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ひもろぎ逍遥

高天原(1)志賀島の海に高天原があった


高天原(1)
福岡県東区志賀島弘
志賀島に高天原があった

なぜ海の中に高天原がある?

2000年前の博多の姿

高天原(1)志賀島の海に高天原があった_c0222861_1784351.jpg


ここが福岡県の志賀島の高天原の海です。博多湾に面しています。
海の向こうに見えるのは福岡市内です。
(デジカメのオートで撮ったために、暗く写っていますが、これはお昼に撮りました。)

こうして情報が入ったよ。

志賀海神社の宮司さんが
「志賀島には高天原という所がありますよ。」
と言って、地図を示してくれました。
確かに高天原と書いてあるのですが、そこは海でした。
「なぜ、そこを高天原というのかは分かりません。」とも。

高天原といえば、宮崎県の高千穂あたりかと思っていたので、
福岡県にそんな地名があるとは、驚きです。
それじゃあ、行って来なくっちゃ。

という事で、志賀島の勝馬の沖津宮からの帰りに寄ってみました。
時計とは反対回りです。
さっきまで、あんなに綺麗な沖津宮の所にいたのに、
再び、車を止めてみたくなるような景勝の地です。

その浜に降り立って驚きました。正面に玄海島が、大きく見えます。
福岡沖地震の後、テレビに何度も映し出されたので、
見ると、すぐにそれだと分かりました。

地震で破壊された町には、真っ白なビルが建っているのが、
こちら側からもよく見えます。こんなに近いんだ。
高天原(1)志賀島の海に高天原があった_c0222861_1792247.jpg

この玄海島の向こうの方にも大きな島が見えます。
しかし、よく見ると、島ではなくて半島でした。
糸島あたりの半島がすぐそこに見えていました。
博多湾の奥には、町が見えます。

船で博多湾に入港する時には、たくさんの緑の島々の間を
縫って入って行くので、その変化にわくわくしますが、
ここ高天原からは、それが一望できました。

それにしても、この海になぜ高天原の名前が?
確かに綺麗な海ですが…。

そこで天原の意味を調べました。 

この海が高天原だという謎を解くヒントはやはり、『儺の国の星』にありました。

その本には、「高天原」は載っていませんが、「天原」について、何箇所か書いてありました。
いくつか抜き出しましょう。

あまのはらとは船に泊まる氏族の邑(むら)のことであった。
筑紫の西の多島海であった。

古代の筑紫の西側はまだかなり海の中で、島がたくさんありました。
そこには、船に泊まる氏族がいて、その一帯をあまのはらと呼んだという事です。
昔、筑紫の国はその中央を、北から玄界灘、
南から有明海の荒穂(あらほ)、即ち滔々たる海流が貫いていた。
東なるを宇佐島と言い、西なるを天原(あまのはる)と言った。
―略―
宇佐島を昔は右佐島と呼んだ。
そして天原左佐島とした。
今、大分県豊後宇佐(うさ)にそのままの郡名と、長崎県肥前松浦左左(さざ)に郷名が残る。

筑紫(ここでは北部九州全体を指す)では、中央を海流が南北に流れていました。
北は玄界灘から、南は有明海から海流が流れ込んで、太宰府辺りで、ぶつかりあいました。
その二日市水道の東側を宇佐島、あるいは右佐と言い、
西側を天原あるいは左佐と呼んだという事です。

右佐と左佐の由来は星の名前から来ている。
「右佐」とは竜座のツバーンのことで、「左佐」とは大熊座のポラリスのことです。
北極星がツバーンからポラリスに変わる間、北極を示す目星がありませんでした。
ですから、当時はこれらのツバーンとポラリスが北を教えてくれました。

この地の人々は星空の大切な星の名を、東西の島に名付けたという事です。
(そう言えば、高良玉垂宮や志式神社に出て来た
二つの玉がこのツバーンとポラリスでしたね。)(⇒詳しくは高良大社に)

実際に宇佐と「ささ」という地名は、大分県と長崎県に現在も残ってます。
天原を「ささのうみ」と言った。
弦月型の葦舟(ささらぶね)が往来する多島海、古人のいう千顆海(ちかのうみ)であった。「ささなみ」は「しか」の冠辞である。
『儺の国の星・拾遺』より

