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ひもろぎ逍遥

脇巫女 25 神秘のセイリオス


脇巫女 25
 WAKIMIKO
神秘のセイリオス


2015年12月25日。

ようやく天気予報に星マークがついた。
六ケ岳に出るシリウスを観測するチャンスだ。
カレンダーを見ると、すでに「シリウス観測」というメモを
その日の所に書き込んでいた。
星読から初めて聞いた日に書き込んだものだ。
結局、当初の直観が正しかった。

この日をメモしたのには理由があった。

古代の人が冬の間ずっと出続けるシリウスを祀るために
祭日を設けるとしたら、新月か満月の時だろうと睨んだのだ。

しかし、新月を待つとしたら来年になってしまう。
それなら、満月しかないな。一番星が見えない日だけど、
と思いながらチェックしたのだった。

今年は満月とクリスマスが重なる。
ベツレヘムの星はシリウスとも言われている。
何か意味ありげでもある。

タツさんの予測した時刻は20:30。
シリウスが六ケ岳山頂で輝く時間だ。
実際に確認した星読が「その10分ほど前に稜線に現れて山頂に昇っていく」
という興味深い現象を話したので、20時頃に現地入りすればよい。

いや、待てよ。
夜だから場所が分からない事もあるかもしれないから、もう少し前だ。
と考えて7:50には到着するようにした。

六嶽神社に行って参拝を済ませて境内の右手から出れば目的の公民館がある。
しかし、夜中の神社は漆黒の闇に包まれていて、さすがに恐ろしげだった。
すぐにあきらめた。

次に公民館を目指すが、ナビに出てこない。
最初の路地から入ってみて、星読を待つことにした。
まもなくやって来た星読に先導されて六嶽神社の裏手に出た。
やはり、案内人がいなくては夜中の探査は無理だった。

公民館の周囲は明るかった。
「ボッコン、ボッコンの左の方」
と星読が崎戸山を教えてくれるが、それじゃあ分からん。
ボッコンという単語は私には引っ込んだ所という印象なのだ。
星読にとっては山を指す表現らしい。
星を見ているうちに、二つのピークの左手が「崎戸山」ということが分かった。
「崎戸山」(さきとやま)こそ、三女神が降臨したと言われる山なのだ。

観測ポイントを決めたので、裏手から入って六嶽神社に参拝する。
初めて当社に来た時もこの道からだったが、
木の根に足を取られ、記憶とは違う道のように思えた。
社前に出て、ようやく見慣れた景色を思い出した。

常夜灯が一つだけ、境内を照らす。
参拝を済ませて上空を見ると満月が木の枝の向こうに輝く。
足元はまるで木漏れ日を通したような影が出来ている。

そして、拝殿の屋根の上方にオリオンの三ツ星がかすかに姿を見せていた。
星読がメールで「三ツ星が三女神ではないか」と言った理由が腑に落ちた。

三女神を祀る神社の上空に三ツ星が掛かろうとしていた。
もうすぐ、真上に来るだろう。
まっすぐ。立ち上がって。

「ここに座って見上げると、六ケ岳が正面に見えて、
シリウスと三ツ星が縦に並ぶのが見えたのでは」
と星読が言う。

星読の心にはアグラをかいて星の出を待つ氏族の長(おさ)の姿が
あるようだった。
その発想は私にないものだった。
星読自身が過去世で、ここでそうやって祀ったのだろう。
そして、2700年経って再発見した。
そう考えると面白い。
過去世をやり直すことは、ままあることだ。

私は初めて三脚を設置した。
デジカメも「星空」バージョンだ。
こんなことは明るいうちにして置かねばならない、
とテレビで言っていたが、本当だった。

夫が懐中電灯で照らしてくれて、シャッターを押せる状態になった。
――ようわからん。押してみるわ。
すると、いきなり「15秒」が出てきて、
カウントダウンし始めたのでびっくりした。
何と便利なのだ。

こんな風にごたごたしていると、
星読が公民館の方から「ミルザムが頂上に出た」という。
三脚を持って移動する。

もう、少し離れていた。
「撮れた?」
「分からない」
星影のような小さなものはパソコンに移さないと分からないだろう。
「ミルザムを撮ってから、神社に戻って三ツ星だね」
「そして、公民館でシリウスの出を撮る」
結局は、もう一度神社に戻って三ツ星を撮った。
次回はこれで行こう。

