ひもろぎ逍遥

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白山神社・菊理姫はここを通って、加賀に行ったというが


白山神社
福岡県粕屋郡久山町
菊理姫はここを通って、加賀に行ったというが

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白山神社は伊野皇大神宮の峰続きの白山の麓にありました。

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丘の上に向かって石段が続きます。

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二段構えの石段を登ると、丘の頂上らしき広い境内に出ました。

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地元の氏神さまらしき簡素な趣です。

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拝殿も昔の姿のまま、風がここちよく過ぎて行きます。
ここに来れたことに感謝して参拝。

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神殿です。

白山神社は日本各地にあるのですが、ここには
「菊理姫は帰化神で、この久山町に来てから加賀に行った」
という伝承があるというのです。
確かに韓半島から来たとしたら、筑紫に上陸してから加賀に行くのは
妥当なルートで、他の帰化神たちも同様な歴史をたどるのですが、
今回はその背景を知るための知識を手に入れたいと思います。

まずは、この神社の前にある、説明書きを見てみましょう。
拝殿は大正9年(1920)、本殿は昭和2年(1927)の建立です。それ以前、白山神社は白山山頂付近の花ノ木原にありました。

山頂付近には延享4年(1947)銘の石製の祠があり、現在も「上の白山さま」として信仰が続いています。現在の祭神は五十猛神ですが、近世には白山権現社として、菊理姫神(くくりひめ)、イザナギの命泉道守神(よもつちもり)を祀っていたようです。

白山は「首羅山」とも呼ばれ、伝承では天平年間の開山とされます。『筑前国続風土記』には、むかしは大社で、白山頭光寺泉盛院を社僧とし、350もの坊がありましたが、天正年間にすべて焼亡したと記録されています。現在も山内には坊跡や堂宇の跡が随所に残り、当時の繁栄の痕跡をよく残しています。

毎年11月には大祭が行われ、大晦日から元旦には獅子舞が奉納されます。
  境内神社 山ノ神社(大山祇神)

本宮は白山山頂付近の花ノ木原という所にあり、「上の白山さま」と呼ばれているので、
ここは下宮に当たるようです。

祭神が変遷しています。今は五十猛神ですが、
かつては菊理姫神、イザナギの命、泉道守神(よもつちもり)でした。

菊理姫とイザナギの命について、日本書紀のあらすじを見ましょう。
イザナギの命の妻は日本の国土と自然の神々を生み、最期に火の神を生んで亡くなった。イザナギの命は妻を黄泉の国に追って行って、戻って来るように頼むが、妻は黄泉の国の食べ物を食べてしまったために戻れなくなっていた。
しかし何とかならないかと懇願する夫のために、妻は黄泉の国の王に尋ねに行く事にして、「その間、決して見ないで下さい」と言ったが、イザナギの命は死体を見てしまって逃げ出した。

妻は夫を追って黄泉比良坂に着くが、イザナギの命は岩で塞いで絶縁を言い渡す。妻は「いとしいあなた。そんな事をするなら、あなたの国の人々を一日に千人くびり殺します。」と言って、言い争いになる。その時、菊理姫がアドバイスをしたので、イザナギの命は納得する。

有名な黄泉比良坂の神話ですが、菊理姫が登場するのはここだけです。
泉道守神の神はこの黄泉比良坂を守る神だと思われます。
この神社の三柱の神はこの神話を背景とした神々でした。

もし、この菊理姫が伝承どおりに久山の白山から、加賀の白山に移動したとすると、
加賀の白山ではどのような伝承を伝えているでしょうか。
白山開山伝承
泰澄(たいちょう)は両親とも帰化人系で、14歳の時に霊夢を見てから、越知山で修業を始める。越知山から白山を眺めていた泰澄は霊亀2年(716年)白山神の霊夢を見て白山登拝を決意。翌養老元年(717)にいよいよ山に入り、白山神を感得する。養老4年以降、多くの行者が白山に登拝するようになった。
(修験道辞典を簡約)

