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宗像大社 辺津宮・千木が外削ぎなのは何故?結末編


宗像大社 辺津宮

千木が外削ぎなのは何故? 結末編 

福岡県の宗像大社は三女神を祀る宮ですが、
「辺津宮の千木が外削ぎなのはどうしてだろう」というコメントをいただきました。
神社の屋根にある千木は内削ぎが女神、外削ぎは男神を祀ると言われているからです。

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辺津宮の写真を見直すと確かに千木は外削ぎです。
祭神は女神ではないのでしょうか。
この謎をある人が宮司さんに尋ねたけど、答えが得られなかったという事でした。

何か隠されているのだろうか、などと噂をしていたら、
私たちのコメントのやりとりを見た方がその理由を宗像大社に直接、メールで尋ねてくれたんです!
なんと有り難い!

神社から丁寧な返事があったそうです。
その内容を公表してもいいだろうかとその方と話し合いました。

神社が見知らぬ人に返答をくれたのは、「それが公になってもいい」という事を
含んでいるのではないかという結論を出しました。

考えてみると、何人もの人が同じ質問を神社に尋ねるより、
ここで公表した方が神社にも迷惑がかからないのではという事で、
今回のテーマは「女神を祀る宮に男千木と言われる外削ぎが何故使われているのか」
という件についての顛末です。

事の始まりは
楯崎神社(2)大己貴と宗像姫の連合軍が異敵と戦った の記事からでした。

楯崎神社は宗像市の隣町にある断崖絶壁の上の神社で巨大な盤座がある宮です。
その祭神は大己貴命と少彦名命。
この宮には大己貴命が宗像三女神の姉妹を二人、妻にした伝承があります。
(古事記では妻は一人なので、とても珍しい伝承です。)

その時、Bさんからコメントを頂きました。
まずはBさんと私のやりとりを一部紹介します。

Bさん
「宗像大社も謎が多いですね。以前ボランティアの方にお聞きしたんですが、
宗像大社辺津宮の千木は垂直に切ってあります。
一般的には千木が垂直の場合は、男神を祀ってあるんだそうです。
ちなみに沖津宮・中津宮両方とも千木は水平なんだそうです。
ひょっとして辺津宮の神様は男性なんでしょうか。」

るな 
「そうなんですか~!千木が垂直とは、大発見ですよね!!
宗像の御祭神は古くは大国主だという方がいました。
すると、この大己貴命がその人ですよね。
英彦山にも降臨したという話なので、これまでの神社史は大幅見直しが必要かも知れませんね。
なんだか大変な事になりました。」

Bさん
「千木のことを教えてくださったボランティアの方は、千木のことを直接大社の宮司さんに聞いたそうですが、結局何も教えてくれなかったとのことです。」

るな 
「写真の通り、垂直でしたね!!本当に驚いています。
宮司さんに訪ねても答えがなかったのなら、深い意味があるのでしょう。
これまでの宗像宮観が完全にくつがえる話ですが、これで深層に下りて行けるような気がしてきました。
教えて下さってありがとうございます。」

ま、こんなやりとりなんです。
気にはなっても、それ以上は踏み込めずにいたのですが、
このやりとりを読んでくれたTさんが宗像大社に直接質問をしてくれました!
そして結果を私に教えてくれました。(感涙)



次の文はTさんと私のメールのやりとりの一部です。
Tさんは「千木について」と「道主貴と道主命の違いについて」を質問されたようです。

Tさん
「宗像大社・辺津宮の千木の件ですが、宗像大社へ直接問い合わせてみましたところ、
以下のご回答をいただきましたので、ご報告させていただきます。」

宗像大社
メール有難うございます。
お待たせいたしました。折り返し御返答申しあげます。
まず、千木に内削ぎ外削ぎがあり、御祭神の性別を示すとの説があります。それを
以って男千木・女千木とも言いますが、それは俗説です。

全国の神社を巡ってもそれにあてはまらない神社は多くあります。別の角度から見た場合、たとえば夫婦神を祀る神社は片方が外削ぎ、もう片方が内削ぎとならなければなりませんが、その様な形の神社はありません。

・もう1点の「命(ミコト)」と「貴(ムチ)」について御返答申し上げます。
「貴」とは貴い御存在という意です。「命」とは別であると思います。よって、「道主貴」と「道主命」は別の神様と解釈致します。

ちなみに『日本書記』崇神天皇十年の条によると各地平定の為に遣された四道将軍(四人の将軍)の一方に丹波道主命の名がみえます。それが、玉置山の道主命と同一かどうかは分かりませんが、今ではその方を御祭神とする神社があってもおかしくありません。

他にも道主命と崇められた神様や功績のあった古代豪族が当時あり、その伝承を今に残しているのかもしれません。

何れにしても「道主貴」とは違うものと思います。道主命については、これ以上は当方にとって専門外となりますので重ねての御質問は御容赦願います。以上御返答申し上げました。   
宗像大社  祭儀部

Tさん
「私の妄想にまで、ご丁寧にお答えいただきました(笑)
内削ぎ=女神・外削ぎ=男神とは、研究していく上で
『もしかしたら、こういう事なのでは??』と考えた事なのかもしれませんね。
宗像大社側からご指摘いただいたとおり、全ての神社で性別と千木の形が
当てはまるわけではないようですし。

でも、沖津宮と中津宮は内削ぎなのですよね?
同じ宗像大社のお宮なのに、辺津宮だけが外削ぎなのって気になりませんか?
というわけで、お礼のメールとともに、早速質問してみました(笑)」


それから数日後。
Tさん
「宗像大社から再び回答が届いたのでご報告します。」
御返答申し上げます。
沖津宮は外削ぎ、中津宮は内削ぎとなって居ります。その理由については、特に伝承されて居りません。現在の御社殿(建物)は、沖津宮が江戸時代後期、中津宮・辺津宮が戦国時代後期でそれぞれまちまちです。
宗像大社  祭儀部
Tさん
「どうやら、宗像大社のご神殿は、中津宮だけが内削ぎのようですね。
沖津宮と辺津宮が同じ時代に建築されたのなら、実はその時代の流行でした~って
話も出るかもしれませんが、実際には中津宮と辺津宮が同じ時代ですから、
何故違う形にしたんだろう??と疑問に思います。
が、伝承されていないと言われたら、それ以上聞けないですね(^^;)」

以上、Tさんのメールの一部でした。
私もTさんと全く同意見なので、その感想の部分も掲載させていただきました。
Tさん。本当にありがとうございました。

宗像大社の説明では「男千木・女千木については俗説で、
辺津宮が外削ぎだという事について説明する伝承もない」とのです。

し・か・し、ころんでもただでは起きない、るなさん。
実際に「千木と祭神の関係はどうなっているのか」
これまでのストックから8神社ほど調べてみました。

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赤司八幡宮 
主祭神 道主貴 三女神 宗像大社と同じ女神たちです。同じように外削ぎでした。

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大善寺玉垂宮
主祭神 武内宿禰 もしくは 高良玉垂命とあいまいで、一部では女神だとも伝えられています。
外削ぎです。

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伊野天照皇大神宮
主祭神 天照大神 アマテラス女神で、内削ぎです。

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天照神社
主祭神は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊。
いわゆるニギハヤヒで男神ですが、内削ぎです。

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宮地嶽神社
主祭神は神功皇后。内削ぎです。

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香椎宮
主祭神は仲哀天皇。千木はありません。

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志賀海神社
主祭神は綿津見三神。千木はありません。

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風浪宮
主祭神は少童(わだつみ)命。千木はありません。

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現人神社
主祭神は住吉三神。千木は外削ぎです。

という事で、確かにバラバラで、法則性は見当たりませんでした。
宗像大社の辺津宮が外削ぎだからといって男神が祀られているとは言えません。
宗像大社の言われる通り、男女の千木は俗説だというのが分かりました。

Bさん。これで如何ですか?
Tさん。協力ありがとうございました。(^o^)/


この記事は
楯崎神社(2)大己貴と宗像姫の連合軍が異敵と戦った 

宗像と出雲
の続きです。


地図 宗像大社





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by lunabura | 2012-04-30 23:10 | 宗像大社・むなかた・宗像市 | Comments(6)

岡田宮・神武天皇とタカミムスビ神と熊鰐

岡田宮
北九州市八幡西区岡田町
神武天皇とタカミムスビ神と熊鰐

岡田宮はJR黒崎駅から600mほど南に下った所にあります。
近くの地名が熊手・熊西などなど。これは熊族に関わる地名なのだろうか。
日本書紀などに出て来る岡田宮はここなのだろうか。
行ったら分かるのだろうか。そんな思いで宮を訪れました。

