小山田斎宮(3)
古宮を捜して
さて、国宝級の馬具が出土した船原古墳から歩いて七分。
山の方に向かって民家を抜けていくと小山田斎宮があります。
正式名称は「斎宮」(いつきのみや)です。
『日本書紀』に書かれた「小山田邑の斎宮」の現場ではないかと探しに来て、
山田の斎宮(久山町)と比較検討しながら、
貝原益軒の説に疑問を持ったりして調べて行くうちに、
皇石神社の上の山で偶然出会った方に、
香椎宮の木下元宮司の揮毫による「小山田斎宮」の石碑があると聞いて、
推論は確信となりました。
それでも、まだまだ全貌が知りたかった。
山田の斎宮(久山町)の方は香椎宮から避難した皇居だ。
それをきちんと説明するような証拠はないか。
そうすると、私の仮説を支えるように
山田の斎宮には皇居の存在を示す地名の数々がある事をコメントで教えられ、
今では二つの斎宮のそれぞれの特質を描き出せる段階に来ています。
今回は『小野村史』に書かれている古宮の存在を確かめに行きました。
かつては地名も神名もよく分からなかったので理解出来ない部分が残っていたのです。
神功皇后の伝承全体が見通せるようになった今、
改めて読み返すと、ある程度理解が進んでいました。
それでは、新緑の季節の小山田斎宮へ。




さて、今回ターゲットとする『小野村史』の該当部分です。
社の西南二町余り(約200m)の所に聖母屋敷という所があり、古宮の跡と言う。畑にすれば作物は枯れ、祟り有り、イバラが茂り、長さ二十五間、横十五間ばかり(約45m×27m程度)の所に三間四面の大石がある。
この石の上に鶏が上がれば足が悪くなり、人が触れば災いを受ける。延享年間(1744~48)に溜池を掘って泥土を取り上げたので、この石は地中に入って今は見えない。
この部分についてグーグルアースで調べてみました。

中央の上部に小山田斎宮があり、200mほど南西の所に記述通りの池がありました。
その右に長方形の敷地が見えます。これを左下のスケールで測るとほぼ45×25m。
村史に書かれている古宮とほぼ同じサイズです。
右の方には50×50mの正方形と長方形の敷地が二つ並んでいます。
これもちょっと気になります。
『小野村史』にはもう一か所記述がありました。
「古宮地を聖母屋敷と称し、本社の西南、小川を隔てて谷山との境の丘の上にある。
今も小祠が五個ある。この霊地を汚せば必ず祟りがあるという。いにしえは香椎と等しい宮所だったが、兵火にかかって焼失して、文禄3年、今の社地にお遷しした。

小山田斎宮の右手に果樹園の中の道がありました。
そして森の中に入ると、記述通りの小川がありました。
そこを渡ると、

なだらかな斜面に美しい林がありました。
個人の山なので、これ以上の写真は差し控えますが、
ここに立った感じでは長方形の敷地というのは分かりませんでした。
右手に少し小高い所があって、
家が一軒ほど建てられるようなフラットな土地がありました。
古い木が伐採されてから長年経ったようすでした。
観察すると、そこは遥か昔、丘の上を誰かが削ってフラットにして何かに利用し、
その後忘れ去られて、木々が大きく育ったあと、
次の時代に伐採されて、更に長年経ったという感じでした。
そこに立つと日当たりが良く、目の前は急な斜面で、その先に池が見えました。
祠は見当たりませんでした。
もし、ここが古宮跡だとすると、周囲は全く人気(ひとけ)のない所なので、
ここに神功皇后や側近たちを案内した豪族は
どうしてこのような山の中に連れて来たのだろうかと思われるような所でした。
古代は違っていたんだろうなあ。
村史には「御神宝に神面をはじめ、斎宮当代の古祭器、古器物など十余種あった」と
書かれていたので、実年代の推測の手がかりになるかと、歴史資料館の方に尋ねたら、
神社などの宝物は調査の対象にしていないとのことでした。

こちらは広い二つの敷地の入口近くのようすです。
「いにしえには香椎宮と等しい宮所だったが、兵火にかかった」とあるので、
二つの長方形の敷地にはかつて壮大な神社があったのではないかと思われました。
藤の花の左は普通の庭の植栽が残されたような風情です。
人知れず咲く藤の花。
写真を撮っていたら、風が吹いて揺れました。
地図 小山田斎宮
いつも応援ありがとう。

