ひもろぎ逍遥

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カテゴリ:宮地嶽神社と古墳・福津市( 34 )

宮地嶽神社(4)御祭神の謎にチャレンジ

宮地嶽神社(4)

御祭神の謎にチャレンジしました
時代による御祭神の変遷


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(自然公苑の菖蒲園)

さあ、今日は御祭神について見て行きましょう。

現在は神功皇后勝村大神勝頼大神、となっています。
勝村、勝頼の二柱はどなたなのでしょうか。

まず、一番目の神功皇后はすっかりお馴染みになりました。
香椎宮から始まった『ひもろぎ逍遥』ですが、
半分ちかくのお宮は神功皇后関連だったでしょうか。
これまで、点と線だった皇后の行動が、だんだん「面」で捉えられるようになって来ました。

香椎宮から東の方では馬や船の軍事訓練をしたという伝承を
皇石神社で書きましたが、さらに東に行った
この宮地嶽神社でもその伝承を見つける事になりました。

宮地という地名そのものも、神功皇后が滞在した事が由来のようです。
どうやら、皇后の時代は都が定位置にあったのではなく、
天皇の居る所=みやどころ=みや(都)というイメージがあったように感じて来ましたよ。

さて、皇后がここに来られた時には、天皇の死は隠されています。
しかし、妊娠していたと思われます。

そんな皇后がここで宮地山(180メートル)に登って天地の神に祈ったと言い伝えています。
皇后はどの神に祈ったのでしょうか。
それが宗像三女神(むなかた・さんにょしん)でした。

昭和48年に発行された津屋崎町教育委員会の「つやざき」にその手掛かりを見つけました。
まずは、『神社帳』から抜粋します。

神社帳より
祭神
タキリビメの命、サヨリビメの命、勝頼神
タキツヒメの命オキナガタラシヒメの命勝村神

当社の縁起ではこう言っている。
宮地嶽大明神、勝村大明神、勝頼大明神、
それぞれの名前は、阿部相函、藤高麿、藤助麿云々。

伝説では、昔、神功皇后が新羅を征された時、宮地岳の山上にて宗像三柱大神を祭らせられ、
ついに新羅に勝って還幸されたことから、宗像大神を奉斎され、後に神功皇后を配祝した。
勝村大明神はすなわちこの方である。

この神の名は新羅を征し、勝を得たという事からついた名前で、
社も昔は山上にあったのを、後に移転している。
また、近くの村、勝浦村にも勝浦岳神社がある。

祭神は神功皇后なので、勝浦という地名も、
異国を征したことから来たと、風土記拾遺にも書いてあるので、
勝村大神は神功皇后である事は疑いない。

あれあれ、「勝村大明神は神功皇后だ」と言っていますよ。

これはいつ頃の記事だろう。
明治時代に社殿が焼失した記事が載っていますから、明治以降の記事です。
この『神社帳』の意見を分かりやすくするために、
宗像三女神を赤に、勝村大明神と神功皇后を緑にしました。

なるほど、『神社帳』の著者が言いたいのは、
神功皇后が山頂でお祭りした神が宗像三女神なのだから、
宮地嶽の山頂の神は宗像三女神なのだという事なのですね。
(そう言われるとそうかも…。)

勝村大明神は、勝って帰って来た事から、神功皇后だと言う訳ですね。
(そうか。そう来るか。)

結構いい所をついてますねえ。現在の三柱と真っ向対立です。

このままでは、迷路にはまりそうなので、この人が参考にしたという
『筑前国風土記拾遺』の方を見てみましょう。これは江戸時代の本です。

宮地嶽大明神社
村中の小高い山の上にあり、石の階段、数十段を登る。昔は、宮地嶽の山上にあった。
今、その跡を古宮という。そこに清水があって、禊の池という。
昔、社があった頃には使っていたという。

『宗像宮社記』に書いてある。
「宮地嶽明神内の二社は宗像三女神と勝村大明神だ。」と。

社説(宮地嶽神社自身?)には中殿に阿部函相(宮地嶽大明神)、
左に藤高麿(勝村大明神)
右に藤助麿(勝頼大明神)
三座であるという。
この三神は神功皇后の韓国を討った時の功績があった神だという。

