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ひもろぎ逍遥

5.さらに任那二県を百済に与えた「磐井、葛子、勝村、勝頼の時代」


磐井、葛子、勝村、勝頼の時代5 

さらに任那二県を百済に与えた



西暦512年百済任那四県を分け与えてしまった。これを任那四県割譲事件という。

その翌年、継体7年(513)6月に、百済は文貴(もんき)将軍ら二将軍を穂積押山の案内で日本に派遣した。そして五経博士を日本に献上した。名を段楊爾(だんように)と言う。


さらに、文貴将軍らは「伴跛(はへの)国」が「臣下の国である己汶(こもん)の地を奪ったので、取り戻し欲しい」と願ってきた。

「伴跛国」は任那北部の代表的勢力で、新羅と己汶(こもん)に挟まれていた。己汶の争奪戦が今回のテーマとなる。



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この年の11月、朝廷は百済の文貴将軍や新羅、安羅、伴跛などの使者を並べて恩勅を授けた。

この時朝廷は「己汶と滞沙(たさ)を百済に与える」と告げた。

新しく滞沙が出て来たが、滞沙と己汶は任那の一部で、百済に譲渡した任那四県の東に在る。四県に引き続き、さらに二地が与えられたのである。


日本は百済が望んでいない滞沙も付け加えて与えると宣言した。

露骨な百済寄りの政策を新羅や伴跛の使者に告げたのだから、伴跛国が心穏やかなはずはない。

伴跛国はただちに新たな使者を日本に送り、珍宝を献上して己汶を与えてくれるように願ったが、日本はそれに応じなかった。

今思えば、この不条理な割譲によって、半島南部はこれまでの均衡を失い、のちに倭国が新羅と戦わねばならない状況に陥っていくのだ。

その分かれ目がここにあった。


メモ。
穂積押山のことを『百済本記』では「委」の「意斯移麻岐弥」と書いているという。

我が国の事を『日本書紀』では「日本」と書いているが、百済では「委」としている。
倭国と日本の並立時代だからだろうか。

ちなみに「倭」を中国ドラマでは「ウェイ」と発音し、韓国ドラマでは「ウェ」と発音していた。
平仮名の「ゐ」の発音だ。

中国との外交が全く書かれていない点も押さえておきたい。
何しろ倭の五王の「武」がまだ生存している可能性がある時代なのだ。


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# by lunabura | 2019-02-08 17:45 | 磐井の末裔 | Comments(0)

4.任那四県を百済に与えてしまった「磐井、葛子、勝村、勝頼の時代」



磐井、葛子、勝村、勝頼の時代4 

任那四県を百済に与えてしまった



西暦512年。

穂積臣押山は任那の哆唎(たり)国守だった。百済に派遣された時、筑紫国の馬を四十頭を土産にしたことを前回書いた。

四十頭もの馬を乗せる為には船は何隻要ったのだろうか。どこから出発したのだろうか。船を出したのはどの海人族か。筑紫の歴史を再現するためには、これらを一つ一つ考察する必要がある。

前回、この馬の産地は福津市の渡半島を中心とした「高田牧」だろうと推測したが、
そこには京泊という湊があり、馬を輸入して育てたという伝承も残っている。

言い換えれば、京泊は外洋船が入港できる湊だから、そこから直接、馬を船に乗せたかもしれない。

ただ、これは単なる私の推測以上のものではない。しかし、歴史が筑紫以外の何処か他にあるという刷り込みを排除するには積極的に推論を出し合う必要があると思う。

神功皇后の時のケースを考えると、今津湾、唐津湾もまた外洋船が停泊できる。その近くに牧が見つかれば、新たな候補地が出てこよう。そんな活発な意見交換が必要な時になっていると思う。



さて、穂積臣押山の話に戻ろう。彼は物部系だった。

押山が百済に行った年の末、12月に百済が朝貢してきた。
そして、こともあろうに、「任那国の四県を与えてくれるように」と書いた文書を持ってきた。

押山も一緒に帰国したのか、それに口添えをした。

その理由は、「任那の四県は百済に近く、日本からは遠い。百済に合併するのが最上な政策で、現状のまま百済と別国だったら守れない」というものだった。

そんな理由がまかり通るのかと、理解に苦しむが、大伴大連金村はこれを聞いてはかりごとをして、継体天皇に奏上した。

これがいわゆる「任那四県割譲事件」だ。

任那を百済に無償譲渡したという、現代からは考えられない大事件が起こった。

この事件から、継体天皇は傀儡(かいらい)であり、決定権は金村に存するのがよく分かる。

百済への譲渡が決定し、文書が作成された。
物部大連麁鹿火はその文書を伝える使者に任命された。

百済の客は難波の館にいた。

麁鹿火が出発しようとすると、妻が引き留めた。
「住吉大神が高麗、百済、新羅、任那らを誉田天皇(応神)に授けたあと、母の息長足姫姫(神功皇后)が武内宿禰と共に、官家(みやけ)を国ごとに設置したというのに。それを裂いて他国に与えたら後の世までそしりを受けます」


