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ひもろぎ逍遥

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一か月間燃やされた神社史料



一か月間燃やされた神社史料



1000年間、久留米市で神官を営む家の方の話を聞いたのですが、

高良大社の史料が明治政府に命じられて燃やさねばならなくなったそうです。

その史料は膨大で、一か月間燃やされ続けたそうです。

そこには大善寺玉垂宮のものも含まれていたと。

九州の歴史が焚書に遭っていたのです。

日本書紀の成立の話を聞いて、そんな話をされました。


日本書紀が成立するころ、禁書や焚書が行われた記録が残っています。


それはほんの百数十年前に福岡でも起きたのです。



20181022 訂正20181219




by lunabura | 2018-10-22 20:22 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Comments(0)

ひめちゃご18 景行天皇の三女神信仰から見えるもの



ひめちゃご18

景行天皇の三女神信仰から見えるもの
 



そういえば、景行天皇は三女神の縁が深い。
景行天皇が三女神を祀った宮が二つあったことを思い出した。

一つは朝倉の福成神社。
もう一つは久留米市の赤司八幡神社である。

そのいずれもが水沼族の領土だったと考えてよいだろう。
そこは筑後川水系である。



景行天皇を道案内したという「猿大海」(さるおおみ)の館は
赤司八幡神社にあったという話を宮司から伺った。

猿大海は景行天皇を自分の館に連れて来たことになる。
天皇はそこで詞壇を構え、三女神を祀った。
その三女神を「道主貴」(みちぬしのむち)という。

『日本書紀』では「三女神を祀っているのは水沼の君」という伝承も書いていて、
その現場がこの赤司八幡神社となる。

「水沼(みぬま)三女神」と「宗像(むなかた)三女神」は違うのか。
否。
同じだと思う。

多分、「みぬまさま」という意味で「みぬま方」と言われたのが
「むなかた」に訛ったのだろう。

水沼族は水軍を持っていたが、筑後が洪積平野となっていくにつれて、
水軍力が発揮できなくなった。

のちにその水軍力を玄界灘で発揮したのだと思う。
そのきっかけは三韓遠征だったと考えている。

筑後川は有明海が深く進入していて、干満の差が激しかった。
そのピークは一日に50分ずつずれていく。
月の観測は欠かせない。
月の観測に長けていた水沼族は太陽暦との調整も長けていた。

だから、川から海へと拠点を移しても新しい環境にうまく順応したのだろう。


この月の観測が「水沼」という巫女の祭祀を支えた。
満月の夜に月の変若水を水に写し、貴人に捧げたのが「水沼という巫女」なのだ。

そうすると「みぬま」は月の巫女であり、水の巫女でもあったということになる。
その巫女がそのうちに神と称されたという。

「みぬま」-「二女神」-「月の女神」「水の女神」
そんな流れが心に浮かぶ。

「ひめこそ」は「星の女神」「水の女神」といったところか。

水沼については、「下巻56赤司八幡神社・78大善寺玉垂宮」を
併せて読めばそのあらましが見えると思う。


水沼の三女神がどれほど重要だったか。

それは景行天皇が自分の代わりに国乳別(くにちわけ)皇子を
天皇代行として置いたことからも良く分かる。

この国乳別皇子が猿大海の姫を娶って水沼の祖となった。

もちろん、『祖』というのは『日本書紀』独特の書き方で、
古来、水沼君はずっと三潴(みずま)にいた。


三女神信仰は、つぎに、福成神社(下巻53)にも出てくる。
ここでも三女神を祀ったのは景行天皇だ。
のちに神功皇后、そして斉明天皇・天智天皇が参拝する。

そう、ここで再び景行天皇と天智天皇の名が重なった。

矢部川水系には安曇の名が見えた。
筑後川流域に水沼がいて、棲み分けをしていたのではないかという
古代の姿がおぼろげに浮かんでくる。

しかし、神功皇后によって大善寺玉垂宮は安曇に与えられた。
だから、氏子たちは、そこはもともと女神だったというのだろう。

三女神から玉垂命へと信仰を変化させたのは神功皇后だ。



三女神あるいは二女神信仰は景行天皇の時代までは
赤司八幡神社を最上の聖地とし、
大善寺玉垂宮はその湊として栄え、
弓頭神社は政治の地として栄えた。
そして、福成神社は水軍の訓練地における聖地だった。

