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ひもろぎ逍遥

脇巫女 28  薬王寺 清滝寺


脇巫女 28
 WAKIMIKO
薬王寺 清滝寺
福岡県古賀市


朝早くから七色のメールが何通も来た。
薬王寺、清滝寺に誘う内容だ。
あまりに回数が多いのでよほど緊急性があるのだろうと、
勘違いして午後から出かけることにした。

結果としてはそれほど急ぐ事ではなかったが、
チェリーさんのブログを見て、清滝寺の今を確認したいと思った。

速報版 七色さんへのレポート 清水寺(宮若市黒丸)
http://sakurasaku0911.blog.fc2.com/

埴生(はぶ)神社からラインが届いていた。
それは西山断層の守りの配置とも思われた。

埴生神社は仲哀天皇と神功皇后が船を泊めて祭祀をした所だ。
当時は島だった。

今は美しい湖と桜の宮だ。
古遠賀湾の水が取り残されたような景観だ。
(『神功皇后伝承を歩く』上巻13)

そこにある横穴墓群の線刻画を何とかして残してくれまいかと
願っている所でもあった。
「はぶ」とは南十字星を表すことばでもある。

今、古月さんはここを中心とした祭祀線を発見していた。
チェリーさんの祭祀線にも出てくる。

各人が同時進行形で様々な発見をしていた。
とてもブログには書きおおせない。



七色は各地の寺社を回るうちに、
鞍手に限らず、遠賀川流域の過去の災害を教えられていた。


そして、今回、絵都(えと)とも会えた。
絵都はこのブログにコメントを入れてくれていた女性だ。
ブログの縁でこうして三人が会った。

七色によると、絵都は「海の民」の脇巫女の一人だという。



三人はまずは薬王寺に向かった。
何故か昨年秋、ひょんなことで、ここの龍頭観音を私は知った。
まっすぐにそこに案内すると、七色は夢で見た所だと歩を止めて見回す。


脇巫女 28  薬王寺 清滝寺_c0222861_21414844.jpg

そのお堂の下からは清らかな水が流れ出していた。
薬王寺の水は格別に上手い。
人を癒すために発見された水が多くの人に届けばと思う。




帰りに絵都が砂防ダムを気にしたので行ってみることにした。
右手にはかなり低いところを谷川が流れていたが、
最初の砂防ダムは既に満杯だった。


脇巫女 28  薬王寺 清滝寺_c0222861_21421720.jpg

横の崖から木々が押し流されている。
久山町の天照皇大神宮を思い出した。
そこは社殿の真後ろに迫っていた。

このような分野の管轄は何処なのだろう。
通報システムなどはないのだろうか。
ご存知の方は教えてほしい。

この山は断層地帯なのだ。





次に清滝寺に向かった。

清滝寺は薬王寺から北の方にある。
かつて巨大な磐座を見た記憶があった。
久しぶりに磐座に会える。

清滝寺に向う道を走っていて驚いた。
清滝寺はそそり立つ神奈備山の中腹にあった。
地形を見るようになって、初めてその特異な立地を確認した。

急な細い一本道を上がると思いがけず開けた所に御堂があった。


脇巫女 28  薬王寺 清滝寺_c0222861_2143460.jpg

すがすがしい。


私は磐座を求めて山に入った。
あと二人が一緒だから安心だ。
普段は慎重な私がずんずんと登ってしまった。
山頂に行くには時間が足りなかった。
さっき傾く夕陽を見たあとなのに、時間を気にしなかったとは。


脇巫女 28  薬王寺 清滝寺_c0222861_21432793.jpg




足元からさっき見た鐘を突く音がする。

脇巫女 28  薬王寺 清滝寺_c0222861_2144366.jpg



途中で断念したが、下山の時、何度も道を失った。

そのたびに七色が道を見つけてくれたのだが、
このような無鉄砲な行動をしたのは初めてだった。

七色と絵都には申し訳ないことをした。
これも意味があるんですよ、と七色が言ってくれたが、
低山で遭難はいただけない”(-“”-)”




