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ひもろぎ逍遥

<   2020年 02月 ( 16 )   > この月の画像一覧

日本武尊と金剛タケル6 御山神社 日本武尊の陣営地に祭壇と松の木



同じ直方市(のおがた)だが、遠賀川の西に御山神社がある。
そこに日本武尊は陣営を敷いた。

主祭神 日本武尊 相殿 宮簀姫・須佐之男命

【境内由緒書】によれば

<今から1870年の昔、景行天皇さまの皇子で、日本武尊といふお方が九州の悪者の熊襲を、たいらげに来られたとき、この御山の地に陣所をつくられました。

その記念として村人たちが社をたてて、日本武尊ご夫妻と、スサノオノミコトをお祭りして御山神社としました。

又そこに一本の木を植えました。その木がだんだん栄え茂って森をつくりましたので、この土地を植木の里といふようになりました。植木の地名のおこりであります。
昭和43年8月 御山組合>

とある。対岸の金剛山に対峙する場所だ。
これは陽動作戦だろう。

実際は香月文書に
<日本武尊は黒崎より上陸して笹田の小狭田彦とともに黒川を渡り、熊襲の軍を屠った。>
とあるように、背後の山から攻め込んだと考えられる。




日本武尊と金剛タケル6 御山神社 日本武尊の陣営地に祭壇と松の木_c0222861_22345555.jpg




ここは「植木」という地名で、掲示板の解説では誰が植えたのか不鮮明だが、
【中山八剣神社伝記】由来記の方が詳しい。

植木の里について、次のように記す。

<第12代景行天皇の皇子、小碓命(日本武尊)が熊襲征伐の命を受け、行軍の途次、今朝麿(田部宮司家始祖)の案内で中山剣岳に登られ国見をされて御出発後、この地にて休憩され家来の弟彦公(尾張氏)に命じ、檀を築き一株の松を植えて後世の験とされた。名付けて植木といい、松樹生い茂り所を植木の森(御山)と号し、その里を植木の里という。>

日本武尊は剣岳から国見をして、御山の地に祭壇を築いて一本の松を植えた。
先勝祈願して陣営を敷いたのだろう。

家来に弟彦公が出てくるが、日本書紀によると、美濃国の弓の名手で、推挙されて武尊の家来となった。
この弟彦公は肥前でも名前が残っていて、川上タケル討伐の時には副大将だったという。


日本武尊と金剛タケル6 御山神社 日本武尊の陣営地に祭壇と松の木_c0222861_205321.jpg




日本武尊と金剛タケル6 御山神社 日本武尊の陣営地に祭壇と松の木_c0222861_2054911.jpg




日本武尊と金剛タケル6 御山神社 日本武尊の陣営地に祭壇と松の木_c0222861_206574.jpg


左は「植木」の碑。中央が貴布祢社。 右の石祠が御山神社だ。「おやま」と読む。


<20200229>


日本武尊と金剛タケル6 御山神社 日本武尊の陣営地に祭壇と松の木_c0222861_15184581.gif

by lunabura | 2020-02-29 21:21 | 日本武尊 | Comments(0)

日本武尊と金剛タケル5 鳥野神社 日本武尊が熊襲を眺望した



直方市大字頓野字内ヶ磯にある鳥野神社にも日本武尊の足跡がある。

『福岡県神社誌』によると、
祭神 保食(うけもち)大神、軻遇(かぐ)槌(つち)神、天照大神、応神天皇、月讀大神
となっている。

 日本武尊の来歴に関して訳してみよう。

景行天皇の御代に日本武尊は熊襲討伐の為に下国された時、当山で神威を感じられた。
そこで敬拝して戦利を祈られ、凱旋する途中に再び来て、上宮、中宮、下宮の三宮を創立し、お礼の気持ちを表された。
それ以来、衣食の太祖、西州の鎮守として朝野の尊信が厚い。

