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ひもろぎ逍遥

鴻臚館(2)空海も最澄もここに泊まって旅立った

鴻臚館(2)

空海も最澄もここに泊まって旅立った


鴻盧館の遺跡の周りは野球場の巨大なフェンスで囲まれていますが、
沢山のパネルが掛けられていて、歩きながら歴史を知る事が
出来るようになっています。今日はその説明板からです。

外国船がやって来た
鴻盧館は文献上には持統2年(688)、「筑紫館(つくしのむろつみ)」として初めて表れ、平安時代になって中国風の「鴻臚館」という名に変わっています。

鴻盧館は9世紀前半まで、唐や新羅の使節を接待・宿泊させる迎賓館であり、遣唐使や遣新羅使が旅支度を整える対外公館でした。

9世紀後半以降、鴻盧館を訪れる主役は唐(後には五代・北宋)や新羅の商人となり、中国・新羅との貿易の舞台となりました。

奈良時代までは、唐や新羅の使節が来ると、この鴻盧館に収容されて、
朝廷の許可が下りると、都へと向かったそうです。
この当時はすでに平城京と筑紫の間にはまっすぐの道が作られていて
駅家(うまや)が16キロごとに整備されていて、太宰府から都まで「4日」でした。
(2009年11月24日放送 NHK『謎の古代の道』より)
外国船が着くと、10日も待てば朝廷の許可を受ける事ができたんですね。

鴻盧館はツイン。北館と南館に分かれています。
外国人と日本人を分けて泊めたのではないかという事です。
鴻臚館(2)空海も最澄もここに泊まって旅立った_c0222861_17271536.jpg

当時の想像図です。鴻盧館のすぐ下は崖になっていて、
現在の地下鉄あたりは海になっています。
左手前に見える島が西公園です。今はそのあたりまで陸地になっています。

遣唐使船もやって来た
遣唐使も難波から出発してここまで来たら、いよいよ日本とお別れです。
ここは最後の宴の場だったのでしょう。
空海、最澄、吉備真備、小野妹子、阿倍仲麻呂なども、
泊まっているはずですよね。

展示館には遣唐使の資料も沢山ありました。

鴻臚館(2)空海も最澄もここに泊まって旅立った_c0222861_1729919.jpg

遣唐使は630(舒明2)年8月に犬上御田鍬(いぬがみおたすき)らを最初に、894(寛平6)年に菅原道真の建議で廃止されるまで20回計画され、うち15回が派遣された。

造船・航海術が未熟な当時は、東シナ海を横断することはきわめて危険で、8回の遭難記事がある。遭難覚悟の厳しい航海であった事を示す。はじめ2隻の航海であったものを4隻に増やし、出発日をそれぞれずらしたのも、遭難を避け、とにかく一隻でも中国に着きたいという配慮であった。(展示館パネル)

陸に添って行ける北路が絶たれたために、
直接東シナ海を通るので、大変になりました。
この遣唐使船に乗ったのは最澄・空海ら留学僧はもちろん、
ガラス、鍛冶、鋳物、木工、音楽の技術研究者たちもいました。
乗船メンバーの名前もきちんと記録が残っています。
そして朝貢船ですから、多くの貢物が乗せられていました。
銀や布織物、水晶、琥珀、めのう、他。
そんな具体的な話を次のブログで知りました。

遣唐使船の乗組員と持参した朝貢品
http://jumgon.exblog.jp/15231968/
「徒然なるままに、、、」


遣唐使の費用は、唐が認めたら、上陸後の分を負担してくれたそうです。
けっこう現代に近い経済感覚も見られて面白いです。

それまでの「倭国」という国名を「日本」と変えたい時も、
遣唐使が行って、唐に承認を求めるという手続きを取ったそうです。
認めてくれたのは則天武后だったとか。(と、TVで見たばかりのうんちく)

執念の発見者は中村平次郎氏だった
鴻盧館の場所はずっと分からなかったそうです。
明治4年生まれの中山平次郎氏は福岡医科大学(九大医学部の前身)の教授で、
考古学に関心があり、万葉集を紐解いて、この場所を見つけたそうです。
「筑紫館に至り、遥か本郷を望み いたみて作る歌 四首」から
「志賀島が見える場所」
「波の音が聞こえる場所」
「ひぐらしが鳴く場所」
などの条件に合う場所を捜し続け、「福岡城址の位置より他にはない」と特定しました。

