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ひもろぎ逍遥

<   2019年 05月 ( 24 )   > この月の画像一覧

楽しすぎる 吉野ケ里遺跡 ひみかのみち



楽しすぎる 吉野ケ里遺跡 ひみかのみち








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正面のイングリッシュガーデンも成熟して、ハンギングバスケットがお洒落。
これが吉野ケ里遺跡の玄関広場なのです。




バスハイクで吉野ケ里遺跡に行ってきました。
夏に遺跡を歩くのは大変なので5月に行くことにしたのですが、今日は30度で、真夏の暑さでした。曇ったお蔭で何とかなりましたが。






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吉野ケ里遺跡は広大過ぎるので、今回は個人的に北墳丘墓をターゲットにしました。

皆さんもかつて来たことがあるといっても、記憶があいまいになるほど広いので、初心者の方にはメインの「ひみかのみち」をお勧めしました。

この「ひみかのみち」を通れば、南内郭を通り、展示室を見学し、北内郭に上り、北墳丘墓の発掘施設を見ることが出来ます。

南内郭では物見やぐらに上ったり、竪穴住居を覗いたりして、かなり楽しめるのですが、体力を温存するために、今回はパス。

ヒメとヒコの二頭体制がしのばれる「北内郭」で夏至日の出―冬至日の入りラインを確認したりしました。

ここで、ガイドの方に涼しい所で話を伺い、巫女の高床式建物とその従者の竪穴式住居の存在を知りました。







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(手前が従者、その奥の屋根が高床式住居で巫女の住まい。右にあるのはヤグラ)


そのあと、目的の北墳丘墓へ。
大きな四角い盛土は発掘したままの状態で保存された施設でした。







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御柱!

この辺りで一時間経ち、そろそろ玄関に戻らねばならない時、園内の巡回バス(無料)で戻れることを知り、みんなでバスに乗って玄関へ。

途中、驚くほど広い吉野ケ里のクニの中を車窓から見学。
子供連れで一日遊べる多くの施設が他にも沢山あることを知りました。

一日二日では知り尽せない吉野ケ里遺跡。
もう一度行きたいという声があちこちで聞かれました。

楽しい遺跡です。




<20190530>





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by lunabura | 2019-05-30 21:55 | 吉野が里歴史公園 | Comments(0)

松野連系図と符合した日本武尊の戦い


松野連系図と符合した日本武尊の戦い



「松野連系図」というものが熊本菊池の松野家に伝わっている。

その始まりは呉王夫差で、熊襲の名を伝え、倭の五王に連なる系図だ。
ご存知の人も多いだろうが、このブログでは初めて扱う。

それというのも、昨日系図のファイルを取り出した時、その系図が出て来たからだ。

そして、二人の名に目が釘付けになった。
それは取石鹿文と弟鹿文の名だ。取石鹿文には「川上梟帥」の注が添えられていた。









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「倭国王のふるさと火ノ国山門」より。丸や四角は綾杉作図。

あの川上梟帥だ。
佐賀の真手山で日本武尊に殺された筑紫の王の名ではないか。しかも、弟がいる。しかも二人の系図の続きは断絶していた。

よく見ると、赤丸と緑丸に同じ名の兄弟が書かれている。
いずれが日本武尊に殺された真手山の川上梟帥か、と考えた。

青丸を見ると、「厚鹿文(あつかや)と市乾鹿文(いちふかや)と市鹿文(いちかや)」という「父と二人の娘」が記されている。

景行天皇の謀に乗せられて父の厚鹿文殺しに手を貸した市布鹿文は景行天皇に殺された。その後、妹の市鹿文が火の国造となる。

そうすると、日本武尊は景行天皇の子なので、時代的には緑の取石鹿文(とりしかや)兄弟が佐賀の川上梟帥と筑豊の金剛山梟帥に該当する。

彼らは熊襲だ。熊襲は南九州にいたイメージがあるが、古事記では九州となっている。

もともと筑紫に取石鹿文がいて、日本武尊が攻めて来たので佐賀(火国の一部)に逃げたと地元では伝えている。

日本武尊とは川上梟帥から貰った名だが、前の名は小碓命だ。

小碓命は何故、熊襲の名を襲名したのか、疑問があったが、熊襲がもともと九州すなわち倭の王家だったとすれば合点もいく。倭王征服の象徴だったのだ。その証拠ほどでもないが、古事記では日本武尊とは書かず、倭建と書いている。