こうして三女神信仰すなわち水沼君は久留米市から朝倉にかけて、
広大な領域を支配していたと考えている。

水沼君が筑紫君の始まりだった。



ここまで書いていて、今、思い出した。
大己貴信仰の宮も「大己貴神社」(旧三輪町)(上巻42)
「美奈宜神社」(林田上巻43)と、筑後川水系にあった。
この大己貴の神々もまた三韓遠征の時に玄界灘を体験していたのだ。

そうすると、二女神と大己貴の縁組はこの筑後川流域の話だったのだろうか。







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by lunabura | 2016-09-19 23:13 | 「ひめちゃご」 | Comments(0)

磐井の拠点


磐井の拠点


先日から『高良山雑記』をピックアップして整理していました。
今回は磐井に関する三文を考察します。例のごとく口語訳します。

① 磐井城址 磐井川の東川端に在る。
② 磐井城址 大祝(おおほうり)屋敷の前。

①と②は数回前に書いた磐井城のことです。

磐井城 二つ城だった
http://lunabura.exblog.jp/21985183/


①の「磐井川」とは高良山の登り口にある放生池の元の姿です。
その東川端ですから、水明荘の跡を指しています。

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(高樹神社より、磐井城全景)


②の「大祝屋敷」の位置はもう一つの磐井城の麓に当たります。
磐井城はツイン城だったのが分かったので、どちらも地形と一致しました。

①と②の関係については地形から①が本城ではないかと考えています。
②の地形はフラットな部分が多いので、軍団などが控えていたのではないかと考えました。
(あくまで想像です)

地図





さて、次の③は上掲書の附録「高良内管見」という部分から抜き出したもので、
「高良内」(こうらうち)について書かれたものです。
「高良内」は高良山から流れ出す丘陵と、明星山から流れ出す丘陵の間の扇状地です。

ですから「高良内」から見ると、左に高良山、右に明星山が見えます。
そこから見る明星山は円錐形をした美しい姿をしています。


地図 高良内 明星岳 八女



(写真をクリックすると、古代の地形のイメージがつかめますね)



③ 明星岳 
明星岳、一名般若方谷山(大祝家記)は高良内の主人公とも見るべき山である、頗(すこぶ)る有名であり、天嶮であり、又歴史に富む。

山は大般若、寺尾、マイラズ谷、ツクモジ等に到る。城趾もあり、寺跡もある。(略)

頂上より望めば(略)左右に回顧すれば筑前・豊前・豊後の諸峯が見える。大概四方が望めて隈なしとも言える。当山の形勢は自然の城塁をなして嶮岨だ。云々。

矢野一貞は更に当山の史跡につき、次のように述べている。

上古、天津赤星が此の要害に拠る。
武内大臣久しく此山中にて西海を監護す。

筑紫君も代々当山に処る。

磐井に至り、ますます要害を堅くしようとして、当山の東北カマ石谷と云う所より磐石を切り取って、今の社地の所に岩構えをなして住んだことから、岩井の名称は起ったようだ。

このカマ石は構石(かまえいし)に取れることより此名を残したのだろう。今も数百の磐が山中にあって、石鑿(のみ)のあとが所々に残っている。

こうして、この肥・豊の四つの国を横領し、六国の主となり、終に叛逆を謀(はか)る討手が下るに及び、天嶮を捨て広野に進戦し一戦にして亡びた。これは磐井の失策ではなく、天誅から逃れられなかったのである。

