人気ブログランキング |
ブログトップ

ひもろぎ逍遥

タグ:佐賀県 ( 128 ) タグの人気記事

ウーナ17天山2 安芸の宮島からの影向だった 岩蔵の天山神社 705年


ウーナ17

天山2 

安芸の宮島からの影向だった 
岩蔵の天山神社 705年
 


 不思議な光が松にとどまり、水が湧き出し、七歳の童女が東海から飛んできた神霊の託宣(たくせん)伝えたのが702年のことだった。
 『小城郡誌』の続きを読もう。
 
<それから三年後、慶雲二年(705)に芸州厳島(安芸の宮島)の人が当地にやってきて尋ねた。

「近頃、宮島から清らかな光が輝き起こって、西の海の方に飛び去りました。それからずいぶん経ちますが、どこに飛んで行ったのか分かりません。

不思議に思ってその光が留まった所を尋ねると、当地に留まったのが分かりました。何か不思議なことはありませんでしたか」と。

 里人が、奇瑞が起こって託宣が降りた話をすると、社人は大変驚き、宮島には帰らず、永らくここにとどまって社務をつかさどっているというのである。

現在、馬場に宮島姓が多いのはこのためである。

 最初に松本に神霊が影向した時には、はるか南の松林からも清らかな光が見えたので、小さな石祠を建てて、下の宮というようになった。
 
 それから後、祭の時には神輿(みこし)をそこまで降すといい、今は南松と称し、小祠がある。
 
 同年の冬10月、国司が右の奇瑞を帝都に上奏して天山大神宮と勅許をえて、北山は天山岳と名付けた。>

 こうして、岩蔵の松に飛んできた光は広島の宮島から飛んできたものだということが三年後に分かった。
 
 
 その話を都に上奏したのち、北山は天山岳という名になった。
 すると、天山という山名は705年以降の呼称ということになる。天山と名付けた由来は分からない。が、帝都と無縁のものではないことになる。

 帝都では誰が天皇だったかというと、文武天皇だった。文武天皇は14歳の若さで即位したので、持統太上天皇が院政を敷いていたという。持統太上天皇は大宝2年12月22年(703)に崩御しているので、当社の話はそれを挟んだ前後の年のものとなる。

 当社の三女神は宮島から飛来してきたもので、宗像からではないことが興味深い。



つなぎレンガ座
3月4日(日)3時~5時
佐賀の神功皇后伝承
「天皇家を支えた武内宿禰の里」
-神功皇后は三度、訪れたー
会場 小城鍋島家Ten
詳細はコチラ

おかげ様で満席になったそうです。
ありがとうございます。






いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村


by lunabura | 2018-02-25 21:34 | 旧「ウーナ」 | Comments(0)

ウーナ16 天山1 三女神の影向 岩蔵の天山神社 702年



ウーナ16

天山1 三女神の影向 

岩蔵の天山神社 702年
 


影向(ようごう)とは神仏の来臨という意味だ。

佐賀の山々に三女神が祀られていることが意外に思われるが、『小城郡誌』を見ると、天山に祀られるようになった事情が書かれていた。

チェリーによると、
「広瀬・晴気・岩蔵の天山神社と明星山をつなぐと、ほとんど一直線」
ということだが、あいにく地図がない。

作図はチェリーに期待するとして(てか、ほぼ強要(^^♪)
今回は現地入りする前の下調べを先に記録しよう。
のちに、現地の方に案内いただければと思う。

事の始まりは岩蔵の天山神社のようだ。
時は飛鳥時代の終盤、大宝2年(702)になる。
『小城郡誌』より。


天山神社 小城市岩蔵2348


<岩松村大字岩蔵字馬場にある。
祭神は多紀都毘売命、市杵島毘売命、多紀理毘売命の三柱である。
当社は天山頂上にある上宮に対し、晴田村天山社、東松浦郡厳木村大字広瀬天山社と共にその下宮である。>
 ということで、祭神は宗像三女神。
一直線に並ぶという三社は共々天山の上宮に対する下宮となる。

