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ひもろぎ逍遥

志式神社 (Ⅲ)早魚舞―乙太夫の天神尋ね―

志式神社 (Ⅲ)
ししきじんじゃ

夜神楽を見て来ました。

「早魚舞(はやままい)」―乙太夫の天神尋ね―

11月19日

夜の11時半から早魚神事があり、それまで、
8時から浦安の舞いや神楽があると聞いて、
9時過ぎに、奈多公民館に行きました。

玄関に立つと、敷き詰めたゴザが目に飛び込んできました。
気分はそわそわ。

舞台には紅白の垂れ幕があって、すでに神楽が始まっていました。
神楽を奉納するのは宇美神楽座の方々。
ここの神楽は明治時代に、宇美神社の氏子さんたちによる神楽に
引き継がれたそうです。

正面の紺の幕には「早魚神事」。
この神事を象徴する二匹の鯛が踊っています。

志式神社の夜神楽だァ。

一部ですが、写真とともにお楽しみください。
 

久米舞

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折敷に米を入れてぐるぐる廻って舞う。
折敷の米が落ちないのが見どころ。
舞い終えたら、その米は人々に配られました。
もちろん、ゲット。



オロチ退治

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スサノオノ命は嘆いている老夫婦に出会って訳を聞く。
すると、ヤマタノオロチがもうすぐ8番目の娘を奪いに来ると言う。


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「私がそのオロチを退治しよう。
その暁には娘を私にくれ。」


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スサノオは二人に酒を作らせて、オロチに飲ませて、
酔っ払わせて戦う。


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スサノオはオロチを殺して、クシナダ姫を妻にする。



 磯良舞      (武内神 豊姫神 磯良神 海神)
  いそらまい

神功皇后らが新羅へ進軍する時のお話です。
48艘の船団でいよいよ新羅へ。
その時、武内神が干珠満珠を貰い受けるお話です。

磯良神は大和で40万年、ひたちで40万年、
勝馬(かつま、志賀島)で40万年過ごされた神。


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いそら神が干珠満珠を海神のところに行って、貰おうとするが、
なかなかもらえず、豊姫が代わりに海神の所に行く。


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すると海神は「神楽を舞うならば、授けよう」と言う。
豊姫は神楽を舞い、海神から干珠満珠を授かる。


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豊姫はそれを武内神に渡す。



 早魚舞
(乙太夫 献魚包丁式 ひれ舞)



これは奈多だけで演じられる独自の神楽です。
『奈多の氏神様 志式神社 「お宮の由来」』から引用します。
いつものように口語訳します。

 「乙太夫の天神尋ね」 

乙太夫が舞いながら歌を詠む。

奈多の里  志志岐の宮の  七不思議
       神の御稜威(みいつ)と 仰がれにけり


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乙太夫

「天神様はいずれにおわしますぞ。
天神様はいずれにおわしますぞ。

三良(さぶろう)天神と称える神様は、
火難盗難を除き、安産を守られるご神徳がお有りになるので、
そのおかげをこうむろうと願うけれども、
何処に鎮座されているのか、全く分からない。

八雲立つ出雲の国は神々が集まる所なので、
そこに尋ねて行ったけれどもいらっしゃらない。
伊勢の国五十鈴川に詣でたけれど、いらっしゃらない。

尋ねあぐんでいると、一羽の雀が飛んできて、
「筑奈、筑奈(ちくな)」と鳴いて教えてくれた。
筑前、奈の里だろうかと、尋ねて来ると、
やっぱりこの吹上の地に鎮まられていたよ。
さあ、参拝してご神徳を頂こう。」


志式神社 (Ⅲ)早魚舞―乙太夫の天神尋ね―_c0222861_2037127.jpg

乙太夫は天神様にお神酒を奉る。

天神様が盃をいただき飲もうとすると、「まあず、お待ちなされ。」
と止められて、盃を下ろされる。
「火難盗難、除きたまえ。」と乙太夫。

また、飲もうとすると「まあず、お待ちなされ。」
と制されて、再び盃を下ろされる。
「大漁、満足、守りたまえ。」
と乙太夫は二拍手拝礼してさがる。


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天神様は酒をいただき、盃と榊を持って正面に向き直り、歌を詠む。

千早振る 神代の手振り 奏でして
    御代を寿ぐ 奈多の夜神楽

右手には盃を。
左手には榊葉を添えて立ち上がり、
乙太夫の願いを聞き遂げて、上機嫌で
「あっぱれ あなおもしろし あなたのし あなさやけおけ」
と目出度く舞い納められる。





