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ひもろぎ逍遥

3風土記 金星の名を持つ土蜘蛛三兄弟から吉野ヶ里遺跡を思い出した

『肥前国風土記』に、藤津郡に土蜘蛛三兄弟が住んでいた事が書かれています。景行天皇が討伐しようとしたところ、三兄弟は戦わずに頭を地面にこすりつけて降服したといいます。

『風土記』の該当部分を読んでみましょう。

<能美郷(のみのさと) 
郡役所の東にある。

昔、纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)が行幸された時、この里に土蜘蛛三兄弟がおり、兄の名は大白(オホシロ)、次の名は中白(ナカシロ)、弟の名は少白(ヲシロ)と言った。

 この者共は、砦を築いて隠れ住み、天皇に背いて降伏することは無かった。

そこで、天皇は紀直らの祖である穉日子(ワカヒコ)を遣わせて誅滅させようとすると、三兄弟はただ叩頭(のみ=頭を地面にこすりつける)して、己の罪を述べて共々に命乞いをした。

これによって能美郷と呼ばれるようになった。>

「叩頭」(のみ)が「能美」という字に変化したといいます。
三兄弟が住んでいた能見郷は現在の佐賀県鹿島市の能古見(のごみ)と言われています。

三兄弟の名前、大白、中白、少白について、真鍋大覚は金星の満ち欠けの状態を表す名前だと記しています。
真鍋大覚は物部氏の星の名を伝えた人です。

なるほど、金星と言えば「太白」ですが、満月、半月、三日月……いや、金星なので月とは言えないか…… その状態を「大白、中白、少白」と呼んだんですね。

そして、金星を「能美星」とも呼んだといいます。
つまり、この土蜘蛛は金星をシンボルとしていた民だったわけです。

さて、「太白」を訓読みすると「おしろ」と読みます。
「おしろ」の字が含まれるのが景行天皇の名です。


景行天皇は「大帯日子((おおたらしひこ)淤斯呂和氣(おしろわけ)天皇」といいます。
この「淤斯呂」もまた金星の別名ということになります。

ですから、古代の金星の名を知っている人は、「景行天皇って、惑星の中でもひときわ青白く輝く美しい星の名が付けられた人なんだな」と理解した訳です。

これが分かると、風土記の話は、「金星の名を持つ大王」が、「金星の名を持つ三兄弟」を討伐しようとした話となります。

土蜘蛛三兄弟について、真鍋大覚はその氏姓は熊氏(ゆうし)だったと伝えています。彼らは熔鉄の業に卓越した技能を伝える一族だったといいます。
熊氏を調べていくと、楚の王家が熊氏なんですね。

中国の戦国時代に戦った各国の一部が日本まで逃げてきて冶金を行っていたということになります。そうすると、金星の青白い輝きとは出来上がった鉄がその輝きを持ちますように、成功しますように、と祈って付けられたものなのでしょう。


画像
吉野ヶ里遺跡の北内郭

佐賀県と言えば吉野ヶ里遺跡が有名ですが、景行天皇の時代にも栄えていました。その「北内郭」は高度な天文観測所でもあり、紀元前から大陸からその技術を携えて伝えた人がいた訳です。

徐福が伝えたのかな、と思ったんですが、真鍋大覚の話からは、もっと沢山の渡来人がいたことが分かりました。

さて、
8月3日(日)のバスハイクは藤津郡からスタートです。
風土記の能美郷はバスの中から地形を観察するだけになります。
だれか、付近に日本武尊や景行天皇を祀る神社を見つけたら、教えてくださいね。その時は立ち寄りましょう。


