ひもろぎ逍遥

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住吉神社(3)住吉大神と神功皇后


住吉神社(3)
住吉大神と神功皇后

神功皇后住吉大神はどのような関わりがあったのでしょうか。
住吉大神は日本書紀でも意外にも沢山出て来ました。
これまでの逍遥で各話の現場が分かったので、
今回は神社名を紹介しながら、住吉大神が出てくるシーンを書いて行きます。

香椎宮 福岡市東区香椎
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仲哀8年秋9月5日に、仲哀天皇は群臣たちを召して、熊襲攻撃について協議させました。
その時、皇后に神が懸かって神託がありました。
「天皇よ、どうして熊襲が服従しないのを憂うのか。
そこは例えれば、肉のついていない背中のように痩せた国であるぞ。

兵を挙げて討つほどの国であろうか。この国より宝がある国がある。
例えれば、乙女の眉のように弧を描いた国で、
我が国の津に向き合った所にある。
眼もくらむ金・銀、美しい色が沢山その国にはある。
その名をタクブスマ(タクの木の繊維で作った布団が白い、
その白色の名を持つ)新羅の国という。

もし我を良く祭れば、刃に血を塗る事なく、その国はおのずと降服するであろう。
また熊襲も服従するであろう。
われを祭るには、天皇の御船穴門の直(あたい)ホムタチの献上した
大田水田
を供えよ。」
と言いました。

天皇は神託を聞いて、疑いました。
すぐに高い山に登って、はるかに大海を望みましたが、広々として国は見えません。
天皇は神に答えました。
「私が見渡すと、海ばかりで国は有りませんでした。
大空に国がある訳でもありますまい。
どこの神が私をだまそうとしているのですか。
もともと私の皇祖の諸天皇たちからずっと天地の神々を祭って来ました。
どうして、それに漏れた神があるのでしょうか。」と。

すると、再び神が皇后に懸かって、
「天にある水鏡をのぞくように、われが天から下界を見ている国であるのに、
どうして国が無いなぞと、私の言葉をそしるのだ。
そなた天皇がそんな事を言って、最後まで信じなければ、
そなたはその国を得る事は出来まい。
ただ、皇后がようやく身ごもったので、その子が手に入れることになるであろう。」
と言いました。
しかし天皇はやはり信じないで、強引に熊襲を攻撃しました。
勝つ事が出来ないで戻って来ました。   (日本書紀)


小山田斎宮 古賀市小山田
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仲哀9年、春2月に、仲哀天皇が筑紫の香椎宮で崩御された時、
皇后は、天皇がご神託に従わなかったために早く崩御された事に心を痛めて考えました。
祟っている神を明らかにして、神の勧める財宝の国を求めようと。
そこで、群臣や百寮たちに命じて、国中の罪を払い清め、過ちを改めて、
さらに斎宮を小山田の邑に作らせました。

3月の1日に、皇后は吉日を選んで、斎宮に入って、自ら神主となりました。
その時には武内宿禰に命じて御琴を弾かせました
中臣の烏賊津(いかつ)の使主(おみ)を召して
審神者(さにわ)としました。
そしてお供えの織り物をたくさん、御琴の頭と尾のところに供えて尋ねて言いました。

「先の日に天皇に教えられたのはどちらの神でしょうか。
願わくは、その御名を教えて下さい。」
と。七日七夜経って、ようやくお答えになりました。
「神風の伊勢の国の度逢県(わたらいのあがた)の五十鈴の宮にまします神、
名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命
(つきさかき・いつのみたま・あまさかる・むかつひめのみこと)。」と。

烏賊津の使主がまた尋ねました。
「この神以外に他の神はいらっしゃいますか。」
お答えがありました。
「旗のように靡くススキの穂が出るように出た吾は、
尾田の吾田節(あがたふし)の淡郡(あはのこほり)にいる神である。」と。
「他におられますか。」
天事代虚事代玉櫛入彦厳之事代神
(あめにことしろ・そらにことしろ・たまくしいりびこ・いつのことしろのかみ)有り。」
「他におられますか。」
「いるかいないか分からぬ。」
そこで、審神者が言うには、
「今答えずに、また後に出て来られることが有りますでしょうか。」
すると答えがあった。
「日向国の橘の小門の水底にいて、海草のように若やかに出てくる神、
名は表筒男(うわつつのを)、中筒男(なかつつのを)、