本来、境内から見えていたと思われる景色は
社殿と杜があるので、行ったり来たりして撮らねばならない。

外気温は5度。

満月に照らされる崎戸山を見つめる。

宙でピカッピカッと何かが光った。

そしてその真下からついにシリウスが出て来た。

樹木の間からクリアなプラチナ色がぽつんと見えた。

太陽と違って光芒がないのでクリアだ。

色は赤、青、緑、黄色、白と変化しながら光彩を放っている。
白銀色ではあるが、チカチカと変化しているのだ。

全体が出ると、シリウスは稜線を昇り始めた。
速い。
シリウスの動きが目で観測できるのだ。
木のいただきを一つ一つ辿りながら動いているのがよくわかる。
まるで意思を持つ者のように。

三分の一ほど稜線を辿るとシリウスは上を見た。
そしておもむろに稜線を離れていく。
離陸した飛行機より大きな角度でぐんぐんと頂上を目指す。
シリウスが頂上のラインに達した時には山頂からかなり上だった。
タツさんが計算した通りだった。

そして、私たちは更にその上で淡く輝くオリオンの三ツ星も気にしていた。

山頂と三ツ星とシリウスが一直線に並ぶのではないか。

シリウスがガンガン昇ってくるのを三ツ星は歩調を緩めて待っていた。
それはまるで三女神がセイリオスを待つ姿に見えた。

シリウスの別名、セイリオス。
これがセオリスと変化したのなら、まさしく
セオリツ姫を三女神がお守りするような位置関係だった。

だから、六つのピークのうち、三女神が降臨したのは
「崎戸山」でなければならなかったのだ。

三女神が降臨したというのはこの瞬間ではないか。

そして、何故その時、セイリオスが山頂にあるのか。

その訳は星読の託宣にヒントがあった。
クマソの絶対神セオリツ姫の血を受け継ぐ巫女が三女神なのだ。

「周囲の四つの星は三女神を祀っているように見えるね」
と星読が言った。
――まるで四天王のように、と言いかけて私は止めた。
それは仏教的思想だ。
しかし、思えば三つの星を囲んで四方に鎮座する星々の位置関係は
仏教の曼荼羅とそっくりだ。
阿弥陀の両脇を脇侍仏が固め、四天王が四方の睨みを利かす。
まるで、オリオン座そっくりだ。
四天王の発想もまた、オリオン座から生まれたのかもしれない。
知識による先入観は豊かな発想を封じ込める。
こうして現地で感じるものこそ、古代の人の発想を知ることになるのだ。


崎戸山の稜線は黒く神奈備山のシルエットを描いていた。
シリウスを追う間、残像が白い雪のように山を覆ったり、
雲のように下がったりする。
二人の男性は神秘的だという。
山のオーラが変化しながら輝いているという。

この不思議な山の変化を残像と思い込んだ私は
どうやら男性陣より夢のない人間のようだ。

そして、私たちは拝殿前に戻って三ツ星を見上げた。
ようやく三ツ星が真上に移動してきた。
シリウスがあれほどの距離を移動した間に
三ツ星はほんの少ししか移動していなかった。

もう一度シャッターを切った。

これがその写真だ。

脇巫女 25 神秘のセイリオス_c0222861_2217151.jpg

三ツ星信仰がここにあったに違いない。





しかし、シリウス信仰は?
それは長谷寺の主仏が十一面観音という形で残されているかもしれない。
十一面観音はセオリツ姫のもう一つの姿とされているからだ。









こちらがシリウスの出。

脇巫女 25 神秘のセイリオス_c0222861_22174232.jpg













三ツ星とシリウスと崎戸山。

脇巫女 25 神秘のセイリオス_c0222861_22175962.jpg





試しに撮ってみると、想像以上に撮れていた。
しかし、キラキラと色を変えるシリウスはやはり静止画像では分からない。

いつか、町おこしとして、撮影大会を催してこの神秘の現象を
多くの人に見ていただきたいと思った。

それが、物述の魂たちを呼び出す手段になるのかもしれない。





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# by lunabura | 2015-12-26 22:21 | 「脇巫女」 | Comments(10)

