ひもろぎ逍遥

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安曇磯良・アントンイソラ・シリウスの化身


安曇磯良
アントンイソラ
シリウスの化身 

志賀海神社の御縁で再会した旧友に、今日ゆっくりと会って来ました。
御土産に御祭神の安曇磯良の記事を持って行きました。

安曇磯良(あずみのいそら)は、神功皇后を船に乗せた縁で福岡の各地に祀られています。

そこで安曇磯良の過去記事のリンク表を作りました。
既に読んだ方も多いと思いますが、時系列を追って読み直すと
筑紫の古代がまた違う角度で見えて来ると思います。

志賀海神社 (しかうみじんじゃ)
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元宮のある小戸―ここで神々が生まれた

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鞨鼓の舞 (かっこのまいー境内にあった御神幸祭の写真)


志賀海神社(7)安曇磯良・アントンイソラ
http://lunabura.exblog.jp/17635971/




志式神社(ししきじんじゃ)

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竹内宿禰に頼まれて干珠満珠を海神に貰いに行くが…
この宮だけに伝わる神楽の演目 磯良舞

志式神社 (Ⅲ) 夜神楽を見て来ました。
「早魚舞(はやままい)」―乙太夫の天神尋ね
http://lunabura.exblog.jp/13063172/





風浪宮 (ふうろうぐう)

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本殿にある磯良像

風浪宮(1)たらしーおきながたらし
http://lunabura.exblog.jp/16855625/


風浪宮(2)あずみー阿曇磯良ー安曇目
http://lunabura.exblog.jp/16860839/





大善寺玉垂宮 (だいぜんじたまたれぐう)

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本殿

大善寺玉垂宮(4)高良玉垂神とはアントンイソラか
http://lunabura.exblog.jp/16811279/







高良玉垂宮
(こうらたまたれぐう)
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縁起絵巻の中央に描かれる安曇磯良 亀に乗って顔は白布で覆って鼓を持っている


高良大社(6)玉垂宮の縁起は志式神社の神楽とつながった
http://lunabura.exblog.jp/16218474/






和布刈神社 (めかり)

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(神殿と九州最北の磐座)

和布刈神社(2)和布刈神事と干珠満珠の秘法
http://lunabura.exblog.jp/17022180/




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# by lunabura | 2012-08-16 21:19 | 安曇磯良 | Comments(2)

儺の国の星・「発刊に当たって」を読む


儺の国の星
「発刊に当たって」を読む
 

那珂川町にせっかく来たので、この町に伝わる古来の星々の名が記された
『儺の国の星』を改めて手に取りました。

行間からこぼれ出す、さんざめく星々の光。
忘れ去られた古代の日本人の暮らし。
何度読んでも、その世界に引き込まれてしまいます。
しかも私の読解は遅々としています。

真摯に古代社会を追う人々にとってはヒントに満ちているこの本の再版を
町にお願いした事は前述しましたが、再版されるかどうかはまだ分かりません。

そこで、今回はその「発刊に当たって」という一文を書写する事にしました。
これで古代の那珂川町にアプローチしてみましょう。
発刊にあたって

那珂川町の歴史は、いつから始まったものか何の文献も、これを説明する資料は全く残っておりません。

しかし、日本書紀には儺縣(なのあがた)の記事がみえ、また有名な魏志倭人伝には奴国(なのくに)の記載がありますから、既にその頃は筑紫国の玄関として大陸の文化をまともに受け入れていた所と考えられます。

日本から大陸に渡るには、必ず玄界灘の上を通らなければなりません。従って昔の舟人が、必ず星の明りを看(み)て取って、船を行ききさせていたことを思い合わせますと、那珂川には、必ず古い星の名が無数に残っていて然るべきであります。

那珂川は中世の幾度となく打ち続いた戦乱の中にも、荘園だけは祖先の素朴にして誠意ある代々変わらぬ努力の致すところ、厳然として保存され、その上料(あがりりょう)の寄進が博多と太宰府の文化を支える偉大な基盤の形成に力あったことは、隠れた事実でありました。

