ひもろぎ逍遥

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カテゴリ:宮地嶽神社と古墳・福津市( 34 )

「磐井の乱後」-磐井の菩提寺と宮地嶽古墳―を話し終えて



「磐井の乱後」
-磐井の菩提寺と宮地嶽古墳―
を話し終えて



今日は久留米大学公開講座で
「磐井の乱後」-磐井の菩提寺と宮地嶽古墳―
の話をしてきました。

足をお運びくださった皆様、ありがとうございました。





パワーポイントの最初と最後の画像は最後に選んだのですが、
こんな風になりました。


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並べてみると、どちらも宮地嶽古墳です。

これは宮地嶽神社の境内にあり、宮地嶽神社の祭神が祀られて続けています。
被葬者は「勝村神。勝頼神」です。

二神は筑紫君葛子の子と伝えています。
ですから、筑紫君磐井の孫に当たります。




これが、ある日突然、宗像徳善の墓だ、と学者に言われて、
その誤解はいまだに解けずにいます。

宮地嶽神社側のショックはただならぬものがあったようです。




宮地嶽神社は安曇族です。

その証が欲しかったのですが、
ついに昨年、宮司だけが舞える秘舞として、
磯良の舞が再現され、発表されました。



こうして、安曇磯良の存在は
志賀海神社、高良玉垂宮、宮地嶽神社へと受け継がれていたことが、
平成になって明らかになりました。



安曇族の境内に宗像族が出かけて行って墓を作ることはあり得ません。
宗像族は自分たちの氏族の近くで眠るはずです。
わざわざ山の向こう、見えないところに作るはずがない。

こんなシンプルな理論も無視されています。



学者の論文に宗像市として堂々と書かれているのを見たことがあります。
正しくは福津市です。


宗像徳善は娘を天武天皇に差し出していて、
飛鳥浄御原宮の時代に外戚として娘の援助をしています。

飛鳥浄御原宮は672~694年です。
徳善はそのころ全盛期だったのでしょう。
孫は大臣に昇りつめています。
ですから、墓は700年前後に作られたと想定するのが理に適っています。

それに対して宮地嶽古墳は600~630年の推定。
両者には100年ほどの違いがあるのです。

もう、宗像徳善の名前を出すのは止めましょう。

「誰かが言ったから、そうだ。」
という発想が古代史の闇を深くしているのです。



今日は、この話や、磐井の菩提寺が作られた話、
また磐井の孫が百済王子と共に戦った話などをしました。


出版は、もうしばらくお待ちくださいね。








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by lunabura | 2016-05-21 23:32 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(4)

とり急ぎ


マイペースで本(『宮地嶽神社と筑紫君磐井の末裔たち』―巨大古墳と九州王朝の謎―)を仕上げていたのですが、急きょ、推敲を仕上げなくてはならなくなって、ブログに手が付けられませんでした。

この事情は良い事情なのですが、内容に関しては、確実になってから書くことにしますね。

推敲を仕上げたとはいえ、さらに二項目ほど追加をするので、流れが途切れないように、もう一度推敲することになります。

今月中に終わったらいいなあ。



今日の宮地嶽神社の菖蒲です ^^

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菖蒲祭の準備が進められていました (^。^)



コメントを下さった方へ

いただいたコメントが内容があるものばかりなので、じっくりと読んでから返事をします。少しお待ちくださいね。





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by lunabura | 2015-05-25 18:24 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(0)

散り初めの開運桜 宮地嶽神社


宮地嶽神社

散り初めの開運桜


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今日の宮地嶽神社の開運桜です。




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昨日の雨で、花びらが散り始めていました。




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この桜と出会って6年目。


今思い返すと、当社の御祭神のことが全く分からなかったのに、
いつの間にか本を出し、人に伝えるようになっていました。




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神功皇后。息長帯姫。ここには何度も来られ、宮地岳に登って神々に祈られた。
その女神の本がもうすぐ出来あがります。

阿部高麿神と助麿神。仲哀天皇と神功皇后を守って下関の忌宮神社で亡くなられた。
敵は新羅。



勝村神と勝頼神。この神々は筑紫の君・葛子の御子神。磐井の君の孫に当られる。勝村・勝頼神の二柱は宮地嶽古墳に共に眠られた。

鞍手の鞍橋(くらじ)の君はその御兄弟。百済の王子余昌と共に新羅を攻めて籠城し、王子の窮地を救われた。

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そして、もう一柱。謎の阿部相丞(しょうじょう)の神。
お尋ねします。
あなたは安曇磯良なのですか?
大善寺玉垂宮と宗像大社ではそう伝えていますが、それでよろしいですか?


