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ひもろぎ逍遥

9.安羅で毛野臣は百済と新羅の王を呼び出したが「磐井、葛子、勝村、勝頼の時代 」 



磐井、葛子、勝村、勝頼の時代  

9.安羅で毛野臣は百済と新羅の王を呼び出したが





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磐井の乱の一因となった毛野臣は何処にいるのかと思っていたら、磐井の乱の翌年529年に半島に渡った。どうも6万もの兵を連れて新羅と戦うほど悪い状況ではなく、まだ日本からの勅命で事が処理できる状態だった。

3月百済加羅多沙津を欲すると、その月の内に日本は百済に下賜したことを前回読んだが、この月に毛野臣を安羅に遣わしていた。


『日本書紀』は続けて「勅命によって新羅を勧め、更に南加羅、トクコトンを建てた」と記す。
訳に困った。

南加羅とトクコトンが新羅に奪われたために、毛野臣は6万もの兵を率いて渡韓しようとしたはずだ。それを「更に建てた」とするのが意味不明で訳せない。

で、例の如く新羅に関わる話なので、前後から判断して、
「勅命によって新羅を説得して、南加羅、トクコトンを取り戻した」
と訳しておくことにする。

また、6万という数字は多くてもせいぜい600程度ではないかと思う。
現代でも、6万人とは一市を構成する人数なのだ。ま、これはいいか。




さて、今回はその続きを読もう。毛野臣(けなのおみ)が安羅に駐在した所からだ。


百済は勅命を聴くために、将軍らを安羅に派遣した。
新羅は隣国の官家(みやけ)を侵略した結果になったことを恐れて、下級役人を派遣してきた。

安羅は高堂を建設して勅使(毛野臣)を昇らせ、国王はその後から昇っていった。
安羅の中でも昇るのは身分の高い者、一人二人だった。

一か月の内に何度も堂上で会議が行われたが、百済の将軍らは庭に置かれたたため恨みを持った。


4月任那王・コノマタ干岐(かんき)(=アリシト?)が日本にやって来た。


大伴大連金村
に面会して
「海を隔てた隣国(半島)は、応神天皇が神功皇后の胎中にいるとき、官家(みやけ)を置かれてから変わることなく、封じられた地を守ってきたのに、最近は新羅が国境を越えて侵略しています。どうぞ天皇にそれを伝えて我が国を助けてください」と。

大伴金村はこれを天皇に奏上した。


その月のうちに使者をつけてコノマタ干岐を本国に送り届けた。

そして任那にいた毛野臣に「コノマタ干岐が言うことを確認して誤解を解いて和解させよ」と伝えた。



毛野臣は熊川に宿って新羅と百済の王を召した。


新羅王サリヂクヂフレを派遣し、百済恩率ミドリを派遣し、いずれも王自身は来なかった。


毛野臣はこれに怒り、二国の使者を責めて
「小が大に仕えるのは天の道理である。何ゆえに両国の王は自ら参じて天皇の勅命を受けようとせずに、無礼にも使者をよこすのだ。もし、汝らの王が後でやって来て勅命を聴こうとしても、我は伝えぬ。追い返してやる」と言った。

両国の使者は帰国して王に伝えた。


これを受けて新羅は改めて上臣(=大臣)イシブレチ干岐を派遣したが、この時3000人の兵を率いて、勅命を聴く旨を伝えてきた。

毛野臣は数千の兵に包囲されたのをみて熊川から任那のコシコリ城に移った。


イシブレチ干岐は多々羅原に陣営を張って礼を失しながら三か月も待機し、しきりに勅命を聴きたいと伝えてきた。

しかし毛野臣はついに勅命を伝えなかった。

イシブレチが率いていた兵士たちは村里に行って食べ物を貰おうとした。

毛野臣の侍従で河内馬飼首の御狩(みかり)という者が通りかかった。御狩は人家の門に隠れ、食べ物をせびる者が通るのを待ち、遠くからゲンコツでなぐる真似をした。


物乞いは「つつしんで三か月もまって、勅命を聴こうと待っていたが、いつまでも勅旨を伝えようとしない。これは騙して上臣を殺そうとするつもりだ」と言って、その状況を上臣に話した。

上臣は四つの村を襲い、人や物を連れて新羅に戻った。


四つの村が奪われたのは毛野臣の過ちのせいだと言う者がいた。



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# by lunabura | 2019-02-12 21:21 | 磐井の末裔 | Comments(0)

8.今度は加羅の港を百済に与えた 「磐井、葛子、勝村、勝頼の時代 」



8 今度は加羅の港を百済に与えた

磐井、葛子、勝村、勝頼の時代




 


さて、磐井が亡くなり、葛子の時代となった。


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磐井の乱の翌年、529年3月に百済王下哆唎(たり)国守穂積押山を呼び出して加羅の多沙津をねだってきた。(押山は512年には哆唎国守と書かれている。)

