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ひもろぎ逍遥

<   2019年 04月 ( 24 )   > この月の画像一覧

日本武尊の足跡 鳥野神社 日本武尊が国見をした


日本武尊の足跡 

鳥野神社 

日本武尊が国見をした



さて、四社目、直方市の御山神社から遠賀川を渡り、同じ直方市の鳥野神社に向かった。



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屏風のように並ぶ福智山山系のうち、馬蹄形の山の右の山の中に鳥野神社がある。









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内が磯地区に公園があり、道路脇に造られた駐車場に車を止めると、道を挟んだ山側に重厚な鳥居があった。










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神額は「福地山」とある。この鳥野神社は福智山の下宮に当たる。



福智山は「福岡県神社誌」によると、
<神代の昔、天尊彦火瓊瓊杵尊の勅願により、猿田彦鈿女の二神に命じて福智山に鎭祭せしめられたり。>
とあり、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が猿田彦と天鈿女(あめのうずめ)に命じて神々を祀らせたのが始まりとする。



瓊瓊杵尊の墓は鞍手の六ケ岳にある。瓊瓊杵尊が降臨するときに迎えに来た猿田彦が天鈿女と夫婦になったあと、この福智山に神々を祀らせたのである。



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鳥野神社の祭神は 保食(うけもち)大神、軻遇槌(かぐつち)神、天照大神、応神天皇、月讀大神
となっているので、応神天皇を除いた、四神を祀ったということか。



その後、日本武尊がやって来て勝利祈願をし、凱旋したのちも再び来て、上中下三所神功を創立したという。

また、熊襲を瞰望した地なので国見山とも称すという。

ここで、金剛タケルの存在を知らなければ、何故直方から熊襲を視察できたのか、不審に思っただろう。
日本武尊は金剛山から尺岳、そして鳥野神社と、尾根伝いに移動したと考えられ、金剛タケルはこれら馬蹄形の山壁に囲まれた丘辺りに拠点を構えていたと思われる。

香月文書には
<日本武尊は黒崎より上陸して笹田の小狭田彦とともに黒川を渡り、熊襲の軍を屠った。>とある。

御山神社の陣営は陽動作戦であり、日本武尊は敵状視察を終えて尺岳神社付近に戻って作戦を練り、小狭田彦の手勢を連れて背後から攻めたと思われる。





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さて、次の時代、神功皇后もここに来て戦勝祈願をしている。そして、凱旋すると鳴鏑矢を山上に納め、宿禰に祀らせたという。



武内宿禰は佐賀では日本武尊に同行している。ここでも日本武尊と一緒だったのではないか。

日本武尊が死んだあと、武内宿禰は政務天皇に仕え、仲哀天皇に仕え、神功皇后の道案内をして当社に再び訪れたことになる。



驚いたのは、天武期に筑紫帥栗隈王もまた当社に参拝している点だ。栗隈王の足跡が出てくることはまずはない。「神威」を感じて朝廷に奏上し、天皇の勅命で「西州鎮護の惣社」としている。

この時、鞍手郡粥田などを寄付しているので、先日バスハイクで行った饒速日を祀る天照神社の鎮座する郷は鳥野神社の神領となったことになる。

また、役小角もまた当山で祈っている。

そして、黒田長政は黒田藩の鬼門鎮守とした。

これほどの歴史を重ねる神社を知る事ができたのは、日本武尊の縁であり、この神社を教えてくれた菊如の縁でもある。









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<20190429>
歴史カフェ福津
5月5日(日)2時~4時
日本武尊ー福岡佐賀の伝承と記紀を比較する
会場:福津市中央公民館
申し込み先 himorogi888@yahoo.co.jp 
案内はコチラ






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by lunabura | 2019-04-29 22:10 | 日本武尊 | Comments(0)