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一の鳥居はビルの間ですが、駐車場は左の方から廻り込むとありました。

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一の鳥居から歩くと、すぐに参道が二手に分かれますが、どちらもOKです。

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緑の多い境内を歩いていくと神門前に出ました。

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拝殿です。御祭神は
中殿(岡田宮)神日本磐余彦命[神武天皇](カムヤマトイワレヒコノミコト)
右殿(熊手宮)大国主命(オオクニヌシノミコト)
          少彦名命(スクナヒコナノミコト)
          県主熊鰐命(アガタヌシクマワニノミコト)
左殿(八所宮)高皇産霊神(タカミムスビノカミ)
          神皇産霊神(カミムスビノカミ)
          玉留産霊神(タマツメムスビノカミ)
          生産霊神(イクムスビノカミ)
          足産霊神(タルムスビノカミ)
          大宮売神(オオミヤノメノカミ)
          事代主神(コトシロヌシノカミ)
          御膳神(ミケツカミ)

岡田宮、熊手宮、八所宮と、三つの宮が祀られていました。
まずは中殿の岡田宮、神武天皇について見てみましょう。

中殿(岡田宮)
岡田宮と言えば、記紀の神武天皇の巻に出て来るあの岡田宮でしょうか。
古事記と日本書紀の該当の部分を読んでみましょう。(るな訳)
古事記
イハレビコの命は同じ母から生まれた兄のイツセの命とお二人で、高千穂の宮で話し合いました。
「どこに行ったら、平らかに天の下にあるこの国の政治をして、臣下たちの奏上する話が聞けるだろうか。やはり、東に行こう。」と言われて、日向を発って、筑紫に行きました。
そこで、豊の国の宇佐に着いたとき、その国の人で、名前はウサツヒコ、ウサツヒメの二人が足一騰宮(あしひとつあがりの宮)を造って、たいそうもてなしました。

そこから移動して筑紫の岡田の宮に一年滞在しました。またその国より、上って、安芸の国の多祁理(たけり)の宮に七年間滞在しました。さらにまた上って、吉備の国の高島の宮に八年間滞在しました。

日本書紀
11月9日に天皇は筑紫国の岡水門に到着された
12月27日に安芸国に着いて埃宮(えのみや)で過ごされた。

古事記では「岡田の宮」、日本書紀では「岡の水門(みなと)」となっていました。
まさにこの宮は該当の宮なのか?
社務所で尋ねて見ました。すると思いがけず、
「この宮は江戸時代にここに遷宮したもので、神武天皇が祀った所は一宮神社ですよ。」と教えられました。それを示す由緒書きがこれです。
慶長10年(1605年)、黒崎城築城の際に筑前六宿の起点となりて、現在地に御遷座され、福岡藩祈祷社・黒崎宿の産土神と定めらる。

元の場所が分からず、さらに電話で尋ました。
すると現在の熊西2丁目の電停近くで、岡田宮跡の石碑もあるとの事でした。
古事記に書かれた場所が残っている!!
それは驚きでした。

そこで場所を伺って、日を改めて一宮神社にも参拝しました。その参拝記は
「一宮神社・神武天皇の磐境神籬・岡田宮あと」
http://lunabura.exblog.jp/17333319/

に書いています。神武天皇が祀った盤境神籬をそのまま見ることが出来ましたよ!
それから800年経って仲哀天皇と神功皇后がその盤境神籬に参拝した訳ですね。

左殿(八所宮)
この八所宮には神武天皇が祀った神々の名が伝えられていました。
元は八幡西区区役所の公園あたりにあったそうです。
     高皇産霊神(タカミムスビノカミ)    神皇産霊神(カミムスビノカミ)
     玉留産霊神(タマツメムスビノカミ)  生産霊神(イクムスビノカミ)
     足産霊神(タルムスビノカミ)      大宮売神(オオミヤノメノカミ)
     事代主神(コトシロヌシノカミ)     御膳神(ミケツカミ)
この八神は皇居でも祀られている神々だそうです。
大変興味深い祭神の組み合わせですが、
今回は第一の神の高皇産霊神(タカミムスビ神)に注目しましょう。

タカミムスビの神
「タカミムスビの神と神武天皇との関わり」が古事記に書かれています。
(タカミムスビ神=高木神)
イワレビコの命が熊野の村に着いた時に大きな熊がほのかに、ふっと出て来て、そのまま消えてしまいました。すると、イワレビコの命は急に疲れてしまい、また率いていた軍勢も皆疲れて倒れてしまいました。

この時、熊野の高倉下(たかくらじ)という者が、一振りの太刀を持って、天つ神の御子が倒れている所にやって来て、その太刀を献上しました。

すると、イワレビコの命はすぐに目が覚めて起き上がり、「長く寝たなあ。」と言われました。そして、その太刀を受け取ると、その熊野の山の荒ぶる神はひとりでに皆切り倒されました。すると惑わされて倒れていた軍勢も、みな目が覚めて起きました。

そこで、イワレビコの命が高倉下に、その太刀を手に入れた事情を尋ねると、高倉下は、こう答えました。
「こんな夢を見ました。天照大御神と高木の神の二柱の神が建御雷の神を召して、言われました。『葦原の中つ国はひどく騒いでいるようだ。我が御子たちが病んでいるらしい。その葦原の中つ国は、そもそもそなたが平定した国である。だから、そなた建御雷の神が天降りしなさい。』と。

そこでお答えになったのが、『私めが天降りしなくても、その国を平定した太刀が有るので、その太刀を下ろすのがよろしいでしょう。』と。(この太刀の名は佐士布都(さじふつの)神と言い、またの名は甕布都主(みかふつぬし)と言い、またの名は布都御魂(ふつみたま)と言う。この刀は石上神宮にある。)

そして、私にお告げになったのです。
『この刀を降ろす方法だが、高倉下よ、お前の家の倉の屋根に穴を開けて、そこから落とし入れる。だから、縁起をかついで、朝、目を覚ました時に、一番最初に目に入るようにして、天つ神の御子に奉りなさい。』と。

朝、目が覚めて、夢で教えられた通りに倉を見ると、本当に太刀がありました。だから、その太刀を持って献上しに参りました。」と高倉下は申し上げました。さらに付け加えて言いました。

「その時、また、高木の神が教え諭された事には、『天つ神の御子を、これより奥の方には、入らせないようにしなさい。荒ぶる神がとても多い。今、天から八咫烏(ヤタガラス)を遣わす。その八咫烏が道案内をするであろう。それが飛び立った後から、行軍されるように。』との事です。」

タカミムスビの神が高倉下(たかくらじ)を通して太刀(フツの御魂―石上神社蔵)と八咫烏を神武天皇に授ける内容です。

高天原の経営はアマテラス一人でなく、このタカミムスビの神がリードしています。
そしてこの八所宮の八神を見ると、アマテラスが入っていず、
第一神がタカミムスビの神となっています。これは大変興味深いですね。
(高良玉垂宮では山頂には、もともと高木の神が祀られていたのが麓に下りていますョ。⇒高樹神社)

夢のお告げを受けた高倉下については、
奥野正男氏が高倉神社と関わりがあるのではないかと論じています。
高倉下が物部氏だとすると、フツの御魂という神剣が石上神社に祀られる事にも上手く繋がって行きます。

高倉神社もまた岡の水門にあり、熊鰐とは川を挟んで協力し合っている様子が
これまでの逍遥で見えていました。

記紀に書かれている岡田宮は今も変わらず祀られていました。
熊野の村は紀伊半島でなく、この洞海湾での話の可能性はないか。そんな思いも最近はしています。

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(境内)

右殿(熊手宮)
熊手宮にはあの熊鰐が祀られていました。
神功皇后に援助を惜しまなかったその人柄の魅かれて、
私は熊族をもっと知りたいと思うようになったのですが、
この宮の由緒書きを見ていて、その冒頭に大きな情報があった事に気づきました。

岡田宮略記(HPより)
当宮は古代、崗地方(旧遠賀郡)を治めていた熊族が洞海・菊竹浜(貞元)に祖先神を奉斎した地主神にて、岡田の宮と称し、この地を熊手と号す。

神武天皇日向国より東征の途次、当宮に詣り、天神地祇の八神(八所神)を奉斎し、この地に留まり給う由「古事記」にあり。

仲哀天皇8年(199年)、神功皇后、三韓征討の折、崗県主祖・熊鰐の案内で熊手出岬(皇后崎)に到り、当宮に詣り、八所神を親祭する由「日本書紀」にあり、これを岡田の三宮と称し「天」「地」「人」の三才を表す。

熊手宮は熊族が祖先神を奉斎した宮で、やはり一宮神社の所にあったそうです。
そこで地主神(じしゅしん)を祀っていました。
右殿(熊手宮)
大国主命(オオクニヌシノミコト)
少彦名命(スクナヒコナノミコト)
県主熊鰐命(アガタヌシクマワニノミコト)

これは…。
熊族は大国主命と少彦名命を祀っていた事になります。
あの熊鰐さんは出雲の神々を祀っていた?祖神は出雲神?

