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珍敷塚古墳・天鳥船の壁画だけど外観のみ


珍敷塚古墳
めずらしづかこふん
 外観のみ


前回の浅田古墳群から西、久留米方面へ約6キロの所に、珍敷塚古墳があります。6キロという距離は氏族も別になるでしょうが、例の天鳥船があるので、現地を確認しに行きました。

前回、資料がないとボヤキましたが、うきは市の観光協会から戴いた資料の中に、「うきはの装飾古墳」という優れ物が入っていました♪

発行は、うきは市教育委員会です。重定古墳の壁画は、ユギがずらりと整列している様子が飯塚の王塚古墳に似てたり、行けなかった楠名(くすみょう)古墳の入り口が福津市の手光古墳と似てたりしていて、ワクワクしてます。

で、本題の珍敷塚古墳ですが、石室は見られなくても、福岡県大阪観光協会の発行したリーフレットに載っていた、あの天鳥船の現場ということで、行ってきました。
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あれ?
あれれれれ?
あれじゃない?
行きすぎました!

古民家カフェのような瀟洒な看板があって、通り過ぎながら「珍敷塚古墳」の字を確認。
車をバックさせて、現地に立ちました。

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ここは屋形古墳群と言って、四つの古墳があるということです。

壁画を観察すると、珍敷塚古墳と原古墳、鳥船塚古墳の三つが「ミサキ鳥」を舳先(へさき)と艫(とも)に一羽ずつ乗せて、帆柱などが描かれています。

エジプトのラ―の船と共通する画があるのはここです。
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(福岡県大阪事務所発行 無料で送ってくれますよ)


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この古墳は小さな家屋で墳丘もなく、古墳には見えないので調べて行くと、破壊されていて、奥壁だけが残されたもようです。

当地はフルーツ観光で有名ですが、造園業も盛んなので、古墳を壊して畑に造成し、石は庭石に使われていったのではないかと思います。


小郡市では、家の塀代わりにおびたたしい数の石室っぽい石が山積みされているのを見ました。

ここも、石を持ち去ろうとした時、この画の躍動感にただならぬものを感じた人が残してくれたのでしょうか。

この天鳥船のモチーフを描いた古墳が三つ並んでいる点では、一族の墓が次々と造られたんだろうなと、想像させてくれます。




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少し離れて写しました。裏手に三つの古墳が並んでいるはずです。少し坂になっていました。もう暑くて断念。

冊子からは、珍敷塚古墳の次の世代の人は力不足で、モチーフを描くのがやっとという印象を受けます。逆の意見を持つ人もいるかも。
四つ目の古畑古墳の絵は日岡古墳と似たタイプだと指摘されています。

時代については記述がないので、想像することが出来ません。








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これは反対側の風景です。

果樹園の先に立つと、筑後平野が見渡せます。筑後川は一夜川というほど、流れが変わる川で、いつも氾濫しました。

正面の山並みは朝倉です。3世紀の初頭まで羽白熊鷲が活躍し、神功皇后に滅ぼされました。それから400年以上経って、斉明天皇が神功皇后の足跡で祈り、朝倉橘広庭宮を造りました。

この珍敷塚古墳の被葬者はその間の人です。
周辺の神社は鷹取宮、天満宮、熊野神社、宮地嶽神社。

何か手掛かりはないか。
やっぱり歩かないと駄目ですね。



珍敷塚古墳







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by lunabura | 2015-09-19 23:03 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(10)

重定古墳と塚花塚古墳・同時期の装飾古墳なのに石室の設計が全く違う(驚)


重定古墳と塚花塚古墳

うきは市浮羽町朝田
同時期の装飾古墳なのに石室の設計が全く違う(驚)


前回の高御魂神社から新川を下り、賀茂神社前を通って西に1キロ進むと、有名な装飾古墳群に出ます。

今回はその内、重定古墳塚花塚古墳を見つけることが出来ました。
どちらも道路沿いにあったのですが、初めてだと、見つけ出すのが大変なのが古墳巡りです(^_^;)

でも、古墳の被葬者は神社にお参りしていたはずなので、歩ける範囲に古墳があるなら要マークです。しかも、装飾古墳♪

まず、重定古墳を見つけました。

重定古墳
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で、右手にあった石段を上ると何故か現代のお墓。



これ以上は進めず、訳分からず降りました。
ネットで見ると、もっと広い石段があり、頂上に出ることができそう(/・ω・)/
――先達は あらまほしきなり。

これは前方後円墳だったのが削られて、後円部が残っているそうです。
時代は6世紀後半。
磐井の乱の傷も癒え、宮地嶽の勝村・勝頼が活躍している時代。
阿毎多利思北孤や聖徳太子がそろそろ活躍しようとしている頃かな?


装飾古墳の絵柄も分からないですが、石室の写真を「うきは市の文化財」から。




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迫力がありますね。
天井石は一枚石だそうです。








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看板を見ると、双六のように、塚花塚古墳への道が。三歩進め、てか?



塚花塚古墳
つかはなづか

すぐ近くにありました。



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古墳の全景です。円墳だそうです。

ここには看板がありました。





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馴染みの絵図がありますが、全体のデザインが分かりません。


佐賀の田代太田古墳などのように、壁画や石室などの画像つきの看板に進化してほしいですね。

こちらも手元の資料によると6世紀後半ということなので、さっきの重定古墳と同時期になります。
でも、石室の設計は全く違います。



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こちらは小さい石を積んでいます。


同時期で近所なのに、前方後円墳と円墳という形の違いもさることながら、石室の設計が全く違うということは、興味深いです。
二種の石工がいたということになります。

壁画のアイテムの共通項はあるようですが、現地では何も分かりませんでした。
比較したら面白そうですね。

あらためて、装飾古墳の本を探さないと分からないのでしょうか。
浮羽の装飾古墳が一挙に掲載されている本とか、あるのかなあ。




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これは古墳の西側の山を撮りました。鷹取山でしょうか?









