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ひもろぎ逍遥

タグ:出土物・遺物 ( 57 ) タグの人気記事

光正寺古墳 3世紀中~後半 前方後円墳 箱式石棺・割竹形木棺



光正寺古墳 

卑弥呼を知る世代





光正寺古墳は福岡県糟屋郡宇美町にあります。








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施設入り口から、後円部がど~んと目に入ります。



博多湾に注ぐ宇美川の右岸の丘陵の上で、宇美川流域を見下ろしています。


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後円部から前方部の中心ライン上で撮りました。







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これは前方後円墳ですが、柄鏡型なので、これまで見て来た4世紀後半の古墳に繋がっていくような存在になります。

やはり竪穴式の墓壙がありますが、何よりも特徴的なのは三種類の棺が並んでいる点です。これを見て何としても見たいと思ったのです。

そして、驚いたことに、沖出古墳の真西にあることをチェリーさんが発見しました。
埋葬施設も東西軸です。今日のキーワードは「東西」ですね。


埋葬の様子がよく分かる絵が掲示板に掲げられています。








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番号順に埋葬されているそうです。
注意してみると、1→2、それから3→4→5なので、二つのグルーブには少々時間差があります。

一つずつ見ていきましょう。

①は川原石を敷き詰めて箱式石棺を組んでいます。これは福岡では各地でよくみられる棺ですね。

そして興味深いのは、その石材が能古島、月隈、若杉山から持ち込まれたものだという事です!これはいったい何を伝えているのでしょうか。

能古島も月隈も奴国のエリアにあります。

若杉山はどうでしょうか。神功皇后がこの木の杉を香椎宮に植えたという話があるように、地元では聖山です。当然ながら、この被葬者は神功皇后の話を知っています。

三ヶ所から運び込まれた石は被葬者の縁がその三ヶ所に繋がっているから使用したのでしょうね。

しかもこの人が一番最初に埋葬されています。男性か女性かは分かりませんが、立地からは首長なのでしょう。

②の小さな箱式石棺はその人の子供と思われます。地元の砂岩の石棺に納められました。親に続けて亡くなったのでしょうか。すぐそばに埋葬されています。






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この復元レプリカは宇美町歴史資料館にあります。朱のようすが良く分かりますね。

宇美八幡宮の右手にある資料館です。隣接しています。




③は割竹形木棺です。配偶者と思われますが、自分の故郷の埋葬型式を持ち込んだのだと思います。

割竹形木棺で、これまで出会ったのは糸島市、那珂川市、宗像市です。もちろんこのほか沢山の地にあるので、特定はできないのでしょうが、印象としては福岡県の西部や西南部の感じがします。この人の脇にも子供が一人埋葬されているんですね。それが④です。

④の甕棺はやはり奴国や伊都国のイメージと重なってしまいます。子供が甕に埋葬されるケースは板付遺跡でも見ましたね。ちなみに宗像市では甕棺は出ないそうです。
(一点のみ吉備式が出土している)

⑤の箱式石棺も小さいですね。一人だけ方角が違っています。両親の上座に埋葬されたような印象です。

これらを見ていると、夫婦と子供たちの家族が一緒に埋葬されているように見えます。子供が小さいので若夫婦だったのでしょう。流行り病などで短期間の内に亡くなったのかとも思いました⑤の子だけは少し生き延びたけど、やはり幼くして亡くなったような。

この夫婦は、別の国の首長同士の縁で結ばれたように見えますが、仲が良かったのでしょうね。

そして、この埋葬の優しさからは、あまり男女の格差が無いクニの姿が思い浮かびます。


さて、二つ目の特徴は「東西のライン」です。
古墳自体は東西軸ではないのですが、埋葬施設が東西軸で造られ、頭は西向きだそうです。

西が開けています。被葬者は自分の治めた国を向いているのでしょう。
でも、完全な東西なら、また何らかの思想があるのかもしれませんね。仏教に西国浄土の思想があるように。


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もう一つ、特徴は、沖出古墳の東西ラインに重なっている点でした。

何故一致しているのかは謎です。
るな的には血縁関係があったのだろうかと、考えたりしています。

この光正寺古墳が造られて100年ほど経ってから、真東の嘉麻市に沖出古墳が造られたんですね。古墳の形は同じ柄鏡型で、竪穴式石室です。でも棺は板で造ったものから、石を削って造ったものに変わりました。


