使ったとみられる。

 福岡市埋蔵文化財センターと奈良文化財研究所(奈良市)の分析によると、黄色は西アジアから北アフリカ、欧州に分布するソーダ石灰ガラス、紫色はカリウムを多く含むインドから東アジアにかけて分布していることが分かった。分析結果は今年6月日本文化財科学会に報告された。

 糸島市教委文化課の江崎靖隆主任は「一緒に出土した中国製の銅鏡などと大陸から入ってきたとみられる。伊都国が大陸と交流する中心地だったことを示している」と話している。 (西日本新聞 2010年9月5日)

伊都国の魅力とは
伊都国の「三雲・井原遺跡」というのは、ブログで紹介した「平原遺跡」のお隣さんです。
伊都国は弥生時代の有名なクニです。

「魏志倭人伝」という中国の本に日本の事が書いてあって、
卑弥呼邪馬台国が出て来ます。
朝鮮半島から邪馬台国に至るルート上のクニの名がどんどん出てくるのですが、
この伊都国は誰が見ても異論がない場所です。
しかも、隣の平原遺跡なんかは卑弥呼と同じ時代なので、
そこが邪馬台国だと勘違いする人もいるほどです。

この「伊都国」に「一大率」(いちだいそつ)というのが置かれて、
魏の国から来た役人はここに滞在して、倭人から諸国の情報を聞いています。
ですから、ここから先の邪馬台国までの道筋が曖昧に書かれているので、
よく分からなくて論争になっています。
(しかも、この情報には少し嘘がある事が明らかになっていて、
うのみにしてはいけないんです。)

ではこのビーズが出た「三雲・井原遺跡」はどんな所かというと、
弥生時代と古墳時代の遺跡が沢山出ていて、
国王夫妻と思われる遺跡も見つかっています。
紀元前からの代々の王墓がある所なのです。
この国王たちの特徴はとにかく銅鏡が大好き
国王と思われる甕棺一つから35面も見つかっています。
隣の平原遺跡なんかはその鏡の巨大さが他に例をみないほどです。(直径46,5センチ)

そう言う点では、伊都国のある糸島市は弥生時代あるいは
邪馬台国時代の香りがぷんぷんする所です。
中国や朝鮮へは一番短距離の場所で、ここを通って多くの人や船が行き交いました。
と言う事は、中国などから来た宝玉や武器も
めぼしいものはここの役人が目を通したと思われます。
ですからその甕棺の中身は当時の最高の品が
入っているんじゃないかと想像したりしています。

さて、そんな「三雲・井原遺跡」から出て来た沢山のビーズ。
話題になっているのは、黄色と紫色のガラスの着色が日本では出来ないという点です。
さすがに平成の考古学者が科学分析という手段で調べてくれました。
その結果、黄色はおよそエジプトを中心とするエリア、
紫はインドのエリアのものと判明しました。

銅鏡が中国から来ているので、王の夫人を喜ばせるために、
ビースのネックレスや髪飾りが一緒にもたらされるのは
そう驚く事ではないと思いましたが、
そのネックレスが棺ごとに3000個とか7500個単位でまとまっていたというのが
朝日新聞で分かり、かなり驚きました。
ほとんどが青色系のビースで、その中に黄色や紫が入っていたという事です。
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(福岡市埋蔵文化財センター所蔵)
この青色は福岡県の各地で見られる色です。
こんな青色が1万個ある中に黄色や紫が出土したのでしょうか。
デザインが知りたいですね。

ビーズの作り方はどうやるの?
さてさて、素人からすると、ビーズの直径が1ミリとは
いったいどうやって作ったのという疑問の方が大きいのですが…。
手芸店で買う極小ビーズだって2ミリはあります。
すると古代の神の導きか、その日の午後、避暑をかねて、
ふらりと福岡市埋蔵物文化センターに出かけて見つけました。
おおっ!あった、あった。
そこで、見つけたのは、ビーズの作り方のイラストでした。
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これは12世紀の博多のガラス工房の説明の所にあります。
なるほど、針金に粘土を巻き付けて、溶けたガラスを巻き付けている。
それから、任意にカットしていく。
それを水に落として行けば、丸くなる。(ここだけはTVで見た)
冒頭の黄色のビーズ(5ミリ)の穴を見直すとよく分かります。
でも、1ミリとなると、よほどの技術力と思われます。


さて、この出土した1万個のビースが今、日本を巡回している!?

センターから持ち帰ったチラシを見て、あっ「三雲・井原遺跡」が載ってる。
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『発掘された日本列島2010』
主催:文化庁
日本全国の中で特に注目される20遺跡約450点の出土品が展示されます。
縄文時代 黒浜貝塚、観音寺本馬遺跡、大森勝山遺跡(ストーンサークル)
弥生時代 唐古・鍵遺跡、須玖遺跡・三雲井原遺跡(1万個のガラス玉)
古墳時代 槇向遺跡、桜井茶臼山古墳、赤土山古墳、池田古墳

などなど、考古学ファン垂涎の出土物が一堂に見られるんですね!