また、系図上、川上・金剛兄弟の所で断絶するのも道理だ。皆殺しなのだから。

さらに、系図では、この王家はオレンジの四角に囲った「難升米」のように魏志倭人伝に出てくる人物も登場する。
この人たちも系図では支流で、次世代は途絶えている。
そして、本流には続きに倭の五王の名がずらりと出てくる。

玄界灘に立つと朝鮮半島への航路が浮かぶが、熊本に行くと、海の向こうは中国だ。福岡南部あたりから南には中国語の発音がかなり濃厚に伝わっている。

今日は、此の辺で。いずれ、じっくりと系図を読み込んでみようと思う。

明日はバスハイクで肥前すなわち火前国に行く。

7月は幣立神宮、8月はこの菊池へ。火後国だ。お楽しみに。


<20190529>


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by lunabura | 2019-05-29 21:19 | 日本武尊 | Comments(0)

第22回歴史カフェは6月23日に決定しました


第22回歴史カフェ623のご案内



第22回の歴史カフェの準備をしていますが、
真鍋大覚の世界 オリオン座 -星の和名と渡来した海の民、鉄の民ー
という仮タイトルをつけました。


会場はいつもの福津市中央公民館で、日程は6月23日(日)午後2時~4時を押さえました。

オリオン座は誰もが真冬の凍てつく寒さの中で見上げたのではないでしょうか。
昨年、シリウスをしましたが、そのシリウスを従えて、大空を渡っていく狩人のイメージがあります。
方向や季節を知らせる星座なので、職業や部族によって、異なる名前が沢山ついていました。
多くの地名の由来が星の名と地形に関連していて、謎が解ける面白さ満載なのが真鍋の口碑です。

私たち日本人は何処から来たか。
その謎は私たちの心を捉え続けて放しません。


私たちは世界中の各地からこの列島にやって来たようです。
その一部が垣間見られるのが、真鍋の星の話です。

その記述内容が多岐にわたるため、沢山の知識が必要で、ブログで予習する(;^ω^)、という難しさもありますが、知的興奮に包まれるのが楽しいひと時でもあります。

まだ一月あるので、時々、ここで予習をしますし、内容詳細もお知らせします。
今日は、取りあえず日程のお知らせです。
皆さまの参加をお待ちしています。




日時 2019年6月23日(日)2時~4時(1時半開場)
会場 福津市中央公民館 2階 視聴覚室「ひもろぎ歴史愛好会」
所在地: 福岡県福津市手光2222
電話: 0940-43-2100(ナビ用です)
交通アクセス JR福間駅から徒歩15分
西鉄バス「手光」バス停から徒歩8分。
会費 1500円(当日払い)


申し込み方法
1 氏名(フリガナも)(あればハンドル名)
2 住所 市町村、字名まで (例として福岡市東区香椎、春日市春日)
   (番地は不要です)
3 メールのタイトルに歴史カフェ623希望と記入。

申し込みは
himorogi888@yahoo.co.jp
(ドコモの方は当方からの返事が届かない場合があります。気にせずにご来場ください)

なお、『神功皇后伝承を歩く』(上下)を購入希望の方はその旨書いてください。
当日お持ちします。

福間中央公民館 
所在地: 福岡県福津市手光2222
電話: 0940-43-2100(ナビ用です)
交通アクセスはJR福間駅から徒歩15分
西鉄バス「手光」バス停から徒歩8分です。




20190528


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by lunabura | 2019-05-28 20:58 | 歴史カフェ | Comments(0)

