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ひもろぎ逍遥

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三種の神器の行方


三種の神器の行方


仲哀天皇が崩御したあと、三種の神器はどうなったのでしょうか。

これについて考えたこともありませんでしたが、『高良玉垂宮神秘書』にはこの行方が書いてあります。第1条に書かれているのですが、これは人物の書き換えが行われているので、分析して得たものは、
  剣⇒神功皇后
  鏡⇒武内宿禰
  八尺瓊勾玉⇒安曇磯良
です。三人で分け合って持っていたのです。

神功皇后が剣を預かるのは「なるほど」という感じですね。








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磯良が勾玉を預かると干珠満珠と合わせて三つの珠になります。

この三つの玉が合体した霊力が「山上の一火」となって、高良山の上宮に鎮座し、毎日その「山上一火」の霊力がそこから出て、八葉の石畳などを巡って毎日照らしたそうです。

「もしこの火が消えることがあれば、当山は滅亡する。二、三日照らさなければ必ず苦節が来る。」
とまで書かれています。
この八尺瓊勾玉はのちに神功皇后が皇居に行く時に返しています。



ところが、八咫鏡は武内宿禰が預かりましたが、自分の子供である日往子(ひゆきこ)に伝世してしまいました。

ですから、麓の大祝家に祀られました。
日往子の墓が祇園山古墳と言われています。

八咫鏡の霊力は「麓の一火」となり、麓の集落や祇園山古墳を巡ったといいます。

こうして、高良山については「上の高良は玉垂」(磯良)、「下の高良は武内宿禰」と言われるようになったのです。




※昨夜は十時ごろからエキサイトがアクセス不能になりました。
2時間ほどで解決したようです。
投稿しようとしたブログも大した内容でなかったので、ボツにしましたよ♪

20190110




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by lunabura | 2019-01-10 19:39 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Comments(1)

書き変えられた絵巻




 神功皇后の本を書いてから各地で講演をしましたが、志賀島や海ノ中道あたりの話になると、何故か久留米の高良大社の絵巻を使って話すととても便利でした。







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(高良大社で許可をいただいて撮影しました)

「高良」は武内宿禰。黒の武内ですね。
「磯良」は安曇磯良。白の磯良です。

八乙女が浜辺で舞を舞うと、磯良が鞨鼓を叩きながら現れています。
それから「高良」と「磯良」が対面しています。

そして上の方では「豊姫」が干珠満珠を貰って武内宿禰に渡しています。
ここは志式神社の浜と志賀島舞能ケ浜の話が合わさったものです。

これを説明しながら腑に落ちない点が一つありました。
何故「磯良」は「高良」に手を付いているのだろう。
本来なら「磯良」が船と水軍を出すのだから、「高良」の方が挨拶するのではないか。

と、説明に困っていたのです。









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ところが、佐賀の千栗八幡宮の絵巻に出会いました。
そこでは毅然とした磯良に武内宿禰が軽く頭を下げています。

「かたじけない」「よろしく頼む」と武内宿禰が礼を述べているシーンです。
これこそが、本来のストーリーなんですね。
これで物語が上手く進みます。

ですから、高良玉垂宮の方は意図的に書き変えられたのが分かりました。

それでも高良玉垂宮と志賀島、安曇磯良の縁の深さに変わりはありません。






20190107



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by lunabura | 2019-01-07 21:30 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Comments(0)

「神秘書」を読むときに気を付けること




『高良玉垂宮神秘書』(以下『神秘書』)は第1条が難しいので、一部だけを読んで論じる人が多いです。私もその一人でしたが、全体を読み通して気づいたことは、大きく分けて三部構成になっている点です。

で、『神秘書』を読む人へのアドバイスとして、その構成の概略を書いておきたいと思います。









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緑の1条と青の550条、551条は新しく付けられた表紙と考えてください。

