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ひもろぎ逍遥

3大伴金村は継体天皇を即位させる 「磐井、葛子、勝村、勝頼の時代」


磐井、葛子、勝村、勝頼の時代3 

大伴金村は継体天皇を即位させる



大伴金村大連が推した25代武烈天皇の在位はわずか8年だった。しかも子供がいなかった。

金村大連は次の天皇探しをする。

まずは仲哀天皇の五世孫の倭彦王を推挙した。丹波まで迎えに行ったが、武装していたので倭彦王は恐れて姿を隠した。

金村大連は続けて男大迹(をほど)天皇を推挙する。26代継体天皇のことだ。別名は彦太尊。継体天皇の名を使おう。


継体天皇は誉田天皇の七世に当たる。誉田天皇とは応神天皇のことだから、仲哀天皇と神功皇后の末裔で天皇家の血筋ということになる。


この件で金村大連は一応、物部麁鹿火大連許勢男人大臣(こせのおひと)らと協議する形を取るが、実質的には独壇場で、麁鹿火大連たちは言われるがままだった。

金村大連は天皇の「鏡と剣」も預かっていて、継体天皇に奉った。

手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后に推挙したのも金村大連だった。
そして、前天皇に後継ぎがいなかったことを考慮したのか、さらに八人の妃を後宮に入れた。
子供は数十人になる。(数えるのが面倒)継体天皇は一応57歳。


大伴金村大連は軍事力で他の豪族をしのぎ、政をほしいままにしていた。天皇を推挙する実権を持ち、皇后選びも思うがまま。全盛期を迎えていた。麁鹿火大連はイエスマンになっていた。


こうして西暦507年、26代継体天皇が即位して体制が落ち着くと、『日本書紀』は再び朝鮮半島の事情ばかりを描く。

継体3年2月(509年)、日本から百済に使者を送った。任那にあった日本の県邑(あがたのむら)に逃げ込んでいた百済人を調査すると、三、四世代に遡って百済に送還した。

継体6年4月(512年)、穂積臣押山(ほづみのおみおしやま)を百済に派遣する。この時、筑紫国の馬を四十頭、百済に与えた。


馬が四十頭だ。すごい数だ。しかも、筑紫の馬だ。筑紫の何処に牧があるか。一番の候補は福津市の渡半島だろう。そこを中心として、宗像市に掛けての海岸線沿いに「高田の牧」があった。

過去記事に書いている。






渡の牧跡 わたりのまきあと 神代に放ち給う馬の牧跡
http://lunabura.exblog.jp/16445440/

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この「高田牧全体」では1300頭の成牛馬がいた時期があるという。

この牧を掌握していた筑紫の長は誰か。当然ながら磐井だろう。

この四十頭の馬を運んだ穂積臣押山は饒速日の末裔。すなわち物部系だ。

朝鮮半島の南にあった任那諸国の中の哆唎国の守(みこともち)だった。この男はのちに問題を起こす。

この継体6年は西暦では512年。


話は遡るが、百済王の末多王が廃位されたのが502年のことだと書いたが、この末多王を任命したのが日本だった。末多王を日本から送り届ける時に、筑紫の軍士が500人も護衛して海を渡った。それが479年のことだ。5世紀後半になる。

この筑紫の軍士派遣から筑紫馬贈与にかけての時代こそ、百済に前方後円墳が築造された時代(5世紀後半~6世紀前半)と重なってくる。

「百済」と書いたが、そうではなかった。そこは当時は「任那」(みまな)諸国の一部だ。あの古墳群は任那に赴任していた筑紫の豪族たちが眠っていたのだ。


以下は過去記事だが、まだそこが任那だとは知らないで書いている。

百済の前方後円墳
http://lunabura.exblog.jp/i189/
これは、某考古学者(日本人)が百済として講義したのを鵜呑みにして、そのまま百済と考えて書いていた。

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# by lunabura | 2019-02-05 20:31 | 磐井の末裔 | Comments(0)