なるほど、参考にした宗像宮の由来と、宮地嶽神社の由来が微妙に違っていたんですね。

『神社帳』を書いた人のこだわり振りから見ると、古来、宮地嶽大明神は誰であるか、
勝村、勝頼の神は誰であるか、論争があっているのだけが分かりました。

どの神が誰であるかは、ここで決める事ではありませんので、
この神社の伝承のモチーフだけ、考えましょう。

まず、この宮地嶽に住んでいる豪族がいた。その縁で、神功皇后はここにやって来て滞在した。
その間に、古宮である宮地岳に登って戦勝を祈った。そこで祀った神は宗像三女神である。

皇后が凱旋してから後、ここには宗像三女神と神功皇后が祀られた。
一緒に活躍した地元の豪族も後に神として祀られた。
その豪族の一員が藤高麿や、藤助麿である。
この豪族には同じ時代の人や後の時代の人が混じっている。

こんな所のようです。

時代が下がって行くに連れて、祭神が追加されていき、
後世の人々には、どの神がどの人が分からなくなってしまいました。
数百年間の有名神・人が一緒に祀られているための混乱だと見ました。

ここには、神功皇后を招いた豪族がいた…。
ここは宗像国なのでしょうか、那の国なのでしょうか。
それとも第三の国でしょうか。

石井忠氏によると、「西郷川が那の国のその境目だろう」という事でした。
地図を見ると、この神社はそれより、ちょっと宗像よりになります。
那の国と宗像国の間の丘陵地帯…。

なんで、こんな小さな事にこだわるのかというと、ここに巨大古墳があるからです。
それは奈良の石舞台と日本1、2位を争う大きさなのです。
しかも、例の3メートルを超す、やけに長い金銅製の太刀。
この古墳は、日本の歴史に関わる巨大さなのです。

さあ、ではその古墳を見に行きましょう。

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本殿の右端から出て、奥へ奥へと木漏れ日の中を歩いて行きます。
(つづく)

地図 宮地嶽神社 西郷川 



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by lunabura | 2010-06-11 17:22 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(0)

奥の宮不動神社(1)巨大古墳だった。3mの頭椎の太刀はどうやって持つのよ。

宮地嶽神社(5)
福岡県福津市宮地嶽神社内
奥の宮不動神社(1)

地下の正倉院と呼ばれる巨大古墳
金メッキの頭椎の太刀は3m-どうやって持つのよ?


さあ、今日は奥の宮、宮地嶽不動神社に行きましょう。
途中には七福神の神社や稲荷神社などがありますが、とりあえず、まっすぐ進みます。
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これが最後の石段です。登りきると拝殿があります。
この拝殿の後ろが古墳です。
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この拝殿は古墳の入口にぴったりと建てられています。横穴式の古墳です。

さあ、中に入りましょう。
入口すぐの所に祭壇が置かれていて、普段はそこでお参りしますが、
今日は奥まで入りますよ。

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巨大な左右の岩によって作られた羨道(せんどう)は
二人が並んで歩いていける程度の幅です。奥行きが23メートルあります。

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最奥の玄室です。
左右の岩の大きさは5×5mで、ほぼ立方体だそうです。
そんな巨岩が8個左右に置かれています。
正面の棚状の床は、コンクリートで、現代の加工です。
祀られているのはお不動さんです。

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この古墳は円墳です。右に回るとその頂上部がよく見えます。

さあ、今日はなんと神官さんのお話が聞けましたよ!

