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ひもろぎ逍遥

王塚古墳(1)感動の装飾壁画を知らなかったよ


王塚古墳(1)
福岡県嘉穂郡桂川町寿命
感動の装飾壁画を知らなかったよ

さて、今日は王塚古墳に行きましょう。日本で一番華やかな装飾古墳です。
飯塚市の県道200号線の裏側に回り込むと、緑濃い美しい里に出ます。

王塚古墳(1)感動の装飾壁画を知らなかったよ_c0222861_1782056.jpg

川沿いに進むと、左の方にキラキラとUFOのような丸い建物が見えてきて、
目指す王塚装飾古墳館だとすぐに分かります。
最近は、古墳周囲の景観の観察も大切な事が分かったので、
ちょっと手前から車を降りて歩いて行きました。
古墳の手前に橋があって、そこで驚きました。
上流を見ると二本の川が合流していました。
それって、風水上のイヤシロ地じゃない?期待が高まります。
橋を渡るとすぐに古墳館があって、その奥に丸い墳丘が見えてきます。
王塚古墳(1)感動の装飾壁画を知らなかったよ_c0222861_179369.jpg

王塚古墳は前方後円墳でした。
円墳の中は完全密封保存されていて、年に2度だけ見る事が出来ます。
方墳の方には上がれるように階段が付いています。
それを上ってまた驚き。四方にぴたりと高い山が配置されているのです。
いや配置するのは不可能ですね。
聖なる山をつないで焦点となるポイントがここだという事です。
イヤシロ地です。とても気持ちがいい所です。

この古墳は珍しく平地にあります。
これまでは台地や山の斜面ばかり見たので印象的です。
この古墳を降りると、王塚装飾古墳館が待ってます。

王塚古墳(1)感動の装飾壁画を知らなかったよ_c0222861_17101243.jpg

装飾古墳館は撮影禁止ですが、今回は撮影許可がおりました!
書類手続きを済ませていざ中へ。

王塚古墳(1)感動の装飾壁画を知らなかったよ_c0222861_17105498.jpg

これはまたアートな入口。気分が高まります。
そして、わっ赤い!
石室が実物大で復元されていました。中に入る事が出来ます。
王塚古墳(1)感動の装飾壁画を知らなかったよ_c0222861_17112995.jpg

これが石室の入り口です。迫力満点。落ち付いて見ると、沢山の壁画があります。
右下の岩に二頭の馬が描かれていますが、これが前々回「蕨手文」で紹介した絵です。
左側にも馬が三頭います。全体で合わせて5頭の馬が描かれています。
その周りにも蕨手がいっぱい。
門のように渡してある頭上の岩も蕨手のアレンジがいっぱいです。
なんだか興奮します。では、中に入りましょう。

王塚古墳(1)感動の装飾壁画を知らなかったよ_c0222861_17123551.jpg

これが玄室です。正面には三角文が全面に描かれています。
色があふれています。
棚になった所が遺体のためのベッドで、左の方には石の枕があります。
二人分の広さです。その下の基台の絵を見ると蕨手文がいっぱい。
そして、手前の左右にある直方体の岩を見てください。
蕨手(ゆぎ)が大きく描かれています。

王塚古墳(1)感動の装飾壁画を知らなかったよ_c0222861_17134398.jpg

右の壁を見てください。大きな靫が並んでいます。
まるで人が控えているように見えます。

王塚古墳(1)感動の装飾壁画を知らなかったよ_c0222861_17143042.jpg

左の壁には盾(たて)が三段になって並んでいます。
写真を見直して気づいたのは、右は靫(ゆぎ)だけ、左は盾だけです。
これは?もしかして。
「蕨手文」の所で、文様は氏族のシンボルではないかという説を紹介しました。
ルナ的にはこの説をかなり気に入っています。
その氏族説でこの壁画の解読が出来るんじゃないかな…。
と言う事で、今回はその説を元に解読にチャレンジしてみます。

右の壁にある大きな靫は靫負(ゆげい)氏です。
左の盾より大きく描かれているので、身分が上か、被葬者に近い関係です。
左の盾族もきちんと描かれていて、数が多いので、靫族に準じた存在です。
その重々しさと統制からは、被葬者への礼節が伝わって来ます。
被葬者の家臣たちに見えて来ました。