 これが「早魚舞」の中の「乙太夫の天神尋ね」です。 

乙太夫が天神さまがお酒を飲もうとするのを、
二度も制して、みんなの願いを伝える所が、
この舞の見せ所。

構成も、
乙太夫が舞って、天神とやりとりをして、上機嫌の天神様が舞を披露する、
という三部構成になっていました。


この奈多の浜を吹上浜と呼んでいたのですね。
(鹿児島の吹上浜しか知りませんでした…。)

宇美神楽座の方にお話を聞きました。 

「見事な舞を有難うございました。神職の方々ですか?」
「いえ、宇美八幡宮の氏子です。」

「何人ぐらいですか。」
「17人です。奉納は宇美八幡宮で年に二回。
この志式神社は年一回しています。」
「福岡県に神楽があったのですねえ。」
「はい、ここ以外にも福岡市内は数か所残っていますよ。」

神楽と言えば、宮崎しか知りませんでした。
もっと、福岡の人々に知ってもらいたいなと思いました。
マスコミの方が取り上げて盛り立ててくれるといいのにな。
そうして若い人たちに受け継いで貰いたいな。

この「乙太夫の天神尋ね」は全国でここだけのもの。
宇美神楽座の皆様、とこしえに、栄えてください。


さて、このあと、いよいよ早魚神事ですが、
12時をずっと過ぎてしまい、あえなく帰宅しました。
写真はなしです…。スミマセン <(_ _)>

また来年?
確約は出来ません…。
この神事の写真はネットで沢山出されています。
検索して見て下さいね。

                  (Ⅳ)につづく

# by lunabura | 2009-11-21 00:00 | 志式神社・ししき・福岡市 | Comments(3)

志式神社 (Ⅳ) 磯良神・七不思議・お潮井とり


志式神社 (Ⅳ)
ししきじんじゃ
福岡県東区大字奈多字宮山1236
安曇族(あずみぞく)と奈多の浜
磯良神・七不思議・お潮井とり

いそら舞の神さま
志式神社 (Ⅳ) 磯良神・七不思議・お潮井とり_c0222861_16051.jpg


さて、いそら舞の白髪の神さま、インパクトがありましたねえ。
宇美神楽座の方の話によると、
「磯良神は大和で40万年、常陸で40万年、
勝馬(かつま、志賀島)で40万年過ごされた神という事で、御年120万歳。」
これはいったい何の暗号?

これは安曇の磯良神は大和と、常陸と、福岡の志賀島と
3か所で祀られていて、みんな同じ神の事をさすというニュアンスのようです。

 筑前国では  鹿島(しかのしま)大明神  
 常陸国では  鹿島(かしま)大明神、
 大和国では  春日(かすが)大明神    
     
と呼ばれています。

  (ルナはそれを知らなかったので、
   わざわざ常陸国の鹿島神宮までお参りに行った…。
   いえ、それはそれとして、とても良い所でしたが…。
   あとで、志賀島が元宮と知ってショックでした…。)

安曇族を辞書で引くと、 
 上つ綿津見の神の子孫。
 朝廷に仕えて、各地の海人(あま)を支配して、天皇の食事の事を司った。
とあります。

いそら神は安曇族の先祖であり、綿津見の神である訳です。
ですから、とても長生きなのですね。ナルホド。


豊姫は神功皇后の妹だそうです。  

神功皇后が新羅へ行く前に、干珠満珠を手に入れた伝説が、
いろいろ変形して、あちこちで舞われていたのですね。
そして、このお話は昔の日本人の常識だったようです。

ふうっ。
頭がだんだん混乱して来ました。浜で一服しましょ。


志式神社 (Ⅳ) 磯良神・七不思議・お潮井とり_c0222861_160564.jpg


この浜を昔は吹上浜と言って、有名だったんですねぇ。
左に見える島が志賀島です。
   
奈多の海 清きなぎさの 浜千鳥 踏み置く後を 波やたつらん   伊  勢
 
波風を おさめて海の 中ばまで 道ある国や 又も来て見ん    宗  祇
         
名にしおう 龍の都の 跡とめて 波をわけゆく 海の中道     幽  斎
 
                     
見て下さい。
古典の教科書に出てくる、そうそうたるメンバーが
この吹上浜で、鳴き砂や海の中道を歌ってます。

奈多の七不思議

「天神尋ね」でなぜか、いきなり雀が…登場した…
尋ねあぐんでいると、一羽の雀が飛んできて、
「筑奈、筑奈(ちくな)」と鳴いて教えてくれた。
筑前、奈の里だろうかと、尋ねて来ると、やっぱりこの吹上の地に鎮まられていたよ。
さあ、参拝してご神徳を頂こう。」

