人気ブログランキング |
ブログトップ

ひもろぎ逍遥

カテゴリ:磐井の末裔たち( 17 )

ひと休み




日本書紀、磐井の乱の少し前から読み始めてまだ2~30年分ほどでしょうか。

5~6回で読み終えると思っていたのに、16回書いて、まだまだ半分にも至っていません。
朝鮮半島の話が延々と続きます。
想定外でした。

ここらでちょっと休みましょ。

中途半端になる可能性があるのですが、
ま、ただのブログですし。


楽しく過ごす事が一番大切ですし。




20190224




c0222861_15184581.gif

by lunabura | 2019-02-24 21:54 | 磐井の末裔たち | Comments(0)

16.聖明王の仏像献上と救援軍の依頼「磐井、葛子、勝村、勝頼の時代」 



磐井、葛子、勝村、勝頼の時代  16 

聖明王の仏像献上と救援軍の依頼


欽明12年(551百済の聖明王新羅と組んで、任那と共に高麗を攻めた。漢城を得、兵を進めて平城を討ち、六郡を取り戻した。
(百済が新羅といつの間にか同盟を結んでいるが、その事情は書かれていない)


翌年、欽明13年(552)に百済、加羅、安羅などから我が国に使者が来て、
「高麗と新羅が内通して、倭国の臣である我が百済と任那を滅ぼそうとしています。

救援軍を送っていただければ攻めることができます。兵の多少は天皇の勅にお任せします」

と奏上した。
(今度は新羅は高句麗に寝返って百済を攻めるという)



天皇は
「百済王、安羅王、加羅王、日本府の臣たちとそれぞれ使者が来ているので状況は分かっている。

任那と共に、心と力を一つにすべし。

そうすればかならず天の福を授かり、かしこき天皇の威力に頼ることができる」と答えた。

(何故か天皇が自分の事を「かしこき天皇」と称しているのは、史料が百済のもので、うっかり百済人の立場で書いたからと考えられる)


10月に聖明王は我が国に仏像や経典を献上してきた。
その功徳を述べ、仏陀が「我が法は東に伝わるであろう」という予言を果たすために贈ると申し上げた。

天皇は喜んだが、その受け入れを自ら決定することは避け、群臣を集めて「敬うべきか否か」と問われた。

蘇我大臣稲目宿禰
「西の国々がみな敬っているのだから、日本だけが背くわけにはいきますまい」と言った。

物部大連御輿中臣連鎌子
「我が国が天の下の王たる国であるのは、天神地祇百八十神を春夏秋冬にお祀りしているからであります。

それなのに他の国の神を拝んだら国つ神の怒りをこうむることになります」
と申し上げた。
(ここに出てくる中臣鎌子は藤原鎌足ではない)


天皇は「ならば稲目宿禰に授けて試みに拝ませよう」
と言われた。

大臣が家に持ち帰って安置して修行をしたが、この時疫病が流行ったため、物部御輿と中臣鎌子の奏上によって、仏像廃棄となった。寺に火をつけると延焼して大殿が被災した。


欽明14年(553)百済は再び援軍を求めてきた。

6月に内臣を百済に派遣した。この時、馬二頭、船二艘、武器などを贈った。

さらに日本に仕えていた医博士、易博士、暦博士の交代を命じ、卜書、暦本、薬を送るように百済に求めた。
(内臣の名を欠いているが、阿倍内臣鳥のことかと推測されている)


8月、百済は使者を送ってきた。
「百済と任那がしきりに日本に行くのを知って、新羅と高句麗は自分達を攻めようとしているのだろうと考え、日本の軍隊が着く前に安羅を討ち取って、日本の進路を断とうとしています。

ですから、前軍と後軍と続けて救援軍を送っていただいて、秋には官家(任那)を固めましょう。任那や百済での駐屯の服や兵糧は百済が負担します」
と言った。

また別件で的臣(いくはのおみ)が任那で善政を敷いていたが、亡くなってしまったので、次の最高官を送るようにと依頼した。また弓馬の不足を訴え、贈与を求めた。
(的臣は浮羽だろうが、ここも名を欠いている)