ここからが凡人と違う所…。
当時の福岡城址陸軍歩兵二十四連隊営所で、一般人は立ち入り禁止でしたが、
招魂祭の日だけは立ち入りが許されました。中山博士はこの日を利用して営内に入り、かねてより目星をつけていた場所から奈良時代の瓦や陶器を掘り当て、自説に確信を持ちました。

ちなみに、その際には「営内でスコップを持った怪しい奴がいる」ということで憲兵隊に留置されるハプニングもあったとか。実兄である九州大学医学部教授の中山森彦氏が陸軍軍医少将だったため、直ちに釈放されたそうです。

戦後、昭和24年(1949年)に平和台野球場が建設されましたが、昭和62年(1987年)の外野席改修工事の際、ついに鴻盧館の遺跡が発見されました。中山博士の予見通り、ここに鴻盧館が存在したことが確定、現在も発掘調査が続いているのです。

鴻盧館の位置を予見し、板付遺跡や元寇防塁の発掘にも貢献するなど福岡の考古学を語る上で欠かせない中山博士は昭和31年(1956年)、85歳で亡くなりました。
(パネルより)

どんな遺跡も、先人の苦労と戦いのお蔭で、こうして残されるんですね。
それにしても万葉集から謎解きをしたなんて、面白い!
中山平次郎氏は、まるでシュリーマンのような存在だったんですね!

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中山平次郎氏

鴻盧館展示館
開館時間 9:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日 12月29日~1月3日 
入館料 無料
電話 092-721-0282


中山平次郎氏の足跡をブログ内で辿る  ⇒ 板付遺跡

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# by lunabura | 2011-01-06 17:40 | <遺跡・史跡> | Comments(4)

仙道古墳(1)装飾古墳を守る、盾を持ったユニークな埴輪がいたよ


仙道古墳(1)
福岡県朝倉郡筑前町久光仙道
装飾古墳を守る、
盾を持ったユニークな埴輪がいたよ


さて、再び旧三輪町に戻って来ました。
前に紹介した大己貴神社から直線距離で約1.5キロ。
田んぼの向こうに丸い古墳が…。こりゃあ、行ってみなきゃ。
仙道古墳(1)装飾古墳を守る、盾を持ったユニークな埴輪がいたよ_c0222861_1159152.jpg

すぐ後ろは神奈備山だ!大己貴神社の「神体山」とそっくりです。
山との位置関係なども同じような印象です。

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仙道古墳です。国の史跡なんですね。

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墳丘が二段になっていて、円筒埴輪がずらりと並んでいます。
こんな風に埴輪が復元された古墳を福岡で見るのは初めてです。
入口が整備されています。今日は案内板を道しるべに見て行きましょう。

国史跡 仙道古墳
所在地 福岡県朝倉郡筑前町久光字仙道111の2
指定年月日 昭和53年5月6日
この古墳は、6世紀(古墳時代後期)の赤色や緑色の彩色で、円文・同心円文・三角形文などの装飾が描かれている複室の横穴式石室です。

装飾古墳なんですね!
6世紀って、このまえ紹介した竹原古墳王塚古墳と同じ時代だよ!
それらとは、かなり離れていますが、壁画があるなら見比べたいですね!

墳丘は葺石(ふきいし)を持つ2段築成の円墳で、墳丘の周囲には二重の周溝を持ち、また、墳丘を囲むように埴輪が立てられ、入り口部分に盾持ちの武人埴輪などの形象埴輪が立てられていました。

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これがその楯を持った埴輪です。盾と一体化しています。
本物は甘木歴史資料館にあります。
サイズは現物より大きいと聞きました。

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レプリカとはいえ、現物の印象そっくりに再現されています。
そう、こんな顔だったんです。
帽子(冠)がギザギザなのが特徴的です。
この帽子を見る限りは、竹原古墳の武人とは別の文化のようです…。

昭和52年の調査当時は、墳丘が部分的に削り取られ、高さ4mを残すのみでした。

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これが発掘当時の写真です。確かに、墳丘の上の方が無くなってる。
手前には埴輪の破片が沢山見えています。

しかし、2重の周溝を持つ径45mの大型の円墳であり、石室は南西に開口する横穴式石室で、基底部の石材と片袖を残して全て抜き取られていましたが、石室の規模は、現存で全長7m、高さ2m、幅2.4から3mを測りました。床面には、奥壁と平行して石障石が立てられ扁平石・小円礫が敷かれていました。

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これが石室の状況です。高さが2mもあるなら、立って歩けます。
立派な奥壁が印象的です。中程にある石が袖石というんだ。
それにしても天井石などを抜き取るなんて、なんという盗掘者。
このあたりは造園業が盛んなので、まさか庭石に化けてる?