多賀城市埋蔵文化財調査センター 9月14日~10月11日
大分県立歴史博物館  10月22日~11月19日
香川県立ミュージアム 11月27日~12月23日
大阪歴史博物館 2011年1月12日~2月28日

チラシのほんの一部を写しました。詳細は各博物館に問い合わせてください。

地図  三雲・井原遺跡 平原遺跡

右上地図アイコンで地名図が出ます。



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by lunabura | 2010-09-10 18:55 | 出土物 | Comments(4)

三環鈴ー天河神社の「五十鈴」が伽耶でも出土していた


三環鈴
天河神社の「五十鈴」が伽耶でも出土していた


『伽耶文化展』の第3弾。今日のテーマは「三環鈴」です。

c0222861_1351635.jpgこれが三環鈴です。リングに三つの鈴が付いています。韓国咸陽郡の上栢里(じょうはくり)から出土。(最大幅6.0㎝ 厚さ2.8㎝ 三国時代 5世紀 東亜大博物館)
馬具の飾りに分類されていました。
咸陽って中国だけかと思っていましたが、伽耶にも咸陽があるんですね。
(写真は実物より大きくなっています)







c0222861_13515314.jpgさて、これを見た時、「あれ、天河神社の五十鈴だ。」と思いました。三環鈴は天河神社では「五十鈴(いすず)」という名で御本尊となっています。これがその写真です。青銅製です。大きさは手のひら大。(下の写真を参考に)










天河神社とは
正式名称は「大峰本宮天河弁財天女社」ですが、普通は「天河神社」と言います。
紀伊半島の中央部・奈良県吉野郡天川村にあります。
修験道の重要拠点で、今でも護摩焚きなどがあっています。
この御祭神は市杵島姫。(宗像大社の女神ですね。)
それが密教を通して弁財天となりました。この二神はよく同一化されています。
この弁財天が芸能の仏さまという事で芸能人やミュージシャンがはるばると天河神社に訪れます。
その神社の御本尊の三環鈴は実際に音が出ます。
天河神社のHPには、天照大御神の天の岩戸隠れの時に、岩戸の前で振られたものとも書いてあります。

どうやったらよく音が出る?
三環鈴は考古学的には馬鈴として分類されていますが、少し疑問が残ります。
これはぶら下げるようには出来ていないのです。
普通の馬齢は紐通しが必ずついています。
私は天河神社の五十鈴のお守りを持っているのですが、
ぶら下げてジャンプしても肌に当たった時、音が消えてしまいます。
(馬のようには走れないから?ではないと思う)
つまんで振れば音が出ますが、それでは三つの形が活かせません。
音を上手く鳴らすには、棒に挿して両脇を固定する方がよさそうです。
なんとなく巫女さんの振る鈴っぽい形になります。


三環鈴の日本での出土例を探す
そこで、三環鈴をネットで調べてみました。ちょっと数えただけでも16例ありました。
どの三環鈴も馬具と共に出土しています。
馬鈴と解釈するのが一番多かったです。
しかし、ルナ的には今だに「はいそうですか」とは言えない気分が残ります。
(と、リングの中央をしげしげと見る)

サイズの変化が気になった。
ネットではサイズまでは書いてあるものが少なく、三つほど書いてあったので小さい順から並べます。
●中央のリング3,8㎝、鈴の直径2,7㎝(佐賀・花納丸古墳・6世紀)
●長さ13㎝、厚さ5,3㎝、鈴の直径5,5㎝(静岡・山ヶ谷古墳・6世紀)
●高さ6,3㎝。(ボストンにある伝仁徳稜)

伽耶では長さ6㎝厚さ2,8㎝だったのが、倍以上に大きくなっていきます。
まるで銅鐸のようですね。
イメージの助けに、CDの直径を測ると12㎝でした。
初期の三環鈴はその半径の大きさです。
面白い事にCDぐらいの大きさになると、手で持って振りやすくなります。
実際、天河神社ではそのレプリカを手に持って振られます。
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日本では神器へと昇華していった
三環鈴は古墳からの出土がほとんどですが、珍しい例として、
神社に奉納されたものがありました。
福岡県北九州市の岡田神社。神武天皇の神社です。
藤原の純友の乱を鎮圧した小野好古が奉納したと伝えられています。
三環鈴が神器のように、特別なものになったのが分かります。


この三角形という形が、三つ巴という神道思想に合致する形だったので、
倭人に特に好まれて、手のひらサイズに大きくなって、
神を呼ぶ時に鳴らされる祭祀の神器となっていったと思われます。
天河神社では鎮魂(魂を丹田に鎮める)に使われるそうです。


三種の神器の玉・鏡・剣の三点セットのようには注目されていないので
見落とす事が多いのでしょうが、
ワカタケルの刻印がある有名な鉄剣が熊本と埼玉にありますが、
これには両方とも三環鈴が一緒に出土しています。
三環鈴は王位の象徴のアイテムとしても検討してもいいのではないかと思いました。