(天原を「ささのうみ」とも呼びました。
それは、三日月形の「ささらぶね」が往来していたからです。
海域には沢山の島があって、それを古語で千顆海と言っていました。
枕詞の「ささなみの」は志賀にかかりますが、それはこの地名から来ているという事です。)

志賀島の語源は近い島と言われたりしますが、そうではなくて、
昔は多島海を千顆海(ちかのうみ)と言っていて、
それがしかの島と変わった訳ですね。

枕詞として有名な「ささなみの」は「志賀・なみ・寄る・夜」などにかかりますが、
「ささの海」に浮かぶ「ささらふね」から来ていたとは、もう誰も知りません。
暦法家の家だからこそ、言い伝えたのでしょうね。

葦舟は本当にあったのだろうか?

それにしても、古代の日本に葦舟があったとは、考えたこともありませんでした。
そこで考古学の本を見ると、竹舟があったと書いてあります。
竹舟なら、『古事記の神々』で、「豊玉姫」を訳した時に、
山幸彦が、それに乗るシーンが書いてあります。その部分を書き出します。

 私はどうしようもなくて、海辺で嘆いていたら、塩土の神がやって来て、
『どうして日の御子さまが泣いていらっしゃるのですか。』
と聞いてきます。
それで事情を話すと、塩土の神は
『よい考えがあります。』と言って、
竹で編んだ小船を作って、私を乗せてこう言いました。
『私がこの船を押し流します。
日の御子さまはそのまま潮の流れに乗って下さい。
すると、綿津見の神の立派な宮殿に着くでしょう。

実はこの時、訳しながら、「ん?竹舟があったの?」と驚いていました。
今、考古学の本にそれが書かれていたのを確認して、やっと納得です。

でも、葦舟の記述はまだ見つけていません。
それでも、竹の舟があるなら、十分可能性があります。
腐れやすいので、発掘される事はないのでしょう。

南米のチチカカ湖の葦舟なんかは今でも現役です。
あれを見ると、葦舟でも博多湾を島から島へと行き交うのには
十分なんだろうなと思いました。

古代の天原を、まとめてみるとこうなりました。

福岡県には、かつて二日市水道(針摺の瀬戸)が南北に流れていた。
その海流が南北から流れ込んで、太宰府辺りでぶつかり合っていた。
そのために筑紫は東西の島に分かれていた。

東側を宇佐島とか右佐の島(うさのしま)と呼び、
西側を天原(あまのはる)とか左佐(ささ)の島と呼んだ。
そこには、葦のささら舟が行き交っていた。そこで、ささのうみとも呼んでいた。
それをアマのハラと呼んだ。
また、古代には船に泊まる氏族がいた。かれらの村もアマのハラと呼んだ。
(そう言えば、アマは海人、海女に通じますねえ。)

 「天原」は分かったけど、「高天原」は? 

福岡県の地図を見ると、「高天原」のある志賀島は天原(博多地区)の最北端に位置していました。
「高」は美称や敬称に使います。
「天原」の北端、あるいは聖地という意味で、「高・天原」と言ったのではないかと思いました。

これらの事から、「高天原」は、「沢山のささら舟が行き交う多島海の聖地」
というほどの意味ではないかと、思いました。


地図   高天原  二日市の針摺  佐々  宇佐




次回は浜辺でできる地震予知法を紹介します。


# by lunabura | 2010-02-04 17:50 | 志賀島の各地 | Comments(10)

高天原(2) 砂鉄による地震予知の方法

高天原(2)
福岡県福岡市東区志賀島弘
真鍋大覚に学ぶ地震予知(1)

「地震とナマズの伝承」は、
浜が砂鉄で真っ黒になる事だった。


福岡市の志賀島の高天原の海です。
高天原(2) 砂鉄による地震予知の方法_c0222861_20211125.jpg

この浜には荒磯があって、ごつごつした岩が波に洗われています。
砂の色は、黒みがかった灰色です。砂鉄が行く筋も走っていました。
「砂鉄だ。」
懐かしいなあ。子供の頃は磁石で遊んだっけ。

