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ひもろぎ逍遥

<   2014年 06月 ( 19 )   > この月の画像一覧

相島は阿部島だった・積石塚群と豊玉姫の井戸と


相島は阿部島だった

積石塚群と豊玉姫の井戸と

今年は島巡りがテーマかな…。
そう思っていたら、太宰府地名研究会から相島ツアーの案内が。
ということで、流れに乗って行って来ました (^o^)/

相島と宮地嶽神社は安曇族
相島は「あいのしま」と読みます。

三度目の訪問です。
相島といえば「積石塚群」(つみいしづか)
島の浜に累々と気づきあげられた石の古墳群。
調査されただけでも254基。


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そこから見えるのは津屋崎の山々でした。
水蒸気とpm2.5でぼやけていた稜線も午後にはくっきりと。
三角錐の山が宮地岳です。その中腹に宮地嶽神社はあります。

ここからはその金色の屋根が見える日もあるそうです。
宮地嶽神社の参道からまっすぐ海の中を突き進むと、ここに着くんです!

相島と宮地嶽神社は相思相愛。

相島は「あへ」の島とも書かれていますが、「阿部島」とも書かれていたのが分かりました。

阿部なら、そう、安曇族の古墳群になります。
志賀島では古墳群を見かけないので、新宮あたりにあるのだろうかと思っていましたが、
新宮は新宮でも相島にそれがあったのです。

志賀島の人はお墓を相島に作るという話が聞けました。


積石の竜
そうそう、ここで積石の竜を発見。

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防波堤かと思われた積石の列が上から見るとくねくねと曲がっていて、
曲がった所から足が出ているのです。
最後のしっぽあたりは二股に分かれています。

これを竜だと思った訳は、
熊本の菊池の久米八幡宮の境内にある「石づち」を見たばかりで、
同じモチーフで作られたものと確信したからです。

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そろそろ久米八幡宮の竜をUPしようと思った矢先でした。
どちらを先にUPするかまた悩みそう。

同じようなものが対馬でも発見されているそうです。
海人族の聖地として、新たな視点が出来ました!



若宮神社
もう一つ行きたかったのは若宮神社。
豊玉姫と山幸彦の出会いの伝承のあるところ。

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そう、このシーンですね。


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それがここ。ゆつかつらと井戸です。
「香椎宮から釣り針を探しに来た人がこの木に登っていた」
という伝承を聞くことができました。
井戸の上に江戸時代に本殿が建てられて、のちに石碑が立てられました。

詳細は文献を調べながらぼちぼちと。^^

神籠石と天一目神社の構想も練っているところだったので、
どっちを先に取り掛かるか悩みどころです。

一度に沢山の情報が繋がりだして、とまどうな…。
三女神の情報もあふれ出しているのに…。



地図 福岡県新宮町 相島







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by lunabura | 2014-06-29 21:07 | 相島 | Comments(12)

リモートビューイングするかな…



今日はドリームレッスンの初日でした。
初めて夢に取り組む方、再び取り組む方、また長年取り組んでいる方などなど、
いろんなスタンスでの御参加でした。

穏やかでエネルギーにあふれるひと時は夢を語り合う時の独特のもので、
慈愛に満ちた世界でした。

今朝、私は参加する皆さんに何が出来るのか、と思っていると、
「リモートビューイング」(遠隔透視)という閃きが来ました。

夢をスピリチュアルな観点で解釈するには「シンボル」をある程度学ばないといけないのですが、
それを積み重ねているとある観点が生まれてきます。

それは自分を多次元でとらえる視点です。
心にべったりとくっついている感情の反応パターンに左右されなくなってきます。

この視点が、リモートビューイングを成功させるのに必要なんですね。

そうか、変性意識の中でアクセスするものとして、リモートビューイングか…。

そして、皆さんとリモートビューイングすると思うとワクワクする自分がいました。

ドリームレッスンは基礎を終えたら、フリー参加で継続できる形を考えています。
今朝のひらめきは、その先にあるものがリモートビューイングだという教えだったのです。



江原啓之さんに誰かが質問していました。
「(マクモニーグルのように)事件捜査など江原さんもしないのですか?」
「誰かが私に教育してくれたらできるんですが」
という内容の答えでした。

あの霊視の達人でさえ、トレーニングが必要だと言われます。
それはバットの振り方を教われば野球ができるわけではない。
ピアノの鍵盤を教わればピアノが弾けるわけではないというのと同じです。

リモートビューイングも夢の解釈も継続することが大切です。
普通の人が普通に暮らしながらそのトレーニングが継続できるにはどうしたらいいかな。

そんな事を考えながら帰りました。

そう、『ガイアの森』の「古代の森研究所」。
これを日常の中で実現する。
これが今年のチャレンジなのかな。




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by lunabura | 2014-06-27 21:28 | ◆ドリームレッスン | Comments(8)