藤津郡に意外に多いのが古墳です。
海が見える古墳とか、楽しみです。
暑さ対策を忘れずに
体調を整えて参りましょう。

なお、金星の話は近刊予定の真鍋大覚ノートにもう少し詳しく書いていますよ。

<20250731>



# by lunabura | 2025-07-31 10:44 | 真鍋大覚ノート | Comments(1)

道の駅鹿島にて 有明海を見ながら隋書の阿蘇とか、磐井の砦とか

佐賀県の風土記の旅の昼食は「道の駅・鹿島」でした。
そこで弁当を買えば、展望デッキから有明海を眺めながら食事が出来ます。


誰かが海の向こうの山を指して言いました。
「あれ?阿蘇山じゃない?」
「え?」
「ほら。根子岳のギザギザが」
「あっ!そう。そう。あの形は阿蘇山!」


旅の途中で知っている山を見つけると嬉しいものです。


道の駅鹿島にて 有明海を見ながら隋書の阿蘇とか、磐井の砦とか_c0222861_20313885.png

鹿島市から熊本県は有明海を挟んで至近距離に見えました。

「島原大変 肥後迷惑」
という言葉を思い出します。

平成2年に島原の普賢岳が噴火した時、大変な災害になりましたが、江戸時代の噴火はもっとひどかったようで、雲仙岳の山体が崩壊して津波が起き、熊本まで押し寄せて大きな被害が出たといいます。

これが「島原大変、肥後迷惑」の由来です。

平成に普賢岳が噴火した頃、私は福岡県の宝満山に登りました。
そこから遠く黒い噴煙が二か所見えました。


方角から普賢岳と阿蘇山ではないかと考えたのですが、遠いはずの黒い噴煙が見えるのは、ちょっと不気味に思ったものです。

さて、連想はいろいろと続き、
『隋書』に「倭国」の阿蘇山の話が書かれているのを思い出しました。

<阿蘇山がある。その岩山は理由も無く、突然ゆえなくして噴火し、火は天にまで届いた。人々は天変地異だといって祈祷祭祀を行う。>
という一文です。

その祈祷祭祀を行った中心の宮が阿蘇神社です。
阿蘇山の噴火は隋まで届いたのでした。

『隋書』を読むと、弥生時代や古墳時代のことが書かれています。

長崎や佐賀の人々は古墳時代も阿蘇の噴煙を眺めたことでしょう。
そして、熊本側からも島原の噴煙を心配して眺めたかもしれません。

さて、今週は筑紫君磐井の原稿の推敲をしています。

今日はちょうど佐賀県の武雄市の磐井の砦の部分でした。

筑紫君葛子が百済王家を匿(かくま)ったのは、その近くの杵島(きしま)です。杵島の稲佐神社に聖明王は祀られています。

百済の聖明王の亡骸を抱えた余昌王子も、有明海を通って同じ光景を見たのだなあ、と感慨深く思われるのでした。

<20250724>



# by lunabura | 2025-07-24 20:32 | バスハイク | Comments(0)

9月21日のバスハイクは長崎県佐世保市の旧石器時代の洞窟から

長崎県佐世保市に福井洞窟があります。旧石器時代から縄文に掛けての遺跡で、国の特別史跡です。近くにはミュージアムもあります。

 周囲の洞窟も行ってみたいなと思って、資料を取り寄せたのですが、なんと31か所もの洞窟が確認されています。とても、行けませんね。今回は一つだけにします。

 で、実は、真鍋大覚がここの洞窟群について既に触れていたんです。福井洞窟は吉井町にあります。福岡県の人はピンと来ると思いますが、浮羽市にも吉井町があるのですが、無関係ではなかったのです。

冬至の朝日を望む地名。それを吉井といい、また北極星を吉井星と言いました。氷河期の終わりですから、北極星はベガです。今とまったく異なる星空です。

 あいまいな知識も現地を探査すると、深い理解になります。真鍋の本は例の如く、あちこちに散らばって書いているので、バスハイクまでには調べて、実際の光景と比較したいと思います。

 そして、近くにはあの行基が開山した御橋観音があり、そこの自然石の二重橋は平戸八景の一つになっていました。

 佐世保市と言えば、九十九島です。そしてその途中に姫神社があるのですが、どうやら姫とはアマテラスのことのようです。そして、そこもまた日の出が見れそうな場所なのです。秋分の日も近いこの日の午後、太陽は何処に見えるでしょうか。

