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ひもろぎ逍遥

カテゴリ:日本武尊( 7 )

松野連系図と符合した日本武尊の戦い


松野連系図と符合した日本武尊の戦い



「松野連系図」というものが熊本菊池の松野家に伝わっている。

その始まりは呉王夫差で、熊襲の名を伝え、倭の五王に連なる系図だ。
ご存知の人も多いだろうが、このブログでは初めて扱う。

それというのも、昨日系図のファイルを取り出した時、その系図が出て来たからだ。

そして、二人の名に目が釘付けになった。
それは取石鹿文と弟鹿文の名だ。取石鹿文には「川上梟帥」の注が添えられていた。









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「倭国王のふるさと火ノ国山門」より。丸や四角は綾杉作図。

あの川上梟帥だ。
佐賀の真手山で日本武尊に殺された筑紫の王の名ではないか。しかも、弟がいる。しかも二人の系図の続きは断絶していた。

よく見ると、赤丸と緑丸に同じ名の兄弟が書かれている。
いずれが日本武尊に殺された真手山の川上梟帥か、と考えた。

青丸を見ると、「厚鹿文(あつかや)と市乾鹿文(いちふかや)と市鹿文(いちかや)」という「父と二人の娘」が記されている。

景行天皇の謀に乗せられて父の厚鹿文殺しに手を貸した市布鹿文は景行天皇に殺された。その後、妹の市鹿文が火の国造となる。

そうすると、日本武尊は景行天皇の子なので、時代的には緑の取石鹿文(とりしかや)兄弟が佐賀の川上梟帥と筑豊の金剛山梟帥に該当する。

彼らは熊襲だ。熊襲は南九州にいたイメージがあるが、古事記では九州となっている。

もともと筑紫に取石鹿文がいて、日本武尊が攻めて来たので佐賀(火国の一部)に逃げたと地元では伝えている。

日本武尊とは川上梟帥から貰った名だが、前の名は小碓命だ。

小碓命は何故、熊襲の名を襲名したのか、疑問があったが、熊襲がもともと九州すなわち倭の王家だったとすれば合点もいく。倭王征服の象徴だったのだ。その証拠ほどでもないが、古事記では日本武尊とは書かず、倭建と書いている。

また、系図上、川上・金剛兄弟の所で断絶するのも道理だ。皆殺しなのだから。

さらに、系図では、この王家はオレンジの四角に囲った「難升米」のように魏志倭人伝に出てくる人物も登場する。
この人たちも系図では支流で、次世代は途絶えている。
そして、本流には続きに倭の五王の名がずらりと出てくる。

玄界灘に立つと朝鮮半島への航路が浮かぶが、熊本に行くと、海の向こうは中国だ。福岡南部あたりから南には中国語の発音がかなり濃厚に伝わっている。

今日は、此の辺で。いずれ、じっくりと系図を読み込んでみようと思う。

明日はバスハイクで肥前すなわち火前国に行く。

7月は幣立神宮、8月はこの菊池へ。火後国だ。お楽しみに。


<20190529>


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by lunabura | 2019-05-29 21:19 | 日本武尊 | Comments(3)

日本武尊の足跡 鳥野神社 日本武尊が国見をした


日本武尊の足跡 

鳥野神社 

日本武尊が国見をした



さて、四社目、直方市の御山神社から遠賀川を渡り、同じ直方市の鳥野神社に向かった。



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屏風のように並ぶ福智山山系のうち、馬蹄形の山の右の山の中に鳥野神社がある。









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内が磯地区に公園があり、道路脇に造られた駐車場に車を止めると、道を挟んだ山側に重厚な鳥居があった。










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神額は「福地山」とある。この鳥野神社は福智山の下宮に当たる。



福智山は「福岡県神社誌」によると、
<神代の昔、天尊彦火瓊瓊杵尊の勅願により、猿田彦鈿女の二神に命じて福智山に鎭祭せしめられたり。>
とあり、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が猿田彦と天鈿女(あめのうずめ)に命じて神々を祀らせたのが始まりとする。