2百済の武寧王は唐津で生まれた 「磐井、葛子、勝村、勝頼の時代」



磐井、葛子、勝村、勝頼の時代2 

百済の武寧王は唐津で生まれた


前回のおさらいから。
武烈天皇の皇太子時代、物部影姫に恋をした結果は、平群氏の滅亡という大事件に発展した。

物部麁鹿火(あらかひ)の娘婿は大伴金村(かなむら)に殺された。
麁鹿火の娘婿は平群真鳥(まとり)の息子、平群鮪(しび)だった。

金村が鮪を殺したとはいえ、それを命じたのは皇太子(25代武烈天皇)だ。

しかし、真鳥を殺したのは金村の意図だ。

影姫はどうなったのだろうか。
その後のことは書かれていない。

武烈天皇は金村の勧めで即位したが、皇后には春日郎子(いらつめ)を迎えている。


さて、『日本書紀』には武烈天皇の時代の「百済からの朝貢」が書かれている。

今回、確認したいのはこの「百済との関わり」だ。何故なら、先々、大伴金村は百済政策で大失態をしでかすからだ。

鞍橋君百済王子と共に新羅と戦うようになった背景も確認せねばならない。
『日本書紀』から抜粋する。


武烈3年11月、百済の意多郎(おたら)が卒(しゅっ=死)し、高田丘に埋葬された。

武烈4年、(502年)百済では末多王(まったおう)が暴虐無道なために廃位され、嶋王が即位した。これを武寧王(むねいおう)という。

武烈6年10月、百済国は麻那君(まなきし)を派遣して我が国に朝貢してきたが、天皇は長年朝貢しなかったことを理由に留めて帰さなかった。

武烈7年4月、百済王は斯我君(しがきし)を派遣して朝貢した。文書で「先の使者、麻那は王族ではなかったので、斯我を派遣して朝廷にお仕えさせます」と伝えた。

武烈8年12月、武烈天皇は崩御した。

以上、百済との関係の部分だけを書き抜いたが、百済は日本に朝貢する立場にあったことが分かる。

他の国との交渉は全く書かれていない。もちろん中国との交渉も書かれていない。また我が国は「倭国」ではなく「日本」と表記されている。


百済の朝貢記事が続く中、武烈4年の「武寧王の即位」の記事が目立つ。この武寧王は唐津で生まれた嶋王だ。この嶋王誕生については、21代雄略天皇の所に書かれている。遡って読んでみよう。


<百済が献じた池津媛が天皇に召される前に他の男と通じたために殺された。

それを聞いた百済王・加須利君(かすりのきし)は「女はもう貢がない」と言って、自分の弟、軍君(こにきし)に日本に行って天皇に仕えるように命じる。

軍君は承諾したが、王の妻を自分に与えてくれるように願った。

加須利君は妊娠している妻を与えた。「臨月なので、途中で出産したら、母と子と一緒に帰国させてくれ」と言いながら。

6月1日に筑紫の各羅嶋で出産したので、「嶋君」と名付けて帰国させた。「嶋君」が武寧王である。>

さて、この嶋王の誕生の記事は近年まで疑われていたらしい。

「筑紫の各羅嶋」とは「唐津の加唐島」(かからじま)のことで、その浜の名は「オビヤ浦」と伝わっている。
http://www.saga-shima-show.jp/kakara/

そして1971年、韓国では王墓が未盗掘の状態で発見された。

墓誌から、『日本書紀』の記事が正しいことが証明され、韓国の『三国史記』の記述も正しいことが証明されるという稀有な例となった。(もちろん、それぞれに異説はあるが)

しかも、王と王妃の木棺は日本にしか存在しない高野槙だったという。

韓国の観光サイト(日本語)
http://www.konest.com/contents/spot_mise_detail.html?id=3149
を見ると、その黒い漆塗りの美しい木棺は何故か出ていない。

邪馬台国大研究
http://inoues.net/korea/buneiou.html
が詳しい。
このサイトによると、高野槙の棺の説明の日本語版はないが、英語版があり、そこにはその説明が書かれているという。

この武寧王陵の発見により、日本と韓国の史料と出土物が一致し、武烈天皇4年は西暦502年と証明された。
磐井の乱は527年。あと25年だ。

磐井君も既に活躍していることだろう。

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# by lunabura | 2019-02-04 20:35 | 磐井の末裔 | Comments(0)

1武烈天皇が物部影姫に恋をした結果 「磐井、葛子、勝村、勝頼の時代」



磐井、葛子、勝村、勝頼の時代1 

武烈天皇が物部影姫に恋をした結果





磐井は生まれた年が不明だ。没年は西暦527年。
葛子も生没年は不明。
勝村、勝頼も同様。

この血統の姓は阿倍、阿部となる。

磐井の乱に至るまでの、大伴氏と物部氏の関係を「脇巫女」で調べたが、
今日から再びその復習をし、さらに西暦600年前後の宮地嶽古墳の築造の時代まで、
『日本書紀』を読んでみようと思う。