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公園の隅に「石室の石材」と書いてありました。
これは、持ち出す途中で廃棄したという意味でしょうか?
それにしても、この雰囲気の石は高良山でよく見かけるような印象です。

装飾文様は現存する石室全面にわたって施され、赤色・緑色で円文・同心円文・三角形文等が確認されました。
出土遺物は、石室からガラス小玉多数、管玉8点、ナツメ玉3点、青銅製釧(くしろ)1点
墳丘から須恵器少量と、墳丘及び周溝から円筒埴輪、朝顔型円筒埴輪、柵形円筒埴輪・馬・人物・家等の形象埴輪が出土し、石室背面の周溝から円筒埴輪が多量に出土しました。この出土により墳丘の周囲に埴輪が立てられていたことが分かりました。

それでも、残された石に装飾文様が残ってた!
なんと有り難い事でしょう。出土遺物は青銅のブレスレットが特徴かな。
ネットを検索すると、ここから出土したらしい青銅製の鈴が見られました。
家形埴輪は是非見たいものです。(歴史資料館に行ったけど記憶がない…)

調査の成果に基づき、墳丘の形状を築造当時の姿に復元し、埴輪も当時のように並べ、古墳の往時の姿がうかがえるようにしました。石室についてもあずまやに復元模型を設置して本来の姿が理解できるようにしています。
筑前町教育委員会 TEL0946-42-6621


この公園の端っこに原寸大のレプリカが作られていましたよ!
行ってみましょう。
(つづく)

地図 仙道古墳 大己貴神社 恵蘇神社


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# by lunabura | 2011-01-03 12:26 | <古墳シリーズ> | Comments(4)

仙道古墳(2)壁画は〇と◎と△と▲でした

仙道古墳(2)

壁画は〇と◎と△と▲でした。

この仙道古墳の周囲は公園になっていて、奥の方にあずまやがありました。
あずまやと言っても、石室の実物大のレプリカが!
テラスのようになっていて、いつでも見られるようになっています。
仙道古墳(2)壁画は〇と◎と△と▲でした_c0222861_15122197.jpg

まずは長い羨道に興奮。かなり奥行きがあります。
7m。堂々たるものです。

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石室のようすです。
分かりやすいようにくっきりとペイントしてあります。
左手前の袖石に二重円があります。
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石室の中に入って、袖石の裏側を撮りました。
二重円が二つ。三角形は赤と白がくっついています。
長靴のような多角形があって斜めになっています。
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左から反時計回りに見て行きます。これは左の壁です。
緑の文様が出て来ました。バチの形です。
赤と白の三角形は離れて一列になりました。そして、丸が出て来ました。
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正面の奥壁です。
大きな二重円が頂上にあって、いろんな円が不規則に浮遊するかのようです。
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右側の壁です。二重丸が六つ整列しています。
長靴型多角形が再び出て来ましたが反転しています。
そして三角と丸がふわふわと。
う~っ。何だろ。何が描かれているのだろう。
(この浮遊感はまるでシャガールのよう。)
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これは現地の説明板です。全体のようすがよく分かります。
白い部分だけが現存している岩です。
足もとに残った石にも赤い三角形が描かれています。
その中の一番左の三角の中に緑が塗られています。
緑は合わせて二か所だけでした。

この謎を解くのはちと無理だから、文様についての説を紹介しましょう。

二重円文=「的氏」説
二重円文は「的」を表して、「的氏」(いくは・生葉・うきは・浮羽)を
指しているのではないかという説があります。
二重円文はいろんな古墳にも描かれています。
その中に線刻された「二重丸」の上下に「線」(棒)が描かれている例があり、
立てた「的」を示しているという説です。
この古墳は筑後川流域にあって、川の向こうは「ウキハ」郡です。
自分の所属や出身を紋章で表す可能性は高く、
残りの丸や三角も氏族を指す可能性がないか、思案中です。

