ひもろぎ逍遥

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織幡神社(5)沈鐘伝説と海女


織幡神社(5)
沈鐘伝説と海女

この神社の麓の参道は公園化されています。

沈鐘(ちんしょう)伝説

参道に入ってまず目に飛び込んで来るのがこの巨大な石。
これは、近くの海底から引き揚げられたものです。
昔から何度も試みられて、ついに炭鉱王が引き揚げました。
鐘が沈んでいるはずだったのに、石でした…。
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巨石のそばの碑文を書き写します。( )内を補っています。

沈鐘と巨石

昔の人は、金崎(という旧地名の本来の意味は)は鐘崎で、
ここには海の向こう(韓半島)から来た釣鐘が沈んでいると語りつぎ、信じて来た。
そして宗像興氏黒田長政など、その権力にまかせて
この釣鐘を引揚げようとしたが、失敗に終った。
ところが大正8年に山本菊次郎なる人が万金をつぎこんでこれを引揚げることに成功した。
しかし姿を現したのは釣鐘ではなくして、このような巨石であった。
人びとはがっかりしたが、いまでも本当の釣鐘は海底に沈んでいるとおの思いを捨てかねている。
このような話は沈鐘伝説といって諸国に例があるが、ここのは、そのもっとも有名なものである。
沈鐘と巨石。夢と現実。まことに面白い郷土鐘崎の物語である。
昭和49年10月  碑文 福岡県文化財専門委員 筑紫豊

ほんとうに鐘の形をしていますね。
嵐の時にはその鐘の音がすると言って万葉時代から恐れられていたものです。

この沈鐘伝説は各地にあるそうですが、
福井県敦賀市気比にもあると聞きました。これを聞いてびっくり。
何故なら、この宮の御祭神の武内宿禰と不思議な関わりがある所だからです。

その話を伝えるのは『古事記』です。『古事記の神々』の神功皇后から一部写します。

御子と気比の大神
さて、建内の宿禰の命はその御子(応神天皇)を連れて、
みそぎをしようとして、淡海から若狭の国へ行った時、
越前の国の角鹿(つぬが)に仮宮を造って滞在されました。
すると、その地の神イザサワケの大神の命が夢に出て来て、言われました。
「我が名を、御子の御名と交換したいと思う。」
そこで、建内の宿禰は言祝いで(ことほいで)言いました。
「畏れ多いことでございます。お言葉の通りに変え奉ります。」
と申すと、さらに大神が言われました。

「明日の朝、浜辺に行きなさい。名を交換したしるしの贈り物をしよう。」
そこで、翌朝、浜に御子が行かれると、
鼻が傷ついたイルカが浜辺全体に打ち上げられていました。
御子が言われました。
「私に大神の食べ物の魚をくださった。」と。

こうして、大神の御名を称えて、ミケツの大神と名をお付けになりました。
これから、今でも気比(けひ)の大神と言います。
また、そのイルカの鼻の血の匂いが大変臭かったので、
そこを血浦(ちうら)と言います。今は都奴賀(つぬが)と言います。

不思議な話ですよね。
武内宿禰が幼い応神天皇をわざわざ近江から日本海へ連れて行っています。
それだけでも不思議な事ですが、その地の神が
「自分の名前と御子の名前」を交換しようと言って来たというのですから尚不思議です。

気比神社織幡宮武内宿禰でつながっています。
気比にも沈鐘伝説があって、気比の鐘は逆さまだそうです。
そこの地名は金ヶ崎。ここの地名は鐘崎。かなりの共通項がある。

その訳は「海女」の伝承を見ると見えて来ました。

ここ、鐘崎は海女の発祥の地
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筑前鐘崎海女の像
これも、参道にある彫像です。碑文を写しましょう。

海女発祥の地 鐘崎
ここ鐘崎は、古来風光明媚、海路の要衝として万葉の古歌に詠われ、沈鐘伝説で名高い。
先祖は鐘崎海人と呼ばれ、進取の気性に富み、航海術に秀で、各方面で大活躍をした。
特に潜水の技術に優れた鐘崎海女は「西日本の海女発祥の地」として有名である。
海女の出稼ぎ地であった能登・長門・壱岐・対馬には枝村(分村)ができた。
海女の使用した道具は、県の文化財に指定され保存されている。
功績をたたえ、航海の安全と豊漁を祈る。
平成7年4月吉日    筑前鐘崎海女保存会


この海女の伝承を追いかけた本があります。
それを見ると海女たちの具体的な暮らしが見えて来ます。
その中の一部を抜粋しましょう。
鐘崎の伝承には、済州島に行った地元の漁師が
島の海女と結婚して郷里に連れ帰り、海女漁をひろめたというのがある。

また、能登の輪島の海士町の人びとは、
数百年のあいだ、日本海を往来していた鐘崎の海女たちが、
仮小屋を建てていたのを、藩主があわびを買い上げて定着の地を与えたのがはじまりだという。
対馬の曲(まがり)の海女たちも似た経過をたどって、
対馬沿岸一帯の漁業権を受けて住みついたのだった。