正中年中に菊地氏西征表軍宮を奉し、小弐大伴を征した時も、文中年中の時も、高良山を本陣として当山にも拠点を構えたらしい。

菊地の族高瀬氏二代居城。
原田親種籠城。

文中年間の事を記したものに、高良山は峯平らかで麓嶮しく、後は深山なので道もなく、前には筑後川を界にして東南水縄(みのう)山、柳坂、高良が岳といって三所の塁を構え、と云っているが、「高良が岳」即「当山」であること疑いなし(略)

天正十四年に薩摩勢が高良山を攻め取ったのは高良内の方より攻め上ったと聞く。(高良内管見)



明星岳は傾斜の厳しい山で山頂からは四方の眺望が効き、
筑後平野のみならず、筑前、豊前、豊後の峰々が見えるといいます。

物部の天津赤星がこの天然の要害に拠点を持ち、
竹内宿禰もまたここから西海を観護したといいます。

そして、なんと代々の筑紫君も!!
(そうすると、筑紫君の拠点は筑後にある?)

そして、筑紫君・磐井もまたここに住んだといいます。
ただ、「今の社地の所に岩構えをなして住んだ」の「今の社地」が唐突に出てきました。

文脈からは頂上部の要害と思われますが、ネットで登山記録を調べると、
「明星山城」が存在しているようで、厳密には頂上部ではなさそうに思われます。

やはり現地調査しないと居城は決定できないのですが、
この明星山に磐井の城があったと考えてよいようです。



しかし、ここが本城だとすると、籠城には向くのでしょうが、戦いには不向きです。
敵が襲って来るのを待つより、麓で迎え撃つ方を良しとしたのでしょう。
磐井の君は山城から出て、高良山麓の磐井城に構え、さらに麓で対峙したと思われます。



地図を見て分かったのですが、
明星山は八女から見ると、北にある重要な山なんですね。

古代の人々の精神的な支えとなった山なのではないかと思われました。
その南の丘陵地帯に都を構え、多くの文物が船で運ばれて繁栄したのでしょう。

そして、有力者たちの古墳が次々に作られ、明星山には山城を築城。

古代の朝鮮半島では「山城と都邑」がセットで作られたケースが多く、
新羅や百済からの情報も入って来る八女では
同じように「都邑と山城」という単位で国造りがなされた可能性も考えられます。

その仮定を元に、明星山の麓に代々の筑紫君の居城「筑紫城」を
探してみたくなりました。

磐井の君はさらに北の守りとして、高良山麓にもツイン城を築城。

城と城をつなげば何処を守っているかが見えてくるはずです。
古代のありなれ川は陸地化しても、戦略的に重要な所とは決まってくるものです。



物部麁鹿火軍が押し寄せて来くるのを明星山で早くから目視し、
都を踏みにじらせないために、磐井軍は平地で迎え撃つ戦略をとった。
当方が有利で、敵が不利な地点を決戦の地として選び、両軍が対峙した。

そんな想像が生まれました。


八女(やめ)をこんな観点で見たことがなかったので、
現地調査すると、また感想が違うかも知れませんね。

今回は地図と文献から磐井の君の城と都を妄想してみました。


※『高良山雑記』とは
久留米藩士・稲次成令翁(1849~1932)の聞書から、浅野陽吉翁(是々、1868~1944)が
抄録編集したもの。それを古賀寿が出版。





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by lunabura | 2014-04-15 19:04 | 高良下宮社と周囲・久留米市 | Comments(0)

高樹神社/神々の交代劇を暗示する縁起

高樹神社
久留米市御井町高良山
神々の交代劇を暗示する縁起
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高良大社の大鳥居から、しばらく行くと、左側に鳥居が出て来ます。
高樹神社です。
車道が石段を舐めるようにすぐ脇を走っています。
この急な石段を上ればすぐに拝殿に着きます。

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拝殿に向かって左は崖。右も崖になっていて、その下は車道。
山の傾斜を切り開いて、狭い境内にぎりぎりで拝殿が建っています。

