人気ブログランキング |
ブログトップ

ひもろぎ逍遥

カテゴリ:邪馬台国( 8 )

曹操の墓と日田で出た鏡が酷似!?



人は海に立つと水平線の彼方の世界を思う。

福岡の海に立つと、朝鮮半島が彼方にあり、そこには古代中国が深く入りこんでいた。
そう、魏の国。

熊本の海に立つと、彼方に中国があった。古代、そこにあったのは呉の国。

現地に立って初めて分かる感覚だ。

そして、海の無い奈良では、何処を見つめるのか。

それに答えてくれたのは、四十年間、纏向遺跡を掘った人だった。
中国のものが出ない纏向。
そこの人たちが見ていたのは愛知の方だったという。

奈良では中国大陸の政変はそれほど問題はないのだろう。

とある纏向派の学者が「福岡の邪馬台国の学会では中国の話ばかりしている」と、馬鹿にして発言したのに驚いた。
邪馬台国の話をするのに中国の話が要らないとは、不思議な学者だ。


志賀島で倭奴国王印が土中に隠されたのは、その印をくれた漢が滅びたからだ。
そんな印を持っていたら、漢と同一化されて討伐を受ける。

ただし、志賀島から出土した金印は封泥(ふうでい)なので、本当の国王印とは別物だ。

曹操はもともと漢の丞相(大臣)だった。
さまよう漢の皇帝を奉じ、支えていた。
そして、魏を興した。
曹操は死を迎え、墓に金銀財宝を入れぬように遺言した。
その墓が十年前に発見された。


そんなことを考えていたら、今日、ネットニュースで曹操の墓から鉄鏡が出ていたと発表された。

その鉄鏡には金銀の細工が施されているが、それが大分県日田市(ひたし)で出土していたものと酷似したデザインだそうだ。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190908-00000006-asahi-soci


日田市で鉄鏡発見した人物は、それを望まぬメディアや学者たちに誹謗され、否定された。
真実だったのが、ようやく証明されようとしている。

日田市で発見された鏡は金銀錯嵌珠龍文鉄鏡という。

某博物館では「金銀の鏡」と言って宣伝されたが、金銀ではない。鉄鏡だ。ある人がそれを注意したら、鉄鏡では人が集まらないからと言われたという。お粗末な話だが、記しておこう。












<20190908>


c0222861_15184581.gif

by lunabura | 2019-09-08 23:07 | 邪馬台国 | Comments(0)

魏の時代と卑弥呼




中国ドラマの「三国志―軍師連盟」を観ています。
司馬懿(しばい)という人が主人公ですが、別名「仲達」と言えばアレかと思う方もいるでしょう。

司馬懿が仕えているのが曹操(そうそう)の子・曹丕(そうひ)。
つまり、魏の国のお話なんですね。

魏と言えば魏志倭人伝。
つまり邪馬台国や卑弥呼が出てくるわけです。

魏は西暦220年から265年に存在したので、卑弥呼が死んだ248年を含んでいます。

卑弥呼はこの魏に朝貢(ちょうこう)しているので、すでに生まれているのかなあと思いながら見ています。





c0222861_20284897.jpg

中国ドラマの考古学的な考証はどの程度なのか、真偽を気にしながらも、銅鐸の楽器が出てきたり、竹簡を読んでいたりと、面白いシーンが沢山でてきます。

食事もお箸ですね。




c0222861_20291226.jpg

着物は「呉服」ともいうように、中国由来なので似ていて当然なのですが。






c0222861_20294356.jpg

何もかも似ていて、ずっと不思議な気持ちで観ています。




で、数万の兵に甲冑を付けさせ、武器を持たせ、制服を着せて、となると、膨大な資源と工房が必要だった訳で、その国力の大きさと戦いを見ていると、何故、遠く海を隔てた邪馬台国の存在にまで目が行き届くのか謎になってきました。

何せ、糸島まで使者が来るのですからね。


魏の建国が220年。卑弥呼が使者を初めて送ったのが238年。
弥生時代の人たちは情報を手に入れるのが意外と早いですよね。

邪馬台国にとっては、遠い中国大陸の政変とか、関係ないだろうに。
魏の後ろ立てが必要だったのです。

邪馬台国には中国に通じる深い縁があったと考えるようになりました。
呉でなく、魏に送ったのは何だったんだろう。


最近は弥生時代の硯が数多く発見されて、漢字文化の始まりの時の見直しがあっていますが、中国からダイレクトに使者も来るのですから、当然漢字を読み書きできる人がいたはずですね。
もちろん高位の人の特権でしょうが。
物部氏とか、すごく詳しく縁起を記すので、漢字は大切にしていたと思います。

