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ひもろぎ逍遥

カテゴリ:「持統天皇と天山」( 7 )

持統天皇と天山7 母としての持統天皇の人生を考える


持統天皇と天山7 

母としての持統天皇の人生を考える



佐賀の天山神社で起きた不思議な出来事に対して、持統天皇は何故敏感に反応したのだろうか。どういう連絡網があったのかと、これまで三つの神社の縁起を調べて行った。

その結果、藤原四兄弟の一人、藤原前房がまだ21歳のころ、対馬を侵略する異国人を撃退した褒賞として小城の晴気をもらったということが分かった。

この晴気の価値はどんなものだったのかはまだ謎である。

また、持統天皇が何故、その価値を知っていたのかと考えた時、まずは斉明天皇の筑紫遷宮に付いて来て、筑紫や佐賀の土地勘があったことが理由の一つに挙げられた。

持統天皇の福岡の滞在は少なくとも2年以上、しかも白村江の敗戦を体験し、そのトラウマを持っていることは間違いないと思われた。

この時の持統天皇の名は鸕野讚良(うののさらら)で、夫は大海人皇子である。


日本書紀の持統天皇紀には
「持統天皇は天智天皇元年に草壁皇子を大津宮で出産された」
と書かれている。

天智天皇元年=662年で、斉明天皇の崩御の翌年のことである。

持統天皇(鸕野讚良皇女)が出産した「大津宮」とは「娜の大津宮」のことで、福岡での出産となる。
(巧妙に場所が分からないように仕組まれている)