<当社は文武天皇の大宝2年(702)口宣によって建立したもので>
文武、一条、二条天皇の勅願所だったという。
天皇の在位を調べると、
文武天皇(697~707)
一条天皇(986~1011)
二条天皇(1158~1165)
とあり、断続的に勅願所となっているのが分かる。

さて、「口宣」とは天皇からの勅命を口頭で伝えたものを文書化したものだが、何故天皇が命令したのかという点について、郡誌は「参考」として不思議な話を残している。
口語訳しながら紹介しよう。

<伝記書によれば、42代文武天皇の大宝2年(702)4月1日、小城郡高隅の里(のち岩蔵と改めた)の北山に不思議な奇瑞が現れ、松の梢(こずえ)に清らかな光が輝いてとどまった。

 その松のそばに木こりの家があった。光は里に照り渡った。人々は奇異の目でその光を見守った。
その日の夕方、村の七歳の童女が急に物狂いして話し始めた。
「われは東海より飛んできた神である。この地に長らく留まって国家を守護し、もろもろの災難を祓おう」と。

 その翌朝、松のそばに池が出来て清水が湧き出した。この里の九郎康弘という者が、清水の湧出を見て里人を集め、その松のそばに社を建てて神霊を祀った。
 この時からこの村を松本村と呼び、この松を「影向の松」と呼ぶようになった。

 この童女の子孫代々は命婦(みょうぶ)となって神事、祭祀を預かり神座を勤めた。そして九郎康弘が亡くなると里人はその末社に祀り、九郎大明神と名付けて本社の側に安置した。>

つまり、三女神の神霊が七歳の童女に神懸かりして、清水を湧出させ、ここで国家を守護すると語ったということだ。

 この神霊は東海から飛んできたという。それは何処かという答えは3年後に判明する。
(つづく)








つなぎレンガ座

3月4日(日)3時~5時
佐賀の神功皇后伝承
「天皇家を支えた武内宿禰の里」

-神功皇后は三度、訪れたー
会場 小城鍋島家Ten
詳細はコチラ



エキサイトブログのSSL化により、アドレスの冒頭がhttpからhttpsに変わり、あちこちでリンクエラーが出て、ご迷惑をかけています。
膨大な量のリンクなので、気づいたら少しずつ訂正します。



いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村



by lunabura | 2018-02-24 23:27 | 旧「ウーナ」 | Comments(0)

小城羊羹




今日は小城羊羹(おぎようかん)をいただきましたよ。
え?
2週間後に歴史講座のある小城の名産が!(^^♪
なんだか嬉しいですね。

かつて三輪山登山を決めた時、三輪そうめんをいただいたことを思い出しました。
白山比咩神社に参拝した直後、白山の無農薬リンゴを頂戴したことも。
ちょっとした話ですが、忘れがたい経験です。

小城は天山をいただく町ということで、天山の資料を読み込んでみると、面白い発見があります。(私にとっての発見なので、一般には知られていることかもしれませんが)

でも、これをまとめるには時間が必要なので、ブログ記事に書くに至っていません。
もどかしいです。
目の前の仕事を一つ一つ片づけていく事を優先しているので、仕方ないなと思っています。


この最近の出来事を思い出すと、
先日の歴史カフェの直前から、「ガイアの森」の話になったり、神道の話を伺ったりして、久しぶりにスピリチュアルな世界の内容が増えました。

いや、「脇巫女」も「ひめちゃご」も十分にスピですね。見えない世界と現実世界の融合でしたから。

ただ、スピ系は先生と生徒みたいな関係が強くなるので、あまり触れないようになっていました。

で、歴史カフェでは自由な対話の時間が無くなって、ガチンコ古代史になっていきました。


4月から始めることになる小城鍋島家Tenでの歴史カフェに関しては、古代史はもちろんですが、見えない世界の話などもオープンに話せるといいなと思っています。

質問や会話が無ければ古代史一本になるのかな。でも、古代史に登場する人物はみんな神様として祀られていますから、その歴史を伝えることが自分の役目だとも思っているのです。