黄色の部分(2条~549条)が本文に当たりますが、長い歴史の断片を集めたものです。それはバラバラでも、とにかく記録された断片です。

これを時系列に直していくと、最初はアントンイソラが干珠満珠を持ち込んで玉垂命となっています。

それから400年以上経って、白村江の戦いのあと、仏教が入って来ます。

それまでは神道のみだった高良山は仏教を受け入れるために一芝居うちます。

玉垂命は大菩薩になってしまったため、物部氏が「神を抱きまいらせる」ようになったと宣言して、物部氏が神と同一となったのです。

ところが、そのあと、さらに住吉信仰が入って来ます。神功皇后の夫は底筒男だと主張する訳です。それを説明したのが第1条です。

宇佐にも同じような話がありますが、宇佐ではそれでもOKでしたが、高良山の地元では皆、本当の歴史を知っていたために、整合性が取れず、追及されたのでしょう、第1条でいろいろと説明をしたのですが、嘘を重ねてしまい、ついに自己矛盾してしまいます。

そのため、最後の550条は1条とも違った話を書いています。さらに551条の系図も1条とは矛盾してしまいます。

ですから、『神秘書』を研究する場合は三つの構成で分けて読むと、嘘に引っ掛かりません。

第1条は最後の最後に読むのがベストです。

武内宿禰は日下部氏系図では物部保連(やすつら)となっています。

一般には応神天皇の父は武内宿禰だと印象操作されました。

でも、第1条では応神天皇の父は底筒男だと主張したため、物部氏=住吉族という変な話になりました。
こうして玉垂命は一体誰なのか分からなくなったのです。

玉垂命は江戸時代の御殿様が武内宿禰に決めた、と高良大社で伺いました。

高良下宮社の古い祭神を見ると、「高良玉垂命」と「武内宿禰命」が並んでいるので、やはり別人だということが分かります。

『神秘書』は最初の第1条と最後の二条には騙されないように読むのがコツです。


20190106



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by lunabura | 2019-01-06 22:18 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Comments(2)

にっき 豊姫信仰など



二日もブログを書いていませんね。

その間、小城鍋島家Tenでの歴史カフェの資料を作成していました。
淀姫と豊姫と豊玉姫
ブログではもう何度も過去記事に書いていますねえ。

今回は與止日女(よどひめ)神社(佐賀)と止誉比咩(とよひめ)神社(下巻56赤司八幡神社の古称)の比較もしてみます。


すると、豊姫信仰が筑後川流域に広がっていたのが見えてきました。
豊姫とは神功皇后の妹ですね。
武内宿禰の妻となりますが、なかなか子宝に恵まれなかったようすも與止日女神社の話から伺えます。

それでも、シャーマンとしての力が広く信仰されていたのでしょう。
志式神社の浜で干珠満珠を海神から授かった巫女ですから。

與止日女神社と止誉比咩神社の共通点は数メートルもの高さが変わる有明海の波が寄せる所ということです。

そこは夜渡(よど)七十という七十年に一度の大津波が有明海から遡上する地域。

女神たちの祭祀から古代の人の営みが見えてきます。






by lunabura | 2018-05-22 22:01 | 歴史カフェ | Comments(0)

バスハイク 久留米~大川~柳川~みやま 今回は掲示板が気になった


バスハイク

久留米~大川~柳川~みやま 

今回は掲示板が気になった


一昨日、3月16日、「歴史と自然を守る会」のバスハイクの案内をしてきました。

久留米市の赤司八幡神社から市内の大善寺玉垂宮まで小一時間かかります。
赤司が水沼君の聖地なら大善寺と三潴町は政治の地。
大変広大な地域を水沼君が治めているのを実感できました。

代々の水沼君の墓所の一つ御塚古墳・権現塚古墳などは大変保存状態がよく、三重、あるいは一重の水濠が見事に残っています。福岡では水濠が残っているような古墳を初めてみました。ここは必見の古墳です。


弓頭神社は水沼と通婚した国乳別皇子(くにちわけ)を祀る神社で、その墓所が烏帽子塚古墳とされています。人家の庭先を通っていきます。最近発掘が始まるという話を聞きましたが、まだのようでした。


ただ、墳頂部に家庭菜園が広がり始め、じきに埋め尽くすような印象です。歴史を学び、遺跡の保存の必要性を知っていただく必要があるように思われました。
神社から祭礼の行列が行くという、全国的にも稀な古墳です。
道案内の看板などもあればよいかと思われます。



この烏帽子塚古墳から歩いて月読神社の境内にある高良玉垂廟に向かいました。
地図を見誤って少し迷いました。順調に向かっているのは分かるのですが、神社の周囲に新たに家が立ち並び、状況がすっかり変わっていました。

