ひもろぎ逍遥

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権現塚・円墳の頂上は360度の展望・もう一つの七支刀


権現塚
福岡県みやま市瀬高町大草
円墳の頂上は360度の展望
もう一つの七支刀

神功皇后伝承を追って、みやま市の最後の目的地、権現塚に行きました。

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田園風景の中に、見事な円墳がありました。
段付丸墓とか、茶臼塚とも言ったそうです。
市指定史跡で、(昭和56年2月23日指定)規模は径45m、高さ5.7m、周囲113.5m。

伝承によると皇后軍が田油津姫を討った時に、皇后軍に多くの戦死者が出たのを、
この地に葬った所と言われています。
他に、卑弥呼の墓とか、国造の墓という説もあるそうです。

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これは空から。この周囲には縄文時代や弥生時代の遺跡もあるとか。
どんな人が埋葬されているのでしょうか。


頂上に立つと360度の展望が開けました。

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この場所ってすごい。たった5.7mの高さでこれだけの展望が確保出来るのです。
太陽の沈む西には雲仙岳など長崎の山々。

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北の方には佐賀県の背振山~九千部山。

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南には熊本の山々。

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太陽の昇る方向には女山(ぞやま)や清水山など、おびただしい史跡や古墳が眠る山。
この山の麓では集落ごとに太陽を測量する日拝塚を持っている、
女王たちが統治した古き都。

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そして、北東には懐かしい高良山もくっきりと見えました。

もう一つの七支刀

吉田信弘氏によると、この山門の国には七支刀が存在していて、
戦時中にそれを鋳直そうとしたが、まったく歯が立たなかったという話があります。
その七支刀は行方不明だそうです。


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しかし、その話を裏付けるような、七支刀を持つ神像を祀る古宮が残っています。右手に七支刀を持つ神のその服装はまさに異国のもの。
(左の写真は、「みやま市文化財ガイドマップ」から。)

私もずっと前に拝見していて口外しなかったのですが、今ではネットでも本でも見られるようになりました。
七支刀は奈良の石上神社だけではありません。



山門という地名を留めるみやま市の史跡は大変多く、
まだまだ多くの研究を待つ古代の女王たちの都です。

地図 権現塚





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# by lunabura | 2011-09-26 12:50 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(6)

老松神社と蜘蛛塚・女王塚と呼ばれていた古墳ー被葬者は田油津姫か葛築目か


老松神社と蜘蛛塚
おいまつじんじゃ と くもづか
福岡県みやま市瀬高町大草311
女王塚と呼ばれていた古墳ー被葬者は田油津姫か葛築目か

田油津姫(たぶらつひめ)の古墳と言われる蜘蛛塚を目指しました。
老松神社の境内にあるというので、杜を探しながらです。
田園の中の集落の曲がりくねった道の所にありました。

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いかにも古社です。

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みごとな楼門が建っています。

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内側から。

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拝殿は新しく建造されたばかりのようです。


さて、目的の蜘蛛塚の方は一の鳥居のすぐ左にあり、その上に御堂が建っていました。

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石段の高みがそのまま墳丘の高さになります。
古墳の名は「蜘蛛塚」と言いますが、もともとは「女王塚」と言われていたそうです。

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御堂の真裏に廻ると墳丘の姿がまだ残っています。
雨が降ると血が流れると言われている事から、
石棺の中の朱が流れ出していると考えられています。

町指定文化財 蜘蛛塚(大塚) 瀬高町大字大草字大塚
昭和56年2月23日指定
この塚は、瀬高町大字大草字大塚の南東、老松宮入口に位置し、ここ大塚という部落の名の起りでもある。今は石室の中心部のみ残り、塚上に地蔵尊を祀ってある。昔は雨が降るとこの古墳から血が流れると言われていたが、これは石棺内の朱が流れていたのであろう。

伝説によると景行天皇の西征の時に、この地に朝廷に従わない者がいたので、天皇は之を征伐して首長を葬った所だとされている。又、土蜘蛛の首長田油津姫の墓であるとも言う。

この墳の南約18mの田の中に小墳があった。これも大塚といい、もと一緒の前方後円墳であったが道路作りの時、二分されたものと思われる。

大正二年春、田の中の小塚を崩してその上に新道が作られた。往時は女王塚と言っていたが 後世にはばかって大塚(蜘蛛塚)に改めたと言う。
瀬高町教育委員会

説明板を見ると、被葬者には二人の候補がありました。
一人は景行天皇に殺された首長で、葛築目(くずちめ)と言う名も伝わっています。
もう一人は神功皇后に殺された田油津姫です。