参考文献
『天河』 監修 柿坂神酒之祐 扶桑社
『伽耶文化展』 編集―東京国立博物館 発行―朝日新聞社 1992年
写真はこの二冊から転載しました。

ちなみに、不思議な天河神社参拝記は別項でいつか書こうかなと思っています。





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by lunabura | 2010-08-30 14:11 | 出土物 | Comments(8)

謎の蛇行鉄器 高句麗―伽耶―倭をつなぐもの


謎の蛇行鉄器
高句麗―伽耶―倭をつなぐもの


宮地嶽古墳の記事を見た方からの情報で、
福津市中央公民館のロビーにすごいのがあると聞いて出かけました。

公民館は宮地嶽の真下にありました。
その二階ロビーに手光(てびか)古墳群などの出土品が展示してあります。
そして、いきなり、どぎもを抜くこの不思議な物体。
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そのU字の部分を見て、第一印象は、
何となく馬の背中につけたらよさそうだな、というものでした。
すると、説明文にその使用例の壁画の写真がありました。
それが、な、なんと高句麗の壁画
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カラー写真が退色していて分かりにくいのですが、
赤い丸の中にその鉄器が描いてあります。
そのくねくねとした先には旗が付いています。まぎれもなく、これだ!
(「平安南道双楹塚(そうえいづか)壁画 『朝鮮古蹟図譜2』」)

横に説明文がありました。
蛇行鉄器は平均的な長さは80㎝前後のその名のとおり屈曲した鉄棒である。
高句麗壁画古墳に描かれた絵から、鞍の後に取り付け、
旗などの飾りをつける旗竿説や日傘説などがあるが、用途ははっきりしない。
出土例は極めて少なく、国内で9例、朝鮮半島を含めても25例にも満たない。
手光古墳群(現光陽台)南支群2号墳出土

そこで角度を変えて旗を立てる穴を撮りました。
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四つの穴が精巧に作ってあります。明らかに鉄製で、サビがふいています。
四つも旗竿を付けられるように、そしてそれが絡み合わないように、
微妙な角度で外に向いています。

この不思議な形の鉄器が高句麗に由来する?なんだかすごい。

「太王四神紀」
高句麗という国と時代を理解するのに、
NHKの韓国ドラマ「太王四神紀」が大変参考になりました。
とにかく、毎週毎週、画面の中を騎馬軍団が駆け回っていました。
それは、日本の歴史ドラマでは見られない光景でした。

パソン姉さんという人が登場します。
北方朝鮮から流れて来たパソン姉さんは、鉄器造りの名人。
彼女の作る鉄の硬度が二種類あって、
固い方をついに広開土王(ぺ・ヨンジュン)に渡します。
鉄と馬。これこそが高句麗が拡大できた大きな要因でした。

また馬を巨大な船に乗せて運んでいました。
これはさすがにホンマかいなと信じられなかったのですが、
やはり事実としてこんな軍事作戦があったから、
ドラマになったのだと信じる事にしました。
本当だとしたら、何十頭も簡単に移送出来た…。

実は、衣装や建物などの時代考証は厳密でなかったらしいのですが、
ディレクターは「誰も高句麗を生で見ていない」との弁でした。
ですから、衣装などはかなり引き算をして見ました。
それでも、思ったのは、やはり韓国の人たちは
馬に乗っていた記憶を強烈に覚えている。

このドラマのお蔭で高句麗のイメージが出来て、国の名前が頭の中に入りました。
朝鮮半島は国の興亡が激しくて、覚えられません。(;一_一)

伽耶と福津を結ぶ蛇行鉄器

さて、話を蛇行鉄器に戻しましょう。
「伽耶文化展」の図録を見ていると、韓国でも同じようなものが出土していました。
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上が慶尚南道・玉田(ぎょくでん)古墳出土。5~6世紀。(伽耶
下左が宗像市 大井三倉5号墳。6世紀。
下右が福津市 手光南2号墳。6世紀。
この蛇行鉄器から言えるのは、
この手光古墳群は伽耶と深い関わりがあったという事です。
そして、それは高句麗へと通じていました。

ちなみに、「伽耶」は日本書紀では「任那」と書かれています。

この古墳の被葬者は、この旗印を鞍につけて、倭の野山を駆け巡ったのでしょうか。

はたしてこの蛇行鉄器は国産か舶来か?
「がめて来たんやろうね。」とは、この辺りに詳しいある方の弁。
これは博多弁で、通訳すると(奪って来たんだろうね。)という意味です。
いや、任那が倭だった時代なら、奉納されたのかも、なんて、言えませんでした。

(参考図書『伽耶文化展』 編集―東京国立博物館 発行―朝日新聞社 1992年)
なお、この本は展覧会の図録らしく、どうやら市販されていないようです。
図書館にリクエストすると手に入る可能性があります。



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by lunabura | 2010-08-25 20:11 | 出土物 | Comments(6)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25