路地を教えていただき、1メートル幅の道を歩いて到着しました。


ここは高良玉垂命の墓所で、歴史的にも重要な所で、『高良玉垂宮神秘書』にその歴史が書かれています。こちらは幸いに神社の境内ということで、失われることは無いとは思いますが、神社に至る入り口などの案内板が欲しいところです。



大川の風浪宮では阿曇宮司がちょうどいらっしゃって、思いがけない話を聞きました。
沖ノ島祭祀は宗像族より前に安曇族が関わっていた史料が出て来た」そうです。
すでに昨年発表されたそうですが、お願いしたら、資料を送ってくださるとのこと。楽しみです。





柳川市の鷹尾神社では「みやま市郷土史部」が二人迎えに来てくださって、みやま市を案内していただきました。

一人は同じエキサイトブログの「千寿の楽しい歴史」さんです(^^)/
バスに乗って道案内をしていただきました。

みやま市は農業が盛んで、重要な神社や古墳などは農道やクリーク沿いにあったりします。何度行っても道が分からなくなり、前回も星読さんと行って、道を間違えたので、本当に助かりました。

特に太神は重要な物部の里です。

中大兄皇子の足跡を残す太神宮釣殿宮など、物部氏や白村江の前後の研究にクローズアップされていくことでしょう。



ここも地元の歴史会が手作りで資料を掲げてあります。おかげでその歴史を知る事ができました。是非とも行政の方で本格的な案内板の設置をお願いしたいところです。



「こうやの宮」が新しくなり、釣殿宮の境内にある「西の宮」まで祭の行列が行ったそうです。「西の宮」には物部阿志賀野神が祀られています。
こうやの宮は正式名が磯上物部神社です。そこから釣殿宮まで行列が行く!
なんと凄いこと。



「こうやの宮」は案内なしには着きません。
迷って地元の方に尋ね尋ねして迷惑をかけるより、マップと掲示板があればと心より思います。

1300年以上も前の出来事の場所がそのまま伝えられている奇跡的な太神(おおが)の地。何度行っても感動します。




バスは太神の物部の里から田油津姫の墓所へ。日本書紀に出てくる人物ですね。

田油津姫、もしくは葛地目の墓とされる老松神社の蜘蛛塚の掲示板は見えるようになっていましたよ。かつて掲示板の前に植樹されていたので、見えなかったですものね。


最後は女山神籠石に行きました。

観光案内所でかつて尋ねた時は、「行けば分かる」と言われたのですが、外部の人間には全く分かりませんでした。
駐車場が無く、入り口は道路沿いにありましたが、案内板がないので、素通りしてしまいます。

お二人の案内があってようやく行ける所でした。

車を降りて展望台に向かうと神籠石には着きません。途中から分かれ道があるのですが、そこにも案内板がないと全く分からないのです。
ここも行政の方に掲示板の設置をお願いしたい所です。


みやま市の歴史資料館は閉鎖されていました。近々小学校跡に設置されるそうですが、全国的にも「邪馬台国論争」の候補地の一つとして有名な所。本格的なものを楽しみにしています。外部の者には地名や地形が一番のネックですので、分かりやすい展示をお願いしたいところです。

邪馬台国論争の候補地といえば朝倉の歴史資料館にも考古物が展示されていませんでしたね。どちらも残念です。



案内していただいた「みやま市郷土史部」のお二人に心より感謝します。









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これは女山の展望台からの桜です。
このアングルで全部桜!満開の桜が撮りたい!









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つぼみがぷっくりとしてきていました。2018年3月16日現在。


隣の山は最澄の清水山で、桜や紅葉が有名ですが、この桜景色、穴場スポットですね。





★4月6日のバスハイク、佐賀編。杵島~武雄は残席があるそうですよ!
歴史はもちろんですが、武雄の大楠、川古の大楠、鍋島家庭園の桜、ツタヤが入った武雄図書館など、お楽しみが沢山です。

申し込みは「歴史と自然をまもる会」の方へどうぞ^^
歴史と自然をまもる会
バスハイクの旧記事はコチラ
歴史と自然をまもる会はコチラ
4月6日(金)
武内宿禰の里と豊姫、壱岐真根子の終焉地 磐井の砦 桜見!
武雄の大楠、川古の大楠、鍋島家庭園桜、武雄市図書館(ツタヤ)など


★佐賀の歴史カフェの詳細案内文がまだでした。少々お待ちくださいね。
歴史カフェ小城
4月14日(土)第1回 3時~5時
1部:天山神社と天河弁財天
2部:神功皇后 豊浦宮から
申し込みはコチラへ
詳細はコチラ
会場:小城鍋島家Ten






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by lunabura | 2018-03-18 18:22 | バスハイク | Comments(0)

ウーナ21天山5 広瀬天山神社 驚愕!安弘とは房前すなわち不比等の子だった!