落城の夢か



一月以上も前になりますが、Mさん(男性)からメールをいただきました。
「夢見力」をご覧になって、夢をお尋ねになりました。

遅くなりましたが、その一つを紹介します。(一部変更しています)

前後の記憶は無し。

青畳のきれいな和室に私は正座している。両腕を二人の女性が掴んでいる。巫女姿の女性が入ってきて、私の後ろに私を抱きかかえるように座る。

そして短刀で私の首をスーッと切る。たくさんの血がゆっくり流れ出す。恐怖も痛みもなく幸せな気分。

「死んでいくとはこういうことか」という意識がある…
という全シーン無言の短い夢です。

上記の夢に追加がありました。

夢の説明に書き忘れがあったのですが、大事な要素の一つかもしれないと思いましたので、追加させていただきます。

この夢の青畳のきれいな和室は、きれいですが「狭くて薄暗い」部屋です。

この場面では、腕を掴んでいる女性の横にはぼんぼりがあったというのが現在の記憶としてあったのですが、メールのため当時のメモを見てみましたら、そのようなことは書いておらず、いつの間にか記憶に加わったものでした。

やはりメモすることが大切ですね。


この夢は十年以上前の夢だそうです。読んでいるだけでも、どきどきしてしまいます。
まるで自分もそこにいるような臨場感。
これは過去世の夢ではないか、と思いました。

次は私の返事です。

これは過去世の夢でしょうか。とてもリアルですね。
青畳ということなら、時代的には江戸時代以降なのでしょうが、
室内のことなので、城が落ちる時などでしょうか。


Mさんからの御返事です。

ご回答ありがとうございます。お忙しいところに煩わしい話を持ち込みご迷惑をおかけしました。

今回の夢は思い出しては、フッとため息をつくようなことが長く続いていましたが、誰かに話を聞いてもらうと、なにかホッとするものだなと思いました。

過去世のことではとのご推測ですが、私自身は漠然と死そして生まれ変わるということかとも思っておりましたが、なにせ夢では死にっぱなしなので、復活は希望的観測で、確かに落城して亡くなったというのが正解かもしれません。

返事がそっけなくて申し訳ありませんでした。
当時、忙しかったのと、内容が余りに深刻なので挨拶の返事がやっとでした。

リアル過ぎて、コメントがはばかられる思いがしたのです。

過去世の夢とは思い出すと細部まで描き出せるのが特徴です。


この時代を考えるのに、「青畳」に注目しました。
畳が敷かれた部屋というのは身分が高い人しか使えません。そこで江戸時代と考えました。

そして、処刑なら庭などが考えられますが、これは室内なので
貴婦人が屋敷内で亡くなろうとしている状況かと思われました。

両脇の女性と後ろの巫女からは愛情さえ感じられます。
姫として尊厳ある死を、そんな矜持も伝わってきます。

姫が死なねばならないなら、落城の時ではないか。
そう思った次第です。

過去世の夢を見るときには、現在抱えている問題がその時点から生じているのだと教えているときです。

人生の中で、人間関係を客観的に見直し、感情を見つめる、そんな時を持つことを
夢は教えているのでしょう。

若い姫が残した思い。
そういうものに思いを馳せることで、癒されていくのかもしれません。

思いのままに旅をしたら、きっと、その城に導かれることでしょう。

「誰かに話を聞いてもらうと、なにかホッとするものだなと思いました」というのも夢を語る効用ですね。

***

明日はドリームレッスンの初日です。

参加される方、夢をシェアしますので、印象深い夢や最近の夢など一つ思い出しておいてくださいね。

お待ちしています^^




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福岡城




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by lunabura | 2014-06-26 22:25 | ◆ドリームレッスン | Comments(2)

ニコルさんの夢と



先日、暖かいメールをいただきました。
その一部を御紹介です。

Dさんより。

***

 夢ですが、C.W.ニコルの「風を見た少年」(1987年に発行した298ページの方)は
ニコルさんの夢です。この本を読んだ時の充実感と「ガイアの森」の充実感は同じものでした。

別の本で「C.W.ニコルの野生記」に、この夢の中に入り込む方法が書いてあります。

 まず目を閉じ、心のなかの、あのきらきら輝く紫色の部分を探し出す。そこが見つかれば、あとはそれがオーロラのように揺らめきながら、大きく、大きくなっていくのを待てばよい。

 やがてその瞑想のなかに深く入り込むにつれ、私もまた、渦に巻き込まれる漂流物のように、その紫のなかにひきずり込まれていく。そして私は飛びつづけ、広い宇宙のなかに入り込む。