今回の話も、「佐賀の神々」とでも言うべきものなんですね。
皆さんが初詣に行かれる神社の神様たちの歴史の話になるわけです。

「場」に合わせた展開にしてみたいと思っています。



つなぎレンガ座
3月4日(日)3時~5時
佐賀の神功皇后伝承
「天皇家を支えた武内宿禰の里」
-神功皇后は三度、訪れたー
会場 小城鍋島家Ten
詳細はコチラ






いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村



by lunabura | 2018-02-20 20:17 | 歴史カフェ | Comments(4)

『肥前風土記』小城郡 おきのこおり



『肥前風土記』

小城郡 おきのこおり



さて、3月4日の歴史講座の話をいただいたとき、佐賀ではあまり古代史が話題にならないと聞いた。幕末の研究が盛んらしい。

私にとっては、佐賀は『風土記』の国だ。
『肥前風土記』は現存する5つの風土記のうちの一つなのだ。

誰か、『肥前風土記を歩く』のようなガイドブックを書いているのではないか、と思ったが、どうだろうか。そんな話にまだ出会っていない。

今、『肥前風土記』を開くと、景行天皇の話がたくさん出ている。
それから、日本武尊、そして神功皇后。

この三人のことを知っていれば、流れが分かるといっても過言ではない。
大分の『豊前風土記』もほぼ景行天皇の話だ。

いったいどうしてこの天皇に照準を当てているのだろうか。
二つの風土記は景行天皇が九州を武力で統一する物語とも読めるのだ。

逆の立場でいえば、女王国がいくつもあって、小さな小競り合い程度で暮らしていた時代、強大な武器と軍勢を持って戦いを挑んできた侵略者。
それが景行天皇ということになる。

ブログを書きながら、折々に佐賀の古社を訪れて蓄積したものがあるが、今あらためて『肥前風土記』を見ると、7割は網羅したような印象だ。


そして、空白になっているのが、小城だった。

「小城」の読み方が分からない人も多いのではないだろうか。
「おぎ」と読む。

何故「小城」と書いて「おぎ」と読むのか。
昔の人も同じことを思ったのだろう。
『肥前風土記』にはその理由が書かれている。

「昔、この村に土蜘蛛がいた。堡(おき)(とりで)を造ってこもり、天皇の命に従わなかった。日本武尊が巡幸された日に、みなことごとく滅ぼされた。それで小城の郡と名付けた。」

天皇とは景行天皇のことだ。日本武尊はその皇太子だった。
景行天皇に従わなかったクニを日本武尊は討伐していった。

小城の土蜘蛛は堡(オキ)に立て籠もって抗戦した。
その「オキ」が「オギ」になったという。

原文が今手元になく、確認できないが、
「堡はいにしえには乎岐(こぎ)と訓ずれば、改めて小城と申す」
という一文があるようだ。

土蜘蛛は何処に砦を造っていたのだろうか。
多分、地形にその答えはある。

日本武尊によって小城の土蜘蛛は滅ぼされた。


これは『脇巫女』の時代ではないか。
鞍手から船に乗って戦い、鞍手に戻っていく日本武尊。

まだまだ、『脇巫女』の続き、知らねばならないことがあるのだろうか。








いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村



by lunabura | 2018-02-13 21:20 | メモ | Comments(0)

佐賀県小城鍋島家Tenカフェにて歴史講座があります



小城鍋島家Tenカフェにて

歴史講座です




来月、3月4日(日)、佐賀県小城市のNPO法人「つなぎレンガ座」主宰の歴史講座で講師を務めることになりました。

会場は同市にある武家屋敷のカフェ「小城鍋島家Ten」です。

佐賀県は古代文化が栄え、考古学的出土物も多く、その歴史が『風土記』にも書かれているような古代史の宝庫の地です。

思えば、当ブログでも、景行天皇や日本武尊(親子)、物部氏、ヒメコソ神などを訪ね、その伝承や地形を報告してきました。
「ひめちゃご」の始まりの舞台でもありましたね。

