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ひもろぎ逍遥

馬見神社(2)そうすると、ここは天孫降臨の山になってしまうが…。


馬見神社 (2)
福岡県旧嘉穂郡足白村大字馬見字宮小路
上宮の白馬大明神とはニニギノ命だという。
そうすると、ここは天孫降臨の山になってしまうが…。


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霧が晴れていく中を登ったせいでしょうか、しっとりとした、この空間では
五感が開かれていく感じがしました。

ここが、古代の人々が憧れた所です。それが、清浄なまま、静かにたたずんでいました。
もう一つの大事な山・英彦山の方は今でも多くの参拝者を迎えていますが、
この馬見神社はほとんど知られていないようです。

でも、エネルギーとはそのようなものかも知れません。陽があれば、陰がある。

ここは人知れずにいたお蔭で、数百年の昔そのままの姿を残しています。
それでも、営々と築かれた石段や鳥居、神殿を見れば、
氏子さんたちがどれだけ大切にしてこられたかが、良く分かります。

馬見神社(2)そうすると、ここは天孫降臨の山になってしまうが…。_c0222861_2035515.jpg



忘れられた聖地が紐解かれるのかもしれない。
ここは遠賀川の源の一つです。
ここに向かって、荒穂神社―日天宮―馬見のレイラインがうっすらと見えたのは、
日天宮荒穂神社に行った時でした。
御祭神がニニギの命と、祀られていない荒穂の神。複雑な歴史を匂わせていました。

さらに下流の多賀神社に行って知ったのは、
イザナギの命が多賀の地に玉を鎮めた理由が英彦山と馬見山を控えた丘だったからという事でした。
この馬見山に向かう古代の人々の視線。それが気になって訪れました。

ここの御祭神はこれに呼応するかのように、イザナギの命ニニギノ命の名前がありましたよ。

神社入り口に手書きの由緒書きが貼られていました。
馬見神社由緒
1祭神  伊弉諾尊(イザナギのみこと)
     天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)
     木花咲哉姫命(このはなさくやひめのみこと)
      (大山津見の女(むすめ)日本一の美人神)

2 祭日   4月18日
       10月30日

3 由緒 ○上宮の創立は不詳であるが、3千年前と言われる。
       馬見山頂(987M)の頂上近く御神所(ごしんじょ)岩の
       巨岩あり、ここに鎮座。
       瓊瓊杵尊は天孫降臨の御神で、日本民族の祖。
       比類なき神徳をもって尊崇される。
       ○中古仏法隆盛の頃、約1300年前、鎮西八郎為朝現在の神社(下宮)建立。
        また神木寺も建つ。
       ○天正前後、武家政治となり、秋月藩主秋月種実公、毎年参拝せられ尊崇を集めた。
       ○黒田藩となり嘉穂郡の総社として、代々尊崇あり。
        2月、8月、5昼夜の五穀豊作の祈願祭を行う。
       ○大正12年11月24日。県社に定めらる。宮司江藤貞利氏。

       ○福岡県神社誌によれば、神武天皇ご東征の時、ここに参拝せられ、
        その御神馬が足が白い馬で(足白)又、馬見の地名が起こったとも言われる。

4  境内2500坪。
   郡内最高の景勝地にあり、又馬見キャンプ村、又リンゴと梨の産地として、
   その美味は県下に知られて有名である。
                            平成8年春   縄田小観 記
        (句読点のみ追加しました)

御祭神はまず、イザナギの命でした。
それに、ニニギノ命コノハナサクヤ姫の夫婦神です。

由緒には「その祭神は分からない」と書いてありますが、すぐ続けて、ニニギノ命の
天孫降臨の話が書いてあるので、本当は、「ここはニニギノ命の降臨の地だ」と、
言いたいのではないかと考えました。

由緒については他の本にも載っていたので書いてみます。
『筑前国続風土記附録』から抜き出します。
馬見大明神社
産土神である。御祭神は天津彦ホホデミの尊・ニニギノ命であって、賀茂大明神・荒穂大明神をも相伝に祭っている。
馬見山が東にそびえ、渓水が西に流れて、人里離れて潔浄の宮所である。馬見山の山上に社があって、白馬山大明神ともいう。どんな神を祀っているか分からないという。

