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ひもろぎ逍遥

タグ:佐賀県 ( 128 ) タグの人気記事

ウーナ41 天山9 岩蔵天山神社2 七面天王



ウーナ41

天山9 岩蔵天山神社2 

七面天王
 

前回、岩蔵天山神社から見える山を載せると、すぐにチェリーが作図してくれた。






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以下、メールより。
「岩蔵天山神社からのカシミール画像を作成してみました。

(かなり広角にしてありますので、実際と少し違った感じになるかもしれません)
「天山」は見えるようです。直線距離で5.5kmくらいです。


「あめ山」と「上宮」は419mの山にギリギリ隠れてしまうようです。

きれいな三角形に見えるのは、ピークではなく、愛宕山から延びる稜線の端になります。
ここからなだらかに愛宕山まで登る地形になっていますので、愛宕山の頂上は見えません。
この三角形の左下を、明星山からのラインが通ります。

参道から社殿の方向は、真西より南へ2°くらい傾いた方向のようです。
少し角度がずれますが、lunaさんが感じられたように、この三角形に見える山か、ラインの通過点を意識して社殿が建てられたのでは?と私も思います。

まあ、その、たまたまラインの通過点を白い印にしてあるのですが、松の梢にとどまった「光」の場所をここに仮定すると、ちょうど「里に照り渡った」という感じになるんじゃないかと、ふと思いました。」
以上、メールから。

見えている三角形の山は愛宕山の稜線の端だそうだ。
ちょうど三角屋根の家を横から見たら三角形に見えるようなものだ。

此処から見える姿の美しさからは、このように見える場所だからこそ、
ここを聖地として選んだようにもみえる。



さて、光が松の梢に留まった場所についてはまだ不明だが、「あめやま」の頂点近くではないかと思っていた。

チェリーはラインが通る白い点の場所だったら、里に照り渡ったという描写に合致するのでは、という意見だ。
なるほど。
異なる意見を交わすことでより詳細な世界が描きだせる。








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これは境内の右手の道路から天山方面を撮ったものだ。

正面の少し尖ったピークより左奥に見えるフラットな山頂が「あめやま」のようだ。








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これは境内の池のようす。小島がある。
弁財天を祀る池のパターンと思われるが、その水の透明さは格別だ。







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そして、これは境内にあった祠。
石で作った神像が鎮座していた。

左の女神は「七面天王」と書かれている。
これは七面天女のことだろうか。そうすると弁財天となる。

「ひめちゃご」で七色が七回、七面山に登ったことを思い出した。





異世界小説 
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by lunabura | 2018-05-26 22:05 | 旧「ウーナ」 | Comments(1)

にっき 豊姫信仰など



二日もブログを書いていませんね。

その間、小城鍋島家Tenでの歴史カフェの資料を作成していました。
淀姫と豊姫と豊玉姫
ブログではもう何度も過去記事に書いていますねえ。

今回は與止日女(よどひめ)神社(佐賀)と止誉比咩(とよひめ)神社(下巻56赤司八幡神社の古称)の比較もしてみます。


すると、豊姫信仰が筑後川流域に広がっていたのが見えてきました。
豊姫とは神功皇后の妹ですね。
武内宿禰の妻となりますが、なかなか子宝に恵まれなかったようすも與止日女神社の話から伺えます。

それでも、シャーマンとしての力が広く信仰されていたのでしょう。
志式神社の浜で干珠満珠を海神から授かった巫女ですから。

與止日女神社と止誉比咩神社の共通点は数メートルもの高さが変わる有明海の波が寄せる所ということです。

そこは夜渡(よど)七十という七十年に一度の大津波が有明海から遡上する地域。

女神たちの祭祀から古代の人の営みが見えてきます。






by lunabura | 2018-05-22 22:01 | 歴史カフェ | Comments(0)