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こちらは新川方面。一番左の木立が賀茂神社かな?
右手の山裾に三次神社があるのではないかなと思いますが、あくまで推測です。


とても良い環境ですね!




地図







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by lunabura | 2015-09-17 23:09 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(6)

高御魂神社・ 的物部の宮という


高御魂神社
たかみたまじんじゃ
 的(いくは)物部の宮という
旧浮羽町新川春園


前回までの賀茂神社のそば、西を流れる新川水系を遡りました。
浮羽大橋を通り、合所ダムの東の山間部を走ると、新川駐在所の前に
心魅かれる古社の鳥居が見えます。
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急な石段の上に高御魂神社は鎮座していました。


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祭神 高皇産霊神 たかみむすびのかみ
   天御中主神 あめのみなかぬしのかみ
   神皇産霊神 かんみむすびのかみ

この三柱は『古事記』でも初源に出て来る神々です。
町誌を見ると八代から勧請された宮だと書いてあります。

由緒
宇多天皇寛平7年(895)、肥後国八代郡大田郷の妙見宮を、熊抱平馬太夫行定が御伴してこの地に勧請した。

895年とは、当ブログにおいては比較的新しい宮です。
熊抱という姓は賀茂神社の大宮司としても出て来ることから、
当地全体の統治に関わっていたと思われますし、
高御魂神社と賀茂神社が深い関わりだということも分かります。

この高御魂神社はもともと妙見宮と称していたのが、
明治6年(1873)に」高御魂神社と改称しました。

これ以上のことが分からないので、はたして八代に妙見宮が存在するのだろうか
とネットで検索すると容易に出て来ました。

八代市妙見町405に鎮座しています。

祭神は天之御中主神、国常立尊、また、北斗七星です。
両宮を比較すると「天御中主神」が共通しています。

面白いことに、八代の方は795年に創祀されていました。
浮羽は895年。ちょうど百年を節目として勧請していることが分かります。

八代の方では次のような縁起を伝えていました。
妙見神の来朝
天武天皇、白鳳九年(六八〇)、妙見神は、神変をもって、目深・手長・足早の三神に変し、遣唐使の寄港地、明州(寧波)の津より「亀蛇」(玄武)に駕して、当国八代郷八千把村竹原の津に来朝せり。

妙見神は寧波(ニンポー)からの渡来神でした。
白鳳九年(680)と明記しているので、渡来人が亡命して来た可能性があります。
その渡来人の風貌が三神「目深、手長、足早」で表現されているのでしょう。

680年に渡来して、795年に上宮で祭祀されるようになり、
さらにその百年後に浮羽に勧請されたことになります。

895年以前に寧波からの渡来人の一部が浮羽の山奥に入植していて、
改めてその信仰神を勧請したと考えることが出来ます。

さらに八代の方をウィキペディアで調べていると、
次のような境外末社が出て来ました。
霊符神社
祭神 - 北辰星・霊符尊星
由緒 - 霊符神社(れいふじんじゃ)は八代神社の末社、鎮宅霊符神の総本社。

推古天皇のころ、百済国聖明王の第3王子琳聖太子が八代に日本最初の霊符神を伝え、白木山神宮寺(妙見宮の神宮寺)に鎮座した。

信仰すれば、除災興栄、富貴反映を得るという。明治維新後廃仏毀釈で荒廃したが、大正年代に再興。
所在地 - 八代神社東方約200メートル

百済・聖明王の第三王子、琳聖太子が八代に来ています。

聖明王の長子が余昌(威徳王)で、鞍手の鞍橋君の率いる軍がこの余昌軍と共に新羅に侵入して、一緒に籠城しています。鞍橋君は葛子の子です。

ウィキペディアの聖明王の系図では二人の王子の名前しか書かれておらず、この第3王子の名はありません。八代にのみ残されているのかもしれません。

余昌は526年生まれなので、第3王子はその数年後の生まれです。

527年が磐井の乱です。
乱後は葛子が筑紫君になっているので、百済の第3王子は筑紫君葛子の質として来日したのかもしれません。

三韓がそれぞれ王子を質として差し出すのは、神功皇后の戦勝以来の話にみられ、高良山の方でも、三韓の三人の王子のうち、百済王子のみが生きて上陸し、他は船の中で死んだと伝えています。

話を八代に戻しますが、第3王子の琳聖太子は「霊符神を伝え、白木山神宮寺(妙見宮の神宮寺)に鎮座した」とあります。

蛇足ですが、百済王子関連でありながら白木山となっているということは、他の白木も総てを新羅とする考えは見直さなくてはならないようですね。


以上から分かる事は、
八代には磐井の時代から百済王子を受け入れる政治的な組織があり、天武天皇の時代に中国からの渡来人を受け入れたということです。その風貌から中東の辺りの人かもしれません。それから百年後、浮羽にその神を勧請しました。

八代から浮羽へ。
何があったのか。
手元の資料からはこれ以上は分からなかったのですが、くじらさんから、次のようなコメントをいただきました。

藤波ダム下流の公園の隅に「物部本家ここにあり」という意味の石碑がポツンと立っています。

明治までは浮羽から星野にかけての山岳地帯を姫治といい、鉱物資源独占の為か、外部の人間は決して入れなかったと聞いています。

この広いエリアの物部郷はある意味、隠れ里として人の眼に触れる事無く、存続してきたのでしょう。物部の一党が代々守ってきた高御魂神社は八代 妙見宮から勧請されたと言われています。