「この古墳は日本で1、2位の大きさを誇る古墳です。
奥行きが入口から23メートルほどあります。
奈良の石舞台に次ぐ大きさです。磐井氏の関係の墓と言われています。

この岩は近くの恋の浦海岸から運ばれた事が分かっています。
昔は、神社のすぐ下まで、海でした。そこまでは、船で運んだのでしょう。
そして、山の中腹まで運ばれたと思われます。

発見されたのは江戸時代1741年。突然の山崩れで出て来ました。
石室の中には土砂が入り込んでいて、それを取り除こうとしたら、
金がちらちら見えて、そこが古墳だと分かりました。円墳でした。
金の冠はグチャグチャになっていて、泥まみれで、
金銅性(銅に金メッキ)の巨大な太刀も崩れていました。
それでも、この太刀の持ち手は人間の子供の頭ほどある大きさでした。
長さは3メートル以上あります。

昭和9年、26年にも副葬品が見つかっています。

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これが神社の社務所にあるレプリカです。
この左の丸い形が子供の頭ほどあって、頭椎(かぶつち)と言います。
刀身の方は原型をとどめていなかったそうです。
同じレプリカが福津市役所にもあると聞いています。(未確認です)

地下の正倉院と言われる副葬品

さらに説明がありました。
「馬具は九州で超一級で、所有者は皇太子のレベル以上のものです。
国宝になった主なものとして、金銅の(銅に金メッキ)
馬具は鞍、壺鐙(つぼあぶみ)轡(くつわ)など、
どれも銅に分厚い金メッキが施されていました。
銅の鎖。壺鐙のデザインはササン朝ペルシャのものです。
金のイヤリング、緑のガラス球、銅のお碗、銅のお皿、土師器のお碗
長方形の鉛系のガラス板など。これは正倉院と同じタイプです。」

(へえ~。ガラスが鉛タイプと聞いてドキドキ。これもペルシャとのつながりがあるんだ。
ガラスって鉛タイプとソーダタイプがあって、
それで、どこの国とつながっているか分かるという説があります。)

頭椎(かぶつち)太刀は3,2メートル。
「奈良の橿原には完全なものが出ていて、それと同等のものです。
頭椎(かぶつち)の太刀は皇位継承権のある人が持つもので、
地方豪族などは持てません。」

(そう言えば、神武天皇を現代語訳した時に、彼はこの頭椎を持っていた。
なるほど、身分を示すシンボルだったんだ。)

説明が終わったので、ついにルナは質問し始めました。
「棺は何で出来ていたのですか。」
「何も出ませんでした。だから、石棺ではなく、木棺だったと思われます。
木棺は国王クラス以上の人しか使っていません。加工が大変だからです。」

被葬者は?
「被葬者について、さっき磐井(いわい)氏の関係と言われましたが。
一般的には宗像徳善と言いますが。」
「被葬者として、よく名前が挙げられるのが宗像徳善の君です。
しかし、年代が科学的に、100年位誤差が出ます。
もし、彼が150年位生きていたら、可能性が出て来ますが。

この宮地嶽神社の御祭神の藤氏が磐井氏の孫です。
ですから、この古墳は磐井氏の関係の者と思われます。
一般には宗像徳善の君と言われていますが、違います。」

やっぱり!宗像徳善じゃないよ!やったね。

一般説は被葬者は宗像徳善となっています。
ウェブで調べても、判で押したように宗像徳善という人だと書いてあります。
その理由をいくつか考えると、
これほどの天皇家レベルの副葬品を持っている人なら、
天皇家に関係する人に違いない。
日本書紀に、娘を天皇に嫁がせたのが宗像徳善だと書いてある。
だから、この人の可能性がある。

それに付け加えて、この山から宗像にかけて津屋崎古墳群がある。
古墳群は発達しながら移動して、宮地山で頂点になった。
だから、宗像族の墓であり、その最高者の徳善の墓である。

そういう論法らしいです。
でも、ルナには、その説が何故か受け入れられませんでした。
理由は長らく自分でも分かりませんでした。

この日、神社側から宗像徳善ではないと聞いて、納得しました。

お墓を建てるなら故郷が見える丘がいいと思った。

さて、これを聞いて、宗像徳善の説を唱える人たちは、考えを変えるかな。
無理だな、きっとね。

どこか、もう一つ、自分でも腑に落ちる理由がないだろうか。
そう考えていて、皇石神社に立った時に答えが分かったのです。

皇石神社は古墳の上に立った神社でした。
その境内に立つと、古代の入江と、山々が見えます。
分かった!
そうだ、古墳は故郷を向いて造られるはずだ。大王なら、尚の事。
死んでからも、我が国を守ると。これって誰の心にもあるものじゃないかな。