ウーナ40 天山8 岩蔵天山神社 七歳の童女に神が懸かった



ウーナ40

天山8 岩蔵天山神社 

七歳の童女に神が懸かった
 

さて、今日は岩蔵の天山神社の紹介をしよう。


天山の麓にある三つの下宮社のうち、一番東に鎮座している宮だ。

九州横断自動車道で長崎に向かい、小城パーキングに新たに設置されたスマートICから下りていくと、すぐに三叉路に当たる。右折して祇園川沿いに遡っていくと、まもなく天山酒造が右手に見える。

その正面が岩蔵天山神社だ。ここにも「天山橋」があった。









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社前のようす。






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参道の途中に池があって橋が架かっていた。
橋は一枚岩でとても珍しい。古来のものが残されているのだろうか。






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肥前鳥居。









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祭神は『小城郡誌』によると、
多紀津毘売命、市杵島毘売命、多紀理毘売命の三柱となっている。
宗像三女神だ。

社殿は黒を基調にした色で、女神の宮にしては珍しい色に思えた。







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拝殿には鍋島家の杏葉紋(ぎょうようもん)が掲げられていた。











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神殿は赤と水の色。








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社殿の向こうに三角形の山が見える。
愛宕山らしい。真後ろではなく、微妙にずれているが、この山を見ていると思われた。


社殿は東に向いているので、ここで手を合わせると厳密ではないが、晴気(はるけ)や厳木(きゅうらぎ)の天山神社方面にも手を合わせることになる。



『小城郡誌』を口語訳しよう。

<当社は天山頂上にある上宮に対し、晴田村天山社、東松浦郡厳木村大字広瀬天山社と共にその下宮である。

当社は文武天皇の大宝2年(702)口宣によって建立したもので、伝記書によれば、42代文武天皇の大宝2年(702)4月1日、小城郡高隅の里(のち岩蔵と改めた)の北山に不思議な奇瑞が現れ、松の梢(こずえ)に清らかな光が輝いてとどまった。

 その松のそばに木こりの家があった。光は里に照り渡った。人々は奇異の目でその光を見守った。

その日の夕方、村の七歳の童女が急に物狂いして話し始めた。

「われは東海より飛んできた神である。この地に長らく留まって国家を守護し、もろもろの災難を祓おう」と。

 その翌朝、松のそばに池が出来て清水が湧き出した。この里の九郎康弘という者が、清水の湧出を見て里人を集め、その松のそばに社を建てて神霊を祀った。


 この時からこの村を松本村と呼び、この松を「影向(ようごう)の松」と呼ぶようになった。

 この童女の子孫代々は命婦(みょうぶ)となって神事、祭祀を預かり神座を勤めた。そして九郎康弘が亡くなると里人はその末社に祀り、九郎大明神と名付けて本社の側に安置した。>


当社は、文武天皇の大宝2年(702)に口宣によって建立された。
「口宣」とは天皇からの勅命を口頭で伝えたものを文書化したものだ。
だから、天皇の命令で造られたことになる。
文武天皇はこの時、16歳。そばには祖母の持統太上天皇が控えていた。

晴気(はるけ)の里は持統天皇が授けたものだから、文武の口宣は実質、持統天皇の命によるものと考えてよいだろう。

概要は、北山に光が飛んで来て、松の梢で光輝いた。
その村の七歳の童女に神懸かりがあり、国家鎮護を約束すると、翌日松のそばに泉が湧き出した。

そこで九郎康弘がやってきて村人を集めて社を造ったということだ。

この九郎康弘のことは広瀬天山神社の方では「安弘」と記され、藤原房前の生前の名ということが明らかにされている。
だから、小城と朝廷の連絡が直結していた理由がここにあることが分かった。

