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ひもろぎ逍遥

13 金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡の出土地ダンワラ古墳と日高大神宮  鳥羽氏と魏の接点




 余所山から流れる丘陵の東南にダンワラ古墳ができました。


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久大線の向こうに家が建っていますが、そこから土を採って線路建造に使用された時に敷地から鉄鏡が出土しました。


所有者の渡辺音吉氏の話によると、二つの細長い形跡が東西に8メートル離れて残っていて、西側から鉄鏡、鉄刀、轡(くつわ)が出土し、東側からは碧玉製の勾玉、水晶製切子玉、ガラス製小玉が出土したということです。


 この鉄鏡を世に出した梅原末治は、古式古墳で竪穴式石室だろうと、推測しています。


火山灰の土壌の上に二つの竪穴式石室が造られ、さらにその上に横穴式石室が建造され、全体では30メートルほどの円墳だったようです。


  鉄鏡が出た所には馬具が副葬されているので、5~6世紀のものと推測されています。この時代といえば、鳥羽氏から日下部氏へと変わる境目の時代になります。


ダンワラは「壇原」の字で、祭祀が行われていた地だそうです。付近からは大きな勾玉や刀などが出たそうですが、鉄鏡が知られてから、盗掘者が多くの物を持ち去ったということでした。



古墳のすぐ右手の山上に日高大神宮があります。祭神が不明ですが、古来からの祭祀が続いていたら、それを祀る氏族が推測できます。



大神宮といえば天照大神の可能性がありますが、岩戸山古墳のように大正時代に浸食されるように建立されたものもあります。



全国邪馬台国連絡協議会の大分県本部長の熊谷久美子氏が、神社まで案内してくださいました。 


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地元ではお伊勢様と呼ぶというので、やはり天照大神が祭神と思われました。


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境内にある石祠は早吸日女神社で、地元ではセオリツ姫として祀られているとのことでした。 



境内の敷地の土がしっかりとしているようすから、鳥羽氏の時代にすでに別の祭祀を行っていた場所の可能性も残っていました。



 金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡の復元画像の動画があります。

https://youtu.be/OOT4kyggvfw

この美しさをご覧ください。



鳥羽氏と鉄鏡の接点


 今考えるに、埋葬施設の上に横穴式石室が造られたというのは異様です。


糸島にもそのようなものがありますが、古い支配者の上に新しい支配者が示威的に古墳を建造したのだろうかと考えました。


 その時代が5~6世紀なら、鳥羽氏から日下部氏への過渡期に当たります。


鳥羽氏が2世紀から連綿と当地を治めていたので、最後の長が伝世の鉄鏡と共に埋葬され可能性も出てきます。


 鳥羽氏は真鍋大覚によると、竜座のツバーンが北極星だった時代に、エジプトの首都をテーベ(ツバーン)と名付けたエジプト民族です。


やがて紅海を渡ってチベットに至ります。チベットは吐蕃(とばん)と書きますが、これもツバーンのことです。そこからインドに至り、川の開拓を行い、やがて雲南四川(しせん)から日本に渡来したといいます。


これが驚くことに、DNAの移動ルートと重なっており、真鍋大覚の話も素通りは出来ません。



 四川から陸路を辿れば魏を通ります。鉄鏡が生産されたのは1世紀から3世紀というので、鳥羽氏と魏には接点があります。



 シリウスの胡名、エソが残っているのも、鳥羽氏由来かもしれません。


 宝玉があしらわれた鉄鏡を持って日本に渡った鳥羽氏は、その技術を見込まれて日田に行き、土蜘蛛の久津媛の一族を支配して農業を教え、金などを生産したのかもしれません。そして鉄鏡を伝世したのでしょう。



 この後、磐井の乱を経て日下部氏が日田に来て屋敷を構えます。靭部(ゆぎべ)という軍組織を置いて守るものがあったのです。


磐井君は豊前でも求菩提山周辺の土蜘蛛を支援したという話が地元にあります。磐井の二回目の乱の時にも土蜘蛛が一緒に立ち上がっています。ここもその時の影響があったことでしょう。



 もう一つ、日田市に注目したのは天文観測です。


日、月、星の隈と石井の隈。

「隈」が天文観測所という意味を持つことを伝えていたのも真鍋大覚です。



実は京都の門の開閉時間が現地の日没時間と合っておらず、熊本付近の時刻と合致しているという研究があります。では、熊本の何処で暦を作ったのだろうと、痕跡を探していたのですが、この日田で観測されたものが倭国と日本国の暦の基準となった可能性が出てきました。いずれにしろ、特殊な地形を持つ所でした。