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神殿です。屋根の色が森に調和して美しく輝いています。

さて、この神社には不思議な伝承が伝わっていました。
それには謎の多い高良山の歴史を解く重要な手掛かりが秘められていました。

境内にある由緒書きを読んでみましょう。
高樹神社
祭神は高皇産霊神(たかみむすびのかみ)(造化の三神の一つ)。
古くは「高牟礼権現」と称し、高良山の地主神と伝えられる。
この神社はいわゆる国史現在社(正史=六国史に名の現れる神社)で、「三代実録」元慶2年(878)11月13日の条に「筑後国高樹神に従五位上を授く」とあり、やがて正五位下に進んだことが天慶7年(943)の「筑後国内神名帳」によって知られる。

もと地主神として山上に鎮座していたが、高良の神に一夜の宿を貸したところ、高良の神が神籠石を築いて結界(区画を定め出入りを禁ずること)の地としたため山上に戻れず、ここに鎮座するに至ったという伝説が、高良大社の古縁起に見えている。

高良山の別名を「高牟礼山」(たかむれやま)と称するのもこの神の名に因むものである。(後略)
例祭日 12月13日
何と興味深い伝説でしょうか。
地主神だったタカミムスビの神は高良山の山上に鎮座していたのに、一夜の宿を貸した為に、高良の神によって神籠石という結界を張られて戻れなくなったというのです。神籠石とは謎の列石群で、伝承そのままに、この神社の上の方に存在しています。

高牟礼権現とは?
このタカミムスビの神の別名は「高牟礼権現」と書いてあります。「むれ」は「むる・まる」と同じで「星」を表します。「高い所に群れ集まる星」と解釈できます。(韓国語にも「むれ」があると聞きました。これについて、どなたかご存知の方教えてください。)
また、タカミムスビの神の別名は高木の神と古事記には書いてあります。

この高樹神社にチャレンジするために、先に高木の神を調べました。それが前回の「アンドロメダ星雲の和名」です。アンドロメダ星雲を高樹の神(=タカミムスビ)と呼んだ時代があるんですね。

この高良山の神々の交代劇とは、アンドロメダ星雲を祭神とする集団が古くはここに存在していて、新たにやって来た高良の神を祭る集団と何らかの事情で入れ換わった話の象徴ではないかと思いました。

そして思い出したのが、この横の車道を登って行くと大学稲荷がある事です。「大学」って「大覚」と同じ語源です。「ダイカク」もまたアンドロメダ星雲でしたね。「イナリ」は鉄の武器庫や生産地でした。

すると「大学稲荷」という言葉も、やはり同じようにアンドロメダ星雲(=高木の神)を祀る人たちの製鉄所・武器庫という事になります。(⇒大嶽神社…あれれ?オオタケ神社もダイガクと読めるよ…。(@_@。)

前々回の袴着天満宮で分かったのは、隕石が落ちた目印のムクノ木と天体石がある事でした。そこに、はるばるとやって来て袴を着替えて正装して祈った菅原道真の祖先は熔鉄の神でした。ここまで来ると、この山の麓には鉄の民が集まっていたのがよく分かります。

古事記では?

では、高木の神って古事記ではどんな事をした神でしょうか。
高木の神の特徴は天照大御神と一緒に高天原を経営して、政治的な決定と指示をしている事です。

そしてイワレヒコ(神武天皇)が困った時に、八咫烏フツの御魂という剣を下ろして助けました。ヤタガラスって加茂氏で、鉄の民でしたね。(⇒八咫烏・高句麗古墳)ですから、古事記の中の高木の神は鉄の民を自由に指示できる立場にいて、アマテラスの子孫を強力にサポートする神です。

鉄の民は一つではなく、いくつもの氏族があるし、それぞれに技術の差があります。このエリアで起こった歴史的事件も、どうも二種類の鉄の民がからんでいるような気がしています。これを特定するには、まだまだ知識が足りません。今回は高木の神の理解を深める事で良しとして置きましょう。

古事記の冒頭の部分を書いて置きます。
天と地が初めて開けた時、高天の原(たかまのはら)に出現した神の名は
天の御中主(あめのみなかぬし)の神
次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)。
次に神産巣日神(かみむすひのかみ)。
この三柱の神はみな独神(ひとりがみ)となって身を隠されました。

この御祭神のタカミムスビの神は日本神話の二番目に出現してますよ!

