ひもろぎ逍遥

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日拝塚古墳(1)百済と倭国を結ぶ古墳


日拝塚古墳(1)
ひはいづかこふん
福岡県春日市下白水南6丁目208番外
百済と倭国を結ぶ古墳

百済の前方後円墳から、ずいぶん寄り道をしました。
百済の地にあるこれらの古墳は倭人が作ったことが見えて来ましたが、
その中の海南長鼓山古墳が春日市の日拝塚古墳に近いという事を聞きました。
偶然にも、すぐにその古墳に行く事が出来たので今回はそのレポートです。

この古墳は住宅地が迫る丘陵のピークにあります。道案内なしでは難しい所ですぞ。
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墳丘の形が綺麗に残っています。
国指定になっていたので、この敷地だけは保護されています。

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後円部に石室の入り口が露出しています。

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近づくと、こんな感じ。
教育委員会に申し込めば石室に入る事が出来るそうです。

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今日は隙間からカメラでエイヤっと。結構見えますね。
この石室が百済の海南長鼓山古墳と似ているそうです。

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そこで、二つの写真を並べて見ました。
左が日拝塚古墳。右が海南長鼓山古墳です。
確かに似ていますね。
日拝塚古墳は人が立つことができそうです。竹原古墳王塚古墳を思い出しました。
(過去記事はサイドバーから)
百済の前方後円墳は平天井が特徴だそうですが、
この海南長鼓山古墳の天井がどうなのかは分かりません。

石室の形や副葬品など、比較した研究があったら面白そうですね。

とりあえず、一般人が簡単に手に入る情報として、まずは春日市のHPから
 
6世紀に築造された前方後円墳で、周溝まで含めた規模は全長60メートルほどになります。墳丘の主軸がほぼ東西を向いており、彼岸の時期には東方約16キロメートルにある大根地山(おおねちやま)から昇る太陽を拝めることから、「日を拝む塚」として「日拝塚」と呼ばれるようになりました。

 主体部は、後円部中央に位置する単室の横穴式石室です。昭和4年に盗掘を受けた際、石室内から須恵器、鏡、装身具、武器、馬具などが多量に出土しており、大部分は回収され、東京国立博物館に収蔵されています。
主軸が東西を向いて大根地山を見ているのは興味深いので、次回検証します。
今回は百済のものと比較するのがテーマです。
何々?出土物はいったん盗掘されたものが取り戻されたって?
これは驚きですが、その出土品もみんな東京に行ってしまった?
これじゃあ出土品が見られないぞ。

看板の写真を見てみましょう。
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これはかなり洗練された副葬品ですね~。
これが、倭人たちが百済で手に入れて、故郷の首長に贈ったものだとすると、
面白いのですが、私にはよく分かりません。

妄想するのにはもっと資料が欲しいなと思って探すと文化庁のデータベースがありました。
日拝塚古墳は博多平野にあり、那珂川の右岸の低段丘上に立地する前方後円墳である。古墳は前方部を西に向けており、全長41.2メートル、後円部径22メートル、高さ5.9メートル、前方部幅34メートル、高さ5.4メートルを測る。墳丘は段築が明瞭で、葺石、埴輪は認められない。石室は後円部中央に設けられ、西南に開口する単室の横穴式石室である。玄室は長さ3.6メートル、幅2.6メートル、高さ4メートルである。羨道は長さ4.8メートルで玄室から2.5メートルは幅約1メートル、高さ1.5メートルを有する。

玄室奥壁寄りに屍床があったといわれるが現在は残っていない。昭和4年に開口したおり、多量の出土品が知られ、獣形鏡1面・金製垂飾付耳飾1・金環4をはじめとする装身具類、環頭柄頭をもつ太刀1をはじめとする武具類、鉄製輪鎧3組などの馬具類、須恵器等多数があり、現在東京国立博物館に保管されている。本古墳は前方部が発達した平面形を示しており、出土品の特色からもこの地域で6世紀に属する後期の古墳として典型的なものである。
むむ。これでも、よく分かりません。残念だなあ。