ここでは、御祭神に、イザナギの命の名はありません。その代りに、ホホデミの命が出て来ました。
ニニギノ命の子供です。山幸彦の名の方が有名です。

また、山頂の神は白馬大明神だと言っています。どんな神なのかは分かっていません。
二つに共通するのはニニギノ命でした。そろそろ系図なしには理解が出来ませんねえ。
(と言って、パッと出てくる。親切ですねえ。)

馬見神社(2)そうすると、ここは天孫降臨の山になってしまうが…。_c0222861_2045121.gif


三つの由緒書の祭神を色分けして囲みました。
これで分かるように、共通するのはニニギノ命でした。

江戸時代のガイドブック『筑前名所図会』にも、白馬大明神について書いてあります。

馬見大明神
古宮は馬見山上にあり。
御神域という大岩の辺に石の祠あり。
今の社は山下にあり。
白馬大明神とも申して、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)なり。
この神、葦毛の馬を忌むという。
この里に飼うを忌むのみならず、
他のことろから来ても、村の方で留めて置くという。

ここでははっきりとニニギノ命が白馬大明神だと書いています。

○福岡県神社誌によれば、神武天皇ご東征の時、ここに参拝せられ、
その御神馬が足が白い馬で(足白)又、馬見の地名が起こったとも言われる。

このように、神社の由緒書きには神武天皇もここに来て、
その馬の脚の色が白いので、馬見の地名が起こったと書いています。

この神社の地名が旧嘉穂郡足白村大字馬見字宮小路です。

神武天皇と馬については、馬が暴れて逃げたのを見送ったというエピソードや、
また、老人が馬を提供して、天皇を見送ったという話もあります。

これらから推測すると、全体に流れるモチーフは、
山頂にニニギノ命が白馬大明神として祀られていて、後に子孫の神武天皇が参拝された

という事のようです。
その時、馬が暴れて逃げたなどという何らかのトラブルがあったのでしょう、
その毛色の馬がタブーとなったり、地名が起こったりしたようです。

3000年前について
神社の由緒書きには始まりは3000年前の事だと書いてあります。
縄文時代になります。縄文です…。でも、もう驚かなくなりましたよ。

神武天皇は2600年前と(日本書紀から計算して)言われています。
年代については、例の如く、暦の大家の真鍋大覚氏が、訂正せずに、このまま使ってあるので、
それに倣いたいと思います。

ニニギノ命は神武天皇のご先祖ですから、3000年というのも、そう見当違いではないかとも思いました。
この辺りの神社にはこんな古い年代がどんどん出て来ますよ。

古い遺跡が出ているよ

ここからずっと下った盆地の中央に位置する飯塚市の立岩遺跡が2000年前の頃のものだそうです。
2000年前と言えば、キリストが生きていた時代です。これで、覚えやすいですよね。

鏡の完品が沢山出ていて、大変価値のある遺跡だと言う事を知りました。
(飯塚市歴史資料館は撮影禁止だったので、そのお洒落ぶりをお見せできないのが残念です。)

この馬見地区からは、その立岩遺跡よりも、もっと古い遺跡が出ているそうです。
この山の近くには早くから人々が住んでいたのですね。
3000年前という数字も、それほど無理な数字ではないと思いました。
そのころには、すでに馬見山への信仰があったという事でしょう。

ここの文化圏の氏族たちが馬見山をニニギノ命の降臨の地と考えて祀っていた
というのが伺えます。
言葉に出すのをはばかる内に、忘れ去られてしまったのでしょうか。
(つづく)
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# by lunabura | 2010-03-28 21:02 | 馬見神社・うまみ・嘉麻市 | Comments(26)

馬見神社(3)うまみ・ホを受け継ぐ一族がいた


馬見神社(3)

系図から見えて来たこと
ホを受け継ぐ一族がいた


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このエリアには父と子が配置されている

この馬見山は英彦山とセットで捉えてお話しています。
英彦山に降臨したのが天の忍穂耳の命で、馬見山に降臨したのがニニギノ命です。
二人は、父と子です。いわゆる天孫。天皇家の祖先です。