瓊瓊杵尊の墓は鞍手の六ケ岳にある。瓊瓊杵尊が降臨するときに迎えに来た猿田彦が天鈿女と夫婦になったあと、この福智山に神々を祀らせたのである。



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鳥野神社の祭神は 保食(うけもち)大神、軻遇槌(かぐつち)神、天照大神、応神天皇、月讀大神
となっているので、応神天皇を除いた、四神を祀ったということか。



その後、日本武尊がやって来て勝利祈願をし、凱旋したのちも再び来て、上中下三所神功を創立したという。

また、熊襲を瞰望した地なので国見山とも称すという。

ここで、金剛タケルの存在を知らなければ、何故直方から熊襲を視察できたのか、不審に思っただろう。
日本武尊は金剛山から尺岳、そして鳥野神社と、尾根伝いに移動したと考えられ、金剛タケルはこれら馬蹄形の山壁に囲まれた丘辺りに拠点を構えていたと思われる。

香月文書には
<日本武尊は黒崎より上陸して笹田の小狭田彦とともに黒川を渡り、熊襲の軍を屠った。>とある。

御山神社の陣営は陽動作戦であり、日本武尊は敵状視察を終えて尺岳神社付近に戻って作戦を練り、小狭田彦の手勢を連れて背後から攻めたと思われる。





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さて、次の時代、神功皇后もここに来て戦勝祈願をしている。そして、凱旋すると鳴鏑矢を山上に納め、宿禰に祀らせたという。



武内宿禰は佐賀では日本武尊に同行している。ここでも日本武尊と一緒だったのではないか。

日本武尊が死んだあと、武内宿禰は政務天皇に仕え、仲哀天皇に仕え、神功皇后の道案内をして当社に再び訪れたことになる。



驚いたのは、天武期に筑紫帥栗隈王もまた当社に参拝している点だ。栗隈王の足跡が出てくることはまずはない。「神威」を感じて朝廷に奏上し、天皇の勅命で「西州鎮護の惣社」としている。

この時、鞍手郡粥田などを寄付しているので、先日バスハイクで行った饒速日を祀る天照神社の鎮座する郷は鳥野神社の神領となったことになる。

また、役小角もまた当山で祈っている。

そして、黒田長政は黒田藩の鬼門鎮守とした。

これほどの歴史を重ねる神社を知る事ができたのは、日本武尊の縁であり、この神社を教えてくれた菊如の縁でもある。









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<20190429>
歴史カフェ福津
5月5日(日)2時~4時
日本武尊ー福岡佐賀の伝承と記紀を比較する
会場:福津市中央公民館
申し込み先 himorogi888@yahoo.co.jp 
案内はコチラ






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by lunabura | 2019-04-29 22:10 | 日本武尊 | Comments(0)

日本武尊の足跡 若宮町誌 銅山と遺跡と地名


日本武尊の足跡 

若宮町誌 銅山と遺跡と地名



例の如く、片付けをしていて、ポロリと出て来た資料があった。
それは「若宮町誌」の「第九章 若宮の銅生産遺跡」のコピーだ。

若宮は現在、宮若市。明日、バスハイクで出かける。

資料は出てきても、すぐ行方不明になりがちなので、今日はその一部を写しておこうと思う。


<第一節 史料にみる銅山と遺跡

古代の北九州地区の銅生産については、「豊前国風土記」逸文をはじめ、『三代実録』の規矩郡(規矩郡・きく)の採銅、さらに『延喜式』の銅・鉛の採送などの記録がみられる。

近世においては、『小笠原歴代家譜』に大里銅山の記事、また貝原益軒や伊藤常足などの著書にも産銅記事が目につく。>

規矩(企救)といえば、菊物部がいる所で、大きな銅矛が出土していた。
銅に関しては生産地が特定できるということなので、調査結果などが分かったら面白い。





<列島内における近世の鉱山開発で、銅は十八世紀前半に画期的発展を遂げた。北九州地区においては、古代から近世・近代まで連綿と続いた田川郡香春町の香春岳があげられる。>