底筒男(そこつつのを)
の神がおる。」と。
「他におられますか。」
「いるかいないか分からぬ。」
ついに他に神がいるとも言いませんでした。
その時に神の言葉を得て、教えの通りにお祭りをしました。
(日本書紀)


現人神社 筑紫郡那珂川町

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皇后はこうして神の教えの霊験がある事を確信して、
さらに天つ神、国つ神を祭って祈り、西の方を討とうと思いました。
そこで神田を定めました。その時、儺の川の水を引かせて、神田を潤そうと思って、
溝(うなで)を掘りました。

とどろきの岡に至ると、大岩がふさがって、溝を通す事が出来ません。
皇后武内宿禰を召して、
剣、鏡を捧げて天地の神に祈らせて、溝を通そうとしました。
すると雷が急に鳴り出して、その岩を踏み裂いて水を通しました。
そこで人々はその溝を裂田溝(さくたのうなで)と言いました。 (日本書紀)


唐ノ松神社 中間市垣生
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ここはかつて遠賀川の中の岩の島だった。
神功皇后は帰途にここで住吉大神を祭り、渡海安全の祈願をして剣と鉾を奉納した。
そしてそのしるしに自ら松を植えた。 
(神社誌)


住吉神社 遠賀郡若松
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神功皇后は再びこの崗の津に着いて、
この丘に登って海上に浮かんだり飛び交う水鳥を眺めた。
この時、神功皇后は群臣を召して
「このたびたやすく三韓を従える事が出来たのはひとえにこの神のお蔭である。
その恩をひとときも忘れない。」
と言って自らの手で一株の松を植え、その根元に白幣を納め
「この松は神ともに弥栄に栄えよ。」祈った。
こうしてここを若松と呼んで住吉大神を祭った。(神社誌)


住吉神社 下関市
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戦勝を収めると軍に従った神、表筒男、中筒男、底筒男の三柱の神々が
皇后に教えて言いました。 
「我が荒魂を穴門の山田の邑に祭りなさい。」
と。その時、穴門の直(あたい)の祖、ホムタチ
津守の連(むらじ)の祖のタモミの宿禰が皇后に言いました。
「神が鎮座したいと言われる所には必ず定めて祭られますように。」
そこで、ホムタチを荒魂を祭る神主にして、
祠を穴門の山田の邑に立てました。(日本書紀)

近年まで8月15日には忌宮神社と住吉神社の神輿が会う祭があっていたそうです。

るなは考えた
日本書紀と神社誌から6つの神社を紹介しました。
これらから分かるのは
住吉族は最初から仲哀天皇と行動を共にしていましたが、
香椎宮で天皇の船と穴門の大田水田を求めていたという事です。
戦うための水軍の兵を住吉族は供給出来たのでしょう。
船が48艘も作られたらそれぞれに船頭や指揮官、水兵が必要です。
これらの取引が行われたのでしょうか。

住吉族の拠点は那珂川町の現人神社にあって、水田を作ろうとしたけど、
潮水が上がって来るので稲作が出来ずに困っていたのが分かりました。
そこで神功皇后と武内宿禰は裂田の溝(さくたのうなで)を作って、
水田が作れるようにしました。それを神田として供えたのです。

このあと新羅攻撃に勝利して再び豊浦宮へ戻る訳ですが、
神功皇后は各地で住吉大神を祭っています。(住吉大神を祭った所はまだ他にもあります。)

住吉族の神々を祀ると言う事は、戦争の褒賞として
その地の制海権を宣言して与えていく事だと考えています。
遠賀川の唐ノ松神社や住吉神社は船がよく見える島や岬の上でした。

しかし住吉族はそれだけでは満足せず、やはり穴門の制海権と水田を再び求めて来ました。
そこでホムタチとタモミの宿禰が譲歩して皇后に穴門を住吉族に与えるように勧めています。
そしてホムタチは住吉大神の荒魂を祀る祭主になりました。

神々の話を人間のドラマとして読み変えると、このような状況になりました。

皇后と住吉族の深い関わりは大阪の住吉大社へと続きます。
大阪の住吉大社の由緒や高良玉垂宮の秘密書などからは、
二者の間についての深い謎がまだまだ残っています。






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# by lunabura | 2011-10-18 20:34 | 住吉神社・下関市 | Trackback | Comments(6)

忌宮神社(1)仲哀天皇が7年間天下を治めた豊浦宮


忌宮神社(1)
いみのみやじんじゃ
山口県下関市長府宮の内
仲哀天皇が7年間天下を治めた豊浦宮


仲哀天皇が7年間治世した豊浦宮がこの忌宮です。
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日本書紀から。

