人気ブログランキング |
ブログトップ

ひもろぎ逍遥

カテゴリ:日本武尊( 12 )

日本武尊と金剛タケル5 鳥野神社 日本武尊が熊襲を眺望した



直方市大字頓野字内ヶ磯にある鳥野神社にも日本武尊の足跡がある。

『福岡県神社誌』によると、
祭神 保食(うけもち)大神、軻遇(かぐ)槌(つち)神、天照大神、応神天皇、月讀大神
となっている。

 日本武尊の来歴に関して訳してみよう。

景行天皇の御代に日本武尊は熊襲討伐の為に下国された時、当山で神威を感じられた。
そこで敬拝して戦利を祈られ、凱旋する途中に再び来て、上宮、中宮、下宮の三宮を創立し、お礼の気持ちを表された。
それ以来、衣食の太祖、西州の鎮守として朝野の尊信が厚い。

仲哀天皇の御代、神功皇后が三韓征伐のために下国の折、戦利を祈り、帰国の後、鳴鏑矢(なりかぶらや)を山上に納めて、武内宿禰にお祀りさせられた。(略)当社の神使は鳥である。(略)日本武尊が熊襲を眺望した所なので国見山とも言う。>

日本武尊は熊襲討伐の為に当地に来た時、当山で祈り神威を感じ、戦勝を祈願した。
そして戦いに勝ると凱旋の途中で当地に再び来て上中下の三宮を創立したという。

上宮は福智山になる。日本武尊は山上に登った。
この鳥野神社からは眺望が利かないのは中宮か下宮だからだ。






日本武尊と金剛タケル5 鳥野神社 日本武尊が熊襲を眺望した_c0222861_21195841.jpg

しかし、ここも聖地らしい趣があり、誰もが一の鳥居で感嘆の声を挙げる。





日本武尊と金剛タケル5 鳥野神社 日本武尊が熊襲を眺望した_c0222861_21201328.jpg

石段は長いが、意外に上りやすい。
ここもキャンプ場になっているようだ。


日本武尊と金剛タケル5 鳥野神社 日本武尊が熊襲を眺望した_c0222861_21203195.jpg





同じ直方市にある近津神社の縁起によると、
日本武尊は福智山に登って弓矢を奉納している。
この時、玉体を守護する事代主命を新たに祀ったとあり、その神は近津神社の方に祀られている。

この縁で神功皇后も先勝祈願し、凱旋後に山上に鳴鏑矢を奉納した。


以上の話はよく分かるが、問題は下線部の「熊襲を眺望した所」という言葉だった。

熊襲と言えば佐賀の川上タケルのことなので、
どうして福智山から佐賀が眺望できるのか、疑問が湧いたのだ。

香月文書には
<日本武尊は黒崎より上陸して笹田の小狭田彦とともに黒川を渡り、熊襲の軍を屠った。>とあり、
明らかに地元の話だった。

そして周辺の伝承を調べるうちに、金剛タケルを熊襲としていることが分かったのである。






日本武尊と金剛タケル5 鳥野神社 日本武尊が熊襲を眺望した_c0222861_22345555.jpg


地図上では尺岳神社から尺岳を経て尾根伝いに鳥野神社まで行けそうだ。

が、バスで行くとなると、尺岳神社から一旦山を下り、南下して再び山の方に向かわねばならない。
途中、隕石で有名な須賀神社に立ち寄ったが、それは別の機会に記そう。

尺岳神社は畑ダムの湖畔にあったが、鳥野神社は内が磯ダムの湖畔にある。
思えば二つとも地形と鎮座地が似ていた。


ナビで行くとダムを支える橋を通るように示す。
乗用車では何とか通るが、道も橋も狭いので、バスは曲がり切れない。
バスの時には遠まわりで行った。

鳥野神社の夏の画像を見ると緑陰が美しい。






<20200228>









日本武尊と金剛タケル5 鳥野神社 日本武尊が熊襲を眺望した_c0222861_15184581.gif

by lunabura | 2020-02-28 21:22 | 日本武尊 | Comments(0)

日本武尊と金剛タケル4 尺岳神社 香月氏の拠点



『筑前の伝説』(昭和11年佐々木滋寛)に直方(のおがた)の尺岳(しゃくだけ)の地名由来が載っている。
それには日本武尊が関わっていた。読んでみよう。(一部、現代仮名遣いに変更)