真鍋ノート 引田部赤猪子 ヒッタイト 観星の心得として読む


真鍋ノート


引田部赤猪子 

ヒッタイトの子孫 御諸歌を観星の心得として読む



「古事記」の雄略記に天皇から求婚を受けたのに、忘れ去られた乙女の話が載っている。
あらすじはこうだ。

雄略天皇が美和河のほとりで衣を洗っていた美しい童女を見初めて名を問うと、童女は「引田部赤猪子(ひけたべのあかいこ)です」と答えた。

天皇は「妻に迎えるので、嫁がぬように」と言った。

赤猪子は迎えを待ったが、八十歳になっても迎えは来なかった。ついに自ら参内したが、天皇はすっかり忘れていて、今更妻には出来ないのを悼んで歌を二首詠んだ。 ( )は綾杉訳


 御諸の 厳白樫がもと 白樫がもと ゆゆしきかも 白樫原おとめ
みもろの いつかしがもと かしがもと ゆゆしきかも かしわらおとめ

(神のいます 神聖な白樫のもと 白樫のもとにいる 神聖で触れられぬ かしわらの神に仕える乙女よ)

 引田の 若栗栖原 若くへに 率寝てましもの 老いにけるかも
ひきたの わかくるすばら わかくへに いねてましもの おいにけるかも

(引田にある 若い栗の林のように 若い時に 共寝をしたらよかったのに 年老いてしまった)

赤猪子の返歌二首。

 御諸に 築くや玉垣 つきあまし 誰にかも依らむ 神の宮人
みもろに きづくやたまかき 築き(斎き)あまし たれにかもよらむ かみのみやひと

(神のいます所に 築く玉垣を 築くように神に斎くのが長すぎて 陛下以外に誰に頼れましょうか 神に仕える巫女は)

 日下江の 入り江の蓮 花蓮 身の盛り人 羨しきろかも
くさかえの いりえのはちす はなばちす みのさかりびと ともしきろかも

(日下江の 入り江に咲く蓮 その蓮の花のように 若い盛りの人が うらやましい)

天皇は赤猪子に土産をもたせて帰した。この四つの歌は志都歌(しつうた)という。





この引田部赤猪子について、真鍋は、引田部とはヒッタイトの和訳で引田部赤猪子はその子孫だと記す。
渡来系の美しい娘だったのだろう。

引田部は大三輪朝臣の支族ということなので、三輪山の大己貴信仰にも新たな解釈ができそうな一文だ。


また、御諸とは「み・もろ」=見る星=観星のことで、「一瞬の間に星を観察して計る心得」を歌と話にまとめたものだという。

「もろ」とは星の意味の胡語ムルがムロ、モロと変化したものだ。そして、この志都歌を美望呂歌(みもろうた)と言ったという。


古代において、物部や平群、あるいは舟人などなど、星を観測する人たちがこの話を聞けば、星の観測の厳しさの訓戒と考えて、自らに戒めたのだろう。


いきなりの雄略天皇と赤猪子の歌だが、これは第22回歴史カフェ「オリオン」の予習編。
真鍋の話は広範囲にわたるので、少々知識を入れておこう。




<2090527>



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by lunabura | 2019-05-27 21:07 | 真鍋大覚ノート | Comments(0)

魏志倭人伝 奴国の副官「卑奴母離」は女人の神官 ストーンヘンジと吉野ケ里




真鍋大覚のオリオンに関してまとめているが、倭人伝に出てくる副官の卑奴母離のことが出てくる。

<「まち」は「もち」「むち」「もり」などと同じく、「女人の神官」であった。「帥」のちには「盛」などと官名氏名にこれが唱えられることが多くなった。

倭人伝には「母利」なる万葉仮名がみえる。

「ひ」が「卑奴」であれば、「日神を冬至の夜に迎える儀式」であったことになる。

この日を限りとして、太陽は南には下らず、北に帰る。「日帰」(ひがえり)がこれであった。

凍夜の永きに育てられた遠い祖先が春を待ち望んだ心がよくうかがわれる。(拾43)>

卑奴母離という副官については、女性だと記した一文もあるが、ここでは「もり」とは「女人の神官」だと具体的に記している。

「卑奴」の「奴」は大きいという意味なので、「卑」=日なら、まさに太陽という意味になる。

上記の「冬至の夜に太陽神を迎える」という「日帰」の儀式のイメージが漠然としていて、深く理解できていなかったが、今日、NHKのストーンヘンジの番組を見ていて、腑に落ちることがあった。