足仲津彦(たらしなかつひこ)天皇(仲哀天皇)は日本武(やまとたける)尊の第二子である。
天皇の容姿は端正である。身長は170~80センチ。
稚足彦(わかたらしひこ)天皇(成務天皇)48年に皇太子となった。31歳だった。
叔父の稚足彦天皇には男の皇子がいなかったので、
足仲津彦が皇太子となったのである。

成務60年に成務天皇が崩御され、
仲哀元年1月11日に皇太子は天皇に即位した。
仲哀2年1月11日に息長足(おきながたらし)姫尊を皇后とした。
その前に、大中姫との間には麛坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子が生まれ、
また弟姫との間に誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)が生れていた。

2月6日に角鹿(つぬが)の行宮・ケヒ宮を建てて住んだ。
3月19日から南国を巡狩して徳勒津宮にいた時、熊襲がそむいて朝貢をしなかった。
天皇は熊襲を討とうと思って船で穴門に行幸した。
その時、使いを角鹿に送って皇后に
「すぐにその港を発ちたまえ。穴門で逢いましょう。」と伝えた。

6月10日に天皇は豊浦津に着いた。
7月5日に皇后も豊浦津に着いた。この日皇后は海の中から如意の珠を手に入れた。
9月に宮室を穴門に興した。これを穴門の豊浦宮という。

宮室とは天皇の宮殿の意味で、皇居の事です。

帯中日子(たらしなかつひこ)の天皇は穴門(あなど)の豊浦宮、
また筑紫の訶志比(かしひ)宮にましまして、天下を治めた。

これは古事記の仲哀天皇記の筆頭の一文です。

さあ、仲哀天皇の皇居あとです。
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広大な境内の中心に一段高く神門があります。

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菊の御紋が目に入ります。

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拝殿前に出ました。堂々と風格がある宮です。

豊浦宮が忌宮神社となっているのは何故?


由緒書きから分かったことは
仲哀天皇が香椎宮で崩御されたのちここに神霊を祭った(豊浦宮)。
聖武天皇の御代に神功皇后を祀って「忌宮」(いみのみや)と称した。
さらに応神天皇を祀って「豊明宮」(とよあけのみや)と称した。
親子三人が並んでそれぞれ別殿に祀られていたが、中世時代に火災が起こったために、
合祀して一殿となり、総称して「忌宮」となった。
「忌」とは「斎」と同義語で、特に清浄にして神霊を奉斎する意味である。

ということでした。
もともと仲哀天皇の宮だったのが、合祀されていって、
火事に遭って再建された時には、神功皇后の忌宮が中心になってしまった訳ですね。
戦の途中で亡くなった天皇より、
戦勝の神として、また子安の神として女神様の方が人気が高かったのでしょうか。

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広い境内の片隅に神功皇后お手植えの「さかまつ」がありました。
必勝祈願して逆さまに松を植えたものが枯れて残っています。
皇后はあちこちに杉や松を逆さまに植えてましたよね。
逆さまなのはどういう事なんだろ。
つがるはずないのにと、現代人のるなはいつも不思議に思うんですよ。

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これは「宿祢の銀杏」(すくねのいちょう)。
当社の御祭神仲哀天皇、神功皇后、応神天皇に仕えた大臣竹内宿禰が植えたと伝えられる古木でその子孫が繁茂している。
銀杏は「生きた化石」ともいわれるほどに地球上で最も古くよりみられる植物で武内宿禰の長寿伝説と結びついている。

倒れんばかりの巨大な古木です。
竹内宿禰が植えた銀杏は織幡神社にもありました。
そこでは仲哀天皇をしのんで植えたと言います。
離れた所でこうして同じような伝承に出会うと、懐かしい気分になるので不思議です。

さて、日本書紀の「神功皇后」を『古事記の神々』に出していますが、
訳していてとても変だなと思う事がありました。
その謎がこの宮で解けたんです。
(つづく)
地図 忌宮





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# by lunabura | 2011-10-10 21:10 | 忌宮神社・いみのみや・下関 | Trackback | Comments(18)

忌宮神社(2)新羅のジンリンと熊襲が皇居を襲撃していた


忌宮神社(2)

