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ひもろぎ逍遥

カテゴリ:韓国( 7 )

韓流「スベクヒャン」と「磐井の乱」って同じ時代(*_*)



韓流「スベクヒャン」と「磐井の乱」って同じ時代(*_*)



韓流ドラマはなかなか見ることは無いのですが、「スベクヒャン」に「武寧王」の名が出てきて「え?」と立ち止まり、どんなふうに描いているのか時々見ました。

恋愛や陰謀があり、時代考証も現代の物が沢山使われて自由自在でしたし、系図も自由に作り変えてあります。

でも、武寧王といえば、唐津市の加唐島で生まれたという人なので、時代感覚を作るのにいいかな…と。









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で、武寧王の没年を見ると523年です。
磐井の乱が527年ですから、武寧王と磐井君は同時期の人で、互いに知っていたことになります。

で、ドラマには太子にミョンノンという人が出てくるのですが、この人が聖明王となるとしたら、このブログにも無縁ではなくなるのです。\(◎o◎)/!

聖明王の子・余昌とは、鞍橋君が助けた人だからです。

余昌と鞍橋君は共に新羅に侵攻して砦に籠城し、聖明王(ミョンノン)が援軍を率いて向かう途中で王は殺されてしまいます。

そして、鞍橋君が敵将を射て、敵が動揺している間に砦を脱出します。
だから鞍橋君は余昌の命の恩人です。

これは「日本書紀」に長々と書かれているのです。



このあと、鞍橋君は鞍手郡の新北、新延を褒賞としてもらいますが、系図では葛子の子となっています。

熱田神社の始まりの人となりました。

「くらじ」が「くらて」の語源になったという説もあるくらい重要な人です。
(でも、鞍手では殆ど忘れられている)

これは磐井君が新羅派ではなく、百済派であることも示しています。

で、話を戻すと、
ドラマのミョンノンと恋人ソルランが結婚して余昌が生まれるとしたら、
ミョンノンは新羅行軍の途中で死ぬんだなあ、と思いながら見ていたのです。

鞍橋君はミョンノンに面会したに違いありません。

でも、ミョンノン(聖明王)は戦死した王なので、多分韓流ドラマでは造られないのでしょうね。


ここら辺の話を近刊「宮地嶽神社と磐井の末裔たち」で詳しくします。



20181122





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by lunabura | 2018-11-22 20:07 | 韓国 | Comments(0)

高句麗壁画(1)八咫烏―高句麗と日本の賀茂氏そしてサッカーへ


高句麗壁画(1)
八咫烏―高句麗と日本の賀茂氏そしてサッカーへ


今日は高句麗の装飾古墳壁画です。
その中に八咫烏がいくつか出ていたのでそれを紹介します。
ヤタガラスーそう、日本サッカーのシンボルマークです。三本足が特徴です。
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この絵は「日神・乗鳳凰図」です。
「太陽神が鳳凰に乗っている図」という意味なので、左右の人物の乗り物を見てみましょう。
左は龍ですね。右側は鳥です。ですから右の方が日神です。
この日神は笛を吹いています。ヘアースタイルを見ると男の神です。
高句麗の太陽神は男の神です!
中央の円を見るとカラスがいます。
羽根を広げて、笛の音に合わせて舞っているかのようです。
そして、足を見ると、三本だ…。ホントにこれは八咫烏です。

この古墳は「輯安(しゅうあん)5塊墳4号墓」と言い、
中華人民共和国―集安地方にあります。6世紀の古墳です。
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「日神・月神図」これは同じ輯安5塊墳の5号墓。
男女の神が舞っています。八咫烏を頭上に差し上げているのは男神です。
左が月神で女神です。神さまらしく衣の袖が羽根です。
とても軽やかな描写で、自由な筆遣いに驚きます。

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「舞踏神」これも同じ5号墳です。
朱雀か鳳凰に乗って天女が踊っています。
その向こうに八咫烏の足が三本だけ見えます。なんだか大胆な構図ですね。
八咫烏の顔は見る人の想像にお任せ。なんだか嬉しそうな顔が浮かぶんですけど…。
鳥や天女の躍動感がすごいです。

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真坡里(しんはり)7号墳
これは少し時代が後で、6世紀後半の金メッキの銅の透かし彫りです。
中央の円の中を見てください。鳥がいて三本足です。
また上の方にも鳥が彫られています。
下に帯があるので、冠ではないかと言われています。

これら4点の八咫烏は6世紀のものです。日本とはどう関わりがあるのでしょうか。
6世紀だという事は日本も古墳時代に入っています。
日本での八咫烏の話は、神武天皇の時に出て来ていて、道案内をしています。
日本の神話はずっと古いです。
ですから、この高句麗古墳からの日本への直接の影響は考えられません。

それでは二カ国に八咫烏が伝わっているのは何故か?と考えると
もっと、前の時代に八咫烏の伝承があったと想定できます。
検索すると「三本足の烏」の思想は中国で生まれていました。
すると、こういうストーリーが出来ます。

中国辺りに八咫烏神話を信奉する氏族がいて、北部朝鮮に辿り着いた。
その一部は南下して日本まで辿りついた。
北部朝鮮に残った人たちはそこで高句麗の建国に関わって栄えた。

では、その人たちはどんな氏族だったのでしょうか。
そのヒントが同じ古墳(5号墳)に描かれていました。

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「燧(ひうち)神と鍛冶(かじ)の神」
左の神は火打ちの神です。右は鍛冶の神。
これから、この八咫烏を信奉しているのは鉄の民族である事が分かります。
この高句麗の装飾古墳に埋葬された人は、八咫烏をトーテムとした鉄の民です。