ストーンヘンジに向かう参道を歩いていくと、冬至の夕陽が見えるような仕組みになっているという。
ストーンヘンジは祖先たちの墓であり、そのモニュメントとして「冬至の日の入り」が仕組まれているという。

北の国での「冬至」の持つ意味は日本人には理解できない深さがある。

5000年前のストーンヘンジよりさらに古いストーンサークルがイギリスの北のオークニー島にある。
それを実際に見学したことがあるが、7月の事だったと思う。

北の島の夏は白夜で、夜の10時になっても明るかった。人々はそんな時間になっても屋外で飲んだりしている。夜明けもかなり早いので、スコットランドの人たちは、夏はあまり寝ないのではないか、と思ったりした。

動物はどうなのか。
そう思って羊を見ていると、10時を過ぎても寝ずに普通に草を食べている。朝起きて見ると、羊は既に起きている。

夏と冬では違う体内時計が働いているのか。白夜の国は日本とは異なる季節のリズムがある。
そう、思ったりした。

だから、逆に冬のスコットランドは昼が短い。
夜が長く、冷たく凍える。
「冬至」の日がどれほど待ち遠しいことか。

冬至の太陽が沈むと、翌朝から春だ。
現実としては寒さは厳しくなるが、確実に春が来ることを確認する日なのだ。

<この日を限りとして、太陽は南には下らず、北に帰る。「日帰」(ひがえり)がこれであった。>
という文には、日本人の太陽信仰とは別層の意味があることを教えてくれている。

案外、ストーンヘンジには観測地点があって、そこから日々変化する入日の位置を確認していたのではないか。

(テレビでは太陽が垂直に沈む画像が造られていたが、それは勘違いではないかとも思った。)

冬には凍りつく大陸の果てから来た祖先は、四季のある日本列島に来ても、その祈りの習慣を続けていた。その儀式を行う者が卑奴母離だ、と真鍋は言いたいのだろう。

神殿も居ながらにして冬至が確認できる角度に建てたという。
そう、吉野ケ里がそうだ。来週バスハイクで行くので、建物群を確認しようと思う。

オリオンを理解するのに、「冬至の入日」の理解が必要だとは思いもよらなかったが、シンクロのおかげで理解が深まった。

<20190526>

乱文のまま投稿。明日にでも推敲するだ。おやすみなさい。



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by lunabura | 2019-05-26 00:28 | 邪馬台国 | Comments(0)

ユールとフライヤは日本で大山祇とコノハナサクヤに変化した?




那珂川市に残る「御火焚き」(おひたき)の行事の由来に、来年の暦の出来上がりを喜び、古い暦を焼き捨てるものだった、という話が真鍋の本に出てきます。

語源はギリシア語だといいます。

裂田神社や伏見神社に残っていて、拙著なら下巻の66番裂田神社の所に書いています。



その日の到来を告げる「御火待星」(おひまち)という名がオリオン座のベテルギウス星につきました。

この日本列島に来た様々な人種の中に、北欧から来た渡来人もいるわけで、春の到来を喜ぶ冬至の儀式が那珂川の御火待行事に継承されたのではないか、という考えを真鍋は示しています。


数万年前の氷河期、あるいは凍土の信仰や情景が古代日本に伝わり、現存する神事や行事、シャーマニズムにその残り香を見つけているわけです。

そして、糸島から那珂川、脊振山系に多くみられる大山祇やコノハナサクヤの神社については、その原型として北欧のユールとフライヤの姿を見ています。





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(画像出典 ウィキペディア)フライヤ





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(画像出典 ウィキぺディア)粥をもらうユール・トムテ





以下は該当部分です。

<北欧のノルマン民族はユールとフライヤの二神が去る年と来る年を渡しあう饗宴とされていた。

ユールは夜であり、フライヤは昼であったと説く学者もあれば、又ユールは冬であり、フライヤは春であると説く学者もあり、二千年も昔の神話の解釈は西洋の本家本元でもいろいろとわかれている。