新羅のジンリンと熊襲が皇居を襲撃していた


忌宮神社の神門の正面に囲いがあります。

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「石鬼」と書かれていて、覗くと石があります。

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説明板を読んでみましょう。
数方庭(すほうてい)の由来と鬼石
第14代仲哀天皇は九州の熊襲の叛乱を平定のためご西下、ここ穴門(長門)豊浦(長府)に仮の皇居を興されたが、仲哀天皇7年旧暦の7月7日に朝鮮半島の新羅国の塵輪(じんりん)が熊襲を扇動し、豊浦宮に攻め寄せた。

皇軍は大いに奮戦したが宮内を守護する阿倍高麿、助麿の兄弟まで相次いで打ち死にしたので天皇は大いに憤らせ給い、遂に御自ら弓矢をとって塵輪を見事に射倒された。

賊軍は色を失って退散し、皇軍は歓喜のあまり矛をかざし旗を振りながら塵輪の屍(しかばね)のまわりを踊りまわったのが数方庭(すほうていー8月7日より13日まで毎夜行われる祭)の起源と伝えられ、塵輪の顔が鬼のようであったところからその首を埋めて覆った石を鬼石と呼んでいる。

新羅軍が直接上陸して皇室を襲撃!?敵将の名前はジンリン。
まさかの大事件です。この話は日本書紀には書いてありません。
さすがに書きたくなかったのでしょうね。

なるほど。これで神功皇后が海を渡ってまでも戦わないといけない理由が分かった。
日本書紀では仲哀天皇が筑紫に遷宮してまでも戦う理由を
「熊襲が朝貢しなかった」という事で済ませていました。
また新羅との戦いは金銀財宝の国を神が与えようと言ったのが始まりでした。

正直、この程度の事で戦う?と思っていたのですが、
皇居に熊襲と新羅の連合軍が襲撃したとなると話は違います。
国の存亡の問題です。

これなら再び襲撃されるのを防ぐために本国と戦うのは納得です。
これで謎が解けるゾ。

前回最後に書いた「訳していて変だと思ったこと」。
私が不思議に思ったのは、
「岡の県主(あがたぬし)の祖・熊鰐(くまわに)はどうして佐波まで迎えに行ったのか」
という事なのです。
都は下関市なのに、天皇たちは何故、防府市で待っていたのか。

その該当部分を日本書紀で確認すると、
仲哀天皇は紀伊の国に着いて、徳勒津宮(ところつのみや)に居ました。この時、熊襲が叛(そむ)いて貢ぎ物を献上しませんでした。天皇はそこで、熊襲の国を討とうと決意しました。(略)

仲哀8年春1月4日に仲哀天皇の一行は筑紫に行幸しました。その時、岡の県主(あがたぬし)の祖・熊鰐(わに)は天皇の行幸を聞いて、あらかじめ五百枝(いほえ)の賢木(さかき)を土から抜き取って、根の付いたまま九尋の船の舳先に立てて、上の枝には白銅鏡を掛け、中の枝には十握剣を掛け、下の枝には八坂瓊を掛けて、周防の沙麼(サバ)の浦に迎えに行きました。そして魚や塩の産地を献上しました。

この通り迎えに行ったのは豊浦宮でなく、佐波の浦です。

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地図を見るとよく分かりますね。

日本書紀は豊浦宮で起こった重大事件を伏せていました。
この戦いは、たまたま敵将を殺した為に勝利を治めましたが、
皇居直撃ですから、それまでの防衛線をすべて打ち破られていた事になります。

豊浦宮は対外的に危険な場所になったので周防(防府)まで避難したと考えられます。
だから、熊鰐が迎えに行ったのは佐波だった。
そして玄界灘を越えてまで戦う理由は攻撃こそ最大の防御だったから。
やっとすっきりです。

ちなみに弥生時代の戦いのようすが山口県の北西の海岸沿いに残っています。
土井が浜遺跡です。  http://inoues.net/ruins/doigahama.html(歴史倶楽部HP)
頭骨だけの埋葬とか、
至近距離から沢山の矢を打ち込まれた男とかが出土しています。
この一帯はかなり厳しい戦いがあった地域だったという事が分かります。

(つづく)


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# by lunabura | 2011-10-09 14:36 | 忌宮神社・いみのみや・下関 | Trackback | Comments(11)

忌宮神社(3)斎宮・奉射祭・蚕種祭


忌宮神社(3)

斎宮・奉射祭・蚕種祭


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仲哀天皇神功皇后の当時の様子が伺える史跡や祭を集めて見ました。
(「忌宮」長府祭事記 宮崎善敬 などより)