ここからは鸕野讚良の名で語っていこう。





鸕野讚良が大海人皇子に嫁いだ時は13歳。今なら中学1年生。当時の適齢期だ。
讃良(さらら)は叔父と結婚した。

夫は27歳。夫は既に宗像徳前の娘と結婚していて長男がいた。高市皇子である。長男は数えで3歳。可愛いさかりだ。

通い婚の時代なので、讚良はその男の子を見ることはなかっただろう。
父の中大兄皇子は32歳。
時の天皇は斉明天皇、64歳。

斉明天皇はどのような考えで自分の子と自分の孫を結婚させたのかは分からない。

同じように嫁がせたのは讚良だけではなく、同母姉の大田皇女たちもだ。
当時は、姉妹で嫁ぐのは一般的である。

まだ大人になりきっていない讚良に子が授からぬうちに、4年後の661年に唐・新羅との戦いとのために斉明天皇一族は筑紫に渡る。

姉の大田皇女は既に大伯皇女を瀬戸内海の航行中に出産した。

斉明天皇は661年に筑紫の朝倉に到着した翌日、宮地嶽神社、次の日には福成神社と、落ち着く暇もなく精力的に先勝祈願をしてまわった。

讚良は筑紫で懐妊し、草壁皇子を出産した。18歳になっていた。百済の滅亡や百済王子の返還など、不安な情勢の中でのことだった。

夫の大海人皇子はこの頃、筑紫の音楽に興味を惹かれ、楽しんでいたことを真鍋大覚は記している。

讚良が草壁皇子を出産したころ、父の中大兄皇子が筑紫で天皇に即位した。
天智天皇である。

663年の白村江戦の敗戦を耳にしたとき、讚良は19歳。数えで2歳になった皇子を不安げに抱きしめた事だろう。我が国はこれからどうなるのか、と。

そして十年もたたないうちに起こった戦いは国内戦。今度は自分たちに直接、降りかかってきた。壬申の乱だ。672年。

天智天皇の崩御がきっかけだった。

吉野に逃れる夫。讚良は子を連れて夫に付いていった。この時、讚良は28歳になっていて、自分で決断することが出来た。子は11歳。

戦いは勝利した。

讚良が45歳になった時、夫の天武天皇は崩御した。そして、みずからが即位して持統天皇となる。愛する我が子はその3年後に27歳で薨去してしまった。689年のことだ。

その頃のことだ。
対馬に異国の風俗の者たちが乗り込んできた。我が国を守らねばならない。再び戦いが始まる。

持統天皇はその討伐を不比等の子に命じた。それが安弘。のちの房前(ふささき)だ。房前が討伐に成功すると、褒賞として佐賀の天山の麓「晴気の里」を与えた。

それからは次々と良い知らせが届いた。
天山に天御中主を祀ったのち、三女神の光が飛んできて四方を照らし、童女が神懸かりして国家鎮護を約束すると、泉が湧き出した。

この時は既に持統天皇は孫に天皇の座を譲り渡していた。孫の治世の安泰を心から願ったことだろう。

701年、厳木(きゅうらぎ)で広瀬の天山神社が創建された時、持統太上天皇は57歳。文武天皇は19歳。


その2年後、持統太上天皇は崩御した。天皇初の火葬を選んだ。

神道と仏教。

持統天皇は国家を背負って二つの世界にすがって生きて来た女性なのである。






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<20180417>

20190315 





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by lunabura | 2019-03-15 12:25 | 「持統天皇と天山」 | Comments(0)

持統天皇と天山6 黒尾大明神とは藤原四兄弟の一人、房前だった 



持統天皇と天山6 

黒尾大明神とは藤原四兄弟の一人、房前だった 




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『東松浦郡史』(大正14年)の広瀬の天山宮に「黒尾大明神」という末社のことが書かれている。

そこには、藤原安弘があの房前(ふささき)公の諱(いみな)だ、と書かれていた(驚愕)
まさかのビッグネームの登場だ。

安弘とは、のちに内大臣になる藤原房前のことだったのだ。藤原房前の父は藤原不比等。その父は藤原鎌足だ。房前は藤原四兄弟の一人なのである。奈良ばかりの人かと思ったら、公に出てこない歴史が佐賀にあったのである。


「東松浦郡史」を訳そう。
黒尾大明神
 右は末社である。参議正三位民部内大臣藤原安弘がこの神で、天山宮の社司の祖である。すなわち房前公の諱(生前の実名)である。藤原姓の祖とする神である。

天平神護元年(765年)(称徳天皇の)勅宣をたまわって、安弘公を黒尾大明神とした。>

藤原房前は681年生まれ、737年に56歳で薨去。

房前がここに天御中主命を勧請した701年は21歳の時になる。

この年、父・不比等は43歳。文武天皇は19歳。

持統太上天皇は57歳。

房前はその直前に対馬で異国人と戦って勝利したことから、天山に関わった。

天山神社の由緒には「勅」という字がたびたび出てくるが、これは「天皇の命令」を意味する。

天山神社の三宮は、文武天皇というより、持統天皇がダイレクトに指示して勧請しているのである。

持統天皇との連絡が奈良~佐賀でダイレクトに通じている謎がここで一つ解けた。天皇と大臣と子という緊密な連絡網があったのである。

その天皇が与えた褒美が小城市晴気(はるけ)という土地だ。当初は険しい山中に房前は天御中主を祀った。そこには磐座があるという。


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しかし、険しすぎて300年後にラインに乗って来たが、チェリーが指摘するように意図してそのライン上に遷ったといえる。

始まりは明星山と岩蔵、広瀬のラインだ。明星山は「ひめちゃご」で散々調べた山だ。


この「明星山」(みょうじょうざん)について、前回は少々フライングをして、込み入った内容を書いた。

昨日あらゆるピースが繋がったので、説明不足を承知しながら、その結論を書いた。多分、十年来の読者しか分からない世界だと思いながら。

私自身、二冊の本の原稿をしたためたので、ようやく到達した内容だ。昨日の数行を理解してもらうには、不親切だなと思いつつ、自分にとって必要なメモだった。


さて、この話の肝要な部分をくじらがコメントしてくれている。

<新唐書に記述がある、『其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城。』
( 王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。)
矢野一貞は更に明星山の史跡につき、次のように述べている。
「上古、天津赤星が此の要害に拠る。

