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ひもろぎ逍遥

<   2019年 06月 ( 24 )   > この月の画像一覧

柿本人麻呂 遠賀川 島門を通過す


柿本人麻呂 

遠賀川 島門を通過す







柿本人麻呂
が糸島の引津で「なのりその花」を詠んだ話は以前書いたが、筑紫に海路でやって来て、遠賀川河口域にある島門を見て歌を残していた。


柿本朝臣人麿、筑紫国に下りし時、海路にて作る歌二首

303番
名くはしき 稲見の海の 沖つ波 千重に隠りぬ 大和島根は
なくわしき いなみのうみの おきつなみ ちえにかくりぬ やまとしまねは

(名高い 稲見の海の 沖の波に 千重に隠れてしまった 島のように見える大和の山々は)

304番
大王の 遠の朝廷と あり通ふ 島門見れば 神代し思ほゆ
おおきみの とおのみかどと ありかよう しまとをみれば かみよしおもほゆ

(大王の 遠の朝廷として 人々が常に通う 島門を見ると 神代がしのばれる)

二首目に「島門」を発見!

「島門」については一般に「瀬戸内海の島々」などと解釈されているようだが、序に「筑紫国に下る」、304番に「遠の朝廷」(都府楼・大宰府)とあるので、これは遠賀川河口にあった「島門」を見た歌だと思われる。

拙著「神功皇后伝承を歩く上巻」p38に記しているが、河口付近には「猪熊島」と「島津島」という二つの島が門のようにそびえていて、これを「島門」と呼んでいたのである。(『水巻昔ばなし』(柴田貞志)より引用)

この「島門」が「島津」に変化する。

二つの歌の情景を考えると、303番では、奈良を離れて瀬戸内海を航行すると、奈良の山嶺が水平線の向こうに遠ざかっていき、兵庫辺りで波に消されるようすが歌われている。

304番では、瀬戸内海を過ぎていよいよ筑紫国に入って遠賀川に入る時、二つの島がまるで筑紫の門のように見えるという歌だ。海流の変化の厳しい関門海峡、そして響灘という初めての外海を通ったあとに見る島門は格別な意味を持っていただろう。


いよいよこの先は「遠の朝廷」への道のりだ。

島門を抜けると右手に鬼津岬があったので、その陰に船は入港したのではないか。


陸路なら鞍手から宗像へ抜ける神功皇后ルートが楽だったろう。秀吉も同じルートを通った。
宗像~福津を通る、坂上郎女の名児山ルートも女性が通れるほどなので、良かったかも。

あるいは長崎街道の原形ルートがあったかもしれない。

遠賀川流域はニニギ、ニギハヤヒ、アメノオシホミミ、三女神などなどが山々に降臨した神話を伝えている。神武天皇や日本武尊や神功皇后が通ったのもこの島門だ。

人麻呂のいう「神代」とはこのような神話が花咲く遠賀川を詠んだものと考えられる。
筑紫国に入る高揚感が良く伝わってくる歌だ。

ところで、人麻呂自身の生没年は不明で、筑紫国に下ったのもいつなのか、序には記されていない。
これから先、人麻呂の歌に何処かで出会えば、また考察もできる。楽しみにしよう。


<20190630>






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by lunabura | 2019-06-30 20:40 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

大伴旅人 葛井大成 筑後からの通い道 




大伴旅人 

葛井大成 筑後からの通い道 




大伴旅人が太宰帥の任を終えて、奈良に戻ったあと寂しい思いをした男がもう一人いた。

筑後守葛井連大成(ふじいのむらじおおなり)という人物だ。
次のような歌を詠んでいる。


大宰帥大伴卿の京に上った後、筑後守葛井連大成が悲しみ嘆いて作る歌一首
576番 
今よりは 城の山道は 不楽しけむ わが通はむと 思ひしものを
いまよりは きのやまみちは さぶしけむ わがかよわんと おもいしものを