その3年後、この「光」が安芸宮島から飛来したもので、「北山」が「天山」となったことが『小城郡誌』の続きに【参考】として書かれている。



<【参考】
それから3年後、慶雲2年(705)に芸州厳島(安芸の宮島)の人が当地にやってきて尋ねた。
「近頃、宮島から清らかな光が輝き起こって、西の海の方に飛び去りました。それからずいぶん経ちますが、どこに飛んで行ったのか分かりません。不思議に思ってその光が留まった所を尋ねると、当地に留まったのが分かりました。何か不思議なことはありませんでしたか」と。

 里人が、奇瑞が起こって託宣が降りた話をすると、社人は大変驚き、宮島には帰らず、永らくここにとどまって社務をつかさどっているというのである。現在、馬場に宮島姓が多いのはこのためである。

 最初に松本に神霊が影向した時には、はるか南の松林からも清らかな光が見えたので、小さな石祠を建てて、下の宮というようになった。
それから後、祭の時には神輿(みこし)をそこまで降すといい、今は南松と称し、小祠がある。 

 同年の冬10月、国司が右の奇瑞を帝都に上奏して天山大神宮と勅許をえて、北山は天山岳と名付けた。>


文脈からは、下宮が建った所は神霊の影向が見えた「はるか南の松林」とあることから、この岩蔵がその地点という解釈でいいのだろうか。

広瀬天山神社の縁起の方には、
701年に白雲が天山から本山、広瀬、岩蔵の上に降りるのを見て、天御中主命を勧請して三つの下宮としたように書かれている。

光の飛来が見えたのは翌702年のことで、705年に宮島から来た人の話で光が市杵島姫と判明する。

安芸の宮島すなわち厳島神社(広島)は593年佐伯鞍職が市杵島姫を祀ったことから始まっている。当時、市杵島姫単独か、三女神合祀かは不明だ。

縁起からは下宮を一直線にするための積極的な理由は見当たらなかった。







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境内の右手から後ろの天山山系を撮ってみた。
天山そのものが見えているかは分からないが、光がここから見えたということになるのだろう。





20180516


小城市岩蔵2348









異世界小説 
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by lunabura | 2018-05-16 21:19 | 旧「ウーナ」 | Comments(0)

ウーナ39 天山7「あめやま」と「てんざん」



ウーナ39


天山7

「あめやま」と「てんざん」
 



先日の画像からチェリーが山の名を特定してくれた。






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なんと、「あめ山」と「天山」がある。
左端のピークが「あめ山」だそうで、その頂上すぐ下に「天山神社上宮」があるという。
右のピークが「てんざん」だ。

何故、このように二つの似た名前となったのか。







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晴気天山神社の前の橋は右手に「天山橋」左手に「あめやまはし」と書かれていた。
比較的新しい橋だ。
つい最近まで「あめやま」だったのだろうか。

時系列から考えると、古代は訓読みで「あめやま」と思われ、「てんざん」は次の時代だと思う。
しかし、二つのピークによく似た名前をつけたのは何故だろう。

地元の人は二つの山の名を区別して呼んでいるのだろうか。


「てんざんスキー場」とか「♪酒はてんざん、男なら♪」としか聞いたことがない。

一つ分かれば一つ新たな謎が出てくる(´・ω・`)



ま、いいか。
せっかくワインを飲んだんだし。





異世界小説 

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by lunabura | 2018-05-13 21:14 | 旧「ウーナ」 | Comments(27)

第2回小城 歴史カフェでした 



今日は小城鍋島家Tenでの歴史カフェ。
ご参加の皆様、ありがとうございました。

今日は藤原房前(ふささき)と持統天皇の話。
まさに、ここに房前は来た、という
当地だからこその臨場感があります。
やっぱりすごい所だったんだなあ。

お茶タイムの時、
天山に手を合わせているうちに不思議なことがあったという話を聞きました。

遠い飛鳥時代から現代に至るまで、
見えない力が働いていることを改めて知りました。

今日はスタッフの方に案内いただいて、
三つの天山神社下宮のうち、岩蔵と晴気(はるけ)に参拝しました。






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これは晴気に向かう道から見える天山の雄姿です。
左端のピークが天山です。

