ひもろぎ逍遥

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雉琴神社・夢の中で日本武尊が教えてくれた


雉琴神社
きじこと
福岡県糸島市飯原
夢の中で日本武尊が教えてくれた 

雷山から降りた所に走っている49号線沿いに雉琴神社はありました。

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一の鳥居です。

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珍しく平地にある神社なので、石段が少しです。

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拝殿はすぐそこ。

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拝殿の中のようすです。

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平地の明るい境内の神社ですが、古木ぶりがすごいです。

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いったいどれだけの長さを生きて来たのでしょうか。

ここは雷神社から降りてきた神功皇后の一行が休んだ所と伝わっています・
境内の由緒書きより。(一部改変)
雉琴神社
祭神 日本武命(倭建命)
祭日 9月23日
日本武命は第12代景行天皇の第2皇子として生まれ、性勇猛果敢、父天皇に命ぜられ、東方12ヶ国の荒ぶる神たち、従わざる者たちを討たんとして、相模の国に至り、国造にだまされて野原に入り、火をかけられ、焼打ちにあわれ給うが火打石・草薙剣により、逆火をつけ給い、辛うじて難を逃れ給う。(火焼、やけどの神)

神功皇后高祖より御坂(三坂)を経て雷山に登り給い、層々岐岳にて天神地祇を祀り、戦勝を祈り給う後、山を(嵯峨里)給い此処に宿陣したまう夜、夢枕に日本武命(やまとたけるのみこと)が立たれ、賊徒討伐の法を教えられたという。

雉子(きじ)の鳴く声を琴の音に聞きて目覚められ、帰還の後、日本武命を祀り雉琴神社と崇(あが)め奉り、ここを雉琴を名付けられた。
(古事記、神社縁起による)
ここにヤマトタケルが祀られているのは、神功皇后の夢枕に立たれたからですね。
ヤマトタケルは仲哀天皇の父君です。
雷神社で参籠して祈った答えが下山してから得られました。

嵯峨里という地名は天皇皇后の一行がそこを下がって来たからだ
という地名由来が残っています。
不動池、雷山神籠石を通って下る途中の地名です。

ここに泊まった皇后はケーンと鋭く鳴く雉の声に目が覚めたのですね。
それを琴の音と思ったというのですから、とても美しい伝承です。
そして夢を見ていた事に気づきます。
ヤマトタケルはどんな戦法を授けたのでしょうか。
この時、仲哀天皇は隣に休んでいたのでしょうか。

例の如く、神社伝承には神功皇后の名前しか残っていませんが、
仲哀天皇も一緒の旅です。
なぜなら仲哀天皇が雷山下山の途中に突然崩御したという伝承があるからです。

仲哀天皇の崩御地については、記紀では香椎宮
御勢大霊石(みせたいれいせき)神社では小郡市、または香椎宮に搬送してから、
と伝えますが、この糸島にも崩御の伝承があるのです。
戦いの準備中に急逝したので、秘密にされて真実が分かりません。
死因も突然死、神の祟り、矢に受けた傷、はたまた毒殺説もあります。

この糸島ではどのような崩御だったのでしょうか。

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これは境内から見える雷山。

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これは雉琴神社の一の鳥居から見える雷山から下山するルートです。

山の中で亡くなったのか、雉琴神社から移動する途中で亡くなったのか。
あるいは別人なのか。
その伝承を伝える宇美八幡宮に行ってみましょう。
(宇美八幡宮は、ここ糸島と粕屋と二か所あります。)

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(観光パンフレットより)

地図 雉琴神社








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# by lunabura | 2012-02-23 13:22 | (カ行)神社 | Comments(2)

雷神社・盤座と記紀にはない歴史の記録


雷神社
いかづちじんじゃ
福岡県糸島市雷山
記紀にはない歴史の記録があった
盤座の聖地
 

前回の三坂神社から、雷山(いかづちやま)へ向かう登山道路があります。
ぐんぐんと高度を上げながら車を走らせると、休憩所が左手に。
次に出て来るのは雷山千如寺大悲王院
それを通り過ぎてしばらく行くと右手に雷神社が出て来ます。
駐車場があります。

