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ひもろぎ逍遥

桜井大神宮・伊勢の内宮外宮が一緒に祀られている


桜井神社(2)

桜井大神宮
伊勢の内宮外宮が一緒に祀られているよ


桜井大神宮・伊勢の内宮外宮が一緒に祀られている_c0222861_2113319.jpg

境内の反対側に、山があって、石段があります。
なんとも心惹かれる風情です。上っていきましょう。
桜井大神宮・伊勢の内宮外宮が一緒に祀られている_c0222861_21161177.jpg

杜の中の参道は木漏れ日の中。そして、石段の上の鳥居を見て、あ!
お伊勢さまだ!
この飾り気のない簡素な鳥居はお伊勢さまだけの鳥居。足もとに立札がありました。

「伊勢神宮領賜 佐美長神社 一之御鳥居 第六十一回式年遷宮 平成5年」

やっぱりそうです。前回の式年遷宮の分がこちらに下賜されたのですね。
伊勢神宮では20年に一度、すべての宮が新調されます。
取り払われた宮や鳥居などはこうして、縁ある宮で見る事が出来ます。
この神さびた風情。ここにいるだけで心が洗われます。

これまた簡素な宮です。かやぶきの屋根。昔のままの建物。
桜井大神宮・伊勢の内宮外宮が一緒に祀られている_c0222861_2124866.jpg

近づいて行きましょう。
桜井大神宮・伊勢の内宮外宮が一緒に祀られている_c0222861_13315924.jpg


桜井大神宮・伊勢の内宮外宮が一緒に祀られている_c0222861_1345465.jpg

苔むした扁額には「内宮源 外宮宗」と書いてあります。

この宮について、與土姫大明神の拝殿に説明がありました。
御本殿正面の石階段上約200メートルの所には、寛永2年の創建で、伊勢の内宮外宮の御分神を一宇に奉斎する桜井大神宮が幽遠森厳の中に鎮座しています。

與土姫大明神より数年前の建立です。ここは、お伊勢さまが、内宮と外宮一緒なんだ!
伊勢市のお伊勢さまに参拝する時には、外宮に参拝してから内宮に向かうのが順です。
少し離れているので、バスかタクシーで移動します。でも、ここは一度にお参り出来る!
しかも、こんなに近くに行ける。

どんな歴史を刻んだのでしょうか。これも貝原益軒が筑前国続風土記に書いていました。

本社の西南の光寿山のふもとの高い所に天照大神宮がある。これは本社創立の後、神託によって忠之公がここにお立ちになった所である。その後大神宮にも参詣する人が多い。が、今は絶えた。
こうして忠之公は與土姫大神に神領を寄付されて、祝人を多くおいて、祭礼を行わせた。その年、忠之公はひどく悩む事があって、この神に祈られた所、神のお告げとして、不思議な夢を見られた。それからは、さきほどの悩みの雲霧もはれて、なんのおそれもなくなったので、この神のちからだと言って、その夢想の句を自筆で書いて社に奉納された。これより、ますます信仰深くなられた。

黒田忠之公について調べると、当時、黒田のお家騒動があって、
藩が取りつぶされるかどうかという大変な悩みがあったのが分かりました。
その事件がこれに相当するのか分からないのですが、
忠之公にとって、ここの神々が心の支えになったのがよく伝わってきます。

なお、忠之公が亡くなった後は、島岡大明神としてお祀りされています。
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# by lunabura | 2010-07-30 13:36 | 桜井神社・糸島市 | Comments(0)

桜井神社(3)21歳の藩主・黒田忠之公の悩みと神威


桜井神社(3)

21歳の藩主・黒田忠之公の悩みと神威


桜井神社(3)21歳の藩主・黒田忠之公の悩みと神威_c0222861_21211941.jpg

この神社を創建した人が筑前福岡藩の二代目城主・黒田忠之公という事で、
今回は忠之公の人生を簡単に辿ってみようと思います。
(年齢は西暦から単純に計算したものなので、誤差があります。)