(つづく)

地図 日拝塚古墳





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# by lunabura | 2012-06-05 10:06 | 日拝塚古墳 | Comments(6)

日拝塚古墳(2)「ひはい」の由来


日拝塚古墳(2)
「ひはい」の由来
 

さて、今回のテーマは「日拝」という名前の由来です。
墳丘の主軸がほぼ東西を向いており、彼岸の時期には東方約16キロメートルにある大根地山(おおねちやま)から昇る太陽を拝めることから、「日を拝む塚」として「日拝塚」と呼ばれるようになりました。(春日市HPより)

さて実際はどうなっているでしょうか。

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測量なんて当然出来ないので、グーグルアースから切り取ってみました。
前方後円墳にしては円墳が丸くないですね。封土が崩れているのかな。
それともそんな設計?

いや、テーマは古墳の主軸でした。
グーグルアースが地図として正しく東西南北を指しているとすると、
切り取った輪郭が物差し代わりに使えます。
それと見比べると微妙に傾いているので、
主軸はHPにあるように「ほぼ東西」となるようです。
歳差運動で、東西がぶれたのでしょうか。

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円墳の上から東を見ると、遠くに三角形の山が見えました。
(写真では電柱のすぐ左。)これが大根地山(おおねち)です。

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拡大しました。三角形の独立峰です。
このブログでは初登場ですが、実はこの山はあちこちから見える、気になる山で、
神功皇后が登って祭祀したという伝承もあります。
私もかつて登ろうとしたけど、イノシシの噂を聞いて止めたことが…。(-_-;)

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日拝塚古墳から大根地山に向かって東にラインを引くと頂上にはつながりません。
少し北に届きます。
もしかしたら、日の出の場所は山の北の峠かもしれません。
日の出を観測するのに、山のピークを利用するのも有りですが、
二上山のように凹んだ所から出る太陽を観測する例もあるのです。

そこで、月の浦からの月の天体ショーを発見した、くるま座さんに尋ねると、
彼はここで日の出を観察したというではないですか。
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それによると、春分の日は大根地山の少し左側から、夏至は乙金山から太陽が昇ったそうです。
それを写真に書き込んで見ました。
夏至に乙金山(おとがねやま)から昇るとすると、春分の日についても
大根地山のピークではなく峠から出る事が前提だった可能性が出て来ました。

ここから毎日、日の出を見た情景を想像しましょう。
春分の日に大根地山の峠から太陽が出ると、その後、日の出は日々左にずれて行き、
夏至の日に乙金山から出ると、Uターンして再び大根地山に戻ります。
その後はさらに右の方から出来ます。
冬至の日の出の目当ての山も家の向こうにきっとある事でしょう。
蛇足ですが、大根地山と古墳のほぼ中間点に大宰府があります。

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さて、振り返って古墳の反対側を見ると油山が見えました。
どんな日没が観測できるのでしょうか。

さてさて、この「日拝塚」の由来についてはあの真鍋大覚氏が書き残してくれていましたよ。

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写真が載っていたので、私が撮ったものと並べて見ました。
30年ほどで封土の形が変化しているようですね。
本文を引用してみます。
前方後円墳は門戸(かどのくち)の方位が夏至の日の出、冬至の日の入りを見通す様式になっているものもある。まさに居ながらにして太陽暦日を見取ることが出来る。

前方後円墳を「狐塚」とも言う。その形が狐の耳を立て腰を高くして休みおる姿に似ているからと説かれている。

昔は日契塚(ひけいづか)、後に日経塚(ひけいづか)と呼び、一種の日計塚の意であったが、これを「きつね」と略したのが由緒らしく、更に吉日を選び縁起を担ぎ出す江戸初期頃には暦書の普及も又百姓町民の手元に届くことになって、その由緒が失われた。