武内大臣久しく此山中にて西海を監護す。
筑紫君も代々当山に処る。」(ひもろぎ逍遥)

このふたつの文を見比べるに、明星山に天御中主を初代とし、
筑紫氏に至る、筑紫城があったのでは? という想いを抑えることが
出来ずに困っています。>

さて、磐井の姓については、筑紫氏という説が見られるが、筑紫氏は意外に新しい。多分筑紫君という語から現代の人が想像したのだと思う。

私が磐井の姓が阿倍だという根拠は『福岡県神社誌』に「阿倍」と書かれていたことによるものだ。

『新唐書』に書かれた倭王の姓が阿毎とある。

中国語では阿毎(アバイ)は阿倍(アバイ)と同じ発音になる。

日本語だと阿倍(あべ)は阿部(あべ)と同じ発音になる。
アメはアベの事だと結論づけた。

阿部氏は安曇族である。
宮地嶽神社は阿部氏だが、それは「阿曇の部」と言う意味だと伺った。


その安曇族は志賀島の沖津宮に天御中主を祀る。

一方、佐賀の天山神社はラインから見て明星山の神を引いている。明星山の神は未詳だが、佐賀の天山神社が当初、天御中主を祀っていたのだから、明星山には天御中主が祀られていたと推定したのである。



話を戻すが、小城市(おぎ)の「晴気」(はるけ)という所は天皇家がその価値を知っていて下賜した所である。

晴気にはどんな価値があったのか。

推測に過ぎないが、おそらく鉱物資源や武器工房があったのではないかと考えた。鉄、銅、金、銀あるいは水銀か。祀られる神が分かればある程度推測できるかもしれない。



20180310 初稿

20190311 編集して再掲




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by lunabura | 2019-03-11 20:54 | 「持統天皇と天山」 | Comments(5)

持統天皇と天山5 広瀬天山神社 祭神はもともと天御中主だった 



持統天皇と天山5 

広瀬天山神社 祭神はもともと天御中主だった 




今回は天山神社三社の西に位置する広瀬(唐津市厳木町)について、『東松浦郡史』(大正14年)を読んでみたい。

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驚いたことに、祭神がこれまでの二社と全く違っていた。いったいどういうことだろうか。

まずはその記事を読んでみよう。

天山宮 厳木村字広瀬
祭神 天御中主尊、稚産靈尊(わかむすび)、倉稲魂尊(くらいなだま)
天山嶽の麓、小城郡二社、松浦郡一社嶽の艮(うしとら)にある。 
祭日11月2日