「三角文」とユダヤ・ヒッタイト・アリアン人  
眞鍋氏が「三角形」について語っているのでそれを紹介します。

中東の古代の生命の再生復活、或いは発祥誕生を祈念する図形にダビデ(全1010~971)の紋章がある。不思議なことに陸奥閉伊(へい)には希伯来(ヘブライ)民族の墓石が今も現存している。

中東のヒッタイトの遺跡は正三角形の模様が壁画に執拗なまでに一面に大小限りなく書き散らされている。残された遺族の悲嘆と追慕の心を察するに余りなる壁画である。

ダビデの紋章はこの正三角形を二つ上下に重ねて正三角形の頂点を出したかたちであり、雪華の結晶の図柄でもある。

正三角形の由来を厳粛かつ端然と理解して敢えてはばかる事のない民族はアリアン人である。正三角形の上の水平な一辺は恥骨であり、下の頂点は尾骶骨の象徴であって、人間の股間即ち生殖器を示す。

三角形を逆向きに重ね合わせることは、蘇生を願う印象であった。
これをまとめると、


1.ダビデの星 ✡のように重ねわせた紋章には再生復活、発祥誕生の意味が込められている。
2.ヒッタイト は▲ ▼を一面に限りなく描く。
3.アリアン人にとって ▼の上辺は恥骨、下の頂点は尾骶骨 生殖器。
4.▲と▼を重ね合わせるのは、蘇生を願う。

1.ダビデの星は言うまでもなくユダヤの紋章ですが、日本でも籠神社や伊勢神宮に見られて騒がれた事が あります。今ではどちらも消されています。
2.ヒッタイトの壁画が一面に描かれるのは初めて聞きました。当然ながら、王塚古墳田代太田古墳(佐賀)を思い出させます。


この仙道古墳の三角形が何を表すのかまだ分からないのですが、
ただ、王塚古墳と見比べてみて、同じ使い方をしているのが一か所だけありました。
それは遺体の床の区切りの所(屍床)です。同じように三角文が並べられています。

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王塚古墳  
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仙道古墳
両者の屍床の三角形についてはルーツを遠く辿っていけば
同じ思想を共有していた時代があるかもしれないなと思いました。
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竹原古墳の三角文は縦になっていて、旗ではないかと思いました。
前の二つとは使い方が違います。
三角形はあまりにも普遍的な形なので、もっと用例を見る必要があります。

盾持ちの埴輪は甘木歴史資料館に展示してあります。
資料館には付近の考古学的遺跡を網羅した地図がありました。力作です。
これを手に入れてから、逍遥すると2倍、楽しめますよ。

ブログ内 装飾古墳巡り
王塚古墳 福岡県嘉穂郡桂川町寿命
(1)感動の装飾壁画を知らなかったよ
(2)武人は妻と共に星の下に眠るー激動の6世紀を生き抜いた男

竹原古墳 福岡県宮若市竹原
(1)この優美な装飾壁画は通年公開!
(2)日本の古墳に火を噴くドラゴンが何故描かれている?

★大国主の命の現代語訳を始めました。また、長くなりそう…。




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# by lunabura | 2011-01-02 15:37 | <古墳シリーズ> | Comments(8)

「君が代」ゆかりの三社参り


「君が代」ゆかりの三社参り

志賀海神社・名島神社・香椎宮


アケオメ号は、やはり神社ですよね。
一年間、福岡の神社と伝承を見て行くうちに、
「君が代」が国歌になっていった流れが見えて来ました。
という事で、今日は「君が代」ゆかりのブログ内三社参りをしましょ。

志賀海神社
「君が代」が福岡市の「志賀海神社」の神事で連綿と歌い継がれているのを
知る人はまだまだ少ないようです。その一部を紹介します。
意味が分からなくても、口ずさんでみて下さい。

えびら弓たらしの歌
〇志賀の浜 長さを見れや いく夜経るらむ いく夜経るらむ
〇香椎路の あの向こうなる 吹き上げの浜に 千代に千代まで

〇今宵の夜中に 着き給いたる み船はや 誰がみ船なりけるや 
あれこそは 安曇の召されたる み船なりける
〇ゆらがやゆらか 塩屋のゆらか ゆらかゆらか

〇今宵の夜中に 着き給いたる み船なりけるや あれこそは 
安曇の召されたる み舟なりけるや
〇君が世は 千代に八千代に 細石の 巌となりて 苔のむすまで
     略   (古伝神楽歌 天保初年)