そんな疑問が起こったので、神社にお尋ねすると、
「はっきりとした社伝は伝わっていません。
二神が熊族の直接の守護神と結びつくかどうかは定かではなく、
当時、出雲から勧請されたのが祀られているのではないでしょうか。」
という内容のお答えでした。

それでも熊族と出雲の神々とは深い関わりがあるのがこれで分かりました。
宗像の姫神たちとも結ばれた大国主です。この洞海湾を必ず通ったはず。
これからも逍遥を重ねて行くと、
古代出雲のさらに原型となる姿が浮き彫りになるかも知れませんね。

さらにブログ名が「八咫烏の声」という事でその由来もお尋ねしました。
神武天皇を援けた二羽の鳥が「八咫烏と金の鳶(とび)」。
神の使いとして社殿の幡にも、この二羽が描かれていて、それから採ったという事でした。

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さて、拝殿の神額は貝原益軒が奉納したものだそうです。
筑前国続風土記でいつもお世話になってま~す。
益軒さんもこの宮をとても大切に思ったのですね。

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境内のイチョウ。
随分前に参拝した神社ですが直接話が聞けてよかったです。
いろいろとありがとうございました。

地図 岡田宮 一宮神社







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by lunabura | 2012-04-27 13:23 | 神社(オ) | Comments(15)

甲宗八幡宮・御神体は神功皇后の甲・甲の実年代は?そして別伝あり


甲宗八幡宮
こうそうはちまん
北九州市門司区
御神体は神功皇后の甲
甲の実年代は?そして別伝あり


甲宗八幡の「甲宗」は御神体が神功皇后の着用した甲(かぶと)だ
という事からついた名前だそうです。
この宮がある所は北九州市の北の果て。

関門海峡がすぐそこで、和布刈(めかり)神社も近いです。
門司区には「門司港レトロ地区」という大人が楽しめる、雰囲気のある観光地が
ありますが、そこから一足伸ばした所にこの神社はあります。

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正面です。車は左の路地から駐車場に上がる事が出来ます。

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夕陽で境内が少し赤く染りました。古代は海もすぐそばだったと思われます。

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拝殿です。御祭神は
第一殿 応神天皇 
第二殿 神功皇后 
第三殿 市杵島比売命 多紀理比売命 多紀津比売命
です。

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創建は貞観2年(860)。大友の兵火に二度遭い、門司大空襲でも社殿焼失。
その後、こうして復活しています。
さて、この宮は平安時代にどのようにして創建されたのでしょうか。
由緒書きを読んでみましょう。(一部口語訳)
清和天皇・貞観元年、大和国大安寺の僧行教宇佐神宮に参拝して「桓武天皇が都を平安京に遷されてから50年以上も経過しましたが、いまだに王城を鎮護する神が有りません。願わくば神慮が私にくだって、守護神を教えてくださいますように。」

と祈願したところ、『われが都近くに移座して国家を鎮護しよう』と神勅があったので、貞観2年に清和天皇は太宰大弐の清原真人岑成(まひとみねなり)を勅使として派遣しました。

勅使の旨(むね)を受けた僧行教は、宇佐神宮の御分霊を山城国に遷座する(石清水八幡宮の創建)途中、門司ヶ関の霊峰・筆立山(ふでたてやま)の山麓に駐留しました。

すると筆立山の上空に瑞雲がたなびき、不思議にも八流(やながれ)の幡が天降(あもり)して光り、日月のように行教(ぎょうきょう)の袈裟を照らしました。

行教は「大神の出現、疑うべからず」と上申して、この地に宇佐神宮の御分霊を祀り、神功皇后のご着用の御甲(かぶと)を御神体として当神社を創建しました。御甲を御神体としてまつることから甲宗と称します。

祭主(初代宮司)は宇佐神宮の初代宮司・大神比義(おおがのひぎ)を始祖とする大神義勝であり、以来同家が宮司職を務めております。

これを読むと、石清水八幡宮の創建の事情が書かれていました。
行教が宇佐神宮で神勅を得て都に戻る途中、交通の要衝だったこの門司に駐留した時、
この山に不思議な光の現象があった事から、この山を祀るようになり、
御神体を神功皇后の着用した甲としました。

この甲は50年に一度の大祭の時に拝観できるそうですが、その大祭は2010年だったようです。

社務所で話を伺ったところ、甲は鉄製で周りには鋲がずらりと打ってあったという事ですが、
専門家が鑑定したところ、平安時代か鎌倉時代のもので、
同様の物が三か所にあるという話だったという事です。

この神社の創建時に、その時代の最上の甲が御神体とされたのでしょうか。
残念ながら神功皇后のものではありませんでした。
それはそれとして、実年代が明らかになってよかったです。

神功皇后の足跡がないかどうかを尋ねたところ、ここから対岸が見えるから
登られた可能性はあるけど、伝承としては具体的に残っていないという事でした。

それでも戴いた由緒書きには思いがけない別伝が…。
神功皇后
仲哀天皇の皇后であります神功皇后は、天皇が亡くなられた後に御意志を継がれ、九州の諸豪族と関係のあった三韓と仲違(なかたが)いがあり、その是非を正さんと出兵しました。

その時に皇后のお腹にいらっしゃったお子様は、凱旋後すぐに筑紫国で誕生しました。そのお方が応神天皇でございます。

皇后は長府の豊浦宮(忌宮神社)に皇居を定め、九州の諸豪族の動静をしばらく見定めるうちに三韓に対しての誤解も解け、前にもまして交流は盛んになりました。

その後、機会あるごとに学問、工芸、殖産などの技術者を招き、常に大陸文化を吸収する素地を作りました。

この由緒の注目点として、九州の諸豪族と三韓が関係あって仲違いがあった事、
また神功皇后は豊浦宮を皇居とした事が挙げられます。
これらは日本書紀には書かれていません。

私が日本書紀を訳した時、皇后たちが近畿に向かう事情が唐突で、
香坂王たちと戦う流れが不自然なので困った事を思い出しました。

仲哀天皇が都としたのは豊浦宮と橿日宮なので、
神功皇后が行ったことのない近畿まで何故行くのだろうかという
素朴な謎にぶつかったのです。

古事記に至っては、話に矛盾が生じていたので、
私が整理して変更して『古事記の神々』に訳をしているのです。
今思えば余計な事をしたかなと思っています。

こうなると、豊前から北九州にかけでの事象を記紀が省略しているのも、
何か隠しているなと、るなの嗅覚は真実を求めて鋭くなるのでした。

響灘(ひびきなだ)から周防灘(すおうなだ)。
下関から北九州~大分。
もっと歩くと思いがけない伝承に出会えそうです。

さて、関門海峡は源平の合戦の場でもありました。
神社の境内には平知盛の墓所がありました。
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知盛は平清盛の子。

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「元暦2年(1185年)3月24日、壇ノ浦の戦いで平氏滅亡の様を見届けた知盛は、
乳兄弟の服部家長と手を取り合って海へ身を投げ自害した。享年34。」
とwikiにありました。
34歳か。まだまだ若かったのですね。

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境内のイチョウ。

地図
甲宗八幡宮



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by lunabura | 2012-04-25 13:15 | (カ行)神社 | Comments(0)

古代は男も神懸かりをした・NHKの変てこりんなシャーマン像にモノ申す


古代は男も神懸かりをした
NHKの変てこりんなシャーマン像にモノ申す
 

今回は辛口るなです。

神懸かりと言えば神功皇后卑弥呼を思い浮かべます。
古代のシャーマニズムに対して
私はいつの間にか女性中心のイメージを作り始めていました。

吉野ヶ里遺跡で見かけた祭祀場のモデル像は
天の岩戸の前のアメノウズメの服装をしていて、
竹内宿禰が審神者だった神功皇后の神懸かりシーンを参考に再現されていました。

これが一般的な古代日本のシャーマン像になりつつあるのかも知れません。
しかし、これは大変偏った見方なのだと気づきました。

少し話がそれますが、一昨年でしたか、纒向遺跡から桃の種が見つかった時に
NHKスペシャルで放送された「邪馬台国を掘る」(2011・1・23)で、
髪を振り乱した白衣の女性が「桃」に囲まれてトランス状態になって
バッタリと倒れるシーンにとても違和感を覚えました。

最初に驚いたのは巫女の周囲には桃を盛った器がずらりと並べられている事でした。
前はもちろん、左右にも。後にも。
出土した2000個をすべて盛り付けたようでした。
下のテロップには学者の認定を受けているような文言も流れました。

そんなの有り?
お供え物をお尻の方にも置くの?