そう気づいてから、この宮地嶽の巨大古墳に立つと、
宗像は山の裏側になって、故郷を見る事が出来ない位置にありました。
これが、被葬者が宗像徳善と思えない原因だったのです。

この大王も、自分の国が見えるところに造らせたはずです。
こんなシンプルな事が、大王の墓所を決めるのに一番肝心な事ではないでしょうか。

筑紫の君・磐井の墓はずいぶん遠いのですが…。

しかし、このお墓が磐井氏の一族の墓だとしたら、
筑紫の磐井の君のお墓そのものは筑後平野にあります。
はるかかなたです。

県外の方には分かりにくいと思いますが、
磐井の君の古墳は福岡県の南部・八女市にあります。
この神社は福岡県の北部にあります。大変離れているのです。

そこで、早速尋ねました。
「でも、磐井の君のお墓は筑後地方ですよね。」
「そうです。この福間までが磐井の勢力地だったのです。」

(へえっ、筑紫の君、磐井(いわい)って、福岡の半分近くを治めていたんだ。
こりゃあ、すごい大王だったんだ。)

磐井の君が天皇家と戦って、殺されたので、
子供の葛子(くすこ)が粕屋の屯倉を差し出して命を許されています。
それはすぐ隣の古賀市で起こりました。
古賀市立歴史資料館皇石神社に少し書いています。
詳しくは、また稿を改めます。)
そうか、ここは筑紫の大王たちの息のかかる所だったんだ。

と言う事で、神社の見解をおさらいをしておきましょ。
この古墳の被葬者を宗像徳善とするのは、100年ほどのズレがあるので無理がある。
御祭神が磐井の君の三代目にあたるので、磐井氏の関係が被葬者だったと考えるのが妥当である。

さあ、石室の中に入るには!
お祭の日
1月28日 初不動祭
2月28日 春季大祭
7月28日 夏季大祭
この祭典の日には、古墳の石室内に入れますよ。

(つづく)

糟屋の屯倉 ⇒ 鹿部田渕遺跡(ししぶ・たぶち・いせき)
「粕屋の屯倉」の候補地に行って来ました
http://lunabura.exblog.jp/i127/


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by lunabura | 2010-06-10 17:23 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(14)

宮地嶽神社(6)宮地嶽古墳と手光波切不動神社


宮地嶽神社(6) 
奥の宮不動神社と手光波切不動古墳
ここには独立したクニがあったよ
大王を祀っていた新たな氏族を発見

古墳って、故郷を見守る位置に造られるよね。
そう思いながら地図を開くと、確かに古墳は那の国の方を見下ろしますが、
古墳の入口は東の方を向いていました。
入口の方向って、無視していいのかな?

そんな思いを抱いていると、その夜、夢を見ました。
それは宮地嶽から東の方の丘陵地帯の映像でした。
それが、この写真です。
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(国道3号線の上西郷付近から撮りました。)

一番左が宮地嶽です。いくつかのピークを形成しながら、段々低くなっています。

すると、その日、名島神社で紹介した、もと光少年に会って、話を聞く機会が出来ました。
光少年も、今は大長老です。

「宮地嶽の古墳の被葬者を考えていたら、今朝、東の方の丘陵の夢を見たんですよ。
古墳の入口がそちらの方向を向いているんです。
宮地嶽あたりって、宗像族か、阿曇族か、
それとも、第三の氏族がいるんでしょうか。
そこから出土した頭椎の太刀の大きさは半端じゃないんです。」
と何げなく話したら、
「そこは宗像族でも、阿曇族でもないね。第三の氏族だね。」
と言って、昔の話をしてくれました。
「あの古墳の出土品という、頭椎(かぶつち)の太刀は副葬品じゃなかと。
後から持って来て、塚の上に置いた、お供え物たい。
奉納されていたものが、大雨で塚がずって(ずり落ちて)、出たと。
その南の通り堂の手光(てびか)の古墳の方が古かとよ。
その奥の院に当たるのが宮地嶽。地元の武内さんが先祖の墓だと言っていたね。」