思ふに、昔の殿上人でなければ、心得ているはずのない上品な星の名が口伝ながら旧家に残っていたことは、誠に不思議な奇蹟でもありました。

那珂川には上古は神功皇后(201~269)、下って皇極・斉明天皇(642~644、655~661)、天智天皇(662~671)並びに後の天武天皇(673~686)、持統天皇(687~696)そして安徳天皇(1181~1185)の行宮(あんぐう)がありました。

今から54年程前に、高松宮殿下の御下命を承りて古事記の独逸語翻訳に生涯を畢(つく)した香椎宮司木下祝夫博士が、斯くの如き由緒ある土地には必ずや日本の文化を支えてきた観星の古語が残存していることと思ふので、今のうちに寸暇を工面して後世に書物を残すことを進言しておかれたのが、執筆の動機であったと聞きます。

著者真鍋大覚氏の御先祖は遠く常陸(ひたち)石岡(いしおか)の出(で)で、永く鹿島神宮の神官を勤め、慶長のあと那珂川の肥前境に帰ってきて、近世は庄屋として百姓の農事に欠かせない歳時暦の編集を維新まで毎年つづけてこられました。

特に、名文として世に知られる常陸風土記の作者なる藤原宇合(うまかい)(694~737)及び今昔物語に豪勇を讃えられた藤原保昌(958~1036)の南家の末裔でありましたがために、荘園のころの公家だけがよくこころえていた優雅な星座の名前を口伝として保存しておられました。

幸い、著者は幼少の頃、父母とともに田仕事、畑仕事、山仕事を夜遅くまで手もと、足もとが見えなくなるまで手伝っておられました。

そのときに、両親からその季節の星の色や光を一つひとつ文字通り手に取るように教え込まれ、時刻の読み方と天気の見方を教えられました。

その時の記憶はもう今から数えて50年昔のことでありますから、もう既にご記憶はかなり淡くなったと語っておられますけれども、民族学的伝承を永久保存する目的で関係方面のご同意とご協力を得て、ここに出版の運びとなりました。

本書は、広報なかがわに昭和53年4月から昭和56年3月まで「那珂川町の星紀辰位」と題して連載した分と、未掲載の聞き書きを追加した分であります。

何分にも遠い昔の伝承の回想録だけに正確な年代や出典を考証するのに多大の事実を要したものと思われまして、九州大学工学部技術官佐藤洋子氏の並々ならぬ調査並びに校正及び索引作製の御助力がありましたことをここに改めて特記しておきます。

皆様方は、この小冊子をご覧になられまして、私達の遠い祖先が夜の間に眺め、祈ってきた美しい雅やかな星の名の数々がこんなにあったのかと驚かれることと思います。

どうか、皆様方のご家庭にもまた、いくつもの別の星の話題があるかと存じますから、何かご団欒のおりの思い出の引きての一つになればと幸に存じます。

昭和57年2月吉日  那珂川町長 大久保 福義

この序文で驚くのは、まずは神功、皇極・斉明・天智・天武・持統・安徳天皇の
歴代の行宮があった事がさらりと書かれている事です。

この中で安徳天皇の行宮については「安徳台」「お迎え」という地名に残されています。
お迎え
安徳天皇に因む地名です。九州へ下向した安徳天皇が外戚であり安徳台(迹驚岡―とどろきのおか)に居館を構えた原田種直を頼り那珂川町を遡上した際、ここで原田一門や村人に迎えられたと伝えられています。

安徳天皇は迹驚岡の仮御所で体を休め、後に壇ノ浦の戦いへ挑むべく各地を渡り歩きました。」(なかがわ見聞録~文化財散策ルート~よりー町で貰えるマップ)
原田種直はNHKの大河ドラマで大宰府の長官(?)として出て来ましたね。
彼のお家は那珂川町だったんだ~。
風早神社の近くなので、武器の生産もしていたかも。