またの名を日回塚(ひかいづか)あるいは日向塚(ひけいづか)と言う。夏至冬至のこの日を限って日の出入りの方位が回転するからであるが、これが訛って日拝塚に変わり、春分秋分の日の出日の入りを正す渾天儀の役を勤めてきたのである。
なるほどですね。
すべての古墳が太陽の観測に使えるように造成した訳ではありませんでした。
ただ、この古墳は主軸が東西に造られたために、
さきほどのように山の稜線を観測する事で「日を計る」ことができたので
「日契」「日経」とも呼ばれ、「日回」「日向」とも書かれ、最終的に「日拝」となりました。

「あの古墳は何でヒケイち言うとかいな。」と人々が語源を考えて、
漢字を当てはめていったようすがよく分かります。
キツネの寝姿に似ているのも、面白いですね。
キツネが口にくわえている巻物とは暦のことなのですから。

つづき。
(前方後円墳は)元来は含墓(がんぼ)のちには観墓(かんぼ)と呼んだこともあった。その形が「含」(に似ていたからである。)

「含」とは即ち「王者の口に血統を刻した玉石」で、これを挟む葬式が遠く殷周時代に行われ、(その形は今の短冊あるいは紙雛、又は戯化されて、てるてるぼうずの形に似ていたが、)冥土で閻魔が鋏でこれを抜き、裏表の書面を確かめたうえで天国か地獄への配分を定めたと語られている。やがてこれが「大王の舌抜きの説話」に転じ、更には虚偽の申し立てを「二枚舌」と言うに及んだのである。
へえ。そうなんだ。
中国の殷などの被葬者の口に玉石をくわえさせるのは、
その血統の印刻を閻魔大王に見せるためなんですって。
閻魔大王はその玉石を引っこ抜いて、書面を確かめたなんて。
由来が分かるとなるほどだな~と思いますね。
その形は前方後円墳の形なんだ。ふふ。そうなんだ。

古墳の前と後は高さが不同であった。方位を見定める労を軽くする配慮であった。

衆人はこれを見て各々高さを競うゆえに「いがみあいづか」と称していたらしい。権力闘争を事とした王者を揶揄(やゆ)するかの如くに聞こえるが、元来は神前仏前に供える飯粥(いがい)の形を写した古語に他ならない。

飯はさらに高く盛り上げることができるが、粥(かゆ)は椀に入れて具を中に伏せてもほぼ平たくなる。百姓はかつて王者の資本で開拓した水田のお蔭を感謝する供物を日々忘れなかったのがこの発祥である。(中略)

里の女人が供物を捧げて立ち帰った後、人気のなくなったのを見済まして、母狐が子狐連れでそのまま一日草むらの日向で昼寝をしていたと聞く。古墳の尊厳は荘園が存続していた頃まであったらしい。

『儺の国の星』より(一部、るなが言葉を補いました。)
お供え物の「いがい」が「いがみあい」に変わるなんて、有り得る~。
そして暦のシンボルとなったキツネがそこで昼寝をするなんて、いい時代の話ですね。

古代は「王者の資本で開拓した水田」って、言われるとホントそうなんだ。
これに類する話は「裂田溝」(さくたのうなで)も該当しますよね。
あの裂田溝はここからはすぐ隣の那珂川町にあるんですよ。

そして、この日拝塚古墳の系譜はその那珂川町につながるという話を聞きました。
時代を遡ってその那珂川町に行きましょう。





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# by lunabura | 2012-06-04 19:50 | 日拝塚古墳 | Comments(2)

百済の前方後円墳(6)『旧唐書』日本伝・日本国の成り立ちと不思議な白亀年号


百済の前方後円墳(6)