七色の目的は水源を見つけることだった。
寺に尋ねると、御堂の裏に古くは滝があったという。
今はその痕跡もない。
また七滝があったともいう。

さっきの山の中は杉だらけだった。
これでは水が無くなるのも無理はない。
降った雨は表層を流れていく。
これが重い課題として迫って来ていた。

この清滝寺は糟屋の中でも一番古く、
また、大宰府~英彦山を回峰する修験道のルートでもあったという。
天台宗だ。
瑠璃光山行基院。

行基は水の祈りのために回ったのか。

七色は「るなさん、今夜は続きの夢を見ますよ」とメールしてきた。
そういえば、今年の初夢はまだだった。




脇巫女 28  薬王寺 清滝寺_c0222861_21454025.jpg

(阿弥陀堂)





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# by lunabura | 2016-01-04 21:47 | 「脇巫女」 | Comments(3)

脇巫女 27 小狭田彦 香月氏の始まり


脇巫女 27
WAKIMIKO
小狭田彦 香月氏の始まり

 前回、六嶽神社を編集しなおしていて、思いがけない名前に出くわした。
それが「長田彦」だった。

成務天皇7年には、ここ「室木」(むろき)の里長は
「長田彦」(おさだひこ)だったという。
長田彦に神勅があって、山上に神籬を営んだ。

もともと天文観測所だった六嶽神社だが、長田彦の時代に
改めて山頂で祭祀をして神社の形となった ということになる。

長田彦は小狭田彦とも書く。
この小狭田彦が香月(かつき)氏の始まりなのだ。

香月文書の存在は有名だが、現物にはお目に掛かれない。
が、鞍手町誌に一部が載っている。

鞍手町誌から、その系図を復元することにした。
引用の引用ではあるが、書いてみないと始まらない。
後半の磐井の関連は金川文書からの作図だ。




脇巫女 27 小狭田彦 香月氏の始まり_c0222861_2152426.png


「脇巫女」の観点からこれを読もう。
小狭田彦は本名は常盤津彦と言った。
幼少より賢明で、いつも山間の狭い土地を開墾していたから、
小狭田彦と言うようになった。

景行天皇が来て、しばし小狭田彦の居館に留まり、移っていく。

のちにヤマトタケルもやって来て滞在する。
小狭田彦の住まいは香月庄。現在杉守神社の所か。
あるいは寿福寺か。

小狭田彦は娘の常磐津姫を差し出した。

この近くの金剛山に熊襲が住んでいた。
そのクマソとは火国の川上梟師の弟で、江上梟師(たける)と言った。
日本武尊は黒崎より上陸して笹田の小狭田彦とともに黒川を渡り、
熊襲の軍を屠ったという。

杉守社伝に日本武尊が
「あな楽し、花の香り月清きところかな。
今よりこの地を香月のむらと名づくべし」
と名を賜ったのはこの時だろうか。
小狭田彦は香月氏となった。

梅の花が香る初春。
月が明るい夜の宴に褒賞として名を授けたのだろうか。

ヤマトタケルは剣神社に寄り、鞍手に上陸した。

これを迎えたのは中山(八剣神社)の今朝麿で、
彼は百枝(ももえ)の賢木(さかき)を飾って迎え入れ、
筑紫の情勢を伝えて喜ばれたという。

そして次なる敵、川上タケルの逃げ込んだ佐賀の真手山へ。(これは先述)
これを先導したのも小狭田彦だった。

帰路には今朝麿は行宮を作ってヤマトタケルを守護した。

そして、常磐津姫には男子が生まれた。
その名を御剣王という。
御剣王は成長すると父の東征に従って行った。
駿河の焼津では特に軍功があり、祖父の景行天皇から武部臣の賞を賜る。

しかし、ヤマトタケルは亡くなった。

御剣王は帰国ののち、とにかく父が慕わしいと言って、
尺ノ岳と新北に父尊を祀ったという。

そして、さらにその子の種日子王も父に劣らぬ武勇の人で、
神功皇后に従って三韓征伐に向かった。
種日子王は帰国後、弟や子供たちに系図のように
各地を治めさせた。

暗崎(黒崎)、高羽(田川)、聞(企救)、穂波、
舞岳(尺岳)、新北、室木、嘉麻碓井。
これが当時の香月氏の勢力図だ。
物部氏の名が見える。
香月氏は物部氏だった。