以上、バスハイクで訪れた日田市の神社や遺跡のレポートを終わります。

一日で回ったコースですが、書くのには一か月かかりましたねえ。

明日のバスハイクは肥前に行くので、今日、仕上げられて良かったです。


今回予定していたもう一人の土蜘蛛・五馬媛の郷には行けませんでしたが、来年の三月、里の花が美しい季節にでも行きたいなと考えています。


<20241123>




# by lunabura | 2024-11-23 14:14 | 日と鷹と三隈 | Comments(0)

12 余所山神社 土蜘蛛の郷にシリウスとテーベの一族


余所山神社と久津媛神社はバスハイクでは時間の都合で行けなかった。


山上は草が生い茂っているのではないかと案じて、ジーンズを履いて行ったが、ネットで調べると、やはり藪漕ぎ状態の時もあるようだった。バスハイクで行かなくて良かったな……。


しかし、ここは風土記に出てくる所で、その地域の東南にダンワラ古墳があるので、把握しておく必要がある。


『風土記』と『先代旧事本紀』、地元の伝承から、時系列に整理してみようと思う。


12代景行天皇は豊国に側近の菟名手(うなて)を派遣した。(風土記)


かつて湖だった日田盆地はウガヤフキアエズの時代に水が抜けたあと、景行天皇の時代には泥沼から湿原へと変化していたのだろう。景行天皇が浮羽からやって来て、盆地の南の鏡坂に登って国見をした時、盆地は鏡のように見えたという。


景行天皇を出迎えたのは土蜘蛛の久津媛で、友好的に国状を説明した。土蜘蛛とは異国から来た冶金の民のことなので、当地でも何らかの鉱物資源の開発をしていたのではないかと思われた。


聞けば近くの川からは砂金が採れるという。金が産出するなら、わざわざ訪れる価値がある土地だ。


菟名手は豊国国造になった。のちに余所山には久津媛と景行天皇が祀られた。



13代成務天皇が即位した。


豊国造には宇那足尼が任ぜられ、比多国造には止波足尼(とはのすくね)が任ぜられた。(先代旧事本紀)

止波足尼は地元では鳥羽宿祢と書かれている。


鳥羽宿祢は余所山に館を構えて政を行い、農業を教えた。その墓も山上にあるらしい。ヨソ山はかつてはエソ山と呼んでいたという。(掲示板)


真鍋大覚によれば、鳥羽氏のトバの語源はエジプトのテーベで、北九州市の戸畑(とばた)や鳥羽はエジプト渡来人が参集した所だという。また、エソとはシリウスのことだ。鳥羽氏は治水技術があり、高度な文明を持って渡来したという。


エジプト人渡来に関しては、浮羽(うきは)にある珍敷塚古墳の壁画にエジプトの葬送思想と同じものが描かれていることが指摘されている。


その浮羽から景行天皇が日田に来て、成務天皇の時代に鳥羽氏が日田国造になったのも、何らかの関係があるかもしれない。土蜘蛛の産出する鉱物を鳥羽氏は警護し、流通させたのではないか。



14代仲哀天皇の時に、神功皇后が軍を集めるために日田に来た時、鳥羽宿祢は将兵を集めで軍議を行った。(地元掲示板)これは西暦190年代のことだ。


軍を集めることが出来るほど、近郊に軍組織があったことになる。


豊国国造は大原足尼が任じられた。その住まいは京都郡(みやこぐん)にある。


のちに宮地嶽神社に勝土比女の神名で神功皇后が祀られた。安部高麻呂、助麻呂神が脇神なので、二人は親衛として付き添ったと思われた。


一方、魏の曹操が亡くなったのは220年。その墓に銀メッキに宝石がついた鉄鏡が副葬された。何らかの事情で同じタイプの鉄鏡が日田にももたらされた。


29代欽明天皇(在位539~571)の時代、磐井の乱から十数年程経って、日下部氏が入植した。


日下部氏はおそらく磐井城があった久留米市の高良山麓から来ただろう。その長の名は邑阿自(おうあじ)といった。靭部(ゆぎべ)というので、ここに軍組織があったことになる。


この時代は筑紫君磐井が滅んでも、その跡を葛子君が継いでいる。筑紫君こそ倭国王だ。


朝鮮半島では争乱が続き、新羅が伽耶諸国を侵略し続け、百済の聖明王は「筑紫」を指定して援助を求め続けている。葛子君は百済に武器を与え、馬を与え、船まで与えた。そして我が子を百済に派遣して新羅と戦った。(日本書紀)


