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ひもろぎ逍遥

真鍋大覚ノート 2校が終わりました

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真鍋大覚の伝えた星の和名。それは物部氏が伝えたものでした。

300以上もの星の和名の中から、今回は日本神話を読み解く手掛かりのあるものを選んでいます。

今週は2校の校正をしました。

『儺の国の星』も『儺の国の星拾遺』も、とても難解ですが、同じ文章を何十回も読んで、少しずつ見えてきました。

あちこちの神社に行って縁起を学んだのも理解を助けてくれました。真鍋の本の内容が実際に神社に伝えられているのを見た時には、とても熱い思いが流れます。いや、それがあって初めて解ける謎も多々あったのです。

「星の和名の単語表」を作るのが一つの夢なのですが、とても一人で成し得るものではありません。ですから、一冊の本の中に出た単語だけでも、と単語表を作りました。

ミニミニ単語表ですが、これを見ていると日本の言葉の成り立ちに思いが馳せられて楽しいのです。

古事記の神話にも星のストーリーがいくつも隠されていました。

11月には出版される目途がつきました。

あと少しです。待っててくださいね。

<20250914>



# by lunabura | 2025-09-14 11:33 | 真鍋大覚ノート | Comments(0)

第2回 朝倉橘広庭宮での健やかな日々から殯まで「筑紫なる斉明天皇と天智天皇」

季刊『邪馬台国』で始まった新しい連載「筑紫なる斉明天皇と天智天皇」の第2回が出ました!

タイトルは
朝倉橘広庭宮での健やかな日々から殯まで

としました。

 斉明天皇が白村江戦を前に福岡県にやって来ます。


 今回はいよいよ朝倉市で橘広庭宮を営みます。その場所がこれまで知られていませんでしたが、宮野神社の縁起に、ここが広庭宮だと書かれていました。

 斉明天皇はまずは藤原鎌足に神祀りをさせています。中臣鎌足が藤原鎌足になった理由のヒントがここにありました。

 斉明天皇は積極的に各地に出掛けて祭祀をしますが、ついに病に倒れました。崩御して、殯が行われるまで、中大兄皇子の祈りの場所が各地に伝えられています。

 日本書紀の記述と神社伝承を比較しながら、探っていきました。
 朝倉市の旅のガイドにご利用ください。


目次を書いておきます。

第一章 朝倉橘広庭宮での健やかな日々
 ㈠宮野神社にあった橘広庭宮の記録
   藤原鎌足に祀らせた神
   「当所」が橘広庭宮
   風水から考える橘広庭宮の規模と位置
   中宮野神社内古墳
   中臣鎌足が藤原鎌足になった理由の手掛かり
   絵馬に描かれた筑紫舞
   阿曇氏、阿部氏、藤原氏を繋ぐ磯良舞
   健やかな斉明天皇
 ㈡翌日には宮地嶽神社で祈った斉明天皇
   山頂の宮地嶽神社
 ㈢三日目 福成神社で祈った斉明天皇
   北面の武士だった源太の墓
 ㈣斉明天皇の政務と御遊び
   天子の森公園
   橘の広庭公園
第二章 斉明天皇の発病から殯まで
 ㈠ 別所神社 中大兄皇子が祈った母帝の病気平癒
   麻氐良山のイザナミ尊
   「皇居の辺」なる清浄の地
 ㈡イザナミ尊が祀られていない麻氐良布神社
   マテラとアテラ
   マテラ星とは太古の北極星ツバン星
   麻氐良山に登る
 ㈢朝闇神社 仲哀天皇に祟った神
   仲哀天皇に祟った高皇産霊尊
 ㈣田手神社 中大兄皇子は向津媛を祀った
   撞賢木厳之御魂向津媛尊も死をもたらした女神
   綾部八幡神社 忍海の漢人による武器製造
 ㈤恵蘇八幡宮 斉明天皇の殯の宮
   十二日間の服喪
   天智天皇の御製の歌
   朝倉山の鬼
   斉明天皇の奈良の陵墓の場所が記録されていた
   宇佐八幡宮への戦勝祈願の使者
   天武天皇白鳳元年と記す寺社暦
   斉明天皇の名にあるシリウス星とエジプト暦
   日付の矛盾
   中大兄皇子と余豊璋