 御火待はまさに一陽来復を願う凍夜の民族の数十万年に及ぶ儀式の名残りであったのかもしれない。

御火待はまた一年の暦制を更新する復活の祭典であったかもしれない。

暦制は氏族一年の日程表に他ならなかったから、氏族各位の合議によって採択された。

その時の元旦は冬至にあったから、いながらにして冬至を心得る目標として神殿を冬至の入日にあわせて建てていた。(拾42)
 
 今から5万1500年前に始まり、1万2300年前に終わった第四紀氷河期の間は、一年の季節は冬と春だけであった。

夏と秋はなかった。現在の北極圏に近い地域の一年と同じである。

遠い祖先は冬をもってユールの神なる大山祇命なる氷河の高嶺をあて、春はフライヤなる木花佐久夜毘売の万朶(ばんだ)の花弁をあてた。

今も那珂川には山積(住)の社が背振から西畑に並ぶ。「儺」あるいは「奴」とは夏を知らぬ残雪の形容であり、花の色の白さの形容であり、胡語のニニ、あるいはヌールの和訳であった。>
(儺の国の星拾遺p43)


ユールとフライヤについては宗像大社の長手の所にも書いています。




<20190524>



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by lunabura | 2019-05-24 20:33 | 真鍋大覚ノート | Comments(0)

歴史カフェでオリオン座を




次回の歴史カフェのテーマはオリオン座です。
真鍋の記録を現代人が分かるようにと、分類しながらまとめています。

真鍋は日本人は大陸の果てからやって来たといいます。

砂漠を越えてきたり、あるいは一年以上船に乗ってきたり。
いや、大陸を横断してきても、最後は船に乗って来たわけです。

多くの渡来人の集合体が日本人なんですね。

神話では狩人だったオリオン座が舟人の守護神となっていくまでには、多くの苦難があったことが想像できます。

東へ、東へと、何故、いにしえの人は東の島を目指したのだろう。
今更ながら不思議です。

乾ききった砂漠を歩いていくのは夜。
その時、オリオン座の傾きは自分たちの道を示してくれました。

人々はところどころで出会うオアシスにもオリオン座の名を付けました。

船旅もしかり。
島に着いて水を発見するとオリオンの名を付けていきました。

渇きと水とオリオンは密接で、日本人の言の葉に残されていきます。

かつてNHKでシルクロードの番組があり、喜太郎の音楽が日本人の心を捉えましたが、
今回はそれを「オリオンの星々」と「古き言の葉」で辿っていく予定です。

ご案内はもう少し先になります。



<20190523>


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by lunabura | 2019-05-23 21:20 | 歴史カフェ | Comments(0)

埴輪のヘアースタイル 島田ではなく布「かふり」である


埴輪のヘアースタイル
島田ではなく布の「かふり」である


古代人のヘアースタイルにとても興味があります。

だから、九博に兵馬俑が来た時、しげしげと兵士の頭を後ろから見ました。
すると、左右の耳の後ろから小さな編み込みの三つ組を中央に向けて編み込み、
またうなじからも上の方に三つ組を編み込んで、最後は三本一緒にまとめていました。

その髪型を再現する俑の細やかさに驚いたのですが、
兵士が髪をまとめるのに三つ編みを利用していたのには
カルチャーショックを受けました。

だって編み込みですから、自分では出来ない (><)
この兵馬俑を作る時だけ美容師が付いたのか、普段からそうなのか、
など、疑問も出てきます。

編み込み三つ組なら、髪が乱れることなく、戦うのには理想的です。
写真に撮ってイラストを描きたかったのですが、もちろん撮影禁止なので、
記憶に留めるだけでした。


他の兵馬俑はどんなスタイルなのか。
もっと知りたいのですが、兵馬俑の後ろ姿の写真なんかまずは存在しません。



さて、福岡では埴輪もめったに見られないので、これも出会ったら必ず後ろから観察します。


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これは群馬県から出土した埴輪。    画像出典 東京国立博物館