そんな時代に余所山に日下部邑阿自が来て屋敷を構えて住んだ。軍の長だったのである。邑阿自が靭部(ゆぎべ)だったことから、靭負(おい)村と呼び、のちに靭編郷となった。(風土記)


今は刃連(ゆきい)町という。余所山はよほど重要な所だったのだ。仮説だが、やはり金を産出して加工し、武器生産を行っていたのではないかと考える。そしてそれを護衛したのが鳥羽氏であり、日下部氏なのだろう。

 


鉄鏡が、もし久津媛や鳥羽氏の時代の古墳に埋納されたのなら、余所山山上やその周辺から出るのが妥当だ。時の流れ共に南東部に横穴墓群が広がっていく。ダンワラ古墳はその終着点に近い。鉄鏡はリアルタイムに埋納されたのではなく、伝世されたものだった可能性が高い。


 さて、卑弥呼の銅鏡だとする説があるが、鉄鏡である以上、それは無理である。中国の冊封制度は厳密だ。


久津媛を卑弥呼とする人がいるが、土蜘蛛である以上、倭の女王として捉えることは出来ない。



また、九博では「黄金の鏡」がキャッチコピーだったので、金メッキと思い込んでいたが、銀メッキと言う方がふさわしいらしい。これは誤解を生じるコピーだ。


20241121


# by lunabura | 2024-11-21 16:05 | 日と鷹と三隈 | Comments(0)

11 宮地嶽神社 祭神の勝土比女神は神功皇后


 大原八幡宮の境内の右手に大きな鳥居がある。宮地嶽神社の鳥居だ。



11 宮地嶽神社 祭神の勝土比女神は神功皇后_c0222861_10273724.jpg


そこから車道を通って数十メートル歩くと宮地嶽神社に着いた。




11 宮地嶽神社 祭神の勝土比女神は神功皇后_c0222861_10281132.jpg


山の中にあり、石垣の上に境内があった。


祭神は

勝土比女神、安部高麻呂、安部助麻呂

となっている。


勝土比女神

勝土比女(かつとひめ)神とは神功皇后のことだ。


その由来は星の名前からきている。


神功皇后が肥前松浦で鮎占いをした話が知られているが、神功皇后が立った石をそれ以来、勝門比売と呼ぶようになったと古事記に記されている。


勝門星とは琴座リラのことだ。

「勝」には北と言う意味がある。

「とと」とは小魚のことだ。


神功皇后の時代、琴座リラは四月に北の空に出た。


その頃、鮎が川を遡ってくることから、北の小魚(かつのとと)と言う意味で「勝門星」と呼ばれたという。

松浦川でも人々は鮎の到来を知らせる琴座リラを心待ちにしたのだろう。


そして、四月、琴座と共にやって来たのが神功皇后だった。


琴座リラは平行四辺形の形をしている。

神功皇后が鮎釣りで立った石にも偶然にも平行四辺形の形が見える。


こうして神功皇后は琴座リラ・勝門星の名を採って勝門比売と呼ばれるようになった。

日田の宮地嶽神社もその伝承から勝土比女と記されたものだ。



安部高麻呂、助麻呂神


脇神の安部高麻呂、助麻呂神は神功皇后の親衛隊だ。


筑紫の弓の強者として知られ、神功皇后を守護して随伴している。


神功皇后が日田に来た時も、おそらくこの二人が護衛していたのだろう。


しかし、この二人は新羅軍が下関市の豊浦宮(忌宮神社)に攻めて来た時、天皇と皇后と守って討ち死にをしている。

当社では、のちに神功皇后と共に祭祀されたことになる。


福津市の総本社の宮地嶽神社では、葛子君の時代に、その子の勝村、勝頼が活躍したので、祭神が加わり、最終的に神功皇后と勝村、勝頼神の三柱になった。


しかし日田の方では、古式のまま伝えられたと思われた。

「安部」の表記は本社では「阿部」となっている。


さて、この岬には宮地嶽神社と大原八幡宮があり、どちらが古いのか、分かるだろうかと思っていたが、大原社は四度の遷宮ののちに現地に鎮座したので、宮地嶽神社の方が古いことが分かった。


そして大原社から名前が消えたと思われる豊国国造の大原足尼(すくね)も神功皇后の時代の人なので、何か失われた伝承があるのだろう。


 当時、三韓征伐の会議が行われた話が近くの余所神社にあるので、そこでまた詳細を描いてみようと思う。


20241118


# by lunabura | 2024-11-18 10:29 | 日と鷹と三隈 | Comments(0)

10 大原八幡宮 日田と苅田町にある二社の繋がり 大原足尼




日田のお宮といえば大原八幡宮だという。

日田盆地を見下ろす岬の地に鎮座している。



10 大原八幡宮 日田と苅田町にある二社の繋がり 大原足尼_c0222861_16013918.jpg


宇佐八幡宮からの勧請ということで、短いながら参道も「横参道」の様式を踏襲していた。




10 大原八幡宮 日田と苅田町にある二社の繋がり 大原足尼_c0222861_16015087.jpg


祭神は

誉田別命(応神天皇)、大帯姫命(神功皇后)、比売大神(三女神)