季刊『邪馬台国』146号は各地の書店、アマゾンで手に入りますが、梓書院から直接購入する方法もあります。

<20250912>

第2回 朝倉橘広庭宮での健やかな日々から殯まで「筑紫なる斉明天皇と天智天皇」_c0222861_09460356.png


# by lunabura | 2025-09-12 09:46 | 朝倉橘広庭宮 | Comments(0)

高良玉垂命の最期 『高良玉垂宮神秘書』536条534条


高良玉垂命の最期 『高良玉垂宮神秘書』536条534条_c0222861_10441074.png


福岡県久留米市の高良大社に伝わる『高良玉垂宮神秘書』(以下『神秘書』)のトリセツを推敲しています。

いつも、この条に来ると胸が熱くなります。そこには高良玉垂命が自分の死期を悟った時、高良山を下って大善寺玉垂宮に行き、係留していた御座船を見に行ったことが書かれています。玉垂命とは安曇磯良のことで、御座船は神功皇后の船です。

大海を渡る海の男。陸では馬で駆け巡った安曇磯良も、最期は御輿に揺られての道行で、山を下って大善寺玉垂宮までやって来ます。

そこには神功皇后の御座船が係留されていました。神功皇后は既に自分より先に亡くなっていました。

『神秘書』はカタカナで書かれていますが、ここでは現代語訳で紹介します。

早津崎を御廟と観念す 五三六条 

【訳】
かの御座船の上に取り付けられていた棚や、そのほかの道具は早津崎という所で焼いて収めた。これを御廟と観念して五月七日に下られ、御輿を留めた所である。
   ***
 玉垂命は早津崎を自分の廟にすると決意すると五月七日に輿で下りました。早津崎は大善寺玉垂宮の南一キロの所にあり、玉垂命はそこで船の棚や道具を燃やさせました。


船の跡に神功皇后を祀る 五三四条

【訳】
大善寺川に乗り捨てた御船を置いた跡に朝妻を勧請したのである。乗り捨てた御船には上葺きをして置いていた。
   ***
 玉垂命が一番気がかりだったのは、大善寺川に残した神功皇后の御座船でした。船の覆いを取らせると、棚や道具を早津崎で燃やさせました。


 御座船の上に取り付けられた棚については志賀島の方にも、神功皇后が三韓に向かう時、急遽、棚を作らせた話が伝わっています。そこは「棚の浜」という地名になり、今はフェリーの着く港になっています。


 航海中、神功皇后はその棚に供え物をして綿津見神に航海の安全を日々祈りました。


 ところが、対馬を出た時に大嵐になり、舵取りの磯良は御座船を命がけで守りました。
 神功皇后もその棚に三つの苫を並べてお供え物をして、「嵐が収まったら、この三つの苫が流れ着いた所に必ず綿津見神を祀ります」と祈り、お供え物を包んだ苫を流しました。

 その三つの苫は福岡県新宮町の浜に流れ着き、三苫(みとま)という地名になり、岬の上に綿津見神社が祀られました。

安曇磯良が燃やさせた棚にはそんな思い出がありました。磯良は船の跡に朝妻(あさづま)を勧請しました。

「朝妻」とは久留米市御井町朝妻にある味水御井(うましみずみい)神社の祭神・神功皇后のことです。神功皇后を「香椎朝妻」ともいいます。

<20250821>


# by lunabura | 2025-08-21 10:52 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Comments(0)

10月のバスハイクはうきは市。古墳や神社を巡ります。

10月のバスハイクはうきは市。古墳や神社を巡ります。_c0222861_15041239.png


お待たせしました。
10月のバスハイクのコースを決めました。今回はうきは市を集中的にまわります。

うきは市は『風土記』に景行天皇が訪れたことが書かれていますが、古社や古墳が沢山あります。

装飾古墳は日岡、月岡古墳がよく知られています。
そこから10分ほど車で行った所には珍敷塚古墳(めずらしづか)古墳があり、そこに描かれた舟がエジプト壁画と共通性があることが指摘されています。

『風土記』にはそこに鳥羽氏がいたことが書かれています。
一方、鳥羽星といえば、竜座のツバンのことです。ツバンがトバに変化したといいます。

筑紫の物部の星の名を伝える真鍋大覚は、鳥羽氏とはツバンが北極星だった時代にエジプト人の一派が中国大陸を経て日本に来た一族だといいます。

『風土記』や日田市の伝承には、この鳥羽氏が景行天皇と共に日田市に行って土地の開発を進めたことが書かれています。

さらに時代がさかのぼると、神武天皇が東征前に浮羽を訪れており、そこにいた賀茂氏が迎えています。その賀茂氏が八咫烏だと伝えています。

この地には物部氏もいました。
そして、やはり行基も来ています。天武天皇の勅願所も。

いろいろと時代が盛り沢山の地域ですが、今回はその一部を回ります。

吉井歴史民俗資料館は期待大の資料館です。

装飾古墳の中は見学できません。


案内文
第62回 うきは市
日岡古墳 珍敷塚古墳 高御魂神社 弓立神社 賀茂神社 
神武天皇 八咫烏 景行天皇 鳥羽氏 行基
2025年10月18日(土) 案内 綾杉るな