これがそのエリアです。

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これは裂田神社から眺めた裂田溝(さくたのうなで)。
左の森が安徳台です。実際に室町時代の居館あとなどが発掘されています。

さて、さらに前の時代の皇極~持統天皇の行宮と言ったら磐瀬宮という事になります。
いったいそれはどこだと伝わっているのでしょうか。
手に入る那珂川町の沢山のパンフレット類には全くその記述が見られないので、
これからのお楽しみとなりました。

また著者の眞鍋大覺氏に関しては、先祖は鹿島神宮の神官だった事、
また常陸風土記の作者の末裔だった事が書かれています。
那珂川町では庄屋として暦を作った家系なんですね。

さて、カテゴリにある<星の和名・天体>はこの本を元に、
星ごとに分類していく試みをしているものです。
誰も伝えることのなかった古代日本の星の世界へのチャレンジです。

「真鍋大覚」というタグがありますが、エキサイトブログのタグ機能は
各記事に三つしか使えないので、中途半端な分類になっています。
頭の痛い所です。


次回は『儺の国の星・拾遺』の方を紹介します。




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# by lunabura | 2012-08-12 22:13 | <真鍋大覚儺の国の星> | Comments(1)

儺の国の星・拾遺 (1)序文を読む 1


儺の国の星・拾遺 1
序文を読む 1
 

前回、那の国の星々の名が那珂川町の旧家に伝わる事情が分かりましたが、
今回はさらに詳しく見て行きたいと思います。
『儺の国の星・拾遺』の序文ですが、長いので、少しずつ紹介して行きます。

序文
本書はさきに昭和57年3月31日に刊行されました『儺の国の星』の続編であります。

那珂川は太宰府の近郊に在ったことから、編暦の官人の草稿が旧家に保存されておりました。しかるに醍醐帝天慶2(939)年の藤原純友の乱と後陽成帝天正14(1586)年の島津義久(1533~1613)の乱により、多くの古書が散逸しました。

それでもなお明治38(1905)年7月26日の大風大水までは庄屋の土蔵の中の唐櫃(からひつ)や文庫の中には、太宰府からの疎開の書類写本が保存されていたのでありましたが、この時の水禍の災害があまりにも甚大であったがために、その復旧工事に盆を返上しての日夜の努力が彼岸まで続いたとのことでありました。

漸く秋分に入って土蔵の中に風を通した時に、意外な雨もりで書類は水気を吸い込んで、ついに開きも離しもかなわず、盥(たらい)に水をはって、これに浮かべて少しづつはがしては筵(むしろ)の上に広げて乾かしたのでありますが、何分にも九百年近い古書であったがために修理不能のやむなきにいたりました。

幸に真鍋勝次(文化14年4月8日~明治42年4月23日 1817~1909)に幼少の頃から侍して、よく家伝の古書を披見(ひけん)していた真鍋利市(明治4年8月12日、昭和22年8月16日、1891~1947)がその内容を記憶しておりましたので、

ここに何とか「晉書天文誌」と昭和39(1964)年、初版のA.Becvar(ベックバール)の『アトラス ボレアリス エクリプテイカリス アウストラリス』の星座図をもってその口伝を確かめることができました。

真鍋勝次は明治維新後もなお那珂郡の方冊(ほうさく)を作製して、百姓の歳時月令に資した最後の人でありました。

昔の國暦は現行の太陽暦ではなく、太陰暦に二十四節季、五十六節気、或いは七十三節期を配し、しかも気候の早晩を閏月の適所挿入によって調整するところの天文気象暦でありました。

餘日延年、即ち1年の太陽暦日と太陰暦日の差を秋分に定め、これと同じ日数が過去何年前にすでに存在していたかを付表から引き、その年の天気地気の記録を参照して立冬までに編纂を完了するのでありまして、真鍋利市は常に机辺(きへん)に正座して祖父真鍋勝次の仕事を見守り、自ら検算を助けました。

