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ひもろぎ逍遥

真鍋ノート 魏志倭人伝3「生口」とは海士・海女のことなり



真鍋ノート3 

魏志倭人伝「生口」とは

海士・海女のことなり



魏志倭人伝に「男女生口三十人を献上す。」とあり、「生口」の意味は奴隷など、さまざまに訳されますが、真鍋は海士・海女のことであると伝えています。

海産物を不老長寿の薬として珍重したので、それを採る熟練士を献上したという意味になります。中国大陸の都は海から離れた所にあるので、海藻やウニ、アワビなどは特に珍重されたのでしょうね。

「生口」は「まかり」と読んだそうです。
「めかり」は和布刈神社(めかり)にその名が残っていますが、旧正月に夜中の海に入ってワカメを採って、神に捧げます。これも安曇磯良の干珠満珠の秘法からきています。

では、真鍋の本から
<魏志倭人伝に曰く、
 男女生口三十人を献上す。
 
韓国済州島の海女を「まかり」と言う。昔は能登舳倉(へくら)から淡路岩屋まで季節を定めて出稼ぎにきていた。豊前企救(きく)和布刈(めかり)や筑前宗像鐘崎はその根拠地であった。

大陸民族は水を渡ること、あたかも戦々(恐々)として薄氷を踏むがごとくおそれるが、不老長寿の貴薬としての海藻(なまわかめ)、それから海肝(なまうに)の類は珍重するが、これを自ら衣を脱ぎ水にひたって採集することはできない。

そこで倭人の練達の士を召し抱えてこれに当たらせていたのである。「生口」(まかり)とは「なまめかり」と訓ずべき氏族であった。>


「生口」のイキグチの字は「魚」を表す近東語の「イクシス」から来たものだそうです。




過去記事に詳しく述べています。


済州島はもともと耽羅国であり、韓国とは別の国でしたよ



※和布刈神社は下巻100です。

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再掲


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# by lunabura | 2019-05-17 20:05 | 邪馬台国 | Comments(2)

悠紀田・主基田の由来



悠紀田・主基田の由来


令和元年、大嘗祭で奉納される稲を育てるための悠紀田・主基田を作る県が卜占で決まった。

ウィキペディアによると、その語源について、
<「悠紀」は「斎紀(斎み清まる)」、「斎城(聖域)」とされ、また「主基」は「次(ユキに次ぐ)」とされる。>
とする。

これと異なる語源を伝えていたのが真鍋大覚である。

すでに何度か過去に記し、講座などでも伝えているが、今日は改めて「悠紀田・主基田の語源」として視点を変えて記してみたい。



「悠紀田・主基田」の由来は「水城」にあった。

まずは水城(みずき)について、話しておきたい。

水城は『日本書紀』に記され、福岡県に実在しているが、これ以外に「小水城」が十近く確認されている。

この水城築造の目的については、現代では「防衛施設」として説明されている。

しかし、大河や小川を堰き止めて、敵が来たら断ち切るという戦法は、下流域の洪水と田の喪失、伝染病の流行を招くため、守るべき人民と食料、国土を失うことが前提となる。

これでは亡国のための作戦となってしまう。

この「防衛施設」説は、国と人民を守るという、本来の目的を考えもしないトンデモ説と考えている。

これに対して、真鍋大覚は、水城は「農業用の貯水施設」だったことを伝えている。

洪水や渇水のため、田の水が不足してきた福岡平野の水を管理し、水田を潤すためのものだった。
そのため、水城の下には巨大な導管が四本も埋め込まれ、取水口の蓋を開け閉めしていた。
取水口を開く時には、水城の上で神事も行われていたという。

この水城は1.2キロの巨大なものだが、「小水城」は小さな川を堰き止めて出来ている。

土手の下には導管がやはり埋め込まれている。
この導管は「根太扉」(樋)(ねだび)と言い伝えている。
これは導管が発見される前から本に書かれていた名称だ。

さて、これが「悠紀田・主基田」の由来になるというのである。



川を堰き止める土手は、冬の積雪が崩れて怒涛の如く流れ出して、下流の水田や人家を埋めていくことに対処するものだったという。いわゆる山津波対策だ。

これが段々畑の形成の始まりとなる。

そして万葉の頃までは、麓の谷にこの小水城を置いたという。

小水城には、冬には土手の上手に「水」が蓄えられ、下手に「麦」が蒔かれた。

夏になると根太扉の閘門を開いて上手から下手に水を送り、下手に水が溜まると、「早生の水稲」を植えた。

やがて上手の水が無くなると、そこに「晩生の陸稲」を植えたという。

この上手の田を「悠紀田」と言った。「雪」が解けた水と言う意味だ。
下手の田は下田(すけた)と言った。「すく=受ける」という意味だ。

「雪田」が「悠紀田」へ、「すけ田」(受け田)が「主基田」と、好字に置き換えられたことになる。

この農法を真鍋は「瀦水塘耕作」(ちょすいとう耕作)と言っている。

筑紫の耕作法が何らかの事情で、皇室行事の名称に組み込まれたということになろう。

その時、本来の意味を知らない人が
<「悠紀」は「斎紀(斎み清まる)」、「斎城(聖域)」とされ、また「主基」は「次(ユキに次ぐ)」とされる。>
と新たに意味付けをしたと考えられる。