葛築目は男か女か
「葛築目」の「目」は「め」で「女」の可能性があるのですが、
蘇我の稲目と言えば「男」なので、男女どちらかは表記からは分かりません。
しかし、ここが女王塚と呼ばれていた事、子安観音が祀られている事から
被葬者はこのクニの女王の可能性が高いと思われます。

いづれにしろ、この古墳には「天皇家に殺された女王の記憶」が残されています。

またこの古墳が前方後円墳だったとすると、通説の論理で行くと、
この地域を支配するようになった畿内の権力者が権力を誇示して
前方後円墳を作ったという事になって、時代は下がります。

どうも、伝承と古墳の形式が合いません。

神功皇后の時代を古墳時代に引き下げるか。
前方後円墳の始まりを引き上げるか。(大胆すぎる?)
結論は将来の発掘を待たねばなりません。

同時代の人たちの古墳を見回すと、
国乳別命(くにちわけ)の前方後円墳(久留米市)の周りからは
弥生時代のものが出土してましたが、
仲哀天皇の古墳(藤井寺市)は5世紀後半の築造。
息子の応神天皇陵(藤井寺市)は5世紀初頭の築造と、親子で逆転しています。
まだまだこの世界は研究の途上にあるようです。

熊襲や土蜘蛛って誰なんだ?
そもそも、この戦いの発端は何でしたっけ?
そうそう、熊襲が朝貢しなかった事が始まりでしたよね。

日本書紀では「熊襲」については、鴨別(かものわけ)に攻撃させたら
おのずから降服したと、チョコっとだけ書いています。
流れからは不自然で、辻妻合わせに後で挿入した印象を受けます。

そこで、これまでに登場した国々の場所を書いて見ました。

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神功皇后軍に殺された王・女王たちを青色で書いてます。

関西で生れて関西で育った日本書紀の編者が考える熊襲の実態は、
羽白熊鷲や田油津姫など、「敵対した国々」を総合した漠然としたもののようです。

「土蜘蛛」とは、かなり早くから入植した渡来人で、
山の中で鉱山を掘っていた人たちで、中東系だから手足が長いので、
イメージから蜘蛛の漢字を当てられました。
田油津姫もそんな種族の誇り高い姫だったと思われます。

この田油津姫の国の呼び方を考えました。
ここは数年前まで山門郡だったので山門(やまと)の国と呼びたいとおもいます。

この山門の国の朝貢品は何だったのでしょうか。
香春岳は銅、羽白熊鷲は鉄だったので、この山門国も金属関係と予測しました。

手掛かりは、この神社の名前が老松神社という事にあります。
老松神社といえば菅原道真(すがわらみちざね)です。
もちろん平安時代の人なので、関係ないと思ったのですが、
道真公の祖は天穂日命(あめのほひ)で、熔鉄の神です。
もともとここは鉄の神が祀られていて、
のちに悲劇の道真公もまた祀られるようになったのでしょう。

ここは有明海と筑後川に近く、豊かな葦原だったので
スズ鉄の生産をしていた可能性があります。
そばの女山(ぞやま)あたりの鉱物なども調べると全容が見えてくるでしょう。

るなの推理コーナー
景行天皇は帰順しなかった山門の国の女王・葛築目(くずちめ)を殺して、鉄製品を朝貢させるようにすると、それを支配、管理するために子供の国乳別命を近くの高三潴に封じた。国乳別命は地元の豪族と結びついて水沼(みぬま)の君の祖となる。

一方、葛築目を殺された山門の国では、次の王、もしくは二代目かに香春岳の田油津姫を迎えて女王か妃にした。

こうして再び力を取り戻した山門の国は国乳別命に朝貢するのが理不尽で、朝貢を取りやめた。

その報告を国乳別命から聞いた仲哀天皇は下関に遷都して、景行天皇が残した筑紫の支配権を確立するために乗り出した。

こんな感じかな…。
手に入ったコマを並べると、こんな仮説が生まれました。

調べて行くと、この老松神社はクニの聖なる場所というのが分かって来ました。
山門国の都造りについて興味深い記事があったので、資料が揃ったらまた報告します。

さて、続けてもう一つ有名な権現塚古墳に行きましょう。

地図 蜘蛛塚・老松神社






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# by lunabura | 2011-09-25 16:35 | 老松神社(各地) | Trackback | Comments(0)