加賀の白山の開山が717年。
この久山の白山の開山は天平年間(729~749)。
すると、加賀の方が古い事になります。

ところが、久山(ひさやま)町誌を見るとさらに古い話が載っていました。
創立の由来は明らかでない。伝説では聖武天皇の天平4年(732)3月、僧源通勅命を奉じて社殿を建造し、ニ世源信を経て代々盛んになったとされている。

660年(661年の間違いか?)、斉明天皇が朝倉の宮で崩じられたとき、僧道照が須良山に庵を結んで日夜その追弔に精進した。そのころ難波某が須良山に鎮護国家の道場として300坊を建てて、道照に帰依し、坊の僧侶を白山権現社の社僧とした。社僧の寺院の総号を白山頭光寺泉盛院と号し、座主の坊を大石坊と言い、天台宗に属した。―略―
特に皇室の安穏・国家鎮護の祈祷をしたと伝える。

社殿が最初に出来たのは732年です。聖武天皇の勅命ということなので、
大変重要な神社だった事が分かります。

そして、驚いたことに661年の斉明天皇の崩御のあとの追弔が
ここで成されたと言うのです。(崩御については恵蘇神社に書いています。)
ここは道照を中心とした大きな仏教の道場センターだったのです。
祭祀の内容も皇室や国家の安泰を祈るものでした。

時間的な変遷を見る限り、
祭祀に於いては久山の白山の方が早かった事になります。
伝承で遡れるのはここまででした。

この久山の白山神社は永禄12年(1569)の大友・毛利両軍の立花城における激戦と、
天正14年(1586)の薩摩勢の兵火にかかってすべて焼失しました。
再興ならず、今では氏神さまのようになっていますが、
もともとは朝廷に関わる神社だったのですね。

さて、道照が出て来ました。この僧侶についても押さえておきましょ。
道照(道昭)
遣唐使として入唐し、我が国に初めて法相宗を伝えたとされる。舒明天皇元年(629)河内国丹比郡に生まれた。姓は船連氏。
『続日本紀』によると、白雉4年(653)勅命により入唐し、玄奘三蔵に教えを受けて帰朝。本邦法相宗の初伝といわれ、天智天皇元年(668)より元興寺東南隅に禅院を建てて住んでいたが、後に諸国を周遊し、井戸を造り橋を架けるなど社会事業をした。文武天皇4年(700)に没し、我が国初の火葬となった。
(修験道辞典を改変)

これによると、道照は遣唐使として訪唐し、あの三蔵法師に会って、戻って来たあと、
そのままこの久山の白山に留まった事になります。
難波と言う人が僧侶の道場を建てて、道照に帰依しました。
道照は唐で学んだばかりの法相宗の教えを説いて、多くの僧が集いました。
そんな最中に斉明天皇の崩御の知らせが飛び込んで、その法要をしました。
(思いがけず、恵蘇神社とのつながりが出て来ました。)

道照は故郷に帰ってから、しばらくすると社会事業を始めました。
唐の繁栄を見て、人民に一番必要なものは何かという事を
見詰めて来たのでしょう。こんな生き方には現代人でも心惹かれます。
彼は最期には、日本で最初に火葬された人となりました。

この道照の伝承については次のブログで詳細にレポートされています。
徒然なるままに、、、 道照と役小角
http://jumgon.exblog.jp/16095264/



今回は古代を理解するための知識の仕入れで終わりましたね~。
でもそのお蔭で、かつてはここが大変栄えていた事が分かりました。
「白山と名がつけば、鉄に関係あり。」だそうです。
後に祀られた五十猛神もそれに関連しますね。
この事については、この先少しずつ明らかになればいいなと思います。

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ここは古代の最先端の仏教が営まれ、その背景には鉄文化が伺える場所でした。
すぐ近くには神功皇后の斎宮(聖母屋敷)があります。
黒男神社は竹内宿禰が守りを固めた所でしたね。
伊野皇大神宮は九州のお伊勢さんと言われています。

今はのどかな里山の風景が訪れる人々を癒してくれます。

地図 白山神社 





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# by lunabura | 2011-06-17 17:54 | 白山神社・はくさん・粕屋郡 | Trackback | Comments(16)