父君は黒田長政公。初代のお殿様です。
祖父の黒田如水と共にキリシタンでした。
長政公は関ヶ原の戦い(1600年)の後、筑前博多に来て、
すぐに福岡城の建設に取り掛かっています。
その城の瓦に十字架が刻印されていたのが最近発見されて、話題になりました。
長政公は1587年の秀吉バテレン追放令のあと、
キリスト教を捨てたと言われています。
城はその後に建設されたので、この隠された十字架は信仰を捨てていない事を
見えない所で示した証しだと言えます。

黒田忠之は1602年に長政公の長男として生まれました。
忠之が12歳の時には大阪の冬の陣、夏の陣がありました。
ところがその後、父長政公は忠之を見限って、
廃嫡(はいちゃくー跡継ぎをやめさせる)しようとします。
家臣の制止によって、それは実行されませんでしたが、
13歳の少年には大きな心の傷を残しました。

その年に徳川幕府がキリシタン禁教令を出して、長政公はそれに従い、
キリシタン弾圧を始めます。
そんな父の姿を忠之は見たはずです。

そして、忠之が21歳の時に父が死去。
若き忠之公が二代目藩主となりました。
21歳の若殿様です。危なかしくって当たり前の年でした。

父の家臣たちと、自分の新しい側近たちの葛藤が始まります。
27歳の時、長子が誕生しますが、夫人が23歳の若さで亡くなってしまいます。
31歳の時、家臣の栗山利章と対立。
栗山に「黒田氏謀反の疑いあり」と幕府に訴えられてしまいます。
これが黒田騒動です。
この騒動は結果としては、無事におさまりました。忠之公は53歳で亡くなりました。

その忠之公と桜井神社はどう関わったのでしょうか。

1610年に浦新左衛門の妻に神懸かりがあります。
この方は、それからは浦姫様と呼ばれています。
浦姫様の噂はお城まで届き、忠之公は家臣を使いにやって、よく当たるのを知って、
みずから尋ねるようになりました。

24歳の時に神託で天照大神宮を建立。
30歳の時に本殿を建立となっています。
この年に黒田騒動です。
やはり浦姫様のご神託を仰いだらしく、浦姫様はそばの榎木に登って、
江戸を霊視してアドバイスをしたそうです。

忠之公が夢で告げられた句も伝わっていました。
「しるへにや 雀の千声 鶴の一声」
(家臣たちの千のアドバイスより、神の一声が自分の道しるべだ)

忠之公は藩主となってから、ずっと浦姫様に相談しながら、政をしていったのが伺われます。
家臣のアドバイスより重視したので、
古くからの家臣たちとの軋轢(あつれき)を生んでいった可能性もあります。

彼の宗教観を考えると、父の長政公がキリシタンだったのに転向していった苦悩を
幼い時に目の当たりにして、神とは何かという事を誰よりも深く考えたと思われます。

自分で霊夢を見て、神の御加護を体験して、この岩戸宮の神を深く信仰しました。

浦姫様は黒田騒動が落ち付いた後、1636年に亡くなりました。
それからは自分の判断で前に進むしかありません。
晩年には真言宗に帰依して東長寺を建立しています。

戦乱の世が終わって、江戸時代に入ったとはいえ、まだまだ、戦国時代の延長にあった時代に、
この岩戸が開かれて、福岡藩の国造りの支えとなりました。
このタイミングの不可思議さを思わずにはいられません。
その神気は、今なお、人々を守っているように思いました。

桜井神社(3)21歳の藩主・黒田忠之公の悩みと神威_c0222861_21283764.jpg

境内の賽の神神社 石は猿田彦の神

途中ですれ違った青年に話を聞きました。
「神社が初めてと言う人が何故かここに来るようですが。」
「そうですね。私も神社参りを始めたばかりです。」
「どうして若い人に人気があるのですか。」
「縁結びと聞いてます。」
なるほど。そうだったんですね。

いやあ、ここは八百万の神々が祀ってあります。どんな願いも聞き届けて下さるように思いました。
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# by lunabura | 2010-07-28 21:41 | 桜井神社・糸島市 | Comments(0)

