2010年 03月 31日
梶谷城跡 水軍松浦党の根拠地に行ったよ
梶谷城跡
かじやじょう
長崎県松浦市今福町
360度展望の山城あと
水軍松浦党の根拠地に行ったよ
長崎県と佐賀県の県境に近い松浦市の県道沿い。
梶谷城跡という小さな案内板に導かれて、細い車道を上って行きました。
普段は農道として使っているような道です。
くねくねと曲がってほどなく、立派な門構えのある駐車場に出ました。

屋敷の一部が復元されているのでしょうか。
説明板がないので、よく分かりません。この建物の中はトイレです。
ここに車を置くと、さらに歩いて登ってかなければなりませんが、すぐ、城址に辿り着きました。
整備された階段を上ると、いきなり絶景が待っていました。

伊万里湾です。
ここにも数台止められる駐車場がありますが、桜の頃は下から歩いてくる方が無難のようです。
案内板がある所から、さらに数メートル登ると、360度の展望が開けていました。
ここは、半島の頂上です。
東西南北に島と海、入江と、複雑な海域が手に取るように見えます。
水軍松浦党の居城とか。
ここからは、海の上を通る船はすべて把握出来ます。
山城としては、1400年代に建てられたとしても、
明らかにここは古代から利用された所だと思いました。

(西の方を見る)
この梶谷城跡の素晴らしい点は、余計なものがほとんどない事です。
そのお蔭で、ぐるりと回るだけで360度の展望を見る事が出来ます。
足元を見れば、城壁などが崩れながらも、昔の姿を留めています。
何もない。(奇蹟に近い)
この景観こそ、後世への最高の贈り物だと思いました。
古代から、中国方面への海路はここを経由せずには行けませんでした。
水、食糧、水先案内など、絶対不可欠の地です。
多くの文化と宝物が流れ込み、人や技術が集まったと思われます。
要請があれば、戦闘員としても働いたのでしょう。
それが水軍・松浦党と、歴史に名を留めています。

この半島の標高は200メートルたらず。頂上には天守閣跡の丘がありました。
写真の階段を上ると平坦な土地です。実用的な小さな天守閣が建ったと思われます。

反対側に少し下ると、石垣が残っていました。
説明板があったので、書き写します。
梶谷(かじや)城は、松浦党の初祖・源久公が築城したと伝えられており、
築城年代は延久元年(1069)、嘉保2年(1095)、久安元年(1145)などの諸説がある。
いずれにしても、松浦党の初期の居城として平安時代末期に築城され、
相当長年月にわたって断続的に利用された松浦党の重要な山城である。
城は山頂部を楕円形に削平して本丸とし、南側に一段高くなった物見台跡がある。
本丸の北側には、西側の大手門からのびた長さ18m、高さ5mの城壁がめぐらされている。
大手門は石垣を枡型に配し、門の南側に櫓跡がみられる。
本丸の北側には、一段低くなった二の丸が配置されている。
城の西側50m下位には山際にそって長さ200m、幅40mにわたって館跡があり、
石壁・石塁・門などが残っている。
梶谷城は、松浦党発展の跡を探るうえにきわめて重要な城跡であります。
昭和46年 長崎県指定史跡
平安末期にはここに城が出来たという事ですが、もちろん、ずっと昔から重要拠点だったはずです。
松浦の語源は北極星と満天の星
松浦の語源について、『儺の国の星』に書いてありました。
神功皇后の頃の漢人(中国人)は、末廬(まつりょ)と呼んだ。
末とは地球の自転軸の方、即ち北極の事。廬とは満天の星座の総称である。
そうすると、松浦とは「満天の星空の中の北極星」という意味になります。
魏志倭人伝には「末廬国」と紹介されています。
「まつりょ」→「まつろ」→「まううら」となったのでしょう。
この城跡に立つと、自然に北に目が行きます。
夜になると、正面に北極星が見え、
そして、重要な航路である、壱岐・対馬の方角を睨む事が出来ます。
昼でも、夜でも、見張りのものが交代でこの海を見たのでしょう。
何かがあれば、狼煙を上げてすばやく連絡が取れそうな、そんな地形でした。
古代そのままの絶景の残る、素晴らしい山でした。

地図
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