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石段から桜並木が見えました。山里に咲く桜はしっとりとした美しさでした。

地図 高樹神社 高良大社 袴着神社の元宮 大学稲荷 神籠石


それでは、次回は高良の神が作った結界と言われる神籠石を見に行きましょう。



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by lunabura | 2011-04-12 17:42 | (タ行)神社 | Comments(0)

出目天満宮・袴着天満宮/御神体は天体石 菅原道真


出目天満宮・袴着天満宮 
久留米市御井町高良山
御神体は天体石 
菅原道真

祇園山古墳のすぐ手前に、小さな神社があります。
大きく書かれた「出目天満宮・袴着天満宮」の文字。(でめ・はかまぎ)
周りに何もない所での、そのアピール力は抜群。
それでなくても、神社好きにはたまらない。やっぱり寄りました。
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緑なす里山の中のたたずまい。

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拝殿が比較的新しいようです。

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拝殿の右では石の御神体を祭ってました。この祭り方は珍しいですね。おや?

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さらに、その右側にも石の御神体が。三角形の石です。
こちらには「袴着天神天体石」と書いてありました。
(はかまぎ・てんじん・てんたいせき。)
さすが地名研究会と一緒なので、口々に由緒を教えてくれます。

「袴着」の由来は、その菅原道真公が高良山にお参りするために、
ここで綺麗な袴に着替えたという事のようです。
「天神さま」といえば、福岡では菅原道真公を指します。

この三角形の御神体石には梵字も彫ってありました。
昔から信仰のある岩に梵字が彫られるのはよくある話で…と、行き過ぎようとした時、
「むむ。天体石?天体って星じゃない。星。星?石の裏に何か手掛かりがある…かも?」
と閃きが…。

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植木との隙間に身をよじって覗きこむと、おお!杯状穴が!いくつも…。
明らかに人工的に彫ってあります。
この写真でも、右半分にいくつもあるのが分かると思います。
上半分には穴がカーブを描き、かつ右下に向かってまっすぐ並んでいます。

この杯状穴の並び方は星座を表しているのかも。
半円になる星座って冠座かな、と野尻抱影氏の星の本を調べて行くうちに、
よく似た半円形のコップ座という変わった名の星座を見つけました。
これとうみへび座を組み合わせるとそれっぽいけどなあ。

でも特定できないな、と諦めて、次に眞鍋氏の本を開きました。
「うみへび座」なんて載ってるかいな、と探してみると、これがあるんですね~。
そこで読み進めると、なんと菅原道真の名前が出て来ました。何でここに?…
という事で、今日はその一部だけ。

うみへび座アルファド星飛廉(ひれん)の星と言う。
フェニキア人(比鸞人・ひらん)が日本に渡航したのは、エジプトの第6王朝ネコ二世(前611~595)が、喜望峰を東に船隊を派遣した頃から始まっていた。
プトレマイオス(前304~30)の世界地図に現在とほとんど変わらぬ極東の形が描かれているのがこの背景にある。

宮中の賢所(かしこどころ)では元来は日月星の神を祀っていた。
「かしこ」とは観星台、即ち琉球の「ぐすく」から派生した「ごしょ」を
平安時代の女官が改めた名前である。
神社の三光の流紋、三つ丸、三つ巴はこの象徴であり、
藤原時平(871~909)の顔色を伺いながら、延喜式の頃に創作されたと聞いている。