にほんブログ村

小山田斎宮 (Ⅰ)
福岡県古賀市小山田
オキナガタラシ姫の神懸かりの地を捜して

香椎宮での、仲哀天皇の突然の死。
何故、天皇は亡くなったのか。神功皇后(オキナガタラシ姫)と竹内宿禰は
神意を尋ねずにはいられませんでした。亡くなったのは2月6日。大変寒い夜です。
天皇の亡骸は、すぐに山口県の穴門の豊浦の宮に船で移されました。
香椎に来る前に天皇が都とされた所です。
竹内宿禰が船に乗って送り、戻って来たのが、22日。往復で16日です。
神のご託宣を伺うために斎宮が営まれたのはいつでしょうか。
日本書紀を見ると、3月吉日に斎宮へ行ったと記述がありました。
天皇の崩御後、約一か月が経っていました。
この間に場所の選定がされました。穢れを特に忌み嫌う時代です。
神託を伺う場所は、香椎宮以外の地が求められました。
斎宮の場所については古典の本には、分からないと書いてあります。
しかし、香椎宮の近くに、伝承が二か所に言い伝えられています。
福岡県古賀市「小山田の斎宮」と粕屋郡久山町「山田の斎宮」です。
どちらかが、神功皇后の斎宮の可能性があります。
日本書紀には「小山田の斎宮」とはっきりと書いてあります。
しかし、現代では「小山田」は忘れ去られて、「山田の斎宮」の方が有名です。
江戸時代にも論考があっていますが結論は出ていません。
江戸時代では実際に確認しには行けなかったでしょう。
平成の今だから車で簡単に出掛けられます。
ようし、まずは自分の目で確かめてみようっと。
まずは古賀市の小山田の斎宮について書きましょう。

車で行くと、道は山脈に向かって進んで行きます。川沿いに上って行きます。
かつてはこの川を船で向かったのでしょう。
オキナガタラシ姫の一行が、香椎宮から船で海に出て、
右の方に進路を取って、海上を進めば、ほどなく小山田に向かう川口が現れます。
そこから入って、それを遡上して行けばここに着きます。
青々とした山脈に車で近付いて行くと、ワクワクして来ます。
船なら尚のこと、上陸が期待されたでしょう。
小山田の斎宮は山里にありました。小さな集落の中です。
ずっと昔からこの地の人々がコミュニティーを作り、力を合わせて暮らしていたのが伺えます。
中央の小さな神奈備山。こんもりと樹々が茂っています。
そこが目指す小山田斎宮でした。

鳥居の左脇に小山田斎宮の石碑がありました。

鳥居をくぐって行くと、すぐに二つ目の鳥居がありました。やたら古いです。
周りはイチイガシの自生地でした。古木が立ち並ぶのですが、
左右は小さな崖になっているので、杜は明るい印象です。
巨木を見ると、気分が高揚して来ました。見ているだけでうれしくなります。
こんな反応をするのは、私だけかなあ。

あれ?参道の雰囲気が香椎宮の古宮への参道と似ている。
そう、斜面の傾斜と距離がほどよいサイズという印象がよく似ているのです。
ほどなく本殿に着きました。開けた敷地に宮が建ち、五色の旗が風に靡きます。
お祭りが近いのでしょう。

この神社が氏子の方たちが大切にされているのが伝わってきます。
社殿の奥の方には山が続きます。ここは、ちょうど海に突き出た半島のような地形です。
本殿の前に立って手を合わせると、どこからか花の香りが漂って来ました。
古賀市の『小野村史』を見ると、斎宮について三か所も記事があります。
地元の伝承があるなんて、超ラッキーです。順に口語訳してみましょう。
日本書紀にある小山田邑は即ちここである。村社斎宮は字大裏に在り、その昔、神功皇后が三韓征伐に行かれる時、神の教えを請うために、斎(いつ)き籠(こも)られた宮所で、古宮の地を聖母屋敷と称え、本社の西南、小川を隔てて谷山とのさかいの丘の上にある。聖母とはオキナガタラシ姫の事です。セイボ、ショウボ、ショウモという読み方をします。
今も小さな祠が五個ある。この地を汚せば必ず祟りありと言い、いにしえには香椎と並ぶ宮所であったが、兵火に遭って焼失して、文禄三年に今の社地に移し奉るものである。
ご神宝に神面を始め、斎宮当代の古祭器、古器物など、十数種類あってご由緒著しい。
明治40年1月8日、神饌幣帛科料供進社格に進まれて歳月を経て、次第に繁栄して、まさに崇敬すべき神社である。
当代の人々に、よほど慕われていたのですねえ。
(Ⅱにつづく)
小山田斎宮(Ⅱ)
オキナガタラシ姫の神懸かりの地を捜して