一方日本では「八咫烏は賀茂氏の祖」だと言われています。

賀茂氏については真鍋大覚氏の本にいくつか記述があるので、
言葉を補いながらまとめて見ました。
南冠座(コロナ アウストラリス θ)
賀茂の氏族は、日本の開拓者であった。刀剣の類を作り上げるよりも、
むしろ百姓の鋤鍬(すき・くわ)の方を主としていた。
その祖が来た時代を考えると、海幸山幸の時代に釣り針が出てくるので、
そのころには渡来していたはずである。
「冠座」を「かまのほし」とも言うが、この起源は鎌の形の半円形から由来する。
鎌の形は当時の舟の形にも似ていて、それで水を渡る時には、
葦草を切り払いながら漕がなければならない。
そんな沼沢池を渡って来た氏族・北方系の胡人が賀茂氏である。
彼らが鉄を作る時、片目で坩堝(るつぼ)火の色を見ていたので、
冠座には要目星という名もついていた。
坩堝の底の反面に析出した金銀の粒を星の配列にみたてていたともいう。

鳩座 (コルンバ β ウズン)
烏鵲は干潟の冠水の有無遠近を見定める鳥として、
昔は旧約聖書のノアの洪水の神話の時代から知られていた。
縄文弥生の祖先は烏鵲と共に干潟の開拓に努めて来た。
神代には賀茂の氏族は八咫烏を伴として日々をすごしていた。
今、肥前にすむカチガラス即ちカササギは
まさにその生きた化石というべきものである。
有明の干潟にいるムツゴロウをカチガラスは餌としていたが、
干潟が稲田と変わった今日では全くムツゴロウとは無縁になった。
干潟が陸地化するまでに3500年の以上の歳月がかかった。

タタラで鉄をつくる賀茂の氏族は火勢を見つめる仕事をするようすから、
「隻眼一目の神」と崇められて来た。

賀茂の星
『淮南子』などには大陸の西北方、或いは北方、さらには東北方に
一目国があったと語り伝えている。
「一目」を高麗の古語でカナムリと言う。一目は「タタラの神」となった。
常に高温の金属蒸気を見るために視力保護の目的で片目をつぶって
物を眺める習慣が身についている工人の氏族の事である。
福岡県那珂川ではこれを称して「八丁様」と言い、
京都山城では「加茂の神」と崇め奉った。

天智天皇は662年、筑紫の長洲宮に遷都された。
そこからは背振山が見えた。背振では葵祭があっていた。
天智天皇は大和に帰還してから、667年に山城の国の氏神の加茂の社で、
筑紫と同じ「葵祭」を催行された。
こうして筑紫の神々は畿内に遷座して、故郷の発祥の地をしのぐほどに繁栄した。
「背振神社」は京都「賀茂神社」に、「現人神社」は大阪の「住吉大社」に
生まれ変わって、本家本元は寂れてしまった。

「加茂の神」は元来はタタラの神であった。火と熱の神であった。
そして、鍛冶場仕事の災いとなる風雨に対して、細心の配慮のある神であった。

背振の祭りには必ず「おこしごめ」が店に出ます。
これは昔の砂鉄精錬の生産品であります。
玉刃金を菓子に造形化したお土産にほかなりません。
ちょうど、京都の「八つ橋」が賀茂の神々が作った「金の延べ板」を
模した品にほかならないのと同じです。
これはあちこちにあった文章を集めました。

これをまとめてみます。
有明海が陸地化する3500年以上前に賀茂氏は八咫烏を連れてやって来た。
当時は葦原だったので、船を進めるには鎌で葦を払いながらであった。
その時の鎌の形が「冠座」の形と同じなので、「かまのほし」と名付けていた。
また、当時の船の形は三日月のように両端が上がっていた。
八咫烏には干潟が陸地になるかどうかを見極める力があったので、
賀茂氏はそれを連れていた。
賀茂氏の出身地は「一目国」で、中国大陸の北西から東北にあった。
「一目」の由来は、坩堝で鉄などを作る時、
閃光から目を守るために片目をつぶる習慣があったからである。
それを、筑紫では「八丁様」といい、山城の国では「加茂の神」と言った。
「賀茂神社の葵祭」の由来は、もともと筑紫の背振神社で行われていたのを、
天智天皇がご覧になって、京都でも真似をして始めたことにある。
葵祭は京で神社と共に栄えているが、
ルーツの方では寂れてしまって、忘れ去られてしまった。

この話は高句麗と日本と両方に八咫烏が伝わっているのを
よく説明してくれていると思いました。

古事記では神武天皇を助けるために天から八咫烏が使わされています。
その続きを読むと、地下で働く不思議な人々と出会って行きます。
これは、鉄の民の描写だと思っています。
神武天皇も鉄の民の協力を得て、力を付けていった事が婉曲に描かれています。
(⇒神武天皇
そしてこれが日本のサッカーのシンボルマークになりました。古くて新しいヤタガラスです。

参考文献
『高句麗文化展』 高句麗文化展実行委員会 (写真転載)
『儺の国の星』『儺の国の星・拾遺』 真鍋大覚 那珂川町発行



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by lunabura | 2015-08-10 08:10 | 韓国 | Comments(10)