それほどに海は共同のもので、漁法も海の信仰も彼我共通性があったのだろう。
鐘崎の海女の足跡は能登や対馬ばかりでなく、日本海沿岸の浦々にはそこここに残っているし、
また壱岐から東シナ海に洗われる五島列島から天草にかけても、
鐘崎の海女の出漁の跡がある。
さらに瀬戸内海づたいに、四国沿岸にも筑前鐘崎から来たという浦がある。
このように諸方面の海へ、数家族ずつが、長い期間漁に出かけていたのだった。

森崎和江『海路残照』

この海女の行動半径と、武内宿禰の伝承の重なりを考えると、
鐘崎と気比のつながりが深かったのが見えて来ます。
鐘崎の海女たちはよく似た地形を見つけて、鐘ケ崎と名付けて、古里の伝承を伝えたと思われます。

考古学的にも、弥生時代遠賀川式土器が、
山陰、若狭湾沿岸、福井平野へと伝わっているそうです。
こうすると、海女たちは漁法だけでなく、最新の土器をもたらして、
歓迎されていたのかもしれません。

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(弥生土器 飯塚市歴史資料博物館にて 一階は撮影許可)
飯塚市は遠賀川流域です。デザインも素敵な土器ですね。
こんなのを各地で作ったのかな。それとも、船で運んだのかな?
学芸員の人はすぐ分かるんだろうな…。

海人族たちはかなりの距離を自由に行き来していたのがよく分かります。
弥生時代って、今から2300年ほど前から1700年位前です!
弥生人の行動半径って、広いですね。


次回はずっと時代が下がって、この岬のそばにやって来た黒船の話です。



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# by lunabura | 2010-07-10 14:11 | 織幡神社・おりはた・宗像市 | Trackback | Comments(2)

銀の冠と法隆寺の関わり

鞍手町歴史民俗資料館(福岡県)

銀の冠はどんな時代を見た?
法隆寺との関係って?


歴史資料館に行くと、思いがけない出会いがあります。
この歴史資料館で、ひとめぼれしたのが、この銀の冠。
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これは復元レプリカです。銀色と青との組み合わせが印象的。
下の写真が現存する本物です。
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こんな冠が古墳から出土したんだそうです。王さまのかな。王妃さまのかな。

調べてみると、この古墳は盗掘されていましたが、副葬品がけっこう残っていて、
武器、馬具、工具、などの鉄製品と土師器、須恵器がありました。
すると、被葬者は男性ですね。7世紀中葉から後半の築造だそうです。

次は資料館内の説明書きです。
7世紀前半、銀冠塚古墳出土
純銀製の冠は国内で唯一のもの。
法隆寺の夢殿の秘仏である救世薬王菩薩の宝冠の文様と
基本的に同一で、大変注目されます。

古墳の名前はそのものずばり、銀冠塚
築造年代は資料によって少しずつ違っていますが、どちらも7世紀だという事です。
さらに他にあった説明を集約すると、
これは鉢巻き状の帯冠で、ハチマキの部分に透かしの文様が彫られている。
銀製の冠は全国に四例あって、特に浅間山(せんげんやま)古墳(千葉県)と同じ形式である。

福岡と千葉と離れた地点に同じ形式の銀の冠があるんですって。興味深いですね。
でも、今回注目したいのは、法隆寺にも同じものが見られる点です。

これが鞍手町の立冠です。
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これは法隆寺の釈迦三尊像の脇侍佛。
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ほらね。冠の所をよく見て下さい。中央の三角形がそっくりでしょ。これは驚き!

なんで法隆寺の冠と鞍手町の冠がそっくりなんだ!?

薬王菩薩像の冠を観察すると、後ろや脇などにも装飾があって、
耳の上の方からは、おしゃれに布を垂らしています。優雅です。
この冠は当時の最新、最高のデザインだったのでしょうね。
だって、仏像を依頼されたら、誰だって一番最高の物を作りたい。

もしこの二つの冠が同じ様式だとすると、
鞍手郡の銀の冠も同じようなデザインだった可能性があります。

法隆寺か…。
行ったことはあるけど、何も知らないよ。辞書を調べると、
法隆寺は607年、聖徳太子の開基・創建と伝える。
670年に焼失し、8世紀までに漸次再建。

とあります。すごい名前が出て来ました。
この冠は聖徳太子が作らせた寺の仏像と同じ様式なんだ!