(これからは基山の山道は楽しくないだろう あなたに会いに通おうと思っていたのに)

葛井大成は筑後守だったので、久留米の御井町の筑後国府に赴任していたのだろう。

その人が大宰府への通い道に「城の山」すなわち「基山」を通っていたことが書かれていて、がぜん興味が湧いた。
彼は馬に乗っていた。

そうなると、御井町の船着場から船に乗って筑後川を北上し、基山付近に上陸して、驛家(うまや)で馬に乗ったのだろう。







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地図を見ると、そのルートが最短距離のようだ。

奈良時代の基山付近に船着場や驛家の史跡など伝わっているだろうか。
神功皇后の時代は津古(つこ)だった。

ヒメコソ神の話も風土記にあるし。風土記なんか参考になりそう。

古代のルートになると、がぜん興味が湧くのは何でだろ(*’▽’)
でも、今回は地元の方に調べてもらえたら嬉しいな。(と、人使いの荒いブログ)

さて、御井町の国府でも「曲水の宴」(きょくすいのえん)の遺構が発見されている。
水源は味水御井神社の湧水だ。
葛井大成も、きっと参拝しただだろうね。

この葛井大成は「梅花の宴」でも歌を詠んでいる。

820番
梅の花 今盛りなり 思ふどち 挿頭にしてな 今盛りなり 
うめのはな いまさかりなり おもうどち かざしにしてな いまさかりなり)
 
 (梅の花は今が盛りだ 気が合う同士挿頭にしよう 梅は今が盛りだ)
                     筑後守葛井(ふじい)大夫

大伴旅人がこの宴で出したのが「落梅の篇」というひねった御題だったが、葛井大成はそんな事、おかまいなし、忖度なしで、「今は盛りじゃあないか」と詠んでいる。気概が見えて頼もしい。

気が合う同士で挿し合おうという「挿頭(かざし)」とは、冠に付ける季節の植物などで、ここでは梅の花をつけ合った。

この筑紫歌壇には、大宰帥を囲んでも、自由に物が言える雰囲気がある。
「飲んだ後はどうでもよい」と歌った人もいたね。

それらを大目に見る旅人の態度が、葛井大成は好ましかったのだろう。
はるばると久留米から大宰府まで出かけても、会うのが楽しみだった。

葛井大成の歌を通して大伴旅人の人柄が伺える。



さて、歴史カフェでの旅人の準備をしているが、70首余りといえども、問答歌も多く、それぞれに名歌ばかりで、構成をどうしようか、悩むところとなった。しかも、福岡の話ばかりで楽しい。

忖度とか無し、空気読まず。哀しいなら哀しい。男同士でも好きは好き。
そんな世界が広がっていて、気分が高揚する。これが万葉集の魅力なのだろう。



例の如く、完璧な資料を作ろうとしている自分がいて、「ほどほどにせえ」とももう一人の自分が言っている。
歴史カフェ721の案内はあと少しお待ちください。






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by lunabura | 2019-06-28 20:39 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

大伴旅人 夜須野の独り酒 長屋王の変は朗報だったかもしれない 



大伴旅人 夜須野の独り酒 

長屋王の変は朗報だったかもしれない 




旅人が香椎廟に参拝したのは神亀5年(728)の冬のことだ。その翌年早々、2月に長屋王の変が起きる。時に旅人は65歳。

旅人は大宰府に赴任していたので、これについては都からの知らせで知ったのだろう。
この時、太宰大貮には丹治県守(たぢひのあがたもり)が赴任していた。

この丹治県守がこの乱を受けて臨時の参議に任命され、翌月の3月には従三位になって公卿に列することになった。

今日は大伴旅人と丹治県守と長屋王の関係についてである。


旅人はこの乱の前に、県守と一緒に筑前の夜須(やす)で狩でもして飲もう、と約束していたらしい。

夜須と言えば、神功皇后が羽白熊鷲を討伐して「心安らかになった」と言ったことから「夜須」と呼ぶようになったという所だ。神社なら松峡八幡宮だ。

旅人は飲む約束にかこつけて、出世した丹治県守に歌を贈っている。

 大宰帥大伴卿、大貮丹比(たぢひの)縣守(あがたもりの)卿(まへつきみ)の民部卿に選任するに贈る歌一首
555番
君がため 醸みし待酒 安の野に 独りや飲まむ 友無しにして
きみがため かみしまちざけ やすののに ひとりやのまむ ともなしにして