そう思いながら帰ったのですが、その夜、真鍋大覚氏の本を読んでいると、
浜辺の砂鉄と地震予知についての記述を見つけました。

「地震とナマズ」の伝承は、浜辺の砂鉄が真っ黒になる事だった!
日本は太古から噴火が多い。降り落ちた灰は地熱と日射で分解して砂鉄となる。
これを駿河で「はまな」、石見で「はまだ」、筑前で「はまを」と言う。
又、肥前では「ぬち」、肥後では「うと」と言う。

波打ち際に沿って、干潟の浜に行く条もの縞模様が、或いは濃く、或いは淡く、えんえんと連なる。
漁師はこれを見て、海が荒れるか、和らぐかを見極めた。

特に地震の直前は、海底からの無数の気泡が間断なく噴き上がるので、思い砂鉄の粒はいつもより多量に海水の中に浮き上がり、これが長い波に大きく寄せられて、浜に上がる。
浜は一面に炭の屑を厚く固めたかの如く黒く敷かれる。

かつて、漢人が日本の西海に如墨という国名を記録した理由はこの青黒い海の色を見ての事ではないか。

地震鯰(なまず)のことわざは上流の火山を水源とする大河の口に(住む)漁師であれば(分かっていて)、日本のいたる所で(起こる)津波の、地磁気の(観察)から生まれたことわざであった。

鯰の黒い背の色はまさに「ぬち」の塩水にぬれた色そのものであった。漁師は水の底に巨大な鯰を空想して、これが地震の前になると里人に教えていると考えていたのである。

砂鉄を肥後で「なぎ」、伯耆で「のぎ」、越後で「ねぎ」、美濃で「なへぎ」という。
地震即ち「なゐ」(地震の古語)で、ゆり動いて煽り出るからと説かれている。

『儺の国の星・拾遺』より  (一部、読みやすく追加、変更しました)

地震の前にはナマズが暴れる」ということわざの由来が
現代では分からなくなっていたのですが、地震雲の大家、真鍋氏は
「地震の前には、浜辺が砂鉄で真っ黒に埋まり、それが海水に濡れて、
ナマズの背中のように黒く光る現象だ」
と説明してくれています。

それは地震の直前には、海底から無数の気泡があがって、
砂鉄を舞い上げて、それが浜に打ち上げられるからだという事です。

地名に込めたメッセージ
これ(砂鉄)を駿河で「はまな」、石見で「はまだ」、筑前で「はまを」と言う。
又、肥前では「ぬち」、肥後では「うと」と言う。

筑前の「はまを」は「浜男」と漢字で書きます。香椎宮のすぐ近くです。
かつてはそこまで海だったと、いろんな方から聞きました。
浜のラインに沿って、鉄道が通っています。

浜男」とはその浜が真っ黒になるほど、砂鉄が上がって来た事を
伝えるためについた地名の可能性が出て来ました。そこには、浜男神社もあります。

よど姫神社や姫神社も70年に一度の津波を知らせるための
神社だという事を「高良大社」で書きました。

地名は歴史を物語ります。これらの地名は、津波が押し寄せた事を
後世に教えようとしている先人からのメッセージなのです。

福岡県の国道3号線の古賀市の所に「」という変な名前の交差点があります。「ながれ」と読みます。
江戸時代にここまで津波が来て、家が流れたと言い伝えています。

浜辺の砂鉄。

これは誰でも観察できる地震の予兆です。
全国のビーチ・コーマーの皆さん、また、浜辺を散歩する皆さん、
浜歩きの時には砂鉄を観察してください。
そして、検証して行こうではないですか。浜辺の砂鉄ほど分かりやすいものはありません。