死床の奥を見てください。小さな靫がずらりと控えています。
それは、まるで家族が亡き人を見守っているかのように見えます。
その数は5人。それに写真には見えませんが白っぽい靫
もう一つ上の方に描かれています。母と五人の子供のように見えます。

小さな靫がそばについている事から、被葬者は靫負氏の一員ではないかと思いました。

右壁にはその靫負氏の親族たちが被葬者を見送っています。
そして、左壁には王とともに戦ってきた武人たちが控えています。

とまあ、好き勝手に想像しました。


これは6世紀の古墳です。
と言う事は、前回紹介した高句麗の集安古墳と同じ時代です。
同じ時代の壁画でも、ずいぶん感じが違いますね。


追記
2018年にこれを読み返してみて、少し自分の考えが違っているので修正しました。
時代的には磐井の生きた時代に重なる人物で、
鳥栖の装飾古墳、大田田代古墳に絵が繋がりがあるのではと気になっています。
20181113

                                         (つづく)


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王塚古墳(1)感動の装飾壁画を知らなかったよ_c0222861_15184581.gif

# by lunabura | 2010-09-08 17:21 | <古墳シリーズ> | Comments(10)

王塚古墳(2)武人は妻と共に星の下に眠るー激動の6世紀を生き抜いた男


王塚古墳(2)
武人は妻と共に星の下に眠るー激動の6世紀を生き抜いた男


王塚古墳(2)武人は妻と共に星の下に眠るー激動の6世紀を生き抜いた男_c0222861_23235062.jpg

これは玄室の出口です。
ここにも両脇に(ゆぎ)が整列して控えています。
靫は右壁に比べるとやや小さく、それほど威厳がありません。
(大きさで身分の差を表すのは高句麗壁画にもあります。)

門の上の横岩には三角文が描かれています。
その反対側には蕨手文が描かれていました。
玄室と前室で、意図的に図案を変えています。
良く見ると、靫の背景には三角文が多いです。蕨手文がちらりと見えています。
前室とかなりデザインが違っています。
(前室―入口側は(1)の方を見て下さい。)
靫が靫負氏(ゆげい)という氏族を示すなら、
この三角文も氏族のシンボルの可能性が出て来ました。
しかし、今のところは何を指すのか、全く分かりません。

それじゃあ、靫負氏ってどんな氏族?
ネットで検索すると
靫負―主に西日本の中小豪族の子弟から採られ、(略)6世紀半ばに大伴氏のもとに編成された。

とあります。6世紀半ばに変化があってるんですね。
九州の6世紀と言えば磐井の乱という大きな戦いがあっています。
それは、朝鮮半島の新羅や任那なども関係する大きな戦いです。
この時代は、継体天皇に味方するのか、磐井に味方するのか、
かなり難しい時代だったと思われます。靫負氏はどちらについたのか、私にはよく分かりません。
(磐井の君は『古事記の神々』にて現代語訳)

この時代の出来事を並べてみます。

527年 継体天皇は任那復興の為に出兵。磐井の君は火・豊とともに反乱して翌年敗北する。
531年 継体天皇崩御。
535年 王塚古墳の近くに穂波屯倉・嘉麻屯倉(みやけ―倉庫の事)が設置される。
538年 百済から仏教がつたわる。
5××年 このころ王塚古墳がつくられる。

この古墳の地域も磐井の敗北後に大和朝廷の支配下に置かれました。
その前後にこの被葬者は亡くなっています。
この時代背景は副葬品からも想像出来ます。なんとこの古墳は未盗掘でしたよ!