(君のために作った待酒を 夜須の野で独りで飲むのか 友もいなくて)

大貮のためにわざわざ良い酒を準備していたのに、出世して都に戻るのを拗ねたように演じて祝福する歌か、と思ったが、県守を調べていくと、趣が変わって来た。

ウィキペディアによると、

丹治県守は720年に征蝦夷持節大将軍になっている。
同年に旅人は征隼人持節大将軍になっているので、当初は同じように戦いの経験を分かち合う関係かと思った。

ところが、この県守の娘に丹治郎女(たじひのいらつめ)がいる。
丹治郎女とは旅人のもう一人の妻の名なのだ。

この丹治郎女が旅人の妻かどうかは特定されていないそうだが、旅人と県守は親しいし、身分も釣り合うので、他の存在を無理に探す必要もないのではないかと思われる。

よって、旅人の妻の丹治郎女とは、丹治県守の娘(丹治郎女)である、という仮説を前提にして話を進めていく。

この丹治郎女が大伴家持の母である。家持は11歳で父に付いて大宰府に来たという。

丹治郎女は家持を生んだあと、書持、留女之女郎を生んでいる。

下の子供たちはまだ幼子なので、さすがに大宰府まで付いては行けず、実家で子育てをしていたのだろう。長男の家持だけは大宰府に行かせた。

旅人から見れば、丹治県守とは部下であり、義理の父だった。
心強い友でもあったので、せっかく良い酒があるのに「独りや飲まむ 友無しにして」と遠慮せずに愚痴っても構わなかった。


さて、ここで、もう一人、長屋王について考えよう。

「長屋王の変」は当時左大臣だった長屋王が藤原房前らと対立していた時、「謀反を計画している」という告発を受けて自害に追い込まれた事件だ。

この長屋王は皇族だったが、遡ると宗形徳善に行きつく。

宗形徳善の娘の尼子郎(あまこのいらつめ)が天武天皇と結婚して高市皇子が生まれた。徳善は娘と孫の支援をするために、筑前から奈良に出ている。

高市皇子は天皇の長男だから、天皇になる可能性があったが、母の身分が低く「卑母」とされ、太政大臣として臣下に留まった。

この高市皇子の子供が長屋王なのである。長屋王が、天武天皇の孫でありながら、左大臣止まりだったのも、その出自が取り沙汰された印象がぬぐえない。

長屋王の業績のリストを見ると、実務に長けていて、まっすぐな性格だったようで、これでは豪族たちに煙たがれただろうなと思われた。

これらが、長屋王を追い詰めて自害にまで至ったのだろう。

が、この729年の長屋王の変を遡ること7年前に、多治比三宅麻呂という人物が謀反の誣告罪で流罪となった事件が起きていた。

この具体的内容が分からないのだが、丹治郎女の一族の中に、長屋王によって流罪となった人物が出たようなのだ。(出典が分からず、憶測となる)

そうすると、大伴旅人と妻の丹治郎女にとって、長屋王とは身内を陥れた存在となる。


都に残った丹治郎女が筑紫にいる旅人に送った手紙の中にその件が書かれていたのではないかと思われた。旅人と妻は長屋王の変を聞いて溜飲を下げたのかもしれない。


そうすると、長屋王の政敵である藤原房前に、旅人が「対馬の琴」をわざわざ贈った件についても、新たな意味付けが生まれる。

単に武人同士の共感の歌ではなく、政敵の長屋王の死に謝す思いが隠されていたのかもしれない。



<2090627>


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by lunabura | 2019-06-27 20:54 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