「頓野(とんの)字上頓野」に残る「尺岳の背競(せいくらべ)石」

日本武尊熊襲征討のために筑紫に下られた時、大渡川から遠賀郡杉森の地を経て尺岳に上られ、山上に聳える大石に凭(よ)って御身の丈を比べられたので、この山を『はかり岳』というようになった。

その時その大石は俄(にわか)に命(みこと)の御丈よりも一尺ばかり縮んで低くなったといい、その背競石は高さ六尺位もあって尺岳神社の傍に残っている。>





日本武尊と金剛タケル4 尺岳神社 香月氏の拠点_c0222861_22345555.jpg



画像の右上に杉守神社と尺岳神社と尺岳がある。

杉守神社で、「当社はもともと畑ダムの所にあったのが災害などで現在地に遷った」と伺った。
つまり、尺岳神社が元宮だと言うことになる。

上記の本から、日本武尊は川を遡って杉守神社の所に至り、そこから尺岳に登ったことが分かった。
日本武尊が山上にあった大石と背を比べたことから山名が「はかり岳」となった。
その大石は武尊の背丈よりも30センチほど低くなったが今も残っているという。



祭神は「日本武尊 少彦名命 大歳神」だが、もとは「日本武尊 小狭田彦 御剣王」だった。

この小狭田彦(おさだひこ)と御剣王(みつるぎおう)については「鞍手町誌」の方に詳しく書いてある。

<香月文書によると、畑城主香月氏の神話伝説に次のようにある。

小狭田彦の孫小磐削(こいわげの)御剣王は日本武尊と小狭田彦の娘・常磐津姫の間に生まれた人である。

父君の日本武尊に従って東征し、駿河の焼津では特に軍功があった。

その賞として祖父景行天皇より武部(たけべ)臣の称を頂いたほどである。

御剣王は帰国の後「兎(と)に角(かく)に父の尊の慕わしくて、尺岳及び新北(尊の戦勝を祈り玉ひし地なり)に尊を祭り玉ひ云々」とある。>


小狭田彦の娘に常磐津姫がいて、日本武尊と結婚した。二人の間に小磐削御剣王が生まれた。この御剣王は日本武尊の東征に随行し、駿河の焼津で軍功があったという。

すると、御剣王が従軍できる年齢に達するまで、少なくとも十数年間は日本武尊も筑豊に居たことになる。

御剣王は祖父の景行天皇から武部臣の称を貰ったということなので、景行天皇も十数年生きていたことになる。
記紀とはかなり時間差があるようだ。

この御剣王は帰国して尺岳と新北(にぎた・熱田神社)に日本武尊を祀った。



日本武尊と金剛タケル4 尺岳神社 香月氏の拠点_c0222861_22345555.jpg



新北の場所は画像の左の方、剣岳の西にある。その亀甲で武尊は戦勝祈願をしたと現地で伝えている。(ウーナや脇巫女に出てくる「亀甲」のこと)

ついでに説明するなら、その東にある御山神社が陣営地である。



さて、尺岳神社は未訪問だったが、先のバスハイクで「直方と田川の日本武尊伝承地」を回る時、そのルートに入れた。

最初に「畑キャンプセンター」に行き、そこから遊歩道を通って参拝する予定だった。

なかなかキャンプセンターが分からなかったのだが、何人かの人に尋ねて辿り着いた。

幸いにスタッフがいたので尺岳神社の場所を尋ねると、水害で道路が壊れ、修復中なので通れないと言われた。遊歩道も壊れたのか、と思ったが、何とかバスでも行けるだろうという話を聞き、近くまで行って歩くことにした。

距離は一キロほどだということなので、歩いても15分ぐらいだ。

スタッフは、「バスも、もし祠の所まで着けばそこで方向転換が出来ると思います」と言われた。
そして「どうしてあんな所に行くのですか。石の祠ぐらいしかないですよ」
と何度も言われた。
そして「自己責任でお願いします」と言って見送ってくれた。

(いや、ちゃんと拝殿があるはずだが)
と思いながらも、教えられた通りに大通りに戻って下り、林業の家の手前を左折して脇道に入ったとたん、「変だ。山に向かっている」と気づき、バスの運転手さんにストップをかけた。

後ろの座席からも「方向が反対ですよ」とスマホで検索して教えてくれた。
尺岳神社はダムの側にあるはずで、水際に下がって行くはずだ。

教えられたのは山の上の神社?
皆さんと相談して、スマホを信じてダムを周回する道に方向転換した。

その道は細く、舗装の端っこが丸く壊れてタイヤが半分脱輪するような状況だったが、運転手さんは「ダブルタイヤだから大丈夫」と気にせずに進んでくれた。

ホントに半分脱輪したのだが、言われる通り、影響なく進んだ。しかし、その先が左カーブになっていて、道なりに曲がると、右手には柱があって接触しそうになる。
運転手さんの腕が良くて何とか切り抜けた。