これは乙太夫のセリフです。

ここには「奈多の七不思議」のうちの二つが込められていました。
「雀が歩く」「砂が鳴く」
というのがその不思議です。

雀の足跡がくっきりと残る砂浜だという点と鳴き砂で有名だったのですね。
その七不思議の二つが神楽に込められていました。
ナルホド。

あとの五つの不思議は? 


奈多に火事がない。
盗難がない。
難産がない。
神社では波の音が聞こえない。
穴蜂がいない。

ということだそうです。

盗難の話を『お宮の由来』から 

天正14年8月、島津の軍、立花城を囲み、やがて退くとき、志志岐の社の阿弥陀仏を盗み去ったが、神罰のため、その兵は、途中で手足がしびれ、軍旅に従う事ができず、これを助けて薩摩に帰った者も、奇異な事ばかり起こるので、大いに恐れおののき、心から神に謝ったという。

これを書きながらルナはクスクス笑ってしまいました。

同じ話をこの前、伊野天照皇大神宮で書いたぞ。
島津軍はあちこちで御神体を盗んでは、さんざんな目に遭って帰ってるんだ。
それを何百年経っても、福岡でささやかれているんですねえ。
悪い事は出来ません。ハイ。

赤い岩がありました。 
志式神社 (Ⅳ) 磯良神・七不思議・お潮井とり_c0222861_162298.jpg


さて、この松林の奥にさっきまで居た、志式神社があります。
入り口が分かりますか?

浜から見ると、入り口が全く分かりません。

神社への入り口は竹の塀より少し手前の所です。
外敵から見えない、安全な地形です。。

  (松林は江戸時代に植林されたので、当時はただの砂丘だった思われますが。)

ここは安曇族の本拠地の一部なのです。

ずっと砂浜が続く中で、海から船で戻って来る時、
この赤岩が目印だったのかもしれないなと思いました。

こんなに低い岩ですが、
この浜の反対側の三苫浜にも同じような赤岩があります。
興味深い事に、そこの赤岩の近くにも神社があります。

その赤岩が30年前には3メートル以上の巨岩だった頃の
写真を拝見しました。
その前は島だったそうです。
それを見て、この奈多の浜の赤岩もかつて巨岩だったんだろう
と思いました。

この重要拠点を安曇族は神功皇后に提供しました。 

新羅攻めに全面協力する安曇族は彼らなりに、
なんらかのメリットがあったのでしょうね。

船と言うのは、海岸があれば、どこでも上陸できるものではないそうです。
でも、ここはすぐ近くには漁港があり、当時も今も変わらず船が泊まれます。

大きな頃の「赤岩と鳴き砂」を紹介しているサイトがあります。
見たい方はコチラ ⇒ 『海辺の散歩』⇒「がんばれ、赤岩」
            ⇒「ぶろぐ 海辺の散歩」⇒「奈多の鳴き砂」
                             「三苫の鳴き砂」


 お潮井とりは、昔の天気予報だったよ。 
お潮井取りのルーツが分かりました。

真鍋大覚氏の本に由来が書いてありました。
『灘の国の星 拾遺』から抜き書きします。

「梅雨時になると、祖先は干潟の砂が濡れ潤うことを知っていた。
そして、土用が近づくと乾くことを心得ていた。
干潟の砂を掌にのせて海の風に吹かせ、もってその渇きを見る儀式が、
今に残る筥崎宮のお汐井とりであった。」

「今は『おしよい』は、門の柱に『テボ』を掛け、これに一年分を入れ、
外に出歩くごとに振って無事を祈る。
昔は手にした砂が乾いていたら、掌から風にふかれて、散っていた。
これが大水の事無きを告げる神の託宣と心得ていた。」


この神託をするのが、巫女や神官でした。

ですから、これをマネして、人々も自宅で出かける時に砂を取って、
手に残った砂のようすで、「今日は一日晴れるぞ。」
とか、判断したのですね。
いつのまにか、これが忘れられて、
今では、払い清めだけに使われるようになったようです。