明日、627のバスハイクは延期になりました



明日は「歴史と自然をまもる会」主催のバスハイクの予定でしたが、
梅雨前線が北上して雨がひどくなる予報が出たため、中止になりました。
あらためて別の日に設定されるそうです。

申し込みの方には今から(16時半以降)直接、連絡が入ります。
よろしくお願いします。

延期の日程が決まったらまたブログでも紹介します。



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by lunabura | 2019-06-26 16:32 | バスハイク | Comments(0)

剛羅、酒匂、佐甲、合屋の由来 ベンガラと採掘現場




<相模足柄(神奈川)で赤鉄鉱剛羅(ごうら)とも酒匂(さかわ)ともいう。今も湯の名、川の名で残っている。

噴火の灰が天の雨と地の熱で分解した鉄分の多い土砂のことで、紅柄(べにがら)(辨柄(べんがら))の名が通っている。

昔は山の斜面を鋤でけずってその斜面に露出した地層の重なりの中から、特に古い湯脈の筋目にそって縦に切り割り、掘り刳る採掘現場佐甲(さこう)あるいは合屋(ごうや)といった。

 ここに「ごふ」とは果実の中の種子のかたまりを言い、また人間の臓腑のことをいった古語である。(略)

その昔は深く入れば入るほど無限の金と力を無料で与える鉱脈のことであった。竹取物語のあたりから「さか」も「そこ」も女人の陰唇の隠語になって本来の意義は隠されたのである。>
                          儺の国の星拾遺 239


以上はオリオン座の右上に輝くベラトリックス星の説明に出てくる文章である。

ベラトリックス星は「陰(さかの)星(ほし) 允(さかの)星(ほし) 胤(さかの)星(ほし) 」と呼ばれた。


「さか」とはもともと赤鉄鉱を指す言葉で、それがオリオンの星につけられたという。


剛羅、酒匂はベンガラ。
佐甲、合屋はその採掘現場のこととする。


あらためてベンガラをウィキペディアで確認すると、
ベンガラはオランダ語であり、

<日本では、江戸時代にインドのベンガル地方産のものを輸入したために(天竺国であるベンガルの地名が起源)「べんがら」と名づけられた。>

とある。ベンガラという単語自体は江戸以降に使われたもので、それ以前は「さか」「ごう」が基本語だったことになろう。


20190624

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by lunabura | 2019-06-24 21:17 | <地名の由来> | Comments(0)

本日はありがとうございました。 次回は「大伴旅人」です



今日の歴史カフェ、無事に目的の所まで進みました。
参加の皆様、ありがとうございました。

2時間で通してみると、新たに見えてくる世界もあり、発見も多々ありました。

これで真鍋の星の話は「ありなれ川」「北の星」「シリウス」「オリオン座」が完成しました。

「星と氏族」の関係は「神と氏族」の関係とも置き換えられ、シリウスだと安曇やエジプト、オリオンだと八幡と金星暦やヒッタイトと三輪山などと、固有の単語が集中して出てきます。

これらを比較していくと、古代の部族のルーツから倭国の新天地まで、おぼろげですが、見えてくるものがあります。

真鍋の本の解読は、これからも少しずつですが、進めていきたい道です。


さて、歴史カフェが終わって、例の如くお茶飲みしましたた。
また、日が長くて涼しかったので、公民館の裏手にある公園(キャンプ場)に探査に行きました。

現地は当初から古代の集落がありそうな地形だと思ったのですが、実際に行って見ると、その起伏や展望はまさにそうだと思いました。

古墳らしきものもありました。それは二段の円墳に見えました。五郎山古墳と雰囲気が似ていたのです。が、よく見ると稜線が流れていて、前方後円墳らしくも思われました。

この付近は宮地嶽古墳が出来る直前まで前方後円墳も造られていたので、ちょっと期待が持てます。

数人で探査をしたのですが、スマホでコンパスを出して方位を見てくれる人、開発前の航空写真を出して現在と比較してくれる人、円墳の向こうに灯籠を見つける人、周囲の山や地名を教えてくれる人など、職人集団のようで疑問がどんどん解決していきます。