えびら=箙 
これは江戸時代に書きうつされた資料です。
数人の人が問答形式で詠みあげるようになっています。
これが現在でも歩射祭で、詠み継がれています。

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志賀海神社 拝殿
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境内の新緑

名島神社
この「君が代」は名島神社にも伝わっていました。

今宵 夜半に着き給う 御船こそ たが御船ありけるや
あれはや あれこそは 阿曇の君の召し給う 御船なりけるよ

君が代は 千代に八千代に  細石の 巌となりて 苔のむすまで

(今夜 夜半に到着なさる 御船は誰の御船だろうかなあ。
あれはなあ、あれこそは 阿曇の君が乗っておられる 御船だよ。)
この名島は今は陸続きですが、昔は文字通り、島でした。
「那の国の島」という事ですね。那の国の王の宮殿とも、離宮とも言われています。
金箔の瓦が出土しています。

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名島神社 拝殿
もともとは島の頂上にあったのが、秀吉によって、中腹に降ろされました。
今は頂上が公園化されて、誰でも入れるようになっています。
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臥龍桜

香椎宮
この「君が代」は万葉集の時代には旅芸人によって、
節をつけられて広められたようです。

明治時代になって、鹿鳴館で外国の客に日本の歌を紹介するために、
資料を求められたのが、「香椎宮」の宮司・木下美重(よししげ)氏です。
多くの神楽が香椎宮に記録保存されていたそうです。
その時に選ばれたのがこの「君が代」です。
宮内省雅楽寮の奥好義(おくよしいき)氏によって、作曲されました。
(『儺の国の星・拾遺』より)
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香椎宮 拝殿

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境内の綾杉

細石って何?
この「さざれいし」が何を表すのか、多くの人が考察しています。
今日は、真鍋大覚氏の説明を紹介します。

「さざれいし」とは砂鉄、即ち磁鉄鉱(Fe3O4)の結晶である。これを鉄に還元する名匠が伊迹師(いとし)、或いは五十氏(いそし)、後に万葉の頃は石上(いそのかみ)であった。

「いわほ」とは鉄のことである。鉄が分解して赤鉄鋼(Fe2O3)にサビとなって、苔が吸収されるまでの過程を述べた古歌だった。

しかし、この歌の内容を見る限り、砂礫が地球の造岩作用によって岩石に固結し、ついには風化して塵埃となり、草木に吸収されるまでの過程を説いたことになる。
(『儺の国の星・拾遺』)

砂鉄を集めて鉄を作りそれが再び風化するのには大変長い月日がかかります。
その長い月日ほどに永く栄える事を寿(ことほ)いだ歌だという事です。
歌の含む地球規模の壮大な風景が、国歌に選ばれた背景にあるのですね。

この三社参りは、那の国の始まりの頃の逍遥になります。
詳しくは、サイドバーから各神社を海辺の美しい景色とともにどうぞ。

地図 志賀海神社 名島神社 香椎宮





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# by lunabura | 2011-01-01 13:47 | 真鍋大覚ノート | Comments(6)

大己貴神社(1)(旧三輪町)

大己貴神社(1)
おおなむちじんじゃ
福岡県朝倉郡筑前町弥永字大神屋敷(旧三輪町)
旧三輪町の中心の宮

平成の大合併で、「三輪町」の名前が消えてる?
筑前町という名前に変わっているみたい…。
その旧三輪町に「大己貴神社」という、まるでイヅモかヤマトのような
名前の神社を見つけて、出掛けたのはずいぶん昔の事です。
冬になると何故か出雲に行きたくなる。
だから、今日はその名もゆかしい大己貴神社へ行こう。

さて、地図を広げていると、あれっ、この前行った小郡市の飛鳥と、
この旧三輪町はお隣さんなんだ。直線距離で8キロ。歩いて二時間か…。
この三輪町あたりの地名畿内の地名に関係があるのは、ずっと前から
言われていたけど、いつのまにか大学の先生によって証明されていた。
これは心強い。そういう点ではここはプロト大和。この神社はその惣社です。

