2010年 09月 23日
恵蘇八幡宮と木の丸殿(1)えそ・筑紫で亡くなった斉明天皇のモガリの宮
恵蘇八幡宮(1)と木の丸殿
えそはちまんぐう・このまるでん
福岡県朝倉市山田151
筑紫で亡くなった斉明天皇のモガリの宮
中大兄皇子はここで喪に服した

前回、斉明天皇の陵墓かと紙面を賑わした牽牛子塚古墳について書きましたが、
彼女が亡くなった場所は筑紫の朝倉橘広庭宮(あさくらたちばなひろにわのみや)だと
日本書紀に書いてあります。
この宮の場所についてはまだ特定されていませんが、
モガリをして、仮埋葬したと言われる宮は今も伝わっています。
今日はそこに行きましょう。
福岡から大分県方面に向かう386号線を、筑後川を右に見ながら行くと、
三連水車で有名な朝倉に出ます。
その先、大きく左にカーブする所に、この恵蘇八幡宮はあります。
楠の巨木があって、古い風情が残っているので、すぐに分かります。
鳥居は道路に面していて、石段を少し登れば境内です。
昔は筑後川から直接上がったのかもしれません。

本殿は江戸時代に改築されました。

お参りして天井を見上げると珍しい十二支の羅針盤がありました。
この恵蘇八幡宮のご祭神は斉明天皇・応神天皇・天智天皇です。
道路わきにあった由来を写します。
由緒によると、斉明天皇は661年、百済国救援のため筑紫の朝倉橘広庭宮(あさくらたちばな)に下られた。この時随行の中大兄皇子(後の天智天皇)は国家安泰と戦勝祈願のため、宇佐神宮(大分県)に奉幣使を遣わされた。使いの一行が恵蘇山麓に達した時、天上から白旗が降り、幡に八幡大神の文字が浮かび出たことから、天降八幡なる宮社が創建された。その後、天武天皇白鳳元年(673)に斉明天皇・天智天皇を合祀し、この頃社名を恵蘇八幡宮に定めたといわれている。
現在の本殿は安永元年秋9月(1772)の改築である。
宇佐八幡宮の主祭神といえば応神天皇です。
中大兄皇子によって応神天皇が祀られたという由緒です。
応神天皇は母君の神功皇后のお腹の中にいた時に、共に新羅に渡って、
戦わずして勝利を得たので、それにあやかりたいと言う事で勧請したのでしょう。
白旗が降りたというのは宇佐神宮の神威を得たという事で、
シンボリックな話になったと思われます。
しかし、軍事的に考えると、宇佐は古来、造船などの技術が確かな所なので、
その援助を依頼したのではないかと思いました。
難波でも軍備をしたようになっていますが、
玄界灘を渡って戦うとなると、海路に詳しい水軍無しには戦えません。
天上から白旗が降りたというのは、宇佐の協力を得た印ではないかと思いました。
さあ、こうして、戦の準備が着々となされたのですが、
母の斉明天皇がわずか二カ月で亡くなってしまいます。
その年齢が68歳。
天皇が亡くなったので、そのモガリは、おろそかに出来ません。
木の丸殿
さて、亡くなった斉明天皇の御遺体はこの神社の上の山に移されました。

神社の右の方にもう一つ鳥居があるのがそれです。上って行きましょう。
石段がいくつも続いて小高い丘の頂にでます。

この頂きはぐるりと石垣が囲まれていました。
この中に古墳が二基あるそうです。説明板がありました。
日本書紀によれば「西暦661年5月、斉明天皇は百済救援のため朝倉橘広庭宮に遷られたが、病のために7月24日に崩御された。皇太子中大兄皇子は母斉明天皇崩御7日後の8月1日に御遺骸を橘広庭宮からこの地に移し、一時的に葬り…」と記されており、地元では御陵山と呼んでいる。
陵上には方2間(1.8m)の石柵が巡り、中央の塔石には「斉明帝藁葬地」(こうそうのち)
と刻されている。形態は前方後円墳ではないかという説もあるが、町では円墳二基としてみている。

中には入れないのですが、目をこらすと、中央部にいくつかの石の柵が見えます。
そこに、斉明天皇の「藁葬(こうそう)の地」と書いてあるそうです。
藁(わら)の葬?
よく分からないのですが、かつて仲哀天皇が亡くなった時、
遺体はムシロで包んだという伝承を聞いた事があります。
ここも、戦争の陣営の事、遺体を包んだのは藁で編んだムシロだったのかも知れません。
ここで斉明天皇のモガリ(殯)が行われました。
遺体はどうしても腐敗の過程を通らなくてはいけません。
古代の人々は、その過程を大切にしていました。
中大兄皇子がモガリをする様子が伝わっていました。
皇太子中大兄皇子は、御母斉明天皇がお亡くなりになって、7日後の8月1日、御遺骸を朝倉橘広庭宮からこの地にお移しになり、その夕べ御陵山に仮に葬られた。そして、陵下の山腹に丸木の殿を作られ、一日を一か月にかえて12日間、母君の喪に服されたといわれ、この地を「木の丸殿」「黒木の御所」と呼ぶようになった。
この御陵山については恵蘇神社にも由緒が書いてありました。
斉明帝藁葬地 (こうそうち) 御殯斂地(ひんれんち)具体的な部分は少しずつ差がありますが、
山上には斉明天皇の御陵といわれる前方後円墳があります。斉明天皇は661年5月9日(新暦6月14日)橘広庭宮にお着きになり、7月24日(8月27日)病のため崩御されました。(御年68歳)中大兄皇子は御遺骸を一時山上に御殯葬され、軍を進め、後に奈良県高市郡越知岡村へ移される、と記されています。
木の丸殿遺跡(このまるでん)
天智天皇は斉明天皇御殯葬のあと御陵山に木皮のついた丸木で忌み殿を建て、12日間喪に服されました。後世の人々が「木の丸殿」と呼びました。
天智天皇御製
秋の田の刈穂の庵のとまをあらみ 我が衣手は露にぬれつつ (小倉百人一首)
朝倉や木の丸殿に我が居れば 名のりをしつつ行くは誰が子ぞ (新古今集)
まさにこの地は斉明天皇の御遺体を一時的にモガリした場と言えます。
(つづく)
★ 教えてください ★
さて、この由緒を読むと、斉明天皇の御遺体はこのあと、
「奈良県高市郡越知岡村」に移されたと書いてあります。
この点について、奈良の方で、どうなっているのか、教えていただけませんか。
今、話題になっている、牽牛子塚古墳がある所の事なのでしょうか。
日本書紀では、飛鳥川原(行宮?)でモガリをされたように書いてあります。
その後、改めて埋葬されたと思われます。
土地勘がないので、どなたかこの恵蘇神社の伝承について、
奈良の方と照らし合わせて、分析して推理していただけたらと思います。
☆ 日本書紀の該当部分を現代語訳しました。
筑紫の朝倉橘野宮で亡くなった斉明天皇・7世紀の東アジアの地図
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