船乗りもある程度知っていたでしょうね。
積み荷を騙されないために。


<20190906>





c0222861_15184581.gif

by lunabura | 2019-09-06 20:30 | 邪馬台国 | Comments(2)

魏志倭人伝 奴国の副官「卑奴母離」は女人の神官 ストーンヘンジと吉野ケ里




真鍋大覚のオリオンに関してまとめているが、倭人伝に出てくる副官の卑奴母離のことが出てくる。

<「まち」は「もち」「むち」「もり」などと同じく、「女人の神官」であった。「帥」のちには「盛」などと官名氏名にこれが唱えられることが多くなった。

倭人伝には「母利」なる万葉仮名がみえる。

「ひ」が「卑奴」であれば、「日神を冬至の夜に迎える儀式」であったことになる。

この日を限りとして、太陽は南には下らず、北に帰る。「日帰」(ひがえり)がこれであった。

凍夜の永きに育てられた遠い祖先が春を待ち望んだ心がよくうかがわれる。(拾43)>

卑奴母離という副官については、女性だと記した一文もあるが、ここでは「もり」とは「女人の神官」だと具体的に記している。

「卑奴」の「奴」は大きいという意味なので、「卑」=日なら、まさに太陽という意味になる。

上記の「冬至の夜に太陽神を迎える」という「日帰」の儀式のイメージが漠然としていて、深く理解できていなかったが、今日、NHKのストーンヘンジの番組を見ていて、腑に落ちることがあった。

ストーンヘンジに向かう参道を歩いていくと、冬至の夕陽が見えるような仕組みになっているという。
ストーンヘンジは祖先たちの墓であり、そのモニュメントとして「冬至の日の入り」が仕組まれているという。

北の国での「冬至」の持つ意味は日本人には理解できない深さがある。

5000年前のストーンヘンジよりさらに古いストーンサークルがイギリスの北のオークニー島にある。
それを実際に見学したことがあるが、7月の事だったと思う。

北の島の夏は白夜で、夜の10時になっても明るかった。人々はそんな時間になっても屋外で飲んだりしている。夜明けもかなり早いので、スコットランドの人たちは、夏はあまり寝ないのではないか、と思ったりした。

動物はどうなのか。
そう思って羊を見ていると、10時を過ぎても寝ずに普通に草を食べている。朝起きて見ると、羊は既に起きている。

夏と冬では違う体内時計が働いているのか。白夜の国は日本とは異なる季節のリズムがある。
そう、思ったりした。

だから、逆に冬のスコットランドは昼が短い。
夜が長く、冷たく凍える。
「冬至」の日がどれほど待ち遠しいことか。

冬至の太陽が沈むと、翌朝から春だ。
現実としては寒さは厳しくなるが、確実に春が来ることを確認する日なのだ。

<この日を限りとして、太陽は南には下らず、北に帰る。「日帰」(ひがえり)がこれであった。>
という文には、日本人の太陽信仰とは別層の意味があることを教えてくれている。

案外、ストーンヘンジには観測地点があって、そこから日々変化する入日の位置を確認していたのではないか。

(テレビでは太陽が垂直に沈む画像が造られていたが、それは勘違いではないかとも思った。)

冬には凍りつく大陸の果てから来た祖先は、四季のある日本列島に来ても、その祈りの習慣を続けていた。その儀式を行う者が卑奴母離だ、と真鍋は言いたいのだろう。

神殿も居ながらにして冬至が確認できる角度に建てたという。
そう、吉野ケ里がそうだ。来週バスハイクで行くので、建物群を確認しようと思う。

オリオンを理解するのに、「冬至の入日」の理解が必要だとは思いもよらなかったが、シンクロのおかげで理解が深まった。

<20190526>

乱文のまま投稿。明日にでも推敲するだ。おやすみなさい。



c0222861_15184581.gif

by lunabura | 2019-05-26 00:28 | 邪馬台国 | Comments(0)