私は神功皇后の本を書きました。そこには阿部高麿・助麿神も含まれます。

磐井の君の末裔たる勝村神と勝頼神も原稿は出来ました。
そして、安曇磯良神の本も春になったら取り掛かります。


もし、安曇磯良神が阿部相丞の神なら、私は宮地嶽神社の六柱の神、すべての本を書くことになるのです。
今日はその御縁の不思議さに気づいて驚いています。





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by lunabura | 2015-02-21 20:31 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(0)

測量体験 初!


縁とは不思議なもので、宮地嶽神社から相島に沈む夕陽を見た日、
隣の方に宮地嶽古墳の測量の企画を案内されました。

「伊能忠敬測量200年の会」主催で、古墳とその周囲を測量する企画です。

これはめったにない機会と、早速申し込みしました。


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桜の葉はすっかり落ちて、秋から初冬へのあわい。



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あの輝く春の日とは違う華やかさです。


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正面は奥の宮不動神社。古墳の前の拝殿です。
左が古墳。
拝殿の左がすぐに古墳の入り口ですから、
本来の墳丘は拝殿の場所に及んでいたということが分かります。
封土がかなり失われているんですね。

今回は九州産業大学の学生さんが測量法を教えてくれるのです。
「平板測量」という手法です。

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アリダードも初めて見ます。

水平に保つことから始めるのですが、私の頭の中は三角縁神獣鏡の使用法。

三角縁神獣鏡を見る時には必ず鏡面を見ましたが、どれもが凸面鏡なんですね。

そして、裏の窪みを見ます。
そこに水を貯めれば水準器になります。
ギザギザを北極星に合わせれば、方向バッチリじゃないかな。


そして紅白に塗られたポールを見て連想するのは
神武天皇のイラストには必ずついている杖。

もう一つのアイテムは巻尺。
巻尺は古代には紐を使うのでしょうが、長さがねえ。
せいぜい数十メートルが限度でしょうかねえ。


伊能忠敬は星を見て緯度を調べたとか。
九州歴史資料館で実物を見る機会があったのですが、
その大きさに圧倒されました。

このたびの測量会では、古墳の周囲をぐるりと七班に分かれて部分的に測量し、
出来あがった図を七枚、結合したのですが、驚くほど正確でした。


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小学生と一緒でしたが、測量ポイントをしっかりと把握する少年がいて、
才能って小さい時から現れるんだなあと舌を巻きました。

私もいつもキルトの製図をしているので、線を引くのが楽しかったです。


会の皆さまありがとうございました。

もちろん、古墳に埋葬されている磐井の君の孫の勝村・勝頼神にもごあいさつ。
ここには葛子の君と磐井の君のよすがとなる物も納められたと
確信しています。






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by lunabura | 2014-11-09 20:45 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(0)

入り陽の贈り物 光の道


入り陽の贈り物

光の道


先日、第8回金印シンポジウムを聞きに行ったのですが、
講演者の一人、宮地嶽神社の浄見宮司が、当日10月18日は
夕陽が宮地嶽神社の元宮の正面の相島(あいのしま)に沈む日だと言われました。

10月18日。
思いがけない日付でした。
元宮は西を向いていて、相島にまっすぐ向かう参道が、いかにも日没ラインを思わせ、
くるま座さんが先年、野宿して確認しようとしたラインだったのです。

その時は春分・秋分ラインを想定したのですが、
あいにく曇ってしまって、収穫がなかったという経緯がありました。

だから、神社の方でその日付を眼目に置いてあったのを知って驚きました。
この日没の日から遷座祭へと流れていく大事な日だったのです。


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19日、太陽は左手から相島に向かって斜めに降りて行き、
島の向こうのもやに隠れて行きました。