星野で思い出すのは金山があった話です。金に限らずこの山塊には鉱物資源があって、物部氏がひそかに掌握していたことになります。

これらから総合すると、八代において妙見神が「白鳳九年(六八〇)」に渡来したという年がキーポイントになります。

これは白村江の戦い663年のすぐ後なんですね。
倭国と日本国の連合軍は唐と新羅の連合軍に負けています。

考えられるのは軍備の差。
八代にいた支配層は、唐軍の軍備との大きな開きを痛感して、寧波から武器製作集団を招いたのではないでしょうか。


倭王朝が滅び、日本国が台頭して、律令制度の支配下になることを嫌い、鉱物資源があった姫治を絶対的に隠したかった。そして、倭王朝の再興を期して力を貯えようとした。それが的物部氏がこの山岳を隠した理由ではないでしょうか。


麓には天満宮がかなりの数、点在しています。また装飾古墳群がずらりと並んでいます。ここは的物部の巨大な軍事産業基地だったと想定できます。


麓の三次神社や賀茂神社が大友宗麟の崇敬を受けたり、逆に焼き打ちに遭ったことを考えると、この浮羽は中世まで、各大名が喉から手が出るほど欲しかった武器供給地だったのでしょう。

しかし姫治は徹底的に隠されて、大友宗麟の手は及ばなかった。
そんな想像をしました。


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高御魂神社






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by lunabura | 2015-09-15 20:42 | (タ行)神社 | Trackback | Comments(11)

三次神社(2)景行天皇の筑紫行 まとめ


三次神社(2)

景行天皇の筑紫行 まとめ




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(雨乞いの三次石があるというが、狛犬の間の石だろうか?)


由緒に、景行天皇が来た具体的な年と、猿大海にヒモロギを造らせた話が出てきました。
同様な話が久留米の赤司八幡神社でも採集できています。

猿大海と景行天皇のことは『日本書紀』にも出ています。
景行18年と28年を中心に筑紫や肥前の縁起も含めて整理してみました。

18年3月 天皇、京に向かおうとして筑紫国を巡狩する。
7月4日  筑紫後国(みちのしりのくに)の御木(みけ=三池)に至って高田行宮に居す。
       倒れた巨木、歴木(くぬぎ)について話す。
7月7日  八女県(やめのあがた)に至る。藤山を越えて南粟岬を望んで
       神の山ついて水沼県主猿大海に尋ねる。八女津媛について答える。
8月     的邑(いくはのむら)で食事をするとき、ウキ(杯)を忘れたことで浮羽という地名になった。
9月20日 日向より至る。

27年7月 武内宿禰に北陸視察を命じる。
8月     熊襲が背く。
10月13日 日本武尊(16歳)に熊襲を討たせる。
12月    川上タケルを討伐。
28年2月  日本武尊戦勝報告。

以上が『日本書紀』の記述(一部)です。
景行天皇は18年に三池から八女、藤山を経由して北上し、8月に浮羽に着いています。
ウキを忘れた事件はこの時の話となりますね。

この時、猿大海が同行しているようです。ここは賀茂氏が武器を造っていたのでしょう。その為に三次神社を聖地と定めて祀ったと考えられます。

『古事記』的には、宗像三女神(当時は水沼三女神)と出雲の合体が賀茂大神なので、浮羽は水沼の統治下にあったのかもしれません。

水沼県主・猿大海の屋敷は久留米の赤司八幡神社にあり、景行天皇はそこで天壇を造って三女神を祀り、国乳別皇子を天皇代行として残しています。

経路から考えて、藤山から赤司八幡神社を経由して浮羽に向かったのではないかと考えられます。

また、佐賀市大和町川上 真手山(まて)にヤマトタケルから襲撃された熊襲タケルが逃げ込んだ伝承があります。

熊襲タケルは筑紫で一度ヤマトタケルと会っていて、筑紫の拠点でヤマトタケルに襲撃されて佐賀市大和町まで逃げたといいます。

これが景行27年12月に該当します。
このあと28年に景行天皇は猿大海に命じて、三次神社の聖地に磐境、神籬を祀らせたことになります。

猿大海は水沼県主として、広範囲を治めた、かなりの実力者だったことが分かります。

国乳別皇子の后は水沼から出たので、さらに結束は強くなりました。

日本武尊、仲哀天皇と、次々に当地を訪れ、その記憶を留めるために親子三世代が祭神として祀られたのでしょう。

また、肥前国風土記では景行天皇は高羅の行宮から基肆国の永世神社に行ったと書いています。このルートを仮定すると、浮羽から高良山~佐賀と移動したのかも知れません。



以上の仮説を追加して、『日本書紀』に追加します。

18年3月 天皇、京に向かおうとして筑紫国を巡狩する。
7月4日  筑紫後国(みちのしりのくに)の御木(みけ=三池)に至って高田行宮に居す。
       倒れた巨木、歴木(くぬぎ)について話す。
7月7日  八女県(やめのあがた)に至る。藤山を越えて南粟岬を望んで
       神の山ついて水沼県主猿大海に尋ねる。八女津媛について答える。
このころ 久留米赤司の猿大海の拠点で三女神を祀るために天壇を造り、
       国乳別皇子を残して祭祀をさせる。


8月 的邑(いくはのむら)で食事をするとき、ウキ(杯)を忘れたことで浮羽という地名になった。
このときの滞在地はのちに三次神社となる。

このあと、高良山の行宮を経て基肆国永世神社に行く。
9月20日 日向より至る。

27年7月  武内宿禰に北陸視察を命じる。
8月      熊襲が背く。
10月13日 日本武尊(16歳)に熊襲を討たせる。武内宿禰同行。
12月     日本武尊は川上タケルを討伐。場所は佐賀市大和町真手山

28年2月 日本武尊戦勝報告。
同年  猿大海に命じて磐境と神籬を三次神社の地に造らせる。

こんな風になりました。

地図がないと分かりにくいですね。
私も、いつも福岡県の地図とにらめっこしています^^


猿大海、水沼、国乳別皇子については、『神功皇后伝承を歩く 下巻』
56 赤司八幡神社
57 弓頭神社
78 大善寺玉垂宮
で復習してくださいな。



地図 三次神社







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by lunabura | 2015-09-13 23:37 | (マ行)神社 | Trackback | Comments(0)