王塚古墳(2)武人は妻と共に星の下に眠るー激動の6世紀を生き抜いた男_c0222861_23275285.jpg

これがその副葬品の一部です。甕はかなり硬度の高い須恵器です。
勾玉や金のイアリング。蓋のついた器。鉄の矢じりなど。
鏡も出ています。また鎧、刀、槍などが武人であった事を教えてくれます。
王塚古墳(2)武人は妻と共に星の下に眠るー激動の6世紀を生き抜いた男_c0222861_23283521.jpg


そして、馬具。これは資料館のハニワ君です。
出土した馬具のレプリカが取り付けてあります。どんな馬具が出たのかよく分かります。
腹の所にあるのは杏葉(きょうよう)と言って飾りです。
鋲がびっしりと打ち込んであって、かなりハードなデザインです。
これらには金メッキが施されていました。

埋納時のようすが分かりました。
水に浸かっていたものを聞き取り調査したそうです。

王塚古墳(2)武人は妻と共に星の下に眠るー激動の6世紀を生き抜いた男_c0222861_23295245.jpg

これを見ると、夫婦ふたりの為のものだと思われます。
横穴式古墳が流行ったのは、追葬出来るからだそうです。

夫婦のどちらかが先に死んでも、後には追葬されて一緒に眠るんですね。
灯明台もあるので、モガリもここでしたのかな…。
ルナ的には、残された方がこの石の扉を開けて、ここで冥福を祈ったように思われてなりません。
念入りに装飾された壁を見ると、時間をかけて描かれたのが分かります。
ここは武人の夫婦愛と家族愛・氏族の愛、家臣たちの敬意など、愛と尊厳に満ちた空間でした。

王塚古墳(2)武人は妻と共に星の下に眠るー激動の6世紀を生き抜いた男_c0222861_23305519.jpg

二人の死後の世界を見守るのは星だったようです。
天井には無数の黄色の点が描かれています。
NHK「任那日本府の謎」では、
「遠賀川流域と王塚古墳の関係者は筑紫の君・磐井の同盟者だ。
王塚古墳の天井に描かれた星座は朝鮮半島の北の星座だ。」
と言っていました。
でも、星座はちょっと無理かな。星座の事をあまり知らない人が描いたみたい。
磐井の同盟者という可能性は十分にありますが、もっと証拠が欲しいなと思いました。

※ 追記
大伴氏は磐井と敵対した方になるので、
靫負氏説を採ると「磐井の同盟者ではない」ことになります。
磐井の同盟者か、対立者かは、まだ結論が出せませんね。
20181113 記す


この壁画にはまだ他に、いろんな文様があります。
詳しく見て行くと、いろんなメッセージが読み取れそうです。

「オレがせねば、この古墳はだめになる」
西村二馬氏の言葉です。この古墳は西村氏の運動によって守られました。
炭坑の鉱脈があったために、産業か保存かという中で、人生をかけて守り抜いて
くれたお蔭で、日本人のDNAを熱くする、この貴重な芸術を見ることができます。
この方については王塚古墳のHPに記載されています。

開館時間 午前9時~午後4時30分
休館日 毎週月曜日 (月曜日が祝日の場合はその翌日)
年末年始12月28日~1月4日
入館料 大人310円 中高生150円 

2010年の古墳公開は10月16日~17日
9:30~16:00の予定だそうです。HPで確認してください。
王塚装飾古墳館

公開見学の熱きレポートはブログ「装飾古墳今昔紀行」
憧れの王塚古墳への長く苦難な道程 -カムバック伝説2 

地図 王塚古墳

(拡大できます。)

さらに詳しく調べたい方のために。

靫負をシンボルとする説の一部を抜粋しておきます。

九州におけるを描く装飾古墳の分布と、靫負大伴部(ゆげいおおともべ)の分布はかなり密接に関連しているのではないかと思います。九州には靫負大伴あるいは靫負大伴部の分布がかなり見られます。(略)ちょうど筑紫国造磐井(いわい)の本拠地であった地域に、こうした史料がみえているわけです。

それから、御井郡には靫負大伴(部)に由来するかと思われる伴太(ともだ)郷という郷名もみえていますので、磐井の内乱が終了して後、筑紫国造磐井の本拠地に靫負大伴が選ばれて大伴部を統轄したことが想定されます。

同心円文や靫を描いた装飾古墳を考えてみますと、被葬者が的臣(いくはのおみ)と同族関係を結んだ筑後川中流域の有力な武人たち、あるいは靫負大伴(部)であった事をシンボル的に、象徴的に示すために、そうした武器・武具類を描いているのではないかと推測しています。

