ブログトップ

ひもろぎ逍遥

沖出古墳3 古墳が見つめる先、はるかに脊振山が 後円部の先は位登




沖出古墳3 

古墳が見つめる先、はるかに脊振山が 

後円部の先は位登







c0222861_20225533.jpg

沖出古墳の後円部から前方部の向こうに見える山を写しました。
遠賀川の向こうに見える山の名前。さっそくチェリーさんが調べてくれた上に、主軸ラインなど思いがけないものを提示してくれました。



チェリーさんの画像と説明文です。

「lunaさん、こんばんは。
画像を作成しましたので、お送りします。」






c0222861_21295271.jpg

「沖出古墳から撮影されたお写真と同じ方向を、カシミール3Dにて望遠で撮影しました。
真ん中の赤い点のピークが、lunaさんが撮影した正面になると思われます。
その右側の白い印の向こう側に脊振山があります。」

-まあ!同じ場所をカシミール3Dで撮影出来るなんて(;’∀’)
赤い点のピークには名前が無いんですね。
で、左の山は弥山岳!これを見た時はゾクッとしましたよ。
この麓に出雲があるのです。
そう、ワダツミで新しく登場しているエリアで王塚古墳の近くです。
それが出てくるなんて。シンクロだらけです。

さて、チェリーさんの続きを見ましょう。








c0222861_21301828.jpg




c0222861_21303955.jpg

「脊振山から沖出古墳をつないだ直線をそのまま延長すると位登八幡神社に至ります。
ピンクの直線が赤点のピークへのライン、赤い直線が「脊振山-位登八幡神社」のラインです。
赤い直線は、やはり前方後円墳の軸線とは少しずれるようですねぇ…
方位の角度に意味はなさそうです。」

― ここで位登八幡神社が出てくるとは思いませんでしたよ。
神功皇后が半年近くも滞在して子育てした神社です。
周囲には神功皇后の天皇即位、応神天皇の皇太子即位を伝える可能性のある帝階八幡神社があります。ブログには書いていないけど、『神功皇后伝承を歩く』の下巻「位登八幡神社」に書いています。中国正史や日本書紀の記述、GHQによる操作など、拙著をお持ちの方は御覧になってください。タイミングが合えば、こちらでも紹介します。

後円部の先にこの神社があるのは、やはり意味付けがあるのでしょう。いかにも古代氏族の聖地です。





c0222861_2131289.jpg

「位登八幡神社のすぐ西側の山稜のライン上から、カシミール3Dにて撮影をしました。
沖出古墳と脊振山が直線上にあることがわかります。
反対側を振り返っても、位登八幡神社を見ることはできません。」










c0222861_21312443.jpg

「沖出古墳には東西関係があります。
両子山→沖出古墳 270.00°距離 81.693km
両子山→光正寺古墳後円部 269.98°距離 102.269km
両子山から沖出古墳へのラインをそのまま延長すると、光正寺古墳前方部の端から8mくらい北側の地点になります。
両子山-沖出古墳―光正寺古墳が直線上にあると考えていいと思います。

沖出古墳で、改めて真北を測定した場合は
沖出古墳→七夕池古墳 269.97°距離 20.616km になります。」

―今度は光正寺古墳がラインに乗って来るんですか。
そこもまだ詳細を書いていませんね。
光正寺古墳は山を見ている感じがあって、その延長上に沖出古墳があるなら、早く調べなきゃですね。

沖出古墳 → 稲築八幡宮
     → 位登八幡神社
     → 光正寺古墳
どこから書こうか…



「詳しくはこちらを御覧ください。」



これを見てまたもやビックリ。
冬至の日の舞台「イソラ2018」が描くラインなんです。
チェリーさんの研究結果が生かされているんですね!
この舞台は明日ご案内します。


※今日はラジオ放送日でした。
RKBラジオで放送がありましたが、河村哲夫さんの続きに私、という意外なコラボ企画でした。

仲哀天皇の崩御についてが本日のテーマで、その亡くなり方は日本書紀にも複数書かれているんですね。その一つが御勢大霊石神社だったので、私の説明を放送していただきました。古賀市の小山田神社までです。上巻をやってます。



20181201




画像©チェリー (使用は許可を得てください。)


c0222861_15184581.gif

[PR]
# by lunabura | 2018-12-01 21:33 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(2)

沖出古墳2 床も壁も赤く塗られていた石室



沖出古墳2 

床も壁も赤く塗られていた石室






c0222861_20572272.jpg

円墳に付けられた階段を上っていくと、上方に石室を覗くガラス張りのドアがあります。もちろん開けられません。







c0222861_20574520.jpg

これは石室の出土時の画像です。石室の長さは3.7m、幅1.49m、高さ1.2mで、壁は赤く塗られていたそうです。

床には粘土が張られ、その上に赤く塗られた川原石が敷き詰められていたとか。
床も壁も赤かったとは!

石室の高さが1.2mですから、中に入るのは大変ですね。

造られた順が書かれていませんが、床を作り、石棺を置いて壁を作るのでしょうか。



盗掘されているので出土品は少ないのですが、3種類の石製腕飾りと管玉、ガラス玉、および鉄製品(刀、剣、斧、鏃、刀子)が出土したそうです。


c0222861_20581440.jpg

イラストの女性が両腕に付けているのが腕飾りですね。

石釧、車輪石、鍬形石です。


蓋も盗まれているとは、よほど素晴らしい彫刻でもあったのでしょうか。



c0222861_20582836.jpg

石室は主軸と直交しています。北枕だと書かれていましたが、主軸は東西でなく、傾いているので、やや北よりか、という感じです。



説明板には沖出古墳は「埋葬施設などからもヤマト(大和)政権と強い結び付きのあった人物のお墓ではないかと考えられます」と書かれていました。


西暦300年代に日本って中央政権があったのだろうか。
ヤマト政権って何県ですか?


「前方後円墳はヤマト政権の許可があって造られた」と、歴史講座でよく聞きます。

これについて、ある時、その証拠や文献を質問された方がありましたが、学芸員の方の答えは「これまでの偉い先生方が研究された成果です」と言われただけでした。

だから、未だに「ヤマト政権」って何県の何市に何という王がいたのか、よく分からない単語なのです。





c0222861_20591834.jpg

これは近くの次郎太郎古墳群から出土した埴輪君。
王冠をかぶってますね。
このデザインは那珂川市、朝倉市、行橋市でも見ましたよ。

中世ヨーロッパの王様の冠のデザインが古墳時代にあったんですねえ。


20181130




c0222861_15184581.gif


[PR]
# by lunabura | 2018-11-30 21:04 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(0)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25

by lunabura
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31