真鍋ノート魏志倭人伝2 躬巨国 投馬国 伊都国 耶馬国 好古都国


真鍋ノート

魏志倭人伝2

躬巨国 投馬国 伊都国 耶馬国 好古都国



さて、真鍋大覚による魏志倭人伝の国々の記事のつづき。

躬巨国くしこく 古賀政男の出身地・筑後三潴大川。(宮崎康平説)
投馬国とうまこく 天草島。天鳥船の故郷。
早良さわら 魏志倭人伝にはない。
伊都国いとこく 怡土郡。奴国との境は室見川(早良川)
奴国ぬこく 那珂郡。伊都国との境は室見川(早良川)
耶馬国やまこく 筑後八女郡。
好古都国こことこく こごち。満天の星座。不知火の群光を連想させる。
邪馬台国やまたこく 時見の対象となる高山を遠望するところ。

早良に関しては、遺跡がありながら、
魏志倭人伝には記述されていない謎があるが、
真鍋は奴国の一部としているようだ。

伊都国は糸島水道の南から室見川までとしているので、
高祖山や飯盛山の山塊は伊都国ということになる。

奴国は「ぬこく」「なこく」いずれを読んだか未詳だが、
室見川と「ありなれ川」に挟まれた領域で、
那珂川町を中心と考えているもよう。

耶馬(やま)=八女(やめ)

好古都国に関しては断定はしていないが、
文脈からは不知火(しらぬい)の見える有明海沿岸と考えているようだ。

邪馬台国も断定していないが、東か西に時計代わりの高山があるとする。

また、「奴佳鞮」(なかて)とは邪馬台国の「官名」だが、
同名の「王」(あるいは邪馬台国の一官)が
多良岳~諫早を領有していたとする。


前回の地図に追加してみた。









c0222861_19373985.png

「奴佳鞮」(なかて)が邪馬台国の一官名ということは、
邪馬台国はこの付近としているように見受けられる。

倭国の大乱は雲仙岳(画像では普賢岳)の領有を巡ってのものだ
という文も見られた。(少しあいまいな記憶)


見つかったのは以上の国ぐらい。

本をお持ちで、ほかの国を見つけた方は、
コメント欄に、ページとともに一文を是非とも!


<2017年10月27日>

追記 島原鉄道が敷設された時、大量の弥生土器が出土した話を書いた一文がある。
あるいは、島原を邪馬台国と真鍋は考えたのかもしれない。

地図を見ていると、ヤマト地名が集中する筑後川下流域が個人的には最近、気になっている。
佐賀大和、大川大和、山門郡

<20190519>

c0222861_15184581.gif

by lunabura | 2019-05-19 17:45 | 邪馬台国 | Comments(0)

真鍋ノート 魏志倭人伝1 奴国 不彌国 為吾国 伊邪国 姐奴国 巴里国


真鍋ノート

魏志倭人伝1 


奴国 不彌国 為吾国 伊邪国 姐奴国 巴里国



中国人によって中国語で書かれた魏志倭人伝を中国人が読むと、邪馬台国の場所は九州になるという。

真鍋大覚の本には邪馬台国の各国の場所がちりばめられている。

単語帳をエクセルでボチボチと作り始めたところ、
真鍋による魏志倭人伝の各国も少しずつリストに挙がってきた。


今回は、その国々の中、わずか六国ではあるが、その場所を確認しよう。


奴国ぬこく二万戸余り。戸をもって数えた。ありなれ川を挟んで対岸に不彌国。

不彌国ふみこく千余家有り。家をもって数えた。ありなれ川を挟んで対岸に奴国。

為吾国ゐごこく肥後菊池泗水。ゐご=地底から湧き上がる水をためた深い池。

伊邪国いざこく肥前松浦伊万里。筑紫の天原の領域。
          中東民族が住み着いた歴史あり。

姐奴国そなこく宮崎康平によると、肥後益城。(ましき)
          そぬ・せの=女人が衣装を洗い濯ぎ、
          砧でたたき晒して干し、頭に乗せて帰る姿。

巴里国はりこく朝倉郡。あさくら・はり=高瀬舟の元祖の名。

地図に落としてみた。









c0222861_20324216.png

真鍋は「奴国」の位置を「ありなれ川」の西としている。

私自身、論を立てるようなレベルには達していないが、
真鍋の言う奴国の位置に関しては違和感がある。

香椎宮の位置が儺県(なのあがた)だからだ。

奴国とは、
委奴国(倭奴国)の金印が出た志賀島を中心とした博多湾沿岸全体、
すなわち、那珂川~那の津~香椎~旧粕屋郡北部を考えている。


真鍋による魏志倭人伝の世界は、これからも少しずつ追及していこう。

あくまでも真鍋の世界であって、私の説ではないことを断っておきたい。


真鍋の邪馬台国は何処だろうね。

<2017年10月26日>


再掲

c0222861_15184581.gif

by lunabura | 2019-05-18 22:11 | 邪馬台国 | Comments(9)