玄海灘・玄界灘の黒船騒ぎ

玄界灘の黒船騒ぎ

黒船は玄界灘で何をしていたのか。


現在放映中のNHKの「龍馬伝」に黒船が出て来ます。
玄海灘の伝承を調べていると、黒船が出没した記録が出て来ました。
彼らの行動が記録されているので、今日はそれを紹介したいと思います。

黒船が来た
幕末のある日、神湊(こうのみなと)の浜に黒船が来ました。玄海町沿岸の漁民の中には長崎警固の水主として、毎年勤務があったので、外国船を見た者もいたはずですが、初めて黒船が煙を吐いて沖を通る姿を見た漁民の驚きは想像されます。

ペリー来航は嘉永6年(1853年)であり、幕末に近い文久元年(1860年)にはロシアの船が対馬の一部を占領、文久3年には長州藩がイギリスの船を砲撃、翌元治元年(1864年)には英米仏蘭四国連合艦隊が下関を砲撃しています。

この頃の神湊町の話で、年代を確定する事が出来ていませんが、玄海町沿岸の語り継ぎとして記録しておきます。文政10年(1827年)生れの曽祖父が40歳、祖父が13歳頃の話の聞き伝えと思われます。

幕末に近いある日、地島沖から黒煙を吐きながら、一艘の黒船が現れ、地島前に出て来ました。これまでは沖を通り過ぎる事はあっても湊に入ることはなかったのですが、黒船は湊の沖まで入って来たから沿岸では大事件です。

漁方の知らせで、神湊浦庄屋は決断の結果、早飛脚を飛ばして、浦奉行(福岡)に知らせました。

しばらく見守るうち、黒船は静かに地の島沖に去った。また報告を要するので、早飛脚が出されました。見守るうち、地島を一周して測量などをしたのでしょうか。

若松では、西洋人が沿岸を測量した記録があります。また英国船が近海を測量した事があると福間でも言います。

黒船は停泊したように見えるから、また飛脚がとばされました。三人目です。やがて、黒田藩の侍が数騎、馬にて駈けつけて来ました。髯をぴんと生やした豪傑らしい侍が刀を手にかけて、沖の船を見廻している姿がそりゃもう、偉くそりくり返って見えた、と漁方は言います。
黒田藩の侍が駆けつけるまで相当永い期間、船は測量をしていたと考えられます。

『玄海町史話伝説』玄海町教育委員会 (一部省略しました。)

これを見ると、対馬が一部占領されたり、山口県が攻撃されたりと
すでに戦争の状態になっていたのが分かりました。
しかも、黒船といっても、国籍はいくつもあって、
イギリス、アメリカ、フランス、オランダ、ロシアと各国から来ています。

これに対して、筑前黒田藩はイギリスと長州藩の戦いのあとに、
福間、須崎、若松、黒崎、姪の浜に砲台を設置する工事をしています。
これは、藩としての対応であり、幕府の防衛作戦は見えて来ません。
無策ではなかったのでしょうが、どれほど危険な状態だったのか、先週の「龍馬伝」を見ていてびっくり。

「龍馬伝の」長崎の話(2010年7月18日放送)の一部です。
イギリス人の武器商人のトーマス・グラバー
わずか3年の滞在で巨万の富を手に入れます。
その商売敵のウィリアム・オールトがグラバーに
「かせぐだけ稼いだら、日本から逃げろ。この国は終わりだ。」
と警告します。
「幕府はフランスのあやつり人形だ。これをイギリスは許さない。」
と言って、日本征服のあらすじを明かします。

そのイギリス軍日本上陸作戦とはこうです。
摂津の海を封鎖して、兵庫に歩兵1万2千人他を上陸させて、
大阪を制圧したら京都へ向かう。そして、ミカドを拘束する。
一方、本隊1万5千人で江戸を攻撃する。こうして1日で日本を征服する。

なんとも、具体的な作戦です。

この放送を見て、彼らが玄界灘で盛んに測量した理由が分かりました。
日本を占領するための上陸地点を捜していたのですね。
オールトの話が本当なら、ざっと足し算しただけで2万7千人以上の兵が船に乗っています。
軍艦の数はいったい何艘だったのでしょうか。
これが日本の周囲をうろうろとして、上陸作戦を練っていた。

一気に上陸するためには、港の深さ、広さ、など、事前の調査が必要です。
玄界灘は長州藩のすぐそばなので、念入りに調査したかったのでしょう。
その長州藩の高杉晋作
「長州は黒船と戦って惨敗してからは、戦う相手を幕府に変更した。独立する。」
と龍馬に話すシーンがあります。
しかし、情勢はそれどころではなかった?