 星に違いない、きらきらした光に満ちたその広大な宇宙をどんどん飛びつづけていった末、やがて地球にひどくよく似た、ひとつの完全な惑星にたどりつく。網目のような白い雲で覆われた、青い水の惑星だ。

と書いている。その惑星は地球ではなく、紫に輝く、あの雲の向こうに側にある。

***


憧れの暮らしを実践するニコルさんの本と比較していただいて恐れ入ります。<(_ _)>
ありがとうございました。


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同じタイミングで青いマンダラのパターン出来ました。「テスト・チューブ」という名前です。(意味不明)
これでバッグを作ります。^^






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by lunabura | 2014-06-25 22:03 | ◆ガイアの森◆ | Comments(3)

熱田神社(3)百済の王子を助けたクラジの君は葛子の子だった



熱田神社(3)


百済の王子を助けたクラジの君は葛子の子だった



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さて、当社を訪れたきっかけは
「神社からいただいた資料に磐井の名があった」という一言からでした。
聞いたその日に伺う事になりました。

参拝のあと、宮司さん宅で系図を見せていただきました。
金川宮司家は現在79代目。77代の方が書きしるしたものが残っていました。

その一部です。

磐井ナル-葛子-鞍闇君-初メ 新分鄕 新延 鞍闇君の戦功に依りて賜ハル               
系図の空いた場所には「○鞍闇君は葛子の弟なり?」とメモ書きされていました。

系図の書き方を何度も見なおしましたが「鞍闇君は葛子の子」として大丈夫でしょう。
鞍闇君とは「くらじのきみ」と読み、他の書き方に鞍橋君、暗路君、倉師などがあります。


同じ鞍手には北磐津の名があります。
北磐津(きたのいわつ)は磐井の子です。ですから、葛子の兄弟にあたります。

その北磐津(きたのいわつ)が鞍闇君の可能性はないかと思って、
系図にその名を探しましたが、それはありませんでした。


系図には鞍闇君は「筑紫国造」と書かれているのですが、
磐井の末裔がどうしてそのような身分になって活躍したのかという問題も
葛子が筑紫君になったことを考えると、充分に有り得ることです。

あの磐井の乱ののち、継体天皇も物部麁鹿火(あらかい)も立て続けに死んでいるのですから。

筑紫を治める実権は磐井の末裔に取り戻されたと考えられます。

そして、鞍闇君は百済まで行ってその皇太子を助けているんです。
鞍闇君は『日本書紀』では鞍橋君と書かれています。

地元では「くらじさま」と呼ばれ、神社に祀られ、物産館の名前にもなっていました。

その鞍橋君の話を『日本書紀』で確認してみました。

百済の聖明王の皇太子・余昌(よしょう)は新羅を討とうとした。重臣たちは諌めて、「天はまだ味方する時になっていません。災いが起こるやも知れませぬ」と言った。

余昌は「老将たちは何をおびえている。私は大国(倭国)に仕えているのだ。どうして畏れることがあろうか」と言って、ついに新羅国に入ってクダムラ城塞を築いた。

父の聖明王は、「余昌は長くなった行陣に苦しんで寝食にも困っているだろう。父親として可愛がってやることもできず、あの子が親孝行をしようとしていて上手く行っていない」と憂い、自らも出陣してねぎらおうとした。

新羅は聖明王が自ら来たと聞いて、国中の軍隊を召集して道を塞いで撃ち破った。

この時、新羅は佐知村(さちすき)の馬飼奴の苦都(こつ)、(又の名は谷智(こくち))
に言った。「お前、苦都は卑しい奴婢だ。聖明王は名がある主(こきし)だ。身分の低い奴婢が名のある主を殺せば後世に名を残すだろう」

苦都は聖明王を捕えて拝んで言った。
「どうか王様の首を斬らせてください」
「王の首は奴婢の手にかかることはできない」と王は言った。

苦都は「我が国の法では盟約に反したものは国王といえども奴婢の手にかかるべし、といいます」と言った。

聖明王は天を仰いで嘆いて泣いた。そして、「私は常に死の覚悟をつけていた。命乞いはしない」と言って首を差し伸べて斬られた。

苦都は首を斬って殺した。穴を掘って埋めた。

一方、余昌は敵に囲まれて城塞から出られなかった。軍卒はあわてるがどうしようもなかった。

この時、弓の名手の筑紫国造(ちくしのくにのみやつこ)がいた。進んで弓を引いて新羅の騎馬の武将の中でも最も勇壮な者を狙って射落とした。放つ矢の勢いは鞍の前橋(まえつくらぼね)から後橋(しりつくらぼね)を射通し、その鎧の領会(くび)に及んだ。