脇巫女 24 ミルザム


脇巫女 24
WAKIMIKO
ミルザム


ミルザム星はシリウスと同じ大犬座にあり、
シリウスよりほんの少し先に昇ってくる。

初めて聞く星の名だったが、真鍋はその倭名を伝えていた。
それは鐸石別星(つくしわけのほし)という。

鐸石別の名の皇子がいた。

『古事記』に出てくる伊登志別王(いとしわけのきみ)のことで
筑紫(ちくし)では鐸石別命と言ったそうだ。

この命は垂仁帝(すいにん)(前29~後70)の皇子で、
筑紫の人々は蹈鞴(たたら)の元祖として敬っていたという。

鐸石別命は豊前足立山(あだち・北九州)に祀られていたそうだ。
足立山は龍体だと、友人が言っていたことを思い出した。
実際に登ってみると、ところどころに露出した岩は
まるで龍のウロコのように見えた。

足立山の名の由来は、そこで和気清麻呂(わけのきよまろ)が
追っ手に足を切られたが、幸いに治ったことからついたと聞いた。

この和気清麻呂こそ、
弓削道鏡(ゆげのどうきょう)の天皇即位を阻んだ人だ。

宇佐での託宣事件は当ブログでも紹介した。
そこでは占星術が行われていたという。
脇巫女たちが逃れた先で伝えていたのだろうか。


さて、タタラの元祖・鐸石別命は和気清麻呂にとって祖に当たるという。
和気氏の拠点は備前国藤野で、鉱産氏族であり、医家でもあったという。

ゆえにだろうか、鐸石別命は工人や医人の元祖として拝まれていたが、
天平の世から薬師如来になり、
行基菩薩の石像が祠に安置されるようになったと真鍋は言う。


冬の凍てつく夜にオリオンの後を追って昇ってくるミルザム星を見て、
工人たちは仕事の出来を祈ったのだろう。
その直後、全天一の明るさを誇るシリウスが昇ってくる。
その輝きは工人が作り出した鉱物の輝きと重ね合わされたのかもしれない。

ふと、そう思った。

そして和気氏の活躍を知る人は「医術」の神としても祈ったのだろう。


このミルザム星を見て「ささらのほし」という人たちもいた。
「さざれいし」の古語だ。
「さざれいし」は「細石」とも書くように、砂鉄(磁鉄鉱)のことである。

これを鉄に還元する名匠は伊迹師(いとし)、五十氏(いそし)、
後に万葉の頃は石上(いそのかみ)と呼ばれた。

そう、糸島の五十迹手(いとて)の話の時にもよく出て来た名だ。
あのシリウスの輝きが込められた名でもある。

そうすると、ミルザムは砂鉄。シリウスはその結晶。
そう見立てて仕事の成功を祈ったというストーリーも生まれてくる。


思えばここ、鞍手は石炭が採れる所だ。
「燃える石」に関しては古文書に登場するのは中世頃らしいが、
当然ながら古代人たちはそれを知っていたことだろう。
物部たちがこの地を制したのはこの「燃える石」も一因だったのかもしれない。


ミルザム星にはさらに真金星(まがねのほし)という名もあったという。

   真金吹く 丹生(にふ)の真朱(まそほ)の 色に出て
   言はなくのみそ 吾が恋ふらくは
                (万葉集巻14 詠み人しらず)

「まそほ」の色はサイドバーにある下巻の帯の色だ。
デザイナーが私のために、日本の色から選んでくれた色だった。


ミルザム星にはさらに吉備星、気比星という名もあった。
ここで再び「吉備」の和気清麻呂にループした。


他にミルザム星は相模星(さがみのほし)、さねさしの星とも言った。

  さねさし さがむのをのに 燃ゆる火の
  火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも

  (古事記景行紀 弟橘比売(おとたちばなひめ)の御歌)

「さねさし」とはタタラの火の勢いを加減調整する名匠のことだと真鍋は伝える。
そうすると、意味不明とされた初句二句には
産鉄の名匠の見つめる炎のような熱い恋が詠み込まれていたことになる。

まさか、ここでヤマトタケルのために海に身を投じた姫の歌が
出てくるとは思ってもいなかった。


そして、今回は行基の名も出て来た。

鞍手には長谷寺がある。
奈良より古いこの古刹(こさつ)の十一面観音が行基の作とも言われている。

この長谷寺が長遠寺別院(じょうおんじべついん)の真北6キロの所にあるとなると、
ここにも解き明かされることを待つ謎が残されているようだった。



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# by lunabura | 2015-12-24 22:25 | 「脇巫女」 | Comments(5)

脇巫女23 オリオンの三つ星とミルザム?