一部は「脇巫女」からの再掲になる。

磐井の乱では物部麁鹿火(あらかひ)が討伐軍の大将軍となるが、その前に大伴金村に娘婿を殺されるという事件が起きていた。



1 武烈天皇が物部影姫に恋をした結果

物部麁鹿火には「影姫」という娘がいた。

物部影姫は有名な女性のようだが、私は初めて知った。武烈天皇のページは陰惨なので読みたくなかったのだが、麁鹿火を知るために読んでみた。

25代武烈天皇の名は小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)という。その皇太子の時の話だ。

武烈天皇の父の億計(おけ)天皇(仁賢)が崩御したときに、大臣の平群真鳥(へぐりのまとり)が自ら王になろうとした。真鳥は「皇太子のために宮殿を造る」と言って、出来上がると自らが住んだ。

この頃、皇太子(武烈天皇)は物部麁鹿火の娘の影姫の評判を聞いて媒酌人を通して妻問をしようとした。

ところが、既に影姫は平群真鳥大臣の息子の平群鮪(しび)を迎え入れていた。そこで、「海柘榴市(つばいち)でお待ちします」と返事をした。

歌垣の当日、皇太子は影姫と会い、袖を取って(踊って)いると、平群鮪が二人の間に割り込んだ。皇太子と平群鮪は歌のやりとりをした。

そのあと、皇太子が影姫に歌を贈った。
「琴の音に魅かれて神がやってくるという影姫は 玉に例えるなら、僕の好きな真珠のようだよ」

すると影姫の代わりに鮪が歌を詠んだ。
「大君の帯が結ばれて垂れていますが、私は他の方と帯をほどいて結ばれているのです」

その歌で、鮪と影姫が恋仲だと知ると、皇太子はその夜、大伴金村連の家に行って鮪の討伐を命じた。

大伴金村連は数千人の兵を率い、乃楽山(ならやま)で鮪を討った。影姫は追って行き、鮪が殺されるのを見て嘆き苦しんだ。

以上が、あらすじだが、一説には、鮪が影姫の家に泊まった夜に殺されたとも書いてある。

歌の中で影姫は鮪を「夫」と詠んでいる。妻問(つまどい)の時代だから、夫と呼ぶのは当然のことだが、今日は影姫のことではなく、その実家が「麁鹿火」宅であることに注目したい。

本来、この時代には天皇の称号はなく、「王」「大王」と呼ぶ時代だ。

平群真鳥が実力で王座に着こうとしたことが分かるが、息子の平群鮪(しび)と物部影姫が夫婦になっていたのだから、物部麁鹿火と平群真鳥は手を結んでいたことになる。

鮪(しび)は物部の婿になっていた。その婿(むこ)が殺されたため、物部と平群の結束は失われた。

この事件では、影姫の父の麁鹿火には特段、お咎め無しだった。しかし、娘婿を殺した大伴金村に対して、どんな思いを持っただろうか。

麁鹿火は若い二人を通して新しい支配地図を描いていたいに違いない。そんな未来が消されたが、武力に勝る大伴に屈するほか、なかったのだろう。この事件に関する麁鹿火の動向は描かれていない。これが八月のことだった。

そして、11月11日に大伴金村連は皇太子に会い、平群真鳥大臣の討伐を持ち掛け、自ら大将となって真鳥の家を囲んで火をつけた。真鳥(まとり)はついに殺された。

12月に大伴金村は皇太子に討伐の完了を報告した。この時「政を皇太子に返した」と書紀は語る。これは、やはり平群真鳥が一時期にしろ、王座に着いていたことを表している。

金村はこのあと、皇太子に即位を勧めた。こうして武烈天皇が誕生した。金村はその日、大連になった。

平群氏はこれで滅んでしまったのだろうか。調べると、殺された鮪には既に子供がいたらしく、その末裔が名を残している。

平群氏については、糸島南部から福岡市早良区に掛けて居住していたことが分かっている。

糸島に行けば、宇美八幡宮で真鳥の祖・平群木兎(づく)の末裔が武内姓で宮を祀り続けている。(宇美八幡宮は拙著『神功皇后伝承を歩く』上巻32)

これらは歴史には出てこない。この逍遥で知り得たことだ。



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# by lunabura | 2019-02-03 16:21 | 磐井の末裔 | Comments(0)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25