また続けて放つ矢は雨のごとく、次々に激しく射られた。こうして包囲軍を退けた。
その結果、余昌や諸将は間道から逃げ帰ることができた。

余昌は国造が包囲軍を矢で退けたことを誉めて尊んで「鞍橋君」(くらじのきみ)と名付けた。

聖明王の言葉の訳、難しかったです。
で、訳してみると、ウィキペディアの余昌(威徳王)の解説が間違っているのが分かりました。
(主語が違っていた)
ま、るな訳もたいした訳ではないので、参考程度にしてくださいませ。

百済の皇太子の余昌は新羅に侵入してクダムラ城塞を作りましたが、戦が長引いてしまい、
父の聖明王が援軍をみずから率いて向かう途中、佐知村(さちすき)の馬飼の奴婢に斬られてしまいます。

そして自分たちも包囲されて身動きできなくなった余昌たち。その城内に筑紫国造がいて、敵将を狙って射殺したために敵は退却。余昌たちは城塞から脱出して助かります。
このとき、余昌は「くらじ君」の名を与えました。

これを読んで初めて知ったのですが、倭国軍は百済と行動と共にしています。
実はこの話の前にも、百済王は何度も「筑紫」に援助を頼んでいます。

これは欽明天皇15年の話です。
西暦何年なのか、欽明天皇の即位年が定まっていないらしく、
年代の割り出しは聖明王の戦死が554年いうことから分かりました。

この話は西暦554年の話でした。
磐井の死が527年。死後27年が経っています。

百済の皇太子とともに籠城したのが「筑紫の軍勢」で、その軍勢にいた鞍橋君は「葛子の子」ですから、
兵を送ったのは筑紫君すなわち葛子(あるいは次の世代)ということになります。

倭国は百済と同盟関係にあったことになります。
宮地嶽古墳に百済の寺と同じ緑のガラス板が沢山あった問題はこれで納得しました。

ガラス板は百済の寺では舎利を治める床に敷き詰められていたとか。
きっと宮地嶽古墳の奥にも同様に敷き詰められていたことでしょう。

そして、この熱田神社は鞍橋君が新分鄕や新延を与えられて治めたそうです。

でも、るなの想像では葛子は鞍手の姫を妻に迎えたと考えられ、
鞍橋君は当地の首長の家の出身ではないかなと思っています。

ここに案内してくれたユキさんありがとう。
そして、決めました。

くらじの君も磐井の末裔なんだから、『宮地嶽神社と筑紫君磐井の末裔たち』に
もちろん書かせていただきますよ!



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by lunabura | 2014-06-23 21:42 | 神社(ア) | Comments(0)

熱田神社(2)ヤマトタケル 鞍手から筑紫~佐賀へ


熱田神社(2)

ヤマトタケル 鞍手から筑紫~佐賀へ

そうだ、『福岡県神社誌』を見てみよう。
そうすると、祭神は次のようになっていました。

天照皇大神、忍穂耳命、邇々杵命、彦火々出見命、不合命、素盞嗚命、
日本武命、宮簀姫命
(あまてらすすめ)(おしほみみ)(ににぎ)(ひこほほでみ)(あえず)
(すさのを)(やまとたける)(みやずひめ)
これを前回の祭神名と比較。

天照大神、天忍穂耳尊、瓊々杵尊、彦火火出見尊、鸕鶿草葺不合尊、素盞嗚尊、
日本武尊、宮簀姫尊
表記は違いますが同じ神々でした。


さて、『福岡県神社誌』の由緒も訳してみます。

伝に日本武命が熊襲征伐の時、亀甲で天神地祇を祀られてそこに地神五代の大神を鎮座された、云々(うんぬん)。

文治元年に尾張国熱田大神を相殿に勧請した。その後、元弘元年に故(ゆえ)あって、社殿を司本嶽に遷す、云々。今の社地がこれである。明治五年十一月三日村社に被定。
ヤマトタケルが近くにある亀甲という所で天神地祇を祀って、地神五代を鎮座したとあります。

天神と地祇とは天津神と国津神とも置き換えられますが、
ネットを調べると、どの神が天神で、どの神が地祇なのかは厳密な区別はないようです。

この祭神で見る限りは、「天照大神」が天神で、
「天忍穂耳尊、瓊々杵尊、彦火火出見尊、鸕鶿草葺不合尊、素盞嗚尊」が地神ということでしょうか。

もう一か所、書かれていました。
マトタケルは亀甲で天照大神を祀り、戻ってきてから再び天照大神を祀ったということです。

これ以上は分かりません。
合せると、社伝のようになりそうですね。

由緒の続きを読んでみます。

なお、社説に曰(いわ)く、
第12代景行天皇27年冬、日本武尊が熊襲征伐の時、新分(にぎた)の亀甲の名を愛でられて、ここに口嗽き(今池の口という社の西北五町の所にある)司本峯の榊葉を取って大麻(おおぬさ)とし、天神地祇を祝祭された。ここに地神五代の大神を合わせ祀って戦勝を祈られた。