川沿いの道で、かつて天山に向かった道はここだったことを思い出しました。

画像など、少しずつUPしますが、七つの珠も積み残しで、
どちらを先にするか、悩みどころです。

次回は佐賀の女神たち、ヨド姫、トヨ姫、トヨタマ姫の話をします。
6月9日(土)です。
また、詳細をお知らせします。

20180312




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by lunabura | 2018-05-12 21:23 | 歴史カフェ | Comments(0)

明日は小城 日本遺産の条件



明日は小城 

日本遺産の条件
 

最近、歴史カフェや講座などの前日は他のテーマに触れないようにして、頭の中をシンプルにするように心がけています。

それで、動かすのは身体の方。
掃除をチョコマカやって過ごしました。

天山神社関連の話を明日もするのですが、実はまだ神社には行っていない。

現地入りせずに話をするのは初めてです。
そこで、明日は早めに出て案内していただくことになりました。

先月、帰る時に高速に向かいながら霧が晴れていく山里の景色をみました。
それがとても幽遠な風情だったんです。
いかにも日本の山里の原風景のような美しさでした。

藤原安弘は逆に、天山山頂の雲が降りてくるのを見たわけで。

地名を見ていると、八丁ダムや愛宕山という地名があるので、大体見当がつくのですが、持統天皇が何故ここを知っていたのか、謎が解けると面白いなと思います。

明日は日本遺産の勉強もするのです。

日本遺産はストーリー性を重んじ、一市町村で完結するケースと複数の市町村でネットワークを結ぶケースがあるようですが、それを考えているとどんどんと思考が広がってしまいます。

例えば、天山に飛んできた光は安芸の宮島から来た光で、それを追って来た人たちが宮島姓だと伝えていますが、その方たちが実際に住んであるそうです。

そうすると、市杵島姫つながりで宮島と結べます。

奈良の天河弁財天社から毎年参拝してあったことを確認できれば、弁財天つながりで天河と結べます。役行者が匂います。

空海が佐賀に寄港しているのですが、チェリーさんによると、空海の廟は天河の真西に鎮座するとか。ここも調べたら意外なものが出てくるかも。

さらには、三つの下宮社のライン上に乗ってくる明星山。これはどうも本来の祭神の天御中主命が関連する気配。滅んだ倭国の神。


記録されていた藤原四兄弟の房前の生前の名、そして忘れ去られていた十代の歴史。
持統天皇や文武天皇の勅命がどんどん届くことから、奈良との縁。

何処とつないでも「天山」の名にふさわしい広大なネットワークの姿が浮かぶのです。

日本遺産登録に必要な条件は「国指定・選定文化財」が含まれること。

でも一番必要なのは、地元の人たちの熱い思い。

歴史を知ってアイデンティティーを深め、熱い心で語り合うこと。

小城や厳木の人たちの心に火を点けたい。

何故かそう思われて仕方がないのです。






by lunabura | 2018-05-11 22:22 | 旧「ウーナ」 | Comments(6)

第2回 歴史カフェ小城512のご案内  天山神社創建を喜んだ持統天皇



第2回 歴史カフェ小城

512のご案内

天山神社創建を喜んだ持統天皇



5月の第2回 歴史カフェ小城のご案内です。

タイトルは
1部:天山神社創建の人たち 
晴気の里を与えられた藤原房前 晴気の奇瑞を喜んだ持統天皇

2部:神功皇后の伝承
香椎宮への遷都
です。


<第1部>
三つの下宮が一直線に並ぶ不思議な天山神社。
その創建は701年のことでした。

その直前、持統天皇の御代に異国人が対馬に上陸しました。

持統天皇は藤原安広にその討伐を命じ、安広が討伐に成功すると、褒賞として小城市の晴気(はるけ)の里を与えました。

そして晴気で奇跡が起こると持統天皇は大変喜びました。

この持統天皇がまだ鸕野讚良(うののさらら)と呼ばれた頃、祖母の斉明天皇に付いて福岡に来て、草壁皇子を出産しています。

里中満智子の「天上の虹」の主人公として知られる鸕野讚良とは持統天皇のことです。



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また、天山神社を創建した藤原安広とは藤原不比等の子で、のちの房前のことです。藤原四兄弟の一人として知られています。