(「古代史からみた装飾古墳」和田萃 
『装飾古墳が語るもの』所収 国立歴史民俗博物館編 吉川弘文館)

 


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王塚古墳(2)武人は妻と共に星の下に眠るー激動の6世紀を生き抜いた男_c0222861_15184581.gif

# by lunabura | 2010-09-07 23:53 | <古墳シリーズ> | Comments(4)

三環鈴ー天河神社の「五十鈴」が伽耶でも出土していた


三環鈴
天河神社の「五十鈴」が伽耶でも出土していた


『伽耶文化展』の第3弾。今日のテーマは「三環鈴」です。

三環鈴ー天河神社の「五十鈴」が伽耶でも出土していた_c0222861_1351635.jpgこれが三環鈴です。リングに三つの鈴が付いています。韓国咸陽郡の上栢里(じょうはくり)から出土。(最大幅6.0㎝ 厚さ2.8㎝ 三国時代 5世紀 東亜大博物館)
馬具の飾りに分類されていました。
咸陽って中国だけかと思っていましたが、伽耶にも咸陽があるんですね。
(写真は実物より大きくなっています)







三環鈴ー天河神社の「五十鈴」が伽耶でも出土していた_c0222861_13515314.jpgさて、これを見た時、「あれ、天河神社の五十鈴だ。」と思いました。三環鈴は天河神社では「五十鈴(いすず)」という名で御本尊となっています。これがその写真です。青銅製です。大きさは手のひら大。(下の写真を参考に)










天河神社とは
正式名称は「大峰本宮天河弁財天女社」ですが、普通は「天河神社」と言います。
紀伊半島の中央部・奈良県吉野郡天川村にあります。
修験道の重要拠点で、今でも護摩焚きなどがあっています。
この御祭神は市杵島姫。(宗像大社の女神ですね。)
それが密教を通して弁財天となりました。この二神はよく同一化されています。
この弁財天が芸能の仏さまという事で芸能人やミュージシャンがはるばると天河神社に訪れます。
その神社の御本尊の三環鈴は実際に音が出ます。
天河神社のHPには、天照大御神の天の岩戸隠れの時に、岩戸の前で振られたものとも書いてあります。

どうやったらよく音が出る?
三環鈴は考古学的には馬鈴として分類されていますが、少し疑問が残ります。
これはぶら下げるようには出来ていないのです。
普通の馬齢は紐通しが必ずついています。
私は天河神社の五十鈴のお守りを持っているのですが、
ぶら下げてジャンプしても肌に当たった時、音が消えてしまいます。
(馬のようには走れないから?ではないと思う)
つまんで振れば音が出ますが、それでは三つの形が活かせません。
音を上手く鳴らすには、棒に挿して両脇を固定する方がよさそうです。
なんとなく巫女さんの振る鈴っぽい形になります。


三環鈴の日本での出土例を探す
そこで、三環鈴をネットで調べてみました。ちょっと数えただけでも16例ありました。
どの三環鈴も馬具と共に出土しています。
馬鈴と解釈するのが一番多かったです。
しかし、ルナ的には今だに「はいそうですか」とは言えない気分が残ります。
(と、リングの中央をしげしげと見る)

サイズの変化が気になった。
ネットではサイズまでは書いてあるものが少なく、三つほど書いてあったので小さい順から並べます。
●中央のリング3,8㎝、鈴の直径2,7㎝(佐賀・花納丸古墳・6世紀)
●長さ13㎝、厚さ5,3㎝、鈴の直径5,5㎝(静岡・山ヶ谷古墳・6世紀)
●高さ6,3㎝。(ボストンにある伝仁徳稜)

伽耶では長さ6㎝厚さ2,8㎝だったのが、倍以上に大きくなっていきます。
まるで銅鐸のようですね。
イメージの助けに、CDの直径を測ると12㎝でした。
初期の三環鈴はその半径の大きさです。
面白い事にCDぐらいの大きさになると、手で持って振りやすくなります。
実際、天河神社ではそのレプリカを手に持って振られます。
三環鈴ー天河神社の「五十鈴」が伽耶でも出土していた_c0222861_13592216.jpg