この古墳の被葬者と聖徳太子は同じ時代を生きていた。

この法隆寺の薬王菩薩像は623年作と分かっています。
聖徳太子が亡くなって、造られました。
造ったのはあの有名な鞍作止利(くらつくりのとり)です。
百済の様式だそうです。中国北魏の様式と書いているものもあります。

すると、同じデザインの鞍手町の銀冠も鞍作止利の管理する工房で作られた、
あるいは模倣したものと考えられます。
銀冠塚古墳の冠も日本で作られ、当時の最新で最高のものだったんですね。

この古墳は7世紀なので、西暦600年代です。
この古墳の被葬者が生きていた時代の筑紫の情勢を、にわか勉強してみました。
602年 新羅に滅ぼされた任那を取り返すために、
      聖徳太子の弟来目皇子が将軍となって筑紫にやって来て、
      病気で倒れて翌年死去。
603年 聖徳太子の弟、当麻皇子を将軍として筑紫に派遣するが、
      妻が死去したので引き返す。
605年 鞍作止利が造仏の工に任命される。
     高句麗から建造費として黄金300両が贈られる。
607年 聖徳太子は遣隋使を派遣する。
621年 聖徳太子薨去。
623年 法隆寺の釈迦三尊像が作られる。
655年 斉明天皇即位。のち百済救援のために筑紫の朝倉宮に遷都。
661年 斉明天皇、朝倉で崩御。
662年 天智天皇 博多で即位。
663年 白村江で大敗する。
668年 草薙の剣が新羅の僧に盗まれる。

任那(伽耶)をめぐって、新羅とずっと戦っている状態です。
一方、百済、新羅、高句麗など、韓半島との
人と物の交流がかなり盛んです。
668年には八剣神社古物神社でおなじみの「草薙の剣盗難事件」が起こっています。

この古墳の被葬者はこの時代の人なんですね。
「神社の伝承」と「古墳の出土品」と「法隆寺」が関わりあうなんて驚きです。
しかも、鍵は法隆寺にあった。

この鞍手町は物部氏の本貫地です。これまで、調べたのを振り返ると、
物部氏は天皇家に軍備の援助をし、天文の技術で支えました。
天皇家が九州に来ると、この地を経由して筑紫に入って行きます。
そして、船や武器や軍馬、武人などの調整が行われたと考えられます。

被葬者は、もしかしたら、来目皇子と会ったかもしれませんね。
あるいは当麻皇子、斉明天皇、天智天皇などの誰かと。

次々と新羅との戦いのために筑紫にやって来る皇族と
対面する身分であった事をこの銀の冠が証明しています。

軍備の援助の代償として、当時の最高の銀の冠が献上されたのかもしれません。

鞍作止利は名前の通り、もともと馬具の製作をしていた人です。
この古墳の被葬者も馬具と工具を持っていました。
妄想すれば、この二人にも何らかの関係があったとも考えられます。
だから、法隆寺の仏像と同じものを贈呈したと。

妄想が進むと、この銀冠塚の被葬者がモデルだった可能性もあるぞと考えたくなりました。
だって、鞍作止利が渡来人の子孫なら、この鞍手を通ったはずです。
この鞍手で馬具造りを指導していて、都の仏像作りを依頼された可能性、
ゼロじゃないですよね。

さて、銀冠塚古墳の所在地は
福岡県鞍手郡鞍手町大字八尋字大谷
遠賀川の支流である西河の狭小な谷を見下ろす丘陵上にあったそうです。

古墳はもう失われているそうですが、この冠は下の資料館で見る事が出来ます。
鞍手町歴史民俗資料館
福岡県鞍手郡鞍手町大字小牧2097
TEL  0949-42-3200
開館時間 9:00~17:00
休館日 毎週月曜日、国民の祝日、毎月第3日曜日
入場料 無料 


地図 歴史資料館 銀冠塚古墳 古物神社


この銀の冠の背景を楽しむための、お散歩コース
八剣神社 ⇒ 古物神社 ⇒ 歴史資料館

海が見たくなったなあ。
次回は玄海灘の難所の織幡神社に行くぜよ。


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# by lunabura | 2010-07-08 11:44 | <歴史資料館・博物館> | Trackback | Comments(9)

古代鉄の謎 ホの一族とはスズ鉄の一族だった?


古代鉄の謎 Q&A
ホの一族とはスズ鉄の一族だった?


ある日の昼さがり、ルナは聖洲さんと話をしていました。
(聖洲さんの絵は名島神社に載せてます。)

「聖洲さん、この前ですね、馬見神社をブログに出したんですけど、
アマテラス大御神の系図を書いていたら、名前にが付いてる世代が
三代も続いているので、「ホの一族」と名前をつけちゃったんです。」

その系図がこれです。
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古代史に詳しい人は、この赤字で書かれた人たちが
天皇家の祖先だとすぐピンと来ると思います。
でも、そんな先入観をなくすためにわざと、カタカナで書いてみました。

すると面白い事にアマテラスの子供からひ孫まで、
直系にずらりとホの字が付いています。
このホに「穂・菩・番・火」の字が当てられています。
稲穂を指しているというのが定説です。

『ひもろぎ逍遥』の旅をしていて分かったのは、
アマテラスの子供と孫が三人も遠賀川流域の山々に降臨したという
伝承がある事です。
具体的には、
     天のオシミミの命 ⇒ 英彦山
     天のアカリの命  ⇒ 笠置山
     天のノニニギの命 ⇒ 馬見山
です。
定説では、先ほど書いたように「ホ」を稲穂と解釈し、
「豊葦原の水穂の国」を「稲穂が豊かに実る国」とします。
でも、ルナはなんだか納得できなかった。

「葦原になんで稲穂が出来るんだ?」そんな素朴な疑問です。
訳をするととても不自然なのです。
ところが思いがけず、この日、そのホの謎が解けました!