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車を降りると目に入ってくるのは巨大な杉たち。
その間を通って参道に向かいました。自然と人間が作り出した聖地です。

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ここはパワースポットです。
石段の左にある巨木はイチョウの木。一本でこの大きさです。
今から黄色に染まろうとしていました。

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石段を上がるとすぐに拝殿です。参籠出来るような広い拝殿です。

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拝殿の右にまわって正面付近を撮りました。
人々が見上げているのは先程紹介したイチョウの木。

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そばに立つとこんなふうです。樹齢900年。県指定天然記念物です。

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拝殿前から参道を撮りました。
どのアングルでも、深山のしめやかな趣に満ちています。
神功皇后たちがここに滞在したと麓の宮々で伝えていました。

由緒を福岡県神社誌で見てみましょう。(口語訳。一部変更)
祭神 火雷神、彦火火出見尊、香椎大神、住吉大神、応神天皇
社記によれば、第6代孝安天皇より第11代垂仁天皇の御代まで、異国から我が国に襲来する事が何度もあり、当社の神が大雷火となり異賊を降伏させられた。垂仁天皇がこの御神徳を畏こんで社殿を建てて、敵国降伏の神として尊崇された。

神功皇后が三韓征伐の時、武内宿禰に命じて宝剣宝鏡を供えて祈願された。
それより代々の天皇は勅願所として綸旨(天皇の命令)を賜い、将軍家は祈願所として御教書を下して数十町の神領を寄付された。

下って文永公安の役(元寇)にも御教書を下して敵国降伏を祈られた。永禄天正の際、九州は大いに乱れ、干戈日夜を継ぐに及び、神領はことごとく将士が略奪した。
(後略)
ここには孝安天皇の時代からずっと異国の襲来があったと書いてあります。
孝安天皇などは欠史八代と言って、具体的な歴史が書かれていない時代の天皇だそうです。
その謎の時代についてこの宮では異敵と戦っていたことを伝えています。

この異敵の襲来については、忌宮神社で新羅の塵輪が襲撃していた事が
記紀に書かれていないことが分かりましたが、
ほかに楯崎神社(福津市)や高良玉垂宮の「神秘書」にも書かれています。

「神秘書」にはイルヰという敵の具体的な名前まで書かれていました。
山口県の土井が浜の戦闘跡などはその名残だと思っています。
弥生時代の二重環濠もまた戦いの連続だった事を教えています。

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香椎宮に出した系図に孝安・孝霊天皇を追加してみると、
オレンジの丸に囲まれた天皇たちの世代は
ずっと海からの襲撃に備えていたという事になります。

仲哀天皇の時代は遂にこちらから海を越えて戦おうという展開だったのです。
彼の時代になって唐突に新羅と戦うのではない事が分かります。
だから仲哀天皇は先代の例にならい、この山に祈りに来ました。

祭神を見ると、
 火雷神、彦火火出見尊、香椎大神、住吉大神、応神天皇
となっていますが、香椎大神とは神功皇后です。
ですから、当時の神は火雷神と彦火火出見尊になります。

彦火火出見尊は高祖神社の祭神でもありました。
五十迹手(いとて)はここも守り続けたのでしょうか。

伊都国は天孫降臨の候補地としてよく名前が出ますが、
糸島の中心的な山、雷山と高祖山の神がニニギの命でないことが
心に引っ掛かりました。
ニニギノ命を祀る山はこの地方の何処かにあるのでしょうか。
現地の方教えて下さいね。

神域の素晴らしさに酔いしれながら、一の鳥居の前に出ると、
舗装道路を隔てて急に下がっていく石段を見つけました。
下りて行くと盤座がありました。

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岩陰(いわかげ)祭祀の痕跡があります。

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横から撮りました。このようなカーブは盤座の特徴で、よく見かけます。
この盤座こそ雷神社の奥宮で、
神功皇后が祈ったとしたらこの盤座なのだと思いました。
近くには清らかな小川が流れています。
古代祭祀跡として大切にしたいものです。