20190221




このシリーズのコピペ厳禁。

c0222861_21354485.jpg


c0222861_2035157.jpg





c0222861_15184581.gif

by lunabura | 2019-02-21 17:05 | 磐井の末裔たち | Comments(0)

15. 高句麗が侵攻してきた「磐井、葛子、勝村、勝頼の時代」  


磐井、葛子、勝村、勝頼の時代  15 

高句麗が侵攻してきた


前回すっ飛ばした部分に少し戻りながら、ポイントを押さえていきたい。


欽明5年(544)百済は丈六の仏像を造ったが、願文には
天皇が勝善徳を得、その治める官家(任那)の国々共に福があるように。また一切衆生が解脱するように」
と書かれたと日本書紀は記している。


欽明6年と7年に起きた高句麗の大乱は王の死後の跡目相続の内乱だった。


しかし、欽明8年には百済は日本に救援軍を頼んでいる。

何処と戦うのか書かれていないが、文脈からは高句麗と戦うためと解釈されている。


欽明7年(546)
に日本に来ていた百済の使者が帰国するとき、良馬70頭、船10艘を贈った。

欽明9年(548)の正月に百済の使者が帰国するとき、天皇は大軍の派遣を約束した。

4月にやって来た百済の使者は

「百済救援軍の派遣を伝えた所、大いに喜ばれました。
しかし、高麗と戦った時に捕まえた高麗人を尋問したところ、
安羅国と日本府が高麗の使者を招き入れて、百済を討つようにと言われた』
と言うので、二国を再三呼び寄せたが応じませんでした。
ゆえに救援軍をまだ召還しないで百済に留めて置いてください」
と申し上げた。(高麗=高句麗)

(これは安羅国と日本府の中に反百済派の官人がいて、百済滅亡を図っているということだ。)

これに対して天皇は
「日本府と安羅が百済を助けようとしないのは不本意である。この二国が高麗に密使を送った話は信じてはならない。任那と力を合わせて高句麗の侵略を防ぐように」
という旨の話をした。

この後、百済が高句麗に敗れた話を聞いて、10月に日本から370人を派遣して得爾辛城(とくにし)を築かせた。

欽明10年(549)6月、百済の使者が帰国するとき、天皇は
「日本府の反百済官人のエナシとマツが高麗に密通したことは朕が虚実を明らかにする。また派遣した救援軍は希望に沿うようにそちらに留めておく」
と言われた。

欽明11年(550)2月、天皇は百済に使者を送った。百済の状況は常に把握していることを説明し、
「もし国家が安泰で永く官家となって天皇に仕えようと思うならば、奈率馬武(めむ)を大使として朝廷に派遣するように。北の敵は強暴である。ゆえに矢を三十具与える。防御されたし。」
という内容を伝えた。一具は五十本。


4月、百済に滞在していた日本の王人が帰国するとき、聖明王は
「任那の件については勅命を固く守る。(高句麗に内通したという)エナシ、マツの事は尋問されても、されなくても、御意のままに」
と言って、高句麗の奴を六人献上し、別に王人には一人を贈った。

欽明12年(551)麦の種を一千石、百済に与えた。


20190219



※このシリーズのコピペを厳禁する。



c0222861_21354485.jpg


c0222861_2035157.jpg



c0222861_15184581.gif

by lunabura | 2019-02-19 20:01 | 磐井の末裔たち | Comments(0)

14.半島の事ばかり書いているので、あきれて飛ばし読み「磐井、葛子、勝村、勝頼の時代 」 



磐井、葛子、勝村、勝頼の時代  14 

半島の事ばかり書いているので、あきれて飛ばし読み




日本書紀の欽明紀を読んでいるが、ページをめくってもめくっても百済の聖明王のセリフが続く。あまりのページの多さに参ってしまう。




c0222861_205326.jpg

スベクヒャンの人間関係図だが、右端のミョンノンという人物が聖明王となる。

骨子は、聖明王は日本の天皇の「任那を復興せよ」という言葉を何度も諸国に伝えるが、肝心の任那や日本府は新羅に内通するようすがあり、一向に進展しないというものだ。


百済は港を日本から無償譲渡されたからだろう、日本の天皇の勅命を遂行しようという立場が強調されているが、小さな国々の立場は複雑で、これを読解するのにはかなりの時間を要する。