このファミリーにはもう一つ大事な人がいます。ニニギノ命のお兄さんのニギハヤヒの命です。

ニギハヤヒの降臨地としては大和の国が有名ですが、このエリアにもまた降臨した山が伝えられていました。
ここからは、ずっとずっと下流になります。

この三柱のファミリーをそれぞれの山に配置した氏族がこの遠賀川流域にいたという事です。
彼らの神々は「」という単語でつながっていました。
それが次の系図です。

馬見神社(3)うまみ・ホを受け継ぐ一族がいた_c0222861_1421888.gif

天照大御神には五人の男の子がいて、そのうちの二人にホがついています。
それから孫、ひ孫の世代はの○○という形です。漢字ではこう表記されています。
正勝吾勝勝速日天忍穂耳命
天の卑能命
明命
天邇岐志国邇岐志天津日高日子の邇邇藝命
照命
須勢理命
遠理命(天津日高彦穂穂手見命)

「穂・火・番・菩」はどれもと読みます。

地名もこの辺りは波、嘉と、筑がつくものがいくつもあります。
高千も穂がつきます。
豊葦原の瑞の国。(ここは豊の国)

昔は漢字がなかったので、発音がたよりでした。
このファミリーはホの血筋である事が分かるようにネーミングしています。
彼らは、いわゆる天孫ですが、これまでの固定観念を捨てるために、この一族を
ホの一族と呼んでみたいと思います。


結婚の系図


結婚の系図を見ると、ホの一族がどうやって、他部族と融合して行ったかが見えて来ました。
次の系図はアマテラスの子供、孫、ひ孫の結婚の図です。

馬見神社(3)うまみ・ホを受け継ぐ一族がいた_c0222861_1443365.gif


高木神の一族と結ぶ
ホの一族はまず高木の神の一族と婚姻関係を結びます。
この高木の一族はアンドロメダをシンボルとする人たちでした。

その事は高良大社の所に書いていますが、かれらは、歳差運動のために、
観測地点がずれてきたために、移動したのではないかと、推測しましたが、
神社誌を見ていたら、この嘉穂盆地にたくさんの高木神社が出て来ました。
すると、高木の一族はこのエリアにかつて居たのではないかと考えました。

久留米から嘉穂に来たのか、嘉穂から久留米に行ったのかは分かりませんが、
私の仮説を裏付ける可能性があります。
高木神社については英彦山とも関わるので、詳しくはそちらで検討したいと思います。
いずれにしろ、高木の神の一族の近くに、ホの一族がやってきて、
高木の王女と結婚する事で、平和裏に同族となったのではないかと考えました。

大山津見の一族と結ぶ
上の系図の第二世代を見て下さい。
ホのニニギの命は大山津見の神の王女と結婚する事で、大山津見の一族と結びつきました。

海人族の一族と結ぶ
それから、また次の世代になって、大綿津見の神の王女たち、豊玉姫や玉依姫と結婚する事で、
海人族たちと結びついて行くのが、この系図で読み取れます。

ホの一族が日本にやって来た時には、すでにいろんな国があったのでしょう。
そこで、彼らは武力を使わずに、結婚によって融合していく方法を取ったのがよく分かります。

それぞれの国には土器・武器・船・馬の飼育など、優れた文化があります。
それらは技術者たちで支えられているので、戦争ではその技術を手に入れる事が出来ません。

そこで、結んで行く事で互いの文化を交流させて行ったと考えました。
どの国とも親戚となることで、単一民族の意識が養われていったのではないでしょうか。

(つづく)

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一番保存状態のよい絵馬です。

# by lunabura | 2010-03-27 14:23 | 馬見神社・うまみ・嘉麻市 | Comments(0)

馬見神社(4)うまみ・白馬大明神とは彗星のこと?・日本に隕石が落下していた

馬見神社(4)