宇佐八幡宮と同じだ。



この神社は四度の遷宮を経て現在地に鎮座している。


始まりは西暦680年のことで、靭負郷岩松峰(天ケ瀬町)に「宇佐の鷹の居の社にいます神」が顕れて鞍形尾神社になった。その社号も変化しながら「大原」に至っている。



苅田町の同名の大原は?

注目する点は、同じ社号が豊前の苅田町にあり、そことの関わりがどうなっているのか、ということだった。


苅田町の「大原」は、饒速日の末裔の大原足尼(すくね)の名にちなむもので、日田市の方も同様の可能性はないかと考えていた。しかし、日田市には大原足尼の名はなかった。



推論もここまでかと思ったが、ダンワラ古墳を案内してくださった熊谷久美子氏から「遷座を繰り返す大原八幡宮 その元の祭神とは」という小論文をいただいた。


結論として日田の大原八幡宮の本来の神とは大原足尼命とその子の小登與命ではないか、と推定されていた。


もしかしたら、日田市には八幡神とは別に大原神の祭祀があって、上書きされたのかもしれない。


そして、思いがけない話があった。

それは、日田と苅田の宝物に関連があることだ。


苅田の方が火事に遭った時、日田の方から宝物の一部が奉納されたという。

それは鎧の脛当てで、一対のものであることを熊谷久美子氏は確認した。

ある時代まで、やはり大原足尼の名が残っていた証しだ。


大原足尼という人

大原足尼(すくね)とは饒速日の末裔で、豊前と豊後の国造だった人物だ。

福岡県東部と大分県にまたがる豊国全体の国造なのである。

物部氏だ。


日田市と苅田町はそれぞれ豊国の西と東にある。

豊国の開拓の祖とされる大原足尼を豊国の東西で祀るのは理にかなう。


大原足尼は神功皇后の時代の人だということで、時代的な手掛かりも残されていた。


日田には三韓討伐の時に軍事会議を開いた話があり、大原足尼の時代と考えれば、かなり具体的に歴史が描ける。興味深い話だが、これに関してはまた別の機会に考察しようと思う。


12月のバスハイクでも、豊前の大原八幡神社に再訪する予定だ。


20241112


# by lunabura | 2024-11-12 16:02 | 日と鷹と三隈 | Comments(0)

9 鏡坂 風土記 景行天皇が国見をした


複数の地図を見比べていると、日隈丘の南に鏡坂公園が出て来た。


そこは風土記に書かれている「鏡坂」だった。景行天皇がこの坂から国見をして「この国は鏡の面のようだ」と言ったという。


これは明らかに日田盆地が湖沼の水を抜いて生じた平地を表現したものだ。

日田で水を抜いたのが第五代ウガヤフキアエズの代だったというので、叔父の穂高見命が安曇野の水を抜いた後の頃の話だ。

日本は山がちの土地なので、平地といったら扇状地か湖の跡ぐらいなのだ。

景行天皇が「鏡の面」と表現したのは、これまで山と海を旅したことから自然に生まれた感想だな、と思われた。

展望台から北側が見えた。



9 鏡坂 風土記 景行天皇が国見をした_c0222861_13553745.jpg


今は家々が立ち並ぶが、景行天皇の時代には家もなく、田畑もない平地だったのだ。



その奥に山脈があるが、手前の方の台地に小迫辻原遺跡(おざこつじばる)がある。弥生時代末から古墳時代初頭にかけて三つもの環濠集落などが形成されたという。


景行天皇が訪れた時代も含まれるだろう。土蜘蛛の女王・久津媛たちは東の地で発展している。


小迫辻原の民と久津媛は同族なのか、あるいは別の民か。


別なら、互いを認知していたのか。

平和だったのか、敵対したのか、興味はつきない。



9 鏡坂 風土記 景行天皇が国見をした_c0222861_13560691.jpg


公園には天満神社が鎮座していた。

掲示板がないが、菅原道真公だろう。



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そして、上を見ると龍の顔が。

安心院で現われた顔と同じだった……。


20241109


# by lunabura | 2024-11-10 13:59 | 日と鷹と三隈 | Comments(0)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25

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