新原・奴山古墳群


新原・奴山古墳群
しんばる・ぬやま
福岡県福津市
宗像の君の奥つ城?
国指定史跡 津屋崎古墳群のひとつ


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県道495号線を走っていると、あれあれ?ポコポコと、あちこちに古墳らしき墳丘が。
田畑の中にあるので、遠くからでも見えます。この古墳群、なんと国指定でした!
左から前方後円墳は30号。円墳は25号。その右の森になった丘は22号。

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前方後円墳30号墳に近づくと円墳に見えますねー。

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これは495号からすぐの所にあるもので、正面が15号円墳。
左奥の鳥居があるのが22号前方後円墳です。

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22号前方後円墳に近づきました。前方部が失われていて、
ほたて型ではなかったかと言われています。この古墳群の中では最大級で、80m超。
鳥居には「縫殿宮」と書かれています。
石段があって墳丘上には縫殿宮の境内が残っています。
この中のようすと縫殿宮については縫殿神社にレポートしています。
⇒縫殿神社と22号古墳 http://lunabura.exblog.jp/16459935/

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これは24号前方後円墳。墳丘の形が30号とは全然違います。
それにしても、前方後円墳の全容がこうして見えるのは感動もんです。

ここは「新原・奴山古墳群」です。「津屋崎古墳群」の一部です。
59基が発見されていて、41基が現存しています。
5世紀から6世紀後半にかけて造られたもので、宗像の君一族の墓とみられています

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これは現地の掲示板の一部。ずいぶん沢山あります。
車を止めて、ぶらぶらと歩くのにちょうどいい場所です。

副葬品が見たい!
道路整備のために発掘調査されたものからは、こんなものが出土!

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左の白黒写真の中央にある変わった形に注目!これが出た5号墳は直径15mの円墳です。
革袋の形をそのまま土器で作った、皮袋形土器が出土しています。
実用品を土器で再現してるんだ。使ったんでしょうか。
それとも埋葬するためにだけ作ったもの?こんな形を割らずに焼く技術もすごいですよね。

右端と下の鉄製品は44号墳から。
44号墳は直径15mの円墳で、石棚をもつ横穴式石室です。
朝鮮半島的な鉋(かんな)形鉄製品や国内最大のノコギリなど。
大工道具ですね!船とか家を作ったのでしょうか。

中央の土器は49号墳円墳(直径12m)から。「三連はそう」(漢字は瓦に泉)というそうです。
このタイプの土器はあちこちで見ますねー。いったいどうやって使うんだろ。

るな的には、噛んで造るタイプのお酒の器ではないかと想像しています。
穀物の形が残っているので、藁(ストロー)を入れて、水分だけを飲みます。
これだと、三つのストローを入れて回し飲みです。
でも、実際に実物を触った事がないので、単なる妄想です。
本気にしないで下さい。書きたかっただけです。
(できたら正しい使用法を教えてください。)

この写真は福津市が発行している「津屋崎古墳群」というパンフレットから転写しました。
このパンフレットは古墳の形と石室と被葬品がセットで書いてあるので、
それを手にして歩くと楽しいです。
総合観光案内所や、カメリアホール横の古墳公園準備室で貰う事が出来ます。
津屋崎古墳群は将来、総合的な史跡公園になるそうですよ。
楽しみです。

現状でも、古墳時代の人々の営みを想像しながら、
この穏やかな田園風景を歩くのは気持ちがよくてお勧めコースです。

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古代の地形を想像すると、リアス式海岸のように出入りする岬あたりに
古墳群があるのが分かります。万葉集にも出てくる所です。

ブログ内での福津市のお散歩ならこちら

宮地嶽神社と宮地嶽古墳 
縫殿神社と22号古墳 
渡の牧跡 
渡の金山たたら製鉄遺跡 
謎の蛇行鉄器
高句麗―伽耶―倭をつなぐもの


新原・奴山古墳群

 



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# by lunabura | 2011-06-14 20:43 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(6)

縫殿神社・宗像の神に引き留められた呉の織り姫


縫殿神社
ぬいどのじんじゃ
福岡県福津市奴山
宗像の神に引き留められた呉の織り姫


福津市には海に並行して北九州へ向かう495号線があります。
快適な田園風景の中のドライブコースで、縫殿神社へ向かうには
「練原」という信号から右折すると、まもなく左手に宝蓮寺の案内板が見えます。
そこを左折して、一軒目で右折、また一軒目で左折すると道は上り坂になり、
10mほどで下のような道に出ます。
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竹林の道を進むとまもなく、神社に出ます。
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鳥居が見えました!