雷山は層増岐岳ともいいます。
「ソソキ」という山名から、羽白熊鷲と戦うための陣営の地という説がありますが、ここには羽白熊鷲はいません。
「ソソキノ」は朝倉市の「層増岐野」が該当する土地だと確信しました。
(⇒砥上(とがみ)神社・松峡(まつお)八幡宮にて詳細)

仲哀天皇の一行はこの雷山で過ごしたあと、
不動池や雷山神籠石を廻って下山したそうです。(糸島の宇美八幡宮伝承)
次回はその通り道の雉琴神社に行きましょう。

地図 雷神社







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# by lunabura | 2012-02-21 17:55 | 神社(イ) | Comments(0)

三坂神社・神功皇后は雷山登山前に休息した


三坂神社
みさかじんじゃ
福岡県糸島市三坂
神功皇后は雷山登山前に休息した

五十迹手(いとて)が守り続けた高祖神社で戦勝祈願をしたあと、
神功皇后は雷山に向かいます。その途中の三坂神社で一行は休憩をしました。

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三坂神社は平野の中の微高地にあり、さらに急な石段を上って行きます。

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広い境内に大きな拝殿がありました。

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「三坂神社」と書いてあります。
聖地であり、氏子さんたちが集ってお祭りをするような風情です。

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拝殿から見える境内のようすです。

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「お。人面石。」

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祭神は埴安彦命、埴安姫命、豊受姫命です。
埴安(はにやす)の神は「土の神さま」で、豊受姫は「食べ物の神さま」です。
この糸島では甕棺がたくさん出土するので、その工人たちが祀る神社だったのかも知れません。

神功皇后たちがここで休息したという事は、甕棺製作集団の首長の屋敷があったのかも知れません。

福岡県神社誌から。
往古、神功皇后は雷山に登ること、数十日。また下山の時、当所にしばらく休息されたという。三坂と書くのは間違いで、古書にはすべて御坂と書いていた。
登山前に休息したのかどうか文脈がはっきしないのですが、
他の伝承では雷山登山前に休息したとなっています。
登山前後で休息したとも考えられますね。流れから考えて登山前は確実だと判断しました。
(小さなことですが、実は雷山下山後、天皇が突然亡くなるという
重大事件の伝承が糸島の宇美八幡宮にあるので、こだわっています。)

面白いのは、雷山に数十日滞在したのがここに伝わっていた事です。
山は涼しいので、夏場に避暑も兼ねたのかもと想像しています。

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境内からは前回の高祖山までの平野が見渡せました。
左から高祖山(416m)叶岳(347m)、王丸山(453m)でしょうか。
(糸島の方、間違っていたら教えて下さいね。)
目的の雷山は写真では右の山塊の方に行く事になります。

さて正面の山との間に丘陵地帯が見えます。そこには遺跡群があります。
平原遺跡、三雲・井原遺跡、伊都国歴史博物館などなどです。
伊都国の首長たちが活躍し、永眠した場所です。

五十迹手と神功皇后たちが生きた時代には
あの平原古墳の「日の巫女(みこ)」は生きていたのでしょうか。

彼女は周溝墓の中の割竹型の木棺に埋葬されました。(⇒平原遺跡
良く似た遺跡が辰韓(新羅)から弁韓(伽耶国)にかけての範囲で出ています。
彼女は新規渡来者だったのでしょうか?

彼女の古墳の周りには鍛冶道具が奉納されていました。鉄の民だったのです。
糸島の大形甕棺を愛好した人たちとはどんな関係を結んだのでしょうか。
神社伝承と考古学遺跡がつながると面白いですよね!