出土した2000個近い桃を体育館に並べてその数の多さを誇示したシーンがあって
その無駄な労力にも驚いたのですが、
それを一度に供えたという発想に疑問を持ちました。
神に供えるとしたら一皿で十分なのではないでしょうか。

例えば、毎年一皿ずつ供えた物を、例年同じ方角に埋めた結果、2000個になった
という発想は出来ないでしょうか。

また巫女とは髪を振り乱さないと神の声は聞こえないのでしょうか?
きっと東南アジアあたりのシャーマニズムを映像で見て
「神懸かり=髪振り乱してトランスになる」というパターンが出来たのでしょうが、
それが学者の意見を取り入れているとしたら、ちょっと淋しいです。

その変てこりんな供え方をした桃の中で
卑弥呼を連想させるような女性が髪振り乱して形相を変えて行ってバッタリと倒れる変てこりんさ。

倭国の祈りの姿とはそのようなものでしょうか。

纒向遺跡の再現図

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画像出典
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2011/0123/

この番組の一番の問題点は、纒向遺跡で大型の建物が見つかったからと言って
すぐに卑弥呼・邪馬台国に短絡した点にあります。
まずは天皇家やそれを支える氏族たちを検討するのが本筋じゃないでしょうか?

大型の建物で祭祀するのは天皇や皇后、皇太子ではないか?
纒向に都を造ったという景行天皇の記述(日本書紀)は検討されたのでしょうか。

もし天皇家の遺跡ではなかったと判明しても神懸かりをするのは女子だけではありません。
男子も神懸かりをするのです。
いきなり「邪馬台国だ」「卑弥呼だ」では困ります。

邪馬台国論に関しては、私は外野だけど「良質な論争」を楽しみにしているのです。
「おらが故郷の邪馬台国」という論拠で番組を作るのは勘弁してほしいです。

という事でずいぶん前のNHKの番組への不信を今頃になって書きました。

それというのも、そんな映像を見ている内に、
弥生時代のシャーマニズム=卑弥呼の鬼道という固定観念が
自分の中に刷り込まれ始めているのに気づいたからです。
これは誤りでした。


倭国の男子の神懸かり

神社伝承や文献を見て行くうちに
男子の神懸かりもまた倭国の祭祀の基本の柱なのだという事が分かって来ました。
今回はその古代日本の男子の神懸かりの例を少し見て行きたいと思います。

まずは日本書紀の神功皇后の巻の別伝
男子が神懸かりをしているシーンを読みましょう。(るな訳)
ある本に曰く、
足仲彦天皇(たらしなかつひこ=仲哀天皇)は筑紫の橿日の宮を宮処としました。その時、サバの県主(あがたぬし)の祖であるウツヒコ・クニヒコ・松屋種(まつやたね)に神が懸かって、天皇に教えました。
「天皇がもし宝の国を手に入れたいと望めば、実際にお授けしよう。」と。
すぐにまた続けて、
「琴を持って来て皇后に勧めなさい。」
と言いました。そこで神の言葉に従って、皇后は琴を弾きました。すると神が皇后に懸かって教えました。
「そなた天皇の所望する熊襲の国は、例えれば鹿の角のようなものである。実がない国である。今、そなたが乗っている王船と穴戸の直(あたい)ホムタチが献上した大田という名の水田を供えて、我をよく祀れば、美女の眉毛のようで金銀が沢山あって目もくらむような国をそなたに授けよう。」と。
その時、天皇は神に答えて言いました。
「いくら神といっても、どうして欺こうとされる。何処にそんな国がありましょうや。またわたしが乗る船を神に献上したら、私はどの船に乗ったらいいのですか。それに、どこの神とも分かりません。願わくば神の御名を承りたいものでございます。」
すると神が名乗られました。
「表筒男(うわつつのお)、中筒男、底筒男。」と。こうして三神の名を名乗ってまた重ねて言いました。
「我が名は、むかひつを・もおそほふ・いつのみたま・はやさのぼりの尊である。」
と言いました。すると、天皇は皇后に言いました。
「縁起の悪いことを言われる婦人だ。どうしてハヤサノボリ(速く天に昇る)と言うのか。」と。すると神が天皇に言いました。
「そなた天皇がこれを信じないならば、その国は手に入るまい。ただし、今、皇后が懐妊している御子が手に入れるであろう。」
この夜、天皇は急に病気になって崩御しました。 
 
このように別伝では、最初にウツヒコ・クニヒコ・松屋種に神が懸かっています。

松屋種に懸かった神は皇后に琴を弾かせるように勧めます。
当時は神懸かりの琴を弾くのは男性だったので、
これは大変特殊な話だったのだと思うようになりました。

その琴の弾き方は豊浦宮(忌宮)に残っていて、それを参考にすると
感興のおもむくまま、つまびく方法だったと考えられます。
それを弾くのは男子(神官)です。

囲碁も感興のおもむくまま白黒の石を置いて行くことで、
神の次元を碁盤に写し取って、それを分析して占うのが初原だと聞いています。

倭国の神懸かりは男女ともに起こるもので、
髪振り乱してトランス状態になるのとは少し違っているのです。

さて福岡の神社を逍遥する内に、男子の神懸かりあるいは神託を受けたという例に出会いました。
古遠賀湾流域の神社の過去記事から三社ほど紹介します。



八剣神社の田部人麿

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祭神 日本武尊(ヤマトタケル) スサノオの命 ミヤズ姫の命由緒 当社は人皇二十七代、安閑天皇の御代に田部人麿という者の神託によって、この山の上に斎き祀っています。
昔は近郷に比べるものがないほどの御社で、ご神徳はあまねく知られていました。

日本武尊のためにわざわざ宮を造って歓待したという伝承を持つ宮です。
それを祀ったのは田部人麿への神託が由来でした。

安閑天皇の御代だったという事なので在位を調べると531~535年でした。
磐井の乱(527)継体天皇崩御(531)という大事件の後の話になります。



天照神社の長屋山筒男

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祭神は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊。
(あまてる・くにてるひこ・あめのほあかり・くしたま・にぎはやひのみこと)

貝原益軒の書いた由緒書きの訳です。
この御神霊は垂仁天皇16年に初めて笠城山のふもとに降り、長屋山筒男という人に託宣しました。その人は大神の勅命を受けて、その笠城山のふもとの川でしばしば人に災いした大きなナマズを切って災難を除いたという事です。
八剣大神という神がこの辺り8か所に鎮座するのもこの時、大神が授けた剣を収めた所だからです。

垂仁天皇の在位を調べると紀元前29年~紀元後70年でした。(wikiなど)
この宮での神託は祭神のニビハヤヒが降臨した事で有名な笠置山の麓の災難を
防ぐ方法を授けられた話です。
その神託を受けたのが長屋山筒男でした。
彼もまた後には長屋大明神として祀られるようになりました。


正八幡神社・位登八幡神社の田麻呂

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田原麻呂という人がいて、仲哀天皇の進軍を聞いてただちに参軍し、
帰途には神功皇后を半年ほど屋敷に滞在させました。
その600年後にその子孫の田麻呂に神託が降りました。
その部分を過去記事から抜き出してみます。

川崎町誌から
祭神 応神天皇・仲哀天皇・神功皇后
由緒 社伝。神功皇后が三韓の遠征から都に帰る途中、穂波郡大分(だいぶ)で軍隊を解散して将士を郷里に帰らせたとき、その中に田原麿という人がいた。この人は正八幡近くの城山に居を構え、この一帯を領していた。

そののち貞観18(876)年のこと、田原麿の子孫、田麿という人が、神託によって宇佐宮から神霊を勧請した。その神託は次のようなものである。

「田川郡位登郷の楠の森は、我が母・香椎明神(神功皇后)が三韓に出兵したときに従った田原麿が住んでいるところである。我はこれにちなんで、穂波の本宮(筑穂町大分八幡宮)に行き通うたびに休息し、また宿るところであった。なんじ田麿、我のために宮を造ってまつれば、我はそこに鎮まって領民の安穏を願うものである。」