北部九州では、いろんな神社にこのお潮井が置いてあります。

なるほど、確かにこの志式神社の拝殿前の板に砂を乗せた時、
曇った日には盛り砂がきれいに出来て、晴れた日には崩れました。

志式神社 (Ⅳ) 磯良神・七不思議・お潮井とり_c0222861_1644973.jpg


写真の中央の分は昨日のもの。(くもり)
左端のは、今朝、私が置いたもの。(快晴)
置かれた盛り砂の状態も大事な天気予報でした。


この日は二羽の千鳥が遊んでました。
千鳥 「ルナさん。まだ浜辺にいるの?」
るな 「うん。もうちょっとね。
    ここの御祭神の事をお話しないとね。」

と言う訳で、いよいよこの神社の荒ぶる神の話に挑戦です。

                         (Ⅴ)につづく

# by lunabura | 2009-11-20 00:00 | 志式神社・ししき・福岡市 | Comments(0)

志式神社 (Ⅴ) 哀しき神々たち

志式神社 (Ⅴ)

哀しき神々たち

三良(さぶろう)天神 と 志志岐(ししき)三神


志式神社 (Ⅴ) 哀しき神々たち _c0222861_23573327.jpg


『お宮の由来』の祭神の所を見てみました。
とても複雑なので御祭神の名を整理して書きます。

三良天神…三柱の天つ神 
               火明(ホアカリ)の神
               火酢芹(ホスセリ)の神 
               豊玉姫神

志志岐三神…神功皇后の関係者 
               十域別(トキワケ)の神 (弟)仲哀天皇の兄弟
               稚武(ワカタケ)王 (兄)仲哀天皇の兄弟
               葉山姫神


これが六柱の神々の大まかな関係でした。


天神とは神代の神々をさします。
志志岐三神は神功皇后と行動を共にした人たちです。

この二組の神々は時代も役割も違うので、
別々にお話していきたいと思います。


歴史の裏側の住人となった三良天神

火明命(ほあかりのみこと)

火明命はニギハヤヒと言う別名の方が有名です。
裏日本史のヒーロー的存在です。

火明命は、神武天皇が東征する前に、すでに大和で
平和な国づくりを済ませていました。
その国の豪族のナガスネヒコの娘トミヤ姫を妻にして、
子供も出来ていました。

しかし、そこに弟のニニギノ命の孫の神武天皇が
天孫としてやってきます。
いわゆる神武東征です。

神武はアマテラスがこの国を治めるように命じたという
証拠の宝を持っていました。
それを確認した火明命は、「それならば」と国を譲る事にします。
しかし、その後、悲劇が起こります。

妻の兄のナガスネヒコが反対したのです。
その結果、火明命は、ナガスネヒコを殺さねばなりませんでした。
こうして、国を譲り、臣下となって歴史の裏側へまわる事になりました。

この神は海人族の神でもありました。



火酢芹(ホスセリ)の神 

この神はコノハナサクヤ姫の子供です。
三人兄弟として、火の中で生まれました。
このうちの二人は、有名な山幸彦と海幸彦です。
二人は今でも語り継がれていますが、
この火酢芹神の話は全く残っていません。
歴史から消えてしまっています。

そんな神が安曇族によって祀られていました。
もう表舞台では忘れられてしまいましたが、
何らかの深い事情があったのかもしれません。


豊玉姫の神

豊玉姫は海神の娘で山幸彦と結婚して男の子を生みます。
しかし、その子を妹の玉依姫に預けて、
龍宮へ帰らざるを得ませんでした。
我が子の成長を生涯、見ることの出来なかった哀しい母なのです。

夫の山幸彦は歴史に燦然と輝きながら、
その妻は、歴史の片隅においやられてしまいました。

この三柱が三良天神です。


この三柱の共通項は表舞台から消えて行った事ですが、
この奈多の浜辺の里で、安曇族たちが大切に奉祭していました。

ですから、今から、この安曇族の水軍の世話になる神功皇后は、
ここで改めて、「ひもろぎ」をこしらえて三天神を招いて、
自ら祭王となって、神楽を奉納したのではないかと思いました。