安弘は十代の時に船団を指揮して天皇の命令で対馬に向かったことになります。その祖父は藤原鎌足です。全く知られなかった十代の頃の歴史が佐賀に刻まれていました。

遠い奈良の人物と思われた持統天皇と藤原房前は佐賀や福岡でそれぞれ青春時代を過ごしたのです。

天山神社の創建に関わる二人について学び、天山神社と小城市晴気の歴史を探っていきます。


<第2部>
仲哀天皇と神功皇后が遠賀水軍の長・熊鰐の案内で遠賀川に至り、香椎宮に向かう道筋をパワーポイントで案内します。古代の歴史を画像で楽しみましょう。



小城では毎月、第2土曜日の開催を予定しています。

第2回 5月12日(土) 3時~5時

1部:天山神社 創建の人たち
2部:神功皇后の伝承  香椎宮への遷都

会場:小城鍋島家Ten 佐賀県小城市小城町208-2 0952-72-5324
会費:1500円(別途ドリンク代)

申し込み先:小城鍋島家Ten あるいは 当ブログ コチラへ

  当ブログに申し込む方は
①氏名(あればハンドル名)
②簡単な住所(例 小城市小城町)番号は不要です。
③「歴史カフェ512希望」
と書いてください。

『神功皇后伝承を歩く』の本を購入希望の方は「上巻」「下巻」を書いて、申し込みの時にその旨伝えてください。当日お持ちします。


歴史と自然をまもる会
バスハイクの旧記事はコチラ

5月18日(金) 安曇の里
申し込みは「歴史と自然をまもる会」の方へどうぞ^^


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by lunabura | 2018-05-11 09:43 | 歴史カフェ | Comments(0)

ウーナ37 持統天皇3 31度もの吉野行幸は占いや祈祷のためか



ウーナ37

持統天皇3

31度もの吉野行幸は占いや祈祷のためか
 



持統天皇が崩御する前年の701年に厳木町広瀬の天山神社は創建された。


実は、私自身が奈良の天河大弁財天社に行った時、宮司に「奈良吉野と同じ地名が佐賀にある」事を話すと、「毎年、佐賀の天山神社に参拝している」と伺った。

当時の私は天山登山を二度試み、一度目は霧で、二度目は突然の雷雨のために断念していた。

だから天山といえば登山のイメージを持っていたので、天山山頂だろうと思いこんだ。

天山神社には三つの下宮があることを今知って、いったい何処に参拝されていたのか、思いを馳せている。

天山(てんざん)と天河(てんかわ)の関わりは深い。

その天河は吉野にある。




さて、持統天皇の話に戻るが、天皇は自ら吉野行幸を行っている。生涯で31度もの吉野行幸を行ったという。701年も行われた。

吉野は夫の天武天皇が壬申の乱で逃げ込んだ時、持統天皇(讃良皇后)も随行した所だ。そこで、天武天皇は國栖(くず)から腹赤魚を献上されている。


そこで思い出されるのが「ひめちゃご」で登場した「釣殿宮」のことだ。

みやま市(旧山門郡太神)の「釣殿宮」は別名「腹赤宮」という。物部の天文観測所と思われるが、ここで景行天皇や天智天皇が漁師から腹赤魚を献上された。

この腹赤魚を見て喜んだ天智天皇は「毎年朝廷に献上せよ」と言い、のちには大宰府経由で節会(せちえ)に献上されるようになった。

節会では皆でそれを食す。

この腹赤魚とはウグイのことだが、この魚を天智天皇が何故それほどに喜んだのか。その謎は読者の方々からいただいた数々のヒントで解けた。

腹赤魚という名は産卵期になると腹が赤くなることからついている。

この腹赤魚は北天に出る赤いオーロラ(赤気)の象徴だったのだ。

北天は天帝の座、紫微宮とされている。
そこに出る赤いオーロラは、天帝による「天皇即位を許可する知らせ」のシンボルと解けたのだ。








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天武も持統も筑紫にいて、天智の即位の状況を見守っていて、腹赤魚の意味を良く知っていたはずだ。