原稿戻り



先日、執筆した原稿が一部ですが、ようやく戻ってきました。
朱が入った所を推敲して、戻します。
それを二度ほどやりとして、次の段階に入ります。

大変ですが、とても嬉しい作業です。

歴史カフェも分かりやすいように図を作って添付します。
今のところ、1万3000字。17ページは確定。
分厚い資料を留める特別なホチキスが出番を待っています^^

ただいま、二つの原稿を平行して片付けています。



20190427



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by lunabura | 2019-04-27 20:47 | にっき | Comments(0)

2019年5月、6月のバスハイクのスケジュール





第7回バスハイク 
鳥栖・みやき・吉野ケ里   肥前風土記の旅

2019年5月30日(木) 





佐賀県には肥前風土記の伝承地が多く残されています。景行天皇の鎧を祀った永世神社、推古期に忍海漢人が武器を造るために移り住んだ綾部八幡神社、物部氏に与えた物部神社などです。

今回はこれに加えて、古墳の上に造られた宝満神社、応神天皇の曾孫を祀る都紀女加王墓、天智天皇が祭祀した田手神社、また田代太田古墳(装飾古墳)、東尾大塚古墳、吉野ケ里遺跡などを見学します。

天神―永世神社―田代太田古墳―綾部八幡神社―東尾大塚古墳―物部神社―宝満神社―都紀女加王墓―田手神社―吉野ケ里遺跡―天神

第8回 バスハイク 

飯塚・嘉麻 母里太兵衛の内野宿と沖出古墳

2019年6月27日(木) 


長崎街道の内野宿は黒田家臣・母里太兵衛が建設に当たった宿場で、邪馬台国論争に出てくる短里が使われていました。

そこから北上すると王塚装飾古墳に出ます。嘉麻市の稲築八幡宮は神功皇后を迎えた所で、すぐ南に沖出古墳があります。

鮭神社はサケが遡上していた所で、馬見神社の馬見は神武天皇ゆかりの地名です。

益富城は秀吉の秋月攻めの時の一夜城で知られ、秋月種実、後藤又兵衛、母里太兵衛などが城主となりました。今回は筑豊の史跡を巡りましょう。

天神―(飯塚市)内野宿―(桂川町)王塚古墳―(嘉麻市)稲築八幡宮―沖出古墳―鮭神社―馬見神社―益富城址―天神


申し込みは歴史と自然をまもる会へ

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by lunabura | 2019-04-26 20:10 | バスハイク | Comments(0)

青く染まる日 穂掛神社にて 饒速日を祀る



今日はバスハイクで宮若市、飯塚市の古代世界を廻ってきました。








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ここは千石キャンプ場。洪水で壊れた沈下橋の向こうに穂掛神社があります。









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100mほど上流の橋を渡って参拝。







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天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊のみを祀る神社です。







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身も心も青く染まる一日でした。





20190425

福岡県宮若市 いこいの里「千石」キャンプ場 穂掛神社





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by lunabura | 2019-04-25 20:42 | (ハ行)神社 | Comments(0)

日本武尊の足跡 若宮町誌 銅山と遺跡と地名


日本武尊の足跡 

若宮町誌 銅山と遺跡と地名



例の如く、片付けをしていて、ポロリと出て来た資料があった。
それは「若宮町誌」の「第九章 若宮の銅生産遺跡」のコピーだ。

若宮は現在、宮若市。明日、バスハイクで出かける。

資料は出てきても、すぐ行方不明になりがちなので、今日はその一部を写しておこうと思う。


<第一節 史料にみる銅山と遺跡

古代の北九州地区の銅生産については、「豊前国風土記」逸文をはじめ、『三代実録』の規矩郡(規矩郡・きく)の採銅、さらに『延喜式』の銅・鉛の採送などの記録がみられる。