コーンヘッド・狗邪韓国とナスカとネフェルティティ


コーンヘッド

狗邪韓国とナスカとネフェルティティ

(今日もまた頭蓋骨がいっぱいです…苦手な人、ごめん)

先日、M氏の発表を伺っていて、誤解されている件があったので、
今日はちょっと書いておこうと思います。

韓国の加耶諸国の中の狗邪韓国に不思議な頭蓋骨が発掘されています。
頭が尖っているんですね。
その遺跡は礼安里(れいあんり)遺跡と言いますが、
写真の六つの頭がい骨のうち、下段の左がその頭蓋骨です。

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画像出典 http://e-asia2.board.coocan.jp/?t_id=9
東アジアの古代文化を考える会


釜山大学の博物館所蔵で、扁頭人骨が10例確認されているそうです。
その中で7例が女性。

これは嬰児の時に板を挟んで矯正するもので、南米に多く見られます。
この矯正法について、M氏が2枚の板で矯正するという話をされました。
それはOKなのですが、
顔の前と後ろとサンドイッチのように挟んでいるイラストを紹介されました。

それではいくらなんでも窒息するし、それが卑弥呼の顔と同じだと話してあったので、
それもちょっと無理かな…と、困惑した次第で…。
僭越ながら、今回のテーマにしました。

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画像出典
http://mizu-clutch.at.webry.info/200609/article_7.html
Fishermans caravan ナスカ博物館

この頭がい骨はコーンヘッドと言って、中南米でよく見られますが、
2枚の板をV字型にしてそこに頭を挟みこんで矯正するそうです。
これは水中考古学者のフランク・ジョゼフ氏から直接聞いた話で、
そのビデオもあるので、いつか映像も探し出したいと思います。

で、その時、私はエジプトのネフェルティティの頭と似ているなぁと思って、
ジョゼフ氏に質問したんです。
「ネフェルティティの頭も同じですか?」
答えは「イエス」でした。

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これも矯正したものだそうです。
エジプトにしろ、中南米にしろ、これは首長の血統にみられるもので、人為的につくられる形なのですね。
広範囲に分布しているらしい。

で、そのコーンヘッドが韓国の南部から発掘されたというのですから、驚天したのです。
時代は何と卑弥呼の時代なんです。

狗邪韓国(くやかんこく)のその人は当地で生まれて矯正されたのでしょうか、
あるいはエジプト辺りからやって来たのでしょうか。
多分、調べれば簡単に分かると思うのですが。

そう思いつつ、『三国志』韓伝で確認すると、弁辰の風俗として、
「子供が生まれると、石でその頭を圧迫し、平らにしようとする。
それで、今、辰韓の人はみな扁平な頭をしている。」
って書いてありました。 

扁平な顔の理由はそれじゃないと思うけど…。
それにしても石を使うなんて強烈すぎ…。  (・.・;)



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by lunabura | 2013-07-06 21:24 | 韓国 | Comments(10)

新羅の積石木槨墓―天馬塚古墳―


新羅の積石木槨墓
―天馬塚古墳―

福岡県の嘉麻市に弥生時代の「木槨墓」があると聞いた。
「土壙墓」なら糸島市の平原遺跡でよく知っている。
木槨墓とはどんなものだろうか。
木で枠組みを作ったのだろうか。

早く見たいと思っていたら、新羅にも木槨墓があると分かった。
それがあの天馬塚古墳だ。
その豪華な宝飾品は韓国歴史ドラマ、「善徳女王」で再現された。
善徳女王は斉明天皇と近い時代を生きた人なので、この宝飾品は200年ほど古い時代のものになる。
(韓国の歴史ドラマの時代考証は当てにならない…)
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この副葬品が埋納された古墳が「木槨墓」だというのだ。
今回は木槨墓を追って、ネットサーフィン。

12の小国をまとめた斯蘆国(さろ・しろ)。これが新羅(しるら)へと発展する。
都は金城。今の慶州市。
その頃の墓はどれもが木槨墓で、4世紀から6世紀初めごろの間に造られた。

平地を少し掘って石を並べて床のようにして、木枠を置いて、そこに木棺を安置。
そして石や土で塚を作って円墳にする。

積み石で木槨を覆うと「積石木槨墓」となる。
積石といえば高句麗の墓制だが、それとは系譜は異なるそうだ。

木槨墓を見たいと思ってネットをサーフィン。
新羅・慶州市の天馬塚は積石木槨墓で見学できるように保存されているので、
圧倒的に映像が出ている。
この黄金の塚は、もともと、隣にある更に大きな古墳を掘る前の事前準備として、
保存方法などを研究するために試し掘りしたのが、大発見につながったという。
副葬品は1万点に及ぶ。

「天馬塚」の名は副葬された馬具の所に書かれた「天馬」の絵から付けられた。
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馬具の一部(白樺)に描かれた天馬
(画像出典)
http://www.busantabi.com/content/basic.asp?m_idx=12&s_idx=64

もともと新羅の古墳は日本人の考古学者によって調査研究が始められた。
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これが木槨墓。
画像出典 http://www.lieto.co.kr/?document_srl=170581

中央に王か女王が安置され、身に着けたアクセサリーがそのままの位置に残された。
この木槨墓を覆って石が積まれた。

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画像出典「忘れへんうちに」より
http://avantdoublier.blogspot.jp/2009/01/blog-post_27.html
(考古学的なアプローチがされている、お勧めのページ。)