この社伝には「田原麿と田麿」という、時代が違う二人が出て来ます。
時間順に並べ直してみると、
田原麿は近くの城山(もしくは位登郷の楠の森)に住んでこの地を治めていたが、神功皇后の三韓遠征の時に遠征軍に従って行って、(2年後には)戻ってきた。

それから600年以上経ってから、子孫の田麿に神託があった。それは応神天皇の神霊からのもので、「神霊は宇佐八幡宮から本宮の大分八幡宮に行き通うたびに、母と田原麿の縁にちなんで、旅の途中に位登郷の楠の森で休息していたが、自分のために神殿を建ててくれたら、領民を守護しよう」という内容だった。
そこで宮を建てて、のち1383年に現在地に遷宮した。

宇佐八幡宮に近づくと各神社はだんだん八幡宮に置き換えられて行くのが観察できます。
豊前に近づくほど顕著になります。

この正八幡神社の神託はそのような事情をよく表すものです。
八幡の勢力が広がっていく過程では、「神託」と言う名のもとで
無理に八幡に置き換えられた神社もあるのではないかと思っています。
(若八幡神社など)

こうして遠賀川流域では男子の神託の例がいくつか見られました。
考えてみると倭国の祭祀の中心は天皇そのものです。
それを物部氏が支えていました。
神託があるのは卑弥呼や神功皇后のようなシャーマンだけだとは限らないのです。

NHKの「邪馬台国を掘る」が偏った見方で作られたのがよく分かります。






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by lunabura | 2012-04-20 10:27 | にっき | Comments(2)

百社・そして藤原紀香


百社完成!

ようやく神功皇后の伝承を伝える神社を百社、記事にしました。
いえ、既に少し超えてるんですがね。
まだまだ伝承の宮は他にも存在しますが、
ガイドブックに掲載する神社は100社に絞りました。

この百社を日本書紀に合わせて並べてみると、かなりの符合が見られます。
日本書紀はダイジェスト版という印象でした。
そして神社伝承にあって日本書紀にない部分、あるいは変更している所こそ、
編者の意図が読み取れる所です。

主に省略されていたのは戦いではない部分です。
特に北九州市へは下関市の豊浦宮時代から皇后は訪れていたけど記述がなく、
大分宮から北九州市へ戻って行った一年余りの旅路も省略されていました。

この北九州市や豊の国あたりが日本書紀に書かれていない件について、
書紀の編者に土地勘が無くて書かなかったのかなと始めは思っていたのですが、
今では天皇・皇后に随行した記録官が大分宮(解散地)で記録を止めたか、
あるいは書紀の編者が隋軍記の部分にしか興味がなくて他を省略したかと考えています。

私は神社の起源について、これまでは自然神を祀ったのだろうと思っていたのですが、
実際に歩いて見ると、福岡県では神功皇后の業績がよほど強烈だったのでしょう、
彼女が祀った所、休憩した所など、その足跡が多くの神社の由来となっていました。

どうやら、八幡信仰が広がる時期に皇后の足跡を伝える場所をきちんと祀るように
命ぜられた形跡があり(山口八幡宮)、それがこうして彼女のささやかな行動も
遺されるきっかけになったようです。

神功皇后伝承の魅力としては、日本書紀に出て来る熊鰐や大倉主、伊賀彦、五十迹手、
たちの伝承が地元に生き生きとして残っていた事です。もちろん竹内宿禰もですね。
末裔たちが神社を守り続けている所もあります。
運がよければ、そんな末裔の方々に会えて、1800年前の話を聞く事も出来ます。

神功皇后は実在していました。
実在していないという人は、実際にフィールドワークをすれば分かります。
不在論を立てた人は、机の前から飛び出して福岡の神社を歩いてみましょう!
きっとその伝承の厚みが真実への道に導いてくれるでしょう。
弥生時代の地形も各地に残っていて、そのまま歩ける所もたくさんあります。
きっと素敵な歴史巡礼になる事でしょう。

ガイドブックでは神功皇后が歩いた足跡を辿って歩けるように並べました。
特に羽白熊鷲や田油津姫を攻撃していくルートは圧巻です。
また玄海灘沿いにずらりと並ぶ神社は他国の敵から守る砦のようでもあり、
現在の国防などと重ね合わせてみる事ができます。

私は足跡を辿りながら、
誉田天皇と応神天皇は別人ではないかという思いがしだいに膨れて来ました。
(日本書紀では誉田天皇=応神天皇)
応神天皇を神功皇后の子供に捏造するために120年近い差を合体させて、
みんなが大変な長寿になっているのではないか。
そんな思いがずっと心を占めました。

北九州市で驚いたのは豊山宮を造営している事です。
仲哀天皇「豊浦宮」に対して、
神功皇后の「豊山宮」というように名前が対応しています。

船の修理にはかなりの時間を要したので滞在期間も長かったのでしょうが、
このエリアで神功皇后は活発に活動していました。
見知らぬ土地で縦横に動けたという事は
それを支えた物部氏などの存在があった事を見逃せません。

私の関心はそのような天皇家を支えた氏族たちの存在にあります。
これが後の時代の卑弥呼や磐井、斉明天皇たちにどうつながっていくのか。
筑紫の古代の歴史を地層のように捉えたいなと思っています。

福岡の歴史は魅力的ですね。
神功皇后の伝承のお蔭で、福岡県の隅々まで行く事が出来ました。
海や山。かつての古道。
観光ガイドブックでは決して知る事の出来ない福岡の魅力を沢山知りました。

早く本が出来て、みなさんの手元に届いたらと思ってますが、まだまだ先のようです。
本が出る時には、ブログでも本と対応して調べられるように一覧表にして
各神社の記事とリンクを張ります。

神功皇后の伝承はさらに大分県、佐賀県、長崎県と広がっています。
これほど北部九州を縦横に駆け巡った人物はいないかも知れませんね。
少なくとも私はまだ彼女ほど移動していない。

香椎宮から始まったこのブログですが、志式神社で冗談で言った
「神功皇后ブログでも書けそう」と言ったのが、現実になってしまいました。


ちなみに、神功皇后ってどんな顔をしていたのでしょうね。

私のイメージは藤原紀香さんでしたよ。
竹内宿禰は福山雅治。
仲哀天皇はオダギリジョー。
田油津姫は蒼井優。

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ちょっと意外かな。





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by lunabura | 2012-04-17 19:10 | <神功皇后伝承を追って> | Comments(11)

住吉神社(遠賀)・神功皇后は住吉大神を祀って松を植えた


住吉神社
遠賀郡遠賀町若松
神功皇后は住吉大神を祀って松を植えた 

遠賀川。前回の中間市の唐ノ松神社をさらに下って行くと、
河口付近に西川が並行に走っていて、その水系に「住吉橋」があります。
そのすぐそばに住吉神社がありました。

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この住吉神社もまた神功皇后のゆかりの宮です。

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境内に敷き詰められた砂が、海の近くの宮だなと思わせてくれます。

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拝殿です。御祭神は底筒男命、中筒男命、表筒男命。

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神殿です。その裏に丘がありました。
その麓には登り口の痕跡が残っていますが、ざっと見渡しても、
登り道は草に覆われて見えず、登る気にはなりませんでした。
この丘に神功皇后は登って、水鳥たちを眺めたそうです。

福岡県神社誌を訳しながら読んでみましょう。
住吉神社 
祭神 底筒男命 中筒男命 表筒男命
由緒 不詳 (略)
社説に曰く、住吉大神はこの地の産土神と称え仰ぎ奉っている。
そもそも御鎮座の起源を尋ねたところ、神功皇后が御征韓の時、官船の先鋒となり、玉体に服従し守護された大神で、その霊験がいちじるしかった。

神功皇后は凱旋の功を遂げて筑紫の蚊田邑で誉田皇子を御産みになった。やがて鹵簿(ろぼ)を整え、東帰された時、崗の津に到着されて、この丘陵に登って、海上に浮かんだり飛び交ったりする水鳥を眺められた。後にそこを「鳥見山」と呼ぶようになった。

この時、神功皇后は群臣を召して、
「今度三韓をたやすく従えたのはひとえにこの神の恩寵である。ひとときでも忘れる事があろうか。」
と仰せになって、御手づから一株の松を植えてその根元に白幣を 納めて
「この松は神の御影と共に弥栄(いやさか)えに栄えよ」と言われた。
よって、ここを「若松」と唱えて住吉三神を祀られた。後に神功皇后を配祀したという。