だから、逃げ込んだ吉野で国栖(くず)に腹赤魚を献上された時、すぐに意味が理解できたのだ。「天皇即位の許可は我に下りた」と。


筑紫と奈良に共通するのは「国栖」の存在だ。国栖は福岡では河童と呼ばれた氏族だが、天文観測に長けていて、占星術が出来たという。
 

國栖は占星術により、壬申の乱が天武天皇の勝利になると読み、「腹赤魚の献上」によって結果を知らせたのだろう。浄御原神社では今でもウグイが献上されている。




天武天皇の崩御後、愛する草壁皇子も失い、政争に明け暮れる朝廷にあって、持統天皇は生きていく術を占いに求めたのではないか。

そして、さらに修験者に出会い、祈祷を頼みにして吉野行幸を繰り返したのではないか。

自分の犯した罪、父の犯した罪、などなど、神道には存在しないカルマの思想も学んだことだろう。

自分の死後、天皇初の火葬を望んだのがその証拠だ。

この時代、役行者も生きていた。701年に大赦を受けているのも、持統天皇の判断による可能性も考えたい。

次々に襲ってくる困難を国栖や修行僧の占いと祈祷で、乗り切ろうとする一人の女性の細い肩が浮かんでくるのである。

それが31度もの吉野行幸の目的であると考える。


<20180505>


異世界小説 




歴史カフェ小城
第2回 5月12日(土) 3時~5時
1部:天山神社 創建の人たち
2部:神功皇后の伝承  香椎宮への遷都

会場:小城鍋島家Ten 佐賀県小城市小城町208-2 0952-72-5324
会費:1500円(別途ドリンク代)
申し込み先:小城鍋島家Ten あるいは 当ブログ コチラへ
  当ブログに申し込む方は
①氏名(あればハンドル名)
②簡単な住所(例 小城市小城町)番号は不要です。
③「歴史カフェ512希望」
と書いてください。

『神功皇后伝承を歩く』の本を購入希望の方は「上巻」「下巻」を書いて、申し込みの時にその旨伝えてください。当日お持ちします。


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5月18日(金) 安曇の里
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by lunabura | 2018-05-05 21:11 | 旧「ウーナ」 | Comments(2)

ウーナ31 持統天皇は筑紫で出産 中大兄皇子は普通に即位していた!



ウーナ31

持統天皇は筑紫で出産

中大兄皇子は普通に即位していた!
 

 
中大兄皇子は白村江戦の時、天皇の地位にあったはずですが、
日本書紀の天智紀に「称制」と書いてあるので、
天皇代行のまま即位しなかったと解釈する人が殆どです。

しかし、「太歳」という即位前後に行う暦制選定儀式を行っているので、
「称制」は斉明天皇の崩御年だけで、
年が明ける前、みやま市(旧山門郡)の太神宮で日々祈ったあと、
翌年には即位している。

そういう話を歴史カフェなどでしたのですが、
今日、持統天皇紀を読んでいると、
「持統天皇は天智天皇元年に草壁皇子を大津宮で出産された」と書かれていて、
天智天皇元年=662年となり、
やはり中大兄皇子は普通に即位していたことが判明しました。