石の重みでさすがに木槨墓はつぶされていた。
土を取り除いて出現したのが下のような宝冠のたぐい。
メッキでなく、純金。これには勾玉が沢山ぶら下がっている。

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副葬品の画像出典
http://www.lifeinkorea.com/cgi-bin/travel2j.cfm?TravelID=217

これは5世紀後半のものだ。日本ではこんな時代。
451 倭王済が遣宋使
462 倭王子興が遣宋使
478 倭王武が遣宋使
479 雄略帝が末多王を百済王に任ず
479 倭国は高句麗を攻撃
480~ 装飾古墳が出現


外観はこのような円墳。
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画像出典
http://www.pusannavi.com/miru/1069/
内部は見学出来るようになっていて、その様子は最初に挙げたサイトが詳しい。

副葬品の豪華さに目を奪われるが、
これが「積石木槨墓」だというのを記憶しておきたい。
その後、新羅では「横穴式石室」が作られるようになる。

今コメントで話題になった嘉麻市の木槨墓はどのようになっているのだろうか。
保存されているのだろうか。
新羅の木槨墓と比較出来る日が楽しみだ。
嘉麻市の方は弥生時代だから、もっと時代が遡るのだ。

さて、新羅にこだわるのには訳がある。
日本書紀のこの一文の真実が知りたいのだ。
秋9月5日に、仲哀天皇は群臣たちを召して、熊襲攻撃について協議させました。その時、皇后に神が懸かって神託がありました。
「天皇よ、どうして熊襲が服従しないのを憂うのか。そこは例えれば、肉のついていない背中のように痩せた国であるぞ。兵を挙げて討つほどの国であろうか。
この国より宝がある国がある。例えれば、乙女の眉のように弧を描いた国で、我が国の津に向き合った所にある。眼もくらむ金・銀、美しい色が沢山その国にはある。その名をタクブスマ(タクの木の繊維で作った布団が白い、その白色の名を持つ)新羅の国という。
もし、われを良く祭れば、刃に血を塗る事なく、その国はおのずと降服するであろう。また熊襲も服従するであろう。われを祭るには、天皇の御船と穴門の直(あたい)ホムタチの献上した大田水田を供えよ。」
と言いました。天皇は神託を聞いて、疑いました。
(日本書紀 仲哀紀)

これは8世紀の日本人の新羅観に過ぎないのだろうと思っていたが、本当に金銀財宝の国だった。(・.・;)
そして、この仲哀紀の辺りは読みこむと矛盾に満ちている。

それを解くヒントが吉野ヶ里の近くに一つある。早く行きたいのに時間がない。
まだまだ仲哀紀の謎解きの旅の目的地は遠い。

るな探偵は気が多過ぎて、二兎以上を追っている…。チョーやばい。

古墳(王陵)公園・天馬塚 -伽耶・新羅の旅-
http://inoues.net/korea/korea_tenma.html







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by lunabura | 2012-06-29 08:59 | 韓国 | Comments(6)

新羅の初期・斯蘆国と倭人たち


新羅の初期
斯蘆国と倭人たち

新羅の始まりはどうなっているのかな。
資料を集めていくとだんだん分からなくなってきた…。人によって物の見方が随分違う。
まっ、自分が理解できる部分からまとめて行きまっしょ。

新羅(シルラ)は斯蘆(サロ・シロ)国から始まった。
慶州平野。
日本の弥生時代、現在の慶州市に斯蘆国(サロ・シロ)があり、6つの村があった。
そこに赫居世(ヒョッコセ)たちが北の方から動乱を逃れて鉄器を持ってやって来た。
紀元前57年のことだ。 
農耕社会の中に優れた鉄器を持って来たことから、赫居世がその支配者になったが、彼はその時13歳。

支配者とは6村の連合社会のリーダー的な形態だったようだ。
それはこの時代は支配者が世襲でなく、村間の持ち回りだった事から分かるという。
その称号は居西干・次次雄(コソガン・チャチャウン)と言った。

「居西干」とは君長、「次次雄」とは巫(シャーマン)を意味する事から、
支配者は政治を司り、かつシャーマンでもあった事になる。

紀元前37年。赫居世(ヒョッコセ)は慶州平野に京城を築き、金城と名付けた。
彼の重臣に瓢公(ひょうこう)がいた。彼は倭人だった。その役職名は大輔。
この時代に倭人が侵攻して来たが、赫居世の説得に応じて倭軍は撤退した。
(赫居世も倭人と言う説があった。)

二代目の支配者、南解次々雄の時代に倭人が100艘余りで侵攻した。

紀元前19年。四代目・脱解(タレ)が東海岸からやって来て支配層に加わる。
脱解は倭国の多婆那国の王の子といわれている。
この時代はリーダー会議で支配者を決めていて、その称号を尼師今(イサグム)と言った。


1世紀後半。舎羅里130号木槨墓が作られる。
(鉄の延べ板40枚を敷いていた。)

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(写真は慶州市 舎羅里古墳群)
画像出典は「2002年7月28日~8月3日
第4回友史会海外遺跡の旅「韓国中南部の古代文化に触れる旅」 案内 河上館長」より
http://www.kashikoken-yushikai.jp/reikai/reikai0307korea3.htm)

西暦101年婆裟尼師今(バサ・イサグム)が月城を築いて居城を金城から月城に移す。
(この王が日本書紀で神功皇后軍に降伏した波沙寢錦(ハサムキム)という説がある。
そうすると100年の誤差が出て来る。)