ここにやって来た時には、髪の毛をみずらに結って、
男装をした、勇ましい皇后さまが、
長い髪を下ろし、美しい衣装を着て神を呼び、天女のように舞う。

そして、祭壇には、集落の人が釣って来た、
二匹の大鯛が供えられている。
そんな光景が目に浮かぶようです。

祭りの後、その大鯛は直会(なおらい)として、
ただちにさばかれて、皇后さまの御膳を賑わした。

この時の神事が今に伝えられている。
いかがでしょうか。

この三天神は、歴史の裏に回ったけれども、
神功皇后の先祖でもある訳です。

ですから、双方にとって、良いお祭りとなりました。

豊玉姫コノハナサクヤ姫の出産については
口語訳して紹介してます。⇒サイドバーからどうぞ。≫



志式神社 (Ⅴ) 哀しき神々たち _c0222861_23565439.jpg



さて、この吹上浜を出立した船団は
安曇族の力を借りて、
志賀島から対馬を経て、朝鮮半島に渡り、
戦いに勝って凱旋しました。



この時に神功皇后そば近くに仕えていたのが、志志岐の三神です。


志志岐三神…神功皇后の関係者 
             十域別(トキワケ)の神 (弟)仲哀天皇の弟
             稚武(ワカタケ)王   (兄)仲哀天皇の弟
             葉山姫神  山城の国出身



上の二人、十域別の神と稚武王が兄弟だというのは、
『お宮の由来』に書いてありました。
しかも、驚いた事に、この二人は仲哀天皇の兄弟でした。

仲哀天皇が崩御した後も、神功皇后を支えて、
武将として、新羅進軍に加わっています。

『お宮の由来』を整理しながら口語訳してみます。


筑前風土記拾遺によると、

奈多の浦の志志岐大明神は下松浦明神である。
仲哀天皇の弟の十域別王の事である。

稚武王も仲哀天皇の弟で、上松浦明神という。
肥前の国松浦郡の田島の神である。

志志岐神社の二人とも、仲哀天皇の弟であり、応神天皇の叔父にあたる。
神功皇后の三韓征伐の時に、武将としてお供した。

葉山大明神は日本紀に言う、摂津の国武庫郡西宮郷、広田大明神である。
天照大神の荒御魂を、山背の根子の娘の葉山姫に祭らせる。
(神功皇后のご神託によって)



この由来書から十域別王と稚武王と仲哀天皇が
三兄弟だったことが分かりました。
そのうちの仲哀天皇が神功皇后と結婚しています。

仲哀天皇が崩御してからも、二人の弟王は武将として、
神功皇后を助けて朝鮮半島まで共に行っていることも
これで分かりました。

そうして、その後、上松浦郡と下松浦郡で神として
祭られていたのをこちらに勧請したのです。

どうして、二人は松浦郡の神になったのでしょうか。

ネットで三人を調べてみました。

十域別(トキワケ)王

志志岐神社  長崎県平戸市野子古町251
         祭神 十域別王 
         創建 神功皇后摂政30(230)年


十域別王の陵墓がここにあるそうです。
神功皇后の命令で、対朝鮮半島警備のために、
この島に配属されたという話も載っていました。
そして、この地で亡くなっています。

ここは平戸島です。
後で、地図を出しますが、朝鮮半島を見張るには軍備上
有利な所には見えません。
これでは、まるで島送り状態です。

稚武(ワカタケ)王 

田島(たじま)神社  佐賀県唐津市呼子町の加部島にある。
          宗像三女神を祭る。
          大山祇神と稚武王尊(仲哀天皇の弟)を配祠する。


ここでは稚武王尊の事は伝承不明です。

ここも、島です。
この二人とも帰国の途中で、新羅を見張る名目で、
佐賀県の呼子の加部島と、長崎県の平戸島に配属されたと言うのでしょうか。

こんな、遠い島に。二人別々に。
これは、何か変です。




何が起こったのでしょうか。


ここからはルナの勝手な想像です。

この二人は仲哀天皇の兄弟だから、皇位継承権がある人たちです。

この時点では仲哀天皇の崩御はトップ・シークレットです。
しかし、都に戻れば、誰が天皇になるのか、
争いが始まるのは目に見えています。

神功皇后はまだ妊娠中で、生まれる子が男の子か女の子か
分かりません。
しかし、神託では男皇子と告げられています。
彼女は神託を信じて疑わなかったはずです。
(疑った夫はあのように急死してしまったのですから。)
(仲哀天皇の崩御の事情は『香椎宮Ⅰ』に書いています。)