埴輪の女性のヘアースタイルは「島田」と言われて、
日本髪のルーツとされているのですが、
どうみても、自分の髪をこんな風に結うことはできません。

ヘアーゴムがない時代にどうするんだい?
と見るたびに考えていました。
もし、頭頂で結べたとしても、こんな風に根元をフラットにするのは不可能です。

で、「島田」説を疑問に思っていたら、同じ考えの女性がいて、
この頭の上の物体は「布」であることを中国の雲南や四川で発見して
紹介してありました。
次のブログにはその実例が沢山紹介されています。

http://ysiuruhasi.exblog.jp/13418349

で、真鍋大覚に出てくる謎の「被布(かふり)」が、これだろうと気付いたのです。
「女人は多く髪の上に布をおき、これに荷を載せた。」と真鍋は語ります。

それなら、この厚みが納得できます。
この埴輪の女性は巫女とされていて、「かふり」も実用的でなく、
装飾的になっているような様子です。

九博にはこの「かふり」を被った埴輪がありましたよ。
頭と「かふり」の接点をしげしげと見て、やはり髪の毛ではないと確信しました。


それと、上の埴輪の女性は腰に鏡を下げています。
五つの子丸が付いているので、「五子鏡」というのではないかと推測しています。

これを見た時、七支刀と共にもたらされた「七子鏡」って、
こんなデザインだろうなと、ワクワクしていたのですが、
九博では違うタイプが紹介されていて、しょんぼりしたのでした。



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by lunabura | 2019-05-21 20:26 | 真鍋大覚ノート | Comments(0)

天鳥船と変光星ミラ クスノキ総覧


真鍋ノート

天鳥船 変光星ミラ

クスノキ 総覧


 変光星「ミラ」が光を増した頃、天草の乱が起こったそうです。

そして「ミラ」を「天草星」と呼んだそうですが、「あまくさ」という言葉の謂れは「天鳥船」(あめのとりふね)から来たものだそうです。それはクスノキで造った船のことでした。


真鍋大覚から

<天鳥船
 「あまくさ」とは古事記神代記に出てくる天鳥船またの名は鳥石楠船(とりのいわくすふね)、のちにこれを合して天盧樟船(あめのいほくすのふね)の略であった。

「いはくす」とは盤石のごとく根株を地上に盛りあげ、しかも枝を水平に広くさしのべた樟や楠の古木老樹を云う。

今も未だ然りであるが、樟の筏を海に浮かべると、水に溶けた芳香は大小の魚から蝦の類まで集めるので、漁師は労せずして居ながらにして水揚げができた。
『儺の国の星拾遺』p1>

「天鳥船」は「鳥石楠船」とも言い、「石楠」は石のように根が盛り上がった古木で造った船だといいます。

クスノキは神功皇后伝承の宮々でよく遭遇します。
船の材料になるので、意図的に植えられたのかも知れないなあ、と次第に思うようになりました。

クスノキは大きくなると空洞化するので、そのまま刳り船(くりふね)に利用できるとのことです。

クスノキの空洞を利用したボートに波よけの板を並べれば「準構造船」になります。

クスノキで造った「いかだ」は、その芳香が水に溶け、魚が集まったそうです。
芳香って、あの樟脳の匂いのことかな…。
う~ん。タンスの香り?


で、多分、真鍋が言いたかったのは、神功皇后の船に大小の魚が集まって来て、酒を流すと魚がしびれ上がって採れたという話が『日本書紀』に挿入されているけど、あれは特別な出来事でなく、普通の事だ、ということじゃないかな。

それは、仲哀天皇が下関の豊浦宮(忌宮神社)に遷宮し、皇后が遅れて向かう途中の話です。

<夏、6月10日に、天皇は豊浦の津に停泊した。一方、皇后も角鹿を発って、ヌタの門に着いて、船の上で食事をした。その時、鯛が沢山船のそばに集まりまった。

皇后は酒を鯛に注いだ。すると鯛は酔っ払って浮かびあがった。それで海人(あま)は魚をたくさん獲って喜んで「聖王の与えられた魚だ」と言った。

こういう事から、この辺りの魚は6月になると、いつも酔っ払ったように口をパクパクさせるようになった。>

クスノキで造った船なら、どの船でも魚が集まって来るんですね。魚をしびれさす漁法というのもあったらしいし。神功皇后を神格化しようとした文でしょうが、実は、魚が集まるのはクスノキのせいなのだ、と真鍋は言いたいんですね。