近世においては、『小笠原歴代家譜』に大里銅山の記事、また貝原益軒や伊藤常足などの著書にも産銅記事が目につく。>

規矩(企救)といえば、菊物部がいる所で、大きな銅矛が出土していた。
銅に関しては生産地が特定できるということなので、調査結果などが分かったら面白い。





<列島内における近世の鉱山開発で、銅は十八世紀前半に画期的発展を遂げた。北九州地区においては、古代から近世・近代まで連綿と続いた田川郡香春町の香春岳があげられる。>


<伊藤常足は『太宰管内誌』の「金生郷」で「倭名抄」に鞍手郡金生は加奈布とあり、名義は古に金など出たる負せたるか、此辺小伏村ノ内に小金原と云処もあり、さて鞍手郡金生村有て今は若宮郷ノに入れり」と記している。>
と、「金生」という地名は金を出した所で、その近くには「鉛」という小字も残ると指摘する。
<銅などの非鉄生産地では、銅のほかに鉛や錫が産出されることも多い。

近年それらの金属生産遺跡の検出例も相次いでおり、このような観点から、町内のこれらの金属に関する地名は、すべてとはいえないが古くには非鉄金属生産が行われた可能性も考えられる。>

とある。

「金生」の北西二キロの所にあの「竹原古墳」がある。
また「金生」の北東四キロの所に六ケ岳がある。
明日行く笠置山の千石公園は「金生」に隣接している。
そこに加茂公園もある。賀茂氏は金属加工に長けている。

思えば、弥生時代の銅鏡にしろ、銅矛にしろ、今は青黒い色をしているが、生産した当時は白銅色あるいは黄金色に輝き、それは銅や錫の綿密な計算による配合で生まれた色だ。

弥生時代の銅製品がすべて中国産と考える必要はないと思うのだが。

景行天皇、日本武尊、仲哀天皇、神功皇后と度重なる九州鎮圧は熊襲と言われた金属加工技術を持った一族の制圧が目的ではないか、という思いをさらに強くした。

日本書紀では消されていた神功皇后の帰路は弥生の「銅の道」なのだ。





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ちなみに、金剛山から南に下ると福智山があり、さらに南下すると香春岳に連なる。
梟帥(たける)族や土蜘蛛たちは棲み分けて、山の中で鉱山に従事していた工人集団だったと思う。

景行天皇や日本武尊が戦った相手たちこそ、九州の古層に生きた人たちである。


20190424



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by lunabura | 2019-04-24 20:57 | 日本武尊 | Comments(2)

日本武尊の足跡 御山神社 日本武尊の陣営地 VS金剛タケル



日本武尊の足跡

御山神社 日本武尊の陣営地 VS金剛タケル



前回の老良神社から遠賀川左岸の土手を遡っていく。

8キロほどだろうか。筑豊本線の植木駅を目指す。

「植木」という地名は日本武尊ゆかりの地名だ。

植木駅の南に三叉路があるので、右手、線路沿いの道を選ぶとすぐに御山神社に出る。







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藤棚が目印だ。

参道の上を藤の花が覆っている。





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左は「植木」の碑。中央が貴布祢社。 右の石祠が御山神社だ。「おやま」と読む。

主祭神は日本武尊 相殿に宮簀姫と須佐之男命



真新しい掲示板に

<第12代景行天皇の皇子、小碓命(日本武尊)が熊襲征伐の命を受け、行軍の途次、今朝麿(田部宮司家始祖)の案内で中山剣岳に登られ国見をされて御出発後、この地にて休憩され家来の弟彦公(尾張氏)に命じ、檀を築き一株の松を植えて後世の験とされた。

名付けて植木といい、松樹生い茂り所を植木の森(御山)と号し、その里を植木の里という。>
とあった。



日本武尊はいったん鞍手の剣岳に登って国見をしてこの地で休憩したという。
この時、弟彦公に命じて祭壇を築かせ、松を植えた。
これが「植木」の地名の由来となったが、注目したいのは「弟彦公」の存在だ。