<伊藤常足は『太宰管内誌』の「金生郷」で「倭名抄」に鞍手郡金生は加奈布とあり、名義は古に金など出たる負せたるか、此辺小伏村ノ内に小金原と云処もあり、さて鞍手郡金生村有て今は若宮郷ノに入れり」と記している。>
と、「金生」という地名は金を出した所で、その近くには「鉛」という小字も残ると指摘する。
<銅などの非鉄生産地では、銅のほかに鉛や錫が産出されることも多い。

近年それらの金属生産遺跡の検出例も相次いでおり、このような観点から、町内のこれらの金属に関する地名は、すべてとはいえないが古くには非鉄金属生産が行われた可能性も考えられる。>

とある。

「金生」の北西二キロの所にあの「竹原古墳」がある。
また「金生」の北東四キロの所に六ケ岳がある。
明日行く笠置山の千石公園は「金生」に隣接している。
そこに加茂公園もある。賀茂氏は金属加工に長けている。

思えば、弥生時代の銅鏡にしろ、銅矛にしろ、今は青黒い色をしているが、生産した当時は白銅色あるいは黄金色に輝き、それは銅や錫の綿密な計算による配合で生まれた色だ。

弥生時代の銅製品がすべて中国産と考える必要はないと思うのだが。

景行天皇、日本武尊、仲哀天皇、神功皇后と度重なる九州鎮圧は熊襲と言われた金属加工技術を持った一族の制圧が目的ではないか、という思いをさらに強くした。

日本書紀では消されていた神功皇后の帰路は弥生の「銅の道」なのだ。





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ちなみに、金剛山から南に下ると福智山があり、さらに南下すると香春岳に連なる。
梟帥(たける)族や土蜘蛛たちは棲み分けて、山の中で鉱山に従事していた工人集団だったと思う。

景行天皇や日本武尊が戦った相手たちこそ、九州の古層に生きた人たちである。


20190424



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by lunabura | 2019-04-24 20:57 | 日本武尊 | Comments(2)

日本武尊の足跡 御山神社 日本武尊の陣営地 VS金剛タケル



日本武尊の足跡

御山神社 日本武尊の陣営地 VS金剛タケル



前回の老良神社から遠賀川左岸の土手を遡っていく。

8キロほどだろうか。筑豊本線の植木駅を目指す。

「植木」という地名は日本武尊ゆかりの地名だ。

植木駅の南に三叉路があるので、右手、線路沿いの道を選ぶとすぐに御山神社に出る。







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藤棚が目印だ。

参道の上を藤の花が覆っている。





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左は「植木」の碑。中央が貴布祢社。 右の石祠が御山神社だ。「おやま」と読む。

主祭神は日本武尊 相殿に宮簀姫と須佐之男命



真新しい掲示板に

<第12代景行天皇の皇子、小碓命(日本武尊)が熊襲征伐の命を受け、行軍の途次、今朝麿(田部宮司家始祖)の案内で中山剣岳に登られ国見をされて御出発後、この地にて休憩され家来の弟彦公(尾張氏)に命じ、檀を築き一株の松を植えて後世の験とされた。

名付けて植木といい、松樹生い茂り所を植木の森(御山)と号し、その里を植木の里という。>
とあった。



日本武尊はいったん鞍手の剣岳に登って国見をしてこの地で休憩したという。
この時、弟彦公に命じて祭壇を築かせ、松を植えた。
これが「植木」の地名の由来となったが、注目したいのは「弟彦公」の存在だ。