藤原氏は太陽神一つに信仰の対象を絞った。
それまで信仰されていた太陰神と石位(いわくら)神をことごとく、
イザナギ・イザナミ神の系統に合祀していった。
高木の神もその一柱で、タカミムスビの神を高木の神とした理由はわからない。
これに真っ向から対決したのは菅原道真(845~903)であった。

一つずつ確認して行きましょう。

エジプト人が渡来した話は南十字星の和名の所で書きましたが、
フェニキア人もやって来たという事です。
喜望峰はアフリカの最南端。スエズ運河がないので、航路は南廻りだったんですね。
プトレマイオスはアレクサンドリア図書館の管理者です。
古代の原資料をもとに自分の地図を作製したそうです。

紀元前の人ですから、ずっとその前に世界地図が存在している訳ですが、
その地図は20世紀の高度な測量法でしか描けない詳細なものだそうです。
(参考『神々の指紋』グラハム・ハンコック)

ピラミッド付近から出土した太陽の船を見ると、外洋の船旅も十分可能です。
(ピラミッドが作れるくらいの人たちですし。)
ネコ2世が派遣した記録があるのなら、紀元前600年頃。
日本では縄文と弥生の混在期です。
伊都国で出土したビーズが北アフリカ・西アジア・欧州でしか造られないものだったのは
昨年明らかになりました。(⇒三雲・井原遺跡
研究が進むに連れて、縄文・弥生の国際的な交流が見えて来ています。

さて、フェニキア人の名前は意外な所からも出ています。
与那国島の海底神殿は誰でも知っていますが、木村政昭琉球大学教授が
調査を重ねて、ついにフェニキア人の神殿だと発表されています。
これが3世紀付近らしい。
「ぐすく」が観星台で、それが宮中では「賢所」になったとすると、
古代史の研究法ももっと意識の変革を要する事になります。

暦を作るための観測資料が「日月星」だったのは三光紋として今でも残っていますが、
藤原時平はこれを「日」一つに絞ろうとしたという事です。

菅原道真を左遷させたのがこの藤原時平ですから、この政争は単なる政権争いでなく、
太陰・星暦VS太陽暦の採用の争いだったという事が読み取れます。
なるほど。これなら道真は絶対譲れなかったはずです。

筑紫に流された道真については伝承が沢山あり、天拝山で祈ったというのは有名です。
それに加えてこの久留米市でも祈ったという事が、
この袴着天満宮の伝承から伺えて来ました。

菅原道真の先祖はアメノホヒの命だ、と「新撰姓氏録」に書いてあって、
アメノホヒの命は熔鉄の神だそうです。
(この神は天照大御神の息子で、出雲制圧の為に最初に派遣された神です。)



さて今度は方向を変えて、もう一つの出目天満宮の方をネットで探す事にしました。
幸運な事に「御井町誌」が掲載されていて、由来が書かれていました。

この袴着天満宮はもともと近くの御井小学校の校庭のムクの大木の下にあったのが、
出目天満宮に移されたと書いてあります。
ところがその後、出目天満宮が高速道路建設に引っかかったために、
現在の地に二つとも移転する事になったという事です。

え?すると、椋の木の下にこの天体石があった?
これまで、このブログに何度も出て来ましたが、
隕石を使う鉄の民は隕石が落下した所に、目印として椋の木を植えていました。

すると、この御井小学校でも、古代に隕石が落下して、椋の木を植え、
天体石を据えて祀った可能性が出て来ました。
(現存する椋の木は当然、数代目のものです。)

すると道真公は、隕石落下の聖地の事を知って、参拝に来た可能性がある?
これが袴を着替えてまで祈った理由?ちょっと想定外の話になりました。

御井小学校では、まだムクノ木は残っているのでしょうか。
道真公は学問の神様ということで、袴着天満宮が敷地内にあった時は、
とても親しまれていたそうです。

(出目天満宮についてご存じの方、教えてくださいませ。)

地図 出目、袴着天満宮 御井小学校





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by lunabura | 2011-04-08 11:30 | (タ行)神社 | Comments(2)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25