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ひもろぎ逍遥

こっち向いて♪ 真冬


こっち向いて♪

真冬



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植込みが揺れると思ったら、小鳥がいたよ。
背中のラインがきれいだね。


ねえ、こっち向いて。








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おお、虫を取ってる。










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ほっぺが白い。
君の名は?









こっち向いて♪ 真冬_c0222861_2034660.jpg

メジロもいたよ。
つがいかな。
サザンカの蜜を吸ってる。

ねえ、こっち向いて。






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おお。
不思議な顔だね。


真冬なのに、寒くないんだね。


枝にピントがあってるなあ(;'∀')

しかも、部屋から窓越しに撮る、ずぼらさ(^^♪




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# by lunabura | 2018-01-28 20:10 | にっき | Comments(0)

深き山里より下りて 美奈宜神社(寺内)



深き山里より下りて  

美奈宜神社(寺内)







深き山里より下りて 美奈宜神社(寺内)_c0222861_20404016.jpg

神功皇后が天神地祇を祀って祈った喰那尾神社から
数度の遷宮を経て現在地に鎮座した美奈宜神社。










深き山里より下りて 美奈宜神社(寺内)_c0222861_2041129.jpg

その古社の風情は格別だ。
それでも秋月種実の頃に鎮座したというので、意外と新しい。

朝倉に来てからはバスハイクの皆さんの滞在がずいぶん長くなった。
それぞれに心の中で対話しているのだろう。

苔むした境内の建造物たち。

立体的な境内の地形。










深き山里より下りて 美奈宜神社(寺内)_c0222861_20412120.jpg

ずらりと並ぶ祠に知った社号を見つける。

志登神社がここに。
織幡神社もここに。


そして、パズルのカケラがはまり、意味を伝えてくる。

祭神と歴史が交錯する。










深き山里より下りて 美奈宜神社(寺内)_c0222861_20414463.jpg

宮地嶽神社だけが格別高いところに鎮座していた。

この意味は?
そう、斉明天皇も朝倉に来て翌日には傍の宮地嶽神社で祈願した。

朝倉の宮殿を準備したのは安曇族だろう。
白村江の直前まで、朝倉の支配層にいたのだろう。

そんな事を考えていると、
「これは十字架?」
という声に誘われて見に行く。









深き山里より下りて 美奈宜神社(寺内)_c0222861_2042560.jpg

すでにアンドレアス十字を砥上神社で見つけていた。
ここは、正十字。ケルト十字架にも近い。
隠れキリシタンがいたのかもしれない。

宣教師が入って来た時、海の人たちは先祖の言い伝えの断片をその言葉に聞き、
キリスト教徒となった人もいるという。
海には境がない。




さて、この宮は仁徳天皇の勅命で祀られたという。
神功皇后の孫。
仁徳天皇の名を最近はよく耳にする。
そこにも光と影があるのだろう。









深き山里より下りて 美奈宜神社(寺内)_c0222861_2043270.jpg

ほら、桜の枝が赤くなり始めた。
ここは、あ・さくら。だ(^^♪











深き山里より下りて 美奈宜神社(寺内)_c0222861_20431930.jpg

川の上流に寺内ダムがある。
この川はダムが流木を防いでくれた。


『神功皇后伝承を歩く』上巻51 神功皇后は戦勝の奉告をした





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# by lunabura | 2018-01-26 20:45 | バスハイク | Comments(0)