車塚古墳・皇后軍の陣営地に立つと、正面に女山神籠石があった


車塚古墳
くるまづか
福岡県みやま市瀬高町大字山門字藤の尾
皇后軍の陣営地に立つと、正面に女山神籠石があった
 

神功皇后軍と田油津姫軍との戦いは、いくつかの資料を読み合わせると、
みやま市(旧山門郡東山村)の「草場」という所だという事が分かりました。
そこには「車塚」があると言います。
古墳だとしたら、地図を手に入れないと辿り着かない。

地名も変わっているので、市立図書館と歴史資料館に立ち寄って
観光案内資料をもらって、場所を教えてもらいました。

文献資料のひとつ。
神功皇后は肥後の熊襲を討たんため、山門郡大和村の高尾の地(鷹尾神社近く)に上陸された。

当時、土蜘蛛の田油津姫(たぶらつひめ)は女山(ぞやま)に籠り、肥後の熊襲と提携して、南筑一帯の良民を苦しめ、勢いはなはだ盛んであった。

皇后はまず之を血祭りに挙げんと考えたまい、高尾より車駕を東方に進められ、現今の東山村の藤尾に車駕を留められた。今日、藤尾に車塚という塚があって、先ごろ、古銭がこれより出土したという。

車駕を留められた所の意味で車塚の名の別名・車坂という地名も起きたのである。
「皇后軍の高尾の地」とは、前回行った鷹尾神社のことです。
「田油津姫が籠る女山(ぞやま)」は「女山神籠石」がある所です。

幸いにも車塚古墳は史跡として保存されていて、観光マップにも載っていました。
皇后が「車駕」に乗ってきたので「くるまつか」「くるまさか」になったと伝えています。

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これが鷹尾神社から車塚古墳までの地図です。
戦場になった所は「くさば」と言い、「いくさば」が草場になったという話があります。

では古墳へ向かいましょう。
瀬高駅の裏から東へ向かい、九州新幹線のガードをくぐると人家があり、
すぐ左に入って、また右に行くと古墳があります。

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水田の中にある古墳の様子を見ると、前方後円墳の形が残っています。
これは前方部からの撮影です。

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こちらは後円の方。カーブが見えます。

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墳丘の上の鏡堂です。
漢鏡が三枚出土してここに安置してあったそうですが、行方不明になったそうです。

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石がいろいろと置いてありました。農作業中に発見されたのでしょうか。
土器の破片も洗って置いてあります。

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その中にはまん丸に近い石が。
御霊石のような気がしてならなく、半分埋もれかけていたのを上に置きました。

説明板がありました。
町指定文化財 車塚
 この塚は瀬高町山門藤の尾の東北に位置し、南北約55m、東西27m、高さ3.5mの前方後円墳で、明治22年頃までは周囲に3.6mの堀があり、往時は倍塚が左右にあったと聞くが今はない。

享保20年(1735)に漢鏡3面が掘り出され、この塚の中央に収められていたが、今は破片すら残っていない。塚の南西部から弥生中期の合わせ甕棺が多数出土している。(昭和61年調査)。

又、塚の南東部のたて穴からも弥生末から古墳中期にかかる土器が出土している。したがってこの古墳は3世紀末から4世紀初めにかけてのものと考えられる。
  瀬高町教育委員会

漢鏡が失われて、時代が分からないのは残念ですが、
南東部のたて穴から弥生末~古墳中期の土器が出土したのは、
ここで祭祀が行われたのではないかという事です。
これらの事から、ここは海ではなかった事も分かりました。
周囲にも沢山の古墳があり、縄文遺跡もあって、早くから栄えた所です。

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右は上空からの車塚古墳。
古墳の中で並んでいる丸い物は植栽の桜です。

もう一つ資料を見てみましょう。

草場古戦場 
神功皇后は田油津姫を討つ時に、有明海から北上して矢部川にはいり、高尾嶋(大和町鷹尾)に上陸された。それから多くの部下とともに藤尾部落に着き、軍議をしていた時、賊が攻め込んで来て大きな戦いになった。

朝廷軍は突然の攻撃に驚いたが、すぐに反撃に出て賊軍を打ち破った。
伝説によるとこの地は牧場であったといわれ「牧場」を略して「草場」という説と「戦場」(いくさば)を略して「草場」(くさば)という二つの説がある。
「清水小学校の創立百周年記念誌」