忌宮はもともと斎宮だった
皇室では当時、宮に付属して「斎宮(いつきのみや)」を建てて神祇を祭るのだが、これが「忌宮(いみのみや)」の起こりである。

忌宮神社の南面の「壇ノ城」という所では神功皇后が三韓攻撃に際し、ここに祭壇を設け祭具を整え、忌籠り(いみごもり)して、ひたすら天神地祇の神助を祈願した。その祭壇と祭具を流した所を「壇具川」という。

近隣には皇后の足跡が他にも沢山ありました。

奉射祭(ぶしゃさい)1月16日
朝鮮半島の塵輪熊襲を扇動し、しばしば皇宮の付近を侵そうとしたので、仲哀天皇は筑紫の高麻呂、助麻呂という弓に秀でた兄弟を召して宮門の左右を守らせた。

塵輪は雲に乗って筑紫から長門に至り、衆賊を促して豊浦の海や陸を囲み、
空中から高麻呂、助麻呂を射殺したので、天皇はみずから弓矢を執って塵輪を射倒した。
奉射祭の「的」は塵輪の首を埋めた「鬼石」のそばに東に向けて置かれる。

「弓」は榊で作られて四王司山から刈り出す。
(四王司山は仲哀天皇2年に豊浦宮の守護神を祀った所。
筑紫にも四王寺山という重要な山がある…。)

「矢竹」は美祢市西厚保町の神功皇后神社の神苑より採る。
矢竹のまっすぐなものはほとんどない。試しに射ることなく神事に臨む。
「鋒」は昔は神功皇后の御神号を記した旗を付けていたが、今は紙垂(しで)を付ける。

この神事は秘められていたが、昭和56年から復元された。
石見神楽の系統の友信神楽には「塵輪」という演目が伝わっている。

おっ、塵輪の攻撃ルートは筑紫経由だ…。な、なんと、やすやすと…打ち破られたか…。

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(右端に見えるのが鬼石で、的はこの鬼石のそばに置かれる。)

蚕種(さんしゅ)祭
仁和3年7月、采女(うねめ)時原宿禰春風が言った。
「先祖は秦の始皇帝11世の孫、功徳王(功満王-こまおう)です。
仲哀天皇4年に帰化入朝し、珍宝蚕種などを献上しました。」
(「三代実録」巻53)
豊浦宮にて蚕が献上された。ここがシルク・ロードの東の入口である。

蚕は中国でも最高機密だった特産品です。
王女が髪の毛の中にしのばせて持ち出したエピソードが有るほど重要なものです。
皇帝の末裔が帰化するのに、これ以上の手土産はないですよね。

平成の現代でも、美智子皇后は蚕を飼って機織りをされています。
育てている蚕の中には古代の種そのままの貴重な種もあります。

先日の韓国ドラマ「トンイ」では朝鮮王朝の王妃が「蚕の祭事」をしていました。

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王妃は桑の葉をハサミで切り取り、

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蚕に桑の葉を与える。

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(蚕のアップ。王妃はその日は正装している!)


豊浦宮で最初に織られた絹はどんなものだったのでしょうね。

ところで、るな的には中国側の年代資料がついに出たのが気になる!
功満王の帰化年代はいつなんだ?

西暦195年となってる…!! ワオ。これって100%OKなの?↓

下関ブログ 蚕種祭
http://shimonoseki.tv/blog/blog/2009/03/%E8%9A%95%E7%A8%AE%E7%A5%AD/


(つづく)


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# by lunabura | 2011-10-08 20:44 | 忌宮神社・いみのみや・下関 | Trackback | Comments(9)

忌宮神社(4)「数方庭」と馬韓の「蘇塗」とのつながり


忌宮神社(4)
「数方庭」と馬韓の「蘇塗」とのつながり


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数方庭(すほうてい)8月7日~13日

忌宮神社には天下の奇祭と言われる数方庭(すほうてい)の祭があります。

鬼石の上に太鼓を据え、「スッポウディ」と言われる独特なリズムを打ち鳴らし、
それに合わせてまず切籠が、次に小幟・中幟・大幟が順次登場して
鬼石のまわりを回る祭だそうです。

今回注目したいのは大幟が
長さ30mもある竹の幟の先端にニワトリの羽をつけるという点です。
これについても「『忌宮』長府祭事記」からまとめてみます。
1.「数方庭」は「数宝庭」とも書いて、
男の子が生まれると幟(のぼり)を出し、女の子が生まれると
切籠(きりこ)という短冊や灯籠のついた笹竹を持って参加するという伝統で、
この「宝」は子宝のことで、祭神の神功皇后の守護で生まれた子宝を
神社の広庭でご覧頂いて健やかな成長を祈るという一面を持っている。