日本書紀には日本武尊に熊襲討伐の勅命が下りた時、武尊は弓の名手を連れて行きたいと願った。この時推挙されたのが美濃国の弟彦公である。

この弟彦公が肥前での川上梟帥(たける)討伐の時に副大将として出てくる。
肥前と筑豊と離れた所に別々に伝わる伝承を繋ぐ重要な人物なのである。



ところで、何故、この地に祭壇を築いたのか。
その答えはもう一つの掲示板に書かれていた。

<今から1870年の昔、景行天皇さまの皇子で、日本武尊といふお方が九州の悪者の熊襲を、たいらげに来られたとき、この御山の地に陣所をつくられました。その記念として村人たちが社をたてて、日本武尊ご夫妻と、スサノオノミコトをお祭りして御山神社としました。(略)>

熊襲討伐の為に「陣所を作った」ため、祭祀をしたのである。



熊襲がここに居たのか?

それが忘れ去られた金剛タケルだ。金剛タケルは金剛山の近くに居たという。
金剛タケルは江川梟帥(たける)と言い、川上梟帥の弟だった。






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画像の中央を遠賀川が南から北に流れている。
左岸に御山神社があり、その西に剣岳がある。
剣岳に登ると、今も金剛山と福智山が良く見えている。
だから、この国見は金剛タケルの拠点を見定める国見だったのである。


日本武尊は尺岳にも登って国見をしている。
鳥野神社にも行っていて、多分尾根道を通って敵状視察をしたのだろう。


金剛山から尺岳にかけての馬蹄形の山容は恐らく阿蘇の外輪山のような成り立ちに思われる。
火山噴火による陥没ではないか。(専門家ではないので、想像に過ぎないが)

恐らく「金剛」の地名のように、金属を産出する所で、梟帥族(熊襲)がそこで生業を行っていたと考えられる。

熊襲討伐の理由は「朝貢しないから」というものだ。

いつの間にか、熊襲と景行天皇の間には朝貢関係が生じていたのだが、何を朝貢したのかというと、やはり金属と武器ではないか。
それを拒否したことから、熊襲討伐となった。

さて、日本武尊の採った戦略はどうだったか。
結局香月氏の拠点、すなわち黒川を遡って、北から攻めたことが香月文書にある。

この植木から正面攻撃の作戦を採るには遠賀川を軍隊が渡るという難題があり、後方からの攻撃が有効だったのが現地に立つと良く分かる。



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by lunabura | 2019-04-23 20:11 | 日本武尊 | Comments(2)

日本武尊の足跡  老良神社 日本武尊と砧姫の間の子 砧王


日本武尊の足跡

老良神社 日本武尊と砧姫の間の子 砧王





前回の淺木神社から東、遠賀川の方に向かって約二キロの地点に老良神社がある。

オイラと読む。








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『水巻昔ばなし』によると、祭神は日本武尊と砧王。

砧王(きぬたおう)とは、日本武尊と砧姫の間の子で、記紀には登場しない。

【水巻昔ばなし】
<砧王については、その後この地で守護職に任ぜられたというが、そのためであるのか遠賀町老良の老良神社は、日本武尊と砧王を祭神にしている。砧王には重広王、末広王、時王、末守王の四王子をもうけて、末永く栄えたという(略)>

日本武尊の行宮は対岸の立屋敷の八剱神社で、そこで砧姫と結ばれている。


老良という地名についでは地元の地名譚に、
<日本武尊と砧姫の子供である砧王がこの地の守令に任ぜられたことから、ここが「老楽の里」と呼ばれるようになり、この老良がいつのことからか、「老良」と言われるようになった。>
とある。


老良神社からは遠賀川の土手が見えている。




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ここの銀杏もまた、乳根が発達していた。




遠賀郡遠賀町老良67


赤 老良神社   紫 八剱神社


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昨日、歴史カフェを申し込まれた方で、当方からの返信が届いていないものがあります。
受け付けておりますので、どうぞお越しください。