ほどほどにしておこう。

途中、
欽明5年(545)には高麗が大いに乱れて殺される者が多い。
欽明6年(546)高麗大いに乱れて、戦死者2000人余り。
という文が出てくる。


解説を読むと
「この後、高句麗についての記述が多い。欽明9年に高句麗が百済を攻め、百済は日本に救援を求めるとともに新羅と連合して高句麗領内に攻め入り、12年には旧領六郡を回復した。」
とある。



日本書紀なのに百済の話が延々と続くのは、百済人もまた編纂に関与しているのだろう。

百済はこの前後、何度も使者を日本に送っている。
が、これも省略しよう。

今日は十数ページ、ぶっ飛ばした。

先はまだまだ南朝鮮半島の話なので、また読むのは明日にしよう。
(細かすぎてストーリーが掴めない)

20190218





c0222861_21354485.jpg


c0222861_2035157.jpg



c0222861_15184581.gif

by lunabura | 2019-02-18 20:15 | 磐井の末裔たち | Comments(0)

13.任那復興会議「磐井、葛子、勝村、勝頼の時代 」 




磐井、葛子、勝村、勝頼の時代  13 

任那復興会議



c0222861_174225.jpg



日本の天皇は欽明、百済の王は聖明王、そして倭国は葛子の時代となっていた。

朝鮮半島の南では新羅が領土を広げようとして、任那は不安定になっていた。
(日本書紀を読んでいるのだが、いつまでも朝鮮半島の話が続く…)
少し簡略化していこう。


欽明2年(541年)4月、安羅、加羅、卒麻(そちま)、散半奚(さんはんげ)、多羅、斯二岐(しにき)、子他(した)の旱岐(かんき・身分のこと)ら、及び任那日本府の吉備臣らが百済に集まって、日本の天皇からの詔書を承った。


百済の聖明王は任那の旱岐らに語った。
「日本の天皇がおっしゃるには、任那を復興せよということだ。どんな策があるか、おのおの述べてほしい」
皆は百済王の意見に従う旨を述べた。

聖明王の案は、任那の国境まで新羅を召して和平交渉をしよう、そして各国から共に日本に使者を出して、天皇の意見を聴こうというものだった。

もし、使者が戻る前に新羅が任那に侵入したら、百済が軍を出そう。
と付け加えた。

すでにトクコトン、南加羅、卓淳(とくじゅん)は敗れてしまっているが、みんなで力を合わせて新羅に対抗し、天皇の霊威に頼れば任那は必ず復興できる」
と聖明王は言った。贈り物をもらうと皆喜んで帰国した。


7月安羅の日本府(吉備臣?)が新羅と通じようとするのを聞いて、百済は使者を送り、任那復興を説得した。

次に安羅日本府の河内直が新羅と通じたため責め、任那を復興させて、日本に仕えるように説得した。


同じ7月に、百済派紀臣奈率ミマサらを日本に派遣して下韓、任那の状況を説明した。


20190217





c0222861_21354485.jpg


c0222861_2035157.jpg




c0222861_15184581.gif

by lunabura | 2019-02-17 21:07 | 磐井の末裔たち | Comments(0)

12.大伴狭手彦の任那派遣 金村失脚「磐井、葛子、勝村、勝頼の時代」

 