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古墳を後にして次の老松神社に向かおうとすると、
正面に女山神籠石の山が見えました。
まさに皇后軍が見据えた敵地そのものです。
山の手前、見えている範囲が「草場」で、戦いがあった所と伝えられています。

(つづく)
地図 車塚古墳







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# by lunabura | 2011-09-21 22:09 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(5)

鷹尾神社・皇后軍をハムヤ舞とブリ料理で迎えたムラ人たち


鷹尾神社
たかおじんじゃ
福岡県柳川市大和町鷹ノ尾
皇后軍をハムヤ舞とブリ料理で迎えたムラ人たち

筑後川流域をさらに南下して、柳川市へ。
柳川と言えば北原白秋の古里です。
彼の詩の「ギヤマン」の不思議な言霊の響きに触れて
異国情緒に憧れた子供のころを思い出しました。

有明海をゆりかごとするこの町に異国からの船が直接乗り付けられるのは
今も古代も変わりません。

柳川には何度も行ってるのですが、目的が違うと全く別の町に見えます。
今回は神功皇后のゆかりの鷹尾神社に参拝するのが目的です。

この鷹尾神社は田油津姫攻撃の時の上陸地で、大本営地とも言われています。

今回の筑後川流域の探索には、私も無駄のないコースを練って南下したのですが、
はからずしも皇后の進軍ルートを辿っている事に気づきました。

古代の船でも現代の車でも、人が考える事は、そう変わらないのですね。

久留米市大善寺から大川市、柳川市と移動すると、
田油津姫の拠点をターゲットとして正面を避けて、
半円を描いて側面から進軍しているのが肌で分かります。
弓頭神社国乳別命と挟み打ちをしているのかも知れないな。

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この鷹尾神社に皇后の足跡は残っているのでしょうか。

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神社は県道に面していましたが、
昭和時代にこの道路拡幅の為に後ろに下がったという事です。
その時移動した石の鳥居が大和町の文化財に指定されていました。

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鳥居をくぐるとすぐ脇に「神功皇后行啓遺跡」と石碑がありました。

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大きな楼門があって、狛犬と神像が中にあります。

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これは珍しい木彫。赤一色の狛犬と赤と青の二色がペアでした。
尻尾がバルカットのように広がったデザインなので、どっしりとした印象を与えます。

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朝の竜巻や雷雨も治まって日が差して来ました。

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扁額に八幡宮と書いてあります。
祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后です。
平安時代貞観11年(869)に清和天皇の命によって祭られたと社伝にありました。

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平安末期には、筑後一の宮「高良神社」の別宮(べつぐう)だったそうです。
社の造営や修造は、朝廷や鎌倉幕府などの下知で行われたというので、
格別な宮だったのが分かります。

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本殿の右脇に小さな摂社がありました。

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その後ろに神功皇后の腰掛石がありました。
神功皇后は子安の神として崇敬されています。
この宮には「風流」という舞の神事がある。
神功皇后が筑前の香椎の宮より、筑後の宮に移る時、時の漁人は皇后を海上にお迎えして、鰤魚(ぶり)を献上して舞曲を奏した。これが今日伝わる当社の反耶舞である。 尚、皇后の上陸地は当社から4,5町の道祖の御瀬という所で、そこには猿田彦神と海龍神を祭る小祠がある。
郷土研究筑後 一部改変


神功皇后の記憶は、反耶舞・破牟耶舞(はむや舞・はんや舞)にも残っていました。
西風流といわれ、「ヤーハンヤーイヤオワオンハー」とはやしながら
太鼓と笛を鳴らすといいます。
歓迎して舞曲を奏するほどなので、
田油津姫のクニとは、よほど対立していたのでしょう。

伝承ではここからは車駕に乗って行ったと言います。
「車駕」という言葉はこの大和町から使われ始めます。
「くるま」の事です。
車に乗ったとすると、道路が整備されていなければなりません。

くるまが弥生時代にあった?