三次神社(1)景行天皇が猿大海に磐境を造らせた


三次神社(1)
みつぎじんじゃ
旧浮羽町大字山北日盛園
景行天皇が猿大海に磐境を造らせた

賀茂神社を後にして、歩いて三次神社を探しに行きました。
8月15日の真昼、猛暑の日でしたが、思ったより辛くはありませんでした。


何枚もの地図を組み合わせて探しに行ったのですが、尋ねても知る人がいません。
それでも、やはり向こうに見えている森だろうと歩いていくと、車は入れない所でした。




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とても、風情のある小路です。





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あった!
真昼の影のせいで、神額が真っ黒に写っていますが、「三次神社」と書いてあります。



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真夏の日差しでハレーションを起こしていて、ピントがあっているのに、合ってないような感じになっています。
訪れる人もいないようです。






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石の社殿です。

祭神 大足彦忍代別尊(景行天皇) 日本武尊 仲哀天皇 菅原道真

御祭神は父と子と孫。三人揃って祀る宮は初めてです。



由緒
景行天皇十八年、天皇筑紫国を親征された時、生葉山の麓、三次の杜(今の楯山)に霊畤(まつりのにわ)を設けて天神地祇を祀って天下の泰平を祈りたまい、同二十八年、水沼県主猿大海に命じて磐境(いわさか)を造り神籬(ひもろぎ)を立てさせ、神祇を鎮め奉ったのが創始と伝えられている。


景行天皇が最初に来たのは景行十八年とあります。

この宮は生葉山の麓にあるのですが、どの山を指すのか、分かりません。
地図にも、目ぼしい山が見当たりません。


「三次の杜(もり)」はここでしょうから、霊畤(まつりのにわ)も、ここなのでしょう。
景行天皇は十年後の二十八年に水沼県主の猿大海に命じて磐境を造らせています。






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境内の周囲をぐるりと清らかな水が流れていました。





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裏に回ったとき、人工的な石組の跡を発見。その石垣の上に磐座があったのです。


崩壊しているのでしょうか、あるいは元々このような形だったのか。
しかし、そこではゴミが燃やされていました。
ショックのあまり、写真はこれだけしか撮っていませんでした。






神社を振り返ると、磐座は社殿の正中線上に乗っているように思われますし、正面の筑後川を経た向こうに聖なる山を見ているフシがあります。



この宮は過酷な運命を持っていて、大友宗麟に焼き払われた時を含めて6度も社殿を建て直さなければならない状況に見舞われていました。

そして、磐座もゴミ焼場に成り果て、市民から忘れ去られていました。






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by lunabura | 2015-09-12 23:10 | (マ行)神社 | Trackback | Comments(6)

賀茂神社(6)賀茂大神は古出雲と水沼のハイブリットか


賀茂神社(6)

賀茂大神=賀茂建角身=八咫烏=阿遅鉏高日子根

古出雲と水沼のハイブリットか



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当社社伝に書かれていた宇佐(安心院)と浮羽を行ったり来たりしています。
浮羽の縁起に符合する歴史が安心院にあって、伝承の確かさに今更ながら感じ入っています。

さて、当社の四祭神のうち、神武天皇のことが確認できましたが、今日は残りの三祭神について考えて見ようと思います。特に、「玉依姫」は神武天皇の母と、賀茂別雷尊の妻・玉依比売という同名別神がいるので、それも頭に入れながら見ていきます。

ウィキペディアに書かれている当社縁起は
当社の行直大宮司が慶安4年(1651年)に誌した旧記には、「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、
神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」と述べている。(略)

でした。
御祭神は
神日本磐余尊(神武天皇)
賀茂別雷尊
賀茂建角身尊
玉依姫尊


「賀茂別雷尊、賀茂建角身尊」という賀茂の神は初めての神々なので、調べてみると、「山城国風土記逸文」からの引用文が基礎資料となっているので、それを書き写して見ることにしました。

文中に出て来る「加茂の社」とは京都の下鴨神社のことです。

山城の国の風土記にいう、―――加茂の社。加茂と称するわけは、日向の曾の峰に天降りなさった神賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)は、神倭石余日古(かむやまといわれひこ・神武天皇)の先導として御前にお立ちになって、大倭の葛木山の峰に宿っておいでになり、そこからしだいに移動し、(略)

賀茂の建角身命は、丹波の国の神野(かみの)の神伊可古夜(いかこや)日女(ひめ)を娶ってお生みになった子を、玉依日子と名づけ、次を玉依日売といった。玉依比売が石川の瀬見の小川で川遊びをしていた時、丹塗り矢が川上から流れ下ってきた。そこでそれを持ちかえって家の寝床の近くに挿して置くと、とうとうみごもって男の子を生んだ。

(その子が)成人式の時になると、外祖父建角身命は、八尋の家を造り、八戸を堅く固めて、八腹(やはら・沢山の酒甕)に酒を醸造して、神をつどい集めて、七日七夜宴遊なさって、そうしてその子と語らっていうには「お前の父と思われる人にこの酒を飲ませなさい」と。

するとただちに酒杯をささげて天に向かって礼拝し、屋根の瓦を突き破って天に昇ってしまった。そこで外祖父の名によって加茂の別雷命と名づけた。

いわゆる丹塗り矢は乙訓(おとくに)の郡の社におでになる火雷命(ほのいかづちのみこと)である。(略) 『釈日本紀』

吉野弘訳より

神賀茂建角身命の娘の玉依比売が丹塗り矢を持ち帰ると妊娠して子が生まれたが、父が分からず、神々を集めて子供に「父に杯を」と命じたら、天を指し示したという話です。これで父が雷神・火雷命だったを分かり、子供の名前は賀茂別雷命となったということです。