仲哀天皇の御代、神功皇后が三韓征伐のために下国の折、戦利を祈り、帰国の後、鳴鏑矢(なりかぶらや)を山上に納めて、武内宿禰にお祀りさせられた。(略)当社の神使は鳥である。(略)日本武尊が熊襲を眺望した所なので国見山とも言う。>

日本武尊は熊襲討伐の為に当地に来た時、当山で祈り神威を感じ、戦勝を祈願した。
そして戦いに勝ると凱旋の途中で当地に再び来て上中下の三宮を創立したという。

上宮は福智山になる。日本武尊は山上に登った。
この鳥野神社からは眺望が利かないのは中宮か下宮だからだ。






日本武尊と金剛タケル5 鳥野神社 日本武尊が熊襲を眺望した_c0222861_21195841.jpg

しかし、ここも聖地らしい趣があり、誰もが一の鳥居で感嘆の声を挙げる。





日本武尊と金剛タケル5 鳥野神社 日本武尊が熊襲を眺望した_c0222861_21201328.jpg

石段は長いが、意外に上りやすい。
ここもキャンプ場になっているようだ。


日本武尊と金剛タケル5 鳥野神社 日本武尊が熊襲を眺望した_c0222861_21203195.jpg





同じ直方市にある近津神社の縁起によると、
日本武尊は福智山に登って弓矢を奉納している。
この時、玉体を守護する事代主命を新たに祀ったとあり、その神は近津神社の方に祀られている。

この縁で神功皇后も先勝祈願し、凱旋後に山上に鳴鏑矢を奉納した。


以上の話はよく分かるが、問題は下線部の「熊襲を眺望した所」という言葉だった。

熊襲と言えば佐賀の川上タケルのことなので、
どうして福智山から佐賀が眺望できるのか、疑問が湧いたのだ。

香月文書には
<日本武尊は黒崎より上陸して笹田の小狭田彦とともに黒川を渡り、熊襲の軍を屠った。>とあり、
明らかに地元の話だった。

そして周辺の伝承を調べるうちに、金剛タケルを熊襲としていることが分かったのである。






日本武尊と金剛タケル5 鳥野神社 日本武尊が熊襲を眺望した_c0222861_22345555.jpg


地図上では尺岳神社から尺岳を経て尾根伝いに鳥野神社まで行けそうだ。

が、バスで行くとなると、尺岳神社から一旦山を下り、南下して再び山の方に向かわねばならない。
途中、隕石で有名な須賀神社に立ち寄ったが、それは別の機会に記そう。

尺岳神社は畑ダムの湖畔にあったが、鳥野神社は内が磯ダムの湖畔にある。
思えば二つとも地形と鎮座地が似ていた。


ナビで行くとダムを支える橋を通るように示す。
乗用車では何とか通るが、道も橋も狭いので、バスは曲がり切れない。
バスの時には遠まわりで行った。

鳥野神社の夏の画像を見ると緑陰が美しい。






<20200228>









日本武尊と金剛タケル5 鳥野神社 日本武尊が熊襲を眺望した_c0222861_15184581.gif

by lunabura | 2020-02-28 21:22 | 日本武尊 | Comments(0)

日本武尊と金剛タケル4 尺岳神社 香月氏の拠点



『筑前の伝説』(昭和11年佐々木滋寛)に直方(のおがた)の尺岳(しゃくだけ)の地名由来が載っている。
それには日本武尊が関わっていた。読んでみよう。(一部、現代仮名遣いに変更)

「頓野(とんの)字上頓野」に残る「尺岳の背競(せいくらべ)石」

日本武尊熊襲征討のために筑紫に下られた時、大渡川から遠賀郡杉森の地を経て尺岳に上られ、山上に聳える大石に凭(よ)って御身の丈を比べられたので、この山を『はかり岳』というようになった。