韓国について『魏志倭人伝』では車がないように記述されていますが、
当時の車が出土してしまっています。
馬と車については『魏志倭人伝』を妄信してはいけないな~。
中東や中国大陸から逃げて来た貴人たちが、地元での暮らしを
再現しようとした可能性を考慮する必要が出て来ました。

この柳川も伝承どおりだとすると、すでに大陸から車が直接入っていて、
港と都邑の間に数キロ程度の、馬車が通る道が狭い範囲で
整備されていた可能性を考えてもよいのかもしれません。

この大和町から田油津姫の陣営まで直線であと8キロ。
私たちも車で田油津姫の伝承を追って同じルートで向かいました。

地図 鷹尾神社 みやま市





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# by lunabura | 2011-09-20 16:45 | (タ行)神社 | Trackback | Comments(3)

風浪宮(1)たらしーおきながたらし姫

風浪宮(1)
ふうろうぐう
福岡県大川市酒見726-1
たらし

日本三大暴れ川の一つである筑後川の下流にある風浪宮に行きました。

風浪宮のある大川市と言えば、古賀政男を生み出した町です。
♪ まぼろしの 影を慕いて 雨に日に 月にやるせぬ 我が想い …
♪ 一人酒場で 飲む酒は 別れ涙の味がする …

彼の奏でる三拍子のメロディーは日本人の心をあっという間に掴みました。

この三拍子のルーツは遠い中東にあり、
韓半島を経て住吉族が日本に伝えて来たものだそうです。

DNAに眠る遠い記憶が呼び覚まされて琴線を震わせるのでしょうか。
初めて聞いても懐かしい三拍子は古代の深い地層から蘇ったものでした。

そのリズムを「たらし」と言ったと、真鍋大覚氏は伝えています。

息長足姫(おきながたらし姫)。これは御存じ、神功皇后の名前です。
「たらし」には「足・垂」という字を当てますが、

♪ ま~ぼ ろ~し の~ か~げ~を し~たい~て 

のような嫋々としたリズムの三拍子を指すと言います。
「嫋々(じょうじょう)」とは音や声が細く長く続くさまを言います。

さてさて、前置きも「長ったらしい」ものになりましたが、
この古賀政男の記念館から二キロ程の所に風浪宮はあります。

この風浪宮の始まりは、
息長足姫(神功皇后)がここに上陸した時からだと伝えています。

では神社に参りましょう。

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これはおっきい。駐車場は長い参道の途中にありました。

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まっすぐに石畳みが続きます。

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これはまだ神門。

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ようやく拝殿に着きました。この拝殿は鎌倉時代のものです。
屋根のラインが直線を意識していて、力強いです。

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赤と緑の色彩が龍宮を思わせます。
正面の三座は少童命(わだつみのみこと)。表、中、底の海の神々です。

御由緒 称号 風浪宮
縁起
神功皇后の三韓御親征のみぎり、少童命の御神徳による開運と航海安全の御加護とを多として、皇后の勅命により時の海上指揮を仕え奉った阿曇磯良丸をして少童命を祀らしめ、承和年間に左右三神を配して、風浪大権現、風浪将軍、のちに風浪宮と称号す。
祭神 住吉大神 息長足姫命 少童命 高良玉垂命

神功皇后が三韓攻撃から戻る時に助けてくれた海神の少童命に感謝して、
ここで安曇の磯良に祀らせたのですね。

そののち、神功皇后なども一緒に祀られるようになりました。
承和年間とは834年~で、平安時代です。
 
(つづく)

「影を慕いて」を知らない世代があるかも…?
米良美一 の「影を慕いて」で一服どうぞ
http://www.youtube.com/watch?v=dGleWbHHiFU&feature=related


地図 風浪宮





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# by lunabura | 2011-09-17 14:15 | 風浪宮・ふうろう・大川市 | Trackback | Comments(0)

風浪宮(2)あずみー阿曇磯良ー安曇目

風浪宮(2)

あずみー阿曇磯良ー安曇目

参拝を済ませて脇をみると、安曇の磯良がこんな所に!

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で、でかい。
これは2mはあろうかという巨大な木彫です。まさか、ここで再会するとは。

志式神社の神楽で出会った時は120万歳の翁の姿、
高良大社では絵巻物の中で亀に乗って魚を釣って、
志賀海神社では、白い布で顔を隠していた。
ここでは中国の王様のような服装だけど、
着物をよく見ると、ワカメや亀なんかがちゃんとくっついている。

やっぱり海の底に住んでたんですね~。
フジツボや海藻がくっついて人前に出るのが恥ずかしくなった神です。

さて、何故彼がここにいるのか、説明板がありました。(読みやすく改変)
 阿曇磯良丸の像
磯良丸少童(わだつみ)命を祖神とする海洋族の酋長で、神功皇后が三韓に御親征の時、志賀島に召されて軍船を整え、海上指揮を仕え奉りて、無事大任を果たした航海熟達の海士(あま)であります。