秋分より一カ月後、そして春分より一カ月前。
年に二回太陽が相島に沈んでいきます。

参道が赤く照らされて、人々の影が長くなる頃、
相島からはこちらの本殿の金色の屋根が輝いて見えたことでしょう。

この正面に積石塚があるのです。
宮地嶽古墳の巨石も相島から運ばれました。

そこには玉依姫と豊玉姫が姉妹一緒に祀られています。
これは珍しいことです。
豊玉姫はそこで山幸彦と出会った。
安曇の人々に取って格別な島が相島です。

さて、神社の石段から100m先では、地面を1m掘れば砂地だということで、
古代は海がすぐそこまで迫り、
光の道が直接、島と元宮を繋ぐ光景が見られたことでしょう。

この日、隣に座り合わせた男性に、
正面の参道は昭和14年に造られたものだと教えていただきました。

かつては神輿は石段を降りるとすぐ左の路地を通り、川沿いに下っていったそうです。
ですから、参道を貫く入り陽は昭和以降の光景です。

男性との話題は宮地嶽古墳になりました。
「宮地嶽神社は徳善でしょう」
「いいえ。徳善は100年ほど時代が違います。
この古墳では磐井の孫の勝村・勝頼兄弟が1000年以上も祀られてきているのです」
と答えました。

神社に生まれた人は人生を祭祀に捧げます。
1500年も祀り続けている所に、ある日学者が来て、その墓は隣町の人の物だ、
と言われたらどんな気分がするでしょうか。

この頃はそんな話も伝えるようにしています。

私は決心していました。
来年からは磐井の末裔たちの話をする、と。
特に、八女の人たちには伝えたい。
磐井の末裔たちは戦いました。

筑紫君葛子は決して命乞いのために屯倉を差し出してはいない。
父の筑紫君磐井亡きあと、武装蜂起して戦ったのです。

『日本書紀』が捏造した歴史―ではない真実を伝えよう。

そんな思いで参拝しました。
そして願わくは、まずは宮司にお伝えしたい、と。

何と、その願いがかなって、願ったその日に宮司に会えました。
この日、竹のロウソクを自ら点火してあった所に通りかかったのです。

私は沢山話をしました。
磐井の子供たちのこと、そして葛子の子供たちのこと。
古墳で舞われた筑紫舞にはもう一人の目撃者がいたこと。
出土したガラス板は決して素材ではないこと。
そこにガラス板がある理由は百済王子を守った鞍橋君の活躍があったから。

そんなお話をしました。
会えたタイミング。
これこそが今日のタイトルの「入り陽の贈り物」だったのです。


安曇磯良の名は正史から消えてしまっています。
一方で、同時代に生きた竹内宿禰はあらゆる氏族のルーツに持ち上げられ、
系図が不自然な場所に書かれています。

これらを比較すると見えてくるものがありました。
ここに「倭」と「日本」の原点があったのです。

竹内宿禰。
安曇磯良。
そして神功皇后。

これらを理解すると、磐井から末裔たちの時代も見えてきました。

九州の真実の歴史の構築。
その基本的なテーマを押さえることが出来た5年間は不思議な日々でした。

もうすぐ、ブログ5周年になります。
まだまだ小学5年生。
あと二日で6年生です。

こんなキャリアの浅い私が歴史の本を何冊も出せるのも、不思議な事件です。

皆さんもいつも一緒に古代を逍遥してくださってありがとうございます。


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by lunabura | 2014-10-23 19:59 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(6)

さくら


終わった (^o^)/

資料を揃えて投函の準備。

宮地嶽神社の桜が満開なので、昨日撮りに行ったけど、花曇りで写真が暗い。
それで、今朝撮りに行ったけど、お昼から快晴。

どうしても、青空で撮りたいアングルがあったので、もう一度チャレンジ。
(真央ちゃんに影響された…)

合計三回行きました。

昨日今日、満開で、散り初めの木も。

こんな感じです。


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没写真特集でした ( ´艸`)


せっかく撮ったんだからブログに出しとこ。


タイトルは
『宮地嶽神社と磐井の末裔たち ―巨大古墳と九州王朝の謎―』
の予定です。

こんなタイトルなのに、カラーです ^^



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by lunabura | 2014-04-01 21:06 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(0)

筑紫舞(4)