高天原(2) 砂鉄による地震予知の方法_c0222861_20252255.jpg

この日の高天原の砂浜の砂鉄です。薄い砂鉄の筋が何本か走っていました。
まだ、この砂鉄の重要さを知らなかったので、ちゃんと写真に撮ってませんでした。

それにしても、ここの砂浜が黒いのは、砂鉄が多かったからなのですね。
同じ砂鉄でも、小戸(御手洗)の方では、筋にならずに、50センチの塊の状態でしたよ。

# by lunabura | 2010-02-03 20:37 | 志賀島の各地 | Comments(5)

駕輿八幡宮

駕輿八幡宮
かよいはちまんぐう
福岡県糟屋郡粕屋町大字仲原字駕輿丁987 
神功皇后が休憩したお宮

御祭神 神功皇后 応神天皇 玉依姫命 住吉大神

福岡空港の東側の粕屋町に、大きな湖があります。駕輿丁(かよいちょう)池と言います。
いつも市民が散歩したり、ランニングする姿が見られます。
そんな湖の一角にある、こんもりとした森と鳥居がいつも気になっていました。

駕輿八幡宮_c0222861_143457.jpg

どうやら、そこも神功皇后に縁のある所らしいと知って、行ってみました。

駕輿八幡宮_c0222861_1441225.jpg

湖の半島のように突き出た境内はとても明るく開けていました。

この神社の由来です。 (原文どおり)
このお宮は、神功皇后が応神天皇を出産されるため香椎の宮を出発され、宇美八幡宮に行幸されたとき、この地で休息されたので、ここに住んでいた人々が祭神したのが、駕輿八幡宮の由来とされています。

やっぱり神功皇后が来ていましたよ。ですから、なるほど、御祭神も

神功皇后  応神天皇    玉依姫命    住吉大神
(母)      (子)     (守護の女神)   (旅の守り神)
です。

粕屋町ホームページにはさらに、こう書いてありました。(口語訳)
神功皇后が香椎より宇美に行かれた時、仲原の村人が御輿(みこし)をかいて、この地に御休息になったので、地名を駕輿丁とつけて、のちの世に駕輿八幡宮を奉斎した。

仲原とはすぐ近くの町です。

神功皇后が新羅征伐から帰って、いよいよ出産するのに、
香椎宮で生まずに、もっと内陸部へ向かったのがこれでわかります。

香椎からはずっと輿に乗ったのかな、船に乗らなかったのかなと、思っていると、
もう一つ、神功皇后を伝える神社の話が載っていました。

日守神社
日守(ひまもり)-夷守(ひなもり)-の由来のはなし

神宮皇后(じんぐうこうごう)は、お産のために現在の宇美町に向いましたが、その途中、現在の粕屋町乙仲原西区にある日守付近で休憩しました。

そして、「日を守りたまいて(太陽をじっと見て)、今は何時頃ですか。」
と尋ねられました。
この伝説から、休憩した場所を「日守(ひまもり)」と呼ぶようになり、神宮皇后が腰掛けた場所をまつって
日守神社ができたと言い伝えられています。

地図で見てみましょう。

地図を見ると、日守神社は川のすぐそばです。
ここで船から降りて、あとは輿に乗り換えたのでしょうか。

応神天皇は冬に生まれています。かなり寒いはずです。
寒い中に大きなお腹を抱えた皇后を気遣う人々の思いやるようすが目に浮かぶようです。

駕輿丁(かよいちょう)の語源が書いてありましたよ。
その人たちについては駕輿八幡宮の由来書からうかがえます。省略しながら書き写します。
大化2年(646年)には駕輿丁座がありました。

そもそも、駕輿丁の「」とは乗り物の意味で、「輿」とは御輿(みこし)(神のみたま)のことで、「」とは仕丁(しちょう)(つかえのちょう)として身分の高い人を運ぶ人々(しゅうだん)をさします。

この人々は南側の階段から、さらに池に降りる階段の下に集団で住んでいましたが、この池が江戸時代に築堤されたので、他の地に移転しました。

この八幡宮には古来、駕輿丁座の人々が住んでいたのがこれでわかりました。
この時代に船と輿を使って人々は移動していたようすが読み取れます。

神功皇后を乗せたのは、よほど印象深い出来事だった事でしょう。
はるか遠い都の美しいお后様を直接乗せたのですから。
見た事もない立派な衣装を召された皇后さま。まずは近くに寄れない皇后さま。