『旧唐書』日本伝
日本国の成り立ちと不思議な白亀年号
 

『旧唐書』の倭国伝について、現代語訳をしましたが、
冒頭の部分について、多くのアドバイスをいただきました。
問題の箇所は「倭國者古倭奴國也。」というところ。
「倭国はいにしえの倭の奴国である。」と参考本に従って余り考えずに訳したのですが、
「倭国はいにしえの倭奴国である。」というのが妥当ではないかという内容です。

「倭」について「奴」について「倭奴」について、古代言語の解説などもいただいて、
興味深く拝読しました。
これを消化するには古代の中国史や朝鮮史そして、肝心の古代九州史の知識が必要で、
奥の深い世界です。
ブログという性格上、自分の思考の変化の過程を残すのも醍醐味だと思ったので、
前回の文は訂正しないでおく事にしました。
みなさんのコメントによって私の気づきが深まる過程を残したいと思います。

さあ、それでは「ぶらぶら歩き」の精神にのっとって『旧唐書』の訳を続けましょう。
『旧唐書』にある不思議な二つの国「倭国」と「日本」。
今回は「日本伝」です。
これまた唐の制度の知識が必要なのですが、またみなさんのアドバイスに期待して、
訳をしていきましょう。
日本国は倭国の別種である。その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。

その日本人で唐に入朝する使者の多くは尊大で、誠実に答えない。それで中国ではこれを疑っている。

彼らは「我が国の国境は東西南北、それぞれ数千里あって西や南の境はみな大海に接している。東や北の境は大きな山があってそれを境としている。山の向こうは毛人の国である。」と言っている。

長安3年(703)、その大臣の粟田真人が来朝して国の特産物を献上した。朝臣真人の身分は中国の戸部尚書(租庸内務をつかさどる長官)のようなものだ。彼は進徳冠をかぶって、その頂は花のように分かれて四方に垂れている。(進徳冠…唐の制度の冠の一つで九つの球と金飾りがついている)紫の衣を身に付けて白絹を腰帯にしていた。

真人は経書や史書を読むのが好きで、文章を創る事ができ、ものごしは温雅だ。則天武后は真人を鱗徳殿の宴に招いて司膳卿(しぜんけい・食膳を司る官)を授けて、本国に帰還させた。

開元の初め(玄宗の時代・713~741)また使者が来朝してきた。その使者は儒学者に経典を教授してほしいと請願した。玄宗皇帝は四門助教(教育機関の副教官)の趙玄黙に命じて鴻盧寺で教授させた。

日本の使者は玄黙に広幅の布を贈って、入門の謝礼とした。その布には「白亀元年の調布(税金として納めたもの)」と書かれているが、中国では偽りでないかと疑った。

日本の使者は唐でもらった贈り物を全部、書籍を購入する費用に充てて、海路で帰還していった。

その副使の朝臣仲満(阿倍仲麻呂)は中国の風習を慕って留まって去らず、姓名を朝衡(ちょうこう)と変えて朝廷に仕え、左補闕(さほけつ・天子への諫言役)、儀王(第12王子)の学友となった。朝衡(仲麻呂)は京師に50年留まって書籍を愛好し、職を解いて帰国させようとしたが、留まって帰らなかった。

天宝12年(753)。日本国はふたたび使者を送って朝貢してきた。
(※藤原清河・大伴古麻呂・吉備真備ら)

上元年間(760~762)に朝衡を左散騎常侍(天子の顧問)・鎮南都護(インドシナ半島北部の軍政長官)に抜擢した。

貞元20年(804)。日本国は使者を送って朝貢してきた。学生の橘逸勢(はやなり)・学問僧の空海が留まった。

元和元年(806)。日本国使判官の高階真人は「前回渡唐した学生の学業もほぼ終えたので帰国させようと思います。わたくしと共に帰国するように請願します。」と上奏したのでその通りにさせた。
開成4年(839)。日本国は再び使者を送って朝貢してきた。
後半には煌めく大スターたちがどんどん登場して、目を奪われそうです。
教科書でよく知っている名前なので、うれしいですね。
日本からの遣唐使について、唐からみた姿が伺えます。