この間、いつのことか、小狭田彦は室木の里長となった。
家督を子供に譲ったあとかもしれない。

そして、冒頭にあるように神託を受けて六ケ岳山頂に
神籬を作って祭祀をした。

「クマソの力を恐れた「朝廷」は「もののべ」を操り、
クマソを騙し打ちにする」
という星読の託宣。
操られた「もののべ」が小狭田彦なのか。



町誌では、「鋳口」(たたらぐち)という地名が室木にあることから、
製鉄が行われていただろうと推定している。

六ケ岳の麓には木花咲耶姫が祀られている事を七色から聞いた。
そこもまた、製鉄の地だろうと睨んでいる。

これが鞍手の物語だ。

小狭田彦の祖を見ると饒速日が見えることから物部氏と思われるが、
一方で田道命も祖だということから、皇家の筋ともなる。
ここが、断片的で系図が書けなかったところだ。


さて、これまで「月守の民」の情報がなかった。
系図を見ながら解釈を考えていた。
香月氏は月守の民だろうかと。

系図から見るとイチキシマ姫の流れとも言える。
そうすると、星読みの民の流れでもある。

「星読みの民」が追われたとき、「月守の民」も追われた。
最初想像したのは、遠賀川の対岸に逃げたのではないかと。

「月守」は「香月」の名を賜り、生き延びたのではないかと。

しかし、田道命が祖となると香月氏は朝廷方となる。
封印した方になるのだ。

星読によると、「月守の民」はセオリツ姫の正統な血筋で、
その中で一番力のある巫女が「星読みの民」に迎えられて
「星読みの姫神」となったという。
それがイチキシマ姫だ。
「月守の民」の男子は「星読みを守るもの」となった。

行き詰った時、七色から電話が入った。
芦屋の金台寺にいるという。
そこに麻生氏や香月氏の手掛かりがあると知って私に連絡をしてきたのだ。


小狭田彦の本質はニギハヤヒか田道命か。
あるいはイチキシマ姫の祖「月守の民」か。

相反する系図。
いや、融合の系図と考えてもいいのかもしれない。


鞍手には「月」がつく地名が目立つ。
「古月」(ふるつき)「木月」(きつき)

「月守の民」の痕跡は鞍手郡の「月」の地に見られるのではないか。
「月守の民」は低い地から月の観測をしていたという。

鞍手町誌は
「縄文時代の末頃にはすでに新延、木月、小牧、猪倉の貝塚の近辺に
住んでいた部族の族長が、それぞれの地区を支配していただろう」
と述べている。

木月の中心の剣神社はヤマトタケルの旧跡であり、
それを慕って仲哀天皇や神功皇后が戦勝祈願をした宮だ。
(拙著『神功皇后伝承を歩く』上巻17

「月守の民」は「香月」と名が変えられて封印され、
「月守の民」がかつては居た所を「古月」と呼んだ。

「星読みの民」の姫神となったイチキシマ姫。
その伝令者であった物述。
イチキシマ姫が血を流したあと、物述はその姫の子と結ばれて、
その地位を奪った。

そんなストーリーに対して星読の感覚はどうあるだろうか。
意見が聞きたい所だ。


2016年1月2日





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# by lunabura | 2016-01-02 21:54 | 「脇巫女」 | Comments(10)

2016年 明けましておめでとうございます



2016年。
明けましておめでとうございます。
昨年はたくさんの応援ありがとうございました。

冬になって思いがけず「脇巫女」が始まり、鞍手町という
物部氏の古層を伝える町の古代社会を追うことになりました。

三女神の降臨を伝える六ケ岳とそれを遥拝する六嶽神社。
そこから見たシリウスの出はとても印象的でした。

このシリウスの出を観ると、自分の中に何らかの変化が起こるのでは、
と秘かに思っていましたが、
行き詰っていたものを前進させる糸口が手に入りました。
二つも!

ご利益の期待は我ながら感心しないのですが、
やはり内面的な変化をもたらすチカラがシリウスにはあると思いました。

シリウスの出は1月の半ば頃まで見ることが出来ます。
2700年前と変わらぬ世界を是非自分の目でご覧になってください♪


また、昨年は念願の『神功皇后伝承を歩く』の下巻を
出版することが出来ました。

『宮地嶽神社と磐井の末裔たち』は大いに遅れ、
まだまだいつの出版になるのか分かりません。
楽しみにしている方、もう少しお待ちください。


2015年という年は安曇磯良とともに明け暮れました。
久留米や志賀島でお話しする機会を得、
九大アートラボでも話をしました。
住吉神社の『甕の音なひ』では藤枝守氏によって、ついに磯良が前面に出され、
宮地嶽神社では宮司しか舞えない磯良の舞が舞われました。