駕籠をかいた人は、それはそれは自慢だったことでしょう。
そして、自分たちの村で大切にお祀りしました。

さて、神功皇后は何故、香椎でなく、内陸部へ向かったのでしょうか。

それではルナの推理シアターの始まり、始まり。
この時、皇后はひとりぼっちでした。
夫の仲哀天皇が亡くなって、10か月。その夫には兄弟王が二人いましたが、その二人は別の島に配属しました。身内と呼べる人は一人もいません。

信頼置ける人間は竹内の宿禰ただ一人。この男は、皇后が九州入りしてから、ずっと支えてくれた。
あとは、知らない人間ばかり。

香椎宮で出産しなかったのはまだ、産屋は別にした時代という訳でしょうか。または、仲哀天皇が亡くなった所では生みたくなかった。あるいは…。産み月になっても生まれない事への人々の目。
とにかく香椎では生みたくなかった。

全く知らない土地で、子供を生むとしたら、いったいどこで生んだらいいのか。

そうだ、たった一人だけ、心の支えになった人がいる。
というより、女神。名前は玉依姫。(サイドバー⇒)

神功皇后がかつて玉依姫の墓所で祈った時、「姉妹の契りを交わしましょう。」と言ってくれた。
死んだ夫の代わりに軍を率いるという難事の時に支えになってくれた女神さま。

そのそばで生もう。
そこならきっと、出産も助けてくださる。


そんな気持ちがあったのではないかとルナは思いました。
玉依姫の墓所は今では分からなくなっています。
江戸時代から明治にかけても大捜査があったのですが分からずじまいです。

この辺りは三笠川の氾濫がたびたびあって、玉依姫の墓を祀る神社も移動していたりします。
ただ、墓所があった証として中学校の名前に御陵(ごりょう)中学校とつけられて言い伝えています。

いずれにしろ、この駕輿八幡宮は、そこまであと一息の場所なのです。

実際に出産したのは蚊田という所です。
彼女が出産してからは、宇美神社となって、いまでも安産を願う多くの人々が訪れています。

さあ、駕輿丁公園へ。

さて、この駕輿八幡宮に来たのなら、この駕輿丁公園を歩かずにはいられません。
周囲4キロの広大な湖には、水鳥が遊び、桜や菖蒲やバラがよく手入れされています。

ちょっとだけ、寄り道しましょ。
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湖が一周出来るように、遊歩道があります。

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薔薇園へと上って行きましょ。

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ここの薔薇園は大きくて沢山の品種が見られます。一回だけでは、とても紹介しきれません。
また、別の季節に、ゆるりとご案内を。



# by lunabura | 2010-02-02 14:59 | 駕輿八幡宮・かよい・粕屋郡 | Comments(0)

冬の駕与丁(かよいちょう)公園

冬の駕与丁(かよいちょう)公園
福岡県糟屋郡粕屋町大字仲原字駕輿丁

冬の薔薇園はつぼみが輝いてました

冬のバラを見に行って来ました。
冬なのに?
そう。
きっと、冬でもバラが咲いてるはずなんです。

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ほら、やっぱり。
小春日和の中で、冬のバラが咲いていました。




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綺麗!
それにつぼみのエネルギーもすごいです。





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花びらが柔らかそう~。


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花の活力がみなぎっていて、体感温度は ↑




薔薇園の隣の散歩道です。

冬の駕与丁(かよいちょう)公園_c0222861_2024670.jpg

ベンチの向こうに見えるのは菖蒲園です。
菖蒲はまだまだ、気配もありません。
菖蒲の中を歩ける初夏が楽しみです。

裸の木は桜です。
枝がほんのりピンク色になり始めましたよ。




薔薇園の住人、じゃなく、住猫で~す。



冬の駕与丁(かよいちょう)公園_c0222861_2043249.jpg

どう?
決まってる?