築造時代は3世紀中頃~後半です。ということは、卑弥呼の死248年の同世代か次世代の人たちです。

被葬者たちは卑弥呼について知っている人たちです。







粕屋郡宇美町 光正寺古墳




見学するのは古墳が先か、宇美町歴史資料館が先か。悩みますね。
宇美町には宇美八幡宮があり、その西には巫女たちではないかと思っている古墳群があります。またいつか紹介します。

【宇美町HPより】
光正寺古墳の築造年代は、第1主体部から出土した古式の土師器で甕の制作年代が3世紀中頃から後半であり、県内の前期古墳の中でも最古期の古墳に位置づけられます。また、光正寺古墳は糟屋郡内最大の前方後円墳であることから古墳の被葬者は、当時糟屋地域を支配した豪族(王?)の墓と考えられます。

墳丘規模は全長約54m、後円部径約34m、前方部長20mで前方部2段築成、後円部3段築成の糟屋郡内最大の前方後円墳です。





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by lunabura | 2018-12-21 20:12 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(1)

北部九州 古墳分布図 四世紀後半



北部九州 古墳分布図 

四世紀後半



 「四世紀後半」の向野田古墳と沖出古墳を続けて投稿したら、やたら「四世紀後半」のキーワードが目につきまして。

 自分の過去ブログを見るといくつかUPしていました。それを整理してみると、みんな柄鏡型古墳でした。

 柄鏡型古墳だから四世紀半なのか、埴輪が朝顔形だからそうなのかは分からないのですが、地図に落としていくと、何となく倭国の力学関係も見えるような感じがして、ちょいと面白い。









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小郡市の消滅した三国の鼻一号墳が四世紀中頃ということなので、この中では一番古いです。沖出古墳は四世紀の終わり頃なので、一番新しいと思います。

 名前の後の数字が全長で、メートル単位です。

 大きさでは一貴山銚子塚古墳がダントツで、副葬品も一番多いです。一度行ったことがあるのですが、あまり価値が分からない頃だったので、今はこの古墳をもっと知りたいと思っています。埋葬状態がそのまま残っていたのです。

多数の鏡など、出土品は京都大学が持ち去ったので、地元の私たちは見ることが出来ません。平原遺跡と共に博物館で見られるようにしていただきたいなと焦がれている古墳です。

せめてカラーのパンフレットが欲しいですね。いつも書いていますが、持ち出した大学や資料館は地元に還元して啓蒙する義務があると思います。年に一度の里帰り展などを積極的に企画してほしいですね。

 さて、免ケ平古墳は現在、西日本新聞で掲載されているのですが、三角縁神獣鏡が出ています。卑弥呼より100年以上経っても、銅鏡が愛されているのが良く分かります。
 
 この分布図は今現在出会っている古墳ばかりです。これから少しずつ更新していくことになると思います。

謎の四世紀と言われますが、神功皇后を支えた豪族たちと重ね合わせていくと、誰がここにいたか良く分かりますね。

次の時代になると鎧や兜が見られるので、四世紀後半はまだまだ弥生の彩りが残っているような印象があります。

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by lunabura | 2018-12-19 22:48 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(0)

向野田古墳 宇土市 4世紀後半 前方後円墳 竪穴式石室 舟形石棺 女性 



向野田古墳 宇土市 

4世紀後半 前方後円墳 竪穴式石室 舟形石棺 女性 




前回は早く比較したかったので、いきなり二つの古墳の比較を始めましたが、今日は落ち着いて熊本の向野田古墳の探訪記を書きたいと思います。4世紀後半の前方古墳です。






 熊本県の宇土半島の根元に走る鹿児島本線と国道3号線の間、不知火御領簡易郵便局を目指して行きました。そこから東の山に向かって曲がります。








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バスの中から撮りました。正面の山ではなく、右の山のもう一つ奥を目指して歩いて行きます。
すぐに左手に案内板があり、いきなり赤土の山を登ります。

今思えば後円部を登っていたようです。
落ち葉と雨で滑りながら登っていくと少々フラットな所に出ましたが、それも後円部の段の一つだったのでしょう。







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まもなく墳頂に出ました。
周囲の地山を削って前方後円墳の形にして、削った土を円墳上に盛り上げているそうです。


この窪みが竪穴式石室の跡で、395cmの石棺がここに埋め戻されています。








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埋葬されていたのは30代後半~40代の女性です。






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石棺の中には頭の周囲に鏡が3面、右手元に碧玉製車輪石、胸にヒスイの勾玉、ガラス小玉などが添えられていました。足から1メートルほどの所には奄美、沖縄産のイモ貝製の貝釧が置かれていました。