磐井、葛子、勝村、勝頼の時代  12

大伴狭手彦の任那派遣 金村失脚




c0222861_174225.jpg



継体天皇物部麁鹿火も死んでしまった。一人生き残っていたのが大伴金村だった。

537年2月。新羅が任那に侵攻したため、宣化天皇は大伴金村大連に命じ、その子の(いわ)と狭手彦(さでひこ)を任那に派遣した。


大伴磐は渡韓せず、筑紫に留まってその国の政を執って三韓に備えた。

大伴狭手彦は海を渡り、任那を平定して百済を救った。


宣化4年(539年)に宣化天皇は崩御した。73歳だった。



続けて欽明天皇が即位したが、これもまた継体天皇の子だった。

この時も大連に任命されたのは大伴金村で、また麁鹿火に代わって物部尾輿、大臣は蘇我稲目が任命された。


欽明元年(540?)2月に百済人・コチブが帰化したので添上郡に住まわせた。


8月に高麗、百済、新羅、任那が朝貢してきた。
また秦人、漢人ら帰化した者を召し抱え、各地に住まわせ、戸籍に載せた。秦人は7053戸。

9月、難波祝津宮に大伴大連金村、許勢臣稲持、物部大連尾輿らを連れて天皇の行幸があった。

天皇は諸臣に新羅討伐の相談をした。

物部尾輿らが
「少々の軍勢ではたやすくは討てませぬ。昔、継体6年に百済が任那の四県の割譲を望んだ時に、大伴大連金村殿がたやすく許可されたので、新羅は我が国を恨むようになって久しいのです。軽々しくは討てませぬ」
と申し上げた。

金村は病気を理由に住吉の屋敷に蟄居して朝廷に出仕しなくなった。いわゆる失脚だ。

欽明天皇は青海夫人勾子(あをみのおほとじまがりこ)を遣わして丁寧に慰問した。

金村は恐れ入って、
「私が心を傷めるのは他でもなく、諸臣が私が任那を滅ぼしたと責めるためです。ゆえに恐れ入って出仕しないのです」と申し上げた。

これを聞いて天皇は「長く忠誠心を持って仕えたのだ。人の噂は気にするでない」と言われ、特にお咎めは無かった。

20190216


c0222861_21354485.jpg


c0222861_2035157.jpg







c0222861_15184581.gif

by lunabura | 2019-02-16 21:25 | 磐井の末裔たち | Comments(0)

11.継体天皇の崩御と物部麁鹿火の薨去「磐井、葛子、勝村、勝頼の時代 」 



磐井、葛子、勝村、勝頼の時代  

11 継体天皇の崩御と物部麁鹿火の薨去


毛野臣が召還された翌年、531年に継体天皇は崩御した。82歳だった。

ただ、これも百済本紀からの引用だと日本書紀は記す。

この年に天皇と太子と皇子が共に死んだ話が根拠だ。
誰が死んだのか、該当者は本質的には分かっていない。

しかも、次の安閑天皇の記録では崩御年が二年ずれている。
ほかに534年説も紹介していて、日本書紀は混乱している。

これに加えて、古事記では継体天皇は527年に43歳で崩御したと記している。
これでは磐井の乱が始まる前に継体天皇が先に死んでいたことになる。

日本書紀と古事記にはこれほどの差があるため、論じることは不可能なのが実態だ。

継体天皇の崩御が531年でなかったら、この続きの西暦はすべて違っていることになる。

だから、目安としての西暦ということにしよう。
細かい所は目をつぶり、大伴金村物部麁鹿火の動向と外交をキーワードに日本書紀を読み進めたい。


531年、継体天皇が崩御して、安閑天皇が立った。継体天皇の長子だ。
大連には大伴金村と物部麁鹿火が再び任命された。

同年5月に百済は下部修得・嫡得孫(ちゃくとくそん)と上部都督・コノコルらを派遣して、通常の朝貢をした。上表文も添えていた。(注:百済の資料が日本書紀に書かれている部分)

10月、安閑天皇は四人の妃を迎えながらも子が生まれないために大伴金村に相談する。
金村は子供がいない皇后たちのために屯倉の創設を提案し、許可される。

535年5月に屯倉を各地に設置。そのうち、福岡県には筑紫に穂波、鎌(嘉麻)、豊に我鹿。

しかし12月に安閑天皇は崩御した。70歳だった。


536年、宣化天皇が即位。継体天皇の第二子だ。
大連は再び大伴金村と物部麁鹿火が任命される。大臣に蘇我稲目宿禰、大夫に阿倍大麻呂臣。
(※始めて阿倍氏。この阿倍の氏は磐井と同じ)