日本書紀には日本武尊に熊襲討伐の勅命が下りた時、武尊は弓の名手を連れて行きたいと願った。この時推挙されたのが美濃国の弟彦公である。

この弟彦公が肥前での川上梟帥(たける)討伐の時に副大将として出てくる。
肥前と筑豊と離れた所に別々に伝わる伝承を繋ぐ重要な人物なのである。



ところで、何故、この地に祭壇を築いたのか。
その答えはもう一つの掲示板に書かれていた。

<今から1870年の昔、景行天皇さまの皇子で、日本武尊といふお方が九州の悪者の熊襲を、たいらげに来られたとき、この御山の地に陣所をつくられました。その記念として村人たちが社をたてて、日本武尊ご夫妻と、スサノオノミコトをお祭りして御山神社としました。(略)>

熊襲討伐の為に「陣所を作った」ため、祭祀をしたのである。



熊襲がここに居たのか?

それが忘れ去られた金剛タケルだ。金剛タケルは金剛山の近くに居たという。
金剛タケルは江川梟帥(たける)と言い、川上梟帥の弟だった。






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画像の中央を遠賀川が南から北に流れている。
左岸に御山神社があり、その西に剣岳がある。
剣岳に登ると、今も金剛山と福智山が良く見えている。
だから、この国見は金剛タケルの拠点を見定める国見だったのである。


日本武尊は尺岳にも登って国見をしている。
鳥野神社にも行っていて、多分尾根道を通って敵状視察をしたのだろう。


金剛山から尺岳にかけての馬蹄形の山容は恐らく阿蘇の外輪山のような成り立ちに思われる。
火山噴火による陥没ではないか。(専門家ではないので、想像に過ぎないが)

恐らく「金剛」の地名のように、金属を産出する所で、梟帥族(熊襲)がそこで生業を行っていたと考えられる。

熊襲討伐の理由は「朝貢しないから」というものだ。

いつの間にか、熊襲と景行天皇の間には朝貢関係が生じていたのだが、何を朝貢したのかというと、やはり金属と武器ではないか。
それを拒否したことから、熊襲討伐となった。

さて、日本武尊の採った戦略はどうだったか。
結局香月氏の拠点、すなわち黒川を遡って、北から攻めたことが香月文書にある。

この植木から正面攻撃の作戦を採るには遠賀川を軍隊が渡るという難題があり、後方からの攻撃が有効だったのが現地に立つと良く分かる。



20190423



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by lunabura | 2019-04-23 20:11 | 日本武尊 | Comments(2)

日本武尊の足跡  老良神社 日本武尊と砧姫の間の子 砧王


日本武尊の足跡

老良神社 日本武尊と砧姫の間の子 砧王





前回の淺木神社から東、遠賀川の方に向かって約二キロの地点に老良神社がある。

オイラと読む。








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『水巻昔ばなし』によると、祭神は日本武尊と砧王。

砧王(きぬたおう)とは、日本武尊と砧姫の間の子で、記紀には登場しない。

【水巻昔ばなし】
<砧王については、その後この地で守護職に任ぜられたというが、そのためであるのか遠賀町老良の老良神社は、日本武尊と砧王を祭神にしている。砧王には重広王、末広王、時王、末守王の四王子をもうけて、末永く栄えたという(略)>

日本武尊の行宮は対岸の立屋敷の八剱神社で、そこで砧姫と結ばれている。


老良という地名についでは地元の地名譚に、
<日本武尊と砧姫の子供である砧王がこの地の守令に任ぜられたことから、ここが「老楽の里」と呼ばれるようになり、この老良がいつのことからか、「老良」と言われるようになった。>
とある。


老良神社からは遠賀川の土手が見えている。




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ここの銀杏もまた、乳根が発達していた。




遠賀郡遠賀町老良67


赤 老良神社   紫 八剱神社


20190422


昨日、歴史カフェを申し込まれた方で、当方からの返信が届いていないものがあります。
受け付けておりますので、どうぞお越しください。





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by lunabura | 2019-04-22 21:30 | 日本武尊 | Comments(0)