日本では神器へと昇華していった
三環鈴は古墳からの出土がほとんどですが、珍しい例として、
神社に奉納されたものがありました。
福岡県北九州市の岡田神社。神武天皇の神社です。
藤原の純友の乱を鎮圧した小野好古が奉納したと伝えられています。
三環鈴が神器のように、特別なものになったのが分かります。


この三角形という形が、三つ巴という神道思想に合致する形だったので、
倭人に特に好まれて、手のひらサイズに大きくなって、
神を呼ぶ時に鳴らされる祭祀の神器となっていったと思われます。
天河神社では鎮魂(魂を丹田に鎮める)に使われるそうです。


三種の神器の玉・鏡・剣の三点セットのようには注目されていないので
見落とす事が多いのでしょうが、
ワカタケルの刻印がある有名な鉄剣が熊本と埼玉にありますが、
これには両方とも三環鈴が一緒に出土しています。
三環鈴は王位の象徴のアイテムとしても検討してもいいのではないかと思いました。

参考文献
『天河』 監修 柿坂神酒之祐 扶桑社
『伽耶文化展』 編集―東京国立博物館 発行―朝日新聞社 1992年
写真はこの二冊から転載しました。

ちなみに、不思議な天河神社参拝記は別項でいつか書こうかなと思っています。





三環鈴ー天河神社の「五十鈴」が伽耶でも出土していた_c0222861_15184581.gif

# by lunabura | 2010-08-30 14:11 | 出土物 | Comments(8)

蕨手文様


蕨手文様
伽耶と倭の装飾古墳をつなぐもの

『伽耶文化展』のつづきです。
こんな不思議な鉄器が載っていました。「有棘利器」と言います。
蕨手文様_c0222861_1413406.jpg

左から3世紀~6世紀(長さ13.5~25.5)
これを見て、蕨手(わらびて)文を思い出しました。
一番左なんかは蕨そのものです。
それが下のように鳥の姿に変化していきます。
蕨手文様_c0222861_14142287.jpg

5~6世紀(長さ33.6~49.8)
いったい何に使ったんだろう。
棒に突き刺すさめに下部が丸くなっています。
本の解説文です。
有棘鉄器とは、鉄板の側面をえぐって棘(とげ)の形に作った
鉄器のことをさし、鉄鋌を利用して一番簡単に作られる鉄器である。
伽耶地域の有棘利器はおよそ4世紀に出現し、
初期には主に権威の象徴として大型の古墳に副葬された。
その後、伽耶の滅亡を前後する頃には小型の古墳にも埋納されるが、
次第に消滅してゆく。
最近の調査例を見ると、種類も多様で地域ごとに独特の特徴を持っている。
特に陝川地域(伽耶の一部)から多く出土した有棘利器には、
鉄板をえぐってが表現されており、ある種の象徴性が加味されている。(略)
日本では、奈良県藤の木古墳出土の冠装飾に
有棘利器にみられる鳥の装飾文様があり、注目を集めている。

562年 伽耶は新羅に併合されて滅亡。
663年 白村江の戦い 倭は唐・新羅連合軍に大敗。

この利器の使い方は書いてありませんでしたが、
主に権威の象徴だという事が分かりました。
そして伽耶の中でも一部の地方で鳥に変化したようです。
それが日本の出土品ともつながっていました。
そのつながりを指摘された藤の木古墳の冠がこれです。
蕨手文様_c0222861_14162218.jpg

たしかに、内側は木の枝のように装飾的になって、
外側に鳥のモチーフが見えます。これは6世紀末だそうです。
「蕨手は鳥のモチーフへ」と変化して、倭の王族の冠となりました。

ところが、この蕨手は福岡県の装飾古墳の中では
「蕨手そのもの」として発展しています。
蕨手文様_c0222861_14171916.jpg

珍敷塚古墳復元図 (日下八光氏製作)

中央の上の方にその蕨手があります。それは靫(ゆぎー楯)の上にあります。
また左の船の舳先に鳥がとまっていて、その上には同心円があります。
「蕨手と鳥」が揃っています。