この年、官家(みやけ)を那津口に創り、筑紫、肥、豊の屯倉のものを那津口に集めて非常時に備えさせる。

7月に物部麁鹿火が薨去した。

以上が日本書紀の記述によるものだが、ここに磐井残党の蜂起が全く記されていない。


朝倉の杷木神社縁起によると、磐井の死後、残党が同時多発的に蜂起して勝ち進んでいたが、麁鹿火側の田中らが杷木神社で戦勝祈願をすると、形勢が逆転して、物部麁鹿火側の勝利となった事を記している。

この年がいつなのか記録されていないので、年が判明しないが、磐井が死んだ翌年529年から麁鹿火が死んだ536年の間のことになる。

麁鹿火が勝ったので記録しなかったのか、あるいは意図的に伏せたのかは不明だ。


麁鹿火は磐井の乱の前に(豊より)西側は治めることを継体天皇に許可されていたので、麁鹿火の死後、筑紫を誰が治めるようになったかも不明だ。ちなみに、麁鹿火の後の大連は物部尾輿だ。


葛子
はどうしているのだろうか。
糟屋屯倉を献上しながらも、地下で組織を再編成した人こそ葛子ではないかと考えている。

しかし、葛子夫人は暗殺された。宮地嶽神社の敷地内で事件は起きた。
それでも幼子だった勝村、勝頼は無事に成長していった。


20190215

c0222861_2035157.jpg



c0222861_15184581.gif

by lunabura | 2019-02-15 20:04 | 磐井の末裔たち | Comments(0)

10.毛野臣の任那における失政 「磐井、葛子、勝村、勝頼の時代 」 


磐井、葛子、勝村、勝頼の時代  10 

毛野臣の任那における失政




c0222861_174225.jpg



前回、御狩(みかり)という倭人が遠くからゲンコツで殴る真似をしたという事が、新羅に「上臣(大臣)を殺す意図」と解釈されたという、意味不明な展開になったが、このような些末な話が国史に載るのは、資料が日本の物でなかったからだろうと思われる。

前後について一部だが、岩波注に、任那諸国の資料を使ったとする指摘もある。

これは倭国が滅んで日本国が建国されると、中国の制度にならい、滅んだ国の歴史を描くにあたって、日本国は何百年以上も前の歴史を描こうとしたが、その資料が無かったため、各国の資料を照合していった結果ではないかと想像される。