そして、行基は福石観音もまた開基しており、そこにも立ち寄ります。

 いろいろと見どころがある佐世保。今回はその、ほんの一部ですが、古代をたずねて歩きます。

第61回 佐世保市
福井洞窟 姫神社 福石観音 九十九島
2025年9月21日(日) 案内 綾杉るな

天神=福井洞窟ミュージアム=福井洞窟=御橋観音=姫神社=九十九島観光公園=福石観音=天神

バスハイクの申し込みは「歴史と自然をまもる会」
092-406-8725 あるいはHPよりメールにて 電話が確実です。
(火曜日~金曜日 10時~16時)

参加費 5000円 当日払い
集合場所 天神日銀横(ファミマ横)勝立寺の前
出発時間 9時出発 
集合時間 8時45分 

初めての方、日銀前ではなく、日銀横の勝立寺の前です。ファミリーマートまで出るとバスが見えます。
雨天決行です。

<20250722>

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バスハイク 9月21日 旧石器時代からの福井洞窟 佐世保市|綾杉るな

9月21日のバスハイクは長崎県佐世保市の旧石器時代の洞窟から_c0222861_20443670.png


# by lunabura | 2025-07-22 20:44 | バスハイク | Comments(0)

2 天山神社 対馬を守った藤原房前への褒賞は小城市 晴気の里

佐賀県嬉野市の火の山・唐泉山周辺の神社群のうち、丹生(たんじょう)神社に藤原不比等が関わったことから、付近の鉱山が不比等の財源ではなかったかという仮説を出しましたが、それは八天神社の縁起に「晴気」(はるけ)という地名が出て来たのも一つの要因です。


画像
嬉野市 八天神社

八天神社の縁起には、
「藤原不比等から500年ほど経った鎌倉時代、田村良真という人が京都からやって来て、唐泉山の社を中興し、新たに麓に下宮を奉斎した」
という内容が書かれていますが、
田村良真はここに来る前に「小城晴気」(おぎ・はるけ)に下向した
とも書かれています。

田村良真の最初の目的地は晴気で、そこから嬉野まで足を延ばして、火の山を祀りなおしているのです。

晴気は「はるけ」と読みます。
そこには「天山神社」(てんざん)があります。

佐賀県には天山神社が三社あり、完全に一直線に並んでいます。

画像
一直線に並ぶ天山神社と明星山


その中央部にあるのが小城市(おぎし)晴気(はるけ)の天山神社ですが、地理上、三社を完全に一直線に並べるには、強い意思を持って測量しないと成し得ないと、祭祀線研究家のチェリーは語ります。


画像
晴気の天山神社

そして、晴気の里こそ、不比等の子の藤原房前が対馬を守った褒賞として、持統天皇から下賜された所なのです。

その事情は広瀬の天山神社の縁起の方に書かれています。
「持統天皇の御世に対馬に異国人が来て異国の風俗を広めようとした。これを防ぐために参議藤原安弘に持統天皇は討伐を命じ、退治した褒賞として晴気の里を賜う」
と。

この藤原安弘(康弘)こそ、房前(ふささき)の幼名なのです。

異国人の対馬侵略に対する討伐は西暦690年から697年の間に行われており、房前はまだ十代でした。

藤原房前は西暦701年に佐賀県に下向して、広瀬、本山、岩蔵の三社に天御中主神を勧請しました。

その後、不思議な事が次々と起きて三女神も祀ることになりました。


そして、藤原房前自身もまた黒尾大明神(九郎大明神)という神名で祀られています。

藤原不比等が嬉野市の丹生神社を奏上したのが709年ですから、その情報は現地入りした房前から得たと考えられるのです。

褒賞として授けられた晴気の里とは、何を産していたのでしょうか。鉱山だろうとは想像したのですが、具体的には分かりませんでした。これが嬉野市の八天神社と繋がりました。

不比等と房前の親子。火の山・唐泉山が結ぶ晴気の里と丹生神社。

こうして、不比等の財源として、小城の晴気に加えて嬉野市の丹生神社が加わったという仮説を立てたのでした。

持統天皇が何故、佐賀県の晴気の価値を知っていたのかという謎が残りますが、白村江戦のために斉明天皇天智天皇が筑紫に来ており、持統天皇も若き頃に一緒に来ていたことが背景に考えられます。


