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ひもろぎ逍遥

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大伴旅人ゆかりの地めぐり3 旅人らは基肄城に登った






⑤二日市温泉

二日市温泉はかつて「吹田の湯」(すきたのゆ)と呼ばれていました。
ここに旅人が行ったのは鶴が渡って来た頃なので、もう冬になっていました。

でも、旅人は鶴の声を聞くと、また妻を思い出してしまうのでした。

961番
湯の原に 鳴く葦鶴は 我がごとく 妹に恋ふれや 時わかず鳴く                                                       







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(湯の原に鳴く蘆辺の鶴は わたしのように妻に恋して 鳴き続けるのか)









⑥基肄城(きいじょう)

さて、私たちは二日市(ふつかいち)を離れてバスで基山の基肄城に向かいました。
それは、旅人夫人の葬式の直後のことでした。

旅人は中納言という高い身分だったので、規定により、天皇の使いが朝廷から送られました。

勅使は馬を乗り継ぎ、乗り継ぎして早馬で駆けつけました。

勅使は石上堅魚(かつを)という人です。

葬式が終わると、せっかくなので、遠い都から来た役人を基肄城に案内することになりました。

旅人自身も大宰府の管轄する地が見渡せる所に行って見たかったのでしょう。
旅人らは馬で出かけたのでした。

私たちもバスで行ったのですが、舗装された登山道は急カーブの連続で意外にも厳しかったです。

私は子供のころ歩いて登ったことがあるのですが、道が違っていたのでしょうか、風景も記憶とは違っていました。








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草スキー場です。

その上に頂上がある…。しまったなあ。
さすがに、バスハイクで登山は問題ありだよね…。
ちょっと、困りました。

「皆さん、すみません。ちょっと登りがきつそうです。
行ける所まで行ってみましょう。
写真を撮りながら、何度も立ち止まって登ってくださいね」
と言ったのですが、
皆さん、元気。

登る、登る。








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20分ぐらいの山道だったでしょうか。
みんな元気に頂上に着きました。

やはり、周囲の景色は壮大で、筑紫平野、筑後平野、有明海、唐津方面、糟屋方面と、全方向を見ることが出来ました。
これぞ、大宰府の管轄地です。









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(なんと、頂上は磐座信仰の地でしたよ)



旅人らが来た時には白い卯の花が咲き誇る季節でした。
ホトトギスの鳴き声も響いてきて。


式部大輔(たいふ)石上堅魚(かつを)朝臣の歌一首

1472番 
霍公(ほとと)鳥(ぎす) 来鳴き響(とよ)もす 卯の花の 共にや来しと 問はましものを

(ホトトギスが来て鳴き響き渡っている (奥様が生きておいでなら)卯の花と共に来たのかと問えるのに)

 右は神亀五年戊辰、大宰帥大伴卿の妻大伴郎女が病に遭って亡くなった時に、勅使の式部大輔石上堅魚朝臣を大宰府に派遣して喪を弔い、あわせて物を賜う。

それが終わって驛使(はゆまつかい)と府の諸卿、大夫らと共に基肄城に登って望遊した日にこの歌を作った。
※驛使:駅鈴を下付され、駅馬を使って旅行する公用の使者。


1473番 大宰帥大伴卿の和ふる歌一首

橘の 花散る里の 霍公鳥 片恋しつつ 鳴く日しぞ多き
  (橘の花が散る里のホトトギスは 亡き妻に片恋しながら鳴く日が多い)
まだまだ、何につけても妻が偲ばれる旅人でした。



私たちはバスで太宰府から基肄城に登り、再び太宰府に戻りました。
バスでは2時間ほどの行程でしたが、
道が厳しい旅人の時代は、馬でも日帰りでは無理だったな、と思ったのでした。


<20191208>



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by lunabura | 2019-12-08 21:00 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

中村哲に捧げる 地球 ビフォー・アフター

信じたくない訃報が日本に届きました。
この人生で尊敬する人の名を聞かれるなら、まっさきに中村哲の名を挙げていました。
『神功皇后伝承を歩く』にも『ガイアの森』にも、その方の名を出していました。
以下は2014年6月15日の記事です。
再掲します。

地球 ビフォー・アフター

中村哲

もう四年も前になるのですね。
るなが尊敬してやまない日本人、中村哲。
アフガニスタンの砂漠に水路を通した医師。

病気治しよりも、まず井戸を。そして水路を。
そう気づくと実行に移した男。
その成果を展示したペシャワール会の写真展に行って、まる四年が経っていました。 

今日は「何が書きたい?」
そう自分に問いかけながら針仕事をしていたら、
中村哲の写真展を紹介していないのを思い出しました。
ファイルを探すと、すでに記事も書いていました。
以下はその文です。