なんだ。
やはり一部分だけで解釈するのは良くないですね。

また、「大津宮」とは「娜の大津」ということなので、
(通説=高宮、真鍋説=那珂川)
持統天皇は筑紫で草壁皇子を出産したということになります。

佐賀の天山神社の奇瑞を何故、持統天皇は敏感に反応するのかな、
そういう観点で調べていて、
まずは斉明天皇や父の中大兄皇子に付いて朝倉に来て、
筑紫や佐賀の土地勘があっただろうと書きましたが、
やはり、滞在は少なくとも2年以上、
しかも白村江の敗戦のトラウマを持っていることは間違いないなと
思いました。

この時の持統天皇の名は鸕野讚良(うののさらら)で、
夫は大海人皇子です。
657年に13歳で嫁ぎ、出産は18歳。

そのあと壬申の乱に巻き込まれたり、
草壁皇子がわずか25歳で亡くなったりするのですから、
悲しみの多い、波乱万丈の人生だったようですね。

<20180415>

分類に悩んだけど、天山つながりで、<ウーナ>に。


歴史カフェ福津
4月29日(日)第18回 2時~4時
「消された大王 アントンイソラ
安曇姓とアベ性の王たちは日本書紀から封印された」
詳細は コチラ 過去記事はコチラ

歴史カフェ小城
5月12日(土)第2回 3時~5時
1部:天山神社創建の人たち 藤原房前・持統天皇など
2部:神功皇后の伝承
申し込みはコチラへ    
第1回詳細はコチラ
会場:小城鍋島家Ten

歴史と自然をまもる会
バスハイクの旧記事はコチラ
5月 安曇の里



 



by lunabura | 2018-04-15 21:54 | 旧「ウーナ」 | Comments(0)

小城での第1回 歴史カフェでした



小城での第1回 歴史カフェでした


今日は雨。
天山の話だから龍神さまですよ、と言ってくださった方もありました。
かつて天山登山にチャレンジした時も2回とも雨か霧だったので、何故か現地に入れない、るなでございます。

今日は第1回目の小城鍋島家Tenでの歴史カフェ。
現地の方に現地の神社縁起を話すという体験はとても喜ばしいものです。
参加の皆様ありがとうございました。

三つの天山神社の由緒を時系列に並べてみると、
この小城と皇室がダイレクトに繋がっていることをさらに強く感じました

次回は創建に関わった藤原房前や持統天皇など、同時代に生きた人たちの略歴を学んで、晴気の里の重要性にアプローチできたらと思っています。


高速道路も小城にスマートインターが3月に出来て、カードがあればダイレクトに乗り降りできるようになりました。
霧がかかる美しい山里を降りていきます。
早く現地調査したいですね。

歴史カフェ小城の2回目は5月12日(土)です。


さて、今から福津の歴史カフェの準備です。
今回は流れをパワーポイントで追ったあと、
『高良玉垂宮神秘書』を読み合わせしていこうかなと思っています。

今日も、原文を綾杉訳ではありますが、皆さんと読んでいると、原文の持つ力というものを強く感じました。

あれこれと説を説くよりも「読む」という体験は、縁起の持つ力をダイレクトに伝えてくれます。

この感覚を『神秘書』でも体験したいと思います。

「玉垂命とは誰か」「玉垂宮とは何か」
それがダイレクトに書かれた文章を読む。
想像すると、ワクワクしてきます。


それと、5月のバスハイクでは宮地嶽古墳の中に入る許可をいただきましたよ。
ネットの公開日が楽しみです。


歴史カフェ福津
4月29日(日)第18回 2時~4時
「消された大王 アントンイソラ
安曇姓とアベ性の王たちは日本書紀から封印された」
詳細は コチラ
過去記事はコチラ

歴史カフェ小城
5月12日(土)第2回 3時~5時
1部:天山神社創建の人たち 藤原房前・持統天皇など
2部:神功皇后の伝承
申し込みはコチラへ
第1回はコチラ
会場:小城鍋島家Ten

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5月 安曇の里





by lunabura | 2018-04-14 21:33 | 歴史カフェ | Comments(0)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25