円墳なら装飾古墳の時代かも知れず、また前方後円墳でも王塚古墳のように装飾があるのもあるので、どんな石室かな~と妄想が止まりません。位置的には宮地嶽古墳と手光波切不動古墳の中間点でした。資料を調べてみましょう、と言ってくれる人もあり、楽しみが増えました。


さて、次回の歴史カフェですが、テーマを早速決めました。
「大伴旅人」をやります。

大伴旅人の歌は70首ほどありますが、ほとんどが福岡で詠まれたものでした。
福岡県人なら、これは知っておく方がいいなと思ったし、なかなか魅力的な人なので、これを紐解くことは人生を豊かにするな、とも思いました。
福岡に再訪した時、旅人は60歳代でしたよ。

万葉集は手元に置きたい歌集ですが、4000首となると途方にくれてしまいます。
「大伴旅人の歌集」としてテーマを絞って仕上げると、素敵だろうなと思った作品群です。

日程は7月21日(日)2時~4時で、場所もいつもの福津市中央公民館です。

詳しくは、後日、改めて案内します。

<20190623>


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by lunabura | 2019-06-23 22:07 | 歴史カフェ | Comments(0)

夏至-冬至 の阿知女作法




昨日は「阿知女作法」(あちめさほう)がずっと心に響くので、改めてYouTubeで「冬至にうたう阿知女作法」を聴き直していました。

当日とは印象がまた変化して、別の神楽に聞こえました。

阿知女作法は男声と女声のコラボで、なんと美しい響き。

そして、最後に歌われる曲がとても神秘的でした。
当日は感動ばかりで、曲としては聞いていなかった。

そのラストの曲は冬至の帳(とばり)を開き、春の曙の女神が衣を翻しているよう。
これがフライヤーかな。

ミユからの電話で昨日が夏至だと分かりました。

つまり、夏至の日に冬至の音源を聞いていた…。

今年の夏至は福岡は雨も降らず、さわやかな一日。

夏至族(かひぞく)は日本に渡来したら、夏至祭が梅雨なのでやりにくかっただろうな、とか思っていましたが、こんなに穏やかな夏至の日もあるんだと、体感。

今日は夏至とか、冬至の話も出るので、この気候を体感的に覚えておきたいですね。



歴史カフェに改めて参加希望の方、午前中に連絡ください。





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by lunabura | 2019-06-23 08:32 | 甕の音なひ | Comments(0)

六嶽神社とオリオン座


六嶽神社とオリオン座


オリオン座のパワーポイントを作成中だが、ふと六嶽神社にシリウスを撮りに行ったことを思い出した。

シリウスは「狩人のオリオン」が連れている「犬」だから、写っているはず。
そう思って過去のパワーポイントを見ると、やはり見事にオリオンが写っていた。








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右の画像がオリオンとシリウス。
初心者で安いデジカメによる初の星空撮影で、満月の夜に撮ったものだが、最高のものが撮れていたと今頃になって分かった。

新月の時に再び撮影に行ったが、山の稜線が見えず、六ケ岳が撮れていなかったのだ。
初めての画像は大切なものとなった。

上の画像では強調するために、星に白い丸を重ねている。

左下は六嶽神社の正面。その向こうに右のオリオンとシリウスが出る。
(現在は木立でシリウスは見えないがオリオン座は見える)