福岡と日田をつなぐ県道386号線の、「久光橋」から小京都の秋月めざせば、
大己貴神社」の大きな看板があるから、すぐに分かります。
道路を隔てた所に「歴史の里公園」が出来ていて、ゆっくりと車が止められます。
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一の鳥居の左に大きな岩が。「幸神」と彫ってあります。
参道には古い石碑がいくつも並んで、歴史をしのばせます。
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石の太鼓橋が。結構これって急斜面なんですよね。
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石段を登ると、拝殿に出ました。
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朱塗りの華やかな拝殿です。
幕末から明治にかけての建造だそうです。

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扁額は「大神宮」となっています。大和の「大神神社―おおみわじんじゃ」と同じ字ですね!
そして、ここは大己貴神社。(おおなむち)やはり出雲と大和と合わせもつような名前です。
地元では「おおがさま」「おんがさま」と言うそうです。
奥に見える神殿には三面の鏡があります。これも珍しい。
今日、再びここに来れたことを感謝して、参拝。

拝殿脇の由緒書きを読みましょう。(現代語に変えました。)
大神大明神(弥永村にあり)
延喜式神名帳に、夜須郡於保奈牟智神社が一座あるというのはここの事です。祭る神は大己貴命です。今は大神(おおが)大明神と言います。社は南向きです。東の間に天照大神、西の間に春日大明神を合祀しています。宮どころは神さびて境地は特に勝れています。

日本書紀に、仲哀天皇9年秋9月に神功皇后が諸国に命令して船舶を集め、兵卒たちを訓練しようとした時、軍卒が集まりませんでした。皇后は「きっと神の御心なのだろう。」と言って、大三輪社を建て、刀矛を奉納すると軍衆が自然と集まったと書いてあります。

9月23日は旧暦のため、現在の(  )に祭礼があります。この日、神輿の御幸があります。御旅所は村の西十町ばかりの所にさやのもとという所です。その他、年中の祭礼がたびたびあったと言いますが、今はそんな儀式も絶え果てました。しかし夜須郡の惣社なので、その敷地は広く氏子も特に多いです。人々は大変崇敬していると書いてあります。     略    三輪町教育委員会

この文章は貝原益軒の「筑前国続風土記」から書き抜いてありました。
益軒の本にはさらに、異伝が書いてあったので紹介します。
『釋日本紀』に「筑前国風土記」からの引用文があって、
神功皇后が新羅を討とうとして軍士を整理し、発行した時、道中、軍士共が逃げ出しました。その理由を占った時、祟る神がいるのが分かりました。名を大三輪の神と言いました。そこでこの神社を建てて、ついに新羅を平定しました。その神社がこれです。

貝原益軒は、軍が集まらなかったという説(日本書紀)と、
集まったけど逃げ出した(筑前国風土記)という二つの説を並行して書いています。
地元の三輪町教育委員会では、日本書紀説を採用していたのが分かりました。

この大神、大己貴を祀る神社は他にもあって、福岡市の東区にも「大神神社」があり、
隣は美和台(ミワダイ)で、同じような伝承を伝えています。
この先 、二つの神社を視野に入れながら、
それぞれの郷土史にアプローチ出来たらいいなと思っています。

この神社の何よりの特徴は遥拝所があって、御神体山がある事です。
では、境内の左奥にある遥拝所への道に行きましょう。
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参道は50メートルほどの長さです。最終地点には、お神酒を供えるための台があります。

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遥拝所から見える神奈備山です。
神社で名前を伺うと、「神体山」という名で、三輪山とは言わないそうです。

この山にかつて登った事があります。
大和の三輪山のように盤座がないかなと探しに行きました。
山腹は苗木が植林されていて、その間を抜けて、森の中に入って行きました。

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頂上付近に盤座らしきものが一つありました。(1996年撮影)
頂上全体は森になっていたと記憶しています。

ここは「御神体山と遥拝所と神社」という基本パターンが見られる点で、
また、畿内に移動していった地名の元の地であり、その中心の宮という点で、
大変興味深い神社です。

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# by lunabura | 2010-12-28 15:20 | 大己貴神社・おおなむち・朝倉郡 | Comments(2)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『豊玉』『星の迷宮へのいざない』   Since2009.10.25