太平記に見る磯良丸は龍宮に住んでいたが、神功皇后のお召しに従って大海亀にまたがって香椎が浜に出現し、皇后の三韓御親征に干珠満珠を捧げて従軍し、御助成をしたと述べられています。

この像は磯良丸が多年海底の宮に住んでいたので、身体中海藻や魚貝類がとりついていたという魁偉なる風貌を彫ったものであります。
因みに、阿曇史久 現宮司は直系の67代目を数えます。

これはもうこのブログではすっかりお馴染みの話ですね。

安曇族エジプトあたりから船で来た海人族で、
外洋を通って倭国に渡る航海技術があったので、彼らを味方に付ける事は、
韓と倭国の間の制海権を手に入れるに等しい事だったと思われます。

安曇磯良は度重なる説得で、ついに
大型船を出して、諸船の水先案内をして倭国に勝利をもたらしました。

戦ってみると、三韓が無抵抗だった理由には、
この安曇族の存在は大きかったと思います。

凱旋して帰国する時に磯良の船は唐津ルートを採って、
長崎の方を廻って有明海に進入したと考えられます。

この時代は大善寺までが入り海だったので、
大型の海洋船でも、そのまま大善寺まで乗り付ける事ができました。
その時の話が大善寺玉垂宮のクスノキに船を係留したという話になっています。

この船には弓頭大将となった国乳別命も乗っていて、
送り届けるのも目的の一つだった事でしょう。

そして思い出すのは、志式神社に祀られた哀しい神々、稚武王十域別王
仲哀天皇の兄弟ということで、王位継承権を持つために排除されて、
それぞれ唐津や平戸に降ろされたと考えているのですが、
この磯良の船に乗っていたと想像しています。

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稚武(わかたけ)王は唐津で降ろされ、十域別(ときわけ)王は平戸で降ろされました。

そして神功皇后は?
この風浪宮に上陸したとなると、ヤバくない?
そろそろ宇美八幡宮あたりで出産する頃。
有明海を通廻りする余裕も時間もないはずなのに。

しかし、この宮には神功皇后の名前が残っている。
HPで縁起を見ると、風浪宮に11月29日となっている。
出産は日本書紀では12月14日。ぎりぎりセーフか。

ただ、日本書紀の妊娠期間の計算が間違ってるので、
当てにならないのは、どこかの神社で計算した通り。

とりあえず、ここも帰着地候補の一つとして、先々考える事にしましょう。

ここまで来て分かった事は、神功皇后の移動について伝承が二つ混じっている事。
田油津姫を攻撃するために南下した時と、
安曇の磯良の外洋船に乗って北上した時。
筑後地方にはこの二つの伝承が混在しているので、よく見分けるべし。

この風浪宮に来て分かったのは田油津姫攻撃のルートではなかったという事。
収穫は大きかった。

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安曇の磯良に戻ろう。
彼は国乳別命を送り届けることで、結果的に有明海の湊の支配権を手に入れた。

それを筑紫全体で見ると、彼は中央を流れていた「ありなれ川」(中つ川)の
北と南の河口の湊を押さえたことになる。

海を渡るための大型船は筑後川は通れない。
底の浅い小型舟を利用しないといけない。

大善寺玉垂宮に彼の船が置かれた事を考えると、
安曇の磯良たちは小型の船に乗り換えて、
そのまま北上して高良山に向かったと思われる。

小型舟を操縦するのは安曇族ではない。別の氏族だ。
干満の差が激しいので、太陽暦と陰暦を読み取れる船人たちだ。
遡上する時は満ち潮と帆を利用する。
小郡の端間(はたま)で、また船は小さくなる。

筑後川に特有の満ち引きに詳しい氏族がいた。
彼らを国栖(くにす)と言う。葛生(くず)とも書く。
日田では玖珠(くす)と言った。

安曇目(あずみめ)

イスケヨリ姫はその大久米の命が目の周りに入れ墨をして鋭い目に見えるのを見て、
変わってるなあと思って、歌にして、返事をしました。
 「つばめ、せきれい、ちどり、ほおじろ。それにあなた。
どうしてそんなに縁取りのくっきりとした目なの。」
                              古事記より
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阿曇=安曇=吾瓫=アントン
磯良=磯羅=イソラ
                       (つづく)




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# by lunabura | 2011-09-16 20:27 | 風浪宮・ふうろう・大川市 | Trackback | Comments(17)
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