筑紫舞(4)
ちくしまい


筑紫宮神楽(ちくしみやかぐら)
神無月の舞

<解説>
神無月とは十月、初冬の曲であり、古今和歌集に記された和歌に拠って舞われる。
筑紫舞としては唯一「肩抜き舞」であり、秘舞とされる。
曲は雅楽の陪臚(ばいろ)にも通じ、勺拍子・鼓・銅拍子で歌われ、笛と十三弦琴が主旋律を奏でる。
九州地方にて舞われていたとされる筑紫舞であるが、今日までも伝承される笛とジャンガラ(銅拍子)で
奏される筑前神楽に見える曲風で再興させたものである。


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大幣を掲げて登場。御衣が恭しく捧げられている。


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紫の御衣は身分が高い人のものであることを示している。


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御衣の主(あるじ)は故人となったことが暗示される。


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御衣は扇に替わった。
(高貴な宮処であったことがしのばれた)



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肩抜きとなって大幣で祓いの舞が舞われる。


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筑紫舞の特色である、パペットのような手振り。能よりも高い位置に手が保たれる。
(これは筑紫舞の他の舞でも基本所作となっていたことに気付かれただろうか)


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パペットの身振りと振り出された足。(ルソン足が撮れたかな)



<歌詞>
一、竜田川 錦織りかく 神無月 時雨の雨を 経緯(たてぬき)にして

二、白雪の 所もわかず 降りしけば 厳にも 咲く花とこそ見れ

三、みよしのの 山の白雪 踏み分けて 入りにし人の おとづれもせぬ

四、昨日といひ 今日と暮らして あすか川 流れて早き 月日なりけり


古今和歌集の歌詞と舞の暗示するものが違っている。
この舞は明らかに天子の身分の人が亡くなったのを悼む舞だ。

それが秘舞として受け継がれた。
時代を生き抜くために、季節の歌を隠れ蓑にしていたのではないだろうか。
そう思われてならない舞だった。
音曲は江戸時代ものだという。
宮司は、さらに古式の形に復元し、後の世に伝えるのが自分の役目だと言われた。


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筑紫舞の特色として、跳躍がある。フィギュアで例えると、一回転ジャンプ。
フィギュアのような助走がないので、突然の跳躍に観衆が沸く。
気配なくジャンプするので、シャッターは遅れがち。
「神無月の舞」でも跳躍があったが、撮れなかったので前年の写真を。
五人一斉に飛ぶのは見応えあり。

「飛んだ!飛んだ!」と御婦人がはしゃいだ。
「去年はようけ飛んだぞ」
「いやあ、その前はもっと飛んだ」
そんな声が飛び交う。

浄見宮司は奇しくも筑紫舞を舞うようになる前に、
十年間、細男(せいのう)の舞を春日大社で舞われたという。
「細男の舞」こそ、「安曇磯良の舞」のこと。
安曇族である宮司が、多々ある舞の中で安曇磯良を舞われた不可思議。
そして、その「安曇磯良」の本を出そうとしている私が筑紫舞に出会った不可思議。

そして、私は「宮地嶽神社」の本を出す御縁をいただいた。
筑紫の君、磐井の後の葛子の時代。
九州王朝はどのようになったのか。
本で語ろうと思う。


「神謀」(かむはからい)という言葉があるのを宮司に教えていただいた。

<追記>
葛子の時代のお話は、次回、船原古墳でお話しますね!

船原古墳(5)
出土した馬具は宮地嶽古墳と同じもの?両古墳は同族?
http://lunabura.exblog.jp/20913640/


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by lunabura | 2013-11-04 20:09 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(2)

筑紫舞(3)


筑紫舞(3)
ちくしまい


筑紫神舞(ちくしかんまい)
唐衣(からごろも)


<解説>
古今和歌集に詠まれた和歌に音曲が付き、筑紫舞の所作と共に伝えられたものである。
七世紀には唐より、我が国に数々の文化が伝わったが、工芸品の一つに衣服が伝わった。
当時、衣は貴重なもので、宮人に献上された。その折に出来た振りと言われている。


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<歌詞>
一、嬉しきを 何に包まむ 唐衣 袂(たもと)ゆたかに 裁(た)てと 言はましものを



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二、老いぬれば 避(さらぬ)別れの ありといへば いよいよ見まく ほしき君かな