「すると、昔は道があったんですか。」
「そう、手光を先にお参りして、奥の院にお参りしていた。今は道はないね。」

これを聞いて、思い出したのは神官さんの話です。
「土砂崩れで、土を取り除こうとしたら、光るものが出て来ました。
それから、拝殿と社務所の間からも、沢山の出土品が出て来ました。」

ああ、そうか。
ルナはてっきり、石組が壊れて開口したのだろうと、勘違いしていました。
思い起こすと、石室の中はとても堅牢で、全く壊れた所はありませんでした。
そうか、思いこみだったんだ。

副葬品と、奉納品と混ざっているんだ。
あの、巨大な金メッキ太刀などは、外の盛り土に置かれたものだったんだ。
そうか。
でも、誰が…。
また新たな謎が…。

そんなの分かるはずないから、とりあえず、その通り堂の方に行ってみよっと。

手光波切不動尊
てびか・なみきり・ふどうそん

光さんが教えてくれた手光(てびか)の古墳は、福津市の旧三号線沿いにありました。

「宮地嶽の古墳と形は同じで、サイズが少し小さい。」
と別の人から聞いたばかりでした。関連があったんだ。

これが手光古墳の写真です。
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民家の間の空き地の奥に古墳の入口が顔をのぞかせています。
両脇にはかつて沢山の仏像が置かれていたと思われる、棚がありましたが、全て失われていました。
腰をかがめて入って行きます。
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横幅も一人がやっとです。玄室では立つ事が出来ました。
それでも、その横幅は160センチぐらいです。
宮地嶽古墳に比べて、羨道は4分の一のスケールの印象。石も平べったいです。
構造的には大きな石を並べて、上から蓋をした感じがよく似ています。

帰りはうっかりして頭を天井にゴツンしました。

この古墳と奥の宮不動神社の古墳は一キロほど離れていますが、セットで考えるべきものでした。

光さんの話に戻りましょう。
「でも、あんな巨大な黄金の奉納品って、当時の日本で作れたんですか。
それとも、外国から持って来たんですか。」
「外国だろうね。」

「それと武内の先祖という話ですが、あの武内の宿禰の一族ですか?
武内の宿禰が300歳とはどう解釈したらいいんですか?」
「あれはね。300年続いた世襲の名前。地方豪族で、百済から来た渡来人たい。
神功皇后の母親も百済人でしょうが。」

「そうなんですか。なるほど、世襲の名前を受け継いだんですね。
昔から、日本人は先祖の名前を受け継いで行きますよね。」

(武内の宿禰の一族がこの宮地嶽にいた?
そうか、その縁で、神功皇后はこの山にやって来たのかもしれない。
そうすると、やけに地元の援助が篤かった理由が分かる。

馬も武器も船も、これだけのクニの援助がないと、とても調達出来ない。
逆に、ここからの依頼でやって来た可能性だってある。

もしかしたら、この説は可能性があるかも。
神功皇后の右腕として、あらゆる援助を惜しまなかった人が武内の宿禰。)

百済の話が出て来ましたが。
神功皇后が新羅を攻めたのは、百済の救援のためだと教えてくれました。

金メッキの頭椎の太刀はササン朝ペルシアの様式だそうですが、
同時に出土した、鉛系のガラスのインゴットも、実はペルシャ系です。
ササン ⇒ 中国 ⇒ 高句麗・百済 ⇒ 倭・正倉院
という流れがあるらしいです。

(この古墳はそういう流れの中で見るといいんだ。ここは重要拠点なんだ。
でも、古代朝鮮の事はさっぱり分からないよ…。)

「すると、この宮地嶽の氏族に名前を付けるとしたら、宮地族がいいですかね?」
「武内族だね。」
「あの福間あたりは、すると、一つの文化圏だったんですか。」
「宮地嶽から通り堂、青柳、筵内(むしろうち)一帯はものすごく古いね。とても古い。」

その話は、通説の、宗像徳善でもなく、神社説の磐井の一族でもありませんでした。
夢で見た丘陵地帯に抱かれた、一つの独立国でした。

ところで、古いってどの位?
調べると、縄文遺跡も沢山出ていました。
さらに旧石器時代、二万年前という遺跡もありましたよ。
(こりゃあ、古すぎる?)