それからも、ずっと左はダム。右は山。そこをくねくねと曲がっていくと、大きな鳥居が見えた。
後ろから大きな拍手が起きた。






日本武尊と金剛タケル4 尺岳神社 香月氏の拠点_c0222861_21374968.jpg

まさかね。
バスハイクの第一社目がこれほど困難な道だったとは。

で、バスを降りると遊歩道の案内板がちゃんとあった。

まさか、さっきのスタッフはエリア内に尺岳神社があるのを知らなかった?
まさか。まさか。

と言いながら、無事に参拝を済ませたのであった。



日本武尊と金剛タケル4 尺岳神社 香月氏の拠点_c0222861_21381790.jpg










日本武尊と金剛タケル4 尺岳神社 香月氏の拠点_c0222861_21383334.jpg

旧祭神は「日本武尊 小狭田彦 御剣王」

香月氏の長・小狭田彦と婿の日本武尊、その子の御剣王という関係になる。

ここが香月氏の拠点だった。
ダムに沈む前はどのような集落があったのだろうか。 
キャンプ場にもあったかもしれない。
きっとこの神社は集落からは小高い聖地だったのではないだろうか。
そんなことを考えた。

<20200227>
by lunabura | 2020-02-27 21:40 | 日本武尊 | Comments(0)

日本武尊と金剛タケル3  秋葉神社 火の神



金剛タケルは領土で水の神と火の神を祀っただろう。


日本武尊と金剛タケル3  秋葉神社 火の神_c0222861_22345555.jpg


そういう推測から、まずは直方市(のおがた)の竜王峡に行き、続けて秋葉神社に行った。
赤い楕円の中にある。秋葉神社は火の神を祀る神社だ。






日本武尊と金剛タケル3  秋葉神社 火の神_c0222861_19573735.jpg

これは鳥野神社に向かう途中の道から撮ったもので、中央に秋葉神社を祀る山がある。
いかにも神奈備山であり、遥拝所ともなりそうな山である。

この麓の里こそ金剛タケルが集落を営んだと思われた。

近づくと三角錐の山が三つ並んでいた。
直登だ。高度は低くても、頂上に行くのは大変だとすわかった。










日本武尊と金剛タケル3  秋葉神社 火の神_c0222861_19583273.jpg

社前のようす。奥に石段が見える。








日本武尊と金剛タケル3  秋葉神社 火の神_c0222861_19584684.jpg

が、すぐにこんな急斜面の大きな石の石段となった。








日本武尊と金剛タケル3  秋葉神社 火の神_c0222861_1959414.jpg

休み休み登ると頂上の手前に注連縄があった。

山中に人工的な広場がある。そこに最近の祭祀の跡があった。
今思えば、いわゆる稲荷地形。製鉄、冶金の民が営みそうな地形だ。







日本武尊と金剛タケル3  秋葉神社 火の神_c0222861_19595812.jpg

そこからさらに進み、最後の急階段を上ると石祠があった。

麓の掲示板には
<由緒
当秋葉神社は静岡県周智郡春野町の秋葉山に鎮防火燭の神として祀られている秋葉神社(本社)から、寛政七年(1795)一月、直方市外町の中島徳八大塚善蔵漁師が上頓野養生寺清水山に勧請したもので祭神は火産霊命(ほむすび)軻遇槌神(かぐつち)であります。>
とある。
江戸時代に勧請されたものだ。
火産霊命(ほむすび)軻遇槌神(かぐつち)も同じ火の神。

それより前の時代のことは知る由もないが、この麓に住む者たちにとっての聖山には違いなかった。
筑紫の多くの神社が再勧請していることを考えると、ここも古代から火の神を祀っていて、のちに再び勧請したケースとも考えられた。


<2020028>



日本武尊と金剛タケル3  秋葉神社 火の神_c0222861_15184581.gif

by lunabura | 2020-02-18 20:00 | 日本武尊 | Comments(0)