毛野臣の態度は傲慢だが、百済、新羅などの王を呼び寄せる権限がどうしてあるのか、と考えた時、中国の『宋書』に倭の五王の事が書かれていることを思い出した。

西暦478年、倭王武順帝に任命された身分が次のようなものだ。

使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王。

この直前まで百済が入っていたが、この478年には外されている。

新羅や任那、加羅などの諸軍事の大将軍として宋から任じられていたのだ。

だから、倭国からの勅命には権限があった。

これを傘に着た毛野臣の性格が災いを招く。


今、読んでいるのは529年。
倭王武はまだ生存しているだろうか。

もし武が死んでいたら、次の使者が宋を訪れるまではこの身分は保証されていたかもしれない。

事も有ろうに、宋自身が479年に滅亡しているので、倭国が次に中国史に登場する600年頃までは何も分からない。

倭国では葛子の子の勝村、勝頼の時代になり、二人もそろそろ死を迎える頃に重なっている。



さて、日本書紀の続きに戻ろう。

530年9月に任那から使者が我が国にやって来て、毛野臣がクシムラに家を建てて二年も住み、政(まつりごと)を怠けていることを訴えた。

倭人と任那人の間に子が生まれて訴訟が起きても無策で、湯に漬からせて真偽を占うようなことをしていた。

これを聞いて天皇は毛野臣を召還した。


しかし、毛野臣は御狩に上京させ、「任務が果たせぬまま帰国することを恥じている。任務を果たしてから帰国する」という旨を言わせた。

そして倭国から来ていた調吉士(つきのきし)という者が帰国して現状を報告するのを恐れ、調吉士をイシキムラ城に派遣して守らせるという手立てを採った。


任那王・アリシト
は毛野臣が任那復興を実行しないので、帰国するように何度も勧めたが毛野臣は承諾しなかった。

このため、毛野臣を見限って、新羅にクレシコモを、百済にヌスクリを派遣して兵を頼んだ。


この時、毛野臣は百済軍が攻めてくると聞いて背評(へこおり)で迎え討った。
百済はヌスクリを捕え、新羅と共に城を囲んだ。

毛野臣は籠城した。
一月後に百済と新羅は去った。


調吉士は任那より帰国して毛野臣の無策と加羅の騒乱を報告した。

目頬子(めづらこ)という者が派遣され、毛野臣は帰国する途中、対馬で病死した。


20190214



c0222861_21354485.jpg


c0222861_2035157.jpg



c0222861_15184581.gif

by lunabura | 2019-02-14 20:12 | 磐井の末裔たち | Comments(0)

9.安羅で毛野臣は百済と新羅の王を呼び出したが「磐井、葛子、勝村、勝頼の時代 」 



磐井、葛子、勝村、勝頼の時代  

9.安羅で毛野臣は百済と新羅の王を呼び出したが





c0222861_174225.jpg



磐井の乱の一因となった毛野臣は何処にいるのかと思っていたら、磐井の乱の翌年529年に半島に渡った。どうも6万もの兵を連れて新羅と戦うほど悪い状況ではなく、まだ日本からの勅命で事が処理できる状態だった。

3月百済加羅多沙津を欲すると、その月の内に日本は百済に下賜したことを前回読んだが、この月に毛野臣を安羅に遣わしていた。


『日本書紀』は続けて「勅命によって新羅を勧め、更に南加羅、トクコトンを建てた」と記す。
訳に困った。

南加羅とトクコトンが新羅に奪われたために、毛野臣は6万もの兵を率いて渡韓しようとしたはずだ。それを「更に建てた」とするのが意味不明で訳せない。

で、例の如く新羅に関わる話なので、前後から判断して、
「勅命によって新羅を説得して、南加羅、トクコトンを取り戻した」
と訳しておくことにする。

また、6万という数字は多くてもせいぜい600程度ではないかと思う。
現代でも、6万人とは一市を構成する人数なのだ。ま、これはいいか。




さて、今回はその続きを読もう。毛野臣(けなのおみ)が安羅に駐在した所からだ。


百済は勅命を聴くために、将軍らを安羅に派遣した。
新羅は隣国の官家(みやけ)を侵略した結果になったことを恐れて、下級役人を派遣してきた。

安羅は高堂を建設して勅使(毛野臣)を昇らせ、国王はその後から昇っていった。
安羅の中でも昇るのは身分の高い者、一人二人だった。

一か月の内に何度も堂上で会議が行われたが、百済の将軍らは庭に置かれたたため恨みを持った。


4月任那王・コノマタ干岐(かんき)(=アリシト?)が日本にやって来た。


大伴大連金村
に面会して
「海を隔てた隣国(半島)は、応神天皇が神功皇后の胎中にいるとき、官家(みやけ)を置かれてから変わることなく、封じられた地を守ってきたのに、最近は新羅が国境を越えて侵略しています。どうぞ天皇にそれを伝えて我が国を助けてください」と。

大伴金村はこれを天皇に奏上した。


その月のうちに使者をつけてコノマタ干岐を本国に送り届けた。

そして任那にいた毛野臣に「コノマタ干岐が言うことを確認して誤解を解いて和解させよ」と伝えた。



毛野臣は熊川に宿って新羅と百済の王を召した。


新羅王サリヂクヂフレを派遣し、百済恩率ミドリを派遣し、いずれも王自身は来なかった。


毛野臣はこれに怒り、二国の使者を責めて
「小が大に仕えるのは天の道理である。何ゆえに両国の王は自ら参じて天皇の勅命を受けようとせずに、無礼にも使者をよこすのだ。もし、汝らの王が後でやって来て勅命を聴こうとしても、我は伝えぬ。追い返してやる」と言った。