驚く話ばかりで、(こんなの検証出来ないよ)と思いながら帰りました。
ところが、家に帰って、なにげなく『つやざき』(前述)を広げたら、
光さんの話を裏付ける言い伝えが載っていました。
そのまま、書き写します。
岩屋不動尊(日本最大の古墳)

宮地嶽神社の奥深い地点にある岩屋不動尊と称する古墳は、宮地嶽山腹から上西郷、神興、福間、津屋崎地方に散見する先住民族の長の霊を祭るために作られたものと言われ、彼等の住居を一見し得る高燥の台地に彼等の長と霊を葬り、毎年祭祀を営み、永劫の守護と福利を祈ったものといわれる。

その後、この古墳を発掘した者が、内部の遺物に尊厳と恐怖を感じて仏像を安置してお祀りするようになったものであろうと言われる。

岩屋不動窟は、横穴式石室の円墳で、23個の巨岩を積み重ね、高さ約3米、巾2,7米、長さ約27米ある。
その規模の偉大さにおいては日本一の折紙がつけられ、重量な文化財とされている。

宮地嶽神社所有の国宝類は、すべてこの古墳からの出土品であるといわれる。

光さんの話を聞いた後なので、この話がよく分かりました。
地元の言い伝えと組み合わせると、
巨大古墳には有名な武内の宿禰と関わる氏族の長が埋葬されているという事になりました。

地図 宮地嶽の古墳 手光の古墳 西郷川(那の国との境?) 撮影した所(北を撮る)
(宮地嶽から東の丘陵地帯から、西郷川までが、武内族のクニ?)

次回はこの古墳を舞台に、目撃された二つの奉納の舞を紹介したいと思います。

(つづく)





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by lunabura | 2010-06-09 21:25 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(5)

奥の宮不動神社(3)筑紫の舞と韓国のムーダンの舞

宮地嶽神社(7)
奥の宮不動神社(3)
奉納された筑紫の舞と韓国のムーダンの舞

光さんがこの巨大古墳に奉納された二つの舞の話をしてくれました。

ちくしの舞
「昭和5年頃だったね。菊邑検校(きくむらけんぎょう)が筑紫(ちくし)の舞を奉納していた。棺(かん)の舞と言ってね、棺(ひつぎ)の舞のことで、大王が亡くなって、『大王蘇ってくれ。』と言って、宮地嶽のぐるりを踊って廻った。」

「すみません。筑紫の舞って知らないんですが。」
「菊邑検校は明治天皇のご落胤などとも噂される人で、福岡県の桂川(けいせん)の王塚の所に住んでいたと。ちくしの舞を伝承していた。これはもともとサンカの人たちが伝授していた舞だったとか。

口頭では伝えないために、最初の弟子は水銀を飲んで、声帯を焼き切った。二代目は入水自殺をした。
ちくしの舞は元々、棺(かん)の舞だった。

西山村さんが筑紫の舞を新しくしたと。西山村さんは「かんの舞」を「神の舞」と解釈して、宮地嶽古墳に奉納した。本来の「棺の舞」を変えてしまったので、私は証言を止めたとたい。」

光さんはちくしの舞の証言者でした。
光さんの所には、古田武彦氏や鳥取大の先生など、いろんな人が聴きにきたそうです。
河原崎長一郎氏も映画化するために、来られたけど、
たけち監督が亡くなってしまって、沙汰やみになったという事です。
盲目の菊邑検校を河原崎氏が演じたら、相当のものだったでしょう。