その時その大石は俄(にわか)に命(みこと)の御丈よりも一尺ばかり縮んで低くなったといい、その背競石は高さ六尺位もあって尺岳神社の傍に残っている。>





日本武尊と金剛タケル4 尺岳神社 香月氏の拠点_c0222861_22345555.jpg



画像の右上に杉守神社と尺岳神社と尺岳がある。

杉守神社で、「当社はもともと畑ダムの所にあったのが災害などで現在地に遷った」と伺った。
つまり、尺岳神社が元宮だと言うことになる。

上記の本から、日本武尊は川を遡って杉守神社の所に至り、そこから尺岳に登ったことが分かった。
日本武尊が山上にあった大石と背を比べたことから山名が「はかり岳」となった。
その大石は武尊の背丈よりも30センチほど低くなったが今も残っているという。



祭神は「日本武尊 少彦名命 大歳神」だが、もとは「日本武尊 小狭田彦 御剣王」だった。

この小狭田彦(おさだひこ)と御剣王(みつるぎおう)については「鞍手町誌」の方に詳しく書いてある。

<香月文書によると、畑城主香月氏の神話伝説に次のようにある。

小狭田彦の孫小磐削(こいわげの)御剣王は日本武尊と小狭田彦の娘・常磐津姫の間に生まれた人である。

父君の日本武尊に従って東征し、駿河の焼津では特に軍功があった。

その賞として祖父景行天皇より武部(たけべ)臣の称を頂いたほどである。

御剣王は帰国の後「兎(と)に角(かく)に父の尊の慕わしくて、尺岳及び新北(尊の戦勝を祈り玉ひし地なり)に尊を祭り玉ひ云々」とある。>


小狭田彦の娘に常磐津姫がいて、日本武尊と結婚した。二人の間に小磐削御剣王が生まれた。この御剣王は日本武尊の東征に随行し、駿河の焼津で軍功があったという。

すると、御剣王が従軍できる年齢に達するまで、少なくとも十数年間は日本武尊も筑豊に居たことになる。

御剣王は祖父の景行天皇から武部臣の称を貰ったということなので、景行天皇も十数年生きていたことになる。
記紀とはかなり時間差があるようだ。

この御剣王は帰国して尺岳と新北(にぎた・熱田神社)に日本武尊を祀った。



日本武尊と金剛タケル4 尺岳神社 香月氏の拠点_c0222861_22345555.jpg



新北の場所は画像の左の方、剣岳の西にある。その亀甲で武尊は戦勝祈願をしたと現地で伝えている。(ウーナや脇巫女に出てくる「亀甲」のこと)

ついでに説明するなら、その東にある御山神社が陣営地である。



さて、尺岳神社は未訪問だったが、先のバスハイクで「直方と田川の日本武尊伝承地」を回る時、そのルートに入れた。

最初に「畑キャンプセンター」に行き、そこから遊歩道を通って参拝する予定だった。

なかなかキャンプセンターが分からなかったのだが、何人かの人に尋ねて辿り着いた。

幸いにスタッフがいたので尺岳神社の場所を尋ねると、水害で道路が壊れ、修復中なので通れないと言われた。遊歩道も壊れたのか、と思ったが、何とかバスでも行けるだろうという話を聞き、近くまで行って歩くことにした。

距離は一キロほどだということなので、歩いても15分ぐらいだ。

スタッフは、「バスも、もし祠の所まで着けばそこで方向転換が出来ると思います」と言われた。
そして「どうしてあんな所に行くのですか。石の祠ぐらいしかないですよ」
と何度も言われた。
そして「自己責任でお願いします」と言って見送ってくれた。

(いや、ちゃんと拝殿があるはずだが)
と思いながらも、教えられた通りに大通りに戻って下り、林業の家の手前を左折して脇道に入ったとたん、「変だ。山に向かっている」と気づき、バスの運転手さんにストップをかけた。