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三、世の中に 避(さ)らぬ別れの なくもがな 千代もと祈る 人の子のため
                              千代もと祈る 人の子のため 



筑紫神舞(ちくしかんまい)
天下太平


<解説>
八橋十三曲の第四曲「天下泰平」とも書き、「雛鶴の曲」「太平楽の曲」「太平」などの別名があるが、
第三歌、第四歌、第六歌が筑紫箏と同様、他は先行歌謡に基づく古いものである故、
筑紫神舞に取り入れられたもとと思われる。

振りは「御魂鎮め(みたましずめ)」の様式で、宮舞の代表と思われる振りであり、
神の恵みを寿(ことほ)ぎ祝福する舞である。


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<歌詞>
一、天下泰平長久に、 治る御代の松風、雛鶴は千歳ふる、 谷の流れに亀遊ぶ。

二、人知れぬ契りは、 浅からぬ物思ひ、包むとすれど紫の、 色に出づるぞ はかなき。

三、はかなくも隈なき、 月をいかで恨みし、とにかくも我が袖に、  絶えぬ涙の夕暮れ。

四、花の宴の夕暮れ、 朧月夜に引く袖、定かならぬ契りこそ、 心浅く見えけれ。

五、住吉の宮どころ、 かき鳴らす箏の音の、神の恵みに逢ひ初めて、 過ぎし昔を語らむ。

六、秋の山の錦は、 龍田姫や織りけむ、時雨降る度ごとに、 色の増すぞあやしき。


〇五人舞。歌詞と振りの差に気づかれたでしょうか。
粛々と舞われる手振り身振りからは、亡き人への鎮魂の思いがひしひしと伝わり、
客席は水を打ったように静まり返りました。

真意を隠して生き残るために、しのぶ恋や移りゆく季節の営みなどの歌詞を隠れ蓑にして
伝えられたのではないかと思われてならない舞でした。




筑紫巫子舞(ちくしきねまい)
榊葉(さかきば)



<解説>
作曲者作詞者共に不詳。
古く「神舞」の内「巫子舞」として筑紫舞ではあつかわれていると聞いている。
「四季」の組の内、冬に組まれている。
霜が八度降りても、榊葉の枯れぬのは、神の御加護であると説かれている。



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<歌詞>
一、霜八度おけどなほ 枯れせぬものは 榊葉の 立ち栄ゆべき 
   蔭深く まします神の 巫子(きね)かも



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二、雪降れば 山里に 冬ごもりせし 草も木も
   匂ふばかりに 春もまだ 知られぬ花ぞ咲きける


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三 千早ぶる神の在(ま)す 賀茂の社の姫小松 万代経とも 葉も茂み 緑の色は変はらじ


○やわらかな桃色の衣裳の巫子(きね)の手に持つのは榊。
前曲の静けさのあと、華やかながらも気品にあふれた所作に、
舞の持つ無限の可能性を改めて知りました。
  
                                (つづく)




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by lunabura | 2013-10-31 20:31 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(0)

筑紫舞 (2)


筑紫舞(2)
ちくしまい

お待たせ!
筑紫舞の御紹介です。
2013年の10月22日、宮地嶽神社の神前で筑紫舞が奉納されました。
かつては宮地嶽古墳の中で奉納された舞が、新たな場を得て美しい衣装で舞われています。
神前前の奉納は今年で30年を迎えるそうです。

台風の影響で朝はどしゃぶりだったのですが、
午後からは晴れ渡り、すがすがしい秋の光の中で舞われました。

演目は六番。
解説と歌詞はパンフレット「御遷座記念祭」からです。(一部変更)




筑紫古神舞(ちくし こかんまい)

秋風の辞(しゅうふうのじ)


<解説>
漢の武帝の詩に曲が付いたもの。陵王(りょうおう)舞風の勇壮な神舞である。


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<歌詞>
秋風起こって 白雲飛び
草木黄ばみ落ちて 雁 南に帰る
蘭に秀でし有り 菊に芳(こう)ばしき有り
佳人を懐(おも)ふて 忘るること能(あた)はず