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by lunabura | 2019-04-22 21:30 | 日本武尊 | Comments(0)

日本武尊の足跡 浅木神社 日本武尊と斉明天皇が船を寄せた


日本武尊の足跡


浅木神社 日本武尊と斉明天皇が船を寄せた


フィールドワークに勝るものは無い。
今日は遠賀川の下流から上流にかけて、四社ほど訪問してきた。
北から南へのルートだ。


最初に参拝したのが浅木神社である。

遠賀川の土手を上流に向かって走ると左手に川が流れているが、右手も江戸時代までは広大な川が広がっていた。

今は田園が広がっているが、朝木神社の鎮座する小山は遠くからでも良く分かる島のような姿をしていたはずである。







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一の鳥居の奥に小山がある。







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心地よい参道だ。小山の雰囲気が伝わるだろうか。
この道もかつては海だった。











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石段を少し上ると拝殿前に出る。





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そして、拝殿に掲げられていた「浅木神社略記」にまさにその歴史が簡潔に書かれていた。


<祭神 日本武尊、応神天皇、素戔嗚尊

<昔時、淺木神社の周辺は岡湊よりの内海であった。

日本武尊、熊襲御征伐の帰途、臨幸の神跡の霊地である。第三十七代斉明天皇また此の淺木山に御船を寄せ給う。この御代より鎮祭し奉る古社である。>一部読みやすく変更


日本武尊


 武尊は熊襲討伐の帰途に立ち寄ったとある。
「福岡県神社誌」では、

<「船をこの浅木山麓に寄せて従者と共に山上に登り、四方を眺望し、旅懐を慰められ、自ら桜の木を追って麓の岸に挿し、

「私はこの山に心を留めた。願わくは、枝葉が茂り、陽春を迎えて美しい花を咲かせ、千年の春を迎えてほしい」と言った。

従者たちは争って柵を作って記念とし、海を渡って東に帰って行かれた。桜はいくばくも経たずに枝葉を茂らせて、武尊の心に応えた>(意訳)
とあり、日本武尊は麓に桜を植えたという。



斉明天皇

のちに斉明天皇も船を寄せたという。これも「福岡県神社誌」の続きに、

<斉明天皇が筑紫に下られた時、嵐に遭い、航路を変更して岡湊より内海に入られたが、夜になるまで嵐は収まらず、船は漂い揺れ続けた。この山の木でお食事の煮炊きをしたところ、その香りがふくいくとしたので、天皇が大いに称賛され、この山を朝木山と名付けられた。>

とある。

斉明天皇が長津宮への到着が遅かったのは、嵐のために遠賀川流域に避難したためだ。船を点検し、修理をするために滞在したのである。

その間、斉明天皇は川向こうの水巻町の八所神社で日本武尊に倣って先勝祈願をし、中間市磐瀬の御館山を行宮としている。

これまでは、何故斉明天皇の一行が遠賀川に入りこんだのか、理由が分からなかったが、ここにその理由が書かれていた。

実は、過去「ことのかたり」に書いているが、崋山に入り込んだ天智天皇に筑豊滞在の理由を尋ねた時、嵐のせいだと言っていた。これを裏付ける伝承が出てきて驚いている。









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さて、この本殿がなんと、茅葺(かやぶき)だった。
とても珍しい。

この美しい本殿に三神が鎮座している。


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福岡県遠賀郡遠賀町浅木3丁目22-13





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by lunabura | 2019-04-21 21:08 | 日本武尊 | Comments(2)