蕨手ってなんだろう。
蕨手についての説をざっと調べてみましたが、
これといった説が見当たりませんでした。未解明のようです。

それに対して、靫や同心円については、
「氏族のシンボル」と捉える説に出会いました。
「同心円」は「的」の事でイクハと言い、それがウキハ、浮羽となった。
「靫」は「靫負(ゆげい)の大伴(おおとも)氏」の象徴。

これはかなり魅力的な説です。(和田萃氏―下注)
この装飾古墳が浮羽あたりで発達するのを見ると、可能性は高いと思いました。

この説の延長線で考えると、「蕨手」も氏族を指している事になります。
この氏族を仮に「蕨手族」と呼びます。
珍敷塚古墳の絵は
「同心円のイクハ氏」と「靫負の大伴氏」が「蕨手族」を支えている
というストーリーになります。
被葬者は蕨手族の人です。

この蕨手文は他の装飾古墳にも10例ほど見られます。
その中でも、有名な王塚古墳には
蕨手がこれでもかというほど描かれています。
蕨手文様_c0222861_1419993.jpg

これは入口のすぐ右側にあります。

これを見ると、赤と黒のが描かれていて、馬に乗った人物はとても小さく、
それに対して蕨手文はかなり大きいです。
シンボルとして解釈するなら、製作者の意識には順位づけがあって、
蕨手が一番、馬が二番、騎手が三番です。
その心理は「蕨手だ。蕨手のお蔭なんだ」と称えているように思われます。
(でも、馬の方がすごいぞ。)という気持ちもチラリ。

自分が墓を作る立場だったら、何を書き残したいかと考えました。
「遠い所から来て、豊かなクニづくりをした大王が亡くなった。
この大王の出身は蕨手族である。それを支えたのは騎馬軍の私たちだ!」
墓の碑文に書くとしたら、そんな事を書きたい。
それを文字を使わずに表現するとしたら、絵しかない。
壁画は碑文代わりに描かれたと考えました。

短甲にも蕨手があった
蕨手が図録にもっとないかなと再び探してみると、
短甲に蕨手が堂々と付いていました。
蕨手文様_c0222861_14203549.jpg

伝金海 退来里
高さ66センチ 三国時代 5世紀 国立中央博物館

この短甲には前にも後ろにも蕨手がついています。
戦いの時に自分のクニや氏族を明らかにするためです。
羽根のような刀の形をした部分は首を守るためのパーツです。
戦いに明け暮れた様子が伺えます。

器の取っ手まで蕨手。
蕨手文様_c0222861_1421253.jpg


高霊 池山洞45号墳 三国時代 5-6世紀 国立慶州博物館
取っ手は指が入るようなデザインが普通の中に、こだわりの一点が…。
やはり、蕨手は紋章的なトーテムの可能性があります。




参考図書
「古代史からみた装飾古墳」 和田萃 『装飾古墳が語るもの』国立歴史民俗博物館編 吉川弘文館 平成7年
『伽耶文化展』 編集―東京国立博物館 発行―朝日新聞社 1992年
王塚古墳の写真以外はこの二冊から転載しました。




蕨手文様_c0222861_15184581.gif

# by lunabura | 2010-08-27 14:30 | 韓国 | Comments(10)

謎の蛇行鉄器 高句麗―伽耶―倭をつなぐもの


謎の蛇行鉄器
高句麗―伽耶―倭をつなぐもの


宮地嶽古墳の記事を見た方からの情報で、
福津市中央公民館のロビーにすごいのがあると聞いて出かけました。

公民館は宮地嶽の真下にありました。
その二階ロビーに手光(てびか)古墳群などの出土品が展示してあります。
そして、いきなり、どぎもを抜くこの不思議な物体。
謎の蛇行鉄器 高句麗―伽耶―倭をつなぐもの_c0222861_1943358.jpg

そのU字の部分を見て、第一印象は、
何となく馬の背中につけたらよさそうだな、というものでした。
すると、説明文にその使用例の壁画の写真がありました。
それが、な、なんと高句麗の壁画
謎の蛇行鉄器 高句麗―伽耶―倭をつなぐもの_c0222861_19443351.jpg