日本武尊と金剛タケル2 竜王峡と龍王神社


金剛タケルの聖地の可能性を探してまずは竜王峡へ向かった。

一度行ったことがあり、緑陰の中に寝転がって空と緑の葉を眺めた記憶があった。
ブログでも勧める方があったのを思い出しながら向かったが、全く記憶は消えていた。








日本武尊と金剛タケル2 竜王峡と龍王神社_c0222861_2111056.jpg

鳥居があり、歩きやすい石段がある、と思いきや、
参道上にバンガローがいくつも建っていて、神社が全く見えないようになっていた。

道が無いので、大きな岩をよけながら探す。
どんな山道でさえも道はあるのに、ここには無い。








日本武尊と金剛タケル2 竜王峡と龍王神社_c0222861_21112256.jpg

これは拝殿らしいのだが、正面がない。










日本武尊と金剛タケル2 竜王峡と龍王神社_c0222861_21113847.jpg

その奥に回り込んで祠に出た。

祭神は 闇龗命(くらおかみのみこと) 山の谷間の神
    闇大山祇命(くらやまずみのみこと)山の神
    罔象女命(みずはのめのみこと) 両水の灌漑の神
とある。

掲示板によると、由緒は

<水の神として筑豊地方の住民に知られている当社の建立は不詳であるが仁安元年、今から約800
年前再建されたことが続風土記に記録されているが、附近一体は尺岳神社として女人禁制の霊場と共に筑豊四郡(遠賀、鞍手、嘉麻、穂波)住民の雨乞い所として崇敬をあつめていた。>後略
  社務所

とある。


右手には滝があった。拝殿は滝を正面としていたのだろうか。






日本武尊と金剛タケル2 竜王峡と龍王神社_c0222861_2112767.jpg

滝の水はあくまで透明だ。

まさに水の神のおはす聖地だ。



しかし、どういうことだろうか。


この町は聖地にキャンプ場を造り、その祈りの場を台無しにしている。

手を合わせることも困難な状況に、何故したのだ。
このようなクレームは書きたくないのだが、聖地としての環境を壊している。







残念な思いに心が占められたが、ここに来た目的は金剛タケルの聖地探しだった。

気を取り直すと、鳥居の手前に恰好な地図があった。







日本武尊と金剛タケル2 竜王峡と龍王神社_c0222861_21123678.jpg

現在地は竜王峡キャンプ村だ。
この川の上流に尺岳があった。そここそ、日本武尊が偵察に訪れた所だ。
つまり、尺岳から川を下ればこの滝に着く。

日本武尊を支援した香月氏と金剛タケルの郷の境は分からないが、この川は互いの勢力を分ける重要な川だったのではないか。

巨石を追いかけていた頃、何故水源に岩刻文字があるのか、尋ねたことがある。
河口から上がっていった一族は川を遡ってその水源を見つけ祈ったのだ、
という説を聞いた。

金剛タケルは頂上まで支配せずとも、この竜王の滝は重要な聖地としたのではないか、
勝手な推測だが、そう思われた。


日本武尊と金剛タケル2 竜王峡と龍王神社_c0222861_22345555.jpg



<20200213>
by lunabura | 2020-02-13 21:13 | 日本武尊 | Comments(0)

日本武尊と金剛タケル1 日本武尊の偵察ルートと金剛タケルの聖地


日本武尊の名は『古事記』や『日本書紀』『風土記』に出てくる。


熊襲タケルとの戦いは有名だが、その弟の金剛タケルとの戦いは筑豊の神社群から知る事となった。

筑豊という地域についてはいつも書くように、記紀からは抹殺されているが、金剛タケルの存在も抹殺されていた。

しかし、日本武尊の祭祀や陣営地などを地図に落としていくと、それらに囲まれたエリアが出てくる。それが直方(のおがた)市にあった。







日本武尊と金剛タケル1 日本武尊の偵察ルートと金剛タケルの聖地_c0222861_22345555.jpg

黄色地の神社は日本武尊方。白地の「金剛山」が金剛タケル方だ。
日本武尊は上の杉守神社から尺岳神社に行き、尺岳を通って、赤字で書いた鳥野神社に行く。

それは偵察の行路だった。

その麓に金剛タケルがいるのは明らかだった。
「金剛」の名から容易に推測できるのが金属加工集団の姿だ。

金剛山の麓に金剛タケルの部族は展開していたのではないか、と思われたが、
まつろわなかったために滅ぼされた民の集落を特定することは困難だろうと思われた。


しかし、その聖地は今も名を変えて残っているのではないか。

そう思って地図を見ていると、日本武尊たちの包囲網の中央にある赤い○に囲んだ部分が気になった。そこに「秋葉神社」の名が見えた。

火の神が祀られている! 当然ながら金属加工集団に必要な神だ。

また、その東の山の中を見ると「龍王神社」がある。
水の神だ。

「火と水の神の宮」こそ、金剛タケルたちの聖地ではないか。
そう思い、探訪することにした。



<20200204>

地図の転載を禁じます。






by lunabura | 2020-02-04 22:36 | 日本武尊 | Comments(0)