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急な石段の向こうに、拝殿が見えます。

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山の斜面を切り開いた境内の中に鎮まっていました。

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参拝を済ませて神殿を見ると、かなり凝った造りです。
ここにも柱をくわえる鬼面がありましたよ。

境内の左手にはさらに石段がありました。
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上って行くと三つの祠が並んでいました。
何を祀ってあるのかは分かりません。御神体は石でした。

さあ、ここは「縫殿」という名前のとおり、縫姫の伝承が残る神社です。

入り口にあった説明板を読んでみます。
縫殿神社 ぬいどの
応神天皇の頃に、呉の国(今の中国)から兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)の四名の姫が織物、縫物の進んだ技術を日本に伝える為に招かれました。この中の兄媛は宗像神の求めでこの地に残り、中国の高度な染色、機織り、裁縫の技術を広めたと言われています。

祭神はこの4名の姫と応神天皇、神功皇后、大歳神で、この神社は日本最初の裁縫の神様であり、この地はデザイン、ファッションの発祥の地と言えます。

この神社には、永享12年(1440年)につくられた梵鐘(県指定有形文化財、宗像大社神宝館に展示)、南北朝時代の大般若経600巻や江戸時中期ごろの三十六歌仙絵扁額をはじめとする絵馬があります。

この山の中腹にひっそりと鎮まる姫宮は、かつて呉から招かれた
四人の機織り姫が祀られていました。
遠い中国から海を渡ってきた娘たち四人のうち一人だけが宗像神の求めで残りました。
ここを訪れて、四人とも祀られているのを知って、
昔の人が「一人ではさびしかろう」と四人一緒に祀ってくれた心遣いを知りました。

さて、このお話、どこかで聞いたことがあると思う人もいる事でしょう。
そう。日本書紀に書かれている話と対応しているのです。訳しましょう。
応神天皇37年の春2月1日に、天皇は阿知使主(あちのおみ)と都加使主(つかおみ)を呉に遣わして、縫工女(きぬぬいひめ)を求めた。

阿知使主たちは高句麗国に渡って、呉に行こうと考えた。高句麗に着いたが、その先の道は分からない。道案内の者を高句麗に頼んだ。高句麗の王クレハ、クレシの二人を道案内として与えたお蔭で、呉に行く事が出来た。

呉の王は工女兄媛・弟媛、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)の四人の婦女を倭国に与えた。

応神天皇41年春2月15日に天皇は明宮で崩御された。御年110歳。
この月に阿知使主たちは呉から筑紫に着いた。この時、宗像大神は工女たちを欲しいと言った。そこで兄媛(えひめ)を献上した。これが今筑紫国にいる御使君(みつかいのきみ)の祖である。

残りの三人を連れて津の国に行って、武庫(むこ)に着くと、天皇はすでに崩御されていた。間に合わなかった。そこで次のオオサザキ尊に献上した。三人の末裔は今の呉の衣縫(くれのきぬぬい)・蚊屋の衣縫である。

応神天皇は神功皇后の子供でしたね。妃が大勢います。
そんな妃たちに、中国風の美しい衣裳を着せてあげたかったのでしょうか。
この時代は渡来人たちがどんどんやって来ていて、
身分の高い人たちは、それなりに美しく豪華な衣裳を着ていたはず。
男たちだって、それに負けない衣裳を欲したことでしょう。

応神天皇は織物の技術者を中国に求め、派遣された阿知使主は
四人の織り姫を連れて帰って来ました。
船は那国かこの津屋崎で上陸して、この先は危険な玄界灘ルートを避けて、
陸路を採ったのでしょうか。
いずれにしろ阿知使主はこの宗像の君に挨拶をしたと思われます。
「宗像の神」というのは「宗像の君」の事だと思われます。

その時、ここに一人でもいいから織り姫を残してほしいと求められた為に、
断りきれずに兄媛を残しました。
織り姫たちは四人一緒なら、遠い異国でもきっとやっていけると思っていたのに、
一人だけが残るのですから、それぞれが身を切られる思いがした事でしょう。