のち、熊襲を征服し、帰途の際、この社に立ち寄られて奉賽(ほうさい)の御祭を盛大に行われた霊跡(れいせき)なので、里民は崇敬して仮殿を営み、松や榊を植えて祀ったところ、霊験あらたかで、庶民は参り集(つど)って、日に月に盛んとなったと言い伝えている。 (後略)



ヤマトタケルは亀甲で戦勝を祈り、熊襲を征服したあと再び立ち寄っています。 


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境内の右手の大木の後ろに階段がありました。
これは剣岳に到る道だそうです。

「え?剣岳の頂上には登ったことあるけど。八剣神社の頂上じゃない?」
「そうです。剣岳の両側に八剣神社と熱田神社があるのです」
「そうなんですか」
目からウロコ。

そこで、八剣(やつるぎ)神社の記事を読み直してみました。

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●八剣神社(1)ヤマトタケルをもてなした一族の神社があった
●八剣神社(2)三柱の神々に受け継がれたのは草薙の剣だったよ
●八剣神社(3)上宮・ヤマトタケルの行宮跡は眺めが抜群だよ
http://lunabura.exblog.jp/i28/


当時、ヤマトタケルを迎えた首長は「田部今朝麿」という人でした。
松を植えた話や仮殿を建てた話も伝わっていました。
2000年近く前の話がこんなに具体的に残っているとは!

鞍手から中間・八幡にかけては、ヤマトタケルの話が沢山伝わっています。
恋のお話もね。
地元でガイドマップ作ってくれたらいいなあ。


佐賀に行けば、ヤマトタケルが竹内宿禰と組んで熊襲タケルと戦った話が伝わっていました。
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●大願寺廃寺~健福寺 日本武尊が熊襲タケルを討伐した所だった
http://lunabura.exblog.jp/21648939/

●真手(まて)山 熊襲タケル対ヤマトタケル
http://lunabura.exblog.jp/21679856/

●ヨド姫三社めぐり(5)石神 世田姫
http://lunabura.exblog.jp/21638581/

「日本武尊が巡幸された時、樟の茂り栄えたのをご覧になって、勅して「この国は栄(さか)の国」というがよい」と仰せられた。そういうわけで栄の郡といった。後に改めて佐嘉の郡と名づける。」

●ヨド姫三社めぐり(3)與止日女神社2 日本武尊の記憶 桜桃沈輪はいずこ
http://lunabura.exblog.jp/21619021/


ざっとこんな感じ。
「佐賀」という地名の由来もヤマトタケルの言葉から来ていることになっています。

こんな風に立体的に繋がってくると、古代のイメージが豊かに再現されます。

筑紫のヤマトタケル、点と点がつながるといいなあ。

(つづく)





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by lunabura | 2014-06-22 16:46 | 神社(ア) | Comments(2)

熱田神社(1)日本武尊が古宮で地神を祀った


熱田神社(1)

日本武尊が古宮で地神を祀った


熱田神社に参拝してから、はや一週間が経とうとしています。


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紫陽花が美しい季節でした。

初めて同じ町の古物神社に参拝したときにも、紫陽花が咲いていたのを思い出しました。
何年前だっただろう。
私のひもろぎ巡りはこの秋で満五年を迎えます。

当初、鞍手の重要性がすぐに分かりましたが、私一人ではどうにもならないこと。
地元の方々に立ち上がっていただけたらと願う地域の一つでした。

思いがけず、熱田神社に行くことが出来ましたが、
ここもまた、案内無しでは簡単に行きつかなかったでしょう。

このタイミングで参拝できたのも、連れて行ってくれたユキさんと、古代の魂たちのお蔭です。


新しく出来た道を通っていきなり迫って来た山の姿は見慣れた山。
何度もこの辺りを他の神社を探しまわってぐるぐると回った記憶がある山です。
名前はなんだったっけ。

鞍手町発行のガイドマップを5分以上探すけど、この熱田神社は載っていませんでした。
信号機名もないので、外部の人間にとっては分かりづらい地図です。

鞍手町の皆さまには是非とも町内の神社と歴史の重要性を再認識して、
神社(祭神)と古墳が明確なマップを作製していただきたいなと思いました。

(実はこれは何年も前からの願いなのです)