旧記に、住吉の社は昔、神功皇后と同殿で「そのかみの釣を垂れ給ひし所なり」(意味不明)とも、また嶋門の駅の渡口なので、行き交う船の守護の為に昔からここに祀ったのだろうともいう。  (後略)
〔鹵簿(ろぼ)ー 儀仗警衛の隊伍を整えた行幸の列。明治以後は皇后以下皇族の行列にも用いた。〕

「崗の津」という懐かしい地名が出て来ました。
神功皇后が仲哀天皇と共にやって来たのが「崗の湊」でした。
熊鰐は「崗の縣主」ですから、ここもまた彼の領有地なのでしょうか。

神功皇后はこの丘の上から水鳥を眺め、住吉の大神の恩を決して忘れないと誓って
松を植えて白幣を納めました。白幣は神のシンボルなのかな。
住吉族はよほどの大功があったのでしょうね。
行き交う船の守護として祀り、住吉族の湊としても宣言されたのだと思いました。

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これは拝殿前から振り返って撮ったものです。
境内の向こうには川が何本もあり、遠くに山々が見えています。
かつては広い河口で干潟があったりする風景だったのでしょう。
神功皇后がじっと眺め続けたのを群臣たちが見守りました。

私は「神社誌」の「東帰」の言葉が気になります。
ここに帰ってきたという意味なのでしょうか。
それとも東の近畿の方に行くのでしょうか。
近畿には彼女はまだ行った事がなかったんじゃない?

「帰る」という言葉はどこを指すのか分からなくなりました。
みなさんはどう推理しますか?

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さて、これが一の鳥居で、川に面しています。船で参拝する宮だったのですね。
それについて「神社誌」には「嶋門の駅の渡口」だったと書いてあります。
「嶋門」と言えば嶋門物部がいます。大倉主が嶋門物部でした。(高倉神社祭神)

ここは古代から大事な駅の湊だったという事が分かります。
熊鰐と嶋門の境界地なのでしょうが、そこに住吉の神を祀ったという事は、
神功皇后に何か特別な考えがあっての事だったのでしょうか。
もう少し逍遥したら、もうちょっと具体的に見えるかも知れないな…。
まだ廻りきれない神社が沢山あります。

う~む。それにしても遠賀川は面白い。
このエリアの神社群には神武天皇や日本武尊や斉明天皇の名前もちらほら出て来るのです。
ほかに菅原道真とか景行天皇とか。
誰か研究してないのかなあ。

遠賀川流域の歴史館や市町村のHPなどを見ると、炭坑の時代の記憶が強烈だったらしく、
それに焦点が集まっていて、日本書紀などに出て来る神や人たちが往来した事についての
記述に出会えません。(まだ一部しか見ていないので、誤解でしたら是非教えてください。)

近畿の朝廷と諸外国との間で人や物が交流する時には、
必ずこの川の流域から上陸したり乗船したりしなければならないので、
歴史上の有名人の多くがここを通っているはずです。

古代史を見直す上で多くの手掛かりがある流域じゃないかな。
そんな思いがします。
遠賀川。もっともっと知りたいです。

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川から上がると見える境内と鳥見山がこんな風に見えます。
この山は広大な河口の灯台代わりだったのでしょうね。
この川を遡ると物部の里、鞍手郡に着きます。

地図 住吉神社








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by lunabura | 2012-04-14 17:06 | (サ行)神社 | Comments(9)

唐ノ松神社・神功皇后は住吉大神を祀った


唐ノ松神社
とうのまつ
北九州市中間市垣生
神功皇后は住吉大神を祀った 

遠賀川の左岸、宗像市側の快適な土手の道を走ると気になる杜があります。
神社伝承を調べて行くうちに、この神社にも神功皇后の伝承があるのが分かりました。

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かつては鬱蒼としていた印象があるのですが、行ってみると、
楠の枝が落とされてすっきりとなっていました。
楠は春に膨大な分量の落葉をするので、境内の掃除はさぞかし大変だったろうなと思います。

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一の鳥居には「猿田彦神社」と書いてあったので目指す神社ではないのかと
心配になったのですが、地図には「唐ノ松神社」と書いてあります。
そして境内に「唐ノ松神社改修記念」という石碑があったので、
ここに違いない事が分かりました。

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祠が三つ並んでいます。はてさて、どれが目指す祠だろう。

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祠を一つずつ覗いて行くと、一番左の祠に

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「八幡宮 一五社宮 分霊」と彫った御神体があったので、
これではないかと思いましたが、確認は取れていません。

「八幡宮」とは「埴生神社(垣生八幡宮)」の事と思われます。
「福岡県神社誌」の八幡神社(埴生神社)の所にこう書いてありました。
(現代語訳します)
埴生神社より5~600mほどの所に岩丘があって老松が生えている。これは神功皇后
が熊襲を平定されてから都に帰られるとき、住吉大神を奉祀して、渡海の安全の祈りを捧げて、鋒を奉納し、後世のしるしに皇后自ら植えられた松である。

渡海の安全を祈った由来から「渡海の松」と呼んでいたのだが、後世誤って「塔の松」と言うようになった。今でも神幸の祭壇がある。
「塔の松」が「唐ノ松」と変化したのでしょう。
地図で測ると二社の距離はまさに600mほどでした。
ここは神功皇后が住吉大神を祀った事になります。

見晴らしはいいけど、岩丘の名残は無いなあと思っていると、クミリンが言いました。
「この土手が出来る前は川はずっと広かったって、父が言ってたんですよ。」
そうなんだ。遠賀川はずっと広かったんだ。
そうすると、この境内の横なんか崖だから、川の中の岩の島だったんだろうな。

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これは古遠賀潟の地図です。埴生神社と唐ノ松神社は島にあります。

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唐ノ松神社から目の前の遠賀川を撮りました。
川の向こうは北九州市。船の帆柱を切り出したという帆柱山がよく見えています。
あの麓では熊鰐たちとの交流の物語がありました。

これまでを振り返ると、
神功皇后は大分宮からの帰り道に遠賀川流域に住吉大神を祀って行き始めます。
上流から川崎町、今いる中間市、そして下流の遠賀町。

神功皇后は住吉族たちに
この遠賀川流域の支配権を与えて行ったのではないかと思うようになりました。
そして共に瀬戸内海を渡っていったのでしょう。
大阪の住吉神社に伝わる両者の深い関わりはこんな所からも見受けられます。

こちらは両者の流れを書いた過去記事
住吉神社(3)住吉大神と神功皇后
http://lunabura.exblog.jp/17007596/


それでは次回はもう一つの住吉神社に行ってみましょう。


地図 唐ノ松神社





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by lunabura | 2012-04-10 22:29 | (タ行)神社 | Comments(0)

乳山八幡神社・神功皇后は皇子に乳を与えた


乳山八幡神社
ちやま
北九州市八幡東区大蔵
神功皇后は皇子に乳を与えた

乳山八幡神社へ行くのにナビは離れた所から山に登るように指示をしてきました。
急な山に住宅が密集していて、舗装はされていても離合するのに気を使います。
最後の登りのカーブを曲がり切ると、社殿の裏側から駐車場に入りました。

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ナビの案内がおかしいのではないかと思ったのですが、
一の鳥居まで石段を下りてみると、商店街の間に参道があり、
車はまったく止められません。やはりナビが正しかったのです。

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この急な石段を数えると合計145段!このブログの中でもダントツの石段の数でした!