白馬とは彗星の事かなあ
日本に隕石が落下した記事を発見

馬見神社(4)うまみ・白馬大明神とは彗星のこと?・日本に隕石が落下していた_c0222861_17231715.jpg


縄文時代に馬はいたのだろうか
このあたりは、やたらに馬が出てくるよ


地名や伝承、神社に奉納された馬、など、
この遠賀川流域には馬がよく出てくるのが気になりました。

日本の馬がいつからいるのかについては、神功皇后が新羅から連れて帰ったというのが
定説だと書いた文を読んだ事ガあります。

定説は書き換えられる事になりそうだ。

ところが、新宮町町史には、仲哀天皇と神功皇后が、騎馬訓練をした場所が掲載されています。
その地名を的野(まとの)と言います。これは当然新羅に戦闘に行く前の訓練です。
ですから、神功皇后が新羅から連れて帰ったという定説とは符合しません。

同時代を記す魏志倭人伝には「日本には牛馬がいない」と書いてあるのですが、
昨年でしたか、壱岐(いき)の島の遺跡から馬が一頭まるまる出土しました。
これで、日本には古くから馬がいた事が証明されました。

(ネットを検索すると、縄文時代に馬がいた事を証明するサイトがあります。)

縄文時代から日本には馬がいたと考えてよいようです。

念のため、地元の歴史愛好家にも聞いてみると、この辺りは古来、馬の飼育が盛んだったのだそうです。

なぜこんな事を確認したかと言うと、三千年前に白馬大明神が降臨したという伝承を考える時に、
その時代の人が馬を知っていないと、話にならないからです。

古代の人たちは馬をよく知っていました。これを前提にこの先を考えていきます。

白馬大明神とはなんだろうか。

3000年前に馬見山山頂付近に降臨した神。それを白馬と人々は名付けた。
これを考えていたら、ふと、星の事も知れないと思いました。

考えている間、何度も心に蘇るシーンがあったのです。それはヘールボップ彗星です。

飛行機に乗っていた時、「彗星が見えます」とアナウンスがあって、窓から見る事が出来ました。
大阪あたりの大きな山塊の上空に白い斜めの筋が見えました。動かない白い筋の光
とても不思議な光景でした。

馬見山の上に彗星が現れたら、これを人は白馬と呼ばないだろうか。


彗星は接近しながら同じ所に夜な夜な現れます。そして、いつか消えてしまいます。
その彗星が山頂にかかったら、白馬大明神が降臨したと言うのではないだろうか。

そこで、『儺の国の星』を開くと、流れ星を白馬に例えた記事が載っていました。
日本に隕石が落下した記事でした。

隕石の古語は「かたいし」でありました。「かた」とは「かかち」の略で、星の事であります。
昔、大隕石が落下して破片を地上に散らせたところを「かたかす」と呼びます。
博多の堅粕(かたかす)もその地であったらしく、推定2663年前の隕石が地下から発見されております。

「九州治乱記 巻7 
1465年9月13日夜
明月だといって、老若月を眺めていると、
西の空に大きな星が流れて、東の空に飛んで行き、
落ちた音はもう、雷のようで、
これを見聞きした者はみな地に倒れて気を失った。
近年は(隕石の落下が)続いていて、
こんな天災は古今聞いた事がないと、人々は話していた。」
(綾杉が現代語訳しました。)


これは九州島の近くに墜落した大流星の記述であります。
隕石口は「かさをり」と呼びます。奄美笠里(かさり)がこれであります。

流星が落下する時のすさまじい閃光と轟音と風圧を、
昔の人は千頭の白馬が疾駆するさまにたとえました。
奄美の伝説は、その時、天から白馬がおり、
一瞬にして天地が燃えたと語りますが、今も焼け焦げた根株が残り、
その場所は、5メートルも海の底に沈んでいると聞きますから、
今から500年昔の実話であったとききます。


中国での、彗星の記事も載っていました。
紀元前2279年、紀元前1098年と、彗星の記録が紹介されています。
彗星を鳳凰に例えていたそうです。

日本でも、11世紀に、記録がありました。(漢字がよく読めないので省略します)

昔は彗星の尾がかかる山を観と定めて、ここに天神地祇を祭った。
その観のあるところが国府であり、日振(こふれ)の略だった。

やはり、彗星が現れて、山に尾がかかると、ここに天地の神々を祀っています。
(観と国府については、よく分かりません。)