グーグルを調べると、どうやら剣岳を西からアタックしたようです。
田んぼが終わって坂になり、住宅が並び始めるとその奥に鎮座していました。


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一の鳥居を過ぎるとただならぬ古社の趣。


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拝殿です。
御祭神は

天照大神、天忍穂耳尊、瓊々杵尊、彦火火出見尊、鸕鶿草葺不合尊
素盞嗚尊、日本武尊、宮簀姫尊


熱田神社の創建は12代景行天皇27年(西暦97年)、日本武尊が熊襲征伐の途中、亀甲に立ち寄り、地神の大神を祭祀したことに始まると伝えられています。
そのことを記念して亀甲に神社(古宮)が建立されたそうです。
(熱田神社広報紙より)
日本武尊が鞍手に来た時には、地元では行宮を造って歓待したそうですが、
その途中、亀甲に立ち寄ったのですね。
そこは今でも聖地で、そこから椿の花を持ち出すことも戒められたそうです。

ヤマトタケルが祀った神が「地神」だとすると、現在の祭神が天神と天孫系なので、
もう一つ、伝わっていない縁起があるのかもしれません。



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広報紙のつづきです。

その後、文治元年(1185年)に尾張国熱田大明神を勧請し、二柱を合祀申し上げて祀った。元弘元年(1331年)現在地に移ったとされています。
尾張国から勧請したのは「日本武尊、宮簀姫尊」だということになります。
私は「当社は熱田のルーツではないですかと」尋ねたのですが、
「そうではありません」との御返事でした。



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神殿を見上げると肉球が ♪
この宮大工さん、ネコが好きだったのかなあ。
重厚な神殿に思いがけない発見でした ^^
(つづく)



鞍手町 熱田神社






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by lunabura | 2014-06-20 21:19 | 神社(ア) | Comments(3)

夢の解釈教室 ドリームレッスン・7月の開催日のお知らせ

 
夢の解釈教室
ドリームレッスン

7月の開催日のお知らせ


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「夢の解釈教室」の基礎コース、7月のレッスンは土曜日に開催します。

みなさん、朝、目が覚めた時、あれは何のメッセージだったんだろう、
と思ったことはありませんか?

夢が教えてくれていることが分かったらいいですよね。

夢は私たちが抱えている問題をユーモアたっぷりに見せてくれたり、ヒントをくれたりしています。
怖い夢も、書き出してみると全然違って見えたりします。


夢はシンボルを使って教えているので、解釈するにはシンボルを理解する必要があります。


このレッスンはユング心理学やベティ・ベサーズの夢辞典を紐解きながら、
夢日記をつけて自分で解釈できるようになるためのものです。

夢の解釈にはもう一つの大切な特徴があります。
夢を思い出している状態こそ、変性意識なのです。

『ガイアの森』にも書いたように、
「過去世を思い出す意識レベル」と「夢を思い出す意識レベル」は大差ありません。

変性意識こそ異次元への扉ですが、
夢日記をつけること自体が変性意識に留まるレッスンになります。

目が覚めてまどろむ時間はハイアーセルフと繋がりやすい意識状態です。
夢に取り組んで、内なる神との繋がりを大きくしましょう。


日時 一回目 2014年7月19日(土)14:15~15:45 
    二回目     7月26日(土)14:15~15:45           
(入場は14:00からですが、それより前にお茶や軽食をいただくこともできます)
追記 14:00から受付を開始します。

場所 ギャラリー カフェ 美葉(ビバ)
   福岡県古賀市花見東7丁目14-1 カサデヴィエント 1F
   電話 092-943-8400
   (車は店の右手の駐車場及び旧遠賀信用金庫、左手のセブンイレブンに止められます)

会費 2000円×二回=4000円(前納) 及び ドリンク代一回ごとに500円
    (レッスンを二回とも参加出来る場合のみ申し込んでください
     会費納入は当日、教室で受け付けます)

    (毎回500円のドリンク券を購入してください。
     ドリンク券はレッスン前あるいはレッスン後に使用できます)

定員 若干名

持参するもの 筆記具 夢日記用のノート 下記の参考書
参考書 『ドリーム・ブック』ベティ・ベサーズ 中央アート社 1800円+税
   (参考書は各自で購入して持参してください。
   購入する意志を持つ時点からドリームレッスンは始まります)

申し込み方法 「ひもろぎ逍遥」のサイドバーのメールから
 郵便番号 住所 氏名(ハンドル名を使っている方はハンドル名も)
 電話番号 メールアドレス
「ドリームレッスン参加希望」 とお書きください。