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そして広い境内に出ました。

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拝殿です。
御祭神は応神天皇・仲哀天皇・息長帯比売命です。
これまでと同じ組み合わせですね。子と父と母です。

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神殿です。

ここは神功皇后が皇子に乳を与えたという伝承の宮です。
由緒書きを見てみましょう。(一部変更)
乳山八幡神社御由緒
祭神(主殿)誉田別命(応神天皇)
      帯中津日子命(仲哀天皇)     
      息長帯比売命(神功皇后)
(相殿)速須佐之命・奇名田姫命 事代主命・伊古那姫命
由緒 小倉(尾倉)庄(尾倉村・前田村・大蔵村・枝光村・戸畑村・若松村)の宗社たる豊山八幡宮に参詣するに程遠き大蔵村(大蔵・中河内・田代・中尾・猪倉)の産土神(うじがみ)を御創建せんと、寛文2年(1662)8月21日祟祭す。
前回、豊山八幡神社を紹介したのですが、
この乳山八幡神社は、その豊山宮を江戸時代に勧請した宮でした。
参拝するのが遠かったのですね。続きを読みましょう。
この地は1700有余年の往昔、御祭神、神功皇后が更暮(さらくれ)山にて国見し給いし後、乳山(ちやま)の山麓にて皇子(後の応神天皇)に御乳を与え給いし聖地を産土神様御創建の佳き地と選びて創建し今日に至る。

想うに、この高所にて朝鮮半島出兵、九州および半島の平安無事を祈られ給うとともに、皇子の幸多からんを祈られつつ、御乳を与え給うを測り思えば、実に縁深かりし所に鎮座ましまされたと拝される。
この険しい山に勧請した訳は神功皇后がここで御乳を与えたという聖地だったからでした。
更暮山は現在は皿倉山と言ってケーブルカーで登る事が出来ますが、
地名の由来は神功皇后が国見をして下る時に夕暮れになって
「更に暮れたり」と言った事から付いたと伝えられています。
「更暮れ」「さらくれ」「さらくら」「皿倉」と変化した訳ですね。

皇子をこの地に待たせていたのでしょう。
すっかり暗くなって、皇子は元気にしていたのでしょうか。
眠くて、ぐずってたかもしれませんね。
乳母から皇子を受け取って乳を含ませる皇后の気持ちはどうだったのでしょうか。
すでに香坂王たちと戦う決意をして、皇子を竹内宿禰に預ける決意をしていたとすると、
その心境はいかばかりか。
そのまま眠ってしまって、ずっしりと重くなった皇子の寝顔を見ながら
この子のためなら何でもする。
そんな母としての皇后の哀しみが伝わってきます。

皿倉山まで登ったのはこれからの戦いの進路を目視したのでしょうか。
「国見」という言葉が気になりました。
それは「豊山の宮」がわざわざ造営されたという事を知ってから急に重みを増しました。
「国見」という言葉からは、一旦「八幡」で治世を試みようとしたのではないか。
そんなあらたな疑念が生まれた伝承でした。

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これは奉納されていた「御神徳絵図」。竹内宿禰の神徳を称えたものです。
皇子を抱いているおじいちゃんが竹内宿禰ですね。
竹内宿禰はこの皇子が成人してからも生きていたので、その頃にはお爺さんになったでしょうが、
この乳山では、まだ壮年だったと思うけどなあ。
この赤ちゃんが成人してから竹内宿禰の殺害命令を出すのも変だな~と
るなは思うのでありました。

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その絵図の横に竹がありました。
この竹を見た時、旗竿に使うのにピッタリだと思いました。
勝山勝田神社で刈り出された竹と同じ品種じゃない?

この乳山八幡神社の麓には大蔵川(板櫃川)が流れていて、
その対岸にかつて紹介した勝山勝田神社があります。
勝山勝田神社では神功皇后は戦勝を祈って竹竿を刈り取っています。

撃鼓神社では帰途に八本の白旗を奉納したように、神功皇后の祭祀アイテムとして
凱旋後には「八本の幡」が加わっていきます。
「八本の幡」が「八幡」です。
神功皇后と八幡の深い縁が三韓攻撃の時に築かれたのでしょうか。

「八幡」と言えば宇佐神宮なのですが、
織幡神社・旗頭神社など「旗」が付く神社の主祭神は竹内宿禰です。
竹内宿禰とはいったいどの氏族なのだろうか。
どうやって竹内宿禰は全体の軍事的統率者になったのだろうか。
ここまで来ても、まだイメージがつかめないでいます。

私は今こうして神功皇后を追い掛けているのですが、
一番関心があるのはそれを支えた倭人たちの出自や分布なのです。
各神社の伝承にその手掛かりが沢山残されているのですが、まだまだ道は半ばです。

話を戻しましょう。
大蔵川を隔てて東は豊前になるそうです。
この乳山八幡神社は筑前で、勝山勝田神社は豊前なのですね。大倉彦の所領でした。
この乳山も、皇子を預けていられる程ですから、警護が十分な屋敷があったはずです。
地名はどちらも大蔵。
熊鰐の一族と大倉彦(多分、物部)との住み分けの境界がこの川(入り海)あたりにあるようです。
掘り下げるともっと詳しく分かりそうな、歴史的に興味深い地域でした。

地図 乳山八幡神社 勝山勝田神社 皿倉山








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by lunabura | 2012-04-09 00:06 | (タ行)神社 | Comments(2)

豊山八幡神社・熊鰐は皇子の御衣を献上した


豊山八幡神社
とよやま
北九州市八幡東区春の町
熊鰐は皇子の御衣を献上した

豊山八幡神社はJR八幡駅から500mの所にあります。
国道三号線もすぐ近くを走っているのですが、周囲は静かな街並みです。

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一の鳥居です、石段で分かるように、この宮は丘の上にあります。

c0222861_212174.jpg

深く茂った杜の中を上っていくと思いがけず広い境内に出ました。

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拝殿です。御祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后です。
相殿に宇遅和紀郎子命(応神天皇の子)。
応神天皇のファミリーが祀られていました。

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重厚な趣の拝殿です。

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神殿は高くて屋根がようやく撮れました。
さて、ここも熊鰐と神功皇后のゆかりの宮でしたよ。
境内にあった由緒書きを写します。
御由緒 
御祭神 右殿 帯仲津日子命(仲哀天皇)
    中殿 誉田和気命(応神天皇)
    左殿 息長帯比売命(神功皇后)
    相殿 宇遅和紀郎子命
(略)
神功皇后、三韓を従え給いし御弓矢を山中に納め、天下が豊かなる事をお祈りされ、この山を豊山(ゆたかやま)と名付ける。
由緒によると神功皇后がこの山に弓矢を奉納して
天下が豊かになるように祈ったということですが、
ここに来た縁は、熊鰐が皇子の為に御衣を献上したためだと言われています。
熊鰐は神功皇后が洞海湾を船で通る時に道案内した人です。
二人は既に面識があるのですね。
初対面の時、神功皇后には背の君の仲哀天皇が健在でした。
しかしわずか一年後に仲哀天皇の亡骸が竹内宿禰に送られて豊浦宮に戻ってきました。
関門海峡は熊鰐たちでないと渡す事ができないはずなので、
彼も亡骸の搬送に関わった可能性があります。

それから2年ほど経って神功皇后が再び戻って来ました。

皇后は未亡人となってしまいました。しかし男の赤ちゃんが生まれていました!
熊鰐は皇后が一番喜んでくれる物は何だろうかってずっと考えたんでしょうね。
皇子の為の可愛い御衣は母になった皇后には何よりの贈り物でした。
何よりも熊鰐の心が一番うれしかったでしょうね。
熊鰐へのお礼に祝福の祈りを捧げたのが、この山の中でした。

さて、その間、多くの軍船の修理をしたのですが、
その現場の仲宿八幡宮の由緒にこの豊山宮の事が次のように出ていました。
その時、神告があって「三韓を従えたが、行き先に謀反の者がいる。厚く慎み給え。」と告げられました。そこで当宮(仲宿八幡宮)の地に中宿りされて豊山の宮を造らせ、皇后みずから中宿(なかやどり)で忌み慎んで斎籠されて、豊山の宮ともどもに皇祖の神の教えのままに天神地祇を祀られた。
ここに出て来た「豊山の宮」がこの「豊山八幡神社」と思われます。
御神託で山頂に遷宮した事が由緒に書かれています。

この豊山の麓には鬼ヶ原遺跡があって、熊鰐の住まいがあったという伝承があるそうです。
また、小川があって神事の斎庭とし、御手洗の池があったという事なので、
この山の麓に皇后たちのための宮が造営されて、
皇后が去ったあと、熊鰐一族の住まいになったのかもしれないなと思いました。
詳しく調べると、もう少し当時の状況が見えてきそうですが、
現地の方が調べるのが一番なんですよね。

豊山宮の宮司さんは熊鰐の末裔だとネットに書いてあったのですが、
このブログでも豊山宮と仲宿八幡宮の宮司さんたちは御兄弟だとコメントを頂きました。
熊鰐の末裔は営々との八幡の宮を守り続けたという事になります。

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豊山八幡神社は丘の頂上なので見晴らしがよく、帆柱山などが見えます。

さて、由緒書きの続きには「八幡(やはた)」という地名の起こりが書いてありました。
光孝天皇の御代、大宮司岡県主・年麻呂に御神託が有り、現在地に御神体を遷し、太宰府官人奉行のもと荘厳なる神殿を建立する。
宇佐神宮寺弥勒寺より京都石清水八幡宮管轄の荘園となり小倉庄六ヵ村(尾倉、前田、大蔵、枝光、鳥幡、中原)の総鎮守として隆盛を極めたが、文禄2年枝光村、慶安元年前田村、寛文7年大蔵村へ当社御分霊を遷し、それぞれの氏神とする。