松野連系図と符合した日本武尊の戦い


松野連系図と符合した日本武尊の戦い



「松野連系図」というものが熊本菊池の松野家に伝わっている。

その始まりは呉王夫差で、熊襲の名を伝え、倭の五王に連なる系図だ。
ご存知の人も多いだろうが、このブログでは初めて扱う。

それというのも、昨日系図のファイルを取り出した時、その系図が出て来たからだ。

そして、二人の名に目が釘付けになった。
それは取石鹿文と弟鹿文の名だ。取石鹿文には「川上梟帥」の注が添えられていた。









松野連系図と符合した日本武尊の戦い_c0222861_21185024.jpg

「倭国王のふるさと火ノ国山門」より。丸や四角は綾杉作図。

あの川上梟帥だ。
佐賀の真手山で日本武尊に殺された筑紫の王の名ではないか。しかも、弟がいる。しかも二人の系図の続きは断絶していた。

よく見ると、赤丸と緑丸に同じ名の兄弟が書かれている。
いずれが日本武尊に殺された真手山の川上梟帥か、と考えた。

青丸を見ると、「厚鹿文(あつかや)と市乾鹿文(いちふかや)と市鹿文(いちかや)」という「父と二人の娘」が記されている。

景行天皇の謀に乗せられて父の厚鹿文殺しに手を貸した市布鹿文は景行天皇に殺された。その後、妹の市鹿文が火の国造となる。

そうすると、日本武尊は景行天皇の子なので、時代的には緑の取石鹿文(とりしかや)兄弟が佐賀の川上梟帥と筑豊の金剛山梟帥に該当する。

彼らは熊襲だ。熊襲は南九州にいたイメージがあるが、古事記では九州となっている。

もともと筑紫に取石鹿文がいて、日本武尊が攻めて来たので佐賀(火国の一部)に逃げたと地元では伝えている。

日本武尊とは川上梟帥から貰った名だが、前の名は小碓命だ。

小碓命は何故、熊襲の名を襲名したのか、疑問があったが、熊襲がもともと九州すなわち倭の王家だったとすれば合点もいく。倭王征服の象徴だったのだ。その証拠ほどでもないが、古事記では日本武尊とは書かず、倭建と書いている。

また、系図上、川上・金剛兄弟の所で断絶するのも道理だ。皆殺しなのだから。

さらに、系図では、この王家はオレンジの四角に囲った「難升米」のように魏志倭人伝に出てくる人物も登場する。
この人たちも系図では支流で、次世代は途絶えている。
そして、本流には続きに倭の五王の名がずらりと出てくる。

玄界灘に立つと朝鮮半島への航路が浮かぶが、熊本に行くと、海の向こうは中国だ。福岡南部あたりから南には中国語の発音がかなり濃厚に伝わっている。

今日は、此の辺で。いずれ、じっくりと系図を読み込んでみようと思う。

明日はバスハイクで肥前すなわち火前国に行く。

7月は幣立神宮、8月はこの菊池へ。火後国だ。お楽しみに。


<20190529>


松野連系図と符合した日本武尊の戦い_c0222861_15184581.gif

by lunabura | 2019-05-29 21:19 | 日本武尊 | Comments(4)

日本武尊の足跡 鳥野神社 日本武尊が国見をした


日本武尊の足跡 

鳥野神社 

日本武尊が国見をした



さて、四社目、直方市の御山神社から遠賀川を渡り、同じ直方市の鳥野神社に向かった。



日本武尊の足跡 鳥野神社 日本武尊が国見をした_c0222861_2094033.jpg

屏風のように並ぶ福智山山系のうち、馬蹄形の山の右の山の中に鳥野神社がある。









日本武尊の足跡 鳥野神社 日本武尊が国見をした_c0222861_227641.jpg

内が磯地区に公園があり、道路脇に造られた駐車場に車を止めると、道を挟んだ山側に重厚な鳥居があった。










日本武尊の足跡 鳥野神社 日本武尊が国見をした_c0222861_2272261.jpg

神額は「福地山」とある。この鳥野神社は福智山の下宮に当たる。



福智山は「福岡県神社誌」によると、
<神代の昔、天尊彦火瓊瓊杵尊の勅願により、猿田彦鈿女の二神に命じて福智山に鎭祭せしめられたり。>
とあり、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が猿田彦と天鈿女(あめのうずめ)に命じて神々を祀らせたのが始まりとする。