早くから窮理の術、即ち現在の球面三角法と天文力学を修め、祖父はその英才を嘱望して、孫ながら、真鍋勝三郎(文久2年12月15日~昭和25年3月26日、1862~1950)の養子に選びましたが、後、前町長真鍋勝次(明治43年2月11日~昭和53年7月28日 1910~1978)の出生におよび、これを独立させて大学卒業まで学費を送ることに定めました。

察するに肥前長崎の天文学者西川如見(1648~1724)に幾代か前の先祖が洋書を求めてこれを習っていたものとみえます。

西川如見は暦法に季節を入れることを主張して江戸幕府に抜擢されました。東山帝元禄2(1689)年に江戸本所深川に渾天儀を置き、渋川春海(1639~1715)は京都土御門に代って暦書編纂の事業を開始しました。

二百十日を入れるべき百姓漁師の上申をうけつけたのは、靈元帝寛文11(1671)年からのことと伝えられます。
(つづく)
那珂川町が太宰府市に近いという事で、大宰府で使われた文書の草稿が
旧家に保存されているような環境があった訳です。

藤原純友や島津義久の乱で多くの古書が散逸したと書いてありますが、
私が逍遥している間も、大宰府政庁跡では純友が建物を燃やした話を聞いたし、
志式神社や伊野天照皇大神宮辺りでは、
島津の兵隊たちが神社を焼いて古文書も焼失したり、
鐘を持ち去ろうとして具合が悪くなったという話に出会いました。

古文書を焼く事はその歴史を抹殺するに近い暴挙ですよね。

那珂川町ではそれでも残った写本などが、明治38年の水害で駄目になってしまった。
その日付が7月26日と言う事なので、今年の7月12日~14日前後の水害を思うと、
梅雨前線や台風の脅威はいつの時代も思いがけない地域を襲うのが分かります。

風水害のために真鍋家でも蔵書が修理不能になったのですが、
祖父の手伝いをしていた利市が内容を記憶していて、
昭和になって出版された星座図で口伝を確かめたという事です。

明治38年の水害から昭和39年の初版まで、よく途絶えずに伝わったものです。
(これって、すごい内容が日本に伝わっていたんだ。900年以上も前の情報なんです。)

毎年作成される暦は太陰暦で、気候の早晩を閏月の挿入で調整するという事です。

この閏月(うるうづき)で思い出す事があります。
10年ほど前に太陰暦のカレンダーを2年ほど使った事があります。

確か四国・土佐で作られ始めたカレンダーなのですが、
漁業の人の間で漁に役立つという事で、口コミで広がりました。

これが婦人服の生産や販売(バーゲンの時期の見極め)などにも役に立つので、
さらに広がって行ったそうです。
旧暦のカレンダーという物は、閏月の挿入場所が、寸前にならないと分からないものだと書いてありました。

夏の長さや短かさなどは、ここに反映されるのだそうです。

私はそれまで、閏月は4年に一度、定期的に挿入するものだと思っていたので、
目からウロコでした。

それにしても、球面三角法なんぞを何に使ったんでしょうか。
(ネットで調べると、天文や航海術、そして四柱推命などに必要らしい。)
やはり海を渡るには必要不可欠なんですね。

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江戸後期の渾天儀 画像出典
http://www.e-tmm.info/syuuzou/kontengi.htm
(つづく)

地図 那珂川町と太宰府市







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# by lunabura | 2012-08-11 00:19 | <真鍋大覚儺の国の星> | Comments(0)

儺の国の星・拾遺 2・物部氏の矜持 ― 遺言はハレー彗星の通過日の特定だった


儺の国の星・拾遺 2

序文を読む 2
物部氏の矜持 
遺言はハレー彗星の通過日の特定だった
 

前回のつづきです。
口述筆記のために、明らかな誤字は変えています。
明治43(1910)年4月19・679日Halley(ハリー)彗星は近日点を通過しました。

この時が69推の方冊(ほうさく)の家系を語る と、生前の真鍋勝次は信じて他界しておりました。即ち彗星到来を予見した上での遺言でありましたが、これはまさに的中いたしました。