医療の為にアフガニスタンに行った中村哲医師が赴任した病院は
折れたピンセットがある程度のひどい状態だったそうです。

その過酷な条件の中で、それでも医療を進めていた時、
子供たちがひどい下痢をして、飲み水さえまともにない環境に、中村氏は井戸を掘り始めました。

しかし、井戸では間に合わない過酷な状況に、中村氏は灌漑用水路を作る事を決意。

途中アメリカ空軍の爆撃の危険にさらされながら、また現地スタッフの伊藤氏を亡くしながらも、
今も一人現地に残って、活動を続けてあります。
それを支援するNGO組織がペシャワール会です。

その写真展の写真をほんの少しですが、掲載します。
パネル写真を許可を受けて撮影したので、ゆがんだりしていますが、
少しでもその状況が分かればと思います。
【 】は展示してあった説明文です。



BEFORE
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【2003年8月、近隣の農民が日雇い人夫としてシャベルやツルハシを使って用水を掘削した。
日当は100アフガニ(約240円)。

砂漠の温度は50度を超す事もあるそうです。
写真の背景をみると山も野も草さえ生えていません。


AFTER
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【2009年4月、上の写真と同じ場所。ヤナギが3,4メートルの高さまで生長し、安定した水路となった。】
上の二枚は同じ所!
たった三年でここまで緑は回復してくれる。
柳の木は挿し木ですって。
自然の力ってすごい。




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【(上)2004年4月、通水し、ヤナギの挿し木を開始した用水路。
(下)2007年4月、3年後のほぼ同じ場所。

蛇籠の針金が腐食した後も生長したヤナギの根が蛇籠の石垣をしっかりと抱え込み、
強固な護岸を維持し続ける。
この蛇籠工と柳枝工の組み合わせも、日本の伝統的な技術である。】

―福岡県の筑後川の山田堰の技術を使ったと聞いています。
そういえば、筑後川では柳をよく見かける。
あの暴れ川もこうして営々と護岸をしたおかげで、豊かな穀倉地帯になったのですね。




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【(上)2005年5月、ヤナギが生長し始めたA地区後半の用水路。
(下)2009年4月、通水から5年がたった同じ場所。

この地に立つと、はるか昔からこの用水路が悠々と流れていたかのように感じる。】

―説明文の通り、まるで、中国南部の田園地帯の写真のようです。
柳の根元の護岸の岩を見ると、岩が積み重なっているのが見えます。
針金のネットに岩を入れて、積み重ねていく工法だそうです。



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【(上)2005年3月、取水口から1.6km地点に造られた沈砂池。(通称D池)
(下)2010年3月、D池にはヤナギやユーカリなどが植えられた。
沈砂池とは取水口で水と一緒に取り込んだ粒子の細かい泥や砂を鎮める池。
それによって用水路下流での土砂の堆積を最小限に抑えることができる。
池に堆積した土砂は排水からクナール河へ渡される。】

―この上の写真を見ると、用水路を作るといっても、
その規模の大きさが半端じゃないですね。

あまりの過酷さに、機材の運転手があと一息の所で逃げ出してしまい、
見つけ出して銃を向けて作業を続けてもらったエピソードなどが新聞に書かれていました。




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【マルワリード用水路、最後の1.2kmを通水する中村医師。
中村医師の背後に水が迫っている。】

この方が現地の中村哲医師です。
ごらんの通り、すっかり日焼けをして、現地に溶け込んでいます。

ずいぶん前の講演会の話です。
「福岡市のB電器に免税店があるので、そこに買い出しに行ったら、
店員さんが自分を見るなり英語で話し始めたので、せっかくだからと、私も英語で応じました。(笑)

送り先は福岡の自宅なのに、それも知り合いの家か何かと思いこまれて、
最後まで日本人とは分からなかったようです。(笑)」
と講演会で話されたのを思い出します。

そこまで、現地に溶け込まないと、とても、こんな偉業は成し遂げられなかったでしょう。
覚悟の深さに、日本から見ていて、いつも励まされます。

この緑の回復とともに、難民たちも15万人戻って来たそうです。
そして砂漠に田植えが!


以上、書いていた文章です。
(書いていてよかった。読み直して感動しています)



実はこれは『ガイアの森』の見る夢でもあるのです。
フワフワとして「人にどう見られるか」しか興味のない、けど可愛らしいカマラ。
そして、魂の恩返しを探しに来たアッシュ。

第一巻の続きは、この二人が魂の目的に目覚めて行動するのです。

もう少し多くの方に第一巻が読まれたら、きっと続きも出せることでしょう。

わたしに夢を与えてくれた中村哲。
こころから感謝します。


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by lunabura | 2019-12-04 18:22 | ◆ガイアの森◆ | Comments(0)

大伴旅人ゆかりの地めぐり2 観世音寺 満誓 男が男に惚れた



④観世音寺





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この後、私たちはすぐ近くの観世音寺に向かいました。

ここは斉明天皇の為の菩提寺ですが、80年近くも完成できず、沙弥満誓が造寺司として派遣されていました。

ここから満誓は旅人邸に日々通ったことでしょう。

そして、旅人の、妻を失って悲しみに暮れる姿、
酒におぼれる姿、
薩摩大隅の隼人の乱後、苦しむ人々を救うために朝廷に税を免じる特例を求める使者を送る姿、
そんな日々を見ていました。