さて伊都国の王・五十迹手(いとて)の語源について眞鍋氏はこう語ります。(⇒シリウスの和名
シリウスの輝きの連想から、坩堝の達人を石上(いそのかみ)あるいは五十師(いそし)あるいは伊覩率(いとし)などと呼んだ。
「イソシ」とは「坩堝(るつぼ)の達人」という意味だそうです。
五十迹手について日本書紀はこう語ります。
仲哀天皇はイトテを褒めて「いそし」と言いました。これから、イトテの本国を名付けて伊蘇(いそ)の国と言うようになりました。今、伊都と言うのは訛っているのです。
「いそし」は「いそいそしい」と訳されますが、
実は「いよ~。名人!達人!」というニュアンスだったのが分かります。
五十迹手は青銅の民か鉄の民の王のようです。
というのは、五十迹手がアメノヒボコの末裔だったのが分かったからです。

前回の宿題となった「筑前名所図会」に書かれていた一文。
五十迹手(いそとて)は高麗国意呂山より天降って来た日拝の苗裔であると筑前風土記に書いてある。
の訳ですが、高麗国を私は高句麗と訳しました。
高麗国は古くは高句麗で、新しくは高麗を指します。
この本は江戸時代のものなので、後者で、韓国ほどの意味だったようです。

解決したのはいただいたコメントからです。
「糸島郡史」に
天日槍(あめのひぼこ)は、まず、白羅(しらぎ)往来の要津たる伊都を領有し、ここに住して五十跡手の祖となり、更に但馬(兵庫県)に移りて但馬家の祖となった。雷山に存する神籠石は天日槍が築いた古跡である。
と書いてあることを教えていただきました。

五十迹手が新羅系だとすると、神功皇后とのつながりが深くなります。
末裔同士になります。
(雷山神籠石にも天日槍説が…。
仲哀天皇・皇后がそこに行った伝承があるのですが、これで理由付けが出来るかも。)

五十迹手と平原遺跡の「日の巫女」はどんな関係にあったのでしょうか。
神功皇后は彼女と面会したのでしょうか。
それとも生存期間は、ずれていた?

新たな謎が生まれながらも、少しずつ伊都国のようすが見えて来ました。
次回は雷神社へ行ってみましょう。

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観光案内で貰える「いいね、糸島」より。赤い丸が今回の話題になった場所です。

地図 三坂神社






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# by lunabura | 2012-02-19 19:58 | (マ行)神社 | Comments(0)

高祖神社・五十迹手が祀る宮


高祖神社
たかすじんじゃ
福岡県糸島市
五十迹手が祀る宮

今日から糸島シリーズです。

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糸島のどこからでも目に入る秀麗な山。これが高祖山です。標高416m。
山には城があり、麓には神社や古代の遺跡がたくさん残っています。
平原遺跡三雲遺跡細石神社日向峠も緑の田んぼの向こうにあります。
縄文人も弥生人もこの山を見ながら暮らしました。
その山の名を戴く高祖神社に行きましょう。

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麓を走る56号線にある案内に従って山を少し上ります。
駐車場から降りたらすぐ横に参道が。別にここを通らなくてもいいんですけどね。

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苔ファンとしてはこのような道は通らずにはいられません。

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そして大きな石垣の上の本殿へと出ました。
大きな神鏡があります。木漏れ日で見えにくいですね。
深山の趣を残して緑陰が深いのです。

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拝殿は昔のままに開放的です。
ご祭神は天津日高彦火々出見命、玉依比売命、息長足姫
彦ホホデミ命と玉依比売の神社は初めてですね。
息長足(おきながたらし)姫はもちろん神功皇后です。

このお宮は神功皇后(いぬい=北西)に向かって社を建てたと言います。
どんな物語があるのでしょうか。今日は福岡県神社誌を現代語にして行きます。
社説に曰く、当社の創立の起源ははっきりしないが、怡土県(いとのあがた)の鎮土の社として上代から鎮座していて、怡土県主(いとのあがたぬし)の崇敬が厚かったことがはっきりしている。

怡土県主・五十迹手(いとて)の勤王ぶりはひとえに当社を尊崇しているからだと思われる。神功皇后が三韓を征伐する時、香椎宮からここまで御幸があって、高祖の神に異国降伏の御恵みを祈願されて、その通りに神助が深くあったので、皇后は帰還ののち、報恩のお祭りとして新たに御宮を造り、乾に向かって御社を建てられた。