ウーナ21

天山5 広瀬天山神社 

驚愕!安弘とは房前すなわち不比等の子だった!
 


『東松浦郡史』(大正14年)の広瀬の天山宮に「黒尾大明神」という末社のことが書かれている。

そこには、
藤原安弘があの房前(ふささき)公の諱(いみな)だ、と書かれていた
(驚愕)!!!

まさかのビッグネームの登場だ。
安弘とは、のちに内大臣になる房前のことだったのだ。

藤原房前の父は藤原不比等。その父は藤原鎌足だ。
房前は藤原四兄弟の一人なのだ。

公に出てこない歴史が当地にあったことになる。

「東松浦郡史」をまずは訳そう。

<黒尾大明神
 右は末社である。参議正三位民部内大臣藤原安弘がこの神で、天山宮の社司の祖である。すなわち房前公の諱(生前の実名)である。
藤原姓の祖とする神である。
天平神護元年(765年)(称徳天皇の)勅宣をたまわって、安弘公を黒尾大明神とした。>

藤原房前は681年生まれ、737年に56歳で薨去。
ここに天御中主命を勧請した701年は21歳の時になる。
この年、父・不比等は43歳。文武天皇は19歳。持統太上天皇は57歳。

房前はその直前に対馬で戦って勝利したことから、天山に関わってくる。

天山神社の由緒には「勅」という字がたびたび出てくるが、これは「天皇の命令」を意味する。

天山神社の三宮は、天皇家が格別な意味を持って勧請したことになる。
チェリーが指摘した強い意志は天皇家の意志と置き換えられる。


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中央の「晴気」はあとでラインに乗って来たが、意図してそのライン上に遷ったといえよう。

始まりは明星山と岩蔵、広瀬のラインだ。

明星山は「ひめちゃご」で散々調べた山だ。

くじらがコメントをくれた。
<新唐書に記述がある、『其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城。』
( 王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。)

矢野一貞は更に明星山の史跡につき、次のように述べている。
「上古、天津赤星が此の要害に拠る。
武内大臣久しく此山中にて西海を監護す。
筑紫君も代々当山に処る。」(ひもろぎ逍遥)

このふたつの文を見比べるに、明星山に天御中主を初代とし、
筑紫氏に至る、筑紫城があったのでは? という想いを抑えることが
出来ずに困っています。>


阿毎は阿倍と発音は同じで、阿倍磐井と通じる。
安曇族だ。
その安曇族は志賀島の沖津宮に天御中主を祀る。

佐賀の天山神社は明星山の神を引いている。
ただ、明星山の神は未詳だ。

しかし、佐賀の天山神社が当初、天御中主を祀っていたのだから、明星山には天御中主が祀られていたと推定できる。

驚きの連続だ。

そして、小城の「晴気」という所は天皇家がその価値を知っていて下賜した所となる。
晴気にはどんな価値があったのか。

現地入りが必要だが、おそらく鉱物資源や武器工房があったのではないか。
鉄、銅、金あるいは水銀か。
祀られる神が分かればある程度推測できるのではないかと思われた。





天山神社年表

690~697年 参議藤原安弘が対馬を奪おうとした敵を退治して晴気を褒賞としてもらう。(安弘は藤原四兄弟の一人、房前のこと)
701年 11月15日、藤原安弘は広瀬、本山、岩蔵に天御中主尊を勧請する。
702年 4月1日、岩蔵の北山の松に光が留まり、翌日水が湧き出し、東海から来た神という託宣があった。(岩蔵)
    10月15日 藤原安弘が天山池に蓬莱島を築いて天山神の上宮とした。(晴気)
    11月15日 弁財天が天山に飛来。烏帽子嶽に影向した。(晴気)
705年 広島の宮島から人が尋ねてきて光は宮島からと分かる。(岩蔵)
    10月天山大神宮とし、北山は天山岳と名付けた。(晴気)
1002年 烏帽子嶽の下宮を現在地に遷す。(晴気)