消された古代王が蘇った記念の年でした。


この磯良の本を執筆しているのですが、風浪宮の所で行き詰った時、
その風浪宮の阿曇宮司が声を掛けてくださり、宮に招かれたのも、
本当に不思議なタイミングでした。

今年は新年早々、志賀島で『高良玉垂宮神秘書』にチャレンジします。
この難解な本には磯良が消されて行った痕跡を見ることが出来ます。

このタイミングでその話が出来ることに、
神助があることを思わずにはいられません。



また、昨年の夏は、立て続けにアイデアが降りてきました。
その一つが「糸島の女神巡礼」でした。
今年、それが実現することをとても嬉しく思います。

まだ他にいくつかのアイデアが生まれています。
実現可能になった段階で少しずつ発表しますね。

今年も、どうぞよろしくお付き合いくださいませ^^



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# by lunabura | 2016-01-01 00:25 | にっき | Comments(9)

系図途中経過



今日の大掃除は天井などをやったので、
いつもと違う体力を消耗しました(^^;
その合間に、鞍手町誌を読んでます。

六ケ岳上宮の祭祀を始めたのが長田彦(おさだひこ)って
書いてあったので、
町誌に載っているのを思い出したのです。

長田彦は小狭田彦とも書いて、香月氏の始まりの人なんですね。
小狭田彦の孫が神功皇后軍に従軍したので、
何度も読んだ本です。

「磐井の末裔」のことも載っているので、その時も読みました。

でも、あまり理解できていませんでした。
「脇巫女」で土地勘が出来始めたので、急に理解が進んで来ました。

六嶽神社には宇佐宮から辛島禰宜が参詣に来てます\(◎o◎)/!
宇佐との関係が出て来た!

まとめるのに時間が掛かりそうなので、今日は途中経過を。

パソコンを変えたあと、従来、系図を作る時に利用していたソフトが
使えなくなって、いろいろ試みて、ようやく良いものを見つけました。


系図を作っているといろいろと閃きが来るので
時間が掛かっても大切な作業です。



さて、途中の系図です。


系図途中経過_c0222861_21433372.png


小狭田彦を赤で囲みました。福岡県神社誌に書いてあったのが次。
「成務天皇7年、室木の里の里長(さとおさ)の長田彦が神勅を頂いて、
この山上に神籬(ひもろぎ)を営んだ。」
山上が六ケ岳です。
長田彦=小狭田彦です。
ヤマトタケルを先導したそうですよ。

そして、系図の上の方には市杵島姫とか、ニギハヤヒの名が…。(驚)
まるで「脇巫女」の世界そのものです。

町誌には室木に「タタラグチ」という地名があったようにも書かれています。
古墳から出てくるおびただしい鉄製品は地元産らしい!

「ミルザムとシリウス」を「砂鉄と出来上がった鉄」と
みなした部族がいた可能性も出てきました。

鞍手の白山神社が行方不明になったそうですが、
久山町白山神社の場合、ご神体が鉄滓だという事なので、
鞍手にもそのような信仰があった可能性があります。

今から、系図の続きをやります。

以上、今日は、忘れないためのメモでした。





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# by lunabura | 2015-12-30 21:45 | 「脇巫女」 | Comments(8)

脇巫女26 六獄神社縁起


脇巫女26
WAKIMIKO

六獄神社
むつがたけじんじゃ


今日は肝心の六嶽神社に関して過去記事を編集しなおしてみようと思う。

西川を遡りながら町の一番大きな山に向かって行くと、
田んぼの中にぽつんと鳥居が見えて来る。

脇巫女26 六獄神社縁起_c0222861_13344614.jpg

両脇の植え込みを過ぎると石段だ。


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ひと登りすると、さらに石段と鳥居が迎えてくれる。


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だんだん古代の世界にいざなわれるようだ。


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ここちよい杜の中を抜けていく。
足元は松の落ち葉がふわふわと気持ちいい昔ながらの道だ。
ずっと奥にお宮が見えて来た。

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とても古い趣だ。
古来、賑わった華やかな残り香がそこかしこに漂っている。