ここに1推(いっすい)とはメトン周期のことで、太陰暦235月6939・68841日と19太陽年6939・60170日が差0・08761日をもって一致するところからきた名称でありました。

これから69推は1311年前、即ち推古帝7(599)年のことになるのでありますが、日本書紀巻22推古紀(603)年壬戌歳には、
   冬10月に百済の僧 観勒(ほうし くわんろく まうおもぶ)けり。
   仍(よ)りて暦の本(ためし)及び天文地理の書(ふみ)、併(あわせ)て
   遁甲方術(どんかふはうじゅち)の書(ふみ)を貢(たてまつ)る。

とありまして、祖先は物部氏の出身であり、異朝から大宰府の招請に応じて暦書を
上された時に、これが本朝の古来の式例に副うものであるか否かを検算する家系
であ
ったことが判明いたしました。

大宰府は異朝の入貢する船籍が多く入泊しますから、各国の暦制が船ごとに異なり、これを対応して数年先の次の入国の機会まで、日取りを正しく登録する必要がありました。

従って物部氏は代々、大宰府の暦官の職務を世襲して、もって天文学的計算の術を通じ、これに仕えていたのであります。

「69推の方冊(ほうさく)の家系を語る」
これはハレー彗星が地球に一番近づく日時を特定する事によって、
69推(1311年)続いた、真鍋家の歴史と実力を証明するという意味です。

トップシークレットだった為に、誰も理解する事のない、
物部氏の本来の仕事がこの天体観測であり、暦造りでした。
ハレー彗星はハレーが発見した事になっているが、
日本ではとっくに知られていたのだという思いが伝わって来ます。

この計算が、どれほど高度な科学的知識に裏付けられているのか、
明治時代には誰も理解出来なかった事でしょう。
現代でも、そんな家系が在ったと素直に信じる人は少ないかもしれません。
だからこそ、ハレー彗星の到来を予見したのですね。

ハレー彗星の近日点をどうやって計算したのか想像も出来ないけど、
「69推」ぐらいは理解してみましょう。

「メトン周期」か…。名前は知っていても、内容は知らないよ。
こんな時はWik頼り。
 メトン周期 19太陽年は235朔望月にほぼ等しいという周期のこと。
この周期は、太陰太陽暦で閏月を入れる回数を求めるのに用いられた。メトン周期に
従うと19年間に7回の閏月を入れれば太陽年とのずれが解消されることになる。

関係ある所だけ書き写しました。検算してみましょう。

1年は365日。1か月を30日とすると、30日×12か月は360日。
その差は5日。10年経つと50日も差が出て、季節感はめちゃめちゃ。
そこで時々閏月を入れて誤差を調整する必要が出てくるけど、
19年間で7回の閏月を入れると誤差は解消されるという事か…。

どうれ、計算してみよう。
365日×19年=6935日
30日×235ヵ月=7050日
7050-6935=115日
30日×7回=210日
あれ?うまくいかない。一か月30日が間違ってる? (@_@;)
29.5日ぐらいかな?
それとも、序に書いてあった、12桁でないと誤差がひどすぎる?
(どうやって計算するの~)

それじゃあ、12桁を使ってまじめに計算しようとしたけど、
桁が多過ぎて計算機に入力できない。とりあえず、下6桁までで計算してみよう。
365.693960日×19年=6948.1852日
30日×235.693968月=7070.8188日
これもダメ。検算でさえ私は出来ない(涙)
差0・08761日が出て来ないよ~ (・.・;) 
やはり、1か月30日が駄目なのか。誰か頼む…。(いや、お願いします。)

こんなメトン周期を日常で使う家系ってどんな家?
そして、計算機がないのに、どうやって計算したのだろう。
メトン周期はあきらめ!