新宮町の相の島には、黒船が実際に上陸しています。
理由はなんと、
「船に乗っている婦人が気分が悪くなったから、しばらく島で休ませてほしい。」
との事。
希望は届けられて、婦人と男と二人を上陸させて、島内の案内もしています。
まっこて、恐ろしかことで。

さあ、これがどうやって未然に防がれたのか。
日曜日は「龍馬伝」を見逃せません。

地図 砲台 福間、須崎、若松、黒崎、姪の浜
黒船目撃 若松、地島、神湊、相の島




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# by lunabura | 2010-07-25 15:45 | <地名・地形・伝承> | Comments(0)

織幡神社(1)風と海と空の中の宮は海の神様が勢揃い


織幡神社(1)
おりはたじんじゃ
福岡県宗像市鐘崎字鐘岬
風と海と空の中の宮
海と勝利の神々が勢揃いだよ


玄界灘に突き出た岬に鎮座する神社。
それは風と海と空の中にありました。

織幡神社(1)風と海と空の中の宮は海の神様が勢揃い_c0222861_2238423.jpg

今日はいい天気。鳥居の先、左の方に丘が見えます。
その頂上にお宮はありますよ。さあ、では参りましょう。
織幡神社(1)風と海と空の中の宮は海の神様が勢揃い_c0222861_2240527.jpg

ほどなく階段です。すぐに拝殿の屋根が見えますが、あわてないで。
もう一つ石段が隠れています。
かつては鳥居を一歩くぐると、照葉樹林の原生林の中にはいる風情でしたが、
今は陽光がさんさんと降り注ぐ宮になっていました。
海の風と光を浴びて行きましょう。
織幡神社(1)風と海と空の中の宮は海の神様が勢揃い_c0222861_2323781.jpg

参拝をすませて境内をぐるりと廻ると、ここは岬の頂上部。
こじんまりとした広さの境内です。
樹木の間に踏み分け道がありました。ついつい覗きたくなります。
あっ。海が見えた!
織幡神社(1)風と海と空の中の宮は海の神様が勢揃い_c0222861_22403815.jpg

だから海辺の神社は大好きです。この踏み分け道はしっかりと固まっています。
2000年以上前から、ここに座って、海上の船を見たんでしょうね。
監視するのにもってこいの場所です。

では、御祭神を見て行きましょう。

竹内大臣、志賀大神、住吉大神、
天照大神、宗像大神、香椎大神、八幡大神、
壱岐真根子臣

この顔ぶれは、「海と船と勝利の神々」ですねえ。
竹内大臣を祀る宮は初めてですが、これまでも、ブログ内でチラチラと名前は出ていました。

彼は神功皇后を支えて新羅と戦い、御子が生まれた後も母子を全面的に支えました。
神功皇后と別の船に乗った時にも、御子を預けられるほど、彼は信頼されていました。

光さんから
竹内の一族が宮地嶽の巨大古墳を祀っていたという伝承を伺いました。
この神社に武内大臣が祀られているのは、昔なら唐突だと思ったでしょうが、
その古墳がこの岬から10キロ離れた福津市にあるとなると、
それほど不自然ではなくなって来ました。
この説はまだまだ検証する余地があります。

この神社を祀った海人族たちは、どんな暮らしだったのでしょうか。
普段はそれぞれの入江で漁業を営んでいて、
天皇家から(言い換えれば物部氏から)依頼があると、船を出す。
そんな光景を想像しているのですが、彼らはエリアごとに、住み分けをしていて、
航海の安全を重視したネットワークを作っているように見えます。