神功皇后の刀剣の銘を残す太刀八幡宮・朝倉



神功皇后の刀剣の銘を残す太刀八幡宮

朝倉



神功皇后軍は羽白熊鷲討伐後、
寺内ダムからの佐田川(荷原川)を下っていきます。

その足跡通りにバスを進めると、田園に出ました。




神功皇后の刀剣の銘を残す太刀八幡宮・朝倉_c0222861_20465929.jpg

その中に杜があって、遠方からも太刀八幡宮と分かります。









神功皇后の刀剣の銘を残す太刀八幡宮・朝倉_c0222861_20473078.jpg

地名は朝倉市大庭(おおば)ですが、
かつての小字には乙王丸(おとうまる)という名がついていました。



この「乙王丸」こそが神功皇后が奉納した太刀の銘だったといいます。










神功皇后の刀剣の銘を残す太刀八幡宮・朝倉_c0222861_20475326.jpg

今も刀を埋めた場所が伝えられています。


皇后が剣を抜いた所は「内抜剣区」といいます。
読み方は伝わっていませんでした。場所も分かりません。

そのすぐ南に荷原川が流れていますが、
そこから300mほど南の地域が「塗器」(ぬるげ)と言い、
剣や槍などに漆(うるし)をぬった事が地名の由来になっています。

今は田園です。
そこから東南部に「徳次」(とくつぎ)という地域があり、
「磨剣」(とぐつるぎ)から変化したといいます。
刀剣を磨いた所ですね。

川の近くで刀剣を砥いで磨き、漆を塗った。
これがそれぞれに小字名で伝わっていたのです。
漆はサビ止めなので、この刀剣が鉄と分かりました。

本に地図を載せるとき、場所が分からず、
思い切って朝倉観光協会にお尋ねしたら、
二か所を教えていただけました。

古代の場所を特定するのは簡単ではないので、とてもありがたかったです。
それを地図に反映させています。


現地は田園で、減反した所に樹木の苗が美しく紅葉していました。

ところが、荷原川の流域の田には川石が広がっていました。
夏の洪水の土石が田を覆っているのです。

現地はまだまだ大きなプロジェクトの力が必要なのが分かりました。

神功皇后の時代は流域の定まらない広大な川原が広がっていたことでしょう。

さて、神功皇后が何故、乙王丸を奉納したのか。
それは三女神にささげるためです。
三女神は剣から生まれた女神たち。
戦の勝利を願ったことが分かります。
このあと、皇后軍は再び戦いに向かいます。
それは筑後川の下流域に逃げた田油津姫を討つためでした。

このあとバスで太刀八幡宮から南2キロほどの福成神社を目指しました。
そこも三女神が祀られています。
神功皇后はここでも勝利の祈願をしたのですね。

筑後川の三女神は「水沼三女神」。
三女神を祀る聖地ですから、水沼の里といえます。
水沼の里はそれはそれは広大です。
バスハイクは水沼の里めぐりを次回にわたってすることになりました。



20180125

下巻52 太刀八幡宮 神功皇后は田油津姫攻撃に向けて太刀を奉納した





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# by lunabura | 2018-01-25 20:50 | バスハイク | Comments(0)

武内宿禰VS羽白熊鷲 朝倉の戦い



武内宿禰VS羽白熊鷲 

朝倉の戦い



朝倉は神功皇后軍の陣営地が神社となってかなり残されていたので、
二回に分けてのバスハイクでした。

秋月八幡宮は羽白熊鷲の聖地と思われましたが、
そこに皇后軍が陣営を張ったということは、
すでに羽白軍は逃走した後。





武内宿禰VS羽白熊鷲 朝倉の戦い_c0222861_2016169.jpg

その後をバスで追っていくのが理想でしたが、
日を改めて、二回目は水の文化村を目指しました。







武内宿禰VS羽白熊鷲 朝倉の戦い_c0222861_201772.jpg

そして、玄関前を通過して矢埜竹神社へ。
そこは羽白熊鷲たちに娘たちをさらわれて苦しむ里でした。

神功皇后が来た時には「もつそ汁」という葛の団子汁を差し上げたといいます。
皇后軍はここで矢の柄の補充をしました。

実は取材した時、この宮の祭神も歴史も分からなくて
分からないまま挙げることにしていたのです。

ところが、直前になって編集者がここの伝承を書き取った本を見つけました。
それは閉店前日の古書店にあったのです。
偶然にその本が手に入り、記事を全面的に書き換えました。