時代が下がって、奈良朝の孝謙天皇の御代に吉備真備に命じて怡土城を築かせたが、その時、当社を怡土(いと)城の鎮護の神とされた。当社は城内の中央の岡の上にある。
三代実録に(略)高磯比咩神従五位下とある。
五十迹手といえば仲哀天皇が香椎宮に遷宮するとき、
下関の彦島まで船で迎えに行った人です。
彼もまた熊鰐と同様に三種の神器を飾って正装して迎えに行きました。

「勤王」と書いてありますが、彼の皇家への忠誠ぶりが記憶されていたのですね。
神武天皇が東征してしまったあと、五十迹手の一族は
ここでヒコホホデミと玉依姫を祭祀し続けてくれていたのです。
この二神はどういう系図だったっけ。

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久し振りに系図のストックから探し出して来ました。
(何度見ても忘れるので、いつも新鮮な気持ちで見られます…。)

ホホデミの命は「ホの一族」で、(と勝手に呼んでます→馬見神社)
玉依姫は海神の娘であり、神武天皇を生んだ人です。
五十迹手はどうしてこの組み合わせで祀ったのか理由が分からないのですが、
天皇家との関係が深い事はよく分かりました。

だから仲哀天皇たちは香椎宮で一段落したあと、この五十迹手の奉斎に報いる為に
糸島にやって来て祭祀したと思われます。
そして五十迹手の軍備の状況も視察したと思われます。

神功皇后は凱旋後、神恩に報いようと神殿を建てますが、
それを乾(いぬい)北西に向けたといいます。
北西は糸島の遺跡の銀座通りです。
五十迹手の屋敷があったのかもと想像するだけでも楽しいですね。

この五十迹手(いとて)を調べて行くと「筑前名所図会」にその出自が書かれていました。
五十迹手(いそとて)は高麗国意呂山より天降って来た日拝の苗裔であると筑前風土記に書いてある。
高麗国とは高句麗の事です。
五十迹手は高句麗のウルソンから天下って来た日拝の末裔だそうです。
「日拝」はネットで調べるとどうやら「日鉾」という事になっています。
誤植でしょうか。手元に筑前風土記がないので確認出来ません。
どなたか風土記が手元にある方、「日拝」か「日鉾」か確認してコメントで教えてくれませんか!!
「日鉾」なら新羅なので話が全然変わってしまいます。

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この高祖神社は神楽が有名です。拝殿の前に神楽殿が設置されています。
春の4月26日と秋の10月25日に舞われているそうです。

(高祖神社は奥が深いですね。高磯比咩は高祖の神ながら女の神さまだし…。
このつづきはもう少し勉強してチャレンジします。

地図 高祖神社






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# by lunabura | 2012-02-18 22:26 | (タ行)神社 | Comments(2)

壱岐神社・壱岐真根子を祀る宮・九州王朝三階松


壱岐神社
福岡市西区下山門1―9-3
壱岐真根子を祀る宮
九州王朝の三階松があった

福岡市は北が海なので住宅がひしめいていても開放感があります。
大都会に残る松林「生の松原」は「いきのまつばら」と読み、
それに接して壱岐神社があります。

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祭神は壱岐真根子。(いきのまねこ)

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そう、竹内宿禰の身代わりになって死んだ人です。
その経緯は織幡神社(3)に詳しく書いていますが、
織幡神社は玄界灘の東・宗像市の岬にあります。
そこには壱岐真根子も祀られていて、その末裔が代々宮を守っているそうです。
そして、壱岐真根子を主祭神として祀るのは玄界灘の懐(ふところ)にあります。

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驚いたのが手水舎の「三階松」の紋です。
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これは九州王朝の紋だそうです。
これまでに見たのは宮地嶽不動神社(福津市)、剣神社(鞍手郡木月)・高良下宮社(久留米市)・
松崎天満宮(小郡市)です。そしてここで五社目。
松崎天満宮以外は竹内宿禰の名が見え隠れします。
この五社だけでも地図上にプロットすると、大変広範囲だった事が分かります。

九州王朝は神功皇后が立ち去った後の話になると思っていますが、
彼女の移動ルートを押さえると
彼女を援助した筑紫の豪族たちがどこに居たのかが分かるので、
こうしてコツコツと歩いているのです。
そうすれば九州王朝の基盤が見えて来ると思っています。