烏帽子嶽をチェリーが調べてくれている。現地の人が調べるのが一番良いのだが。




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by lunabura | 2018-03-10 20:28 | 「ウーナ」 | Comments(7)

筑後の回り方1 久留米編 水沼君の聖地を巡る



筑後の回り方1 

久留米編 水沼君の聖地を巡る



昨日から気持ちを切り替えて、バスハイクの資料を作成しています。

神功皇后伝承地、前回は朝倉を紹介しましたが、今回は久留米の中でも、水沼君(みぬまのきみ)に絞った回り方の紹介です。


神功皇后は朝倉で羽白熊鷲討伐に成功すると、大本営(松峡八幡)に戻り、いったんありなれ川の対岸に出て、小郡まで下ります。


ここで水沼の水軍が皇后軍を迎え、赤司八幡神社へ招きます。そこで、皇后は道主貴(みちぬしのむち・三女神)に祈ったあと、有明海に出ます。

その途中、景行天皇(けいこう)の皇子である国乳別皇子(くにちわけおうじ)の政治の地、弓頭神社に立ち寄りました。

そこでは皇子と武内宿禰の軍議があったと伝えています。ここは高三潴(たかみずま)と言います。


同じ三潴の聖地、大善寺玉垂宮がすぐ近くにありますが、高良玉垂命(磯良)が三韓征伐後、皇后の船を操縦してここに入港します。


それから何十年か経ち、自分の死期を悟った磯良はここに来て船を燃やさせます。その竜骨がご神体になったと伝えています。

玉垂命の墓も国乳別皇子の墓も高三潴の方にあります。
大善寺玉垂宮の近くの御塚古墳などの古墳群もまた水沼君の代々の墓と伝わっています。



今回バスハイクでも次の順で回ります。2時間強で回るコースです。水の女神たち水沼三女神の聖地めぐりの旅ですよ。



赤司八幡神社(下56)久留米市北野町赤司1765 
水沼の君は神功皇后を有明海まで渡し、のちに皇后は蚊田で出産した

大善寺玉垂宮(下78)久留米市大善寺町宮本1419-3 
高良玉垂命は御座船を楠につないだ
御塚古墳 権現塚(下57) 水沼君の代々の墓といわれる

弓頭神社(下57)久留米市三潴町高三潴521 
国乳別皇子は弓大将として参戦した
烏帽子塚古墳(下57) 国乳別皇子の墓といわれる

月読神社 高良玉垂廟(下78)久留米市三潴町高三潴139-2 
高良玉垂命の墓といわれる

道の駅おおき 三潴郡大木町大字横溝1331−1 

(下)は『神功皇后伝承を歩く』の下巻です。
古墳に関しては大善寺玉垂宮と弓頭神社の両方に混在して載せているので、照らし合わせて確認してくださいね。




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歴史カフェ小城/4月14日(土)第1回/3時~5時/1部:天山神社と天河弁財天/2部:神功皇后 豊浦宮から/申し込みはコチラへ/詳細はコチラ/会場:小城鍋島家Tenc0222861_15184581.gif

by lunabura | 2018-03-06 20:20 | 神功皇后伝承を歩く ガイド | Comments(0)

ウーナ18 天山3 三社と明星山を結ぶライン



ウーナ18

天山3 

三社と明星山を結ぶライン
 


さて、天山神社が三つ並んでいるが、チェリーが画像を作ってくれた。







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三社が一直線上に並び、そのラインを東に伸ばすと明星山に届いている。







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さらに詳細図が並んでいる。
広瀬の方は50mずれているが、許容範囲だそうだ。

明星山からのそれぞれの神社の距離は
    明星山から厳木町広瀬の天山神社まで 45.650km
    明星山から晴気天山神社までは 38.735km
    明星山から岩蔵天山神社までは 35.873km