日岡、月岡、珍敷塚古墳は装飾古墳で、特に珍敷塚古墳はエジプトの壁画と共通点があることが指摘されています。

賀茂神社は神武天皇を迎えた八咫烏の宮で、高御魂神社は造化三神を祀ります。

弓立神社、浮羽嶋は景行天皇の旧跡で、風土記には鳥羽氏がいたことが書かれています。石垣神社は高良玉垂命を祀っています。

今回は福岡県うきは市の古代を巡ります。

天神=日岡古墳・月岡古墳=珍敷塚古墳=弓立神社=賀茂神社・古墳群=高御魂神社=吉井歴史資料館=浮羽稲荷神社・小坂印鑰神社(車窓)=浮羽嶋=石垣神社・石垣山観音寺(車窓)=巨峰ワイナリー=天神 

申し込み

バスハイクの申し込みはMPO法人「歴史と自然をまもる会」
092-406-8725 あるいはHPよりメールにて 電話が確実です。
(火曜日~金曜日 10時~16時)

参加費 5000円 当日払い
集合場所 天神日銀横(ファミマ横)勝立寺の前
出発時間 9時出発 
集合時間 8時45分 

初めての方、日銀前ではなく、日銀横の勝立寺の前です。ファミリーマートまで出るとバスが見えます。また、当日の連絡はスタッフに直接連絡することになるので、携帯の番号を聞いておいてください。
雨天決行です。

<20250819>




10月のバスハイクはうきは市。古墳や神社を巡ります。_c0222861_21545322.jpg
10月のバスハイクはうきは市。古墳や神社を巡ります。_c0222861_15184581.gif

# by lunabura | 2025-08-19 15:05 | バスハイク | Comments(0)

市杵島神社 藤原純友の孫の上陸地 大村市



市杵島神社 藤原純友の孫の上陸地 大村市_c0222861_21213102.png



昨日の佐賀、長崎のバスハイクは35度以上の酷暑でしたが、海辺の町々は風が抜けて快適に過ごせました。


今日は長崎県大村市の市杵嶋神社を記録しておきたいと思います。


この日の旅は多良岳が形成する麓の多良海道を通る道を辿って佐賀県から長崎県へと海沿いに走り、終着点の大村市に来ました。

その海に浮かぶ小島に市杵島神社はあります。



島の名前は寺島です。一時期この島に妙音寺があったことから寺島と呼ばれるようになったといいます。



木漏れ日の中の心地良い境内の奥に行くと、神祠が二つありました。



掲示板を見ると、市杵島神社の祭神は書かれていませんが、
「江戸時代に七福神で知られる弁財天が祀られていましたが、明治三年に廃され、今は市杵島神社が祀られています。」
とあったので、一つには弁財天すなわち市杵島姫が祀られているのでしょう。


また、「竜神社は玖島崎竜神島に建てられ、明治八年、寺島へ遷座したもの」とあるので、もう一つの神祠には八大龍王が祀られているようです。


小さな島ながら、人が住んだ気配があるのはお寺があったからなんですね。


寺島の周囲を一周する遊歩道があり、時計回りに回って見ました。


キラキラと陽光が海面に輝いて夢のように美しい光景を見せてくれました。



忘れられない日本の風景の一つとなりました。

さて、掲示板にはもう一つ話が書かれていました。


藤原純友の孫が上陸した地点だというのです。


孫の名前は藤原直澄(なおずみ)といい、伊予国(愛媛県)大洲に住んでいましたが、純友の乱を起こした祖父の罪が許されて、肥前国の藤津、高来、彼杵(そのぎ)の三郡を賜ったといいます。
かなり広範囲です。

藤原直澄は朝長、富永、久門、河野、堀池氏らの家臣を従えて大村湾に入り、この寺島の南側の夫婦岩に船の艫綱を掛けて上陸したといいます。

その時には久原(くばら)の乙名(おとな)たちが歓迎に駆け付け、久原城に入り、大村を治めたそうです。

そして、大村氏の祖となりました。大村氏は藤原氏だったんですね。


各地にバスハイクに行くと、時々、藤原純友の乱の話や敵が祈願した所に出会います。それは教科書で学ぶ歴史とは少し異なる顔を持っています。


ここも、久原の乙名が歓迎したというので、もともと地元と何らかの繋がりがあったんだな、と思った次第です。


市杵島神社 大村市


それにしても、とても美しい海と夢のような小島。


一周する遊歩道は、またとない海の景観を見せてくれる神社でした。

<20250804>


大村市玖島1丁目134


# by lunabura | 2025-08-04 18:18 | 神社(イ) | Comments(0)

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