それでも残った兄媛は、真剣に学ぼうとする倭国の織り姫たちに囲まれて、
きっと充実した生涯を送った事でしょう。
御使君という末裔がいるので、結婚もしたのが分かります。

織物の技術はトップシークレットに近かったはず。
この神社がある場所は縫殿が建っていた場所かな、と思ったのですが、
もともと南東の方の縫殿田という田畑の傍に社があったのが、
天明2年に火災にあって、翌年にここに遷座したという事です。
ですから、縫殿の屋敷は平地にあったと思われます。

宗像の里と織物
この神社にはもう一つ伝承があります。
神功皇后が新羅を攻撃する時、舟の帆を縫った神である。

これは時代的には兄媛たちが来る前の話になります。

隣の宗像市の織幡神社には、こんな伝承がありました。
神功皇后が三韓征伐をする時、紅白の二旈(りゅう)の旗を織り、宗像大菩薩のお手長(長い旗竿?)に取り付けられたので、織幡の名がある。

旗の起源が書かれています。
三韓攻撃の時に長い竿に紅白の旗をつけたのが旗(幡)の始まり で、
それを織った場所は福津市の奴山の縫殿だという訳です。

これらから推測すると、福津市から宗像市にかけては、当時、
先進の織物文化があった事が伺えます。

だから、その数十年後に織り姫たちが通りかかると、
新しい技術の価値を知っていた宗像の君は
どうしても一人でも残してほしいと譲らなかった訳です。
兄媛は自ら「それでは私が残ります」と言ったのでしょうか。

都に行った三人も活躍して、没後は神として祀られているそうです。

そんな宗像の君の里の織物文化は遠く名を轟かせて、
小郡市の媛社(ひめこそ)神社に話が続いて行くのだと思います。
(媛社神社のお話はしばらくしてUPしますね。)

古墳の上の縫殿宮
さて、この近くには国指定の新原・奴山古墳群があるのですが、
その一番大きい前方後円墳に縫殿社が祀られていると聞いて行ってみました。

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奴山(ぬやま)22号墳です。県道459号線からも見えます。
この前方後円墳は全長80m級。新原・奴山古墳群の中で最大級です。
その古墳の前に見える白い鳥居の扁額には「縫殿宮」とあり、
大正時代の刻印がありました。

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くずれかけた石段を30段ほど上ると、森になろうとする境内の奥に祠がありました。
祠の下には「縫殿宮」の扁額が置かれています。

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そして祠の御神体にも「縫殿宮」と書かれていました。

すると、兄媛はここに埋葬されたのでしょうか。
いえいえ、こればかりは発掘してみないと答えは出ません。
それでも兄媛が奴山の人々にどれほど慕われたのか、よく分かります。

地図 縫殿神社 奴山22号古墳 織幡神社






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# by lunabura | 2011-06-12 17:45 | 縫殿神社・ぬいどの・福津市 | Trackback | Comments(6)

金山たたら製錬所跡・江戸中期以降・出雲よりたたら製鉄技術を導入


金山たたら製錬所跡
福岡県福津市津屋崎町渡
江戸中期以降・出雲よりたたら製鉄技術を導入

渡半島を訪れるきっかけとなった「つやざき」町誌にはもう一つ気になる名前がありました。
「金山製錬所跡」
恋の浦の北端、楢の葉浜の南端、金山国有林内にあって、松林の中に精錬による鉱滓がうず高く積まれて、一つの丘陵をなしている。

丘になるほどの鉱滓とは…。
いったいどこ?