日本武尊と共に佐賀で戦ったのが武内宿禰です。

武雄市の市名は武雄神社から採られたと聞きましたが、そこには武内宿禰の父や子も祀られています。また、母の山下影姫も近くに祀られています。

武内宿禰は歴代天皇や神功皇后を支えた大臣で、神功皇后が武雄温泉に来たのも、その縁からでした。
また、武内宿禰をかばって亡くなった壱岐真根子も川古に祀られていますね。

今回はこれら、ばらばらに伝わって謎となっている歴史の点と点をつないで、佐賀の古代史を描きたいと思っています。
パワーポイントを使って画像で楽しむ歴史紹介です。





佐賀の神功皇后伝承

「天皇家を支えた武内宿禰の里」 -神功皇后は三度、訪れたー


2018年3月4日(日)3時~5時

会場は佐賀県小城市小城町208-2 (おぎ市おぎ町)
小城鍋島家Ten

申し込みも「小城鍋島家Ten」 (おぎなべしまけ・てん) にどうぞ。
0952-72-5324
会費は今回は無料です。


25名まで。
以下はそのチラシです。(画像の都合上、二つに分けました)





c0222861_20261552.jpg






c0222861_2026419.jpg



赤い囲みの中は次のように書いています。

福岡の香椎宮で仲哀天皇が亡くなったあと、神功皇后は羽白熊鷲(朝倉)や田油津姫(みやま)と戦い、そののち唐津に出た、と『日本書紀』に書かれています。

筑後川から唐津には何処を通って行ったのでしょうか。

佐賀を訪ねると、高橋、福母、武雄にその足跡が残されていました。
武雄には武内宿禰の父や母を祀る神社があります。

また、神功皇后の妹や武内宿禰をかばった壱岐真根子も当地で亡くなりました。

ここには『日本書紀』に書かれなかった、天皇家を支えた重要なクニがあったのです。

神功皇后は三度も当地を訪れています。
神功皇后はいつ訪れたのか、今回はその全体の流れをお話しします。




この歴史講座をご挨拶代わりとして、
4月14日(土)からは当カフェで新たに「歴史カフェ」をスタートします。
まずは分かりやすい神功皇后の話から始めます。
佐賀の皆さま、また、近郊の皆様、よろしくお願いします。



小城鍋島家Ten
〒845-0001
佐賀県小城市小城町208-2

0952-72-5324

小城鍋島家Tenは鍋島家の武家屋敷をギャラリーとカフェにしたものです。
私も伺うのを楽しみにしています。

小城鍋島家TenのHP






いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif

by lunabura | 2018-02-12 20:40 | 歴史カフェ | Comments(0)

曇っとった



全国の皆さん、月食は見えましたか?
福岡は曇りでした。
(「曇っとった」は方言?意味分かりますか?)

月が出たころは雲を通して光が見えていましたが、
欠けていくにつれ、暗くなって、最後は真っ暗。
そんな月食でした。

で、北海道のライブを見て過ごしました。
飼ってない猫に膝を占領されつつ(=^・^=)

ところで、話は全く変わりますが、
バスハイクで神功皇后のコースを順に回っていますが、
みやま市の次は佐賀(武雄)から唐津に抜けます。
ちょうど、桜のタイミングなので、
「歴史と自然を守る会」に打診したら、
既に決まっていた日程を当方の案に変えてくださいました。

言ってはみるもんですね。
ただし、三日以内にコース提出が条件でした。
それで、バタバタと作り上げたのですが、
佐賀の方に教えていただきたいのです。

御船山楽園をHPやパンフレットで調べるのですが、
画像ばかりで、地図がありません。
桜の時期には入園料が値上がりするのは分かりました。
いつも、いくらに上がっているのでしょうか。

また、庭園内の所要時間は大体どのくらいかかるのでしょうか。
地元の小学生が遠足に行くような所でしょうか。
弁当とか、食べていいのかな。

武雄神社と隣接していますよね。
武雄神社から歩いていけますか?