気を取り直して、ハレー彗星を調べてみよう。
「ハレー彗星はエドモンド・ハレー(Edmund Halley 1656~1742)が
初めて76年ごとに地球に近づく彗星を発見した。」

なるほど。
真鍋勝次氏は日本の物部氏はすでに76年ごとに地球に近づく彗星の存在を知っていて、
その近日点を計算する事も可能だったという事を証明したかったんだ。
そして見事的中。

これは天文の歴史を塗り替えるような内容ですぞ。
だから、遺言にしてまでもその家系の存在を伝えたかったのでしょう。
う~む。これぞ物部氏。

真鍋家と大宰府
日本書紀では69推前=599年の3年後に百済の僧・観勒が暦を伝えたとなっていますが、
真鍋家の祖先は、この暦と日本古来の暦との付き合わせをしたという事を暗示しています。
(ひとひねりしていいるのは大覚氏の独特の表現法です。)

現代でも外国では西暦以外の各種の暦を使っています。
東南アジアの何処でしたか、一つの国で何十種類もの暦を民族ごとに使っている
という話をラジオで聞きました。
そのカレンダーはきっとすごい事になってるんでしょう。
でも、その国ではそれが当たり前。
古代の姿が残っているのですね。

古代、大宰府に入港した船も各国から来て自国の暦を使っているため、
倭国の暦との付き合わせが大宰府政庁で行われたんですね。

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これは大宰府の再現図。(パンフレットより)
どの建物でやったのかな。少し身近になりました。

さて、つづき。
真鍋勝次は明治20(1887)年3月28日をもって時の農商務省大臣 山縣有朋(1838~1922)から表彰を受けております。

埼玉県秩父郡の民生安定に多大の貢献を為したるをもって感謝の金一封を授与せられたのでありますが、東京帝国大学農科大学の教授博士をしても荒廃の極に達した田畑の土地改良の大事業を僅か2年の歳月で完成させた功績は天下一の篤農(とくのう)の郷士と称えられたとのことでありました。その語る処の祖先の逸話がこれであります。(つづく) 

勝次氏は那珂川町の元町長ですが、埼玉県では田畑の土地改良に尽力。
日本古来の智恵が余すところなく発揮されたのでしょうね。
どんな改良法だったか、これまた知りたいものです。
(つづく)








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# by lunabura | 2012-08-09 10:31 | <真鍋大覚儺の国の星> | Comments(6)

儺の国の星・拾遺 3・メトン周期と満月の祭事


儺の国の星・拾遺 3
序文を読む 3

メトン周期と満月の祭事
 

諸事情で投稿が遅くなりました。<(_ _)> お待たせです。

前回の難問……メトン周期の計算を愛読者さんがしてくれました!
さて、どんな問題でしたっけ。
そうそう、ハレー彗星の近日点を計算した真鍋家(物部氏の末裔)の
計算力を理解するために、基礎となる「推」を検算していた所でした。

「推」という言葉は現代では「メトン周期」に置き換えられるという事で、
メトン周期にチャレンジして、さじを投げた所でした。(笑)

メトン周期 
19太陽年は235朔望月にほぼ等しいという周期のこと。
この周期は、太陰太陽暦で閏月(うるうづき)を入れる回数を求めるのに用いられた。
メトン周期に従うと19年間に7回の閏月を入れれば太陽年とのずれが解消されること
になる。
(wiki より)

太陽暦で暮らしている私達も、時々旧暦を使います。
福岡では七夕が旧暦で行われていたので、8月の天候の安定した季節に
満天の星空を見る事が出来ました。
最近はもう太陽暦の7月だけになったかな?
7月の七夕は梅雨の末期なので、雨が心配ですよね。

中国では旧暦の正月の帰省ラッシュがよくニュースになっています。
旧暦が今でも生活に密着しているのが分かります。
旧暦だと、月を見れば今日は何日だと分かるので、
空の「誰でもカレンダー」になります。