<やがて世が泰平になった頃、空にひときわ明るく輝きを増したのがミラであり、後の人が名付けて「天草星」と呼び、天国に昇った親戚、知己の冥福を祈ったのであった。その頃、九州でも極光(オーロラ)が昼もなお赤く空を彩る時代であった>

と真鍋は語っています。


さて、クスノキが船材になるということで、神社の境内では注意して見ますが、神功皇后伝承の宮々のクスノキは古過ぎて、使い物にならないくらいに空洞化しています。^^


クスノキは若いうちは(数百歳)真っ直ぐ伸びていますが、何百歳でしょうか、二股に分かれて左右に枝を伸ばし、根の所には大きな洞ができ、ついに枝を落としてしまう、という印象を持っています。



そうだ。今日はクスノキ・パーティにしよう。



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下関市 住吉大社




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古賀市 五所八幡宮 上巻35   ムーミンの木





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朝倉郡筑前町 松峡八幡宮 上巻41





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筑紫野市 松尾宮 下巻54





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大川市 風浪宮 下巻77







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宇土市 大歳神社








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佐賀市 與止日女神社 







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武雄市 川古








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武雄市 武雄神社

神!


<20150217>

再掲
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by lunabura | 2019-05-20 20:00 | 真鍋大覚ノート | Comments(2)

真鍋ノート魏志倭人伝2 躬巨国 投馬国 伊都国 耶馬国 好古都国


真鍋ノート

魏志倭人伝2

躬巨国 投馬国 伊都国 耶馬国 好古都国



さて、真鍋大覚による魏志倭人伝の国々の記事のつづき。

躬巨国くしこく 古賀政男の出身地・筑後三潴大川。(宮崎康平説)
投馬国とうまこく 天草島。天鳥船の故郷。
早良さわら 魏志倭人伝にはない。
伊都国いとこく 怡土郡。奴国との境は室見川(早良川)
奴国ぬこく 那珂郡。伊都国との境は室見川(早良川)
耶馬国やまこく 筑後八女郡。
好古都国こことこく こごち。満天の星座。不知火の群光を連想させる。
邪馬台国やまたこく 時見の対象となる高山を遠望するところ。

早良に関しては、遺跡がありながら、
魏志倭人伝には記述されていない謎があるが、
真鍋は奴国の一部としているようだ。

伊都国は糸島水道の南から室見川までとしているので、
高祖山や飯盛山の山塊は伊都国ということになる。

奴国は「ぬこく」「なこく」いずれを読んだか未詳だが、
室見川と「ありなれ川」に挟まれた領域で、
那珂川町を中心と考えているもよう。

耶馬(やま)=八女(やめ)

好古都国に関しては断定はしていないが、
文脈からは不知火(しらぬい)の見える有明海沿岸と考えているようだ。

邪馬台国も断定していないが、東か西に時計代わりの高山があるとする。

また、「奴佳鞮」(なかて)とは邪馬台国の「官名」だが、
同名の「王」(あるいは邪馬台国の一官)が
多良岳~諫早を領有していたとする。


前回の地図に追加してみた。









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「奴佳鞮」(なかて)が邪馬台国の一官名ということは、
邪馬台国はこの付近としているように見受けられる。

倭国の大乱は雲仙岳(画像では普賢岳)の領有を巡ってのものだ
という文も見られた。(少しあいまいな記憶)


見つかったのは以上の国ぐらい。

本をお持ちで、ほかの国を見つけた方は、
コメント欄に、ページとともに一文を是非とも!


<2017年10月27日>

追記 島原鉄道が敷設された時、大量の弥生土器が出土した話を書いた一文がある。
あるいは、島原を邪馬台国と真鍋は考えたのかもしれない。

地図を見ていると、ヤマト地名が集中する筑後川下流域が個人的には最近、気になっている。
佐賀大和、大川大和、山門郡

<20190519>

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by lunabura | 2019-05-19 17:45 | 邪馬台国 | Comments(0)

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