後ろの座席からも「方向が反対ですよ」とスマホで検索して教えてくれた。
尺岳神社はダムの側にあるはずで、水際に下がって行くはずだ。

教えられたのは山の上の神社?
皆さんと相談して、スマホを信じてダムを周回する道に方向転換した。

その道は細く、舗装の端っこが丸く壊れてタイヤが半分脱輪するような状況だったが、運転手さんは「ダブルタイヤだから大丈夫」と気にせずに進んでくれた。

ホントに半分脱輪したのだが、言われる通り、影響なく進んだ。しかし、その先が左カーブになっていて、道なりに曲がると、右手には柱があって接触しそうになる。
運転手さんの腕が良くて何とか切り抜けた。

それからも、ずっと左はダム。右は山。そこをくねくねと曲がっていくと、大きな鳥居が見えた。
後ろから大きな拍手が起きた。






日本武尊と金剛タケル4 尺岳神社 香月氏の拠点_c0222861_21374968.jpg

まさかね。
バスハイクの第一社目がこれほど困難な道だったとは。

で、バスを降りると遊歩道の案内板がちゃんとあった。

まさか、さっきのスタッフはエリア内に尺岳神社があるのを知らなかった?
まさか。まさか。

と言いながら、無事に参拝を済ませたのであった。



日本武尊と金剛タケル4 尺岳神社 香月氏の拠点_c0222861_21381790.jpg










日本武尊と金剛タケル4 尺岳神社 香月氏の拠点_c0222861_21383334.jpg

旧祭神は「日本武尊 小狭田彦 御剣王」

香月氏の長・小狭田彦と婿の日本武尊、その子の御剣王という関係になる。

ここが香月氏の拠点だった。
ダムに沈む前はどのような集落があったのだろうか。 
キャンプ場にもあったかもしれない。
きっとこの神社は集落からは小高い聖地だったのではないだろうか。
そんなことを考えた。

<20200227>
by lunabura | 2020-02-27 21:40 | 日本武尊 | Comments(0)

ハマってる




万葉集が面白くてハマってます。


時代が新しい(古代史オタクから見て)ので、すご~く分かりやすい。
本の背表紙に思い切って番号を貼りつけました。







ハマってる_c0222861_13049100.jpg

るな風カスタマイズ。

思い出すのは、天河神社で宮司さんに
「あなたは和歌を詠むといいですよ」
と言われたこと。

当時、詠んでみようとしましたが、なかなか言葉は生まれて来ませんでした。

和歌を詠む気はさらさらないのですが、万葉集に今頃ハマるとはねえ。

大伴旅人や山上憶良が神功皇后ファンっていうのも面白い。
歴史は重なっている。

でも、一番の魅力は、人の心の機微に触れて心が安らぐ点かな。
苦しさも喜びも、皆経験してこその世界が広がってるんです。

<20200226>



ハマってる_c0222861_15184581.gif

by lunabura | 2020-02-26 13:01 | 万葉・日本書紀の風景 | Comments(0)

風土記 杵島の郡 景行天皇が命名 歌垣があった 



「肥前国風土記」に杵島郡についての記述があります。
バスハイクは延期になりましたが、それを読んでみましょう。


杵島郡
郷は四所(里は十三)駅は一所。

昔、纏向の日代の宮に天下を治められた天皇(景行天皇)が巡幸された時、この軍の盤田杵(いわたき)の村に停泊した。

その時、船カシ(船繋ぎの杭)の穴から冷水が自然に湧き出た。
また、船が泊まった処はひとりでに一つの島になった。

それを天皇が御覧になって群臣たちに「この郡はカシ島の郡と呼ぶがよい」と言われた。
いま訛って杵島(きしま)郡という。
郡役所の西に湯の泉が出ている。崖は険しくて行く人はまれである。

嬢子山(おみなやま) 郡役所の東北方にある。
同じ天皇が行幸された時、土蜘蛛の八十女(やそめ)がこの山の頂上にいて、常に天皇の命令に反抗して降伏しなかった。そこで兵を遣って襲撃して滅ぼした。それで嬢子(おみな)山という。
(平凡社『風土記』一部変更)