記事にいわく、そもそも人皇41代持統天皇の御世に、鎮西に船が来て、対馬が異国風俗の者に奪われようとした。

そこで参議藤原安弘が勅命をたまわって退治した。

この時、天皇からの恩賞として晴気の里を賜った。民は安弘の徳を慕って集まり、天山の下に住んだ。

そこで安弘は天御中主尊天山の嶺に祠を建てて祀り、庶民の擁護と五穀豊穣を祈った。

そののち、文武天皇大宝元年(701)11月15日、安弘勧請の天御中主尊を広瀬、本山、岩蔵に勧請し、三か所を天山宮とした。山上を上宮、下を下宮と呼ぶ。>

このように広瀬の祭神は本来、弁財天ではなかった。天御中主尊だったのだ。

藤原安弘が天山山頂に尊を祀り、広瀬、晴気、岩蔵の三社を下宮社とした。

これはいつのことか。

持統天皇の在位を調べると690~697年となっている。

白村江戦の後になっても、対馬が異国人に奪われようとしたため、参議の藤原安弘が勅命を受けて敵を退治し、その褒美として晴気の領土をもらった。

これを機に民が晴気に移り住み、民の安寧を祈願して天御中主尊や五穀豊穣の神々を祀ったという。

それから彼は701年11月15日に、下宮三社を創立した。

この時までは祭神は天御中主尊だった

ところが、前回までに調べたように、702年に岩蔵で光と水と神託の奇跡が起こってから三女神信仰が加わった。

こののち、人々の間では女神信仰が広まったのだろう。いつしか、天山の神は天御中主尊から三女神となり、弁財天となった。

これなら、天山(あめやま)の名の由来が祭神と整合する。

各地では祭神が弁財天に上書きされたが、厳木(きゅうらぎ)の広瀬天山神社にはその影響が少なかったのだろう。当初のままの神が祀られていた。

現在、境内掲示板に書かれている祭神は
<天御中主命、倉稲魂命、湍津姫命、市杵島姫命、田心姫命>
である。


昔から天山の祭神の論争があったようで、
<俗に弁財天と称するは非なり>
と書かれたものもある。

晴気の里が藤原安弘への褒賞だとすると、当時、何か産業があって大きな価値があったことが想像される。


それを授けた持統天皇自身も、父の天智天皇が佐賀(田手神社)に来たことがあるし、本人も朝倉橘広庭宮に付いて来ていたはずで、この山の方面を遠望したこともあろう。この辺の土地勘があったと考えられる。


702年に岩蔵で起きた光と湧水と神託の奇跡がダイレクトに帝と持統太上天皇に届いて、その反応が早かったことを不思議に思ったが、藤原安弘が参議正三位民部内大臣で、天皇と直接会える身分だったことを考えると、当然の事となる。


三つの天山神社が一直線に並んでいることは以前から知っていたが、それが明星山(みょうじょうざん)に連なるのはチェリーの発見だ。


何度も書いたが、明星山では阿倍磐井が山城を堅固にした。

磐井の孫は宮地嶽神社の祭神だ。阿部氏であり、藤氏でもある。

一方、天山の最初の祭神の天御中主命は志賀島の沖津宮の祭神でもある。
天御中主命を祀ることが出来るのは安曇族だけである。



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拙著『神功皇后伝承を歩く』下巻より 志賀海神社



このキーワードは失われた明星山の祭神が天御中主命だったことを示しているのではないか、という思いがずっと心から消えない。チェリーの引いたラインを見てから。


藤氏は藤原氏であるが、倭国の敗戦後、その長たる阿倍(阿部)氏の一部は藤原氏と名を変えたのではないか、という思いも心から消えない。

もともと物部の山だった明星山が磐井の時代に天御中主命を祀ったのではないか。

白村江戦のあと、藤原安広はその神を天山に勧請した。

阿志岐山も天山(あめやま)という別称を持ち、宮地嶽神社が祀られていて、宮地岳ともいう。

これが倭国の祭祀ネットワークだったのではないか。

しかし、安曇族は敗戦し、天智天皇の崩御のあと、壬申の乱で天武天皇が勝利した。この時、宗像徳前の孫の武市皇子が活躍したことが、天山が三女神信仰に塗り替わった原因ではないか。 

そんな仮説が心に芽生えている。


その思いを強くさせるのが、この広瀬の天山神社の摂社群である。
<八幡神社、八坂神社、黒尾神社、宮地嶽神社、天満宮>
の五社で、宮地嶽神社がここにも祀られているのである。


この広瀬天山神社の記録を追加した新たな年表を記そう。
年表
690~697年 参議藤原安弘が対馬を奪おうとした外国人を退治して晴気を持統天皇から褒賞としてもらう。
701年 11月15日、藤原安弘は広瀬、本山、岩蔵に天御中主尊を勧請する。
702年 4月1日、岩蔵の北山の松に光が留まり、翌日水が湧き出し、東海から来た神という託宣があった。(岩蔵)
  10月15日 藤原安弘が天山池に蓬莱島を築いて天山神の上宮とした。(晴気)
    11月15日 弁財天が天山に飛来。烏帽子嶽に影向した。(晴気)
705年 広島の宮島から人が尋ねてきて光は宮島からと分かる。(岩蔵)
    10月天山大神宮とし、北山は天山岳と名付けた。(晴気)
1002年 烏帽子嶽の下宮を現在地に遷す。(晴気)