では、先ほどの会話のつづきに戻りましょう。
ルナと聖洲さんの話に大長老の光さんが入って来ました。

光さん「あのね、豊葦原の水穂の国の水穂って何だか分かる?」

そう聞かれて、何故か突然、の意味が分かりました。

るな 「え?水穂?…。あっ、そうか。分かった!葦の穂ですね。」
光さん「そう。水穂の穂は稲穂の穂じゃなかとよ。」
るな 「何だあ。そうですね。そうか。
葦原の水穂って、そのまま解釈すればいいんですね。」
光さん「そう。」

「豊葦原の水穂の国」とは、そのまま、「葦が豊かに水辺で茂っている国」と
解釈すればいい事で、無理に葦を稲にすり替える必要なんてないんですね。
なんてシンプルな事。

でも?あの葦が沢山生えてる事が何の役に立つの?
なんで日本の国を象徴するんだろう?

そこまでルナが辿り着くと光さんがさらに話してくれました。
光さん「昔は、スズ鉄と言ってね、葦の根を焼いて精製して、
     鉄を作りよったと。」
るな 「え~?葦ってあの植物の葦ですか?水辺に生えている。」
光さん「そう。これで作った鉄は固い。しかし、戦うと折れてしまうったい。
     草薙のつるぎがそうたい。
     韓国人が熱田神宮から、持って帰ろうとしたのがそれたい。」
るな 「韓国人が草薙の剣を持って帰ろうとしたんですか?」

これは今から二か月前の話で、まだ八剣神社を調べていなかったので、
初耳でびっくりするばかりでした。

今では、それが天智天皇の時代の事件で、犯人は道行で、
取り戻された草薙の剣は、一時期、八剣神社に保管されたかもしれない
とまで、知っています。
(初めての方は、八剣神社、古物神社を見て下さいね。)

光さんはさらに話してくれました。
「それから、青銅の時代になったと。そのあと、砂鉄の時代になった。
韓国の伽耶(かや)から出雲族が持ってきたのがそれたい。
玉鋼(たまはがね)の事で、日本刀の材料。
しなやかでそりが戻るのが特徴。」
「ああ、日本刀ですね。材料は砂鉄なんですか。」

それから数日後、偶然テレビで日本刀を作っている所を見ました。
白装束を着て、伝統的に作っていました。
そしてラスト。
まっすぐな刀を水に入れたとたん、ぐぐぐっとそりが入りました。
真っ直ぐの刀がですよ。
水の中で反るなんて。びっくりしましたよ。
光さんの言うのがこれ?

るな 「でも、ま、ま、待って下さい。
    歴史の教科書では、青銅器時代から鉄器時代と習ったんですが、
    そうじゃないんですか。」
光さん「そう。」
るな 「ええ?じゃあ、鉄器時代から青銅器時代になって、
    また鉄器時代になったというのですか?」
光さん「そう。」

教科書を信じ込んでいたルナはホント、たまげました。
でもこれなら、「ホの一族」の謎が解ける!
とも思ったのですが、正直、半信半疑でした。
どうやってこれが検証できるの?

光さん「そのあと、鉄鋼石の時代が来たと。
     これは切れ味がいい。ゾーリンゲン砲弾によい。
     しかし鉄鋼石より、砂鉄のほうが質がよかった。
     戦艦大和陸奥はアメリカのクズ鉄の再生品で作ったね。
     自分の所の船は新品でね。」
るな 「はあ。そうなんですか。そんな素材の違いの問題もあったんですか。」
光さんは、戦争の秘話にも詳しいのです。

さて、光さんが金属に詳しいとなると、どうしても知りたい事がもう一つある。
あの平原遺跡に眠る日の巫女は胸に水銀を入れた壺を抱えていた…。

るな 「じゃあ、水銀は?」
光さん「水銀があれば、金と銀が採れるね。」
るな 「そんなにすごいんですか。そう言えば昔は白粉や口紅も水銀で
    作っていて、それで水俣病になったという話も聞きますよね。」
光さん「そう。」

水銀の重要性にもう一つ、鏡を磨くのに必要だったそうです。
平原の日の巫女は鏡のコレクターだったので、それで鏡を磨いたんだろうか。
それとも、お化粧として持っていたのだろうか。

なんでも詳しい光さんに、もう一つ聞きたいのは、
あの『竹内文書』に出てくるヒヒイロカネ
るな 「ヒヒイロカネは?」
光さん「ヒヒイロカネは自然鋼。硬すぎて折れてしまう。」