「キシマ」の語源として、船繋ぎの杭(くい)を当時は「船カシ」と呼んでいて、泉が湧き出し、島が出来たことから「カシ島」と景行天皇が名付け、なまって「キシマ」となったとしています。

前回の日本書紀では五十猛が蒔いた木種が成長して「木嶋」となったとありましたね。
ずいぶん話が違っています。

また、風土記には当時、東北の山に土蜘蛛の八十女がいたが、景行天皇に滅ぼされたとあります。
大町町辺りかな。

郡役所の場所は今も伝わっているのでしょうか。
それが分かれば、地図に落とせて理解しやすいんですが。
何となく、須古城辺りがもともと弥生の集落があったのかもしれないな、と一応想像しておきましょう。


さて、時代は鎌倉時代の書物、『万葉集註釈』(仙覚著。 20巻。文永6 (1269) 年完成)にも杵島の話が載っています。

杵島
(この歌は肥前国風土記に見えている)
杵島県。県の南方二里に一つの離れ山がある。
坤(ひつじさる・南西)から艮(うしとら・北東)にかけて三つの峯がつらなっている。
これを名付けて杵島という。坤にあるのを比古神(ひこがみ)といい、中にあるのを比売神といい、艮にあるのを御子神(みこがみ)という。(またの名は軍神(いくさがみ)。この神が動くときはただちに戦がおこる)

村々郷々の男も女も酒を携え、琴を抱いて、毎年春秋に手をとりあって登り見渡し、酒を飲んで歌舞し、曲が終わって帰る。歌詞は
 霰降る 杵島が岳を 険しみと 草取りかねて 妹が手を取る
 あられふる きしまがたけを さかしみと くさとりかねて いもがてをとる

これは杵島曲(きしまぶり)である。
(平凡社「風土記」)


ここには二つの話が書かれていました。

一つは杵島の三山を南から比古神、比売神、御子神と呼んだと言います。
夫婦と子供という捉え方ですね。祭神から考えると上手く想像できないので、現地で何か分かればいいなと思います。

もう一つはこの山で歌垣があったということです。
歌垣は春秋に行われるようですが、歌には「アラレ降る」とあるので、寒い日にあったんですね。

今は歌垣公園になっていて、花が綺麗みたいですが、水害の為に道路が壊れて復旧ができていないそうです。直っていれば、花の見頃に行くことになりそうで、楽しみなのですが。


さて、ついでに、和泉式部が杵島を詠んだ歌も読んでおきましょう。


ふるさとに 帰る衣の 色朽ちて 錦の浦や 杵島なるらむ
ふるさとに かえるころもの いろくちて にしきのうらや きしまなるらむ

古里に帰るために準備した衣の色も時が経ってあせてしまった
杵島は今頃 浦から錦のような紅葉が見られるのだろう

意味はこんな感じかな。
5月には行けるといいですね。


<20200222>


風土記 杵島の郡 景行天皇が命名 歌垣があった _c0222861_21545322.jpg



風土記 杵島の郡 景行天皇が命名 歌垣があった _c0222861_15184581.gif


by lunabura | 2020-02-22 19:51 | バスハイク | Comments(0)

2月28日のバスハイクは中止になりました



2020年2月28日のバスハイクは新型コロナの患者が福岡市から出たので、
中止になりました。

福岡市が、主催するイベントを中止しましたが、これに準じるものです。

2月の分は5月になるかと思います。


申し込みした方には「歴史と自然をまもる会」から、本日より個別に連絡があります。

連絡が無かった方は確認の電話を入れてくださいね。


<20200221>


2月28日のバスハイクは中止になりました_c0222861_21545322.jpg



2月28日のバスハイクは中止になりました_c0222861_15184581.gif


by lunabura | 2020-02-21 10:15 | バスハイク | Comments(0)