2.神功皇后の三韓への出陣や凱旋の際にも、
鬼石のまわりで素朴勇壮な舞技を行ったといわれ、それが数方庭の由来とされる。

3.数方庭は、スホウテイ、スホーデイ、スホーデン、スッポウデイなどと呼ばれ、語源が分かっていないが、
朝鮮半島にソッティまたはスサルテイなどの名で呼ばれる鳥形木製品をつけた
柱があって、村の入口や寺院の門前に建てられている。

これは三世紀の『「魏書』東夷伝馬韓」の「蘇塗」につながるとすると、
「ソト→ソッティ→スホウテイ」となって稲作儀礼が原形となる。

済州島に見られるものは川の氾濫を封じるもので、
原形は広く北東アジアの各地にある。

ここに「『魏書』東夷伝馬韓」が出て来ましたが、
同じ「東夷伝」の倭人の条には有名な卑弥呼の事が書かれています。

(「魏志倭人伝」とは「『魏書』東夷伝の倭人の条」を簡略化したもの。)

その「東夷伝馬韓」に「スホウテイ」のヒントが書かれているそうです。
「馬韓」って百済(くだら)の前身なんですね。

その「馬韓伝」の該当部分を読んでみましょう。
(現代語訳してみました。間違ってたら指摘して下さいませ。)
常に五月に種まきを終わり、鬼神を祭る。
群衆は昼夜休むことなく、歌って踊り、酒を飲む。
その舞は数十人で同じように地を高く低く踏んで、手足を合わせて動かし、
リズムは中国の鐸舞と似ている。
十月に農作業が終わるとまた同じような事をする。

鬼神を信じ、国の邑(むら)ごとに、それぞれ一人の祭主がいて、
天の神を祭り、その人を「天君」と呼ぶ。

また諸国ごとに特別な邑があって、「蘇塗」という大木を立てて、
鈴や小銅鐸を懸けて鬼神に仕える。
その南部は倭に近く、刺青を入れている者もいる。

ここには「蘇塗」の使い方が二種類書いてあります。
<前半>
五月と十月の農作業が終わると人々は竿や大木に鳥の羽,白紙,布をつけて
天神を降ろし、これをとりまいて歌って踊り、五穀豊穣を祈る。
祭主は「天君」という。
<後半>
クニやムラの境界線の一区画に「蘇塗」を立てて、鈴や小銅鐸を掛けて
邪気が入らないように鬼神に祈る。「ソッテ信仰」と言われている。

「蘇塗」につけられる小銅鐸は数センチのサイズで、
リーダーが腰につけたりもします。これが天君かな?
(九博に行くとシャーマンの鏡や銅鐸をびっしりと貼り付けた
迫力ある衣裳が見られるのでお見逃しなく。ちと、怖い…。)



c0222861_1774124.jpg「ソッテの木」に付ける木製品の鳥が、
韓国の論山の麻田里遺跡で出土しています。
馬韓の北部です。
木製の鳥は左の絵のように使います。
カナダのトーテムポールの小型版のようなものも一緒に立てられたのを
済州島では今でも見る事が出来るそうです。






以上に加えて、下関から響灘にかけては渡来人の弥生遺跡が見られる事から、
馬韓の文化も流入していて、数方庭はもともと五穀豊穣の祭りだったのが、
塵輪との戦いの勝利の時にも舞われて、祭事として定着していったと考えられます。

数方庭で幟の先端に鳥毛と鈴を付けるのは馬韓と同じですね。
この幡は下関市内では雨乞いや風まつりに使われ、
また竹竿をかついで「ホイ、ホイ、ホイ」と言いながら田の畔を走る事があり、
農耕の守護神として生きているそうです。


c0222861_1785158.jpgところで。
これって?「蘇塗」と同じかな?

持ってる人は…神武天皇です。











韓国のソッテの写真と遺跡はコチラ
邪馬台国大研究
http://inoues.net/korea/zenranandoh4.html
馬韓の旅 順天支石墓公園 <資料館・墓制館>
鳥居の原型と言われるソッテ


吉野ヶ里歴史公園(2)奇蹟!弥生時代が丸ごと残ってる
http://lunabura.exblog.jp/17183617/



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# by lunabura | 2011-10-07 17:17 | 忌宮神社・いみのみや・下関 | Trackback | Comments(18)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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