彼女は、これから生まれてくる子供の地位を脅かす可能性の
ある二人を軍備上の名目で、上手に置いていってしまった。

考えすぎでしょうか。

葉山姫

日本書紀に彼女の名が出て来ます。
抜き出してみましょう。

神功皇后は新羅を討たれた翌年の春2月に海路を取って、
大和に戻られました。

しかし、御子の異母兄弟が軍勢を整えて待っているとお聞きになって、
武内の宿禰に、
「御子を抱いて、南に迂回して紀伊の国の湊に行くように」
とお命じになりました。

中略

神功皇后の方は直接、難波を目指しました。
その時に、皇后の船が海の中でぐるぐる廻って進むことが
できなくなりました。
そこで、武庫の湊に戻って占いをされました。

すると、天照大神が教えられました。
「私の荒御魂を皇后のそばに置いてはいけない。
広田の国に祀りなさい。」と。
そこで、山背根子(やましろのねこ)の娘、葉山姫に祀らせました。

中略

亦、事代主(ことしろぬし)の尊が教えられました。
「私をみ心の長田の国に祀りなさい。」と。
そこで、葉山姫の妹、長姫(ながひめ)に祀らせました。


天照大神を祀るために葉山姫を選びました。
続けて、妹の長姫にも事代主の神を祭らせる事にしました。

この後、この二人は今でもそれぞれの神社にお祀りされています。
この姉妹は大和に帰れたのでしょうか。
最期まで、この土地で祭祀をしたのでしょうか。

いずれにしろ、祀らせたという事は
その土地に置いて行ったという事です。
神功皇后は葉山姫と長姫姉妹を大和には連れて帰りませんでした。


こうして見て行った結果、
志式神社に祀られた三人の共通項は、置き去りにされた人たちだと分かりました。


この三人を船で送り届けたのは、安曇族の人たちです。
三人のそれぞれの嘆きを目撃しました。

この三人の悲しみをおもんぱかって、言い伝えていたのを、
時が経ってから、
志志岐三神として、合祀したのではないかと考えました。

こうして
神功皇后は自分の皇子のライバルになる人たちを
結果的に退けました。

このあとすぐに、皇位継承権のあるもう二人の、
香坂(かごさか)王と忍熊(おしくま)王が挙兵しましたが、
彼らは、これらの情報を手に入れて、神功皇后の手ごわさを知って、
行動を起こしたのかもしれません。

オキナガタラシ姫に詳しく、口語訳してます。⇒サイドバー≫

神功皇后の子を守るための母としての姿は思いがけないものでした。

こうして、この志式神社には
進軍する前にお祭りした安曇族の三柱の天神と、
凱旋しながら、置き去りにされて行った三人 

を神として祀っています。

まさかの展開でしたが、
安曇族の人たちはこの六柱を大切にお祀りして来ました。

その里の人々の優しい心を喜び、
ここの神々は人々を災難から守ってくれています。


(ずいぶん長く奈多の浜で遊んだなあ。
そろそろ家路につきましょか。)

# by lunabura | 2009-11-19 00:00 | 志式神社・ししき・福岡市 | Comments(2)

伊野天照皇大神宮 (Ⅰ)アマテラスが愛した聖地


伊野天照皇大神宮 (Ⅰ)
福岡県粕屋郡久山町
アマテラスが愛した聖地


伊野天照皇大神宮 (Ⅰ)アマテラスが愛した聖地_c0222861_20472327.jpg

二日市古賀線で久山町に入ります。
下山田交差点から「九州の伊勢 伊野皇大神宮」の案内板に従って、
山の方に向かって行くと、大きな鳥居があり、
昔からの小さな町並みを抜けると、
赤い欄干の橋があります。
道はカーブしていますが、橋の正面が入り口です。

周りは桜、桜、桜。
五十鈴川の両脇には見事な桜並木が続きます。
桜のシーズンでもあまり人がいなくて、
桜の独り占めが出来る贅沢な春。

知らなければ見過ごしてしまうような、
何気ない参道の石段を上がると、
数歩で深山のたたずまいの中に入ります。
空気が一瞬で変わります。
全身の皮膚が深呼吸を始めるのが分かります。

ここが伊野天照皇大神宮。
名の通り天照大御神を祀っている神社です。

二つの石段を上れば、すぐに本殿前に出ます。
鳥居の横木がまっすぐです。
伊勢神宮と同じです。
伊勢の式年遷宮の後の神殿などを、ここで見る事が出来ます。

峻厳な空気ながらも、拝殿でお参りすると、
里山のあたたかさに包まれます。
そして、魂が鎮まるのが分かります。

右側の石段に惹かれて上ると、神殿です。
ここまで入れるお宮はなかなかありません。
有り難いです。

もう一つ、古い石段があって、それをさらに上ると、
古神殿跡です。
四角い敷地に、中央に「心(しん)のみ柱」が…。
ええっ?
こんな聖地に誰でも入れるの?