麁鹿火は、「理屈はそうだが、勅命には逆らえない」と返事すると、妻は仮病を使うようにとアドバイスをした。麁鹿火は妻の進言に従い、別の者が文書を持っていった。


こうして、紙切れ一枚で任那の四県が百済に譲渡された。大伴金村と穂積押山は賄賂(わいろ)を貰ったという噂が立った。

この四県の名は「任那国の上哆唎(したり)・下哆唎・娑陀・牟婁の四県」(みまな国のおこしたり・あろしたり・さだ・むろの四つのこおり)と『日本書紀』にある。

ここに例の十数基の前方後円墳が造られていた。そして、割譲されたあとは、ぱったりと造られなくなった。任那に赴任していた筑紫や豊、火の国からの豪族たちは帰国したのだろう。

このことを、考古学者(韓国・朴氏)は、あたかも倭の豪族たちが百済の配下にあるように書いていた。そうではなかった。

また、そこは任那だった。「任那」ときちんと書くべきだ。







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# by lunabura | 2019-02-07 13:53 | 磐井の末裔 | Comments(0)

3大伴金村は継体天皇を即位させる 「磐井、葛子、勝村、勝頼の時代」


磐井、葛子、勝村、勝頼の時代3 

大伴金村は継体天皇を即位させる



大伴金村大連が推した25代武烈天皇の在位はわずか8年だった。しかも子供がいなかった。

金村大連は次の天皇探しをする。

まずは仲哀天皇の五世孫の倭彦王を推挙した。丹波まで迎えに行ったが、武装していたので倭彦王は恐れて姿を隠した。

金村大連は続けて男大迹(をほど)天皇を推挙する。26代継体天皇のことだ。別名は彦太尊。継体天皇の名を使おう。


継体天皇は誉田天皇の七世に当たる。誉田天皇とは応神天皇のことだから、仲哀天皇と神功皇后の末裔で天皇家の血筋ということになる。


この件で金村大連は一応、物部麁鹿火大連許勢男人大臣(こせのおひと)らと協議する形を取るが、実質的には独壇場で、麁鹿火大連たちは言われるがままだった。

金村大連は天皇の「鏡と剣」も預かっていて、継体天皇に奉った。

手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后に推挙したのも金村大連だった。
そして、前天皇に後継ぎがいなかったことを考慮したのか、さらに八人の妃を後宮に入れた。
子供は数十人になる。(数えるのが面倒)継体天皇は一応57歳。


大伴金村大連は軍事力で他の豪族をしのぎ、政をほしいままにしていた。天皇を推挙する実権を持ち、皇后選びも思うがまま。全盛期を迎えていた。麁鹿火大連はイエスマンになっていた。


こうして西暦507年、26代継体天皇が即位して体制が落ち着くと、『日本書紀』は再び朝鮮半島の事情ばかりを描く。

継体3年2月(509年)、日本から百済に使者を送った。任那にあった日本の県邑(あがたのむら)に逃げ込んでいた百済人を調査すると、三、四世代に遡って百済に送還した。

継体6年4月(512年)、穂積臣押山(ほづみのおみおしやま)を百済に派遣する。この時、筑紫国の馬を四十頭、百済に与えた。


馬が四十頭だ。すごい数だ。しかも、筑紫の馬だ。筑紫の何処に牧があるか。一番の候補は福津市の渡半島だろう。そこを中心として、宗像市に掛けての海岸線沿いに「高田の牧」があった。

過去記事に書いている。






渡の牧跡 わたりのまきあと 神代に放ち給う馬の牧跡
http://lunabura.exblog.jp/16445440/

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この「高田牧全体」では1300頭の成牛馬がいた時期があるという。

この牧を掌握していた筑紫の長は誰か。当然ながら磐井だろう。

この四十頭の馬を運んだ穂積臣押山は饒速日の末裔。すなわち物部系だ。

朝鮮半島の南にあった任那諸国の中の哆唎国の守(みこともち)だった。この男はのちに問題を起こす。

この継体6年は西暦では512年。


話は遡るが、百済王の末多王が廃位されたのが502年のことだと書いたが、この末多王を任命したのが日本だった。末多王を日本から送り届ける時に、筑紫の軍士が500人も護衛して海を渡った。それが479年のことだ。5世紀後半になる。

この筑紫の軍士派遣から筑紫馬贈与にかけての時代こそ、百済に前方後円墳が築造された時代(5世紀後半~6世紀前半)と重なってくる。

「百済」と書いたが、そうではなかった。そこは当時は「任那」(みまな)諸国の一部だ。あの古墳群は任那に赴任していた筑紫の豪族たちが眠っていたのだ。


以下は過去記事だが、まだそこが任那だとは知らないで書いている。

百済の前方後円墳
http://lunabura.exblog.jp/i189/
これは、某考古学者(日本人)が百済として講義したのを鵜呑みにして、そのまま百済と考えて書いていた。

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# by lunabura | 2019-02-05 20:31 | 磐井の末裔 | Comments(0)

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