そうすると、登場した「父と娘とその子」の家族が当社に祀られていると考えてよさそうです。玉依姫とは風土記の玉依比売のことでしょう。書き分けのため、神武天皇の母を玉依姫、賀茂建角身命の子供を玉依比売とします。

社伝では「神賀茂建角身命は、神倭石余日古(神武天皇)の先導として御前にお立ちになって」とあるので、「父の賀茂角身命が八咫烏」ということになります。

ところで、その降臨の地、日向の「曾」とか、大倭の「葛木山」とか、見ていると、「ソ」=脊振山に天降りして、犬鳴山系の葛城に移動したと読めて仕方がありません。

脊振山こそ賀茂神社の発祥の地((儺の国の星p68)と真鍋も伝えているし、葛城山系と言った犬鳴山系には蹈鞴の歴史があるし。

ここ、浮羽を押さえると、平群(脊振山系)、葛城(犬鳴山系)、巨勢(耳納山系)と、重要な三山が掌握できるんですね。これらの地名が神武東征と共に、関西に移動したと考えるのが自然でしょう。

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賀茂氏には東征に付いて行った一派と、浮羽に留まった一派がある、と捉えるのがよさそうです。

以上から賀茂大神とは賀茂建角身のことで八咫烏だという結論になります。

一方、今日、たまたま『古事記』を読んでいたら、大国主の子供にも「迦毛大御神」が出て来たんです。

大国主の神は胸形の奥津宮にいらっしゃる多紀理毘売を娶って生まれた子は阿遅鉏高日子根神。(あぢすきたかひこね)次に妹高比売の命。別名、下光比売命。(したてるひめ)

この阿遅鉏高日子根神は今、迦毛大御神(かものおおみかみ)と言うぞ。

風土記と『古事記』を合体すると、
賀茂大神=賀茂建角身=阿遅鉏高日子根となり、両親は「大国主と多紀理比売」となります。

もちろん、多紀理比売は三女神の一人ですが、筑紫の平群・葛城・巨勢に囲まれたエリアには水沼族がいます。その降臨地は赤司八幡神社で、三女神の中でも田心姫(たごり)を中心として祀っています。

拝火教であるゾロアスター教について、
本朝では穴遅(あなむち)として神代に現れ、天平の頃は穴師(あなし)あるいは賀名生(あのう)と呼ばれ、溶鉄錬金の橐師(たくし)工人の氏族の別名となった。)『儺の国の星』143

と真鍋は書いています。大国主=大己貴なので、賀茂大神は古出雲と水沼族のハイブリットだったという結論になってしまいました。

でも、これって、古代の筑紫をよく説明しているような感じがします。
遠賀川~玄界灘の古出雲と古有明海の水沼。筑紫の君を輩出する家系。

この古出雲―水沼の連合国が別の冶金集団の高木一族と対立していたのではないかなあ。

神功皇后の夫仲哀天皇の死後、皇后は羽白熊鷲率いる冶金集団を滅ぼしまたが、残る敵である熊襲に対しては吉備臣の祖・鴨別(かのもわけ)を遣わして攻撃させています。熊襲は簡単に降伏しました。

神武の東征ルートを考えると、吉備にも繋がってきて、吉備があれほど栄えたのも、また、同じような装飾文様があるのも、賀茂氏をキーワードとして見ると、見えてきそうな予感です。

当社の祭礼に広範囲の氏子衆が参拝するのも、中央の水沼族を考慮すると理解できました。

『神功皇后伝承を歩く』をお持ちの方は、
下巻56 赤司八幡神社
下巻78 大善寺玉垂宮
上巻33 御勢大霊石神社
を御覧ください。






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by lunabura | 2015-09-04 21:14 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(2)

賀茂神社(5)三毛入野命の末裔の宮


賀茂神社(5)

三毛入野命の末裔の宮


町誌を見ていると「三毛入野(みけいりの)命の裔」という文字がさりげなく二か所に出てきています。
???
どこかで聞いた名前だな。

そう思って調べると、神武天皇の兄でした。
『日本書紀』によると、
三毛入野命はイワレビコ(神武天皇)たちと共に東征する途中、海難に遭い、常世の国に行ってしまいます。

その時の恨みの言葉が「私の母や叔母は海神(わたつみ)なのに、どうして波を立てて溺れさせるのだ」です。

この時、もう一人の兄、稲飯(いなひの)命も「我が祖は天神、母は海神。どうして陸に海にと、翻弄するのだ」と嘆いて剣を抜いて入水します。

海神とは即ち、安曇族。
二人の母と叔母とは即ち、玉依姫と豊玉姫のことです。

これを踏まえて町誌を読んでみましょう。

由緒
当社については、迦毛大御神御神跡で賀茂社の総本社に座すという伝など諸伝があるが、藩内通俗諸書の述べるところでは、後村上天皇の御代正平元年(1346)に西征将軍懐良親王が領主三毛入野命の裔山北四郎永高に命じて、九州鎮護のために、山城国愛宕郡賀茂下上大神宮を勧請されたのが創始である。(略)時の大宮司は熊懐平馬太輔行景であった。(略)

「領主・三毛入野命の裔」と出てきました。時代は1346年。懐良親王が来た時の話です。

迎えた領主・山北四郎永高は三毛入野命の末裔だったのです。町誌では、この時、京都の賀茂神社を勧請したのが創始であると書き、古伝はバッサリと切り捨てて、内容が一行も書かれていません。