伊野天照皇大神宮 (Ⅰ)アマテラスが愛した聖地_c0222861_20482460.jpg


腰掛けられるようなものがあります。
入ってもいいんだよね、と足を踏み入れると、
そこは何も建造物がありません。
足元は建物の基礎石と苔むした土。

中央に「古神殿跡地」と書かれた「心のみ柱」が立つだけです。
その背面に杉の木がまっすぐ、まっすぐ伸びていて、圧倒されます。
まるで天と地をつなぐような杉の木です。

ここでは手を合わせても、祈る言葉は浮かびません。
ただ、ここに居ればいい。
ここは聖地です。

ルナはこの聖地を公にしていいのかと、ずっと考えたのですが、
今の日本人のために、こんな聖地がある。
人々がお参りに行って、浄化されて、また、明日を頑張っていけるように、
こんな所が準備されていたんだと、思うようになりました。


伊野天照皇大神宮 (Ⅰ)アマテラスが愛した聖地_c0222861_20492671.jpg


この神社には天照大御神と、手力雄神と萬旗千々姫命が祀られています。

この裏山は遠見岳と言い、また、神路山と言うそうです。
まだ、このお宮について何も知らない頃、
この山に何度か登りました。
30分ほど登れば、頂上です。
玄界灘が遠くまで見通せる、景色のよい所です。

足もとに
「神宮皇后 異国を眺められた由緒ある遠見岳 登山道」
と、案内の木があるのが、いつも気になっていました。

道は普通の登山道です。
天皇のお后さまがどうやって山道を登るの?
馬?駕籠?自分の足で?

自分の足でないと、とても登れないだろうな。
なんで、お后さまがこんな、誰も知らないような山に登ったの?
と不思議に思ったのを思い出します。

それから何度もお参りするうちに、このお宮の由緒が知りたいと思うようになりました。
すると、ある方から、神社史を頂きました。
そして、その本を手に、再びこの宮に来てしまいました。

今度は、神功皇后とアマテラスの伝承ととともに。

神社史を調べるうちに、アマテラスがこの地に
祀られる事を何度も望まれた事書かれていたのです。


                      (Ⅱ)につづく
                 
# by lunabura | 2009-11-11 21:06 | 伊野天照皇大神宮・粕屋 | Comments(2)

伊野天照皇大神宮 (Ⅱ)アマテラスの伝承 貝原益軒が教えてくれたお話


伊野天照皇大神宮 (Ⅱ)
いのてんしょうこうたいじんぐう
アマテラスの二つの伝承 
貝原益軒が教えてくれたお話


伊野天照皇大神宮 (Ⅱ)アマテラスの伝承 貝原益軒が教えてくれたお話_c0222861_0462925.jpg

正面の谷の所にお宮があります。左の山が遠見岳。
神託を受けた神功皇后が登ったという伝承がある山です。


神社史を頂いて、早速このお宮の由来を読みました。
まずは江戸時代の学者、あの有名な貝原益軒の文が書いてありました。
これが、このお宮についての最初の文献らしいです。

アマテラスの話はそれに書いてありました。
何せこの宮は九州のお伊勢さんです。
伊勢神宮から誰かが勧請したのだろうなという程度に
思っていたら、話は思いがけないものでした。

アマテラス大御神みずから、この地を望んだのです。
それも二度。いえ、三度だよ。

それを神社史から口語訳しましょう。

貝原益軒の話から

貝原益軒の『筑前国糟屋郡 伊野天照大神大神宮 縁起』に書いてあります。
文中の「大神」は「天照大御神」の事です。


伊野皇大神宮の始まり

昔、豊丹生(ぶにゅう)氏と言う人がいて、
都に仕えて代々、大神の祀りごとを司っていました。

足利将軍の末の代に、豊丹生佐渡守も先祖のように
大神にお仕えしていました。

ある時、公の場で同じ宮仕えの人と、どちらが上座に座るかと争って、
ちょっと怒ってののしり合って闘いになろうとしたので、
このような場所で争った罪は深いと言う事で、
遠く豊前の国の彦山の麓に流される事になりました。