真鍋ノート 魏志倭人伝3「生口」とは海士・海女のことなり



真鍋ノート3 

魏志倭人伝「生口」とは

海士・海女のことなり



魏志倭人伝に「男女生口三十人を献上す。」とあり、「生口」の意味は奴隷など、さまざまに訳されますが、真鍋は海士・海女のことであると伝えています。

海産物を不老長寿の薬として珍重したので、それを採る熟練士を献上したという意味になります。中国大陸の都は海から離れた所にあるので、海藻やウニ、アワビなどは特に珍重されたのでしょうね。

「生口」は「まかり」と読んだそうです。
「めかり」は和布刈神社(めかり)にその名が残っていますが、旧正月に夜中の海に入ってワカメを採って、神に捧げます。これも安曇磯良の干珠満珠の秘法からきています。

では、真鍋の本から
<魏志倭人伝に曰く、
 男女生口三十人を献上す。
 
韓国済州島の海女を「まかり」と言う。昔は能登舳倉(へくら)から淡路岩屋まで季節を定めて出稼ぎにきていた。豊前企救(きく)和布刈(めかり)や筑前宗像鐘崎はその根拠地であった。

大陸民族は水を渡ること、あたかも戦々(恐々)として薄氷を踏むがごとくおそれるが、不老長寿の貴薬としての海藻(なまわかめ)、それから海肝(なまうに)の類は珍重するが、これを自ら衣を脱ぎ水にひたって採集することはできない。

そこで倭人の練達の士を召し抱えてこれに当たらせていたのである。「生口」(まかり)とは「なまめかり」と訓ずべき氏族であった。>


「生口」のイキグチの字は「魚」を表す近東語の「イクシス」から来たものだそうです。




過去記事に詳しく述べています。


済州島はもともと耽羅国であり、韓国とは別の国でしたよ



※和布刈神社は下巻100です。

20180120

再掲


c0222861_15184581.gif

by lunabura | 2019-05-17 20:05 | 邪馬台国 | Comments(2)

中国学者からみた邪馬台国の場所2 詳細編


中国学者からみた邪馬台国の場所2 詳細編





2019年5月10日の夜に放送された邪馬台国論争の詳細編です。
番組は
BSTBS 諸説あり 邪馬台国SP 九州説VS畿内説 中国取材で衝撃発見
というものです。

三人の中国人学者の話と一人の著書から論を立ててありました。
箇条書きで紹介します。
テレビを見ながらなので、完全なものではありません。その点を含み於いてください。


解析1 漢字学で読み解く「邪馬台国」

① 臧 克和(ザン コクワ)教授 上海


  邪馬台国の場所は「九州北部」
  ヤマ=九州北部一帯

古代の地名はその場所の「地理的な環境」に影響を受ける。

日本の場合だと「山」「川」。中国の場合でも「名山大川」の影響を受け名付けられる。
狗邪韓国から壱岐~奴国となっていて、いきなり遠い畿内には飛ぶようなことはない。



② 帳 莉(チョウ リ) 准教授 大阪 (著書より)