次の写真は手光の古墳近くから、宮地岳方面を撮ったものです。
c0222861_1558571.jpg

ここからは、宮地岳は烏帽子山に見えます。古墳にまっすぐ行く道は今はありません。

サンカを辞書で引きました。
山窩(さんか)
村里に定住せずに山中や河原などで家族単位で野営しながら漂白の生活を送っていたとされる人々。主として川漁・箕作り・竹細工・しゃもじ作りなどを生業とし、村人と交易した。山家。
なんとも不思議な話です。
古代から連綿と、この大王への奉納の舞を伝えていた人たちがいたと言うのです。
口外禁止だったなら、誰も知らないはずです。

これほどの豪族の末裔が語れないとすると、まつろわぬ者として激しい戦争で負けて、
歴史に埋没して行ったのかも知れません。
実際、古事記や日本書紀を読んで行くと、当時は国内でも、韓半島などとも戦争だらけでした。

大王が生きている間は独立を保てたのでしょうが、
亡くなったあとは、他国に支配されて行ったのでしょう。
戦いがあった事は、周りの古墳から、鉄器、木の甲冑、鉄の甲冑などが出ていることからも容易に伺えます。

そんな流れで、歴史に名を残せなかったのかもしれません。
それでも、この太刀を見て下さい。持ち手はバレーボールぐらいはあった印象です。
c0222861_1605395.jpg

これが「頭椎」と書いて、「かぶつち」と読ませる太刀です。

古田武彦氏のサイトに、西山村さんが「最後の筑紫の舞」を見た話が詳しく載って来ます。
道のない所をよじ登って行ったそうです。
その時は13人が奉納舞をしたとか。それが歴史上、最後の奉納になったようです。
13人も入れた大きさから、この古墳だと特定されました。
c0222861_1612847.jpg

写真の右下に長方形の穴が彫ってあるのが見えますか?
左右対称に彫られています。花崗岩にこれだけの加工を加えて、石組にしています。
(正面の床は現代のコンクリート加工です。)
これだけの技術者集団を抱えていたのです。すごい被葬者だったのが分かります。

光さんはもう一つ、異国からの舞の奉納の話をしてくれました。

韓国の巫堂(ムーダン)の奉納の舞
「宮地岳はカラクニ岳て言うとった。カラサキ山とも。
海から入って来る時、この宮地岳が大事な目標やったと。

新羅や百済からも舞人が来ていたね。
昭和の始めごろ、韓国の人が毎年、塚まで来ていた。
総勢6、70人で、うち男が4、5人。チョゴリを着ていた。
ムーダンの一行は宮地嶽古墳から名島神社に移動して、
そこで海岸で一週間ほどキャンプをしていた。
この踊りの奉納をして、名取になれると言ってたね。

大勢で神社の前を通って行くので、当時の宮司が塀を作って通れなくしとったね。
大正頃までは、宮地嶽神社と古墳は別物だった。昭和になって管理するようになったと。」

光さんは当時の光景を思い出しながら話してくれました。
韓国の人が何故この古墳で舞うのか、向こうの伝承が聞きたいものです。
(ムーダンの舞については、名島神社でも書いています。)
光さんは日韓シンポジウムにまで行ったそうです
「倭人は百済を通して中国へ行っていた。日韓のシンポジウムに行ったけど、
韓国では、三韓は存在しない、神功皇后も来ていないと言っていたね。
百済が滅亡した時、10万人の避難民が日本に逃げて来た。当時の日本人の人口が10万人。」

「文化は中国から朝鮮から日本へ向かって行った。日本から朝鮮に流れる事なはい。
古代から貿易をして、ここは移民地になっていた。」

双方向から、このように古代社会を研究できる時代になったんですね。
歴史の研究はどんどん進化していて、昔、教科書で習った世界観は、常に訂正をよぎなくされます。
頭を柔らかくして、おかなくっちゃ。

調べて行くと、この辺りは、古代鉄によって栄えた所だと見えて来ました。
また、詳細は後日報告したいと思います。

さあ、そろそろ、ぶらりと山を越えますか。




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by lunabura | 2010-06-08 16:11 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(2)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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