よかったら、教えてください。
また、お勧めの桜の名所(武雄~唐津の間)がありましたら、それも。

非公開希望の方は非公開のボタンを押せば、私しか見えません。
よろしくお願いします。( ..)φメモメモ







いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif

by lunabura | 2018-01-31 23:16 | バスハイク | Comments(3)

ひめちゃご104 始まりの宮へ



ひめちゃご104

始まりの宮へ
 

物部神社から姫方若宮八幡宮へ向かった。

「ひめちゃご」の始まりの宮だ。







c0222861_21102777.jpg

真直ぐの古代道が綾部八幡宮まで続くという。
その途中に姫方若宮八幡宮がある。

狭い車道を北上した。

この日、ウメとタケと私は現地でミノリ一家と合流した。

ミノリこそ「ひめちゃご」という言葉を生み出した人だった。






民家の前を通って
c0222861_2152085.jpg

狭い参道を上っていくと、









c0222861_215424.jpg

見慣れた姫方若宮八幡宮に出た。
銀杏が輝く季節だった。


ここもまた古代の岬の先端に建っていた。
ここから見える山々は古代の天文観測の名残を教えてくれた。



この宮の祭神は『中原町史』によると、
住吉大神、仁徳大神、武内大臣となっている。

八幡三神でも、次世代の三神ということか、
応神天皇の名が見られない。










c0222861_2161375.jpg

その拝殿にはめずらしい葡萄が彫られていた。
江戸時代の建造なのか、明治に入っての建造かは不明だが、
葡萄とはこれまた瀟洒な西洋的モチーフだ。











c0222861_2195939.jpg

神殿の方には龍と桐。天皇を祀るにふさわしい。










c0222861_2165194.jpg

ところが、他はどうだ。










c0222861_217861.jpg

波と花に埋め尽くされていた。

いかにも女神の装いなのだ。

ミノリが参拝する時に現れるのは女神だという。


この姫神が誰なのか、それを探す旅でもあったのだろうが、
市杵島姫命が最有力候補だった。


町史も
「原始八幡信仰の神籬から、宗像女神に、宇佐八幡系が入りこみ、
若宮八幡の占有する姿を漂わせている気がする。」
と書いている。

この「中原宿は姫方村の枝村であった」ので、
そこと同じ神を祀っていた可能性があると考えているようだ。

この点は氏子からも「同じ神を祀っている」と聞いている。

町史はさらに、次のように鳥栖の「姫古曽神社」を引き合いに出していた。

<鳥栖市旧基里邑に「姫古曽神社」があって、集落を姫方とよぶ。
祭神は「市杵島姫命、住吉大神、八幡大神」である>

総合すると、この「姫方若宮八幡宮」は鳥栖の姫方の飛び地なので、
「市杵島姫命」を祀っていたと考えられるのだ。

時代は違うが、ここには「中原宿」があり、伊能忠敬が宿泊していた。

<肥前国三根郡なる堤村、寒水村字中島姫方村内中原町駅場止宿>
と書いていることから、当地は「姫方村」と称していたことが分かる。


明治になって、鳥栖の方の祭神は元の形に復元されて
市杵島姫命が再び祀られるようになったが、
この枝村には及ばなかったのだろう。

市杵島姫命の名は公には出ないままとなった、と考える。



神殿に彫られた「波と花」。
それらは市杵島姫命が「水」を司ることを象徴していると思われた。

恵みをもたらす側面と災害をもたらす側面の
二つの顔を持つ「水の女神」
それが市杵島姫命だったのではないか。







c0222861_21899.jpg

さて、私たちは参拝を済ませると、
中原中学校の校庭にある前方後円墳に向かった。

『中原町史』は以下のように、被葬者を女首長と考えていた。


<中学校前提の前方後円墳に収めた墳主は、
この地の部族の女の首長ではなかったかと考えられる>
さらに、
<この神社のある姫方原一帯は広い範囲に、世代を異にする弥生住居跡が、
多数出土する遺跡である>
とも記す。