楼船を浮かべて 汾河(ふんが)をわたり、
中流に横たわり 素波(そは)を楊(あげ)げ
 鼓鳴って 棹(さお)の歌をおこす

歓楽 極まって 哀情多し
少壮幾時(いくばくとき)ぞ
老をいかんせん





筑紫巫子舞(ちくしきねまい)

橘(たちばな)



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<解説>
御巫(みかんこ)は神のお告げを受けるとされるが、
この巫子(きね)も同等の意味を持つと考えられる。

舞に用いられる「鈴」の音には音魂(おとだま)である霊力があり、
音にて祓いを行う所作が舞振中、随所に見られる。

<歌詞>
一、雲居の庭に 色変えぬ 花橘に ほととぎす
   千代を鳴らして 久方の 空にぞ 声の聞こゆる

二、葉替へせぬ 松の陰 常磐(ときわ)にすみて 岩が根に
   流す泉の 底清き 水は緑の 影ひたす

三、蝉の小川に 木綿かけて 今日水無月の 祓ひする
   その人々の 命こそ 千歳を延ぶと いふなり

                                            (つづく)



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by lunabura | 2013-10-30 19:36 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(2)

宮地嶽古墳のガラス板・百済産か?国産か?


宮地嶽古墳

ガラス板は百済産か?国産か?

先日、古代ガラスの話を聞いて来ました。
古代ガラスは現在、6種類に分類されているそうです。

宮地嶽古墳の出土物に、板ガラスがあります。

これを九州国立博物館でようやく見たのですが、
サイズはCDケースより、少し大きめ。厚さは1.5センチほどのもので、
紺色の神秘的な色でした。
(撮影禁止なので、写真はなしです)

なかなか宮地嶽古墳の出土物を実見する事が出来ないのですが、
九州歴史資料館の田中幸夫コレクションにその破片がありました。

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左は緑色ですね。右が紺色っぽいのですが…。


分類は鉛ガラスに属します。


で、古代の鉛ガラスは一時途絶えましたが、復活して百済で生産され、
百済滅亡の時に亡命した工人が日本にやって来て、
全く同じ技法で飛鳥池遺跡で鉛ガラスを生産したそうです。

言いかえれば、鉛の同位体を調べれば、産地が簡単に分かり、
百済産か、国産か、特定できる時代になっていました。

百済(346-660)


国産だとすれば、660年以降になるので、7世紀も後半のものとなり、
宮地嶽古墳の造営時代がより明確に絞れることになるはずです。
また、飛鳥で作られた製品が当古墳に早々と奉納されたこととなり、
被葬者の影響力は近畿にまで及んでいたことになります。

現在の評価では、宮地嶽古墳は7世紀前半とされています。
そうすると、このガラス板は百済で作られた可能性が高いです。
古墳の被葬者か縁者に、直接贈られたなんて妄想もできますね。


ただし、もう少し調べてみたら、
「発掘されたガラスとアクセサリー」岡山市埋蔵文化センター 谷一 尚
http://www.city.okayama.jp/contents/000104774.pdf
に、

c0222861_21482677.jpg

とあったので、隋の製品の可能性もあるかと思いました。

隋(581-618)


c0222861_21485014.jpg

これが宮地嶽古墳のガラス板です。

ガラスの生産地を調べるのは簡単になったらしいので、九博や九歴はすでに調査済みかも知れませんね。
もし、まだだったら、早く調べてくれたらいいな。

それにしても、宮地嶽古墳の出土品がどんなものか、
パンフレットでいいから、
収蔵する九博と東京の資料館は作ってくれたらいいのに。

それを、古墳に参拝する人や地元の小中学校に配布して、
宮地嶽古墳の存在を伝えてほしいなと思いました。
(知っている人はとても少ないのです)
それが、出土品を収蔵する各館の責任だと思います。

これは福岡の各地の出土品に言えることです。

例として、竹原古墳は見学できても、出土品の写真一枚ありませんでしたし、
どこに行けば見られるかも分かりませんでした。(福岡市内にあるということまで分かりましたが)
このような例はいくつもあります。

本来地元にあるべきものを、各大学や資料館が持ち出したなら、
写真で良いから地元に還元し、
子供たちに伝えることで、地元の歴史を伝えてほしいです。

それが歴史資料館へ足を運ぶ人を育てることにもなると思います。





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by lunabura | 2013-10-27 21:51 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(2)
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