西暦100年以降、国力をつけた斯蘆国は周囲の国々に侵攻して拡大して行く。


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地図を逆さまにしてみました。
斯蘆国が拡大して行く流れの中で、九州や山口を侵攻したのでしょうか。
豊浦宮や楯崎宮、雷神社、高良玉垂宮などに伝わる異敵襲来伝承を重ね合わせると
福岡や山口は最初の上陸地点だというのが分かります。

さて、倭人の伝承を見てみましょう。
稲飯命
『新撰姓氏録』では新羅の祖は鵜草葺不合命の子の稲飯命(神武天皇の兄)だとする。

アメノヒボコ (ウィキペディアより)
アメノヒボコは新羅の王家、朴氏、昔氏、瓠公との関連の可能性があるとする説もある。
(新羅王族であった昔氏は、倭の但馬地域から新羅に渡り王となったとされており、新羅王族であるアメノヒボコは但馬・出石に定着した。ただし、昔氏のもともといた場所についてはこの他に日本の東北、丹波等が上げられている。)

大矢田宿禰 おおやだのすくね (コトバンクより)
仲哀天皇9年。神功皇后の新羅遠征にしたがう。新羅にとどまり、鎮守将軍となる。
国王・猶搨(ゆうとう)の娘と結婚し、佐久命と武義命をもうけた。
(王の名前がハサムキムではない事に注目)


三人ほど採り挙げて見ました。後世の創作が加わっているとしても、
新羅の王族に倭人の血が入っている可能性が出てきました。
新羅に対する倭国のこだわりの原因はこれが要因の一つかも。

『古事記の神々』で訳したアカル姫が新羅の王子アメノヒボコと結婚して愛想を尽かして、
さっさと倭国に帰って来たのもそれほど特異な話ではないんですね。

人々の暮らし
さて、彼らはどんな暮らしをしていたのでしょうか。
これと前後する時代の記録が「『三国志』魏書・韓伝」にあるので
その一部を抜粋してみましょう。
韓の人々の風俗は、法律規則は少なく、諸国の都に主帥(しゅすい)がいるけれども、村落は入り混じっていてなかなか統括できない。

人々の間に跪拝の礼はない。住居として、屋根を草で葺いた土の家をつくるが、その形は中国のはかのようである。家の戸口は上にあって家族は全部その中で暮らしている。年齢や男女による区別はない。

死んだ者を葬るときには、墓には槨はあるが棺はない。牛馬を乗用に使う事は知らない。牛馬はみな副葬に使用してしまう。

珠玉を財宝とし、衣服に縫いつけて飾りとしたり、首飾りとしたり、耳飾りとしたりする。金や銀や縫いとりのある綾絹などを珍重することはない。

韓の人々は性格は強く勇敢で、頭に何も被らずまげを見せていることろは、狼火(のろし)を扱う兵のようである。そして麻布の衣服を着、足に底の厚い革ぞうりを履いている。

毎年5月には作物の種を播き終え、そこで鬼神を祭る。多数が集まって歌い踊り酒を飲んで昼夜休まず遊ぶ。その踊りは、数十人が一緒に起ち上がってお互いに調子をあわせ、地を踏んで高く低く、手足はそれに応じて動き、リズムは中国の鐸舞(たくぶ)のようである。

10月に収穫が終わったときも、またこのようにする。鬼神を信じ、国の都ごとに一人を立てて天神を祭る司祭とし、天君と名づけている。

また国ごとにそれぞれ、蘇塗(そと)と呼ばれる特別な村がある。そこには大木を立て、鈴と鼓を懸けて、鬼神に仕えている。いろいろな理由をもった逃亡者がこの村に逃げ込めば、追っ手に彼を引き渡すことはしない。そのため盗賊が多くなっている。

辰韓の老人たちは代々こう言い伝えている。
「昔、中国の秦の代に、労役を避けて韓国に逃げてきたものがいて、馬韓が東部の地域を割(さ)いてその人々に与えた。それが我々である」

辰韓には砦がある。言葉は馬韓とは異なり、国を邦といい、弓を弧(こ)といい、賊を寇といい、酒を杯にそそいですすめることを行觴(こうしょう)という。お互いを呼び合うには徒(と)という。これらは秦人の言葉に似ているところがあり、ただ燕(えん)や斉(せい)の物の名称が伝わったのではないことを示している。

弁辰の国々は鉄を産出し、韓・濊(わい)・倭の人々はみなこの鉄を取っている。いろいろな商取引にはみな鉄を用い、中国で銅銭を用いるのと同じである。またこの鉄は帯方・楽浪の二郡にも供給されている。
『倭国伝』(藤堂明保ほか 講談社学術文庫)より

面白い内容が盛りだくさんです。蘇塗(ソッティ)も出て来ました。
秦から逃げて来た人たちの邑があるのが分かったのも収穫です。
この続きに有名な「倭人伝」が出て来ますよ。
(これ以上は話が逸れるのでまた別の機会に。)

以上、考え併せると、神功皇后軍が新羅攻撃をしたのは「唐突な」事件ではなく、
それまでに多くの交流や戦いの歴史があった事が分かりました。
その中の一つの戦いがたまたま日本書紀に採り上げられたようですね。

東アジアの事、もっともっと広い視野で学んで行くと面白そうです。




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by lunabura | 2012-05-07 22:29 | 韓国 | Comments(2)