さあ、村史の次のページも読んでみましょう。
見てみると漢字だけです。仮名交じり文にもなっていません。
「、」や「。」さえついていないのです。誤植も多いし…。う~。こりゃ無理だ。読めない。 (;一_一)
該当する岩波版の『日本書紀』で訳してみます。
訳してみてびっくり。なんと迫力ある神懸かりのシーンが書いてありましたよ。
村社 斎宮神懸かりとか、サニワとか、こうやっているのですね。なんだかすごいです。知りませんでした。
祭神 天照大神 健布都神 事代主神 住吉三神 息長足姫尊
由緒 日本書紀 巻九の「オキナガタラシ姫(神功皇后)の尊の巻にこう書いてあります。
仲哀九年の春二月に、仲哀天皇が筑紫の香椎宮で崩御されました。この時皇后は、天皇がご神託に従わなかったために早く崩御された事に心を痛めて、考えました。祟っている神を明らかにして、神の勧める財宝の国を求めようと。
そこで、群臣と百人の司たちに命じて、国中の罪を払い清め、過ちを改めて、さらに斎宮を小山田の邑に作らせました。
三月の壬申の一日に、皇后は吉日を選んで、斎宮に入って、自ら神主となられました。そして、武内宿禰に命じて御琴を弾かせました。中臣(なかとみ)の烏賊津(いかつ)の使主(おみ)を召して審神者(さにわ)としました。そうして、織り物をたくさん、御琴の頭と尾のところに供えて、申し上げました。
「先の日に天皇に教えられたのはどちらの神でしょうか。願わくは、その御名を教えて下さい。」と。
七日七夜経って、ようやくお答えになりました。
「神風の伊勢の国の度逢県(わたらいのあがた)の五十鈴の宮にまします神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)。」と。
烏賊津の使主がまた尋ねました。
「この神以外に他に神はいらっしゃいますか。」
お答えがありました。
「旗のように靡くススキの穂が出るように出た吾は尾田の吾田節(あがたふし)の淡郡(あはのこほり)にいる神である。」と。
「他におられますか。」
「天事代虚事代玉櫛入彦厳之事代神(あめにことしろ、そらにことしろ、たまくしいりびこ、いつのことしろのかみ)有り。」
「他におられますか。」
「いるかいないか分からぬ。」
そこで、審神者が言うには、「今答えずに、また後に出て来られることが有りますでしょうか。」
すると答えがあった。
「日向国の橘の小門の水底に居て、海草のようにわかやかに出てくる神、表筒男(うわつつのを)、中筒男(なかつつのを)、底筒男(そこつつのを)の神がおる。」と。
「他におられますか。」
「いるかいないか分からぬ。」
ついに他に神がいるとはおっしゃいませんでした。その時に神の言葉を得て、教えの通りにお祭りをしました。
と有ります。これが即ち、本宮の起源です。
この託宣でここにはオキナガタラシ姫の尊を一緒に御桐殿に合祀しています。
オキナガタラシ姫の尊は神恩を祈願して、稀有の神蹟を得ました。
斎宮ご祈願霊蹟
聖母屋敷は本社の西南の小川を隔てた所にあって、今は民有地だ。
中央に聖母宮の小さな祠があり、周辺には大神宮址、武内社、-略―。
さて、この小山田斎宮に来て新たな謎が出て来ました。
Q1交通手段は本当に船なのでしょうか。
さきほど、船で行ったように書きましたが、 実際どうなのだろうかと思いました。
すると、この『小野村史』に答えが見つかりました。
「古賀村にて海に入る」 という一文があったのです。
この地に、古代の船のルートがあった事が確認できました。
Q2移動時間はどのくらいかかったのでしょうか。
ここから香椎へは何日かかったのでしょうか。
そう思っている時、たまたまテレビを付けると、NHKの「街道てくてく旅」で原田早穂ちゃんが、
香椎宮から青柳まで、旧街道を歩いていました。なんというタイミングでしょう。
彼女は朝出発して、三時には着いていたと思います。
その青柳から小山田まではさらに1時間はかからないでしょう。
彼女はのんびりと人と出会いながら歩いて、この時間です。
なんだ、速足の人なら往復が簡単にできるような距離でした。
古代の船の速度は歩行速度とあまり変わらないと確か船の本で読みました。
香椎宮から船に乗って、一旦海上に出て、右に舵を取り、
しばらく海上を通って、川を遡れば丸一日もかからずに着くのですね。
疑問の一つがテレビのおかげで簡単に解けました。
さて、こういう事から、この「小山田斎宮」については、否定する要素が全くありませんでした。
日本書紀に書いてある「小山田」の地名もそのまま残っています。
わざわざこれを否定して、「山田の斎宮」に軍配をあげるのは却って不自然だなと思うようになりました。
Q3 何故この地が選ばれたのでしょうか。
ここは香椎宮に到着する前に、一度来た所らしいです。
北九州からやって来ると、最後の停泊地になった可能性があります。
神功皇后の一行は、ここで旅の汚れを落とし、
明日はいよいよ宮へと向かうために、装いを新たにしたのではないでしょうか。
香椎宮から程よい距離で、土地勘がある小山田を思い出して、
そこを斎宮にしようと決めたのではないかと思うようになりました。
でも、これではまだまだ納得できません。
さあ、もう一つの候補地、「山田の斎宮」のについても調べましょ。

千年以上も経つイチイガシの巨木です。
仲哀天皇が亡くなった事情は、右サイドバーのリンクからどうぞ。
『古事記の神々』のオキナガタラシ姫に書いています。
地図 小山田斎宮