これも福津市の文化財課に尋ねて、場所が特定出来ました。
示された昔の地図を見てびっくり。
四つの池があり、かつては砂鉄を選別するための池だったというのです。
まさか、こんなものまで残っていたとは。
グーグルアースで確認すると、地図通りに、みごとに残っていました。
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現地の地形を肌で感じたかったので、その足で行こうと思ったのですが、
スズメバチ、ヘビ、はては落石の恐れありと聞いて、ちょっとビビりながらも
恋の浦のそばとあっては、是非現地へ行きたい。

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恋の浦です。
最近は中国からの飛来物質で福岡はこんなふうに霞んでいます。
だから美しい海の色は撮れませんでした。(涙)
この写真の左の方に現場はあります。
しかし道路が封鎖?されているようなので、航空写真で迫りましょう。

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先ほどの四つの溜め池が上の方に見えます。金山1号~4号池です。
現在は水田を潤します。鉄滓はその下の方で見つかりました。
その横のピンクで囲んだ所に炉があったと推定されています。

これについて、たたらの専門家の論文があって、江戸時代のものと分かりました。

「津屋崎町恋の浦の鉄滓『鉄の考古学』」 窪田蔵郎 (一部改変)
樹齢100~150年程度の松の根の下に鉄滓の集合体がある。これは操業中に生じた鉄滓の捨て場である。鉄滓のようすから、相当高温で精錬し、よく鉄分を抽出して、経済的な操業をしていたことが判る。

炉壁の破片から、原料は真砂土に近いものであり、練った土を長方形の大型レンガ程度のものに木ベラで荒く成形して積み上げるようにして築炉していたことが推定される。この方式は出雲の江戸中期以降のタタラ製鉄における築炉法で、出雲地方から技術導入があったことを裏書きできる。

付近には松の木が非常に多く、燃料に欠く事はない。また砂鉄は近傍の海砂鉄も採集できるが、古老の話では子供の時、(明治年間)に近くの川に砂鉄船があったというから、余り遠くない地点で採集し、小舟で運んでいたものであろう。

炉跡は背後の山が土地造成で切り崩されているので、すでに破壊されたものと思われる。

この鉄山は黒田候が上八(こうじょう)金山をみて、カゴで、勝浦の鉄山をみて帰城したと伝えられているから、北九州の真名子鉄山と同時代かそれより少し以前に操業されたものであろう。

黒田藩の御殿様がカゴで岡垣の金山と津屋崎の鉄山を視察したんですね。
すごい行列だった事でしょう。
藩の経営に金と鉄は重要だったのが推察されます。

タタラについて、この文から読み取れるのは、
鉄滓を観察すれば、タタラの操業状況が推測できること。
タタラの築炉法で、時代や技術を提供した地方が分かる事。
燃料が近くに必要である事。
ここでは近くの砂鉄を材料としたこと。
などです。

津屋崎の砂鉄
この津屋崎の砂鉄はとても良品だったそうです。
ここの砂鉄が船で遠賀川をさかのぼって真名子川に運ばれて、
そこから牛馬で鉄山へと輸送されていたとも書いてありました。
鍛冶が行われたのは嘉穂郡の犬鳴の里だったそうです。
(おお。犬鳴で鍛冶をしていた!思いがけない所から傍証を手に入れたョ。
「イヌナキーイナキは製鉄の工人の隠れ里」などについては天照神社で
少し書いています。)
天照神社1~3 http://lunabura.exblog.jp/15581560/

「筑前続風土記」にも
玄海灘(遠賀郡~奈多)の海辺の砂の中に鉄砂が出る。これを鋳て鉄にする。当国の鉄砂は大変良質である。この鉄砂を博多の職人が京・江戸の釜屋に持って行って見せると、大変称賛して、「このような鉄砂で鋳たのなら、古作の芦屋釜が素晴らしいのも納得だ」と言った。鉄砂は小刀や包丁を磨くのにも使う。 

とあります。(意訳)

金山池
池をどのように利用したのかについては、
「鉄穴流し」(かんなながし)には「採取」と「洗鉱」の二つの工程があるそうです。
ここは砂鉄なので「洗鉱」の作業だけが必要です。(選鉱の字もある)
大池、中池、乙池、洗樋と順に下流に移送して行く時、各池では足し水を加えてかき混ぜ、軽い土砂を比重の差で砂鉄と分け、バイパスで下流へ吐き出しながら砂鉄の純度を高めて、最終的には80%以上の砂鉄純度にした。(和鋼スポット解説より)

これを金山池に当てはめると4-3-1-2号と流して行ったのでしょう。
各池には栓があります。
2号池が「ショウケ堤」と呼ばれて水が漏れる池になっているのも、
砂鉄を集めやすい構造にしたのが伺えます。