201903010再掲 一部追加



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※申し込みの方にはすべて返事をしましたが、二名ほどエラーで戻ってきています。
気にせずに参加してくださいませ。

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by lunabura | 2019-03-10 20:15 | 「持統天皇と天山」 | Comments(0)

持統天皇と天山4  晴気天山神社の始まり



持統天皇と天山4 

晴気天山神社の始まり



今回は三つ並ぶ天山神社の中央に位置する晴気(はるけ)天山神社についてだ。

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小城市晴気(はるけ)3563

まずは『小城郡誌』を読んでみよう。
<郷社 天山社
春田村大字晴気字本山にある。

祭神は多紀理毘売命、狭依理比売命、多岐津比売命である。

参議藤原安広文武天皇の口宣をこうむり、大宝2年(702)10月15日天山池の中に島を築き、蓬莱島と名付け、上に祠を建立して天山神の上宮と定め、下宮を靈貴山(一名烏帽子嶽という)に建立す。>
とある。

市杵島姫の名が狭依理比売命となっているのが特色だ。

烏帽子嶽の天山池に蓬莱島を築いて祠を建立して上宮としている。










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これは読者の方が調べて送ってくれた地図だ。
中央十字に靈貴山=烏帽子嶽(561.27m)があり、赤い旗の所に現在の中宮がある。昔はこの二か所で上宮と下宮のセットになっていた。

それから300年後のことが書かれている。続きを見よう。

<長保4年(1002)、康家は烏帽子嶽の下宮を当所に遷座し、諸祭祀を興した。
建立当時には文武天皇の口宣をいただいて小城郡神祇官領を下され、次に永代神領として郡内居住の四方三百町を寄進された。>

とある。ちょうど300年後に、烏帽子嶽の下宮が晴気(162m)に遷座し、442mにあった下宮が中宮に呼称を変えた。

これが晴気の天山神社の起こりとなる。

郡誌はさらに別伝を記録している。
肥前古蹟集
大宝2年(702)霜月15日、弁財天が天山岳に飛来した。本山烏帽子ケ岳に影向された。ここを宮床と名付ける。(略)>

つまり、702年10月15日に天山池の中に蓬莱島を造って天山の神の上宮と下宮を整えると、ちょうど一か月後に弁財天が飛来して、上宮に影向されたというのだ。

弁財天は市杵島姫に習合し、同一視されるが、本来はインド神と日本の神という大きな違いがある。

例えば高良山では神道であり続けたが、白村江戦後白鳳二年に不自然な芝居を討って仏教を受け入れている。

ここも、神道から仏教への橋渡し的なイベントがあったのかもしれない。

これを行ったのは「参議藤原安広」という大変高い身分の者だ。岩蔵天山神社では「九郎康弘」という名で出てくる。のちにこれを調べて驚愕するのである。

さて、もう一つの史料を読んでおこう。
長崎県肥前国小城郡村誌
郷社、村の北内浦にあり。今の本社は天山社の下宮で、畑田ケ里天山絶頂9合目にあり、高山にあって、修繕保護が困難なため、中古に下宮の地をもって云々>