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う~。ばりばり。



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んふ~。
%&?¥~$#…。


帰る時、一匹が
薔薇園の端っこまで見送ってくれました。

また会おうね。

# by lunabura | 2010-02-01 20:18 | 駕輿八幡宮・かよい・粕屋郡 | Comments(0)

志賀海神社 (Ⅰ) 龍の都と呼ばれた海神の宮 


志賀海神社 (Ⅰ)
しかうみじんじゃ
福岡県福岡市東区志賀島877
龍の都と呼ばれた海神の宮

「御手洗(みたらい)」は本当にあるのだろうか

さあ、今日は天気がいいので、志賀海神社に行きましょう。

福岡市の東区の国道495号線の和白(わじろ)交差点から、
海の中道への案内板を見て、志賀島へ。
街を過ぎると、快適なドライブコースになります。
海の中道公園を過ぎると、海の真ん中を走る道に出ます。
橋を渡ればもうそこは志賀島です。

でも、橋の手前で、いったん車から降りましょう。
そして、一度に見える左右の海を堪能しましょう。
左の方は、博多湾です。
志賀海神社 (Ⅰ) 龍の都と呼ばれた海神の宮 _c0222861_12551623.jpg

能古島(のこのしま)が正面に見えます。(写真では右の島)
来た方を振り返ると博多の町も見えます。
内海らしい、たっぷりとした海の風情が味わえます。

そして、次に右側を見ましょう。
志賀海神社 (Ⅰ) 龍の都と呼ばれた海神の宮 _c0222861_1256062.jpg

こちらは玄界灘です。外海です。波が打ち寄せています。海の色が全く違うでしょ。

こちらは浜辺に降りる事が出来ます。ぜひ砂浜に下りて、散策しましょう。
海の色の美しさはもちろん、流れ着いた貝殻や生物など、生きている海を感じる事が出来ます。
写真の島が目指す志賀島です。

橋を渡れば志賀海神社はすぐです。標識をお見逃し無く。
志賀海神社 (Ⅰ) 龍の都と呼ばれた海神の宮 _c0222861_12565979.jpg

最初の石段と鳥居。
ここにも石段の手前にお汐井がありましたよ。これを体に振って清めてから上ります。
志賀海神社 (Ⅰ) 龍の都と呼ばれた海神の宮 _c0222861_12574678.jpg

広々とした土の参道。右側は海です。
左側は古木が鬱蒼としていますが、下を覗くと崖になっています。
この参道は小さな尾根状になっているようです。不思議な地形です。

参道の左脇にはいくつかの社がありますが、この山之神社(やまのかみしゃ)は特筆!
志賀海神社 (Ⅰ) 龍の都と呼ばれた海神の宮 _c0222861_13185020.jpg

御祭神は大山津見の神で、
「御神徳は国土安泰、延命長寿、開運、夫婦和合」
と立札に書いてありますが、お参りの仕方がユニークです。
御神前にオコゼやアラカブを備えると
その顔立ちの悪さを見て喜快に思われ、快く願いを叶えてくれる。
また空の財布を供えると、財が貯まるといわれるなど、
幸福の道先案内の神として信仰されている。

今、ちまたではブサカワが人気ですが、この山の神さまは、元祖 ブサカワ・ファン
志賀海神社 (Ⅰ) 龍の都と呼ばれた海神の宮 _c0222861_12594610.jpg

アラカブで~す。

山門をくぐって本殿の前へ。
拝殿に着くと可愛い先客。
若いお父さんとお母さんの真ん中で、
女の子がちゃんと手を合わせてお参りしてました。
志賀海神社 (Ⅰ) 龍の都と呼ばれた海神の宮 _c0222861_1304471.jpg

(この可愛さに見とれて、本殿の全体写真を撮り忘れちゃった!?)

本殿の後ろにはいろんな摂社があります。それぞれ趣があって歴史を感じます。
時計回りにぐるりと回って、戻って来ると、海に向かった鳥居が目に飛び込んできました。
志賀海神社 (Ⅰ) 龍の都と呼ばれた海神の宮 _c0222861_1313793.jpg

遥拝所です。そこに立つと海が見えます。
そのずっと向こうに立花山が見えますが、正面からは微妙にずれています。
いったい何を祀っているのでしょうか。

社務所に氏子さんがいらっしゃるので尋ねてみました。
「あの遥拝所は立花山を見ているのですか?」
「ええ、それだけでなく、すぐ手前の大岳神社も見ていますよ。」

すると、宮司さんも出て来て、一緒に説明してくれました。
「遥拝所からは、伊勢神宮、橿原神宮、御所、大岳神社
など、折々に祈っています。直接は行けませんから。」
という事です。
神事がある度に、こうして遠く離れても、共に祈ってあるんですね。
日本の神社の祈りのネットワークを知って、感動しました。

「御手洗」はどこ?