当方から返信しますので、その時点で受講決定となります。
土曜日の会場はカフェのオープンスペースがいいなと思っていたら、
思いがけない縁で美葉さんに決まりました。

駐車場がたくさんあるので遠方の方も大丈夫です。
バスやJRの公共機関も利用できます。



ギャラリー カフェ 美葉 HP FB
http://viva.on.omisenomikata.jp/

https://ja-jp.facebook.com/gallerycafeviva


地図 美葉












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by lunabura | 2014-06-16 20:24 | ◆ドリームレッスン | Comments(2)

地球 ビフォー・アフター


地球 ビフォー・アフター

中村哲

もう四年も前になるのですね。
るなが尊敬してやまない日本人、中村哲。
アフガニスタンの砂漠に水路を通した医師。

病気治しよりも、まず井戸を。そして水路を。
そう気づくと実行に移した男。
その成果を展示したペシャワール会の写真展に行って、まる四年が経っていました。

今日は「何が書きたい?」
そう自分に問いかけながら針仕事をしていたら、
中村哲の写真展を紹介していないのを思い出しました。
ファイルを探すと、すでに記事も書いていました。
以下はその文です。



医療の為にアフガニスタンに行った中村哲医師が赴任した病院は
折れたピンセットがある程度のひどい状態だったそうです。

その過酷な条件の中で、それでも医療を進めていた時、
子供たちがひどい下痢をして、飲み水さえまともにない環境に、中村氏は井戸を掘り始めました。

しかし、井戸では間に合わない過酷な状況に、中村氏は灌漑用水路を作る事を決意。

途中アメリカ空軍の爆撃の危険にさらされながら、また現地スタッフの伊藤氏を亡くしながらも、
今も一人現地に残って、活動を続けてあります。
それを支援するNGO組織がペシャワール会です。

その写真展の写真をほんの少しですが、掲載します。
パネル写真を許可を受けて撮影したので、ゆがんだりしていますが、
少しでもその状況が分かればと思います。
【 】は展示してあった説明文です。



BEFORE
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【2003年8月、近隣の農民が日雇い人夫としてシャベルやツルハシを使って用水を掘削した。
日当は100アフガニ(約240円)。

砂漠の温度は50度を超す事もあるそうです。
写真の背景をみると山も野も草さえ生えていません。


AFTER
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【2009年4月、上の写真と同じ場所。ヤナギが3,4メートルの高さまで生長し、安定した水路となった。】
上の二枚は同じ所!
たった三年でここまで緑は回復してくれる。
柳の木は挿し木ですって。
自然の力ってすごい。




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【(上)2004年4月、通水し、ヤナギの挿し木を開始した用水路。
(下)2007年4月、3年後のほぼ同じ場所。

蛇籠の針金が腐食した後も生長したヤナギの根が蛇籠の石垣をしっかりと抱え込み、
強固な護岸を維持し続ける。
この蛇籠工と柳枝工の組み合わせも、日本の伝統的な技術である。】

―福岡県の筑後川の山田堰の技術を使ったと聞いています。
そういえば、筑後川では柳をよく見かける。
あの暴れ川もこうして営々と護岸をしたおかげで、豊かな穀倉地帯になったのですね。




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【(上)2005年5月、ヤナギが生長し始めたA地区後半の用水路。
(下)2009年4月、通水から5年がたった同じ場所。

この地に立つと、はるか昔からこの用水路が悠々と流れていたかのように感じる。】

―説明文の通り、まるで、中国南部の田園地帯の写真のようです。
柳の根元の護岸の岩を見ると、岩が積み重なっているのが見えます。
針金のネットに岩を入れて、積み重ねていく工法だそうです。



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【(上)2005年3月、取水口から1.6km地点に造られた沈砂池。(通称D池)
(下)2010年3月、D池にはヤナギやユーカリなどが植えられた。
沈砂池とは取水口で水と一緒に取り込んだ粒子の細かい泥や砂を鎮める池。
それによって用水路下流での土砂の堆積を最小限に抑えることができる。
池に堆積した土砂は排水からクナール河へ渡される。】

―この上の写真を見ると、用水路を作るといっても、
その規模の大きさが半端じゃないですね。

あまりの過酷さに、機材の運転手があと一息の所で逃げ出してしまい、
見つけ出して銃を向けて作業を続けてもらったエピソードなどが新聞に書かれていました。




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【マルワリード用水路、最後の1.2kmを通水する中村医師。
中村医師の背後に水が迫っている。】

この方が現地の中村哲医師です。
ごらんの通り、すっかり日焼けをして、現地に溶け込んでいます。

ずいぶん前の講演会の話です。
「福岡市のB電器に免税店があるので、そこに買い出しに行ったら、
店員さんが自分を見るなり英語で話し始めたので、せっかくだからと、私も英語で応じました。(笑)

送り先は福岡の自宅なのに、それも知り合いの家か何かと思いこまれて、
最後まで日本人とは分からなかったようです。(笑)」
と講演会で話されたのを思い出します。

そこまで、現地に溶け込まないと、とても、こんな偉業は成し遂げられなかったでしょう。
覚悟の深さに、日本から見ていて、いつも励まされます。

この緑の回復とともに、難民たちも15万人戻って来たそうです。
そして砂漠に田植えが!