石棺外には鉄刀や鉄剣、ヤリ、鉄斧などの武器類が置かれていました。

この古墳も破壊される直前に高校生が掘って石室を掘り出したそうです。
その後、前方部が削られてしまい、現地は円墳のような形になっています。



この日は、この後、雨が大降りになり雷まで鳴り始めたのですぐに下りました。
手荒い歓迎ぶりでした。


副葬品は宇土市立図書館の歴史資料館に置かれています。人骨は熊本大学にあるそうです。

熊本地震で宇土市市庁舎が壊れたのをテレビで見ましたが、見事に再建されていました。資料館はこれからですね。

最初に目に飛び込んで来たのが甕棺でした。
「懐かしい!こんな所に甕棺がある!」
と声を挙げたら、甕棺の南限がここだそうです。甕棺を持ち込んだのか、現地で造ったのかは不明だそうです。


地形を見ると分かりますが、古代において九州を北から南に下る時、船でも陸でも必ず通らねばならない所で、両脇の山間部に古墳群があり、今回の向野田古墳は東の方に築造されていました。



宇土市向野田古墳 赤マーク






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by lunabura | 2018-12-14 20:06 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(0)

久原澤田古墳群 ムナカタにある可愛すぎる前方後円墳!6世紀中頃



   

久原澤田古墳群 

ムナカタにある可愛すぎる前方後円墳!

 
  
 
バスハイクで宗像ユリックスのプラネタリウムに行ったことは前回書きましたが、その広大な敷地内に久原澤田古墳群があります。

以前、何でこんな土饅頭みたいなのが駐車場の間にあるんだ、とブツブツ思いながら土饅頭の脇を必死に上って通ったことがあるのですが、こともあろうに古墳だったとは\(◎o◎)/!

ユリックスの施設の方からは案内板が無いので、何十年も気づかなかった(;^ω^)






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で、古墳なのだと認識して皆さんと訪ねると、何と「チョー可愛い前方後円墳!!!」
驚くほど小さくて、近くからでも画像に収まるではありませんか!

テンションが上がります。






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全長45mと言えば、どれほど小さいか分かりますね。
6世紀中頃のものだそうなので、磐井の乱を見た世代です。







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人物埴輪が出ています。
美豆良を結っているので男性ですが、冠を付けていませんね。
円筒埴輪や家形埴輪も出ています。

家形埴輪は海の道で見かけたことがありますが、人物埴輪はどこに行ったら見れるのだろう。






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古墳群は前方後円墳一基のほか、3基の円墳が並んでいました。
他はもしかしたら壊されたのかな。

で、この前方後円墳に一列に連なる円墳群を見て思い出したのが、宗像イセキングで見せてもらった牟田尻の古墳群の図。




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これを見て山の尾根に連なる古墳群の存在を知ったのです。
凄いと思いません?
桜京装飾古墳とかある所。隣はゴルフ場。




ここは宗像族の古墳群があったのではないかと散々考えた場所だったんで、まさかの大古墳群に遭遇して感激。



今年の夏、わざわざ遠方に宗像の遺跡の話を聞きに行って、宗像には大した古墳は無いと聞かされたけど、あるじゃん。こんなすごいの…。


そして、このユリックスの敷地にもこんな古墳群があったのだろうか。

掲示板には弥生からの遺跡があったと書かれていました。

    面白うて やがて悲しき 古墳巡り

となりましたとさ。







201821208

今日はRKBラジオで久山の斎宮から羽白熊鷲攻めでした。
ああ、言い間違いしてる(;^ω^) 内宮を上宮と言ってる(-_-;)

訂正
    天照皇大神宮 内宮    斎宮 外宮
です。ⅿ(__)m



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by lunabura | 2018-12-08 21:28 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(0)

沖出古墳1 4世紀末 竪穴式石室 前方後円墳




  沖出古墳1

 4世紀終わり頃 竪穴式石室

 
  
 

沖出(おきで)古墳は福岡県嘉麻市漆生78番地1及び2にあります。
古墳で番地があるのは珍しいですね。
嘉麻市(かまし)漆生(うるしお)と読みます。






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素晴らしいフォルムです。
4世紀の終わり頃の築造ということで、西暦370年~390年代ということでしょうか。
卑弥呼より約150年後と位置づけしておきましょう。