新羅の王城―月城


新羅の王城―月城


日本書紀を訳していて驚いたのは、朝鮮半島の地名が沢山出て来る事です。
王族も姫も兵士もどんどん行き来しているし、城の名前なども出て来ます。
書紀の編者は九州より朝鮮半島の地形に詳しいんじゃない?なんて思ったほど。

福岡の神功皇后伝承地を百社廻った後もまだまだ謎が残りました。

彼女が新羅まで行かされた目的は本当のところ、何だろう。
当時の新羅の国名は何だろう。
降参した新羅王ハサムキム(ミシコチハトリ)は向こうでは記録されているのだろうか。

津波が国の半ばまで上がったと解釈したが、地理的に整合するのだろうか。
塵輪(じんりん)が倭国の皇居を襲ったという事は、それ以前からの両国に交流があった事を示している。
それはどんな形だったのだろうか。

次々に謎が生まれます。
こりゃあ、朝鮮半島を勉強しなくちゃ…。
しかも1800年以上も前の事を…(とほほ)。

新羅と言っても1000年王国(実際は820年ほど)という長命国なので、
時代によって名称も国土の広さも変化しています。

途方もない長い歴史の海の中へ、えんやこら船を漕ぐ~♪
という訳で今回は新羅の都の場所を探してみましょう。

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はてさて、新羅の都は何処だ?
対馬からは夜になると朝鮮半島の光が見えるというけど、
目的地はいったいどこにあるのか、これじゃあ分かりません。
皇后軍は対馬から先は何処に向かって行ったのでしょうか。

答えはここ。
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こうして地図を見ると、海の道をしっかり把握出来ていないと
辿り付けないのがよく分かります。
戦う敵国の在り処(ありか)や敵の軍備状況ももちろんですが、
潮の道、暗礁などあらゆる情報が整わないと海を渡ってまでも戦えませんね~。

アントンイソラが舵取りする大きな船でも、やはり道先案内がいなければとても無理。
実は私は佐賀県に伝わる、神功皇后のダミーが渡海したという伝承を
まだ捨てられないでいます。
臨月の皇后が渡海するのは無理じゃないかなってね。
まあ、戦略的にもダミーを作って置くのは基本でしょ。

たとえ神功皇后本人が新羅に上陸して城の門に矛を立てたとしても、
弥生時代後期に城なんてあったのだろうか。

こりゃあ、新羅に行かなくちゃあ分からない?
しかし、さすがのるなさんも、これまでのように突進する訳には行かないので、
グーグル・アースで現代の新羅から入って行く事にしました。

新羅があるのはキョンジュ市です。慶州市と書く方が分かりますよね。
(なんで韓国の地図は漢字を使わないんだ…。)

幸いにも新羅は都の場所が変わっていません。ずっと同じ所に王宮があるのです。
その場所は?
慶州国立博物館という有名な博物館がありますが、
それこそ新羅の都に建設されていたのです。

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少し近づいて見ました。キョンジュ市の地形を見ると、盆地で、
海岸からは一山越えた安全な所に国が形成されたのが分かります。
新羅を攻撃するとしたら山越えでなく、
南のウルサンか北のポハンに上陸して川沿いに進軍するしか方法がないです。

『韓国歴史地図』(平凡社)によると、
北のポハンから倭人の侵入があった記録が書いてあります。
その年代は232、364,393年です。
またさらに北の浜からの倭人の侵入が233,292、294年。
(この年代がどうやって割り出されたかは分かりません。
著者は韓国教育大学歴史教育科ですが日本語で書かれた本です。)

神功皇后の侵攻はこれまでの推定で201年。むむ。誤差があるな。
しかし倭人が何度も侵攻した記録が向こうに残っていたとは。
こりゃあ、お互いに何度も侵攻しあってるぞ。

津波が起こって一気に国の半ばまで入ったと日本書紀を解釈した件
については妥当性はあるのかな。

ポハンから慶州まで直線距離で約22キロ。慶州の標高は約60m。
まあ、川の中流域までなら行けたかな…。微妙ですね。

それでは、日本書紀の新羅攻撃あたりを読んでみましょう。(るな訳)
冬10月3日、対馬の和珥(わに)の津を出発しました。その時、風の神は風を起こし、海の神は波を立て、海の中の大魚はみんな浮かび上がって船をたすけました。順風が大きく吹いて、帆船は波に乗りました。カジや櫂(かい)を使わずに新羅に着きました。その時、大波(津波)が起こって船は国の中に到達しました。まさしく天神地祇が助けたのを確信しました。

新羅の王は戦々恐々として、成す術もありませんでした。そこで諸人を集めて言いました。
「新羅の建国以来、いまだかつて海水が国に上って来た事を聞いたことがない。これは天運が尽きて、国が海中に没しようとするのであろうか。」
そう言い終わらないうちに軍船が海に満ちて、旗が日に輝いていました。

鼓や歓声が起こって、山や川に響き渡りました。新羅王はそれを遥かに望んで、想像以上の兵が我が国を滅ぼそうとしていると思い、恐ろしさに気を失いました。

目が覚めると、
「東の方に神の国があると聞いていた。日本と言う。聖王がいて天皇と言うとも。きっとその国の神兵たちだろう。挙兵して応戦することは無理だろう。」
と言って、白旗をあげて、首に降伏の印の白い縄を付けて降伏しました。

土地の図面と人民の戸籍を封印して支配権を放棄したことを示し、王船の前に降伏しました。頭を垂れて、
「今から後、長らく天地に従うように、貴国に従って馬飼部となります。船のカジが乾かないほど頻繁に春と秋には馬の櫛とムチを献上してお仕えします。また遠く海を越えるのを厭わず、毎年、男女を献上します。」と言いました。