理由はそれまでの航路は風波がひどいので朝貢の品々が濡れたり壊れたりするからというものだった。それを聞いた穂積押山は朝廷に奏上した。

その月のうちに、物部伊勢父根らが派遣されて港を百済王に下賜した。父根は数年前に伴跛(はへの)国に襲われて丸裸になり、百済の支援を受けた男だ。

この港の下賜を知って驚いたのが加羅の王だった。
勅使に、
「この港は倭国が官家(みやけ)を置いて以来、加羅が朝貢するための港です。どうして簡単に隣国に与えたのですか。最初に冊封した条件と違っています」
と言った。

勅使の父根らは加羅王の面前で百済に港を下賜するのは難しいと判断して大嶋に還った。そして、改めて別に録人(ふびと・下級役人)を派遣してついに百済に港を与えた。

加羅はこのために日本を恨み、新羅と同盟を結んで新羅王王女を娶った。王女との間には子供も生まれた。

新羅は王女を嫁がせる時、百人の従者を付け、諸国に分散させて新羅の衣冠を着せた。ところが、衣冠を新羅風に変えさせたことを知った(任那の王?)アリシトは怒り、使いを派遣して元に戻した。

新羅は面目を失って王女を取り戻そうとして、
「先に汝が嫁に迎えたいと言ったので許して嫁がせたが、こうなったからには王女を返すように」
と言った。

加羅のコホリチカ
「夫婦になった者をどうして裂こうとするのですか。子供もいるのに、捨ててどこに行かせるというのですか」
と言った。

こののち、(新羅は)刀伽(とか)、古跛(こへ)、布那牟羅(ふなむら)の三つの城を奪い、また北の国境の五つの城を奪った。



メモ こうして加羅の港は百済に与えられ、激怒した加羅は新羅と通婚したが、新羅の侵略を受ける結果となった。最後の一文はまたもや主語の新羅が削除されていたので、文脈から補った。

この時の倭国の外交政策はひどいな。やっぱり、穂積押山―大伴金村ラインかな。


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# by lunabura | 2019-02-11 19:58 | 磐井の末裔 | Comments(0)

7.磐井の乱 「磐井、葛子、勝村、勝頼の時代 」


磐井、葛子、勝村、勝頼の時代  7

磐井の乱


527年。
近江毛野臣が六万の兵を率いて新羅と戦おうとするのに、筑紫国造磐井が協力しなかったために、兵は中途で留まった。

これが磐井討伐に発展する。

これは変だ。磐井を討伐する間に任那の戦況は悪化するはずだ。

既に外憂がある時に国内で討伐作戦を採れば国力は削がれる。とても、ストーリーとして成り立たない。


しかし、討伐作戦は進む。

継体天皇大伴大連金村、物部大連麁鹿火、許勢(こせ)大臣男人らを呼び出し、磐井討伐の大将軍にふさわしい人物を尋ねた。

大伴大連は麁鹿火(あらかひ)の名を挙げ、全員が推奨した。

いかにも大伴金村の独壇場で、麁鹿火が当たりくじを引くように仕組まれていた。
金村が物部と磐井の勢力を同時に削ごうとする陰謀の匂いがする。


8月、あらためて麁鹿火に磐井討伐の勅命が降りた。

麁鹿火は観念したのだろう。

磐井について、「西の戎(田舎)のずるがしこいやつで、川や山を隔てていることを良いことにして、道にそむいている」と言い、続けて大伴氏が初代から天皇家を守ったことを称え、勅命を承った。

継体天皇は将軍の印であるマサカリを授け、褒賞として筑紫より西を授けることを約束した。そして、自らは長門(ながと)から東を取ることを告げたのである。


この両者の言葉には突っ込みどころが多い。

一つ目は、地理の問題。
麁鹿火の言葉からは、磐井とは川や山は隔てているが、海は隔てていないことが分かる。ここから、天皇の居場所は磐井とは陸続きだという説がでてくるのだ。

二つ目は、磐井戦後の褒賞として「麁鹿火には筑紫を与え、天皇は長門から東を取る」と言って、山分けを約束している。ここには豊(とよ)国の存在が欠落している。

豊の国から見て西が筑紫、東が長門なので、「東西」の起点は豊となるのだ。
福岡に天皇と金村らがいる地図しか描けないのである。

ま、突っ込みはここまでにしておいて。


麁鹿火は一年かけて軍備を進めた。

528年。継体22年の冬、11月11日、大将軍・物部大連麁鹿火は磐井と御井郡で戦った。

軍旗や軍鼓が向き合い、軍兵のあげる砂ぼこりが入り乱れた。

この戦いがすべてを決する事が分かっていたので、両陣営は決死の戦いをした。麁鹿火軍はついに磐井を斬って境を定めた。

12月、筑紫君葛子は父の罪に連座して殺される事を恐れ、糟屋屯倉を献上して死罪を逃れるように願い出た。

こうして、磐井の乱は終わる。


この御井郡とは久留米市御井町で、そこに磐井城があった。また明星山に磐井の山城があった。地元の伝承では磐井は山城を出て迎え討ち、一戦で敗北したという。

また、風土記では磐井は豊前に逃げたと伝えている。


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# by lunabura | 2019-02-10 20:21 | 磐井の末裔 | Comments(4)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25