その証拠がこの神社の祭神の組み合わせからも伺えます。
この織幡神社宗像族のエリアですが、
ここに祀られた神の名前に「志賀大神、住吉大神」があります。

この志賀大神志賀海神社の三柱の海の神です。
(底津綿津見神、仲津綿津見神、表津綿津見神)
阿曇族の祭神です。

住吉大神は表筒男、中筒男、底筒男の三柱。
ルナが想定している、オリオンの三ツ星です。
住吉族の祭神です。

どれもが海の神であり、彼らが心から安全を祈った神であるのが分かります。
その次の御祭神の宗像大神宗像三女神です。
宗像族の守護神です。

こうしてみると、この岬の宮には、この玄界灘の海の神様が全部勢揃いしていました。

他に、出てくる天照大御神は宗像三女神の母神ですよ。

そして、残ったのは三柱。
その中の「香椎大神、八幡大神、」はこのブログでお馴染みですね。
香椎大神は神功皇后です。
八幡大神はその御子の応神天皇
そして、初めて見る神さまは最後に残った壱岐真根子(いきのまねこ)となりました。

その結果、この宮の御祭神は玄界灘の海の神さまたちと、
新羅と戦った神功皇后と御子と重臣の竹内の宿禰
+壱岐真根子
という組み合わせになりました。

これらのキーワードは「海、船、戦の勝利」です。
これまで逍遥した神社の神様ばかりなので、よく分かりますね。
忘れた?

ん~。そんな方は
香椎宮、志賀海神社にもう一度行ってくださいね。

さて、この神社の名前は織幡(おりはた)です。
いったい、どんな伝承があるのでしょうか。
            (つづく)


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# by lunabura | 2010-07-14 22:55 | 織幡神社・おりはた・宗像市 | Comments(0)

織幡神社(2)紅白の旗がここで初めて織られたよ。


織幡神社(2)

紅白の旗がここで初めて織られたよ。
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今日は神社の由来について、『玄海町史話伝説』
(玄海町教育委員会)を抜粋しながら見て行きましょう。


平安時代からオリハタ宮と書いてあり、地元ではシクアン様と言われています。
正しくはシキハム様です。

シキハム様…不思議な名前ですね。これがオリハタ神社の別名だという事です。
なんだか気になりますが、これ以上は調べようがありません。
古い時代、この社は盛大な祀りが行われ、
特に平安時代は住吉宮以上の社格の高い神社でした。

第一は宗像大社ですが、その次がこの織幡神社だったそうです。
ここは大変重要な聖地だったんですね。

縁起が書いてありました。
『宗像大菩薩御縁起』に、
「金崎織幡大明神は本地は如意輪観音、垂迹(すいじゃく)は竹内大臣の霊である。
神功皇后の三韓征伐の時、紅白二流の旗を織り、宗像大菩薩の御手長
(神儀の象徴たる長い旗竿?)に取り付けられたので織幡の名がある。
異国襲来の海路守護のため海辺に居り給う」云々(うんぬん)とあります。

この話には、仏教の影響が見られますが、もともと竹内大臣が御祭神だという事です。
神功皇后が新羅と戦う時、紅白の二枚の旗を織ったのが始まりでした。
この旗を長い竿に取り付けて、船の先頭で振って勝利を導いたのですね。
そのお蔭かこの戦争に勝ったので、軍師とも称えられる竹内大臣の御霊を
異国の襲来から海路を守護するために祀った事情が分かりました。

さらに縁起が伝わっていました。
『織幡宮縁起』(天和3年)
神功皇后及び武内宿禰、洞の海より高津山に登られ、神々に祈られ、
次いで波津(はつ)の浦で軍(いくさ)の旗を織らしめ給い、
その所を名づけて「はたの浦、大旗、小旗という。
今のはつの浦とは言いなまりなり。
ここに織幡大明神とは号するなり。

この岬の東側に波津の浦はあります。
そこで旗を織らせたので「旗の浦」と言ったのが、「はつの浦」になまったのだそうです。

織幡神社(2)紅白の旗がここで初めて織られたよ。_c0222861_214274.jpg

岬の全景です。右側から登って行きます。
この神社を守るかのように、武人の石棺が麓や中腹にあるそうです。
江戸時代に人骨や鉄剣が出たのですが、ホリホリと崩れてしまったとか。