佐渡守はもともと大神にお仕えするこころざしが深かったので、
神職を辞めることをとても悲しみました。

その時、夢の中で大神のお告げがありました。
「お前は先祖からよく私に長らく仕えてくれた。
今私に別れる事を嘆き悲しむのも良く分かる。
お前は私を連れて、流されて行く所に行くがよい。」と。

佐渡守は夢から覚めて、大神のお言葉を有難く思って、
秘かにご神体を捧げ持って、豊前の国(福岡県)に行って
そこで大神にお仕えしました。

長年経って佐渡守は亡くなりました。
その子供の兵庫太夫もまた、父親のこころざしを受け継いで
怠らずに大神にお仕えしました。

ある時、大神が夢の中でお告げをされました。
「お前は私を連れて、筑前の国糟屋郡のイノという所に移りなさい。」と。
兵庫太夫はお告げの通りにご神体を持って伊野に行って
宮を立ててお仕えしました。

それから時代が変わって、豊臣秀吉公の時に、
西(西日本)の方の騒ぎが鎮まらないので、
薩摩の国の島津の兵を遣わして、
筑前の国の立花城を囲む事がありました。

伊野の里は立花城に近かったので、
その薩摩の兵たちがこの伊野の里にも乱れ入って、
里人の財宝を盗み奪い取ったので、
兵庫太夫はその難から逃れようと、ご神体をお持ちして
筑前の国の御笠郡のかまど山のほとりにご神体を隠しました。

薩摩の兵たちはこれを見つけ出して、薩摩に持って帰ろうとしましたが、
途中で大神が祟りをされたので、
賊兵たちは恐れてご神体を豊後の国(大分県)の、
ゆすはらの八幡宮に納めて置き去りました。

それでもご神霊はさらに祟りをされ続けて、
その八幡宮の神官に託宣して、
「お前は私を筑前の糟屋郡の伊野という所に返しなさい。」
とお告げになりました。

その神官は急いで使いを伊野に走らせて兵庫太夫を招いたので、
兵庫太夫はいち早く、ゆすはら八幡宮に行って大神をお迎えしました。

その時、ゆすはらの里人たちが大勢ついて来てお見送りしました。
その時、矛を持って来たのか、今でも残っています。

この時、大神は霊異を顕わしました。
兵庫太夫は大神に元の通りにお仕えしました。
その子孫が代々お祀りして、佐渡守から今の左近太夫信重までで八代です。
最近ようやく神風を尊んでお参りする人が多くなって、
これから先はますます栄えるでしょう。

伊野天照皇大神宮 (Ⅱ)アマテラスの伝承 貝原益軒が教えてくれたお話_c0222861_0495794.jpg



ちなみにゆすはらの八幡宮とは大分市の柞原八幡宮が現存していて、
仲哀天皇と応神天皇と神功皇后がご祭神です。
宇佐八幡宮の分霊地だそうです。

 この話によると、足利将軍の時代に、
京都で祀られていたアマテラスの神前で
神官同士の喧嘩があって、片方の豊丹生(ぶにゅう)氏が
福岡県の英彦山に流される時に、アマテラスが、夢に出て、
連れて行くようにと言われました。

そして、流されたあとも豊丹生氏は大切に斎(いつ)き祀って、
後に亡くなりました。

ところが、後を継いだ長男に再びアマテラスが夢枕に立ち、
同じ福岡県の粕屋郡の伊野というところに移るようにと言われました。
その通りに、現在の伊野に御神体をお連れしてお仕えしました。

時が流れて、秀吉の命令で伊野の近くの立花城攻めをしていた薩摩軍が、
伊野の里で略奪を始めたので、
神官が御神体を持ち出して、宝満山の麓に逃げたけれど、
見つけ出されて、取り上げられました。

が、たたりがあったので、薩摩軍は途中の大分県の
ゆすはら八幡宮に納めて帰ったという事です。

それでも、アマテラスはお告げをして、再び、
この伊野に戻って来られました。

こうして、アマテラスは二度この伊野の地に来られました。

             (Ⅲ)につづく
       
# by lunabura | 2009-11-11 00:00 | 伊野天照皇大神宮・粕屋 | Comments(0)

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