脇巫女 23

オリオンの三つ星とミルザム?



星読から六ケ岳のシリウスの出の報告があったのはいつだったろうか。
手帳を見ると12月8日となっていた。
今日は2015年12月22日。

あの日から一夜も、星の出を観ることはできない。
今夜も薄雲が広がってオリオンの三つ星が辛うじて見える程度だ。

ステラシアターをダウンロードして星の出を観てみることにした。
今日の六ケ岳の山頂にシリウスが至る予定時刻は20:43だ。
その10分前にシリウスは鞍部に出てくるという。

星読が現地入りしていた。
20:20
星読から「三女神はオリオン座の三連星に関係あるのでは…」とメールが来た。
気になった。
六嶽神社の絵馬の三女神は二つの山の窪みの真上に
描かれていたのを考えていたからだ。

ちょうどその位置に三連星が立つなら
三女神がセオリツ姫を先導するようなイメージとなる。

20:26
「別の星が山頂から上がった」とメール。
星図を見ると「ミルザム」のようだ。
この星にも何か意味づけがあるかもしれない。


脇巫女23 オリオンの三つ星とミルザム?_c0222861_0344177.png

20:43の星図だ。
これは福岡市からの観測図。
鞍手ではないので正確ではないが、
このシリウスの真下に六ケ岳の頂上があるイメージだ。

真鍋の本を調べると、「ミルザム」は
鐸石別星(つくしわけのほし)と言ってタタラに関連する星だった。
時代は紀元前だ。そして宇佐や和気氏にも関連があった。p218

また、じっくりと調べることにしよう。

そして、実際に見て確認しないとこれらは妄想に過ぎないのだ。




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# by lunabura | 2015-12-23 00:36 | 「脇巫女」 | Comments(0)

宗像大菩薩と「なかて」シリーズの件



過去記事の<宗像大菩薩と「なかて」>シリーズに番号を打って、
順に読めるようにしました。

(1)宗像大菩薩とは男神だった
(2)紅白の「なかて」と北欧神話フライヤとユール
(3)紅旗と白旗・古代の宗像の王と旗
(4)「なかて」はメイポールと同起源
(5)古代の紅とシルク

カテゴリは「宗像大社」です。
http://lunabura.exblog.jp/i37/


「宗像族」と「水沼族」(むなかた族とみぬま族)
どちらも三女神を祀ることから、
その関係をブログの当初から考えていて、
両族は同族だという自分の仮説を検証している段階です。

宗像氏の系図を書いた本があって、祖先は「出雲族」でした。
これに関しては「宮地嶽―磐井の末裔」本でも少し触れます。

今、それらをまとめると、
「出雲族」と「水沼族」が通婚して「宗像族」となった、
という感じになるのかな…。

宗像族にとっては、父系が大国主命で、母系が三女神となります。


さて、
今日は、志賀島の歴史講座を投稿できるかなと思っていましたが、
先方との確認がまだできていないので、明日ぐらいになると思います。

「高良玉垂宮神秘書」を安曇族の観点で構成しようと思っています。


で、「神秘書」には「物部を秘す」と書いてあります。
秘密だと言われると、ついつい、突っ込んでしまうよね (^_-)-☆

でも、志賀島ではあまり突っ込んではなりません。
このあたりが工夫のしどころです。

「脇巫女」でも水沼族と宗像族と物部氏が話題になっていますが、
高良山の麓でも近い時代の物部氏のようすが見えてきます。

宗像の高磯強石将軍とか、物部氏の武内宿禰とか、
具体的な名前が出てくると、急にリアルになるので面白いです。

「脇巫女」が中断していますが、
これがどうなるのか、私も知っていません。

忙しくなるのが分かっていたから、急いで投稿していたのですが、
予定外の講座が入ったので、こちらを優先しています。

でも、どれもがリンクし合っているので、お付き合いくださいね。




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# by lunabura | 2015-12-20 21:05 | 「脇巫女」 | Comments(0)

(1)宗像大菩薩とは男神だった


 
(1)宗像大菩薩とは男神だった


平安時代以降、歴史が絶えたという筑後の水沼族(みぬま)。
宗像では、いずこからかやって来たのか分からない宗像族
宗像市の宗像大社に関しては平安時代以前に遡る記録をまだ見つけていない。
両者には三女神を祀るという共通点がある。