則天武后と粟田真人
則天武后(在位690-705)の生まれが623年なので、
粟田真人が則天武后に会った時は80歳だったという事になります。

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写真の則天武后の後の官人たちの服装や冠を見て下さい。
これに対して真人は戸部尚書(租庸内務をつかさどる長官)ほどで、あまり高い身分でないのに、
高い位のものを身に付けていたようなニュアンスを受けました。
紫を着られるのはどんな身分だったのでしょう。

これは進徳冠。
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(画像出典 昭陵博物館)
http://kohkosai.com/chinaphoto/syouryou/syouryou/page/005.htm
進徳冠を調べて行くと中国では 次代の天子になるべき太子の専用帽子だったという記事もありました。

どうやら国内なら厳罰に処せられそうな格好です。
異国の風習だからと朝廷は寛大に接したのでしょう。
倭国に比べて日本国から来た人たちへの疑いのまなざしはこうして続いたけれど、
新たに来朝した真人の人柄のよさに則天武后は別れの宴を開くほど、
真人を信任したと思われます。

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これは則天武后が若いころ。(ドラマより)


おっと、美人に見とれている場合じゃなかった。
テーマは「倭国と日本国」なんです。

日本国の成り立ち
もう一度最初の部分を読み直すと、
日本国は倭国の別種である。その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。

その日本人で唐に入朝する使者の多くは尊大で、誠実に答えない。それで中国ではこれを疑っている。
彼らは「我が国の国境は東西南北、それぞれ数千里あって西や南の境はみな大海に接している。東や北の境は大きな山があってそれを境としている。山の向こうは毛人の国である。」と言っている。
倭人に比べて日本人は態度が大きかった?
「多自矜大、不以實對、故中國疑焉」が原文です。
答え方にも誠実さが見られず、これまでの倭人のひたむきな印象と比べると、
「倭国が日本国になったのか?いったいどうなっているのだ?」
と中国側も「日本国」の存在を疑ったように見えます。

日本国の成り立ちは、
「倭国が日本国と名前を変えた」
「古くは倭国の東にあった小国が、いつのまにか倭国の地を併合した」
の二つが考えられた事が分かります。

後者は近畿の小国が大きくなって九州に勢力の中心があった倭国を併合して、
日本国と名乗った事を意味します。
百済の前方後円墳の副葬品の状況からは後者の説が正しいと思われます。

いったい、この時代はどうなっているのでしょうか。
サイドバーの年表に『旧唐書』から得られた年を赤字で入れ込んでみました。
630 遣唐使はじまる
632 新羅・善徳女王 即位
642 皇極天皇・35代 即位
645 中大兄皇子乙巳の変
645 孝徳天皇・36代 即位
648 倭国は新羅にことづけて上表文を送る。
655 斉明天皇・37代 即位
660 百済滅亡
661 斉明天皇が崩御
662 天智天皇38代那国で即位 
663 白村江で大敗する
667 大津へ遷都する
703 日本国は粟田真人を使者とする。

倭国に関する記事は648年が最後です。
中大兄皇子の乙巳の変の頃に
倭国は新羅に仲立ちを頼んで中国との交渉を取り付けようとしています。

一方日本国の朝貢は630年の遣唐使から始まって、
703年の粟田真人から交流が深まります。
その間にあの663年の白村江の戦いが存在します。
それまでは倭国と日本国が併存していたと考えられます。