筑豊地方では最も古い前方後円墳だそうです。
この長さは約68メートルで、前方部は2段、後円部は3段ということです。

この丘は標高約40メートル。遠賀川を望む地形です。

埴輪も壺形、円筒、朝顔形、家形のものがあったそうです。
家形埴輪は後円部の墳頂付近と前方部の先端に立っていたそうです。







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ということは、この画像がその復元のものでしょう。
南方系の屋根ですよね。


この古墳は既に盗掘されていて、盗掘穴に向かって見学道が作られています。
ガラスで覗けるようになっているのですが、良く見えませんでした。

竪穴式石室なので、被葬者だけの為に造られた石室です。









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こんな感じだったそうです。

実は、何よりも興味があったのは石棺の形です。「割竹形石棺」なのです。


「割竹・木棺」と言えば平原遺跡。それにまだ詳細を書いていない宗像イセキングの墓。
木棺が「石棺」に変化していくのでしょうか。
それとも別の文化?

何と、今夏行った宇土半島の向野田古墳も同じように前方後円墳で、時代は4世紀後半。竪穴式石室で、石棺は「舟形石棺」となっています。被葬者は巫女的な女王。

つまり、同じ4世紀後半に熊本の宇土半島と福岡の嘉麻市によく似た墳墓があるのです。

一つひとつ丁寧に見ていって比較したいとずっと思っていました。



しかも、この沖出古墳の丘には神功皇后ゆかりの稲築八幡宮があるのです。
ここは面白いぞ。



20181129


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by lunabura | 2018-11-29 20:22 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(1)

老司式瓦と「老司、野多目」の語源




老司式瓦と「老司、野多目」の語源



古代瓦が古代史の論点の一つに挙げられていますが、さっぱり分かりません。

で、西日本新聞に小田富士雄さんの聞き書きシリーズが掲載されているのですが、昨日(20181119)の記事に分かりやすい説明がありました。

これによると、大宰府政庁など九州にあった古代官衙(かんが・役所)や寺に使われた瓦の型式に、「老司式」(ろうじしき)と「鴻臚館式」(こうろかんしき)の二種類があるそうです。

老司は地名です。鴻臚館は古代の迎賓館的な所。

これを命名したのが小田富士雄さんで、老司式の特徴は唐草文様のデザインが片流れになっていて、三角形のギザギザの鋸歯(きょし・のこぎり形)の文様が付いているのだそうです。

これに対して、鴻臚館式は唐草文様が中心から左右対称になり、鋸歯紋が無いそう。

これで分かりました!







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この画像を見ると、ギザギザがあり、唐草文様が流れているので老司式と分かります。
画像は老司公民館からお借りしました。



で、「老司」という地名について。


今日もまた偶然ですが、これを読んだあと、たまたま広げたページに「老司」の語源を書いた文章が出て来たのです(笑)

真鍋大覚の「那珂川の地名考」72です。

〈太宰府は武内宿禰が神功皇后23(223)年に異邦人の筑紫への入国、筑紫からの出国を掌握する官衙を設置したに始まる。〉

と驚く事を書いていますが、その大宰府が発展すると皿や壺などの陶器の需要が増し、窯元はその原料確保に奔走したそうです。


粘土の多い泥の底には赤土が沈殿していて、塩分を多量に含んでいるので、陶器の材料に適し、素焼きでも釉(うわぐすり)がいらない壺が出来たそうです。

この土を「に」と言い、土買いを「にかひ」と言い、新治(にかい)と書いたそうです。

こうして、塩分を含んでいるため需要が無かった土地の子孫が一躍、千万長者になったとか。

神話に出てくる塩土翁とは塩田、塩原を経営していた神で、それ以外に赤土の採掘権を保有する神でもあったとか。

これを万葉の頃には盧人(ろじ)と呼び、それが老司(ろうじ)に変化したそうです。

赤土は川が蛇行する所に堆積し、ここで土取りを深くしていくと水が溜まって仕事がはかどらなくなるため、川の水路をまっすぐにして水を流します。これが「野多目」だそうです。地名がありますね。


老司では良質の赤土が採れ、そこで瓦を作ったのですね。
そのデザインが老司式と呼ばれるようになった訳です。

これで、瓦の事が一つ理解できました♪



20181120 真鍋ノート

福岡市南区老司   野多目


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by lunabura | 2018-11-20 20:11 | <地名の由来> | Comments(0)