朝倉橘廣庭宮がある朝倉市から筑後川を隔てた佐賀に重要な地があることを聞き知っていたと思われました。

さて、藤原房前が対馬を守った話は今は誰も知りません。

当時でも、すぐに忘れられてしまいました。
しかし、一人だけ覚えてくれた武人がいました。
それが大伴旅人です。


画像
和琴


大伴旅人が太宰府に長官として赴任していた時に、対馬産の琴が手に入ったのですが、それを誰に贈ろうかと考えた時に、藤原房前を思い出しました。

旅人は房前に琴を贈る時、
夢の中に琴の精霊が乙女の姿で現われて「君子の琴になりたい」と願ったので房前がふさわしい人だと考えた、
という話に仕立てました。

その時に「乙女と旅人」、そして「旅人と房前」の間に次のような歌が詠み交わされました。万葉集から。

乙女が旅人に詠んだ歌。
810番 
如何(いか)にあらむ 日の時にかも 声知らむ 人の膝の上 我が枕(まくら)かむ
(どんな時にか どんな日にか 音楽が分かる方の 膝の上を 枕にできましょうか)

大伴旅人が答えました。
811番
言問(ことと)はぬ 樹にはありとも うるはしき 君が手馴れの 琴にしあるべし
(物言わぬ 樹ではあっても うるわしい方の手馴れの琴になるでしょう)

これを聞いて乙女が喜びました。旅人はしばらくして目が覚めました。

そんな夢物語を書き添えて大伴旅人は都にいる藤原房前に琴を贈りました。それを見て房前は喜んで返歌をしたためました。

812番 
事問はぬ 木にもありとも わが夫子(せこ)が 手馴(てな)れの御琴(みこと) 土に置かめやも
(もの言わぬ 木であっても わが背子の手馴れの御琴は 地に置けましょうか)

旅人の歌には
「対馬は貴殿が守った島ですよ。私は覚えています。その対馬産の銘木で造られた琴なのです」
そんなメッセージが込められていたのです。
大伴旅人もまた隼人の乱の時、制圧の大将軍となった経験がありました。

藤原房前の対馬での異敵討伐も、三十年も経ってしまい、都では覚えている人もいなくなったのを、旅人が覚えてくれていたのですから、嬉しかったことでしょう。
武人同士が知る思いです。

この時、旅人は65歳。房前は49歳でした。

<20250721>



# by lunabura | 2025-07-21 11:27 | バスハイク | Comments(0)

高良玉垂宮の美しき名 濡れせぬ山 琴弾宮 『神秘書』より

福岡県久留米市に鎮座する筑紫の国魂 高良大社

これを濡れせぬ山 あるいは 琴弾宮(ことびきのみや)とも言います。
「そのいわれを知りたい」と言われて分からなかったのですが、『高良玉垂宮神秘書』に載っていましたよ。

濡れせぬ山 397条

<五十八代光孝天皇の仁和元年(885)に太政大臣藤原総継を勅使として高良山に遣わして御祭礼が執り行われました。

その時、国中に雨が降り、高良山にも降っていたのですが、勅使が行った時には道中、濡れなかったことから、濡れせぬ山と呼ぶようになりました。勅使は高良山をますます尊く思われ、そののち天皇に奏上されました。>


琴弾宮 398条

<九十代亀山院の時、太政大臣の良住、源師親、源有綱の三人が勅使として高良山に来て、異国降伏の御祈念などがありました。三人が社前で格式を整えて参拝された時、御宝殿より琴の音がほのかに聞こえてきました。

勅使は面目かたじけなく思い、この話を天皇に奏上されました。この時より、高良大社をとも呼ぶようになりました。文永十年の事です。>

 翌年、1274年(文永十一年)に元寇の一回目、文永の役が起きているので、三人の勅使は元に対する降伏祈願に来たのでしょう。

神社参拝すると、時々不思議なことがあります。高良山でもこんな事があって、人々が語り継いだようですね。

<20250720>



# by lunabura | 2025-07-20 10:12 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Comments(0)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25