ヒヒイロカネの存在を知る人も少ないと言うのに、
その使い心地まで知ってるなんて…。
余りにも物知りなので、ルナも興奮して、さらに質問です。

るな 「じゃあ、餅鉄(べいてつ)は?」
光さん「餅鉄はヒヒイロカネとは違う。」
まいったなあ。なんでも知ってるなんて。

餅鉄は川で自然に見つかったりするものらしく、もちのように丸い自然鋼です。
これをヒヒイロカネだと言う人があるのを御存じなんですね。
「ふうん。鉄と言っても色んな鉄があるんですね。」
光さんはうなずきました。
そうか、おかげで色んな謎が解けた。

「葦原の水穂の国」とは「葦からスズ鉄が採れる国」という事なんだ。

遠賀川河口に砂鉄で作る芦屋釜という茶道具の名品があるのですが、
これを現代に再現した人の話が新聞に載っていて、
砂鉄だけでは、割れてしまうので大変苦労したと書いてありました。
昔の人の技術の素晴らしさを痛感したそうですが、
もしかしたら、同じ鉄でも材料が違うんだ。
もっと上流に残っている、スズ鉄で作ったのが本来の芦屋釜かもしれない。

そんな事も考えながら、帰りましたが、
はてさて、どうやってスズ鉄を検証したらいいんだ…。

それで、ネットで「スズ鉄・葦」を検索すると、
「もりもりキッズ」さんのブログに写真入りで記事が出ていました。

川にが浮かんでいるのを見た事がありませんか?
「こんな所に油を捨ててひどいなあ」とルナも思った事があるんですが、
その油は鉄バクテリアの集まったもので、それが鉄を集めているそうです。
ですから、その葦の根を焼けば簡単に鉄が採れるんですね。
温度は野焼きで大丈夫だったらしい。

知らなかったァ。
でもね、これで日本神話の初めの神の名の意味が分かったよ。

「古事記」の冒頭の文です。
天と地が初めて別れた時、高天(たかま)の原に現れた神は
天の御中主((あめのみなかぬし)の神でした。
次に、タカミムスヒの神。
次に、カミムスヒの神です。
この三柱の神は、みな単独の神として、身を隠されました。

次に国土が出来たばかりで、水に浮かんだ油のように、
クラゲのように漂っている時に、
葦の芽が牙のように大地を突き破って芽生えるようにして、
出現した神の名はウマシアシカビヒコヂの神。

次に、アメノトコタチの神。
この二柱の神もまた、単独の神として、身を隠されました。
以上の五柱の神は特別な天(あま)つ神です。

この太字の部分をスズ鉄の出来るようすとして解釈すると、
「それまで海だった所に次第に土砂が堆積して、国土が出来始めた頃に、
川には鉄バクテリアが油のように浮かんで、クラゲのように漂っている時に、
葦の芽が牙のように大地を突き破って芽生えるようす」を神格化したのが、
「ウマシ葦カビヒコヂの神」という事になります。

「ウマシ」は「すばらしい」、「カビ」は「芽」、「ヒコヂ」は「中州」です。
組み合わせると「すばらしい葦の芽が生える中州の神」。
おお、なんとすっきりと訳が出来るんだい。

スズ鉄の氏族はこの葦の芽映えを心から待ち望みました。
この神は、中州が出来て、鉄が採れる葦が生えて来るようすを
神格化したものでした。

こうすると、アマテラスのあと二人の息子の「天津日子根
活津日子根」のも葦の根を象徴しているのが分かります。

この砂鉄とスズ鉄の事については、真鍋大覚氏も詳しいのですが、
さすが工学部の助教授らしく、化学式で説明されているんです。
鉄の鉱石成分はFe3O4とFe2O3の二種があって、
日本には前者は無限に埋蔵されており、原料に事欠くことは絶対にないが、
これを還元するには山林をあまねく伐採しなければならない。
しかし、後者はわずか少量で事足るが、産地が稀である。

これを言い換えると、
砂鉄は火山の国、日本なので、無限に採れるのですが、
木を沢山燃やすために、周りの森がすぐになくなってしまいます。

スズ鉄は葦の根を燃やせばいいので、木も少なくていいけど、
河口の湿原地でないといけないので、
遠賀川や信濃川など、産地が限られてしまう訳です。

スズ鉄は農耕には十分だけど、戦いの為の刀にすると折れやすいので、
砂鉄の部族の方が有利だったのが分かります。
なるほど、これで、いろんな歴史的事件の謎も解けるんだ。
(パズルがカチカチとはまる音)
でも、今日はここらへんで。

今回は、思いがけず「ホの一族」の謎が解けたページになりました。

なお、「もりもりキッズ」さんから教えてもらった、古代鉄を知る本はこれです。
古代の鉄と神々」真弓常忠 学生社 1997年刊

これにスズ鉄の事が詳しく書かれています。

それでは、「銀の冠」を見に行きましょか♪
鞍手町歴史民俗資料館へ。



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# by lunabura | 2010-07-05 17:23 | ◆古代鉄・スズ鉄 | Trackback | Comments(14)