瓊瓊杵尊の墓は鞍手の六ケ岳にある。瓊瓊杵尊が降臨するときに迎えに来た猿田彦が天鈿女と夫婦になったあと、この福智山に神々を祀らせたのである。



日本武尊の足跡 鳥野神社 日本武尊が国見をした_c0222861_228920.jpg

鳥野神社の祭神は 保食(うけもち)大神、軻遇槌(かぐつち)神、天照大神、応神天皇、月讀大神
となっているので、応神天皇を除いた、四神を祀ったということか。



その後、日本武尊がやって来て勝利祈願をし、凱旋したのちも再び来て、上中下三所神功を創立したという。

また、熊襲を瞰望した地なので国見山とも称すという。

ここで、金剛タケルの存在を知らなければ、何故直方から熊襲を視察できたのか、不審に思っただろう。
日本武尊は金剛山から尺岳、そして鳥野神社と、尾根伝いに移動したと考えられ、金剛タケルはこれら馬蹄形の山壁に囲まれた丘辺りに拠点を構えていたと思われる。

香月文書には
<日本武尊は黒崎より上陸して笹田の小狭田彦とともに黒川を渡り、熊襲の軍を屠った。>とある。

御山神社の陣営は陽動作戦であり、日本武尊は敵状視察を終えて尺岳神社付近に戻って作戦を練り、小狭田彦の手勢を連れて背後から攻めたと思われる。





日本武尊の足跡 鳥野神社 日本武尊が国見をした_c0222861_2291797.jpg

さて、次の時代、神功皇后もここに来て戦勝祈願をしている。そして、凱旋すると鳴鏑矢を山上に納め、宿禰に祀らせたという。



武内宿禰は佐賀では日本武尊に同行している。ここでも日本武尊と一緒だったのではないか。

日本武尊が死んだあと、武内宿禰は政務天皇に仕え、仲哀天皇に仕え、神功皇后の道案内をして当社に再び訪れたことになる。



驚いたのは、天武期に筑紫帥栗隈王もまた当社に参拝している点だ。栗隈王の足跡が出てくることはまずはない。「神威」を感じて朝廷に奏上し、天皇の勅命で「西州鎮護の惣社」としている。

この時、鞍手郡粥田などを寄付しているので、先日バスハイクで行った饒速日を祀る天照神社の鎮座する郷は鳥野神社の神領となったことになる。

また、役小角もまた当山で祈っている。

そして、黒田長政は黒田藩の鬼門鎮守とした。

これほどの歴史を重ねる神社を知る事ができたのは、日本武尊の縁であり、この神社を教えてくれた菊如の縁でもある。









日本武尊の足跡 鳥野神社 日本武尊が国見をした_c0222861_2295786.jpg


<20190429>
歴史カフェ福津
5月5日(日)2時~4時
日本武尊ー福岡佐賀の伝承と記紀を比較する
会場:福津市中央公民館
申し込み先 himorogi888@yahoo.co.jp 
案内はコチラ






日本武尊の足跡 鳥野神社 日本武尊が国見をした_c0222861_15184581.gif

by lunabura | 2019-04-29 22:10 | 日本武尊 | Comments(0)

日本武尊の足跡 若宮町誌 銅山と遺跡と地名


日本武尊の足跡 

若宮町誌 銅山と遺跡と地名



例の如く、片付けをしていて、ポロリと出て来た資料があった。
それは「若宮町誌」の「第九章 若宮の銅生産遺跡」のコピーだ。

若宮は現在、宮若市。明日、バスハイクで出かける。

資料は出てきても、すぐ行方不明になりがちなので、今日はその一部を写しておこうと思う。


<第一節 史料にみる銅山と遺跡

古代の北九州地区の銅生産については、「豊前国風土記」逸文をはじめ、『三代実録』の規矩郡(規矩郡・きく)の採銅、さらに『延喜式』の銅・鉛の採送などの記録がみられる。