『儺の国の星』には、計算法が詳しく書いてあります。
天子のみが暦を支配できるのですが、この記録は天子というより太子の仕事だったそうです。

これらを踏まえると、やはり、馬見山に降臨した白馬とは、彗星か、流れ星ではないかと思いました。

馬見神社(4)うまみ・白馬大明神とは彗星のこと?・日本に隕石が落下していた_c0222861_17223066.jpg


ニニギノ命がいた時代に彗星が現れたのが伝承となったのでしょうか。

いずれにしろ、ここに天孫を祀った氏族がいたのは、間違いありません。
それが誰なのか。意外にも他の神社の記録に見つける事ができました。
現地に行ったら、紹介したいと思います。

と言う事で、それまで、別のところを逍遥しましょ。

追記
その答えが日若神社で分かりました。
右のカテゴリからどうぞ。
 
# by lunabura | 2010-03-26 17:31 | 馬見神社・うまみ・嘉麻市 | Comments(4)

多賀神社 (1) イザナギとイザナミの夫婦神を祀る宮

多賀神社 (1)
福岡県直方市
イザナギとイザナミの夫婦神を祀る宮
シンボルはセキレイと桃の子だよ


多賀神社は小高い丘の上にありました。長い石段が堂々と高く高く伸びています。

駐車場へは、丘を迂回して、裏側から上ります。
境内がとても広い上に、直方の町がぐるりと見渡せる、神が鎮座するにふさわしい一等地でした。
山門がかなり大きいです。

多賀神社 (1) イザナギとイザナミの夫婦神を祀る宮_c0222861_20321525.jpg

これをくぐって行くと、本殿。
多賀神社 (1) イザナギとイザナミの夫婦神を祀る宮_c0222861_20325177.jpg

おお、これもまた大きい。
創建は不明ですが、江戸時代や炭鉱時代に、大変あつく信仰された所のようです。

お祭りも、大名行列があって、平安時代から江戸時代までの衣装の人々が練り歩くのが見られるそうです。
御神幸は御輿(みこし)でなく、神馬に載せられてのお渡りとか。御輿でないのは全国でも珍しいそうです。
そうそう、馬を見に来たのでした。

多賀神社 (1) イザナギとイザナミの夫婦神を祀る宮_c0222861_2033288.jpg

等身大の立派な像です。

さあ、御祭神はどなたでしょうか。
由緒書きがありました。(口語訳)
御祭神 イザナギの大神とイザナミの大神。
寿命の神である多賀大神は天照大神のご両親で、この宮は古く日の若宮と言いました。
奈良朝の養老三年に再建し、天平八年に妙見(みょうけん)大明神と称えました。
ここにはイザナギとイザナミの夫婦神が祀られていました。
この二人の神が生んだ子供の数は大変な数です。
日本の島々を生み、海や山や自然の神々を生み、最後の最後にアマテラスを含む三貴神を生みました。

ちょうど、この二柱の神を現代語訳した所ですが、この二柱が日本神話の中枢にある、
大事な神々だというのがよく分かりました。

夫婦の始まりであり、出産、死去、子殺し、死後の世界、禊、国生み、神生みと、
あるいは人口の増加の謂われ、などなど人間の普遍的な営みをシンボル化した夫婦の神なのです。

この神社のシンボルは鶺鴒(せきれい)と桃の実だって!
なるほどですねえ。
セキレイとは、雀の大きさの可愛らしい小鳥です。白と黒色で、尻尾がシュッと長く伸びています。
(よく、自動車のサイドミラーに映った自分を見てる変わった鳥です。)

この鳥は尻尾を上下に振り振りして歩きます。
これを見て、イザナギとイザナミの神は夫婦の交わりの方法を学んだといういわれがあります。
だから、セキレイと言えば、夫婦の円満を象徴する鳥なのです。

桃の子は、この夫婦が死に別れした後のエピソードから来ています。
黄泉の国に妻を探しに行ったイザナギですが、約束を破って妻の亡骸を見てしまい、
恐れおののいて逃げ出してしまいます。イザナミはそれを恥じ、追っ手を差し向けます。

次は古事記の該当の部分です。

(イザナミの命が差し向けた)軍勢はさらに追いかけて来て、黄泉比良坂(よもつひらさか)のふもとに着きました。その時、イザナギの命が、そこに、なっていた桃の子を三つ取って、待ち構えて投げつけると、みんな逃げて帰りました。