これは6世紀の古墳だそうだ。
グラウンドには弥生の墓地もたくさんあったのだろう。



このあと、私たちはさらに、北浦天神社と雌塚に行った。
日が沈む時間が近づいていた。

晩秋の姫方郷をそぞろ歩きして戻ってくるとき、ミノリが
「あの綺麗な女神は市杵島姫」
と言った。
やはり、そうだったのか。

ミノリは鞍手に行って星読とも会っている。

星読が、
イチキシマ姫は佐賀に逃げた、と言ったことを思い出す。
不思議な附合があったことになる。
こうして、ヒメコソ神の三社参りは五社参りとなった。


この「ひめちゃご」は2016年8月から書き始めていて、
いつのまにか一年以上も経っていた。

この始まりの宮で筆を置こうと思う。

すでに、次の巻物が開かれている。

何が書かれているのか、先はわからないが、
これからも日々の記録を残していこうと思う。





        終




                      <2017年11月3日>




メールやコメントの返事が遅れています。
少々お待ちくださいね。




いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif

by lunabura | 2017-11-03 21:11 | 「ひめちゃご」 | Comments(0)

ひめちゃご103 検見谷遺跡付近地図に画竜点睛を



ひめちゃご103

検見谷遺跡付近地図に画竜点睛を
 


前回、検見谷遺跡の場所が分からないと書いたが、
チェリーが出土したという佐賀カントリー倶楽部の地図を作製してくれた。








c0222861_23225581.jpg


以下はそのコメント。

<いろんな地図を合成して、マウスでなぞったという荒い地図ですけど…
黒い線が佐賀カントリー倶楽部の範囲です。

赤い線が標高20mの等高線、暗い赤の線が標高30mの等高線です。

佐賀カントリーの左上の端あたりに、西から入って南に登る谷がありますが
(白石神社・白石焼窯元への道を登り詰めて、
クラブハウスへの道に合流して、南に進むのですが)、
佐賀カントリーに達する前に標高30mを超えてしまいます!
該当する場所が見つかりません!!>

赤い標高線のラインより4m高い所に遺跡があるという。
<背振山地南麓から白壁地区に向かって延びる丘陵の西側に位置している。

この一帯の斜面にはたくさんの谷が複雑に入り込んでいるが、
銅矛出土地点は、その谷の一つの最奥部、南へ入り込む小支谷の斜面上で、
標高約24メートルの場所である。>

これを追求するのも面白そうだが、これは是非とも地元の方にお願いしたい。


今、12本の銅矛は文化庁にあるという。
文化庁や他県の大学に行ったものは地元から忘れさられる可能性がある。

そうやって、九州の歴史は失われていく。

背振山系の南麓にはずらりと古代の最高レベルの文化が花開いている。

奇跡的に保存された吉野ケ里遺跡レベルのものが
台地ごとに存在して、古代人の営みがあったのだ。
その古代人の心の支えが神社だった。

佐賀の奇跡はもう一つ「肥前風土記」が伝わっていることだ。

景行天皇の時代を軸にして、古代道を今でも感じることができる。

誰か、チェリーの描いた地図に赤い点を打ってほしい。

画竜点睛。

方法は、検見谷遺跡の発掘報告書を手に入れるか、
佐賀カントリー倶楽部に問い合わせる。

そうして、その人には、新たな旅が始まるのだ。
古代の歴史がアイデンティティとなり、
次世代の子供たちのチカラとなっていくのだ。



<ひめちゃご>
<2017年11月1日>






いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


by lunabura | 2017-11-01 23:24 | 「ひめちゃご」 | Comments(2)