そこで、「御手洗」の地が現在も残っているのか、ついに聞きました。

「『香椎宮史』を読んでいたら、『筑陽記』の「志賀島」の所に
御手洗 イザナキ大神、与美国の穢れを洗い清め給ひし所という。」
という一文があって、それが志賀島のどこなのか探しているんですが。」

氏子さんが地図のついたパンフレットを出して下さいました。
それを見ると「御手洗」という地名が載ってました!やったね。

そこは勝馬(かつま)の沖津宮の所でした。
志賀島の一番北側で、この志賀海神社の神々が祀られている元宮です。
なんと、すごい所に、探している「御手洗」があった!
そこは志賀島の海水浴場として有名な所です。

志賀海神社の御祭神は次の三柱です。
 底津綿津見神 そこつわたつみのかみ
 仲津綿津見神 なかつわたつみのかみ
 表津綿津見神 うはつわたつみのかみ
 
これは海の底と中間と表面で生まれた神々です。
イザナギの命が禊(みそぎ)をした時に生まれた神々です。

「ここは新たに遷宮したお宮で、元宮は三つとも勝馬(かつま)にあります。
そこはかつて入江だったと地質学でも証明されました。」
と宮司さんが説明してくれました。さらに
「志賀島には高天原という地名がありますよ。また、穢れをとても忌む神社があります。」
と教えていただきました。
志賀島に高天原がある理由は分からないそうです。

また、氏子さんも話してくれました。
「そういえば、志賀島の山で「かもう山」と呼んでいる所がありますよ。
漢字は「神思う山」か「神生まれる山」のどちらかです。」
「へえ、そうですか。」
と、宮司さんも初耳で興味深そうです。地図で示してもらうと、展望所付近の山のようです。
(これらは、また別の日に行ってみましょう。)

住吉三神はオリオンの三ツ星

ルナは話のついでに、綿津見神と一緒に生まれた住吉三神の話をしてみました。

「綿津見の三柱の神さまたちは、住吉の三神と一緒に生まれていますが、なぜか交互に生まれていますよね。三柱ずつ一緒には生まれてないですよね。これには何か大切な意味があると思うのです。

私は住吉三神はオリオンの三ツ星ではないかと思っているんですが。
オリオンの三ツ星の角度で時間と方角が分かるので、神として祀られたと思うんですが。
どうでしょうか。」

すると氏子さんが話してくれました。
「そういえば、夏の朝は、立花山の方角にオリオンの三ツ星が出て、それに向かってまっすぐに帰って来てますよ。」
氏子さんは漁師さんでした。

漁から志賀島に帰ってくる時に東の方角の目印として、オリオンの三ツ星を見て帰るという事です。
ああ、実際に現代でも、星のナビゲーションが生きている!
直接こんな話が聞けると嬉しくなります。

「ところで、朝って何時頃ですか。」
「三時ごろです。」
「えっ、三時ですか。」
「季節が変わると、反対側に夕方、見えますよ。」

オリオンの三ツ星は、水平線から昇ってくる時に垂直に出て来ます。
そして、横向きになって、沈む時にはほぼ逆さまになって沈みます。
これで、時間と方角が分かるのです。
それを住吉の神と呼んでいるとルナは考えています。
詳しくはまた、別の機会にお話しましょう。

さて、社務所でお話をしているうちに、すっかり時間が経ちました。
菊の御紋のある、山門を見て、この日は一旦帰る事にしました。

地図   志賀海神社  沖津宮と御手洗  二見岩 海の中道



# by lunabura | 2010-01-30 00:00 | 志賀海神社・しかうみ・福岡市 | Comments(4)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『豊玉』『星の迷宮へのいざない』   Since2009.10.25