左上は六嶽神社の絵馬で、三女神が埼門山に降臨している図だ。
バスハイクの時に拝見して許可をもらって撮影したが、昭和のものだった。

この三枚を編集した時、「剣から生まれた三女神」とは「オリオンの剣」から生まれた三女神だと確信したものだ。
三女神の降臨神話は星の物語だったのだ。




シリウスは蹈鞴工人の守護星だが、オリオン座もまたそうだ。
この「直立する三ツ星」が三輪山の「大物主神が丹塗矢に化けて」ホトを突いた神話を生み出す。

三輪山の里も早くから製鉄の民が複数集まって村を作っていたのだろう。
その痕跡がセヤダタラヒメや引田部赤猪子の神話として残り、考古学的には纏向遺跡の博多式の羽口として残った。

この六嶽神社の麓にも「タタラ」地名がある。
鉄、水銀、キラキラする石。ここで産出される鉱物は多くの富と戦いを生み出した。
「脇巫女」が懐かしく思い出される。


さて、6月23日の歴史カフェでは上のオリオン座の画像が役に立つので有りがたい。
この「直立した三ツ星」は他には見当たらない。

真鍋の難解な文章も、この「直立した三ツ星」を見て理解できるものが多々あった。

今回もオリオンに関する文章はすべて網羅するので、ページ数が多い。
皆さんの参考資料になればと思う。



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by lunabura | 2019-06-21 20:52 | 歴史カフェ | Comments(2)

「冬至にうたう阿知女作法」の冊子・DVD と 「甕の音なひ」の冊子・CD 藤枝守作


「冬至にうたう阿知女作法」の冊子・DVD
と 
「甕の音なひ」の冊子・CD 藤枝守作



昨年末の冬至の日、九州大学で「冬至にうたう阿知女作法」がありました。
今でも思い出すとあの海の底に響く土笛や笙が蘇ります。

その冊子をいただきました。

あの翌日、熱い思いでその感想をブログに挙げましたが、その詩とも散文とも分からない拙文を載せていただきました。

しかも、石川高さんの画像と共に。

「祈りとは交歓か」というタイトルで、石川さんの笙を吹く姿に感動したことなども書いたからでしょう。あまりに素敵な構成で夢のようです。









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石川さんのシルエットの向こうに写っているのは志賀島の磯波です。
海のただ中にいるような演出があったのです。
とても神秘的な作品です。


で、その冊子(DVD付)を預かりました。
ご縁の皆様に差し上げてください、とのことです。




また、同じ作者の藤枝守さんの「発酵の響き」「甕の音なひ」の冊子(CD付)も一緒です。






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非売品なので、無料で差し上げます。
当方から郵送などは対応出来ないので、直接お会いする方に差し上げる形になります。


まずは6月23日(日)の歴史カフェに持っていくので、ご希望の方はお持ち帰りください。友達に頼まれた方は、その分も預けます。(全員分持っていくので、連絡は不要です)




「冬至にうたう阿知女作法」はyou-tubeでも見れますが、DVDで大きな画面で見るとまた違った趣があります。


「祈りとは交歓か」の全文





「冬至にうたう阿知女作法」の動画案内ページ








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by lunabura | 2019-06-19 23:02 | 甕の音なひ | Comments(0)

オリオンの和名 総覧


オリオンの和名 総覧



真鍋大覚の残した「オリオンの和名」はかなりの数になります。

基本的にはオリオン座が回転しながら東から西へ旅をすることから付いた名、また、氏族によっての呼称の違いなどが挙げられます。

多くの古代史の知識を要したために、これまでその背景を予習してきましたが、今回は、歴史カフェの資料を元に、「オリオンの和名」の分類を紹介したいと思います。






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星座にすべての和名を載せてみようとしましたが、ここには入り切れず、まだまだ他にあると思ってください・

背景が黄色のものは、舟人の呼び方、緑は太陽暦の倭人と金星暦の舟人の一年の違いから付いた名。灰色は蹈鞴工人が付けた名。そんな感じです。

真鍋大覚の世界 オリオン座 ―星の和名と渡来した海の民、鉄の民―   

第1章 オリオン座とは
第2章 真鍋大覚の記録
1 庄屋は立冬のオリオン座を見て暦の作成を始めた
  (1)倭人はオリオン座を三星で捉えた  かさほし
  (2)スバルと合わせて「上」の字「こまのほし」と合わせて「下」 裃の星
  (3)赤いベテルギウスと御火待行事 御火焚星 御火待星 神奈毘星
  (4)神功皇后が占った星 御日待星

