2013年 05月 30日
綾羅木郷遺跡(1)若宮古墳は鬼が城山を見ている?
綾羅木郷遺跡(1)
若宮古墳は鬼が城山を見ている?

この古墳の前に立った時の強烈な印象を忘れないうちに書き留めておきましょう。
下関市立考古博物館で見学したあと立ち寄りました。
もしかしたら、うっかりと見過ごして帰ったかもしれなかった。(冷汗)
いかにも清浄な地に営まれた前方後円墳。
環境の素晴らしさに興奮しながら正面に立つと、思いがけない景色が展開しました。

古墳の向こう側に山がある!
この古墳はあの山から気脈を取っている。
古墳を建造する時、中心線は山や祖先の古墳など、何かを基準にして決めていると思われますが、
これほど分かりやすいものを初めて見ました。
この古墳は「若宮古墳」といいます。

この説明板を見ると、中心線は真北を向いていず、
やや東にブレています。
このブレは北でなく山の頂上を
意識したからではないだろうか…。
次は説明板の記事です。
若宮古墳 年代5世紀中頃古墳の周りの白い囲いがそのまま周濠だったようです。
古墳の長さ39.7m
前方部の高さ2.3m、先端の幅15.1m
後円部の高さ 4.0m直径21.0m
周濠の幅4.3m
この古墳は、綾羅木郷遺跡北西隅近くに位置を占める南西向きの前方後円墳です。
墳丘は、後円部が3段、前方部が2段に築かれています。
墳丘は表面は葺石で覆われ、墳頂や段には円筒埴輪や壺形埴輪が並べられていました。
後円部中央には白色の粘土で密封された組合式箱式石棺が納められ、南には墓道の痕跡がありました。
この石棺の大きさは長さ2.85m、幅1.11m内外。中には2体以上の人骨が埋葬され、勾玉・管玉などの装身具、鉄製の刀や剣なとの武器、斧などの工具が副葬されていました。
墳丘の裾には、幅4.3mの濠がめぐらされていました。
この古墳は昭和33年から5回にわたる発掘調査の結果に基づき、昭和60年度に大きく復原し、斜面に芝を植え、周濠には砂利を敷いて整備しました。埴輪列の復元については、資料が少ないため今の調査をまつことにしました。
文化庁・山口県・下関市 昭和62年3月
水をたたえていたとしたら、さぞかし美しい古墳だったことでしょう。
やや小振りのサイズなので前方後円墳の形状を把握しやすくて魅力的です。

これが「下関市立考古博物館」の中にあった復元レプリカ。
美しいな。
石棺の大きさは「長さ2.85m、幅1.11m」で、2体以上が埋葬されていたので、
ぎゅうぎゅう詰めだったみたいです。
(ぎゅうぎゅう詰めで思い出すのは久留米市の祇園山古墳。
男女の遺体が埋葬されていたはずなのに、報告書から消えているという謎の古墳。
しかも石棺は墳丘の上にあった。
くじらさんが、普通は石棺は墳丘の下にあるのではと言われた。
頂上部にある石棺は二次使用ではないか。
そんな事をこの数日思い出していたが、
この若宮古墳を見ていると、やはり祇園山古墳は変だと分かる)
おっと、話が逸れて来た。
もとい。
この若宮古墳がある古墳公園の中には他にも古墳や弥生住居などがあって、
見学していると、移動して復元したものもあったので、
もしかしたら、若宮古墳も移動したのかも知れない。
(そうすると、私の仮説はもろくも崩れ去る。)
そんな疑問が湧いたので、博物館に戻って確認しました。
学芸員が不在で分からないとのことでしたが、何としても確認したかったので
無理を言って、分かったら教えてくださいとお願いして博物館を後にしました。
ラーメン屋さんに寄った時、電話がなりました。
「若宮古墳は発掘当時から全く移動していません。そこにあったものです。」
(わざわざ連絡していただいてありがとうございます。)
この古墳は全く移動していませんでした。

地図を見てみると、鬼が城山と竜王山のピークが見えているようだけど。
これは地元の人にしか分からない。
(Massyさん、まだ訪問してくれてるかな)
私の頭の中はまたぐるぐると廻りはじめました。
この古墳が5世紀半ばだって?
百済の前方後円墳は5世紀後半から6世紀前半だったよ。
周防灘沿岸の人たちも関連していると書いていたはず。
それに、豊浦宮の近くじゃないの。
(つづく)
地図 下関市立考古博物館
山口県下関市大字綾羅木字岡454
083-254-3061
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