近世においては、『小笠原歴代家譜』に大里銅山の記事、また貝原益軒や伊藤常足などの著書にも産銅記事が目につく。>

規矩(企救)といえば、菊物部がいる所で、大きな銅矛が出土していた。
銅に関しては生産地が特定できるということなので、調査結果などが分かったら面白い。





<列島内における近世の鉱山開発で、銅は十八世紀前半に画期的発展を遂げた。北九州地区においては、古代から近世・近代まで連綿と続いた田川郡香春町の香春岳があげられる。>


<伊藤常足は『太宰管内誌』の「金生郷」で「倭名抄」に鞍手郡金生は加奈布とあり、名義は古に金など出たる負せたるか、此辺小伏村ノ内に小金原と云処もあり、さて鞍手郡金生村有て今は若宮郷ノに入れり」と記している。>
と、「金生」という地名は金を出した所で、その近くには「鉛」という小字も残ると指摘する。
<銅などの非鉄生産地では、銅のほかに鉛や錫が産出されることも多い。

近年それらの金属生産遺跡の検出例も相次いでおり、このような観点から、町内のこれらの金属に関する地名は、すべてとはいえないが古くには非鉄金属生産が行われた可能性も考えられる。>

とある。

「金生」の北西二キロの所にあの「竹原古墳」がある。
また「金生」の北東四キロの所に六ケ岳がある。
明日行く笠置山の千石公園は「金生」に隣接している。
そこに加茂公園もある。賀茂氏は金属加工に長けている。

思えば、弥生時代の銅鏡にしろ、銅矛にしろ、今は青黒い色をしているが、生産した当時は白銅色あるいは黄金色に輝き、それは銅や錫の綿密な計算による配合で生まれた色だ。

弥生時代の銅製品がすべて中国産と考える必要はないと思うのだが。

景行天皇、日本武尊、仲哀天皇、神功皇后と度重なる九州鎮圧は熊襲と言われた金属加工技術を持った一族の制圧が目的ではないか、という思いをさらに強くした。

日本書紀では消されていた神功皇后の帰路は弥生の「銅の道」なのだ。





日本武尊の足跡 若宮町誌 銅山と遺跡と地名_c0222861_2094033.jpg


ちなみに、金剛山から南に下ると福智山があり、さらに南下すると香春岳に連なる。
梟帥(たける)族や土蜘蛛たちは棲み分けて、山の中で鉱山に従事していた工人集団だったと思う。

景行天皇や日本武尊が戦った相手たちこそ、九州の古層に生きた人たちである。


20190424



日本武尊の足跡 若宮町誌 銅山と遺跡と地名_c0222861_15184581.gif

by lunabura | 2019-04-24 20:57 | 日本武尊 | Comments(2)

日本武尊の足跡 御山神社 日本武尊の陣営地 VS金剛タケル



日本武尊の足跡

御山神社 日本武尊の陣営地 VS金剛タケル



前回の老良神社から遠賀川左岸の土手を遡っていく。

8キロほどだろうか。筑豊本線の植木駅を目指す。

「植木」という地名は日本武尊ゆかりの地名だ。

植木駅の南に三叉路があるので、右手、線路沿いの道を選ぶとすぐに御山神社に出る。







日本武尊の足跡 御山神社 日本武尊の陣営地 VS金剛タケル_c0222861_205321.jpg








日本武尊の足跡 御山神社 日本武尊の陣営地 VS金剛タケル_c0222861_2054911.jpg

藤棚が目印だ。

参道の上を藤の花が覆っている。





日本武尊の足跡 御山神社 日本武尊の陣営地 VS金剛タケル_c0222861_206574.jpg

左は「植木」の碑。中央が貴布祢社。 右の石祠が御山神社だ。「おやま」と読む。

主祭神は日本武尊 相殿に宮簀姫と須佐之男命



真新しい掲示板に

<第12代景行天皇の皇子、小碓命(日本武尊)が熊襲征伐の命を受け、行軍の途次、今朝麿(田部宮司家始祖)の案内で中山剣岳に登られ国見をされて御出発後、この地にて休憩され家来の弟彦公(尾張氏)に命じ、檀を築き一株の松を植えて後世の験とされた。

名付けて植木といい、松樹生い茂り所を植木の森(御山)と号し、その里を植木の里という。>
とあった。



日本武尊はいったん鞍手の剣岳に登って国見をしてこの地で休憩したという。
この時、弟彦公に命じて祭壇を築かせ、松を植えた。
これが「植木」の地名の由来となったが、注目したいのは「弟彦公」の存在だ。