2 舟人の守護神 オリオンの三ツ星
  (1)三ツ星は水平や縦になる 加津佐星 南位見星 豆酘差星 かさのほし つさのほし
  (2)冬の東風で大陸に船出が出来た 風信星
  (3)水軍の守護神オリオン 三並大明神 三蓋星 三並星 三組星
  (4)オリオンを「しま」と呼ぶ理由―「泉のある船着場」 三島星 三諸星
  (5)夜須の「三並」は「船の寄せ場」「三ツ星」
  (6)方位を数字で呼ぶ閩人を三五殿と呼んだ 

3 三嶋湟咋の孫娘 媛蹈鞴五十鈴媛命(神武帝妃)
  (1)ミソクヒとはオリオンであり、オアシスである 蹈鞴一族
  (2)神武帝と媛蹈鞴五十鈴媛命の結婚 7月7日

4 夏の夜明け前に垂直に立つ三星 7月7日のオリオン
  (1)夏至の暁光に消えるオリオン 三連星
  (2)天橋立の逆見と三星のもたらす幸運 
  (3)博多町人は暁のオリオンで気象を占った 土用三郎
  (4)女人は暁の三星を見て水汲みをした 水養星 水汲星 三組星

5 立春の朝に一瞬見えるオリオンとヒッタイトの娘の話 星見の戒めとして
  (1)明け方のオリオンが春を告げた(古墳時代)氷室星 氷割星
  (2)「みかさ」「みもろ」とは観星のこと 三笠星
  (3)引田部はヒッタイト 美望呂歌を観星の心得とする

6 蹈鞴工人が祈るオリオン
  (1)冬にオリオンが昇ると蹈鞴が始まる タタラ見星 天秤星
  (2)蹈鞴の産物を星に付けた 鑄鉧星 飯豊星 陰(さかの)星 允(さかの)星 胤(さかの)星 姫子星
  (3)賀茂氏のオリオン 三積(みつみの)星 三補(さほの)星 三隅(みすみの)星 三保(みほの)星 美保(みほの)星 佐保(さほの)星
  (4)仕事始めには女人が三拍子で舞った
  (5)白拍子の持つ鼓 鼓星

7 倭人と舟人の一年の差を星の名に付けた
  (1)太陽暦の八年と太白暦の五歳は一致する 五條八旗
  (2)倭人の一年と八幡の一年は同じではなかった 嘉(か)世(せの)星(ほし) 巨勢(こせの)星(ほし) 逸(は)成(せの)星(ほし) 嘉瀬(かせの)星(ほし) 久世(くぜの)星(ほし) 長谷(はせの)星(ほし) 

8 御火待ちと渡来の記憶
  (1)一陽来復を願う北欧の民族の儀式
  (2)日神を冬至の夜に迎える儀式 魏志倭人伝から 卑奴母離
  (3)氷河期から間氷期へ

9 武人とオリオン
  毛利家家紋にオリオンの三星 三次星

以上は『儺の国の星』と『儺の国の星拾遺』からオリオン座に関する用語を選び出して、分類したものです。ボリュームも多かったのですが、季節と星の見え方が分かるまで理解が大変でした。


各氏族が星の名を持って各地に移動し、移住先にも星の名を付けたようすが良く分かりますね。
星に祈るーすなわちオリオンを守護神として祈った証です。

また、纏向遺跡からは製鉄道具の羽口、しかも博多式のものが出ていたという点についての仮説が今回は出てきそうです。








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by lunabura | 2019-06-18 20:41 | <星の和名・天文> | Comments(0)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25