古物神社(1)宗像三女神が生れた十握剣と父のスサノオが始まりだった


古物神社(1)
ふるものじんじゃ
福岡県鞍手郡古月村大字古門字西山(旧名)
原初の神気を今なお残す宮
宗像三女神が生れた十握剣と父のスサノオが始まりだった


国道三号線、富地原から猿田峠を通って鞍手に入ったら最初の信号、新延(にのぶ)で左折します。
伊藤常足翁旧宅」の案内板を目印に左へ左へと曲がって行きましょう。
古物神社への案内板はないのですが、
伊藤常足が古物神社の神主さんだったのでそれを目指せばOKです。

この人は国学者で、『太宰管内志』という本を書いた事で有名なのです。
途中の道は人家もほとんどありません。山脈の中腹を横ざまに走って行きます。
なにせ山の中です。いつものように、こんもりとした杜を目指しても、駄目です。
案内板のおかげで、そこが古物神社と分かりました。
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桜の青葉とアジサイの青い花に迎えられて、参道を歩きます。
古木の作り出す、しっとりとした空気に心が躍ります。
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ここは山であり、里である。人々と神社の始まりを思わせる趣が残っています。
いくつかの石段を登りつめると、古き宮の前に出ました。
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形容しがたい重厚さです。
神霊と土地の融合したエネルギーが古代からそのまま残っているような聖地でした。

参拝を済ませて、境内をぐるりと回ると、古い祠がたくさんあって、それぞれに立札が掲げてありました。
とても分かりやすく、どうやってここに勧請されて来たのか、歴史が偲ばれます。

特に境内の右側は一段高くなっていて、そこにもずらりと祠があります。
祠の中の御神体は大体、楕円の石でした。
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では、早速、『福岡県神社誌』を見てみましょう。
祭神
天照大御神、日本武尊、仲哀天皇、スサノオの命、
神功皇后、ミヤズ姫神、応神天皇、布留御魂神

ずいぶん沢山の祭神ですねえ。
でも、よく見ると神功皇后の八幡グループと、八剣神社のグループがありますよ。
まずは、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇
    香椎宮からずっとお馴染みの「夫と妻と子」の組み合わせです。
続けて日本武尊、スサノオの命、ミヤズ姫の神
    これは八剣神社の三柱と同じ組み合わせです。「草薙の剣の継承者たち」でした。
残りは天照大御神布留御魂神です。
どうやら三つの神社が合体しているようです。
では続きを読みましょう。
由緒は不詳。
祭神・布留御魂神は大正時代に布留神社から合祀している。
社説に曰く、当社は、もと剣神社、八幡宮、二つの産土神だったのが、文政11年に九州一帯の暴風で剣岳の剣神社の神殿などがことごとく倒壊した。よってこの西山に鎮座の八幡宮に合祀した。
明治4年に神祇官の依命が村の名前の旧号を取って、古物神社と改めた。

これを年代順に置き換えると、もともと剣神社、八幡宮だったのが、
江戸時代に台風で剣山の上の神社が倒壊したために、ここに合祀し、
大正時代に布留神社からも合祀したとなります。そして、明治時代に古物神社と改めました。

だから、こんなに沢山の御祭神となった訳ですね。
八幡宮の縁起に曰く、
古門村は神代の昔、スサノオの命が高天原より出雲国に行く時の旧跡である。
十握(とつか)の剣スサオノの命を昔から祀る神社で、剣神社と号す。

これは?なんと!
スサノオの命が出雲の国に行く途中、ここを通ったって?
高天原から出雲に行くルートにこの神社があるというのです。
たった二行の文になんと沢山の情報が織り込まれている事でしょう。

ここと関わる『古事記』のあらすじはこうです。
スサノオの命は父親から追放されて、姉のいる「天」に行って、ウケイをします。
その時、十握剣を持っていました。それをアマテラスが三つに折って、そこから、宗像三女神が生れました。
ウケイに勝ったスサノオの命は、暴れまくって、ここも追放されます。そして、出雲へと向かいました。

この宮はこの十握剣と、その持ち主のスサノオの命を最初に祀っていました。
この祭神の組み合わせのポイントは、三女神がこの十握剣から生まれているという事です。

これに気づいてドキドキです。
何故かと言うと、この三女神は、この鞍手町の六ケ岳(むつがたけ)に降臨しているからです。
そして、移動しながら、現在の宗像大社に鎮座していきます。
「スサノオの命が高天原から出雲に行く途中」という事は、三女神は生まれたばかりになります。

ですから、縁起を言い換えると、この宮は宗像三女神の父親とその十握剣が祀られていて、
今、父親はここを通過して出雲に向かう途中の宮だという事になります。
勧請して来たのではないのですね。しかも宗像三女神のお膝元の話です。

ここは大変古い縁起を持つ宮でした。それだからでしょう。
この神社には幾世代にも渡って、剣に関わる歴史が刻まれて行きました。

次回は、さらにその後の由緒を追って行きましょう。

この話を理解するために、スサノオの命
『古事記の神々』に訳を始めたので、そちらも見て下さいね。
(つづく)

地図 古物神社 六ケ岳 宗像大社 八剣神社


右上の飛行機のアイコンを押せば、
灰色の所が昔の海だと分かりますよ。



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# by lunabura | 2010-07-04 11:38 | 古物神社・ふるもの・鞍手郡 | Trackback | Comments(5)

古物神社(2)草薙の剣が降って来た・筑紫の天智天皇


古物神社(2)
草薙の剣がこの近くに降って来たという。
天智天皇は前年まで筑紫にいて何をしていた?