とある。これにも、晴気の天山神社はもともと烏帽子嶽の下宮にあったものが管理が困難なため、現在地に降ろしたとする。

その時、すなわち1002年、宮の鎮座地を決めるために、チェリーの指摘するように、明星山と岩蔵天山神社の延長上を測量して決めた可能性は十分あることになる。

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日付を前述の岩蔵天山神社と突き合わせてみよう。
702年 4月1日、岩蔵の北山の松に光が留まり、翌日水が湧き出し、東海から来た神という託宣があった。(岩蔵)
    10月15日 藤原安広、天山池に蓬莱島を築いて天山神の上宮とした。(晴気)
    11月15日 弁財天が天山に飛来。烏帽子嶽に影向した。(晴気)
705年 広島の宮島から人が尋ねてきて光は宮島からと分かる。(岩蔵)
    10月天山大神宮とし、北山は天山岳と名付けた。(晴気)
1002年 烏帽子嶽の下宮を現在地に遷す。(晴気)

これに加えて、天本孝志(九州の山と伝説)によれば、小城郡禅定山に弁財天が来現し、「大唐」の弁財天と名乗ったとある。
702年に「トウ」から来た神の託宣があり、「東海」か「唐」か、解釈が分かれたようである。ただ、市杵島姫(弁財天)であることは一致していることになる。

また、天本は「晴気城城主千葉氏は所領(300町)が、古くから筑前宗像神社の社領だったことから、足利側についた宗像大宮司氏俊に味方したと言われている」と記していて、宗像神社の社領が当地にあった話を残している。これは意外な話だ。やはり、宗像とも関わりがあることになる。





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by lunabura | 2019-03-09 20:18 | 「持統天皇と天山」 | Comments(0)

持統天皇と天山3  三つの天山神社は明星山に連なっていた






持統天皇と天山3 

三つの天山神社は明星山に連なっていた






さて、天山神社が三つ並んでいるが、チェリーが画像を作ってくれた。





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三社が一直線上に並び、そのラインを東に伸ばすと明星山に届いている。








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さらに詳細図も造ってくれた。

広瀬の方は50mずれているが、許容範囲だそうだ。
明星山からのそれぞれの神社の距離は
     明星山から厳木町広瀬の天山神社まで 45.650km
     明星山から晴気天山神社までは 38.735km
     明星山から岩蔵天山神社までは 35.873km


ところが、広瀬と晴気同士は目視できないそうだ。
もし、広瀬をライン上に載せるとなると強い意志が必要だという。






久留米市の明星山からはこう見えている。

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明星山には磐井の山城があった。その山から天山がよく見えていた。
その稜線を左に下がると三つの天山が重なって存在している。

ただ、天山神社の物語は700年代になるので、磐井の時代はとっくに過ぎ去っている。

もう一つ、重要な転換点は少し前の663年の白村江の戦いだ。

持統天皇はこの時代を生きていて、まさにこの天山の物語も、唐・新羅に敗戦したという傷跡がまだ残る時代の話になる。

さて、チェリーによると、岩蔵の天山神社は現人神社から特別な位置に当たるという。

その北には大島御嶽神社が有意の角度で存在する。

このラインは岩蔵天山(三女神)-現人(住吉三神)-大島(三女神)という神々で連なる。

かなり遠いがチェリーは何らかの意味を捉えているのだろう。




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一方、岩蔵から松尾弁財天はダイレクトに三女神がらみとなる。

不思議なライン群だ。










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これらが何を意味しているのか。皆さんの感想もいろいろあるだろう。

天山三社の中央にある晴気(はるけ)天山神社はもともとそこにあったわけではない。
次回は晴気天山神社について読んでみよう。



以下はチェリーがコメント欄に補足してくれたものだ。
 
<lunaさん、画像を掲載していただき、ありがとうございます。
私が引くラインは、全て候補ですので、この中で正解がどれだけあるのかはわかりません。

でも、明星山から天山神社への直線は、その精度から考えて、OKだと思います。

広瀬・晴気・岩蔵の各天山神社は谷にあるので、明星山も含めて、お互いが全く見えません。

にも関わらず、これだけの位置を出すには、やはりかなり強烈な目的意識があったのだと思うわけです。

赤いラインは方位の意味を持つと思われる直線です。角度を掲載しておきますね!
明星山 → 八女津媛神社 120.13° 距離26.290km
鷹取山(みやま市・八女市) → 天山 299.98° 距離43.995km ※ライン上に大日宮