カラー写真が退色していて分かりにくいのですが、
赤い丸の中にその鉄器が描いてあります。
そのくねくねとした先には旗が付いています。まぎれもなく、これだ!
(「平安南道双楹塚(そうえいづか)壁画 『朝鮮古蹟図譜2』」)

横に説明文がありました。
蛇行鉄器は平均的な長さは80㎝前後のその名のとおり屈曲した鉄棒である。
高句麗壁画古墳に描かれた絵から、鞍の後に取り付け、
旗などの飾りをつける旗竿説や日傘説などがあるが、用途ははっきりしない。
出土例は極めて少なく、国内で9例、朝鮮半島を含めても25例にも満たない。
手光古墳群(現光陽台)南支群2号墳出土

そこで角度を変えて旗を立てる穴を撮りました。
謎の蛇行鉄器 高句麗―伽耶―倭をつなぐもの_c0222861_1946454.jpg

四つの穴が精巧に作ってあります。明らかに鉄製で、サビがふいています。
四つも旗竿を付けられるように、そしてそれが絡み合わないように、
微妙な角度で外に向いています。

この不思議な形の鉄器が高句麗に由来する?なんだかすごい。

「太王四神紀」
高句麗という国と時代を理解するのに、
NHKの韓国ドラマ「太王四神紀」が大変参考になりました。
とにかく、毎週毎週、画面の中を騎馬軍団が駆け回っていました。
それは、日本の歴史ドラマでは見られない光景でした。

パソン姉さんという人が登場します。
北方朝鮮から流れて来たパソン姉さんは、鉄器造りの名人。
彼女の作る鉄の硬度が二種類あって、
固い方をついに広開土王(ぺ・ヨンジュン)に渡します。
鉄と馬。これこそが高句麗が拡大できた大きな要因でした。

また馬を巨大な船に乗せて運んでいました。
これはさすがにホンマかいなと信じられなかったのですが、
やはり事実としてこんな軍事作戦があったから、
ドラマになったのだと信じる事にしました。
本当だとしたら、何十頭も簡単に移送出来た…。

実は、衣装や建物などの時代考証は厳密でなかったらしいのですが、
ディレクターは「誰も高句麗を生で見ていない」との弁でした。
ですから、衣装などはかなり引き算をして見ました。
それでも、思ったのは、やはり韓国の人たちは
馬に乗っていた記憶を強烈に覚えている。

このドラマのお蔭で高句麗のイメージが出来て、国の名前が頭の中に入りました。
朝鮮半島は国の興亡が激しくて、覚えられません。(;一_一)

伽耶と福津を結ぶ蛇行鉄器

さて、話を蛇行鉄器に戻しましょう。
「伽耶文化展」の図録を見ていると、韓国でも同じようなものが出土していました。
謎の蛇行鉄器 高句麗―伽耶―倭をつなぐもの_c0222861_19482391.jpg

上が慶尚南道・玉田(ぎょくでん)古墳出土。5~6世紀。(伽耶
下左が宗像市 大井三倉5号墳。6世紀。
下右が福津市 手光南2号墳。6世紀。
この蛇行鉄器から言えるのは、
この手光古墳群は伽耶と深い関わりがあったという事です。
そして、それは高句麗へと通じていました。

ちなみに、「伽耶」は日本書紀では「任那」と書かれています。

この古墳の被葬者は、この旗印を鞍につけて、倭の野山を駆け巡ったのでしょうか。

はたしてこの蛇行鉄器は国産か舶来か?
「がめて来たんやろうね。」とは、この辺りに詳しいある方の弁。
これは博多弁で、通訳すると(奪って来たんだろうね。)という意味です。
いや、任那が倭だった時代なら、奉納されたのかも、なんて、言えませんでした。

(参考図書『伽耶文化展』 編集―東京国立博物館 発行―朝日新聞社 1992年)
なお、この本は展覧会の図録らしく、どうやら市販されていないようです。
図書館にリクエストすると手に入る可能性があります。



謎の蛇行鉄器 高句麗―伽耶―倭をつなぐもの_c0222861_15184581.gif

# by lunabura | 2010-08-25 20:11 | 出土物 | Comments(6)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25