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神社誌を続けて読んで行きましょう。

剣神社の縁起に曰く、「天智天皇の御世に、僧・道行熱田神宮の神剣を盗んで、新羅に行こうとした時、剣がにわかにその袋を突き破って空に飛び去り、筑前の古門に落ちた。

その時、光が放たれて、数里四方まで輝いて見え、土地の人が驚いて見ると、剣だった。
みんなこれは神のものだと思って、穢れのないようにと、相談して小さな祠を作ってこれをおさめた。

朝廷がこれを聞いて草薙の剣だと分かり、使いの官吏を派遣して熱田に戻した。これよりその剣が落ちた所を「降物」と言った。剣が自ら降りて来たという意味で、今「古門」と言うのはなまりである。

剣は熱田神宮に戻ったとはいえ、神霊はなお古門に留まっていて、魔を払い、災いを消すということで、万民が崇敬した。」
石上布留魂大神の座所のゆえ、布留毛能(ふるもの)村と名付けた。

さて、この剣神社には、道行が盗んだ剣が落ちて来たという縁起が伝わっていました。
さすがに神剣らしく、空を飛んで来ています。
(草薙の剣の歴史と盗難事件の詳細は八剣神社の方に書いています。)

この由緒によると落ちた所を「降るもの」と呼び、「古物」の字が当てられて、
それがなまって「ふるもん」「古門」という地名になっていったようです。

この縁起には見逃せない背景がいくつかあります。
1)天智天皇はこの前年まで筑紫にいた。
2)「ふる」とは隕石を指す古語である。
3)奈良の石上神宮の地名も布留であり、どちらも物部氏の祭祀する所である。
という事です。一つずつ見て行きましょう。

1)天智天皇はこの前年まで筑紫にいた。
天智天皇(中大江皇子)の母は斉明天皇です。
斉明天皇は新羅と闘うために筑紫に来ていました。その流れを追ってみましょう。

        661年 母君の斉明天皇が福岡県朝倉で突然崩御される。
        662年 36歳の中大江の皇子は天智天皇となり、
              筑紫の那の津長洲の宮に遷都する。
                         (現在の博多港周辺) 
        663年 白村江で大敗する。
        667年 大津へ遷都する。
        668年 草薙の剣が盗まれる。

この時代の筑紫では日本と百済の連合軍vs新羅と唐の連合軍の戦いがあり、
日本が敗北した上に、百済からの難民があふれて、大変慌ただしい時代でした。
しかも、その間に天皇の突然の死と天智天皇の即位がありました。
WIKIでは、その当時の事は謎だと書いてあるのですが、筑紫の方では話が伝わっていました。

眞鍋大覚氏によると、
天智天皇は即位後、磐井氏が作った水城(みずき)に手を加えて、
筑紫の南北を通す運河にするために、大工事をしていたそうです。
このブログに何度も登場する針摺の瀬戸(はりずりのせと)の事です。

さらに、時計磁針づくりに取り組んでいました。
磁針とは細い磁石の事で、細戈(くわしほこ)と言います。
これで羅針盤が出来る訳です。
また、背振(せぶり)の葵祭を京にもたらしたのも、天智天皇だそうです。

こうして、天智天皇は敗戦後に、新たな文明を取り入れて、強固な国造りに取り掛かっていたのが伺えます。
新羅に対する防衛の基盤を整えてから、大津に遷都しました。草薙の剣が盗まれたのはその翌年です。

新羅へ逃走するにはここを通らずにはいられない?
さて、剣を盗み出した道行の話に戻りますが、彼は新羅へ逃走するのですが、どこを通ったのでしょうか。
船路にしろ、陸路にしろ、九州に上陸して博多方面に行かねばなりません。

さて、昔の遠賀川のイラストを見て下さい。
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(鞍手町「古月横穴」の資料を一部改変)
これを見ると現在の平地はほとんど海没しているのが分かります。
左下に古物神社があります。その北の虫生津がありますが、
神功皇后たちはここから上陸して、この古門神社に移動します。
昔はこのルートがあった訳です。この古門は、交通の要衝です。
道行もここを通らずにはおかれなかったはずです。

ところが、この地は天皇の軍隊であり、警察でもある物部氏の本貫地です。
敗戦した後ですから、まだ警備は厳しかったでしょう。

だから、道行がここで捕まった可能性は高いなと思いました。
そして、取り返された剣の保管地に剣神社が選ばれた訳です。
それを神剣らしく、光って降って来たと色付けされて伝えられました。

蛇足です。
奈良時代をあなどるなかれ!