日本武尊と金剛タケル3  秋葉神社 火の神



金剛タケルは領土で水の神と火の神を祀っただろう。


日本武尊と金剛タケル3  秋葉神社 火の神_c0222861_22345555.jpg


そういう推測から、まずは直方市(のおがた)の竜王峡に行き、続けて秋葉神社に行った。
赤い楕円の中にある。秋葉神社は火の神を祀る神社だ。






日本武尊と金剛タケル3  秋葉神社 火の神_c0222861_19573735.jpg

これは鳥野神社に向かう途中の道から撮ったもので、中央に秋葉神社を祀る山がある。
いかにも神奈備山であり、遥拝所ともなりそうな山である。

この麓の里こそ金剛タケルが集落を営んだと思われた。

近づくと三角錐の山が三つ並んでいた。
直登だ。高度は低くても、頂上に行くのは大変だとすわかった。










日本武尊と金剛タケル3  秋葉神社 火の神_c0222861_19583273.jpg

社前のようす。奥に石段が見える。








日本武尊と金剛タケル3  秋葉神社 火の神_c0222861_19584684.jpg

が、すぐにこんな急斜面の大きな石の石段となった。








日本武尊と金剛タケル3  秋葉神社 火の神_c0222861_1959414.jpg

休み休み登ると頂上の手前に注連縄があった。

山中に人工的な広場がある。そこに最近の祭祀の跡があった。
今思えば、いわゆる稲荷地形。製鉄、冶金の民が営みそうな地形だ。







日本武尊と金剛タケル3  秋葉神社 火の神_c0222861_19595812.jpg

そこからさらに進み、最後の急階段を上ると石祠があった。

麓の掲示板には
<由緒
当秋葉神社は静岡県周智郡春野町の秋葉山に鎮防火燭の神として祀られている秋葉神社(本社)から、寛政七年(1795)一月、直方市外町の中島徳八大塚善蔵漁師が上頓野養生寺清水山に勧請したもので祭神は火産霊命(ほむすび)軻遇槌神(かぐつち)であります。>
とある。
江戸時代に勧請されたものだ。
火産霊命(ほむすび)軻遇槌神(かぐつち)も同じ火の神。

それより前の時代のことは知る由もないが、この麓に住む者たちにとっての聖山には違いなかった。
筑紫の多くの神社が再勧請していることを考えると、ここも古代から火の神を祀っていて、のちに再び勧請したケースとも考えられた。


<2020028>



日本武尊と金剛タケル3  秋葉神社 火の神_c0222861_15184581.gif

by lunabura | 2020-02-18 20:00 | 日本武尊 | Comments(0)

バス資料を作っています



今日も佐賀県白石町の資料作りをしています。

昨日の五十猛の帰還の次に重要な歴史は百済王子阿佐が妻子を連れて亡命してきた話です。
この時代については既に訳して紹介しています。もう一度掲載しようとしたのですが、長すぎるかな、という印象なので、書くのをやめました。バスの中では全部読みたいと思っているのですがね。

阿佐王子については、百済の歴史書には名があるのでしょうか。

その父の聖明王については日本書紀に最期の言葉などを長々と書いていて、当然「作文」に認定されるのですが、それが葛子の時代の話となると、俄然、興味は深くなります。

白石町に亡命した阿佐王子は聖明王の死を知って神として祀ったわけです。
そして、阿佐王子が死んだあと合祀されています。

その時、白石町に亡命するのを許可したのが火の君です。
葛子って、磐井の君と火の君の姫との間に生まれているようなのです。

すると、磐井の死後、筑紫君に返り咲いた葛子が火の君も兼任したか、あるいは親族が火の君だということになり、いろいろとパズルが組み合わさってくるわけです。

また、聖明王にはもう一人の王子余昌がいて、鞍手町の鞍橋君と共に新羅と戦った話は何度も書きましたが、佐賀の方には余昌も逃げて来た話があって、驚いています。
現地でゆっくりと読んでいきましょう。

このバスハイクでは須古城後も遠望するのですが、それはこの城が龍造寺隆信の居城だったからです。
戦国時代には必ず名前が出てくる人ですが、この白石町が中心だったのですね。「首都」だったそうですよ。これは外せないですね。ただ、今回はどんな所にあるのかを確認するだけになります。

詳しく調べると、見所が沢山あって、ワクワクしています。
そして、例の如く、予定が全部廻れないかもしれませんね。
美味しいものは外せませんし!(^^)!