そして重ねて誓って、
「東から出る太陽が西から昇ったり、天の川が逆さまに流れたり、川の石が昇って星となるような事が起こらないのに、春秋の朝貢や馬の櫛とムチの献上を止める事があったら、きっと天の神、地の神の罰があるでしょう。」
と言いました。

その時、日本側の或る人が「新羅の王を殺しましょう。」と言いました。すると皇后は
「もともと神の教えを受けて、金銀の国を授けられるのだ。全軍に『自ら降伏するものを殺してはならない』と命令したのだ。既にこうして財宝の国は手に入った。新羅の者は自ら降伏したのだ。殺すのは不条理だ。」
と言って、その縄をほどいて馬飼部としました。

ついに、その国の中枢に入って財宝の蔵を封印して、地図・戸籍・文書を没収しました。そして皇后の持っていた矛を新羅王城の門に立てて、後の世の印としました。この矛は今でも尚、新羅王城の門に立っています。

そこで新羅王ハサムキム、別名ミシコチハトリ干峡(かんき)を人質として、金銀・彩色・綾絹・うす絹・固く織った絹を八十隻の船に載せて、官軍に従わせました。これよりのち、新羅王が常に八十隻の朝貢を日本国にするのは、この戦いの所以からです。

高麗、百済の二国の王は新羅が地図・戸籍を取り収めて日本国に降伏したと聞いて、ひそかに日本の軍勢を伺い、勝つ事が出来ないのを悟ると、自ら営舎の外に出て、頭を下げて「これより後は、永く西蕃(せいばん)と称して、朝貢をし続けます。」と言いました。

こうして日本は内官家屯倉(うちつみやけ)を置きました。これがいわゆる三韓です。皇后は新羅から帰還しました。

日本書紀を読んでると、セリフが長い所は編者の創作がかなり入ってるのが
分かります。(その上、るなの解釈が加わってます…。)
指揮官のセリフは特に熱が入ってます。編者の好みが反映してるんですね。
文脈を追うと、矛盾があるのも分かります。
それはそれとして、描かれた情景を実際の地形に乗せられるのか、
地図を見るのは私の楽しみなのです。

それでは、新羅の王城がある所に空から近づいてみましょう。
慶州は、かつては「金城」、「東京」とも呼ばれていました。
(この過去の地名を押さえるの、ポイントです。)

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近づいて行くと、月の形をした丘が見えてきます。
西暦101年。この丘に王宮を築いて「月城」と名付けました。(三国史記)
「半月城」とか「新月城」とも言ったそうです。
王たちは代々、この月城に住みました。
だから、神功皇后が行ったとしたらこの「月城」だという事になります。
月の形をした丘に月城とは素敵なネーミングですね。

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これは自然に形成された丘陵で、周りに石垣を積んで山城にしています。
南には川が流れて自然の要塞になっていますが、
北側には3~40mの幅の堀を掘って守りを固めています。
この山城に入城するには南に架かった二本の橋しか通れません。

この月城の中のエリアは平坦ですが、まだ発掘されていません。
これからが楽しみなところです。

後に、この月城から北の方に「満月城」を造ったそうです。
満月城に向かう広い道がまっすぐについていて、周囲は役所が並んでいたそうです。

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その一角にあの瞻星台(たんせいだいー天文台)がありました。
善徳女王の時代に造ったものです。
斉明天皇と時代が重なります。(画像出典 グーグルアース)

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(ドラマ「善徳女王」より。
女王の王冠やベルト、宝飾品のデザインは古墳から出土したものがモデル。
月城が未発掘なので、ドラマの王宮は美術スタッフの創造と思われます。)

その王宮殿の北西には広大な庭園がありました。

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(画像出典 グーグルアース)
これが現在のようす。雁鴨池(月池)というそうです。
新羅の王たちは月を愛したのですね。

月城の右下には慶州国立博物館があります。
慶州の歴史探訪はこちらのサイトに詳しく載っています。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kankounotabi/kannkokunotabi.3-2.html
さて、この新羅。弥生時代はどんなふうだったのでしょうか。
次回も新羅を辿りましょう。




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by lunabura | 2012-05-03 14:09 | 韓国 | Comments(0)

蕨手文様は伽耶出身王族のシンボル?


蕨手文様は伽耶出身王族のシンボル?
伽耶と倭の装飾古墳をつなぐもの

『伽耶文化展』のつづきです。
こんな不思議な鉄器が載っていました。「有棘利器」と言います。
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左から3世紀~6世紀(長さ13.5~25.5)
これを見て、蕨手(わらびて)文を思い出しました。
一番左なんかは蕨そのものです。
それが下のように鳥の姿に変化していきます。
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5~6世紀(長さ33.6~49.8)
いったい何に使ったんだろう。
棒に突き刺すさめに下部が丸くなっています。
本の解説文です。
有棘鉄器とは、鉄板の側面をえぐって棘(とげ)の形に作った
鉄器のことをさし、鉄鋌を利用して一番簡単に作られる鉄器である。
伽耶地域の有棘利器はおよそ4世紀に出現し、
初期には主に権威の象徴として大型の古墳に副葬された。
その後、伽耶の滅亡を前後する頃には小型の古墳にも埋納されるが、
次第に消滅してゆく。
最近の調査例を見ると、種類も多様で地域ごとに独特の特徴を持っている。
特に陝川地域(伽耶の一部)から多く出土した有棘利器には、
鉄板をえぐってが表現されており、ある種の象徴性が加味されている。(略)
日本では、奈良県藤の木古墳出土の冠装飾に
有棘利器にみられる鳥の装飾文様があり、注目を集めている。