ところが、困った事に太陽暦とはズレがあるため、話は簡単ではありません。
そのずれが無くなるのが19年目だという事です。

今月の満月は2012年8月2日でしたが、
もし「次の8月2日の満月の日に再び会いましょう」と恋人と約束したら
19年後になってしうまうんだ~。

さて、眞鍋氏の本に戻ると、
古代、大宰府にやってくる各国の船はオリジナルの暦を持っていたので、
大宰府政庁で計算して暦の突き合わせを行なったわけです。

「609年、百済の僧・観勒が暦の本を奉った」と日本書紀にあるけど、
「この時、暦が初めて日本に導入された」と解釈するのは間違いで、
倭国にはすでに和暦が存在していて、百済の暦とどう違うのかを
当時、換算される部署が存在したというのが実態だという事です。

それを行ったのが真鍋家の祖先で、物部氏です。
すでに高度な暦が日本では作られていました。

神功皇后の筑紫での行動にきちんと日付が付いているのも、
当時、すでに暦があって、従軍書記官がいたと推定しています。

前置きが長くなりましたが、メトン周期について愛読者さんのコメントを紹介します。
(朔とは新月。望とは満月の事です。)
メトン周期ですが1月を30日で計算すると合いません。「日」単位で考えてください。

1朔望月=新月から新月の間は29.530589日です。
(だから陰暦では29日と30日の月が約半々になっています)

これを235回繰り返すと29.530589×235=6939.688415日、

1太陽年=冬至から冬至の南中時までは365.242194日×19回繰り返すと=6939.601686日

235を12で割ると19年と余り7月ですので、19年7閏とすれば、19年後に同じ月の同じ日(*11月1日)に冬至が回ってくるわけです。

(*太陰太陽暦では冬至は11月1日を基本の「朔旦冬至」とし、19年ごとに回ってくる。それでもこのメトン周期では若干のずれが出るのでいろいろ改善されています)

これによると、太陽暦と太陰暦の差が0.086629日。
真鍋氏が出した差は0.08671日。
おお。かなり近い数字が出ましたよ。
(1朔望月=約29.5日を覚えておこう。)

計算機の無い時代なのにかなりの水準だったんですね。
愛読者さん、ありがとうございます。
これですっきりしました。

赤司八幡神社の満月の祭事
さて、物部氏が計算力の優れた人たちだったのが分かりましたが、
それで思い出すのが久留米市の赤司八幡神社満月の祭事「竿例し」です。
(「赤司八幡神社」の正しい名称は「八幡神社」です。)

私は、これは「満月の測量」が祭事になったのでないかとずっと考えていました。
赤司八幡宮に伝わる「竿例し」は正月14、15日の夜、地上10尺の長さの竿を立て、月光によって生じる竿の影の長さを測って占象とする。まことに古拙な占行事で、他に例を聞かぬものである。
(『赤司八幡宮の「竿例し」』(古賀壽)より)

「正月14、15日」に注目して下さい。14日と15日の二日間あるという事です。
「正月」とは「旧暦の正月」の事ですから、15日は満月です。
しかし、一か月は約29.5日なので、ずれが溜まると
満月が15日に来るとは限らず、14日に満月を迎える事もあります。

だから、14日と15日の夜に竿の長さを測量して
満月の時間を確定していたのではないかと考えています。

それは神官によって厳粛に行われた事でしょうが、
そのまま神事として伝えられたではないでしょうか。

現在は旧暦の正月14日の晩、一日だけ行われているそうですが、
よくぞ伝えられたと感激しています。

古賀氏の寄稿文には
「昔は多くの人が集まってこの祭事を見守ったと聞くが、
現在は宮司と家族と時に総代会長が参加するというさびれたものになっている。」
とも書いてあります。
是非とも近隣の方々にこの祭事の意味を知って見守っていただきたいなと思いました。

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この赤司八幡神社は三女神の降臨の地であり、大宰別府です。
天の真名井の意味を伝え、満月の測定の神事を伝えています。
かなり高度な星宿祭祀が行われたもようです。

神功皇后を諸手で迎えた人々の宮でもあります。
まだまだこの宮の伝承全体を消化しきれていないのですが、
日本古来の神道の姿を研究するに欠かせない重要な宮だと認識を新たにしました。





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# by lunabura | 2012-08-01 11:03 | <真鍋大覚儺の国の星> | Comments(6)
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