ひめちゃご102 検見谷遺跡 12本の綾杉文様の銅矛は出雲より多かった



ひめちゃご102

検見谷遺跡 

12本の綾杉文様の銅矛は出雲より多かった
 


さあ、弥生時代に遡ろう。

やけに遺跡が多い北茂安町だが、出土は22号線以北に集中するという。
そこまでは海が上がってこなかったのだ。

丘という丘は甕棺や住居跡だったのではないか、と想像したくなるほど多い。

そして、あの麗しき12本の中広型銅矛がこの地域から出土していた。








c0222861_20394149.jpg

この12本の銅矛が出たのは旧北茂安町だったが、場所が特定できない。

町史にその記述を見つけたが、
住所は「大字白壁字一の幡」としか書かれていない。

HPでも場所が示されていないという異常事態だ。

この場所について、町史では
<背振山地南麓から白壁地区に向かって延びる丘陵の西側に位置している。
この一帯の斜面にはたくさんの谷が複雑に入り込んでいるが、
銅矛出土地点は、その谷の一つの最奥部、
南へ入り込む小支谷の斜面上で、標高約24メートルの場所である。>
と書かれている。

これではいったいどこから出土したのか、全くわからない( ;∀;)

手掛かりは
<銅矛の発見は、(略)その土地を所有するゴルフ場の職員による
樹木移植作業中のことであった。>
とあり、そのゴルフ場が佐賀カントリー倶楽部だ
ということだけが分かった。

地図をいくつも照らし合わせるが、わからない。









c0222861_2111397.jpg

チェリーの地図だと、画面右下の丘陵地帯がゴルフ場らしい。

物部神社の東に谷がいくつもあるが、そのいずれかだろう。
さすがの、るな探偵もお手上げだ。

出土状況は12本を刃先と袋部を互い違いにして埋納していたという。
このような埋納法は
春日市岡本辻遺跡や那珂川町安徳遺跡と同じだそうだ。

銅矛の長さは82・2~83・8センチ。
綾杉状の文様が研ぎだされている。

これと共通点が多いのが島根県斐川町の荒神谷遺跡だという。
銅剣が358本出土したが、そのほかに16本の銅矛が出土している。

互い違いに置かれ、刃を立てた状態は検見谷遺跡と同じで、
丘陵斜面の中腹であり、
等高線とほぼ並行した状態で埋納されたという点でも一致しているそうだ。

荒神谷遺跡の16本の銅矛のうち、中広型は14本で、
綾杉文様があるのは7本だというので、検見谷遺跡の方が多い。

鋳型は北部九州や四国の西部に限られるということだが、
たしか、出雲の銅矛の鋳型は春日だと聞いたことがある。

出雲の銅鐸と「吉野ケ里遺跡から出土した銅鐸の鋳型」が一致した話もあり、
この佐賀東部と出雲との関連は検見谷の銅矛の出土から、
さらに深いものになった。

それにしても、どうしたことか。
荒神谷遺跡の出土地は簡単に見学できた。
それなのに、検見谷遺跡は出土地の確認さえ、一般人には出来ない。

さらに、六の幡遺跡の29号甕棺は弥生後期初頭で、
完形の連弧文昭明鏡という中国製の鏡が出ている。

なんだか、すごい出土品の数々なのだ。
こんな情報が今どき、ネットでも見られないのは問題だと思う。


さて、ここは風土記にも登場している。
どうやら、佐賀カントリー倶楽部は『肥前国風土記』では
三根郡に当たるようだ。

町史によると、
「三根郡は、『肥前風土記』によれば、海部直鳥が望んで、
神崎郷の一部をさいてつくったとされる。
郷は千栗・物部・米多・財部・葛木・漢部の六郷があるが、
風土記では物部・漢部・米多の三郷しか説明されていない。>
とある、

葛木郷は物部神社の南にあった。

葛城氏について、町史は「大和の大氏族」と書いているが、
小倉北区の篠崎八幡神社は葛城襲津彦の末裔の宮で、
葛城氏はもともと九州の氏族だったと思う。
(『神功皇后伝承を歩く』下巻96番篠崎八幡神社)