 しかし、ウィキペディアに誰かが書いて置いてくれたお蔭で、私たちは縁起を知る事が出来ました。その出所は当社の古文書です。

 で、今回のテーマは「三毛入野命の末裔が当地の領主だった」ということです。

これを推理すると、神武天皇が安心院から浮羽にやって来た時、実は兄も一緒だったのではないでしょうか。

賀茂氏が姫を三毛入野命に娶(めあわ)せたとすると、その子供が代々、当地を治めたということになり、辻褄が合います。

イワレビコは安心院では侍臣の天之種子を水沼の姫と結婚させていました。こうして、各地で姻戚関係を結ばせることによって、着々と支配体制を固めていきました。

その後、軍備が整うと、三毛入野命とイワレビコ命は共に安曇族の船に乗って、東征したのでしょう。

浮羽では、賀茂氏と天孫族は協力関係の絆を太くしました。


さて、町誌によると、境内には箱式古墳や有紋土器が散在していたとあるので、確認してきました。

境内は整地されていて、その様子は分からなかったのですが、気になる丘の方に行ってみると、おびただしい古墳があったのです。


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三王神社とあります。




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石碑を撮って一歩下がった時、穴に足を踏み入れそうになりました。
見ると、石棺の蓋がずれています。向こうにはマウンドが並んでいます。
ここは古墳群だったのです。


ここは賀茂氏の領土なので、聖地のそばにある古墳群は代々の賀茂氏の長のものかもしれません。

それは、賀茂氏でも、三毛入野命という神武天皇の兄の系譜となります。もちろん、安曇の系譜でもあります。

当社の4月11日の例祭には京都の葵祭の規式によって神幸が行われているそうです。

12月11日の氏子祭には、往時は生葉、竹野、筑前上座、下座、夜須の社家が集まって奉仕したそうです。上座、下座(朝倉)夜須までもが当社の氏子だとすると、かなりの広範囲です。

そして、その範囲こそ、神功皇后が羽白熊鷲討伐で通った古代路と重なるのです。

夜須では大本営、松峡(まつお)八幡宮を設営しています。いったい、どんな豪族が協力したのだろうかと、考えていました。

賀茂神社の縁起から、三毛入野命の末裔と協力関係があった豪族だったのが分かりました。




「神功皇后伝承を歩く」をお持ちの方
「羽白熊鷲のとの戦い」
40番砥上神社から、51番美奈宜神社まで、通してお読みください。
松峡宮(大本営趾)から秋月野鳥(のとり)の熊鷲を攻撃、滅ぼして朝倉へ降りて来る道筋を描いています。







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by lunabura | 2015-08-23 16:41 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(2)

賀茂神社(4)鉱物資源を求めた渡来人たち


賀茂神社(4)

鉱物資源を求めた渡来人たち


ふたたび、うきは市の賀茂神社に戻ってきました。



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同じような朱色です。

ウィキペディアに書かれている当社縁起は
当社の行直大宮司が慶安4年(1651年)に誌した旧記には、「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」と述べている。(略)

となっています。
御祭神
神日本磐余尊(神武天皇)
賀茂別雷尊
賀茂建角身尊
玉依姫尊

はっきりと、「賀茂別雷尊、賀茂建角身尊」と、賀茂の神が祀られています。安心院の足一騰宮のケースから考えると、玉依姫はやはり、神武天皇が母を祀らせたのかもしれませんね。

神武天皇の移動ルートは安心院から浮羽へと縁起は伝えています。その様子を推理しました。

浮羽の賀茂氏は神武天皇がやってくる以前から、筑紫を貫流する「ありなれ川」が流れていた頃に、船で筑後川の上流に辿りついて産鉄に取り掛かり、地元の水沼族や北部の安曇族と連携を結んで交易を行い、安心院にもその勢力を延ばしていた。


一方、山幸彦の一派が安曇族に通婚し、玉依姫にイハレビコ(神武天皇)が生まれた。イハレビコは成人すると、安心院や浮羽(うきは)を回って武器生産のようすを視察した。

この時代は船にミサキカラス(八咫烏・カチガラス)を載せて干潟や湖沼のようすを調べさていていた。賀茂氏は「先導するもの」として、八咫烏というトーテムで呼ばれた。

そんな流れでしょうか。

賀茂氏の製鉄技術と、安曇族や水沼族の運搬力が早くからシステム化されて、日本の各地を開発していた姿が見えてきました。

その代表例が長野の安曇野です。
また、阿蘇の盆地でも、湖沼の水を抜いて葦原にして、鉄を産し、のちには水田化させています。阿蘇は神武天皇の次男、三男が開発に関わったので、「鉄を統べる者は倭国を統べる」ような状態だったのでしょう。(統(す)べる)

スズ鉄の生産は葦を燃やせばいいので、環境をそれほど破壊しなかったのですが、砂鉄による製鉄は山の木を切り倒して燃やすために、伐採された山はがけ崩れが起こり、水田は土砂で埋もれ、自然災害を伴うような産鉄でした。良質の砂鉄が採れる糸島や熊本の海岸部ではその方法で鉄器を作っていました。

渡来人たちが倭国を目指して来た目的に、鉄や金や銀、水銀があったのがくっきりと見えてきました。それほど、鉱物には魅力があるのでしょうか。

現代人は月や宇宙にロケットを飛ばしていますが、その目的の一つに「資源の開発」があることを考えると、人類って何千年も変わらない性(さが)を持っているようです。



そろそろ転換期に来ていると思うんですがね。


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境内の狛犬。


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境内裏の小塩川。



地図 うきは市(赤) 安心院(青)







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by lunabura | 2015-08-20 21:58 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(0)

賀茂神社(3)足一騰宮2・賀茂氏と安曇族と水沼族と中臣氏の大連合


賀茂神社(3)
足一騰宮2

賀茂氏と安曇族と水沼族と中臣氏の大連合



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「足一騰宮」(あしひとつあがりのみや)という不思議な言葉も、「足が一つ騰がっている姿」即ち、「片膝立てた姿」と考えれば、それが何を象徴しているのか見えてきます。

「片膝立て」とは冶金の民が炎の色を見る時に取る楽な姿勢のこと。言い換えれば、ここには冶金の民がいたということになります。

ここで神武天皇を迎えた宇佐都比古、宇佐都比売は兄妹で三女神の神裔だといいます。(三女神社縁起)。水沼族は三女神を祀る氏族ですが、ここ安心院でも祀っていたことが分かりました。