天山 → 松尾弁財天 120.01° 距離47.771km
岩蔵天山神社 → 犬岳 120.04° 距離41.650km
犬岳 → 天山神社上宮 300.00° 距離47.016km
現人神社(那珂川町) → 岩蔵天山神社 225.02° 距離30.680km ※ライン上に大日宮


大島御嶽神社 → 現人神社(那珂川町) 179.98° 距離43.476km
與賀神社 → 晴気天山神社 299.86° 距離14.357km
可也山 → 晴気天山神社 179.98° 距離28.736km
広瀬天山神社 → 聖母宮 119.90° 距離43.634km ※ライン上に乙姫宮跡


広瀬天山神社 → 竹飯八幡宮 119.91° 距離43.605km
(参考)鷹取山(耳納山地) → 可也山 299.91° 距離60.176km ※見えませんので測定不可です。> (チェリー)




20180227

20190307 編集して再掲





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by lunabura | 2019-03-07 20:21 | 「持統天皇と天山」 | Comments(2)

持統天皇と天山2 三女神は広島から飛来した 岩蔵の天山神社 

持統天皇と天山2 

三女神は広島から飛来した 

岩蔵の天山神社


 



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佐賀県の小京都、小城市にある岩蔵天山神社。

前回から、この始まりを読んでいる。


不思議な光が松にとどまり、水が湧き出し、七歳の童女東海から飛んできた神霊の託宣(たくせん)伝えたのが702年のことだった。 

『小城郡誌』の続きを読もう。

 <それから三年後、慶雲二年(705)に芸州厳島(安芸の宮島)の人が当地にやってきて尋ねた。

「近頃、宮島から清らかな光が輝き起こって、西の海の方に飛び去りました。

それからずいぶん経ちますが、どこに飛んで行ったのか分かりません。不思議に思ってその光が留まった所を尋ねると、当地に留まったのが分かりました。

何か不思議なことはありませんでしたか」と。

 里人が、奇瑞が起こって託宣が降りた話をすると、社人は大変驚き、宮島には帰らず、永らくここにとどまって社務をつかさどっているというのである。現在、馬場に宮島姓が多いのはこのためである。

 最初に松本に神霊が影向した時には、はるか南の松林からも清らかな光が見えたので、小さな石祠を建てて、下の宮というようになった。

それから後、祭の時には神輿(みこし)をそこまで降すといい、今は南松と称し、小祠がある。 

 同年の冬10月、国司が右の奇瑞を帝都に上奏して天山大神宮と勅許をえて、北山天山岳と名付けた。>

 こうして岩蔵の松に飛んできた光は広島の宮島から飛んできたものだということが三年後に分かった。その話を都に上奏したのち、北山は天山岳という名になった。

 すると、天山という山名は705年以降の呼称ということになる。天山と名付けた由来は分からない。が、帝都と無縁のものではないことになる。

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これは境内の右手の道路から天山方面を撮ったものだ。

 帝都では誰が天皇だったかというと、文武天皇だった。文武天皇は14歳の若さで即位したので、持統太上天皇が院政を敷いていたという。

持統太上天皇は大宝2年12月22年(703)に崩御しているので、当社の話はこれを挟んだ前後の年のものとなる。

 当社の三女神は宮島から飛来してきたもので、宗像からではなかった。



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by lunabura | 2019-03-06 20:10 | 「持統天皇と天山」 | Comments(0)