福岡の風習が皇室行事に組み込まれた例はこれだけではない。

他に探すと、今も皇室で奏上される阿知女作法がある。
安曇磯良という倭国の王を呼び出す歌だ。

また、腹赤魚を食す行事が五節会に組み込まれた。
この行事は旧山門郡や有明海に由来があり、高良山にも専門職がいた行事だ。

倭国の風習がこうして姿を変えながらも今に伝えられている。



20190516




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# by lunabura | 2019-05-16 22:08 | 真鍋大覚ノート | Comments(0)

中国学者からみた邪馬台国の場所2 詳細編


中国学者からみた邪馬台国の場所2 詳細編





2019年5月10日の夜に放送された邪馬台国論争の詳細編です。
番組は
BSTBS 諸説あり 邪馬台国SP 九州説VS畿内説 中国取材で衝撃発見
というものです。

三人の中国人学者の話と一人の著書から論を立ててありました。
箇条書きで紹介します。
テレビを見ながらなので、完全なものではありません。その点を含み於いてください。


解析1 漢字学で読み解く「邪馬台国」

① 臧 克和(ザン コクワ)教授 上海


  邪馬台国の場所は「九州北部」
  ヤマ=九州北部一帯

古代の地名はその場所の「地理的な環境」に影響を受ける。

日本の場合だと「山」「川」。中国の場合でも「名山大川」の影響を受け名付けられる。
狗邪韓国から壱岐~奴国となっていて、いきなり遠い畿内には飛ぶようなことはない。



② 帳 莉(チョウ リ) 准教授 大阪 (著書より)

「邪馬壹国」(ヤマイ)は縄文の昔からあった古地名で、北九州(北部九州)の呼び名だった。
「後漢書」倭伝の「山がちな島に依拠して住まいとして」に該当する。



解析2 歴史学で読み解く「邪馬台国」

③ 陳 長崎(チン チョウキ)教授 広州

魏志倭人伝は魏の時代について書かれた文章そのものではない。いくつかの時代の史料が融合した可能性が高い。漢代・三国時代(魏呉蜀)・西晋時代の記述が混在している。

刺史は漢代では監察官の意味で、魏の時代では行政官の意味に変化する。それにもかかわらずこの文章では「監察官」の意味合いで使われている。

つまり、この部分は魏について書かれた文章ではない。魏よりも古い漢代の史実が混在している。

一つの完成した史料とは言えず、部分部分で内容が矛盾している。一人の人物が書いたものではない。

例として、距離で書かれた文章と時間で書かれた文章が混在している。

邪馬台国の場所は「九州」が理に適う。

魏志倭人伝の後半、倭人についての話があるが、「女王国の東の海を千里余り渡るとまた倭人の国がある」とある。

つまり、邪馬台国の東には海があった。畿内説ではこの条件と一致しないため、九州にあったとするのが妥当である。



解析3 中国史で読み解く「邪馬台国」

④ 周 徳望(シュウ トクボウ)教授 台湾 政治学

中国の歴史書にある他国までの距離の記述は非常にあいまいである。地理的なことに関する認識は現地の案内人など地元の人に影響される。

中国史に記載された距離を信じてそのまま日本に当てはめてはいけない。

『梁書』(636年編纂)に記載された扶桑国(日本)はそのまま読むとメキシコに行きつく。

古代中国の歴史書では中国以外の国に関する距離の記述はすべて疑わなければならない。

当時の中国の地図では日本は実際より南に描かれている。実際には海流で流されてやや北よりの九州に辿り着く。

 卑弥呼の居場所や邪馬台国は「九州」にあった。

邪馬台国など中国の同盟国については小国だとしても国の規模や軍事力、政治体制を把握しておきたいので、これらについては正確に記述している。

記述を読むと、邪馬台国には良い田がなく、皆、海からとったものを食べている。

もう一つ重要なのは現地の人は顔に「黥面」(げいめん)という入れ墨をしていたこと。この風習は九州南方の民族である隼人、熊襲と考えられる。
(熊襲は九州全体にいたことが判明している:るな)


倭人は好んで海に入り、魚やハマグリを採っている。畿内では考えられない。
男子は身分関係なく入れ墨をしている。これは海南島と九州にある風習である。

 国名に「爾支」(にき)と呼ばれる官位があり、「副官」もいた。加えて「一大率」を置いている。「一大率」は中国の刺史(行政官)と同じような地位の役人である。

しかも代々「王」がいて邪馬台国に属していた。

伊都国が海外との重要な交流の場で、政治を担っていなのなら邪馬台国が遠く離れた場所から伊都国を管理するはずがない。

牛も馬もいないので運搬能力が低い。邪馬台国が伊都国から遠く離れていることは考えられない。



③陳 長崎

邪馬台国はもともと九州にあり、移動した。同時に地名も移動している。

東遷説の根拠に「地名の移動」がある。中国には孔子が住んでいた魯(ろ)という国がある。魯国が移動したので、地名も移動した。古代ではよくあることだ。


以上、とりあえず文書化してみました。

非常に納得します。

ちなみに畿内説では、纏向遺跡に桃の種が2000個出た事や、水銀が南で採れることが根拠として挙げられていました。

桃は南でも採れるし、水銀も四国や佐賀で採れているので、根拠にはならないですね。


NHKのような印象操作が無くて、好印象を得ました。
再放送があったらいいですね。

20190514


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# by lunabura | 2019-05-14 21:02 | 邪馬台国 | Comments(0)

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