日本書紀には日本武尊に熊襲討伐の勅命が下りた時、武尊は弓の名手を連れて行きたいと願った。この時推挙されたのが美濃国の弟彦公である。

この弟彦公が肥前での川上梟帥(たける)討伐の時に副大将として出てくる。
肥前と筑豊と離れた所に別々に伝わる伝承を繋ぐ重要な人物なのである。



ところで、何故、この地に祭壇を築いたのか。
その答えはもう一つの掲示板に書かれていた。

<今から1870年の昔、景行天皇さまの皇子で、日本武尊といふお方が九州の悪者の熊襲を、たいらげに来られたとき、この御山の地に陣所をつくられました。その記念として村人たちが社をたてて、日本武尊ご夫妻と、スサノオノミコトをお祭りして御山神社としました。(略)>

熊襲討伐の為に「陣所を作った」ため、祭祀をしたのである。



熊襲がここに居たのか?

それが忘れ去られた金剛タケルだ。金剛タケルは金剛山の近くに居たという。
金剛タケルは江川梟帥(たける)と言い、川上梟帥の弟だった。






日本武尊の足跡 御山神社 日本武尊の陣営地 VS金剛タケル_c0222861_2094033.jpg

画像の中央を遠賀川が南から北に流れている。
左岸に御山神社があり、その西に剣岳がある。
剣岳に登ると、今も金剛山と福智山が良く見えている。
だから、この国見は金剛タケルの拠点を見定める国見だったのである。


日本武尊は尺岳にも登って国見をしている。
鳥野神社にも行っていて、多分尾根道を通って敵状視察をしたのだろう。


金剛山から尺岳にかけての馬蹄形の山容は恐らく阿蘇の外輪山のような成り立ちに思われる。
火山噴火による陥没ではないか。(専門家ではないので、想像に過ぎないが)

恐らく「金剛」の地名のように、金属を産出する所で、梟帥族(熊襲)がそこで生業を行っていたと考えられる。

熊襲討伐の理由は「朝貢しないから」というものだ。

いつの間にか、熊襲と景行天皇の間には朝貢関係が生じていたのだが、何を朝貢したのかというと、やはり金属と武器ではないか。
それを拒否したことから、熊襲討伐となった。

さて、日本武尊の採った戦略はどうだったか。
結局香月氏の拠点、すなわち黒川を遡って、北から攻めたことが香月文書にある。

この植木から正面攻撃の作戦を採るには遠賀川を軍隊が渡るという難題があり、後方からの攻撃が有効だったのが現地に立つと良く分かる。



20190423



日本武尊の足跡 御山神社 日本武尊の陣営地 VS金剛タケル_c0222861_15184581.gif

by lunabura | 2019-04-23 20:11 | 日本武尊 | Comments(2)

日本武尊の足跡  老良神社 日本武尊と砧姫の間の子 砧王


日本武尊の足跡

老良神社 日本武尊と砧姫の間の子 砧王





前回の淺木神社から東、遠賀川の方に向かって約二キロの地点に老良神社がある。

オイラと読む。








日本武尊の足跡  老良神社 日本武尊と砧姫の間の子 砧王_c0222861_21284340.jpg

『水巻昔ばなし』によると、祭神は日本武尊と砧王。

砧王(きぬたおう)とは、日本武尊と砧姫の間の子で、記紀には登場しない。

【水巻昔ばなし】
<砧王については、その後この地で守護職に任ぜられたというが、そのためであるのか遠賀町老良の老良神社は、日本武尊と砧王を祭神にしている。砧王には重広王、末広王、時王、末守王の四王子をもうけて、末永く栄えたという(略)>

日本武尊の行宮は対岸の立屋敷の八剱神社で、そこで砧姫と結ばれている。


老良という地名についでは地元の地名譚に、
<日本武尊と砧姫の子供である砧王がこの地の守令に任ぜられたことから、ここが「老楽の里」と呼ばれるようになり、この老良がいつのことからか、「老良」と言われるようになった。>
とある。


老良神社からは遠賀川の土手が見えている。




日本武尊の足跡  老良神社 日本武尊と砧姫の間の子 砧王_c0222861_21285973.jpg

ここの銀杏もまた、乳根が発達していた。




遠賀郡遠賀町老良67


赤 老良神社   紫 八剱神社


20190422


昨日、歴史カフェを申し込まれた方で、当方からの返信が届いていないものがあります。
受け付けておりますので、どうぞお越しください。





日本武尊の足跡  老良神社 日本武尊と砧姫の間の子 砧王_c0222861_15184581.gif

by lunabura | 2019-04-22 21:30 | 日本武尊 | Comments(0)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25