隼人の乱は旅人自身が征伐の大将軍だったので、数年後に再び筑紫に来て初めて民衆の苦しみを知り、民を救済しようとしたわけです。
それが大伴旅人という男でした。

男が男に惚れる。

そんな思いを、満誓沙弥は「痛き恋」という言葉で詠み、旅人が都に戻った後に送っています。

573番 
ぬばたまの 黒髪変わり 白髪(しらけ)ても 痛き恋には 会ふ時ありけり
  (黒髪が白髪に変わる年になっても、激しい恋にあう時があるのだなあ)
 ぬばたまの:枕詞

旅人がいなくなって寂しがる沙弥満誓です。

こんな満誓も梅花の宴では
821番
青柳 梅との花を 折りかざし 飲みての後は 散りぬともよし笠沙弥(沙弥満誓)
(青柳と梅の花を折って 挿頭にして 飲んだあとは 散ってもいいぞ)

と詠み、豪胆な人柄が伺える歌を残しています。

「梅花の宴」の時、旅人は参加者が歌の準備をしているのを見越し、はぐらかして御題に「落梅の歌」を出したんですね。これには参加者が「え~~~」と叫んだことでしょう。

上手く歌えずに準備したような歌を詠む人もいたのですが、満誓は「散りぬともよし」と、見事に即興で「落梅」を歌いました。なかなかの腕前です。

そんな満誓沙弥がこの観世音寺を完成させました。



⑤戒壇院





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戒壇院は観世音寺の左隣にあります。
もともと観世音寺の一部でした。
鑑真が命がけで来日し、ここで初の授戒を行った所です。










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こんな素敵な小路を通って観世音寺に戻りました。



<20191203>


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by lunabura | 2019-12-03 20:13 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

第12回 バスハイク 大伴旅人ゆかりの地めぐり1 坂本八幡宮




②大宰府政庁跡

さて、大宰府展示館で梅花の宴のジオラマなどを見学したあと、すぐ隣の大宰府政庁跡に行きました。





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石碑の奥が大宰府政庁跡です。とても広いのですが、画像では線しか写ってませんねえ。
その向こうに蔵司(くらつかさ・地名)と坂本八幡宮大城山(おおきやま)が見えています。

旅人邸について、坂本八幡宮の掲示板に、「近くにあった」と記されているのですが、
旅人の歌には「わが丘」という表現がいくつか出てきます。

そして大城山を歌ったものが見られるので、「大城山が見える丘」が条件となります。

そこで、目を付けたのが蔵司の丘です。
ここからは多くの施設跡が発掘されています。
32人も一堂に会せて、食事が出せる場所ということで、蔵司が該当するのではないかと考えています。





③坂本八幡宮

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坂本八幡宮には新しく「令和」の碑が建っていました。そこから蔵司を撮りました。
この丘に旅人邸があり、ここで最愛の妻を亡くしたのかもしれません。

次は葬式の時の旅人の言葉と歌です。

大宰帥大伴卿の、凶(きょう)問(もん)に報(こた)ふる歌一首  
   (凶問:弔問)
 不幸事が起きて、弔問客が集まった。ひたすら心が崩れるような悲しみをいだき、独り断腸の思いで涙を流す。

ただ両君の大いなる助けによって、消え入りそうな命を永らえている。筆では言葉が書きつくせないのは古今嘆くところである。 
     (両君:未詳)
793番
世の中は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり
(世の中は空しいものと知る時 いよいよますます悲しいことだ)


神亀五年六月二十三日

二人の友達に支えられて何とか生きているように語っています。
この二人の友人とは誰か、分かっていないのですが、
私は山上憶良と沙弥満誓ではないかと考えています。

憶良は後に心打つ挽歌を嘉麻市で作ってくれました。

想像ですが、満誓は枕経を読んでくれたり、葬式の手配をしてくれたのではないでしょうか。

妻が死んだのはホトトギスが鳴く初夏の頃です。

しかし、秋になって萩が咲くころになっても悲しみは癒えませんでした。
オス鹿がメス鹿を求めて悲し気に叫ぶ声を聴くと、
まるで自分が亡き妻を求めて泣く姿に重ねてしまうのでした。

 大宰帥大伴卿の歌二首(内一首)
1541番
わが岡に さ男鹿来鳴く 初萩の 花嬬(づま)問ひに 来鳴くさ男鹿  (坂本八幡宮歌碑)
  (わが住む岡に牡鹿が来て鳴いている 初萩の花の咲く時 花妻の妻問に来て鳴く牡鹿よ)





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坂本八幡宮へ向かう小路。



<20191201>





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by lunabura | 2019-12-01 20:13 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

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