この鉄穴流しの方法は多量の土砂が下流に流れ出すので、
農業に悪影響を与えるそうです。その点、ここは海に流れ込むので、
環境への配慮の点でも選び抜かれた地形だというのが分かります。
時代はこのあと現代的な製鉄へと移行していきます。
ここは最後のタタラ遺構の形をよく残しているのかもしれません。

地図 恋の浦


今回の資料は福津市の文化財課から提供していただきました。
ありがとうございました。




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# by lunabura | 2011-06-10 14:50 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(2)

地震雲教室(第五回)のお知らせ


地震雲教室(第五回)のお知らせ 

真鍋大覚氏の「日本地震雲研究会」を受け継ぐ「新地震雲研究会」会員による「地震雲教室」です。

日時 第5回 6月25日(土) 午後6時~9時
内容 今まで起きた地震と、関連した地震雲のビデオ観賞   

会場 自然食と喫茶 くるま座 (人数が多い時は変更があります。)
   福岡県春日市千歳町1-24 (JR春日駅から歩いて3分)

講師 中島 茂 (新地震雲研究会会員)
会費 500円

申し込み 電話で予約の上、お越しください。
 092-592-8903 (くるま座)
6月は1回だけです。
駐車場がないので、春日市 クローバープラザの駐車場や、
春日駅前100円パーキングを利用して下さい。

変更がある時には、当ブログに出します。最終確認をしてお越しください。
当ブログのカテゴリでは「地震雲教室」とします。

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# by lunabura | 2011-06-10 14:33 | <地震雲教室> | Trackback | Comments(0)

渡の牧跡・神代に放ち給う馬の牧跡


渡の牧跡
わたりのまきあと
福岡県福津市津屋崎町渡
神代に放ち給う馬の牧跡

「つやざき」という津屋崎町の誌史に「神代に放ち給うた馬の牧跡」がある
という一文が忘れられずにいたのですが、どこから手をつけたらいいのか分からず、
文化財課を尋ねて、いろいろと教えていただきました。

現在は言い伝えが少しある程度でしたが、おおよその場所が分かりました。
福岡市と北九州の間の海岸部に位置する津屋崎町の最奥に行くと渡半島に渡る橋があります。

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入江にかかる橋を渡って右に曲がり、小山を廻り込むと
牧の入口と「牧口大明神」の祠があるはずなのですが、道が未舗装になります。
バックで戻るかもしれない…と思うと、さっさとあきらめました。
反対の海岸線を廻って見ましたが、やはり途中から未舗装。
ぶらぶらの精神にのっとり、あえなく敗退。

今回は航空写真を使ってアプローチしましょ。

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渡半島は現在は左の方に橋が出来ましたが、かつては「牧の入り口」が唯一の進入口でした。
「旧入り海」と書いているように、現在の田畑や市街地は海の中です。
昔はここが良港だったのがよく分かります。
馬を飼うのにはこのような島や半島が最適だったそうです。

なるほど、馬を走らせるには広い敷地が必要だし、
だからといって全部を柵では囲めないので、半島というのは最高の場所なのですね。
そう言えば、野生馬が現存する宮崎県の都井岬も「岬」です。

牧の入り口から入ると、その奥には牧の大明神の祠があります。
牧の規模などは全く不明ですが、地形を見ると、現在恋の浦ガーデンになっているあたりは
平地に近かった可能性があり、その部分を牧跡と想定しました。

地元の言い伝えをまとめると、
昔、大陸から京泊(牧の大明神ちかく)に馬を陸揚げして、渡の山に放牧して調教し、日本国内に積み出した。馬出、馬込という地名があった。
名馬・スルスミもこの牧の産。

毛利の家臣が朝鮮出兵途上に、渡・楯崎の馬牧を見物した。
福岡藩主・黒田忠之は大島に藩営の馬牧設営をするために、津屋崎に補助牧場設営を命じた。
柳川藩の馬術の名人たちが渡の牧で馬の修練をした。

俵瀬だけが出入り口だったので、馬の管理がしやすかった。
高風呂山はどの牧草は塩分を含んでいて、牛馬がよく育った。
(参考 福津郷土史会 Hp)