そこで、イザナギの命はその桃の子に言いました。
「お前は、私を助けてくれたようにして、葦原の中つ国にいるすべての青人草(あおひとくさ=人々)が苦しい瀬に落ちて憂(うれ)い悩む時に助けてあげなさい。」
と言って、オオカムヅミの命と名を授けました。

こうして、助けてくれた桃の子に大神の実という名前を授けました。
桃って可愛らしい姿をしながら、災いを払ってくれるすごいパワーの持ち主でした。
この桃の子が神社のシンボルです。

お祭りには桃のお菓子が与えられるそうですよ。魔を払い、人々を幸せにしてくれる。
神話の世界が今でも生きていました。

セキレイや桃と言えば、イザナギとイザナミの事だって、昔の人はよく知ってたんですね。

(つづく)
二人の神について、現代語訳しました⇒サイドバー
次回はここが妙見神社となった訳にチャレンジです。



# by lunabura | 2010-03-10 20:47 | 多賀神社・たが・直方市 | Comments(0)

多賀神社(2)ここは北斗七星を祀る宮だったよ


多賀神社 (2)
ここは北斗七星を祀る宮だったよ

多賀も妙見もイザナギ夫婦も
みーんな同じ星座の事だった

多賀神社(2)ここは北斗七星を祀る宮だったよ_c0222861_17391222.jpg

今日も由緒書きをひも解いて行きましょう。

御祭神 イザナギの大神とイザナミの大神
寿命の神である多賀大神は天照大神のご両親で、この宮は古く日の若宮と言いました。
奈良朝の養老三年に再建し、天平八年に妙見(みょうけん)大明神と称えました。
この由緒書きにはこの宮が日の若宮とも言っていたと教えています。
なんともゆかしい名前ですね。

また、奈良時代になると妙見大明神と称えたとも書いてあります。
すると、イザナギ・イザナミ夫婦を妙見大明神と呼んだんだ。
どういう関係があるんだろ。今日はその由来を考えてみました。

辞書で確認すると、妙見とはもともとは北極星の事でした。
のちに北斗七星とごちゃまぜになったそうです。

その原因は歳差運動のせいじゃないかな~
もともと5000年前の中国では天子のシンボルが北極星でした。
当時は竜座のツバーン星が北極星として真北に輝いていました。
ですから、天子のシンボルは竜とツバーン星になりました。

ところが、歳差運動のために北極星は移動して行き、数千年たつと真北には星が無くなりました。

そんな時代に、北極星の信仰は、言葉だけは残っているのに実際に星が見当たらないので、
人々は近くにある北斗七星を当てはめるようになったのではないかと考えました。

それから、さらに数千年たった現在、私たちの夜空にはポラリスが北極星となって輝いています。

こんな事情で、妙見は北斗七星でも北極星もOKになっちゃったと考えました。
(歳差については、高良大社でも少し書いてます。)

それじゃあ、この多賀の地に祀られたのは
北斗七星かな、北極星かな?


その手がかりはイザナギとイザナミにありました。
『儺の国の星』によると、北斗七星のうち、四角い枡(ます)がイザナギで、
三つの星の柄(え)がイザナミだと言い伝えていました。

柄が、はまる所がタガ(多賀)です。
こうして、北斗七星を多賀の星と呼んでいました。

多賀神社(2)ここは北斗七星を祀る宮だったよ_c0222861_1743035.jpg

(ついに星座が作れるようになりました!)

まとめてみると、北斗七星をイザナギ・イザナミの神に例えた氏族がいて、
多賀の星と呼んでいたけれども、仏教が入って来たので、新たに妙見とハイカラに呼び方を変えた
と解釈しました。

いずれにしろ、ここは北斗七星を祀る聖地でしたよ。
氏族によって、聖なる星が違うので、ここの里人は北斗七星。
覚えておかなくちゃ。
(つづく)

# by lunabura | 2010-03-09 17:54 | 多賀神社・たが・直方市 | Comments(4)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『豊玉』『星の迷宮へのいざない』   Since2009.10.25