この「紅白の旗を織らせた」という事は、背景には機織りの出来る技術集団が存在したという事です。
ここは宗像大社のお膝元。
宗像族は、船や漁業だけでなく、高度な服飾文化を持っていたのがわかります。
衣服はもちろん、船の帆も必要です。

この集団に、紅と白の旗を織らせることが出来た竹内大臣は、ここと深い縁がある事が想像できます。

この「紅白の旗を織った事」は当時の人々にもよほど印象深かったのでしょうか、
この旗に関する神社と伝承が他にも二つ、近くにありました。
玄海町多礼(たれ)柚木(ゆのき)の指来(さしたり)神社の縁起書に、
「この神は神功皇后が異国に出兵の時、御旗を司った神なので、
旗指(はたさし)大明神と言ったのを、今は訛って指来(さしたり)明神という」
とあります。

なるほど、旗が出来上ると、それを采配する人が要るのですね。
この人は海の事を熟知して、戦うのも畏れぬ人だったのでしょう。
その人がこの指来神社で神として祀られているというのです。

面白い事に、この時、船の帆を縫った神さまも伝わっています。
津屋崎町奴山(ぬやま)の縫殿(ぬいどの)神社は、
「里民の言い伝えには、昔、神功皇后が新羅を征し給う時、船の帆を縫った神である、」
と言っている。
今、神名について思うに、これは兄媛を祀った神だろうか。


などと、『筑前国続風土記』にあります。 この伝承は厳密に見ると、時代の錯誤が見られます。
それはそれとして、帆を縫う人も必要です。
今回は、これが事実かどうかより、のちに兄媛の指導を迎え入れる技術者たちが
いた背景が伺われる点に注目したいと思います。

この兄媛(えひめ)については、『日本書紀』にこう書かれています。
応神41年2月、阿知使主(あちおみ)らが、
呉(くれ)の国から筑紫に帰って来た時に、胸形大神より工女を乞われ、
連れて来た兄媛(えひめ)、乙媛(おとひめ)、呉織(くれはと)、
穴織(あやはとり)のうち、兄媛を奉る。


阿知使主が中国まで行って、四人の織姫を連れて帰る途中、
宗像族の王がどうしても一人欲しいと望まれて、兄媛がここに残ったという話です。
その兄媛を祀る神社がこの縫殿神社です。
亡くなったあと、日本に機織りの技術を伝えた神様として祀られました。

こうして、オリハタに絞ってこのエリアを見ると、
弥生時代からすでに、華やかな織物文化があったのがしのばれます。

その伝承のある神社の位置関係を見てみましょう。
地図 織幡神社、波津の浦、指来神社、縫殿神社、宮地嶽神社、宗像大社


大陸や韓半島から技術者を連れて帰ると、
クニの王の所に挨拶をして、泊めてもらう事もあるでしょう。
お土産として布が献上されたと思われます。
それを見た王たちが技術者を欲しがる気持ちもよくわかります。

都に行く四人の織姫の一人を是非と言って置かせたのは権力の裏付けもありました。
織姫たちは、とても大事にされた事でしょう。
古代の人たちも、素敵な布で身を飾りたかったんですね。

「スセリ姫」の所に書いていますが、大国主の命は、妻と別れようとする時でさえ、
「何色の衣装を着ようか」なんて、歌っています。赤や青や黒など、色彩豊かです。

天照大御神は、神の為の布を織らせるために、精進潔斎した御殿を用意しています。

弥生土器の底に布の織り目が残っていたりするので、
織る文化はけっこう早かったのが分かります。
織幡神社(2)紅白の旗がここで初めて織られたよ。_c0222861_21104670.jpg

これは、沖ノ島の女神に奉納された、金メッキの機織りのミニチュア版です。
20センチぐらいだったかなあ。奈良時代のものです。
実際に織る事が出来るんですよ。宗像大社の神宝館で見る事が出来ます。

(つづく)


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# by lunabura | 2010-07-13 21:26 | 織幡神社・おりはた・宗像市 | Comments(2)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25