<20200216>




バス資料を作っています_c0222861_21545322.jpg



バス資料を作っています_c0222861_15184581.gif


by lunabura | 2020-02-16 21:18 | バスハイク | Comments(0)

五十猛命 三兄妹 日本書紀を訳してみた



いくつも平行して物事を進めているが、そろそろ2月28日(金)のバスハイク、杵島郡の資料作りをせねばならないので、今日は五十猛(いそたける)を日本書紀から訳すことにした。

五十猛命の妹に、大屋津媛命(おおやつひめのみこと)と枛津媛命(つまつひめのみこと)がいる。

この三神が佐賀県杵島郡(きしまぐん)の山に二社に分けて祀られているのである。
妻山神社と杵島神社の祭神として。

ウィキペディアは便利だが、執筆者の好みで書かれているので、何故、佐賀のキシマに祀られているのか、考察の資料にならない。
実際に日本書紀を読んでみると、やはりウィキでは、必要な所が省略されていた。


ということで、日本書紀を訳してみた。

五十猛(いそたける)については、日本書紀の巻一、「一書第四」と「一書第五」に記されている。
ちなみに、父は素戔嗚尊(すさのおのみこと)である。




一書(第四) 五十猛は種をまいた



素戔嗚尊が高天原から追放された時、その子、五十猛神を連れて新羅国に天下り、ソシモリの所にいた。「この地に我は居たいと思わない」と言って、埴土で船を造って東に渡り、出雲国のヒの川上にある鳥上峰(とりかみのたけ)に着いた。(略)

五十猛神は天下りする時に樹の種を沢山持って天下ったが、韓地(からくに)には植えずに、ことごとく日本に持ち帰った。筑紫から始めて、大八洲国(おおやしまのくに)に播(ま)いて増やし、青山でない所はなくなった。

ゆえに五十猛命を名付けて「有功の神」(いきをしのかみ)とした。紀伊国にいらっしゃる大神がこれである。



一書(第五) 素戔嗚の毛が樹になった

素戔嗚尊は「韓郷嶋(からくにのしま)には金銀がある。我が子が治める国に浮宝(うくたから・船)が無いのは良くない」と言って、髭を抜いてまき散らすと、杉になった。胸毛を抜いてまき散らすと檜(ひのき)になった。尻の毛を蒔くと槙(まき)になった。眉毛は樟(くすのき)になった。それぞれの用途を定めた。

「杉と樟は浮宝とすべし。檜は瑞宮(みつのみや)の建材とすべし。槙は人が亡くなった時に使う棺にすべし。八十木種(やそこだね)を皆良く播き生やせ」と言挙げをした。

この時、素戔嗚尊の子を五十猛命と名付けた。妹の大屋津媛命(おおやつひめのみこと)次の妹、枛津媛命(つまつひめのみこと)の三神は木種を播く神である。

紀伊国に行ったのち、素戔嗚尊は熊成峯(くまなりのたけ)に行き、ついに根国に入った。


以上、日本書紀を訳してみた。
第四と第五では日本書紀が編纂された時代に、かなり内容が変わってしまっているが、
木を植える神としては素戔嗚よりも、五十猛と大屋津媛、抓津媛の三兄妹が信仰されている。