このように具体的なものが伝わっていました。

さて、「神代に放ち給うた馬の牧跡」の「神代」については、いったいいつの時代の話かは分かりません。
しかし仲哀天皇が新宮町で馬事訓練をしたので、
距離的に近いこの牧が当時から存在した可能性を秘めています。

平安から鎌倉にかけての渡の牧についての論文があるのを文化財課の方から教えていただきました。
これも面白かったので、紹介したいと思います。

「宗像大宮司と日宋貿易
―筑前国宗像唐坊・小呂島・高田牧―」 服部秀雄

この論文では日宋貿易の時代の文献を考証し、全体を見通してから
「高田牧」を見つけ出していく手法を取っていて、
「高田牧」とは福津から岡垣に至る各地の牧の総称であり、
この「渡の牧」はその中でも最大規模で中心地だという事を突き止めてありました。

その中からいくつか抜き出してみます。(一部改変)
高田牧は筑前国最重要の牧である。馬と牛を飼っていた。
牧司がいて、壱岐や対馬の国司を歴任した人物がなっていた。宗像姓が多い。
高田牧は太宰府の管轄下にあった。太宰府の根幹をなす軍事施設であった。

牧は軍事の根幹である。多数の軍馬確保が不可欠で、太宰府牧の側面が強い高田牧も、武門が掌握したであろう。

ここから宋からの薬品、豹の皮、青瑠璃瓶、壺、唐綾などの珍重品が京都に贈られた。
高田牧から京都に馬が運ばれる途上、京都周辺で最上の馬を専門に盗む「最上馬盗」という盗賊がいた。

馬の飼育は春に草山を焼くことに始まり、オオカミなどの天敵、あるいは盗賊から牛馬を守るため、堀や柵を作り維持しながら、頭数を減ずることなく子牛・子馬を育成していく仕事である。

牧子一人あたり50頭のほかに2歳以下の子馬がいた。成馬50頭というが、5歳まで飼育するとして、3,4,5歳で50頭なら、子馬を含め70頭以上の飼育である。高田牧全体では1300頭の成牛馬がいた。甲斐一国の牧よりも大きな規模であった。

現役軍馬を引退した種馬用荒馬を放し、交配による荒馬化、大型化をはかったものであろう。

天正20年(1592年)。毛利勢がわざわざ一日逗留して手光に陣を取り、つやざきの馬牧を見物した。

日宋貿易の頃、中国や朝鮮半島からもたらされる薬や珍品の人気が絶大だったのが分かります。
当時、船は直接この渡に入港して、そこから珍品は各地に持って行かれました。
(博多では焼打ち事件があって、中国人たちは博多を避けるようになっていた。)
この津屋崎には唐坊という、チャイナタウンが生まれ、豪族の間でも中国人と日本人の混血がありました。

重量拠点である、この牧を掌握することは国の大事で、
地元の豪族たちもずいぶん繁栄しただろうと思われます。
この最大級の渡の牧は何故か途中から歴史から消えます。

ふと思い出したのですが、各地の神社誌を見ていると
牛馬の混濁病が発生して、さかんにスサノオ命が祀られた記事があります。
最近の口蹄疫などを考えると、病気が発生して消滅した可能性も候補に挙げていいのかも知れません。



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(木曽馬 北九州市立総合農事センター 「西日本新聞」より)
さて、馬と言えばサラブレットを想像しますが、それはテレビや映画に洗脳されただけの事で、
馬の大きさはもちろん例の可愛いサイズの方です。在来種はこんなに小さくて性格がおだやかです。
武士がこれに乗るのはちょっと似合わないですね。それで、スルスミのような荒馬が望まれたのでしょう。

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(王塚古墳 装飾古墳館にて)
埴輪を見ても、やはり可愛らしいです。
こんな在来種が野山を駆け巡ったのですね。いつかこの美しい渡半島を歩いて散策したいです。

福津市の文化財課の方には大変お世話になりました。ありがとうございます。

地図 渡半島





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# by lunabura | 2011-06-09 12:56 | <遺跡・史跡> | Trackback(1) | Comments(2)
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