神武天皇以前に水沼族は安心院(あじむ)に入植していたことになります。三女神社(二女神社)は水沼の聖地だったのです。川沿いにあったので、船着き場を掌握したのでしょう。

一方、神武天皇は磐座のある共鑰山(ともがきやま)に母・玉依姫を祀りました。そして、侍臣の天之種子命(あめのたねこのみこと)と宇佐都比売を結婚させました。それからこの地を「妻垣」(ともがき)と呼ぶようになったといいます。

天之種子命は天皇からここを守るように命ぜられ、その子孫・矢候(やこう・矢野)氏が代々社家を勤めていました。天之種子命については、当宮縁起にも『日本書紀』にも、中臣氏の遠祖と書いてあります。

こうして神武天皇は母の玉依姫を祀るための仕組みを作りました。それは安心院が安曇族の統治する地だという宣言でもあります。

「安心院」(あじむ)という地名は、玉依姫が霊界で「安楽の御心」になったことから「安心」院となったと当宮縁起には書かれています。少し無理があります。

「安楽」は大宰府の「安楽寺」という安曇関係の寺の名であり、「安心」(あんじん)には「安曇」(あんどん)の音韻変化がみられます。あるいは「阿知女」(あちめ)「アジメ」「アジム」と変化したのかも知れません。いずれにしろ「安曇」の発音の変化の一つでしょう。


神武天皇が宇佐に来た時は安曇族の海船に乗り、駅館川(やっかんがわ)を遡るのは水沼族の川船だったと思われます。

その目的は何か。
それはこの盆地がかつては葦の生える沼地だったことがヒントになります。
葦から採れる鉄はスズ鉄(リモナイト)です。

鉄を作るのは賀茂の民。
「足一騰」に象徴されていたのは賀茂の民です

水沼族の本貫地である久留米の赤司八幡神社から大善寺玉垂宮にかけての筑後川には、今なお葦が茂っています。その上流域にうきは市の賀茂神社があるのです。

「足一騰」は星にもその名が付いていました。
「足一騰星」と呼ばれたのは北斗七星です。

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北斗七星が横になった時の形を「一」と「目」即ち「片目」に見立て「一目星」(はなみのほし)とも呼びました。これは炎の輝きから視力を守るために、あるいは集中するために片目を閉じる「一目」(ひとつまなこ)のことです。

賀茂(かも)の語源は燕語の「一目」即ち「かなむり」の倭約で、「かなむり→かも」と変化したものだろうと真鍋は推測しています。その風貌は緑眼鼻高とも言っています。

「足一騰宮」とは賀茂氏の宮だたのでしょう。ここで鉄を生産し、武器を作っていたのです。その現場は隣の佐田神社の方です。

宇佐都比古と宇佐都比売は「三女神の神裔」だということですが、思えば、三女神のうち、二女神がオオナムチと結婚しています。それぞれに二人の子が生まれ、タキリ姫の方にはアジスキタカヒコネが生まれています。このアジスキタカヒコネこそ、「賀茂大神」と言われています。

思いがけず、系図からも賀茂氏の名が出てきました。

そして、中臣氏がここに結婚という形で残りました。中臣氏は祈りを司ります。水沼もまた神と人の仲立ちをする巫女の家系です。玉依姫を祀るための盤石の体制が整いました。

さて、この宮にはもう一つ、重要なものがあります。
馬蹄石の磐座です。

「龍の駒のヒズメの跡」(馬蹄石)といいます。「龍」とは明らかに海神のことで、神霊となった玉依姫がつけた趾とも言われています。

この「馬蹄石」が、久留米の高良山の磐座、神籠石にも残されています。

高良山に残る馬蹄石に関しては神秘書にこう書かれています。
高良大菩薩(この時は安曇磯良)がやって来たとき、山を支配していた高木の神が下って来た。高良大菩薩が証拠として神籠石に付けられた「馬のヒズメの跡の穴」を見せると、高木の神が納得して山を下ったとい内容です。

何故、高木の神が「穴」を見て納得したのか、理由が書かれていないので、当時の常識で、伝わっていない事情があるのだろうと思っていたのですが、どうやら「足一つ」という賀茂氏、あるいは安曇族を象徴するものの可能性が出てきました。
他に馬蹄石の伝承が見つかれば何らかの答えが出そうです。

安心院で見られた賀茂氏と安曇族と水沼族と中臣氏。
この連合が、うきは市の賀茂神社でも、高良山の麓でも見られます。

複雑ではありますが、婚姻を重ねることで、筑紫君が形成され、勢力を拡大していったと読み取る事もできますね。


※ガイドブックをお持ちの方。
「水沼が神と人を仲立ちする巫女を生みだす家系」については「下巻78大善寺玉垂宮」に。
タキリ姫とオオナムチの結婚については「下巻70楯崎神社」に書いています。







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by lunabura | 2015-08-19 22:47 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(0)

賀茂神社(2)足一騰宮1・神武天皇は安心院からやって来た?


賀茂神社(2)
足一騰宮1
 

神武天皇は安心院からやって来た?