両国の使者は帰国して王に伝えた。


これを受けて新羅は改めて上臣(=大臣)イシブレチ干岐を派遣したが、この時3000人の兵を率いて、勅命を聴く旨を伝えてきた。

毛野臣は数千の兵に包囲されたのをみて熊川から任那のコシコリ城に移った。


イシブレチ干岐は多々羅原に陣営を張って礼を失しながら三か月も待機し、しきりに勅命を聴きたいと伝えてきた。

しかし毛野臣はついに勅命を伝えなかった。

イシブレチが率いていた兵士たちは村里に行って食べ物を貰おうとした。

毛野臣の侍従で河内馬飼首の御狩(みかり)という者が通りかかった。御狩は人家の門に隠れ、食べ物をせびる者が通るのを待ち、遠くからゲンコツでなぐる真似をした。


物乞いは「つつしんで三か月もまって、勅命を聴こうと待っていたが、いつまでも勅旨を伝えようとしない。これは騙して上臣を殺そうとするつもりだ」と言って、その状況を上臣に話した。

上臣は四つの村を襲い、人や物を連れて新羅に戻った。


四つの村が奪われたのは毛野臣の過ちのせいだと言う者がいた。



20190212






c0222861_21354485.jpg


c0222861_2035157.jpg





c0222861_15184581.gif

by lunabura | 2019-02-12 21:21 | 磐井の末裔たち | Comments(0)

8.今度は加羅の港を百済に与えた 「磐井、葛子、勝村、勝頼の時代 」



8 今度は加羅の港を百済に与えた

磐井、葛子、勝村、勝頼の時代




 


さて、磐井が亡くなり、葛子の時代となった。


c0222861_174225.jpg



磐井の乱の翌年、529年3月に百済王下哆唎(たり)国守穂積押山を呼び出して加羅の多沙津をねだってきた。(押山は512年には哆唎国守と書かれている。)

理由はそれまでの航路は風波がひどいので朝貢の品々が濡れたり壊れたりするからというものだった。それを聞いた穂積押山は朝廷に奏上した。

その月のうちに、物部伊勢父根らが派遣されて港を百済王に下賜した。父根は数年前に伴跛(はへの)国に襲われて丸裸になり、百済の支援を受けた男だ。

この港の下賜を知って驚いたのが加羅の王だった。
勅使に、
「この港は倭国が官家(みやけ)を置いて以来、加羅が朝貢するための港です。どうして簡単に隣国に与えたのですか。最初に冊封した条件と違っています」
と言った。

勅使の父根らは加羅王の面前で百済に港を下賜するのは難しいと判断して大嶋に還った。そして、改めて別に録人(ふびと・下級役人)を派遣してついに百済に港を与えた。

加羅はこのために日本を恨み、新羅と同盟を結んで新羅王王女を娶った。王女との間には子供も生まれた。

新羅は王女を嫁がせる時、百人の従者を付け、諸国に分散させて新羅の衣冠を着せた。ところが、衣冠を新羅風に変えさせたことを知った(任那の王?)アリシトは怒り、使いを派遣して元に戻した。

新羅は面目を失って王女を取り戻そうとして、
「先に汝が嫁に迎えたいと言ったので許して嫁がせたが、こうなったからには王女を返すように」
と言った。

加羅のコホリチカ
「夫婦になった者をどうして裂こうとするのですか。子供もいるのに、捨ててどこに行かせるというのですか」
と言った。

こののち、(新羅は)刀伽(とか)、古跛(こへ)、布那牟羅(ふなむら)の三つの城を奪い、また北の国境の五つの城を奪った。



メモ こうして加羅の港は百済に与えられ、激怒した加羅は新羅と通婚したが、新羅の侵略を受ける結果となった。最後の一文はまたもや主語の新羅が削除されていたので、文脈から補った。

この時の倭国の外交政策はひどいな。やっぱり、穂積押山―大伴金村ラインかな。


c0222861_21354485.jpg


c0222861_2035157.jpg



c0222861_15184581.gif

by lunabura | 2019-02-11 19:58 | 磐井の末裔たち | Comments(0)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25