日本武尊の足跡 浅木神社 日本武尊と斉明天皇が船を寄せた


日本武尊の足跡


浅木神社 日本武尊と斉明天皇が船を寄せた


フィールドワークに勝るものは無い。
今日は遠賀川の下流から上流にかけて、四社ほど訪問してきた。
北から南へのルートだ。


最初に参拝したのが浅木神社である。

遠賀川の土手を上流に向かって走ると左手に川が流れているが、右手も江戸時代までは広大な川が広がっていた。

今は田園が広がっているが、朝木神社の鎮座する小山は遠くからでも良く分かる島のような姿をしていたはずである。







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一の鳥居の奥に小山がある。







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心地よい参道だ。小山の雰囲気が伝わるだろうか。
この道もかつては海だった。











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石段を少し上ると拝殿前に出る。





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そして、拝殿に掲げられていた「浅木神社略記」にまさにその歴史が簡潔に書かれていた。


<祭神 日本武尊、応神天皇、素戔嗚尊

<昔時、淺木神社の周辺は岡湊よりの内海であった。

日本武尊、熊襲御征伐の帰途、臨幸の神跡の霊地である。第三十七代斉明天皇また此の淺木山に御船を寄せ給う。この御代より鎮祭し奉る古社である。>一部読みやすく変更


日本武尊


 武尊は熊襲討伐の帰途に立ち寄ったとある。
「福岡県神社誌」では、

<「船をこの浅木山麓に寄せて従者と共に山上に登り、四方を眺望し、旅懐を慰められ、自ら桜の木を追って麓の岸に挿し、

「私はこの山に心を留めた。願わくは、枝葉が茂り、陽春を迎えて美しい花を咲かせ、千年の春を迎えてほしい」と言った。

従者たちは争って柵を作って記念とし、海を渡って東に帰って行かれた。桜はいくばくも経たずに枝葉を茂らせて、武尊の心に応えた>(意訳)
とあり、日本武尊は麓に桜を植えたという。



斉明天皇

のちに斉明天皇も船を寄せたという。これも「福岡県神社誌」の続きに、

<斉明天皇が筑紫に下られた時、嵐に遭い、航路を変更して岡湊より内海に入られたが、夜になるまで嵐は収まらず、船は漂い揺れ続けた。この山の木でお食事の煮炊きをしたところ、その香りがふくいくとしたので、天皇が大いに称賛され、この山を朝木山と名付けられた。>

とある。

斉明天皇が長津宮への到着が遅かったのは、嵐のために遠賀川流域に避難したためだ。船を点検し、修理をするために滞在したのである。

その間、斉明天皇は川向こうの水巻町の八所神社で日本武尊に倣って先勝祈願をし、中間市磐瀬の御館山を行宮としている。

これまでは、何故斉明天皇の一行が遠賀川に入りこんだのか、理由が分からなかったが、ここにその理由が書かれていた。

実は、過去「ことのかたり」に書いているが、崋山に入り込んだ天智天皇に筑豊滞在の理由を尋ねた時、嵐のせいだと言っていた。これを裏付ける伝承が出てきて驚いている。









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さて、この本殿がなんと、茅葺(かやぶき)だった。
とても珍しい。

この美しい本殿に三神が鎮座している。


20190421




福岡県遠賀郡遠賀町浅木3丁目22-13





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by lunabura | 2019-04-21 21:08 | 日本武尊 | Comments(2)

日本武尊の伝承地 こんなに沢山あった


日本武尊の伝承地 

こんなに沢山あった







現在、福岡と佐賀での日本武尊の伝承地を整理し、分析しているところです。
資料としては、今のところ13ページ、歴史カフェ史上最大ページになりつつあります。

既にブログに挙げた神社を整理したあと、念のために「遠賀郡誌」を読んでみたら、次々に関連神社が出てきまして、筑豊だけでも合わせて15社になりました。
とても多いと思います。