ところが、広瀬と晴気同士は目視できないそうだ。
もし、広瀬をライン上に載せるとなると強い意志が必要だという。
明星山からはこう見えている。









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磐井の山城がある山から天山がよく見えていた。
ただ、天山神社の物語は700年代になるので、磐井の時代はとっくに過ぎ去っている。一つ、重要な転換点は少し前の663年の白村江の戦いだ。
倭国滅亡という傷跡がまだ残るような時代の話になる。








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岩蔵の天山神社は現人神社から特別な位置に当たるという。
その北には大島御嶽神社。
そこなら三女神との関わりも出てくる。








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一方、岩蔵から松尾弁財天でも三女神がらみだ。
一つひとつのラインが意義深い。不思議なライン群だ。


これらが何を意味しているのか。皆さんの感想もいろいろあるのではないか。

晴気(はるけ)はもともとそこにあったわけではない。
次回は晴気を読んでみよう。


 


つなぎレンガ座
3月4日(日)3時~5時佐賀の神功皇后伝承「天皇家を支えた武内宿禰の里」-神功皇后は三度、訪れたー会場 小城鍋島家Ten詳細はコチラ
おかげ様で満席になったそうです。ありがとうございます。 





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by lunabura | 2018-02-27 22:26 | 「ウーナ」 | Comments(4)

阿志岐山山名考 アテラ 宮地岳 アシキ 天山



阿志岐山 山名考 

アテラ 宮地岳 アシキ 天山




筑紫野市の阿志岐山(339m)の山名には複数の名称があります。
アテラ山、宮地岳、阿志岐山、天山です。

その由来について、過去記事をリンクしておきます。
直接に由来を書いている訳ではありませんが、その説明を含んでいます。



(1)アテラ(左手等)山
朝倉の麻氐良山(右手等)に対応して「左手にある山」という意味。
高良山から見れば左右が該当する。



麻氐良と阿氐良




(2)宮地岳
北極星を宮地の星ということから、
南から観測して北にある神奈備山を宮地岳(嶽)という。

阿志岐山は高良山から真北にあることから、宮地岳というのではないか。
宮地岳は福岡の数か所にある。

下のリンクの記事の一部に高良山と阿志岐山のことを書いています。

湯の隈装飾古墳 朝倉市宮野湯ノ隈1326-2
被葬者は宮地嶽神社を守っているのか






(3)阿志岐山

舟人を「あきしき」或いは「あかし」といった。
蘆木(あしき)はまさに太宰府に直属して
千歳川の水行を司った氏族の名であった。(真鍋大覚)

千歳川とは筑後川のこと。荒船神社は阿志岐山の山麓にあり、南の高良山麓にもアシキの地名がある。その中間には赤司の地名もある。これらを結ぶ連絡船があったのではないか。地名はその名残か。

以下に前後の内容を書いています。
荒船神社(3)蘆木氏は太宰府に直属していた







(4)天香山から天山に変化した

阿志岐山はかつて天香山(あまのかこやま)といい、神武天皇や神功皇后がこの山の土から土器を造って祭祀に使った。天香山が変化して天山(あまやま)となった。

阿志岐山を天山というのはこれだろうか。




以上、るな的考察でした。

<20180115>





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by lunabura | 2018-01-15 21:41 | <地名・地形・伝承> | Comments(0)

「高良玉垂宮神秘書」アントンイソラは6条に有り



「高良玉垂宮神秘書」

アントンイソラは6条に有り



安曇か阿曇か。

「あづみ」の表記をどちらにしようか、ずっと悩んでいました。
音読みすれば「安曇」はアンドン、「阿曇」はアドンです。

出来るだけ古い字体を使う方が汎用が効くのです。
そんな時、「高良玉垂宮神秘書」の6条に、次のように書かれていたのを見つけたのです。











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安曇磯良はアントンイソラと呼ばれていました。
発音は「曇」の字から、アンドンと発音されていたのが分かりますね。

これで、いろんな謎が解けたのです。
そして、安曇の表記を使うようになりました。




そして、今現在は春日大明神がいったい誰なのか、訳が分からなくなっていたのですが、6条から、中世頃は安曇磯良を指していることに気づきました。

でも、藤原氏の神が何故、安曇磯良?


その手掛かりは藤原鎌足が祀った宮野神社(朝倉)にあるのですが、どう論考したらいいのか、まだわかりません。





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by lunabura | 2018-01-09 21:17 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Comments(8)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25