そうすると白村江の戦いの「倭国・百済の連合軍 対  唐・新羅連合軍」の前者は
厳密には「倭国・日本国・百済の連合軍」という事になりそうです。

白亀という年号
開元の初め(713~)に日本の使者が持って来た布には
「白亀元年の調布」と、日本史にない年号が書かれていました。

これについて九州王朝には「二中歴」という別系統の年号が存在する事が研究されているので、
探してみましたが、その中にも白亀はありませんでした。

参考にした本では「写し違いだ」と簡単に片づけてありましたが、
中国側はわざわざ「疑った」と話題にしているのです。
日本国は現在伝わる年号と違う年号を持っていたと考える方が合理的でしょう。
そう簡単に写し違いにするのはもったいないですね。

つづきは<百済から倭国へ>
日拝塚古墳へ



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# by lunabura | 2012-05-31 11:04 | 百済の前方後円墳 | Comments(4)

古代あさくらツアー・卑弥呼・神功皇后・斉明天皇の足跡を巡る


古代あさくらツアー
卑弥呼・神功皇后・斉明天皇の足跡を巡る

嬉しいな!
ついに古代史ツアーが出た。
これまでの逍遥で、歴史や産物の豊かな所に沢山出会っていました。
そんな魅力的な市町村の観光と古代史を組み合わせたプランが出来たらいいなと
ずっと思っていたので、この古代朝倉のツアーにうれし涙。

タイトルは

「古代あさくらを駆け抜けた 卑弥呼・神功皇后・斉明天皇
ゆかりの地を巡る歴史探訪モニターバスツアー」


―原鶴温泉、農家レストラン、直売所で買い物、夜は郷土史家と歴史談義
2012年5月31日(木)~6月1日(金)
ときたもんだ。

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行程表を見ると、無理なく廻れるコースを組んである。



神功皇后が仲哀天皇の仇討ちをするために羽白熊鷲を攻略するルート。
卑弥呼の里の候補地―平塚川添遺跡。
斉明天皇が突然亡くなって、天智天皇が殯をした恵蘇八幡宮。
そして橘広庭宮の候補地。

そんな場所を巡るんですよ~。
朝倉と言えば三連水車。
夜は原鶴温泉だ。
筑後川流域は今は小麦が黄金色。
果物もおいしい所です。

私も各神社をリンクして応援します (^o^)/
下調べに利用してね。

砥上神社とがみ 朝倉郡 皇后軍が駐屯して砥石で武器を磨いた
栗田八幡宮(松峡八幡宮) まつお 朝倉郡 羽白熊鷲攻撃の大本営を築いた
大己貴神社 おおなむち 朝倉郡 神功皇后は大三輪の神を祭った
恵蘇八幡宮
恵蘇八幡宮と木の丸殿(1)筑紫で亡くなった斉明天皇のモガリの宮
恵蘇八幡宮(2)なんと縁起に斉明天皇陵の所在地が書かれていた。
恵蘇八幡宮(3)一筋縄では行かない地名の特定・明日香村の地名の変遷が分からない
恵蘇八幡宮(4)こんな所に漏刻(水時計)があったよ


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問い合わせ・申し込み
朝倉広域観光協会 歴史探訪モニターツアー事務局
TEL 0946-24-6758 FAX 0946-24-9015
e-mail:aakankou@apricot.ocn.ne.jp

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途中であの埴輪くんに会えるかも!

仙道古墳
http://lunabura.exblog.jp/15708317/

















朝倉市










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# by lunabura | 2012-05-26 20:42 | にっき | Comments(6)

百済の前方後円墳(5)中国正史に「倭国」と「日本」 二つの王朝が書いてある…


百済の前方後円墳(5)

中国正史に「倭国」と「日本」 二つの王朝が書いてある…
まずは『旧唐書』倭国伝を読んでみよう

日本書紀を気ままに訳していました。
我が国の事を古い時代は「倭国」と書いていたはずなのに
継体天皇の時代には「日本」という表記が出て来ました。
いったいいつの間に「倭国」から「日本」になったんだろう。

そう思いながら『旧唐書』(くとうじょ)をパラパラとめくっていると、あれあれ?
目次に「倭国」「日本」と二種類書いてあるのです。
これはいったい何だ!
日本が二種類だって?
二つ並んでいるという事は、唐は明らかに「日本列島に『二つの王朝』がある」
と認識していることを示しています。