それぞれの地域に支援者たちがいて、それが直後の仲哀、神功へと繋がっていきます。
そして、記紀では日本武尊も仲哀、神功もこのエリアの記事が欠落しているのです。

地元の方も、断片的に出てくる日本武尊の名に、不思議な感じを持っているのではないでしょうか。
バラバラに伝えられた伝承を繋いでいます。

量的に多くなっても、出会った神社はすべて網羅して、丁寧に作っていこうと思いました。それというのも、これが「本」になる機会はないからです。

一期一会。
という思いで資料作りをしています。

日本武尊は筑豊を始まりとして筑豊に戻ってきます。
このため、エリアごとにまとめることにしました。

福岡県
水巻町
① 八劔神社  日本武尊の仮宮。砧姫を娶る
② 八所神社  日本武尊は十握剣を立てて天地の神に祈った

八幡西区
③ 杉守神社  小狭田彦は香月姓を賜った
④ 尺岳神社  日本武尊は尺岳の山上で石と背比べした
⑤ 八劔神社  日本武尊が立ち寄った

直方市
⑥ 御山神社 日本武尊は陣営地に木を植えた
⑦ 鳥野神社 日本武尊は国見をして先勝祈願をした

鞍手町
⑧ 剣神社 日本武尊が立ち寄った
⑨ 豊日別神社 今朝麿は日本武尊を歓待し仮宮を建てた
⑩ 八剣神社 今朝麿は百枝の賢木を飾って日本武尊を迎えた
⑪ 熱田神社  日本武尊は亀甲で地祇を祀った
⑫ 劔神社  日本武尊は行在所に太刀と冑(鎧)を納めた

遠賀町
⑬ 浅木神社 日本武尊は凱旋して山に登り、桜を植えた


田川市

⑭ 白鳥神社 日本武尊は陣営地で天神地祇を祀った
⑮ 白鳥神社 日本武尊は景行天皇の陣営地に陣を敷いた


佐賀県
神崎町
① 白角折神社 日本武尊は的に向かって矢を射た
佐賀市
② 日本武尊は巨大な楠を見て「栄の国」と名付けた
③ 真手山 日本武尊は女装して熊襲タケルを殺した
小城市
④ 土蜘蛛の砦
藤津郡
⑤ 日本武尊の船が停泊した


歴史カフェではこれらを詳細に、また全体像がつかめるように伝えたいと思います。

日本武尊ファンも多いですが、まさか、福岡佐賀にこれほどの伝承地があるとは驚きだと思います。

日本武尊の歴史を知り、関連神社を参拝することは、
遠賀川流域の古代の人々の思いを知ることにもなると思われました。

「日本遺産」にふさわしい神社群です。



日時 2019年5月5日(日)2時~4時(1時半開場)
会場 福津市中央公民館 2階 視聴覚室「ひもろぎ歴史愛好会」
所在地: 福岡県福津市手光2222
電話: 0940-43-2100(ナビ用です)
交通アクセス JR福間駅から徒歩15分
西鉄バス「手光」バス停から徒歩8分。
会費 1500円(当日払い)


申し込み方法
1 氏名(フリガナ)(あればハンドル名)
2 住所 市町村、字名まで (例として福岡市東区香椎、春日市春日)
   (番地は不要です)
3 タイトルに歴史カフェ505希望と記入。

申し込みは
himorogi888@yahoo.co.jp
(ドコモの方は当方からの返事が届かない場合があります。気にせずにご来場ください)

なお、『神功皇后伝承を歩く』(上下)を購入希望の方はその旨書いてください。
当日お持ちします。

福間中央公民館 
所在地: 福岡県福津市手光2222
電話: 0940-43-2100(ナビ用です)
交通アクセスはJR福間駅から徒歩15分
西鉄バス「手光」バス停から徒歩8分です。




20190415


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by lunabura | 2019-04-15 20:10 | 日本武尊 | Comments(4)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25