万葉の里 糸島市綿積神社 遣新羅使や柿本人麻呂が詠んでいる


万葉の里 糸島市綿積神社 

遣新羅使や柿本人麻呂が詠んでいた



糸島市志摩船越竜王崎の綿積神社の境内は「万葉の里公園」ともなっています。

まずは福田赳夫元総理の揮毫による石碑があるのに驚きました。





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万葉集巻十五 3674

天平八年(736) 遣新羅使人 引津亭舶泊之作歌

草枕 旅を苦しみ 恋ひ居れば 可也の山辺に さ男鹿鳴くも

(長い旅が苦しく あなたを恋しく思っていると この糸島の可也山の山辺で 雄鹿も鳴いている)るな訳

新羅への使者を乗せた船は難波津からこの糸島まで来るまでも、難儀の旅だったようです。

掲示板にその航路が描かれていました。












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掲示板に書かれている文を読んでみましょう。

<天平八年の遣新羅使人の航跡

天平八年(736)、阿倍継麻呂を大使とする遣新羅使人の一行は、旧暦六月に難波を出航し、瀬戸内海を西に進んだ。

途中、佐婆の海(周防灘)で暴風のため遭難し、分間(わくま)の浦(大分県中津市付近)に漂着した。

七夕の頃に博多湾岸の筑紫館(つくしのたち)に着き船団を立て直して荒津を船出したが玄界灘が荒れていたため、韓亭(からどまり・西区唐泊)で三日間海が静まるのを待った。

糸島半島を廻って引津亭(ひきつのとまり・志摩町引津湾内)に停泊し、狛島亭(こましまのとまり・唐津市神集島)から壱岐・対馬を経て朝鮮半島へと渡って行った。>

神功皇后伝承で見かけた地名があるので、何となく様子が分かります。

佐波海から関門海峡を目指す時、暴風の為に大分に流されています。

分間は和間の浜のことでしょう。
そこなら、船大工たちがいた所なので修理もできたと思われます。

荒津は鴻臚館があった所でしょうか。
そこで船団を立て直して糸島に出るまでにも嵐に遭い、この引津湾に避難したのでしょう。

ここまで来るのに航路の三分の二を要しています。

ここから新羅への方が短い距離なのに、いよいよ外海に出るのですから、大変な思いをしたことでしょう。







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こちらの歌碑は巻七の旋頭歌です。揮毫した人の名は見当たりません。(正面からは)

柿本朝臣人麻呂之歌集出 1279

梓弓 引津の辺なる 莫謂花(なのりそのはな) 
摘むまでに 逢はざらめやも 勿謂花(なのりそのはな)


(引津の浜辺の「なのりそ」の花
摘むまでは 逢えないが 摘む時が過ぎたら 逢えるので 人に言わないでください)るな訳

「なのりその花」は「莫告藻」とも書き、ホンダワラという海藻を指します。
花は丸い実のように見えるものを指しているのでしょう。

志賀島の沖津宮でミソギの時に採る海藻の「ガラモ」と同じもののようです。

「逢う」の漢字は男女の逢瀬を指すので、恋人に逢いたい気持ちを表します。

ホンダワラの花が咲く季節までには必ず逢います。
でも、「莫謂」(言うなかれ)のように、人には言わないでくださいという意味が込められています。

秘密の恋人に逢う約束をしているようですね。

柿本人麻呂はこの引津湾まで来たのでしょうか。
秘めた恋のお相手はどなたでしょうか。

和歌は公でも私事でも詠むので、秘密の恋なのか、みんなの気持ちの代表なのか、一首だけでは分かりませんね。







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(綿積神社に奉納されていた海藻。茶色の藻に花のような袋がついている)








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この引津湾で詠まれた歌はもっと沢山あります。

日本書紀には筑紫の事が沢山書かれていますが、万葉集もまた各地で詠まれていて、そこに立つと嬉しくなります。魅力的な世界ですね。


20190420


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by lunabura | 2019-04-20 21:47 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

心施





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心施


他人の為に 心を配り 共に喜び 共に悲しむこと



「他人」とは

この地球に共に生きる人すべてを指すのだろう。

だが、せめて目の前の人にこうありたい。


20190419




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by lunabura | 2019-04-19 20:49 | 繁栄の種 | Comments(0)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25