賀茂神社、昨日再び行って来ました( ´艸`)

ここには神武天皇がやってきましたが、近くには景行天皇が来ています。そちらも確認したかったのです。

うきは市の賀茂神社は京都や脊振山よりも、はるかに古い伝承を持っています。

神武天皇や景行天皇の味方であり、鉄を産み出せるというで、天皇たちは武器調達のためにここまでやって来たのだろうと思われます。

ウィキペディアを見ると、ここ「山北」に来る前には宇佐にいたことが書かれています。

当社の行直大宮司が慶安4年(1651年)に誌した旧記には、

「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」

と述べている。(略)
(ウィキペディア)

この宇佐の方にも神武天皇の伝承が濃厚に残っているんですね。そして、実際に行ったところ、神武天皇がいたのは宇佐というより、安心院(あじむ)でした。

周防灘から駅館川(やっかんがわ)を遡って、水沼の君と関わる三女神社(二女神社)に上陸し、葦の生える沼を渡って足一騰宮(あしひとつあがりみや)に足跡を残しています。現在、足一騰宮は妻垣(ともかき)神社という社号に変わっています。

過去記事ですが、賀茂氏、八咫烏について考えるために、この足一騰宮(妻垣神社)のシリーズをしばらく再掲していきたいと思います。




 妻垣神社(足一騰宮)1
ともかき・あしひとつあがり
 神武天皇が母君・玉依姫を祀らせたという

三女神社の次に妻垣神社に参拝しました。
「妻垣」はいろんな読み方があるようですが、神社の由緒書に「ともかき」と書いてありました。

コメントによると、神武天皇三女神社から当社に向かったという伝承があるそうですね。
(同じルートを辿ったんだ!!)

三女神社(二女神社)は周防灘から駅館川(やっかんがわ)を遡上して
安心院(あじむ)盆地に入った時、最初に舟を泊めるような地形でしたが、
そこからさらに支流を遡上していったのでしょう。

平坦な地形から、当時は湖沼で、葦原だったのではないかと思われました。

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今はそこに青々とした稲が風にそよいでいます。
目指す妻垣神社は正面の烏帽子型をした妻垣(ともかき)山の三合目あたりにありました。

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一の鳥居です。かつては石段を登っていったのですね。
今はその横に車道が通っています。
ヘアピンカーブをぐっと登ると神門前に出ますが、駐車場はそれをやり過ごして先の方にありました。

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車から降りて神門に向かいましたが、この参道から入ると、
当社もまた横から参拝するような配置になっていました。

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一旦神門に出て、入り直ししました。

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深い紅色の拝殿です。
当社は二礼二拍手一礼です。
御祭神は
比咩大神(玉依姫命)八幡大神 神功皇后です。

当社は宇佐神宮を中心とした八ヶ社の一つですが、
このように、比売大神に関しては「玉依姫命」と明記してあり、他社と一線を画しています。

その由緒について、書き写しましょう。(一部改変)
妻垣山(ともかき山)は太古、比咩大神の御降臨された霊地にして、宇佐神宮第二殿と言われる。

八幡大神は称徳天皇、天平神護元年宇佐八幡、此の地に行幸、駐輦の地に同年十月八日、勅使石川豊成に八幡の神託有り、神殿を創建し奉祀。

神功皇后は淳和天皇、天長年間に御勧請し奉祀。 

この山は比咩大神の降臨地で、宇佐神宮の第二殿ということです。

当社が玉依姫を祀る事情について、さらに詳しく書いてありました。
足一騰宮
神武天皇、御東遷のみぎり、宇佐国造の祖、莵狭津彦、この処に宮殿を建立、奉賛餐せる旧跡で、当時、天皇、天種子命を以て、神武天皇の母后玉依媛命を祭らせ給う。

当社は比咩大神を祀って八幡社と号し、かつては普賢寺以下四坊の神宮寺を擁し、当郡、中津、島原の領民百余村の氏子を有し、宇佐郷の宗社として崇敬され今日に至る。

神武天皇が東遷の時に、莵狭津彦が宮殿を建てて、もてなした旧跡で、
天皇が母君を天種子命に祀らせたということですね。
それゆえに、比咩神とは玉依姫だということです。
思いがけないところで、玉依姫に再会しました。

さて、足一騰(あしひとつあがり)の宮。
この不思議な名前の宮は『古事記』に出て来ますが、
いつかは行って見たいとかねがね思っていた宮でした。

神武天皇と宇佐津彦の伝承と共に、こうして現地が残っているとは感激です。
『古事記』の神々から抜粋してみましょう。

イハレビコの命は同じ母から生まれた兄のイツセの命とお二人で、
高千穂の宮で話し合いました。
「どこに行ったら、平らかに天の下にあるこの国の政治をして、
臣下たちの奏上する話が聞けるだろうか。やはり、東に行こう。」
と言われて、日向を発って、筑紫に行きました。

そこで、豊の国の宇佐に着いたとき、
その国の人で、名前はウサツヒコ、ウサツヒメの二人が
足一騰宮(あしひとつあがりの宮)を造って、たいそうもてなしました。

そこから移動して筑紫の岡田の宮に一年滞在しました。
またその国より、上って、安芸の国の多祁理(たけり)の宮に七年刊滞在しました。
さらにまた上って、吉備の国の高島の宮に八年間滞在しました。

イハレビコが後の神武天皇ですが、母が玉依姫ですね。
イハレビコを迎えて食事をもてなしたのがウサツヒコ、ウサツヒメですが、二人は兄妹だそうです。

当宮から岡田宮に移動しています。
岡田宮は一宮神社という名で、熊鰐一族が現代に至るまで、
その磐境神籬(いわさかひもろぎ)を守っていましたね。

どちらもその神籬を守っているのですから、素晴らしいです。

神武天皇もまた、祖神を祀って神助を得る事が大移動の一つの目的でした。
ほかには、物部氏に迎えられて馬見山の祖神を祀りにも行きましたね。

そして、ここは?
縁起からは、神武天皇が玉依姫を祀らせたのですが、
もともと別の目的があって来訪したはずです。

当地は真鍋大覚の記述から、鉄を作っていた所と考えています。
神武天皇は武器の調達に来たのではないか。

それは「足一騰」という言葉そのものが教えていました。

(つづく)


妻垣神社




一宮神社や岡田宮については、ガイドブック上巻2に書いています。
サイドバーからもどうぞ。

安心院シリーズ全体を読み通すにはサイドバーの「宇佐・安心院トレッキング」からどうぞ。






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by lunabura | 2015-08-16 21:25 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(4)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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