ミヌマカタとムナカタ。多分これは同一氏族。
そんな仮説で、解決しなければならない問題が有る中に、「宗像大神」がありました。
それは福津市の縫殿神社に祀られる縫姫の兄媛を引き止めた神です。
この宗像大神はいったい誰だろう。


呉から連れて来たの縫い姫は四人いたのですが、宗像大神がどうしても一人置いていってほしいと言われたんですね。それで兄媛が福津に残ったのですが、この「宗像大神」とは誰なのか。
 これは応神天皇の時代の話です。すなわち神功皇后の御子の時代です。

そして、別件で「御長手」を調べていた時、『宗像大菩薩縁起』に、次のような文があることが分かりました。
「宗像大社の無形民俗文化財」 森弘子 より
http://www.okinoshima-heritage.jp/files/ReportDetail_22_file.pdf

「御長手」の起源について『宗像大菩薩御縁起』(以下『御縁起』)「強石(ごうせき)将軍(今宗像大菩薩)依神功皇后勅命三韓征伐事」14)の項に、次のように記されている。
神功皇后出兵の折、一人の老翁が「御長手」を捧げて出現し、自分は瑞穂国の帝であり、天照大神の御子である。これまで夷敵征伐7度の棟梁を務めた「高礒(たかいそ)強石(ごうせき)将軍である」と名乗った。強石将軍は今の宗像大菩薩である。

『御縁起』によると、宗像大菩薩とは高磯強石将軍という人物で、神功皇后の新羅の役に参加している男性でした。三女神ではなかったんですね。老翁の姿だし、天照大神の御子なので男神に間違いありません。

アマテラスの五人の子の名前は「正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命」。この中の誰かということになります。でも、今日のテーマはこの中の誰なのかということでなく、ミヌマとムナカタに関しての考察でした。

引用文の先にはこんな文が載っていました。
武内大臣は赤白二流の旗を織り持ち、強石将軍(宗像大菩薩)の御手長19)に付け、これを軍の前陣に捧げて進んだ。軍が旗を指すことはこの時より始まった。

「武内大臣が紅白二流の旗を織り持」ったという話は織幡神社に出てきます。るなのお話会では毎回出てきますね(^_^;)

この紅白の旗を捧げて進んだのが強石将軍だというのです。


(1)宗像大菩薩とは男神だった_c0222861_22104620.jpg

宗像大社の「みあれ祭」紅白の旗がなびく

ガイドブックなら「4織幡神社」を見てね。そこに「この旗を戦の時に司った神を旗指大明神と言い、宗像市多禮(たれ)の指来(さしたり)神社に祀られているという」と紹介しています。

ここはまだ参拝していないのですが、捨て置けない伝承だったので本に書いておきました。どうやらこの神が宗像大菩薩だということになり、その拠点は宗像市多禮にあるということになりそうです。


ここまで考えていたところで急ぎのゲラ刷り校正が入って来て、この記事はストップしました。

そして本の校正のため、三女神を祀る久留米の赤司八幡神社の資料を見直していたとき、「宗形金己呂神」という名が出て来たのです。\(◎o◎)/!

この神は「キンコロ」と読むのでしょうか?「強石」と意味が通じそうな名前です。でも分からない。

分かるのは「宗形神」が筑後国に祀られていた。しかも数カ所もということ。
これは天慶二年(939年)、平安時代の記録です。これをどう解く?

平安時代の終わりごろ、筑後国では既に宗像神が各地に祀られていた。ということは水沼はすでに筑後で宗形に変化していた?

一方で、宗像には旗指大明神がいて、強石将軍と言い、のちに宗像大菩薩と称されるようになった。この一族が呉の縫い姫を留めた?

これらを時代的にどう解く?

「そうだね。今日は頭も働かないし、備忘録ということにしておこう。あとは訪問者諸君に解いてもらいたまえ。」 (-。-)y-゜゜゜
と、るな探偵は仰せになるのでした。

土地勘がある人でないと、多分さっぱり分からないテーマでした (+_+)
とりあえず、「宗像大菩薩とは男神なり」だけはクリア。



赤 宗像市 多禮   青 久留米市 赤司八幡神社




2015,02、27


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# by lunabura | 2015-12-20 20:22 | 宗像大社・むなかた・宗像市 | Comments(8)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25

by luna