そして、巨大な銅矛が制作できたのは加茂氏ではないかと
最近は考えるようになったが、
この地域の南西にはなぜか「加茂」という信号があったのを思い出した。


佐賀カントリー倶楽部



<ひめちゃご>
<2017年10月31日>





いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


by lunabura | 2017-10-31 21:03 | 「ひめちゃご」 | Comments(6)

ひめちゃご101 物部神社2 板部城と中津隈城



ひめちゃご101

物部神社2 

板部城と中津隈城
 


さて、物部神社の西から聞こえてきた
「私たちはここにいます」という森について、
密かに筑後国造の調査を期待していたが、やはり調べてくれた♪

以下はそのコメントだ。

<物部神社の西の森は、板部城という中世の城跡で、古墳は無いようです。
しかし物部神社の西500mの宝満神社
(祭神は玉依姫命であり、息長足姫命、市杵島姫命、大山咋命も合祀されています)
の境内には、前方後円墳である中津隈宝満宮古墳や
他の古墳の石室の石材が露出しています。
また、三階松紋もあります。>

このように、西の森には板部城があることが分かった。

また、さらに西にある中津隈宝満神社にも三階松紋があるという。
「宝満神社と三階松」は珍しい組み合わせになる。

実は、これと前後して、地元に詳しい方が
その宝満神社の画像と掲示板の説明文を寄せてくれた。








c0222861_2144764.jpg


幡の上部に赤い三階松紋が見える。
この石垣が古墳の形状を残しているのだろうか。
ほかの古墳の石材もあるということで、
もともと複数の古墳が築造されていたようだ。

この宝満神社自体は732年に松本というところに勧請されたのが、
812年に現地に遷されたということだ。

すでに古墳があったので、神社を建てる時に一部の古墳が壊されたのだろう。

「城」の話を手掛かりに『北茂安町史』を調べてみた。
すると、ここにも中津隈城があったという。
そして、この中津隈宝満神社が城の核とされていた。

つまり、中津隈城の丘の歴史は、もともと古墳があり、
神社が建ち、城が建てられたことになる。

これと同様の歴史を辿ったのが物部神社と板部城のようだ。



町史によると、板部城の敷地に関しては、
西の森説と、物部神社を含んだ敷地説の二つに分かれるという。











c0222861_2153167.jpg

物部神社の境内には上のように古墳の奥壁が並んでいる。
城を建造するときに、奥壁だけ残されて祀られたような趣だ。

この古墳は物部神社敷地にあったものか、
あるいは西の森から移されたのではないか。














c0222861_2161646.jpg

この場所について、チェリーが新たに作成してくれていた
現地周囲の地図があるので、見てみよう。

物部神社の西に島が見える。(「スーパー地形」の「形」の右側)
これが「中津隈西」といい、中津隈宝満神社が鎮座する所と思われる。

そして、物部神社の南に涙の形をした島(岬)が見える。
そこを「中津隈東」と呼ぶようだ。

「隈」は天文観測所の可能性がある。

「西」と「東」があるということは、中央があるということだ。
「西」と「東」に挟まれた岬には重要な施設があったのではないか。

地名と地形からそんなことを考えた。

なお、『風土記』には物部神社の北、綾部八幡宮の南の地点に
「郡役所」があったことが書かれている。
その場所が神社の形で残っていたら素晴らしいが。

そして、綾部~物部の舌状台地の東を流れる川が寒水川だ。
寒水川といえば、先日の朝倉の水害で氾濫した川と同じ名だ。

綾部~物部の東の寒水川も土砂崩れが起こって、僧が祈っている。
(九千部山の語源由来)
周囲は花崗岩質の風化土からなる丘陵地帯で、
綾部の民が故郷に戻らず居ついたのも納得できる。

さらに古くは阿蘇Ⅳの火砕流が及んだ所でもあるという。
これは9万年前の話だ。

三人の情報のおかげで、漠然としたまま素通りするところが、
地形と由緒をしっかりとみることができた。
三人に感謝。

<2017年10月30日>





いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


by lunabura | 2017-10-30 21:08 | 「ひめちゃご」 | Comments(7)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25