以上、書いていた文章です。
(書いていてよかった。読み直して感動しています)



実はこれは『ガイアの森』の見る夢でもあるのです。
フワフワとして「人にどう見られるか」しか興味のない、けど可愛らしいカマラ。
そして、魂の恩返しを探しに来たアッシュ。

第一巻の続きは、この二人が魂の目的に目覚めて行動するのです。

もう少し多くの方に第一巻が読まれたら、きっと続きも出せることでしょう。

わたしに夢を与えてくれた中村哲。
こころから感謝します。


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by lunabura | 2014-06-15 22:26 | ◆ガイアの森◆ | Comments(0)

今日は皐月宮から熱田神社へ


皐月宮と熱田神社参拝

昨日、新たな縁を得た「カフェ美葉」(古賀市)。
そこでの話題は水沼の君と三女神と宗像族の話にも及びました。

何度か書くけど、私の仮説は
「みぬま方」(水沼様)→「むな方」(宗像=水沼様)ではないかというもので、

ありなれ川(筑後川~三笠川)の道主貴である三女神は、水沼族が奉斎している神で(日本書紀)
3世紀に水沼族が神功皇后を支援して船を玄海灘に運航させて新羅に遠征したのち、
褒賞として、玄海灘に拠点の湊を複数個所貰ったというものです。

これからの課題は二女神が三女神になっていった過程を明らかにすること。
それは英彦山での二女神と大己貴の結婚、そして市杵島姫と物部氏の結婚
が手掛かりになっています。
また宇佐の安心院の三女神社(二女神社)に筑紫の君水沼の名を残すことも手掛かりです。

そして、今日はユキさんから電話がありました。
宗像の皐月宮と宇佐八幡宮が同じ祭祀形態を持っていると。

皐月宮は宗像大社の元宮ではないと噂されている宮です。
宗像と宇佐は比売神という点でも繋がっています。

比売神が誰なのか。今の所、三女神以外の手掛かりは出て来ていません。


「今日、行きませんか?」
「そうですね。行きましょう」
スピードが速くなっている、と昨日書いたばかり。
今は動く時。
そう思って、青い宇宙船号に乗せてもらって出かけました。



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皐月宮はやはり一人では見つけることが出来なかったかもしれません。
古式のままの祭祀形式で、とても清らかな聖地でした。

そしてこんな会話に。
「磐井の関連の本を書きあげたところよ」
「そういえば、熱田神社の縁起に磐井の名がありましたよ」
「え?鞍手に?」
「資料を貰いました」
「それ見たい」
「どこにあるかな…。今から行きますか?」
「今から?行きましょう」
もうこの流れに乗っちゃえ。
予定変更して鞍手の熱田神社へ。

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そして宮司さん宅で系図を見せていただきました。
金川宮司家は鞍橋君(くらじのきみ)の子孫。
そして鞍橋君は葛子の子。
すなわち磐井の孫。
(ただし、系図の横に、葛子の弟?という注あり)
金川家は物部氏ではないそうです。

磐井―葛子―鞍橋

その鞍橋はコトバンクによると
?-? 6世紀の豪族。
筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)。欽明(きんめい)天皇15年(554)百済(くだら)(朝鮮)王子余昌が新羅(しらぎ)(朝鮮)にきずいた山城久陀牟羅塞(くだむらのそこ)(慶尚北道北西部)が新羅軍に包囲された際,弓矢で奮戦し余昌を救出。このとき矢が鞍の前後の橋(くらぼね)を射とおすほどの力があったため,余昌から鞍橋君の名をあたえられたという。
磐井の乱後、葛子は王朝奪還のために蜂起。
しかし兄弟の北磐津は敗北。
ところが数年後、麁鹿火(あらかひ)が死去。
それからのち、宮地嶽が中心になって繁栄したもよう。
時代は祭神の勝村・勝頼の時代へ。

その兄弟の鞍橋が百済王子余昌(威徳皇)を救出。

これって、矛盾が無い。

また現れた新事実。
出来あがったばかりの原稿に反映する?どうする?
この時代、全く知らない。

そんな新しい悩みが生じて悩んでいたら、ユキさんの次の予定の時間を大幅に超えてしまい、
とんだ迷惑を掛けてしまいました。

あ~あ。失敗。






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by lunabura | 2014-06-14 22:28 | にっき | Comments(0)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25