この当時は平城京から全国へのまっすぐの道が作られていて駅家(うまや)が16キロごとに整備され、太宰府から都まで、「4日」で情報は伝わった。
(2009年11月24日放送 NHK『謎の古代の道』より)

奈良時代に、驚きの道路網がありました!

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境内の左奥にある「旧剣神社拝殿跡」です。

(つづく)



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# by lunabura | 2010-07-03 11:34 | 古物神社・ふるもの・鞍手郡 | Trackback | Comments(2)

古物神社(3)「ふる」は「隕石」の古語。石上神宮の元宮か?


古物神社(3)

「ふる」は「隕石」の古語。
ここは石上神宮の元宮かもしれない

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それにしても、剣が空中から落ちて来て光ったとはねえ。ちょっと無理があるなあ。
その謎を解くヒントは「ふる」にありました。

2)「ふる」とは隕石のこと。

眞鍋氏によると、
記紀にある「布留の御魂」は隕鉄を精錬した剣で、
布津の御魂」は砂鉄を精錬した剣である。
昔から隕石が落ちた所には椋(むく)の木を植えて祀った。椋の木の実は羽根つきに使われる黒い実。2000年以上前には、その形が隕鉄の象徴だった。
1500年前頃には真金、即ち砂土を溶かして得た鉄を指した。
という事です。
この辺りの地名を「門、月、物」と並べると、
光が数里四方にまで見えたというのは、「ふる」すなわち隕石の落下を描写していると推測しました。

御神体が隕石だという神社は近くにもあります。
合祀する前には久保にあった剣神社も、もともと隕石が落下した場所だった可能性があります。
その隕石と、草薙の剣の事件が融合して、「剣が落ちた時、光が放たれた」という話になったんじゃないかな…。

3)奈良の石上神宮の地名も「布留」であり、
どちらも「物部氏」の祭祀する所だよ。


さて、最後の一文に注目!
石上布留魂大神の座所のゆえ、布留毛能(ふるもの)村と名付けた。
これがその一文です。
布留魂大神の上に石上(いそのかみ)が付きましたよ。石上布留魂大神…ここの神の名です。
石上って、奈良にあるのと同じだ!

石上神宮を辞書で引きました。
石上神宮
祭神は布都(布留)の御霊の剣。
この剣は神武天皇の大和平定に先立ち、天照大神が天皇に授け、物部氏がこれをまつって氏神としたと伝える。かつて本殿はなく、拝殿の奥の禁足地が神聖な霊域とされていた。社蔵に七支刀がある。
物部氏が代々祭祀に当たっている。後に石上と改姓した。

御祭神の名前については「布留と布都」と両方ありました。

「ふる」と「ふつ」が材料の違いなら、その違いは一般の人には分かりません。
だんだん混乱して行って、「ふるの御魂」とも「ふつの御魂」とも、なって行ったと考えられます。

注目するのは御祭神が鞍手も奈良も「布留御魂」であり、
物部氏が祭祀し、地名が布留だと言う点です。
明らかにこの鞍手郡の古物神社と奈良の石上神宮は深くつながっています。
ルーツはこの古物神社の方と思われます。

物部氏は石上に改姓しましたが、眞鍋氏によると、
「石上(いそのかみ)とは坩堝(るつぼ)の達人」を指すそうです。

神社誌はさらに、仲哀天皇と神功皇后の事も書いていました。
「宗像記」に、古物村にある西山八幡宮は仲哀天皇神功皇后、共に熊襲及び三韓征伐の時の行在所(あんざいしょ)である。

天皇、皇后が筑紫の岡湊から香椎宮に行かれた時、遠賀郡芦屋から船に乗って、同郡虫生津に御上陸、鞍手郡古門村にみ輿(こし)を留められた。
そこから白山嶺を越え、省木村三坂峠を過ぎて、宗像郡に移動された旧跡という事で、村民はここに祠を建てて奉斎している。

大変具体的に二人の辿ったルートが書かれています。
前回の地図に岡湊と虫生津と古物神社を書いているので見て下さい。
当時はこれが一番安全で確実なルートだったのでしょうね。
ここは筑紫と本州を結ぶ重要な邑だったのが分かります。

この神社は旅の貴人たちを泊める所でもあったのかもしれません。
その中から祭神として祀られる人も出て来ました。
後に、ここの神主になった伊藤常足が、この人里離れた宮に、
天皇たちが訪れた伝承があるのを不思議に思って、日本書紀の研究をし始めたのではないかと思いました。

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拝殿前の狛犬。

(つづく)



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# by lunabura | 2010-07-02 13:42 | 古物神社・ふるもの・鞍手郡 | Trackback | Comments(8)
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