持統天皇と天山1 岩蔵の天山神社 702年





旧「ウーナ」をテーマ別に分類中していましたが、「ワダツミ」は最後の方で、どうやら違う時代を混入させていることに気づいて、ひとまずウェイティングにしました。

今日からは「持統天皇と天山」というタイトルで、持統天皇の話を旧「ウーナ」から独立させていきます。

持統天皇の存在は福岡や佐賀ではなじみが薄いのですが、斉明天皇が白村江戦の時に福岡に来た時、同行しています。

その足跡は唯一、那珂川市に残っていますが、彼女が天皇になってから、佐賀の天山神社の創始に関わってその名が出てきます。

ちょうど一年前の連続の記事になりますが、一本ずつ編集しながら再掲していきます。(私がちっとも覚えていない(-_-;)




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鸕野讚良皇女(うののさらら)がのちの持統天皇です。








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持統天皇と天山1 

岩蔵の天山神社 702年



佐賀には天山神社が三つある。

天山(てんざん)とゆかりが深いが、『小城郡誌』を見ると、麓の三つの神社に祀られるようになった事情が書かれていた。



チェリーによると、
広瀬・晴気・岩蔵の天山神社と明星山をつなぐと、ほとんど一直線」ということだが、あいにく地図がない。
作図はチェリーに期待するとして(てか、ほぼ強要(^^♪)

今回は現地入りする前の下調べを先に記録しよう。のちに、現地の方に案内いただければと思う。


事の始まりは岩蔵の天山神社のようだ。

時は飛鳥時代の終盤、大宝2年(702)になる。『小城郡誌』より。


天山神社 小城市岩蔵2348

<岩松村大字岩蔵字馬場にある。
祭神は多紀都毘売命、市杵島毘売命、多紀理毘売命の三柱である。

当社は天山頂上にある上宮に対し、晴田村天山社、東松浦郡厳木村大字広瀬天山社と共にその下宮である。>

ということで、祭神は宗像三女神。一直線に並ぶ三社はいずれも天山の上宮に対する下宮となる。しかも、久留米市の明星山に連なっている。


<当社は文武天皇の大宝2年(702)口宣によって建立したもので(略)>
とある。

郡誌によると、ここは文武、一条、二条天皇の勅願所だったという。
三人の天皇の在位を調べると、
   文武天皇(697~707)
   一条天皇(986~1011)
   二条天皇(1158~1165)
とあり、断続的に勅願所となっているのが分かる。

さて、「口宣」とは天皇からの勅命を口頭で伝えたものを文書化したものだが、何故天山神社の建立を天皇が直接命令したのか、疑問が起きる。

奈良にいた天皇が何故佐賀にこだわるのか。
それが謎なのである。

この点について、郡誌は「参考」として不思議な話を残している。口語訳しながら紹介しよう。

<伝記書によれば、42代文武天皇の大宝2年(702)4月1日、小城郡高隅の里(のち岩蔵と改めた)の北山に不思議な奇瑞が現れ、松の梢(こずえ)に清らかな光が輝いてとどまった。

その松のそばに木こりの家があった。光は里に照り渡った。人々は奇異の目でその光を見守った。

その日の夕方、村の七歳の童女が急に物狂いして話し始めた。

「われは東海より飛んできた神である。この地に長らく留まって国家を守護し、もろもろの災難を祓おう」と。

その翌朝、松のそばに池が出来て清水が湧き出した。この里の九郎康弘という者が、清水の湧出を見て里人を集め、その松のそばに社を建てて神霊を祀った。

この時からこの村を松本村と呼び、この松を「影向の松」と呼ぶようになった。

この童女の子孫代々は命婦(みょうぶ)となって神事、祭祀を預かり神座を勤めた。そして九郎康弘が亡くなると里人はその末社に祀り、九郎大明神と名付けて本社の側に安置した。>

影向(ようごう)とは神仏の来臨という意味だ。

つまり、三女神の神霊が七歳の童女に神懸かりして、清水を湧出させ、ここで国家を守護すると語ったということだ。

この神霊は東海から飛んできたという。それは何処かという答えはこの3年後に判明した。(つづく)



20180224 

20190305再掲




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by lunabura | 2019-03-05 16:24 | 「持統天皇と天山」 | Comments(0)

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