「倭国」と「日本」は別なのか?
読み始めるといきなり「倭国」の場所が書いてありました。
目が点 (@_@;) 何じゃあ、これは!
それは良く良く知っている所でした。
それはこのブログでずっと歩きまわった所―奴国だと書いてあるではないですか。

それじゃあ、「日本」は、ど、何処?
と驚いたのですが、訳して読まないと、どうしようもない…。
と、ぼちぼちとチャレンジするのでありました。
という事で今回は『旧唐書』倭国伝です。

倭国
倭国はいにしえの倭の奴国(倭奴国)のことである。唐の都の長安を去ること1万4千里。新羅の東南の大海の中にある。倭人は山ばかりの島に依り付いて住んでいる。倭国の広さは東西は5か月の旅程で、南北は3か月の旅程であり、代々中国と通じていた。

その国の町などには城郭が無く、木で柵を作り、家の屋根は草で葺いている。

四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。制定する官位は12等級ある。訴訟する者は匍匐(ほふく)して前に出る。

倭国には女が多く、男は少ない。かなりの漢字が通用している。俗人は仏法を敬っている。人々は裸足で、ひと幅の布で身体の前後を覆っている。

貴人は錦織の帽子をかぶり、一般人は椎髷(さいづちのようなマゲ)で、冠や帯は付けていない。

婦人は単色のスカートに丈の長い襦袢を着て、髪の毛は後ろで束ねて、25センチほどの銀の花を左右に数枝ずつ挿して、その数で貴賤が分かるようにしている。衣服の制(つくり)は新羅にとても似ている。

貞観5年(631)。倭国は使いを送って来て、地方の産物を献上した。太宗は道のりが遠いのをあわれんで、所司(=役人)に命じて毎年朝貢しなくてよいように取りはからわせ、さらに新州の刺史(しし=長官)高表仁に使者のしるしを持たせて倭国に派遣して、てなずけることにした。ところが表仁には外交手腕がなく、倭国の王子と礼儀の事で争いを起こして、国書を述べずに帰国した。

貞観22年(648)になって、倭国王は再び新羅の遣唐使に上表文をことづけて太祖へ安否を伺うあいさつをしてきた。

(※のちに「倭の奴国」は「倭奴国」と換える事になります。)
以上が「倭国伝」です。この『旧唐書』は945年に成立しています。

唐の太祖(在位626年 - 649年)の時代のエピソードが書かれているので、
皇極天皇の642年の即位、白村江の戦いの663年と比較すると、
「倭国の王朝」がまだ存在して、「日本」と併存している事になります。
しかし、この後の『新唐書』ではもう「倭国」についての記述は消えてしまいます。

やはり白村江の戦いで倭国の兵士たちが海の藻くずとなった事が
倭国の滅亡へとつながったのでしょうか。

「倭国とはいにしえの倭の奴国だ。」という事は福岡県の北部を指しています。
奴国(なこく)。那の国。儺の国。表記がいろいろとあります。
そう。そこはこのブログでずっと歩いてきた所なのです。

奴国は現在の福岡市を中心にして、もう少し広い領域が相当します。
これまでの聞き取りでは東は福津市の東郷川まで、あるいは宮地嶽古墳あたりまで分かっています。
西は那珂川町が『儺の国の星』のタイトルが示すように奴国に入ります。
北は志賀島あたりまでかな?南限は未調査です。

倭国(奴国)の王の姓は代々アマ・アメと書いてあります。
これを見てちょっとショックでした。だって日本の神話によく出て来る名前ですから。

どこに住んでいたのでしょうか。
候補地の一つに聞き取りでは粕屋郡の志免町があります。
また、仲哀天皇の時代はもちろん儺の県―福岡市東区香椎ですね。
(ただし仲哀天皇が倭国の王のアマ氏かどうかはよく分からない。)