562年 伽耶は新羅に併合されて滅亡。
663年 白村江の戦い 倭は唐・新羅連合軍に大敗。

この利器の使い方は書いてありませんでしたが、
主に権威の象徴だという事が分かりました。
そして伽耶の中でも一部の地方で鳥に変化したようです。
それが日本の出土品ともつながっていました。
そのつながりを指摘された藤の木古墳の冠がこれです。
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たしかに、内側は木の枝のように装飾的になって、
外側に鳥のモチーフが見えます。これは6世紀末だそうです。
「蕨手は鳥のモチーフへ」と変化して、倭の王族の冠となりました。

ところが、この蕨手は福岡県の装飾古墳の中では
「蕨手そのもの」として発展しています。
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珍敷塚古墳復元図 (日下八光氏製作)

中央の上の方にその蕨手があります。それは靫(ゆぎー楯)の上にあります。
また左の船の舳先に鳥がとまっていて、その上には同心円があります。
「蕨手と鳥」が揃っています。

蕨手ってなんだろう。
蕨手についての説をざっと調べてみましたが、
これといった説が見当たりませんでした。未解明のようです。

それに対して、靫や同心円については、
「氏族のシンボル」と捉える説に出会いました。
「同心円」は「的」の事でイクハと言い、それがウキハ、浮羽となった。
「靫」は「靫負(ゆげい)の大伴(おおとも)氏」の象徴。

これはかなり魅力的な説です。(和田萃氏―下注)
この装飾古墳が浮羽あたりで発達するのを見ると、可能性は高いと思いました。

この説の延長線で考えると、「蕨手」も氏族を指している事になります。
この氏族を仮に「蕨手族」と呼びます。
珍敷塚古墳の絵は
「同心円のイクハ氏」と「靫負の大伴氏」が「蕨手族」を支えている
というストーリーになります。
被葬者は蕨手族の人です。

この蕨手文は他の装飾古墳にも10例ほど見られます。
その中でも、有名な王塚古墳には
蕨手がこれでもかというほど描かれています。
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これは入口のすぐ右側にあります。

これを見ると、赤と黒のが描かれていて、馬に乗った人物はとても小さく、
それに対して蕨手文はかなり大きいです。
シンボルとして解釈するなら、製作者の意識には順位づけがあって、
蕨手が一番、馬が二番、騎手が三番です。
その心理は「蕨手だ。蕨手のお蔭なんだ」と称えているように思われます。
(でも、馬の方がすごいぞ。)という気持ちもチラリ。

自分が墓を作る立場だったら、何を書き残したいかと考えました。
「遠い所から来て、豊かなクニづくりをした大王が亡くなった。
この大王の出身は蕨手族である。それを支えたのは騎馬軍の私たちだ!」
墓の碑文に書くとしたら、そんな事を書きたい。
それを文字を使わずに表現するとしたら、絵しかない。
壁画は碑文代わりに描かれたと考えました。

短甲にも蕨手があった
蕨手が図録にもっとないかなと再び探してみると、
短甲に蕨手が堂々と付いていました。
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伝金海 退来里
高さ66センチ 三国時代 5世紀 国立中央博物館

この短甲には前にも後ろにも蕨手がついています。
戦いの時に自分のクニや氏族を明らかにするためです。
羽根のような刀の形をした部分は首を守るためのパーツです。
戦いに明け暮れた様子が伺えます。

器の取っ手まで蕨手。
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高霊 池山洞45号墳 三国時代 5-6世紀 国立慶州博物館
取っ手は指が入るようなデザインが普通の中に、こだわりの一点が…。
やはり、蕨手は紋章的なトーテムの可能性があります。

この蕨手族が倭にやって来たと想像してみました。
どんな事情だろうか。
1・新羅などと戦って負けて逃れて来た。
2・クニが拡大するなかで、平和裏に王族の皇子あたりが派遣された。
3・筑後や穂波あたりの豪族が軍事的援助を頼んで招いた。
いくつかのケースを考えました。
いずれにしろ、結果的には蕨手族はここで
豊かなクニづくりをしたのではないかと思いました。
それというのも、この王塚古墳の場所が最高のイヤシロ地にあったからです。
(王塚古墳は別項にて)

これらから仮説を立てました。
伽耶あたりで発生した王族がいて、蕨手文をシンボルとした。
蕨手文は鳥の形にも変化して行き、藤の木古墳の被葬者の冠に影響を与えた。
一方で、蕨手族が直接、福岡県にやってきた。
かれらはイクハ氏や大伴氏と共に豊かな装飾古墳文化を作った。

どうでしょうか。写真を並べるうちに、こんなストーリーになりました。
仮説です。いろんな方面からの意見をお待ちします。

参考図書
「古代史からみた装飾古墳」 和田萃 『装飾古墳が語るもの』国立歴史民俗博物館編 吉川弘文館 平成7年
『伽耶文化展』 編集―東京国立博物館 発行―朝日新聞社 1992年
王塚古墳の写真以外はこの二冊から転載しました。



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by lunabura | 2010-08-27 14:30 | 韓国 | Comments(8)

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