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陽光が降りそそぐ、拝殿前に出た。


参拝を済ませて、案内板を読んでみた。
六獄神社由来
紀元前700年のころ、皇女三神 霊山六獄崎門峰に御降臨あり、この地を上宮と定め室木の里に下宮を建立し、安産交通安全の守護神として鎮守の杜とす。
御祭神 田心姫の神 湍津姫の神 市杵島姫の神
大祭日  春季大祭  4月8日 秋季大祭  10月17日
六獄神社社務所


今から2700年頃前に、三女神が霊山・六ケ岳(むつがたけ)の
崎門峰(さきとやま)に降臨されたので、
そこを上宮とし、麓の室木の方を下宮としたという。

三女神は現在は宗像市に祀られているが、降臨の地はこの鞍手町の六ケ岳という。

この山は特別な山として崇敬を集めていた。



脇巫女26 六獄神社縁起_c0222861_13405893.jpg

正面が六ケ岳。
最高峰から左へ、旭岳(あさひだけ)、天冠(てんがい)、羽衣
高祖(たかす)、崎戸(さきと)、出穂(いずほ)。

この山にはニニギノ命の御陵も伝わっている。
旭岳になきがらを、天冠岳に冠を、羽衣岳には衣を埋葬したという。

左手前の方にはヤマトタケルの住まいがあった八剣岳が見える。
この六獄神社は右下の方にある。

境内は巨木に囲まれて、森厳な趣に包まれているが、
裏手に木がなければ六獄を遥拝できたと思われた。


御神体は玉と鏡だった

脇巫女26 六獄神社縁起_c0222861_2045659.jpg


『福岡県神社誌』を見てみよう。
六嶽上宮としていて、
由緒は宗像三女神が影向(ようごう)された霊地である。

成務天皇7年、室木の里の里長(さとおさ)の長田彦が神勅を頂いて、
この山上に神籬(ひもろぎ)を営んだ。

これがこの神社の始まりで、昔は堂々とした社殿だったが、
享禄年間に燃えて、社殿が無くなってしまったので、
御神体を下宮に移してその後、社殿が再び作られる事は無く、
今わずかに石殿が一宇あるだけである。
 
影向(ようごうー神が一時姿を現すこと)
神籬(ひもろぎー神が降りる所)


成務天皇の御世に、長田彦に神示が降りて、
六ケ岳の山上にヒモロギを作って、お祀りをしたという。

昔は山上に社殿が建っていたのが、戦国時代に火災に遭い、
石の祠だけが残った。御神体はこの下宮に移された。

成務天皇と言えば、ヤマトタケルの弟である。
と言う事は、そばの八剣岳でヤマトタケルをもてなした記憶が
まだ新しい頃の話だという事になる。



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続きを読もう。

『宗像宮縁起』の記事に『西海道風土記』に、宗像大神が天より降って、崎門山にいます時から、
青蕤(ずい)玉」を奥宮の表に置いて、
八尺瓊(やさかに)の紫玉」を中宮の表に置いて、
八咫(やた)の鏡」を辺宮の表において、
この三表が御神体の形となって三宮に納めて、人の目に触れないようにした。
これによって身形(みのかた)郡といい、後の人が宗像(むなかた)と言い改めた。
『筑前国続風土記附録』


「奥宮、中宮、辺宮」という三つの宮のそれぞれに御神体が置かれたという。
それはどんな姿だったのだろうか。一つずつ調べて行こう。

「青蕤(ずい)玉」
「蕤(ずい)」を調べると「垂れさがる花・実」の意味とあった。
「青」は古代では「青」も「緑」も青と呼んでいた。
さらに「灰色がかった白」を指すこともある。
形は垂れさがるイメージからは勾玉だろうか。

「八尺瓊(やさかに)の紫玉」
「八尺」は長さの単位。
「八尺の長さの紐に通した」という説や「大きい」という説がある。
「瓊」は玉。
「大きな紫玉」という事か。

「八咫鏡(やたのかがみ)」
「八咫」も古代の寸法だが、「大きい」という意味で解釈されている。
真鍋は13歳の女子が両手の親指同士、小指同士を合わせた円
の大きさと伝えている。




次の写真は地元の古墳から出土した玉である。
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(鞍手町歴史民俗資料館)





地図 六ケ岳 六嶽神社 神興神社 宗像大社


福岡県鞍手郡鞍手町室木





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# by lunabura | 2015-12-28 21:28 | 「脇巫女」 | Comments(0)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25

by luna