ダム建築に当たって、地元の伝承を掘り起こす作業が行われていたのです。
本の中に掲載されていた写真で、神功皇后の腰掛石が分かりました。

自分の写真を見ると、偶然に写りこんでいたのです。

そし、今回行ってみると、腰掛石は祠の中に移動して祀られていました。
神社の説明版も掲げられて、歴史が分かるようになっていました。

この矢埜竹神社の元宮は別の所にあったのですが、
水害で流されて、神託によって、現在地に決まったといいます。








武内宿禰VS羽白熊鷲 朝倉の戦い_c0222861_20174033.jpg

さて、そのあと、私たちは喰那尾神社に向かいました。
山道の参道を通っていきますが、ここも新たに整備されていました。

神功皇后はここで天神地祇を祀り、
武内宿禰が戦略を練ったといいます。

この狭い山頂のようすから、側近だけが来たことが分かります。
この宮も風水害のために下に下にと移動して美奈宜神社になりました。
そして、中宮はダムに掛かってしまったといいます。

ダムにはもう流木は見られませんでしたが、
この地域は常に水害の危険にさらされていることがよく分かりました。









武内宿禰VS羽白熊鷲 朝倉の戦い_c0222861_2018126.jpg

羽白熊鷲の終焉地は急な崖だったのかもしれません。
その向こうの山々が幻想的でした。


どこもどこも急な斜面だらけの中、
この付近は平らな頂上部だったようです。
ここに羽白熊鷲が逃げ込んだのは、
最終的な砦でも、あったのかもしれません。



最後は皇后軍の放った矢で討たれました。
その飛距離が長かったので、地元の人は不思議だと言われ、
私は弩だったのだろうと考えました。

それは豊浦宮に秦の始皇帝の末裔が亡命してきたとき、
きっと朝貢品に入っていたと思い、弥生時代の弩を探すと、
出雲から弩が発見されたのと出会ったのです。

武内宿禰の率いる皇后軍は精鋭隊だったようです。
武器は石器ではありません。
刀は鉄剣でした。
その証拠を探し求めて、「漆」を「塗」ったという地名に出会いました。

こうして、不思議なことが続いて
矢野竹で起こった歴史を掘り起こすことができたのです。

あいにく、羽白熊鷲の墓の跡に建物が建ったのが分かったのは、
建築後の後の話でした。



羽白熊鷲は弥生時代の邑の王だったのですね。

付近には「荷」がついた地名がいくつかあります。
原料を抱えて運び込み、武器生産をしていた一族だったと考えています。




<20180123>

『神功皇后伝承を歩く』
上巻48喰那尾神社 神功皇后が先勝祈願をして陣を敷いた
  49矢埜竹神社 皇后軍が矢竹を刈り取った
  50羽白熊鷲塚 羽白熊鷲は矢に射られて死んだ
  51美奈宜神社(寺内) 神功皇后は神々に戦勝の奉告をした



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武内宿禰VS羽白熊鷲 朝倉の戦い_c0222861_15184581.gif

# by lunabura | 2018-01-23 20:20 | バスハイク | Comments(0)

夢の一つが





賀茂氏の資料作りのラストスパートです。
ラストに来て、シンクロが始まりだしました。
それでもって、ミッシングリングが繋がったのです。

ずっと漠然とした世界がこれほどクリアになるとは。

神社縁起と真鍋と古代中国の歴史。
渡来人たちが九州に来て、葦原を「ささら舟」で渡って蹈鞴を始める。
糸島、安心院、筑後、熊本。
そこに残る営みの断片。

断片の意味は真鍋が教えてくれた。

思いがけず、一つの民の歴史が描き出されました。

歴史カフェで早速、話が出来るのが嬉しいですし、
一度では話し尽せないストーリーでもあります。

ようやく願っていた夢が一つ、叶いました。

このパターンを手にして日本を回れば、かなり応用が利くような世界。

豊葦原、すなわち豊かな葦原の物語。
葦は稲ではない。
葦は葦。
真実が語り出す。

<20180122>





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夢の一つが_c0222861_15184581.gif


# by lunabura | 2018-01-22 23:13 | にっき | Comments(2)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25

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