明治22年、市町村制実施により尾倉、大蔵、枝光、三村合併の折、三村の氏神様が「八幡神社」の為、八幡村と称しましたが、当社が「やはた」地名の発祥地と言われる所以である。

大正12年、八幡東西区では最初に「村社」から「県社」に昇格され、昭和5年、八幡製鉄所と共に八幡の繁栄した時代に氏子崇敬者の浄財により総檜造りの現社殿が竣工に至る。
「八幡(やはた)」という地名の起こりは、三村が合併する時名前を考えて、
三村とも氏神が「八幡(はちまん)」だったから
「やはた」になったというユニークな理由がありました。
その「はちまん」とは神功皇后と皇子や熊鰐の物語が始まりでした。

この近くにはきっと古代製鉄所があるだろうと思っているのですが、
そこに「八幡製鉄所」が出来るのも土地の持つエネルギーのためでしょうか。
不思議な御縁ですね。

「小倉」の地名についても、ここはもともと小倉でしたが、
近くに「小倉」が出来たので「尾倉」に変えたそうです。
地名というものは歴史を伝えてくれるので、本当に興味深いものだと思います。

地図 豊山八幡神社





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by lunabura | 2012-04-05 21:41 | (タ行)神社 | Comments(7)

中宿八幡宮・熊鰐の館跡だったー神功皇后の船を修理・熊鰐の末裔


中宿八幡宮
なかやど
北九州市八幡東区祇園
熊鰐の館跡だったー神功皇后の船を修理
熊鰐の末裔の方に会えたよ


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中宿八幡宮は桃園球場の近くにあります。
区画整理された地域にあって、周辺の道は一方通行です。一の鳥居です。

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拝殿は華やかな朱色。

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朱と紫と緑のコントラストが美しいです。

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御祭神は仲哀天皇 応神天皇 神功皇后。父と母と子が祀られていました。

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神殿です。
まずは由緒書きを読んでみましょう。(現代語にします)
中宿八幡宮 御由緒
御祭神 本座 足中津日子命(仲哀天皇) 品陀和気命(応神天皇)息長足比売命(神功皇后)
相座 建速須佐之男命 奇名田比売命
相座 大綿積神 菅若神 ほか (略)

御鎮座由来
今を去る事1800年余の昔、第14代仲哀天皇の御后、神功皇后は筑紫の香椎の宮で崩御された天皇の代わりに、皇子(後の応神天皇)を身ごもりながら群臣の動揺を考えて天皇の崩御を隠し、男装をして三軍を率いて九州騒乱の源、新羅征伐に出征された。
この間北九州を中心に動かれて苦節の末、三韓を従えられました。

その時、神告があって「三韓を従えたが、行き先に謀反の者がいる。厚く慎み給え。」と告げられました。そこで当宮の地に中宿りされて豊山の宮を造らせ、皇后みずから中宿(なかやどり)で忌み慎んで斎籠されて豊山の宮ともどもに皇祖の神の教えのままに天神地祇を祀られた。

事無く皇后は大和に御帰還ののち、この中宿の地の祭祀を行われた祭場に、村人らが祠を建立し、産土神(うじがみ)として奉斎し、何度も社を増改築、特に大内氏、麻生氏、近世では黒田氏の崇敬厚く今日に至り、現社殿は昭和36年に御改築した。
仲哀天皇の崩御を隠して、亡骸を豊浦宮の殯葬地に隠しても、
香坂王(かごさかおう)たちに知られるのは時間の問題でした。
香坂王の立場からは神功皇后はどのように見えたでしょうか。

新羅攻撃に戦わずして勝利し、百済や高句麗まで従えた勝利の女神として
神功皇后の人気は絶大なものになり、その皇子の方を天皇にという声は日々高まり、
それは香坂王の所まで届いた事でしょう。
皇太子であったはずの香坂王は身を守るためには戦うしかありませんでした。

それを伝えたのが神託。
そして神託どおりに香坂王と忍熊王は謀叛を起こしたのでした。
(正しくは皇后方の方が謀反のはずだけど…。)
こうして決戦をすべく、皇后軍は再び船路での戦いに挑む事になりました。
神功皇后はこの中宿宮に忌宮を造って天神地祇に祈りました。

あらたな戦いに備えて問題になったのは御座船の帆柱が折れていた事でした。
その事情をリーフレットから一部抜粋。
九州入りした神功皇后は御神託ありて航海の後の御船の帆柱を取替え、この地に忌宮を造営し天神地祇を祀られ御滞在された。この時、御先導お世話申し上げたのが、この地の県主熊鰐なり(後、花尾城主麻生氏より波多野姓を賜る)

『南に帆柱山を仰ぎ北に洞の海を望む海陸便の良い処、此の地に今し中宿りせむ』としてお休みされた場所が現在の中宿八幡宮である。
その神功皇后の船の修理を請け負ったのが熊鰐でした。
その修理の場所がここだそうです。
そして熊鰐の末裔が神職としてこの宮を守り続けていたのです。

私が訪れた日、祭事を終えられた宮司さんに詳しい話を聞く事が出来ました。
記憶を辿って大まかな内容を紹介します。

「こちらの由緒について伺いたいのですが。」
「ここは熊鰐の館で陣屋ですよ。ここで神功皇后は精進潔斎されて籠られたのです。」

「ここが熊鰐の館なんですか?神功皇后がここで祈ったんですか?」
「はい。私は崗の県主熊鰐の27代目です。麻生氏により波多野姓になりました。
ここは軍船の修理が行われた所で、神功皇后の船の帆柱が折れたので、
あの帆柱山から木材を採って来て、ここで修理をしました。

また大倉・勝山の竹竿を切り出したのです。昔は3号線は海で、若松区は島でした。神功皇后は皇后崎で上陸されたのです。ここで船団も造ったのです。」
そう言われて改めて宮司さんの御顔を見ると、
穏やかな笑顔は私の熊鰐さんのイメージそのものでした。
(熊鰐さんに会えた!)
思いがけず、探していた熊鰐の館に辿り着いていました。

実は「熊鰐の館あと」は他に、遠賀川河口の岡湊神社の対岸にもあるのです。
(そこも山鹿小学校にお世話になって見つける事が出来ました。別館だと思っています。)

熊鰐の二つの館。
加えて伝承の数々をプロットしていくと、熊一族は洞海湾の湾岸エリアを領有していて、
その中心地がこの中宿八幡宮だという事が見えて来ます。

熊鰐の一族は皇祖の祭祀と造船と兵士たちを担う海人族です。
熊の一族―これは熊野族というものではないか。
その考えは八幡の熊野神社で芽生えていたのですが、もっと検証が欲しい所です。

場所的には前回の竹内宿禰の陣営の旗頭神社とは近距離です。
旗頭の陣営で彼らが守ったのは鉄の生産地だろうと考えたのですが、
物部氏を筆頭に生産される鉄器の中の大工道具を駆使して
この熊鰐の館では造船が行われたと考えています。

鉄を供給するのは物部氏の中でも、大倉主を祀る高倉神社の嶋戸物部氏とか
企救(きく)郡の企救物部氏あたりではないかとおもいます。

この宮のあちこちからノミや槌の音や働く声が聞こえてきそうです。

この宮の南にある皿倉山や帆柱山には神功皇后の登山の伝承もあり、
帆柱山という山名も神功皇后の船の帆柱の供給地という事から付いた名前でした。
それは拝殿の後ろに聳えています。

さて、境内にはさらに神宮皇后のゆかりの、こんな祠が。

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胎石神社(たいせき)(はらみいし)
神功皇后がこの地に着いたとき、奇石を見て、「私が皇子をはらんだ時の腹に似ている」と言って崇(あが)められた。その後、萬治1年社殿を建立。以後村里の女房、産前に詣で安産を祈る。また奇病まで治されるとあれば今なお難病平癒を祈る人多し。御神体に触れればなお良いという。 (現代語に)


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ということで、ちゃんと手を入れられるようになっていました。とりあえず、ナデナデ。

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ほかにも摂社がいろいろとありましたが、それは皆さまの参拝のお楽しみに。

さてさて、この熊鰐は皇子の為に素敵なプレゼントを用意していました。
感激した神功皇后は豊山八幡神社で…。
私たちも次回はそこに行ってみましょう。



地図 中宿八幡宮



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by lunabura | 2012-04-01 20:40 | (ナ行)神社 | Comments(2)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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