五十猛の名は古事記では大屋毘古という名になっている。

第四書を見ると、木の種を植え始めたのは「筑紫」とある。「肥前」の名は無いが、杵島郡(きしま)の名も五十猛の植えた「木嶋」から来ているというので、筑紫から肥前へと伝播したとも考えられる。

が、実はここは聖明王王子阿佐が逃げて来た所でもあり、朝鮮半島からダイレクトに繋がる海洋ルートがあることから、「筑紫」の前に「肥前」に上陸した可能性も捨てられない。

神功皇后が朝鮮半島から西海を経て筑後川に入って来たルートと重なってくる。



肥前には「基肄国」(きい)があり、紀伊国との関連性がずっと気になっている。
徐福も肥前にまずは上陸し、紀伊国にもその名を伝えている。
武内宿禰は父は肥前武雄、母は基肄。紀の武内宿禰の紀は何を隠しているのか。

いずれにしろ、徐福の時代から肥前から紀伊国への海洋ルートと文化の伝播ルートが存在し、のちに習合されていったと考えるようになった。

さて、当初の課題に戻ろう。

日本書紀を読んだ結果、杵島郡の二つの神社に植樹三神が分けて祀られている。
が、その理由は今のところ分からない。
現地に行けば、何か分かることがあるかもしれない。

<20200215>



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by lunabura | 2020-02-15 20:22 | バスハイク | Comments(2)

日本武尊と金剛タケル2 竜王峡と龍王神社


金剛タケルの聖地の可能性を探してまずは竜王峡へ向かった。

一度行ったことがあり、緑陰の中に寝転がって空と緑の葉を眺めた記憶があった。
ブログでも勧める方があったのを思い出しながら向かったが、全く記憶は消えていた。








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鳥居があり、歩きやすい石段がある、と思いきや、
参道上にバンガローがいくつも建っていて、神社が全く見えないようになっていた。

道が無いので、大きな岩をよけながら探す。
どんな山道でさえも道はあるのに、ここには無い。








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これは拝殿らしいのだが、正面がない。










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その奥に回り込んで祠に出た。

祭神は 闇龗命(くらおかみのみこと) 山の谷間の神
    闇大山祇命(くらやまずみのみこと)山の神
    罔象女命(みずはのめのみこと) 両水の灌漑の神
とある。

掲示板によると、由緒は

<水の神として筑豊地方の住民に知られている当社の建立は不詳であるが仁安元年、今から約800
年前再建されたことが続風土記に記録されているが、附近一体は尺岳神社として女人禁制の霊場と共に筑豊四郡(遠賀、鞍手、嘉麻、穂波)住民の雨乞い所として崇敬をあつめていた。>後略
  社務所

とある。


右手には滝があった。拝殿は滝を正面としていたのだろうか。






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滝の水はあくまで透明だ。

まさに水の神のおはす聖地だ。



しかし、どういうことだろうか。


この町は聖地にキャンプ場を造り、その祈りの場を台無しにしている。

手を合わせることも困難な状況に、何故したのだ。
このようなクレームは書きたくないのだが、聖地としての環境を壊している。







残念な思いに心が占められたが、ここに来た目的は金剛タケルの聖地探しだった。

気を取り直すと、鳥居の手前に恰好な地図があった。







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現在地は竜王峡キャンプ村だ。
この川の上流に尺岳があった。そここそ、日本武尊が偵察に訪れた所だ。
つまり、尺岳から川を下ればこの滝に着く。

日本武尊を支援した香月氏と金剛タケルの郷の境は分からないが、この川は互いの勢力を分ける重要な川だったのではないか。

巨石を追いかけていた頃、何故水源に岩刻文字があるのか、尋ねたことがある。
河口から上がっていった一族は川を遡ってその水源を見つけ祈ったのだ、
という説を聞いた。

金剛タケルは頂上まで支配せずとも、この竜王の滝は重要な聖地としたのではないか、
勝手な推測だが、そう思われた。


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by lunabura | 2020-02-13 21:13 | 日本武尊 | Comments(0)

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