「邪馬壹国」(ヤマイ)は縄文の昔からあった古地名で、北九州(北部九州)の呼び名だった。
「後漢書」倭伝の「山がちな島に依拠して住まいとして」に該当する。



解析2 歴史学で読み解く「邪馬台国」

③ 陳 長崎(チン チョウキ)教授 広州

魏志倭人伝は魏の時代について書かれた文章そのものではない。いくつかの時代の史料が融合した可能性が高い。漢代・三国時代(魏呉蜀)・西晋時代の記述が混在している。

刺史は漢代では監察官の意味で、魏の時代では行政官の意味に変化する。それにもかかわらずこの文章では「監察官」の意味合いで使われている。

つまり、この部分は魏について書かれた文章ではない。魏よりも古い漢代の史実が混在している。

一つの完成した史料とは言えず、部分部分で内容が矛盾している。一人の人物が書いたものではない。

例として、距離で書かれた文章と時間で書かれた文章が混在している。

邪馬台国の場所は「九州」が理に適う。

魏志倭人伝の後半、倭人についての話があるが、「女王国の東の海を千里余り渡るとまた倭人の国がある」とある。

つまり、邪馬台国の東には海があった。畿内説ではこの条件と一致しないため、九州にあったとするのが妥当である。



解析3 中国史で読み解く「邪馬台国」

④ 周 徳望(シュウ トクボウ)教授 台湾 政治学

中国の歴史書にある他国までの距離の記述は非常にあいまいである。地理的なことに関する認識は現地の案内人など地元の人に影響される。

中国史に記載された距離を信じてそのまま日本に当てはめてはいけない。

『梁書』(636年編纂)に記載された扶桑国(日本)はそのまま読むとメキシコに行きつく。

古代中国の歴史書では中国以外の国に関する距離の記述はすべて疑わなければならない。

当時の中国の地図では日本は実際より南に描かれている。実際には海流で流されてやや北よりの九州に辿り着く。

 卑弥呼の居場所や邪馬台国は「九州」にあった。

邪馬台国など中国の同盟国については小国だとしても国の規模や軍事力、政治体制を把握しておきたいので、これらについては正確に記述している。

記述を読むと、邪馬台国には良い田がなく、皆、海からとったものを食べている。

もう一つ重要なのは現地の人は顔に「黥面」(げいめん)という入れ墨をしていたこと。この風習は九州南方の民族である隼人、熊襲と考えられる。
(熊襲は九州全体にいたことが判明している:るな)


倭人は好んで海に入り、魚やハマグリを採っている。畿内では考えられない。
男子は身分関係なく入れ墨をしている。これは海南島と九州にある風習である。

 国名に「爾支」(にき)と呼ばれる官位があり、「副官」もいた。加えて「一大率」を置いている。「一大率」は中国の刺史(行政官)と同じような地位の役人である。

しかも代々「王」がいて邪馬台国に属していた。

伊都国が海外との重要な交流の場で、政治を担っていなのなら邪馬台国が遠く離れた場所から伊都国を管理するはずがない。

牛も馬もいないので運搬能力が低い。邪馬台国が伊都国から遠く離れていることは考えられない。



③陳 長崎

邪馬台国はもともと九州にあり、移動した。同時に地名も移動している。

東遷説の根拠に「地名の移動」がある。中国には孔子が住んでいた魯(ろ)という国がある。魯国が移動したので、地名も移動した。古代ではよくあることだ。


以上、とりあえず文書化してみました。

非常に納得します。

ちなみに畿内説では、纏向遺跡に桃の種が2000個出た事や、水銀が南で採れることが根拠として挙げられていました。

桃は南でも採れるし、水銀も四国や佐賀で採れているので、根拠にはならないですね。


NHKのような印象操作が無くて、好印象を得ました。
再放送があったらいいですね。

20190514


c0222861_15184581.gif

by lunabura | 2019-05-14 21:02 | 邪馬台国 | Comments(0)

中国学者からみた邪馬台国の場所1



先程まで、TBSの邪馬台国の番組を見ていました。

奈良の纏向遺跡と佐賀の吉野ケ里遺跡、糸島の平原遺跡を紹介したあと、中国の学者三人に魏志倭人伝を読んでもらって邪馬台国の場所を尋ねるという構成でした。

結論から言うと、三人の学者がそれぞれの研究から、いずれも「邪馬台国は九州にあった」と結論付けていました。
しかも、二人は九州北部に限定。

地形、地名、文化、位階など多岐にわたっての結論です。

私が邪馬台国論争に参加しないのは、三国志の2000字だけ読んでも、用字法や社会的背景を学ばなければ理解できないと思っていたからですが、中国語で書かれた本を中国人の学者が解説してくれたのですから、本当に納得できました。

時間があれば詳細も記録しておきたいのですが、今日はメモ程度に。



吉野ケ里遺跡からたくさんの鉄器、スズリなどが出ていました。
今月のバスハイクで行くので、見逃さないようにチェックしたいと思います。

スズリが発見され始めたのは二年程前からでしょうか。
今では40個も福岡から発見されているそうです。
県外では島根県か鳥取県から一つ発見されているだけだそうです。

卑弥呼が魏と文書をやり取りするのですから、必ず書記官がいて中国語(漢字)で手紙を書いたはずだと、以前書きましたが、それを裏付けるものがどんどん出土して嬉しい限りです。



20190510

この番組の詳細は以下に記録しています。



c0222861_15184581.gif

by lunabura | 2019-05-10 23:17 | 邪馬台国 | Comments(4)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25