それでは、この神社の由緒を見てみましょう。(一部現代語へ変更)
壱岐神社
御祭神 壱岐真根子命
創立 延宝8年 明治梧5年11月3日村社
御神徳 仁愛開運
例祭 10月15日・9月1日・7月28日
由緒 壱岐真根子命は武内宿禰の身代りとなり、無実の罪にて死亡。信仰篤き黒田藩主はその忠魂を称え、松林4128坪を安永4年5月寄附された。近くに神功皇后さまの植えられた逆松は有名である。(戦勝祈願)
鳥居 安永年午正月 従四位源朝臣継高公寄附
壱岐神社宮司 菊池友久

延宝8年は1680年。江戸時代です。この宮は黒田藩主によって創建されました。
この広大な松林もその時に寄進されたものだと分かりましたが、
その前にはここには何もなかったのでしょうか。

この生の松原という地名の由来は神功皇后が逆さに植えた松が生きたと言う事から
ついた名だといいますが、この神社には「壱岐」の漢字がついているので、
長崎の壱岐との関わりがないのか、疑問が出て来ます。

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境内は不思議に古木がなく、この松だけが時代を語ってくれています。

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御神木ですが、神功皇后のゆかりの松なのかどうかは分かりません。

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古式の鳥居に惹かれてそのまま松林の参道を辿ってみました。
ここの松は元気ですね!

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そして、海!この宮は海から参拝するようになっていました。

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浜に立つと能古島(のこのしま)が見えます。
右の岬は妙見崎。岬の根元には小戸(おど)があります。
神功皇后の船が出港した湊です。ここからはわずか2キロ。
この距離からすると、あの湊を経営していたのは壱岐真根子でしょうか。
ここは壱岐真根子の息がかかった場所?

伝承ではこれ以上は分からず、永井功氏の「神功皇后の戦略」を見てみると、
「姪の浜町の鷲尾山(蒙古襲来以後北條氏が築いた鷲尾城址があり、今愛宕山という)の東側浦山に、武内宿禰の出城があったという伝えがあり」
と書いてありました。

愛宕山の東に竹内宿禰の出城が?!
そうするとこの湊は竹内宿禰が経営していた?

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緑色の都市高速道が愛宕で曲がっているのは愛宕山を避ける為で、
計画では愛宕神社の上を通るようになっていたのが住民運動のお蔭で迂回するようになりました。

愛宕神社はもともと鷲尾神社と言い、景行天皇の時代に祀られた所だそうです。
その麓、川と海が接するあたりに竹内宿禰は出城を持っていたというのです。

竹内宿禰は壱岐真根子の娘の豊子を妻にしたという系図があります。
(妻はもちろん何人もいたはずで…)
そうすると二人は舅と婿の関係になり、壱岐真根子が見かけがそっくりだったというので、
同族の結婚ではないかとも思ったりしています。

近畿で竹内宿禰殺害を命じられた使者はどうやって彼を見つけ出すのでしょうか。
やはり出城や居城をまずは目指すでしょう。

壱岐真根子の死の現場を見つけると、そこに竹内宿禰がいたことがわかります。
その伝承は武雄市若木町の伏屍(ふし)神社(伏尺神社)にあります。
壱岐真根子の遺体を壱岐に運ぼうとしたが遺体が重すぎてそこに葬ったのだそうです。

竹内宿禰の本拠地で事件があったのかも知れません。
地図で確かめると「御所」という地名もあります。
この辺り、なかなか面白そうですね。またいつか探索したいと思います。

壱岐真根子は壱岐の直(あたい)の真根子。
壱岐真根子は壱岐国から百済や倭国(小戸や武雄)を自由に往来していた人で、
竹内宿禰は彼の情報を頼りにしていたと考えています。
愛宕山の麓の出城は留守の間は壱岐真根子に貸していたかも知れませんね。

織幡神社(3)祭神・壱岐真根子の悲劇
祭神・竹内大臣と壱岐真根子臣

http://lunabura.exblog.jp/14790197/



地図 壱岐神社 伏屍神社








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# by lunabura | 2012-02-17 17:25 | 神社(イ) | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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