中国正史の他の本をパラパラとめくると都は
『新唐書』には筑紫城。
『隋書』には邪靡堆。即ち邪馬台だと書いてあります。
邪馬台も奴国にある事になってしまいます。
まだ一部しか読んでいないので、結論は出せませんが、これはいったいどういう事なのでしょうか。
都というものは時代の変化に合わせて転々とするけど、奴国の中でという事になります。

これがいわゆる「九州王朝」を指すのは明らかです。
こりゃあ「九州王朝説」とは、説ではなく、「事実だ」よ。だって中国の歴史書にそう書いてあるんだもん。

朴天秀氏が明らかにした百済の前方後円墳から割り出される「古代九州勢力」が
この「倭国」であるというhurutakaimasakiさんの指摘もまちがいありません。

中国史の部分しか読んでないので、全容を早く知りたいなあ。
誰か既に論文書いてないかなあ…。ズボラしたいよ。
公開日記に書くには問題が大きすぎますよね。


さてさて、話は全く変わりますが、ここに描かれた倭人のファッションが気になります。
人々は裸足で、ひと幅の布で身体の前後を覆っている

これは庶民の格好の話ですが、いったいどんな格好?

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この写真の中央の人は「貫頭衣に一枚の布を前後に覆った」格好です。
左の人は貫頭衣だけ。右の人は貫頭衣の上から一枚の布を肩で結んでいます。
「顔が濃い人たち」が着ると「弥生人の貫頭衣」とは全く違うように見えますが…。
どうみても貫頭衣です。

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阿部寛さん以外は現地のローマ人。似た人、ご近所にいませんか?

貴人は錦織の帽子をかぶり、一般人は椎髷(さいづちのようなマゲ)で、冠や帯は付けていない。

c0222861_23573033.jpg男子でも身分が高くなると帽子をかぶり、
一般人は「さいづちのようなマゲ」を結っています。
才槌は木の槌ですから、こんな感じかな?
これは『三国志』(180~280)の髪型です。日本では弥生時代ですね。
竹内宿禰が軍勢にこの髪型にさせて、弓の弦を隠させたのを思い出します。
ということは彼らは普段は違う髪型だった訳ですが。

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参考までに同じ『三国志』の冠や甲のようすです。
倭国の王族アマ氏は毎年、唐に朝貢していたというのですから、
このような服装の影響を受けていただろうとも思えるのですが。
いったいどんな格好をしていたんでしょうね。
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上は竹原古墳の壁画の武人。ブーツはいてるね。

婦人は単色のスカートに丈の長い襦袢を着て、髪の毛は後ろで束ねて、25センチほどの銀の花を左右に数枝ずつ挿して、その数で貴賤が分かるようにしている。衣服の制(つくり)は新羅にとても似ている。

c0222861_23584585.jpg身分の高い女性はスカートに襦袢です。
襦袢(じゅばん)の語源はアラビア語の「ジュッパ」がポルトガル語「ジヴァン」に変化して、漢字をあてたものだそうです。
高松塚古墳(700年前後)の壁画の女性たちは後ろで髪を束ねてスカートを履いて、襦袢を着ています。
壁画のスカートはカラフルですが、倭国の場合は単色でした。
ヘアースタイルはトップは少し逆毛を立てて、あとは後で束ねています。
銀の花の髪飾りを揺らすにはもう少し上の方で結った方が良さそう。




c0222861_2359730.jpg良く似ているという新羅の女性の服装です。
こっちの方が銀の花の髪飾りが似合いそう。
倭国の婦人たち。どんなファッションだったのでしょうね。

次は同じ『旧唐書』の「日本伝」を読んでみましょう。

(つづく)










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# by lunabura | 2012-05-23 00:05 | 百済の前方後円墳 | Comments(21)
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