筑紫舞の琴は「叩く琴」だった



筑紫舞の琴は「叩く琴」だった




RKBラジオ「古代の福岡を歩く」の伊都国博編で、古代の琴の話題が出ていました。
伊都国博物館で「叩く琴」が展示されていたのですが、出雲大社でも叩く琴が神事に使われているということで、その時の実際の音色が放送されました。

叩いて音を出すのですから、弦の琴とは全く趣が違いましたね。

番組を聴きながら、どうやらこのディレクターは「叩く琴」を追求しているぞ、と思い、香椎宮での収録のあと、逆取材を試みました。

厚かましいですな(;’∀’)
でも、るな自身も「叩く琴」を追求していたので、すごくうれしかったのです。

( ..)φメモメモ

何故なら、雉琴神社(上巻31)の伝承に、「雉の声を琴の音かと思って目を覚ました」という話があるからです。

琴の音=「春の海」のような豪華絢爛な弦の響きと思い込んでいたので、雉の鳴き声と結びつかなかった。

そうして調べていくうちに、忌宮神社(上巻1)の「板神楽」を知って、神功皇后時代の琴は「叩く琴」だったのが分かったのです。それなら、雉の声に聞こえる。

そんな話を香椎宮の古宮から不老水に行く途中で話しました。
(これは放送されない)

で、収録が終わって尋ねているうちに、な、なんと!「筑紫舞の琴は叩く琴だった」という話を聞いたのです。

しかも、その言葉は西山村光寿斎さんからの聞き取りだったのです。

それを聞いたディレクターが前回書いたように、筑紫舞の番組を作られたのです。

その番組、聴きたいですよね。
筑紫舞の情報は、古田武彦氏と、私のブログの光氏からの聞き取りしかないのですから。

今度ディレクターに会ったら、再放送か、アーカイブをお願いしようと思いますよ♪
実現するかどうかはその先のこと。

まずは、お願いから。
どうぞ、希望がある方はコメントに書いてくださいね。
きっと、届きますから。






それにしても、日本の神社って、すごい。
2000年ほど前の奏法を伝えているんですから。




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by lunabura | 2017-12-16 20:56 | メモ | Comments(0)

三星堆―古蜀国―イ族2 鳥居か?




三星堆―古蜀国―イ族2 

鳥居か?


メモが出てきたので、もう少し記録しておこう。







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アーモンドアイを持つ三星堆の巨大な神像。










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これは額にある文字。
イ族が読むと「パ」という発音で「先祖」という意味になるという。









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中国の「戦国時代」図。古蜀国とは蜀のことのようだ。

紀元前316年、秦は軍資金を得るために蜀を攻めた。
紀元前2世紀、蜀は四つの郡に分割された。
3世紀に反乱を起こしたイ族は諸葛孔明によって鎮圧される。
13世紀にフビライはイ族の城を攻め、全員を殺害。





逃げに逃げたイ族は今、大涼山の頂上に3万人の少数民族として蕎麦や羊で暮らす。
姓にはアユ、ムポがある。
名にはテル、アブ、グフ、マル、アカ、マショ。
神の言葉を伝えるピモは100人以上いる。

前回書いた、死者の魂に故郷の道を教える歌は「指路経」という。
その指し示す地は馬牧河(ムンプク)。すなわち蜀の地。






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彼らの文字。








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羊毛節には生きた鶏を高く掲げる。鳥居か、あるいはソッティなのか。








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羊たちに、松で作った「浄化の門」をくぐらせると浄化されるという。
この松が日本では藁と紙垂(しで)になる。

イ族が武装を解除したのは、近年のこと。
その掟は「人の和を大切にする」だという。

蜀の文化は古代日本に通じている。





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by lunabura | 2017-12-11 20:40 | メモ | Comments(0)

三星堆―古蜀国―イ族 



三星堆―古蜀国―イ族 




秘境中国謎の民「天頂に生きる」(NHK)の再放送があった。初回も見たのだが、これが驚いたことに、三星堆(さんせいたい)の遺跡を生んだ人々が追われて山の上に住むようになった話だった。

あの「三星堆」をタイトルに何故入れなかったのか、不思議で仕方がない。今日見ていても、惜しいと思われてならなかった。「三星堆」なら、誰でも見たいと思うのに。







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「三星堆」の巨大な青銅の像は数年前に九博にも来ていたので、その裏もじっくりと観察したことがある。これほどの技術を持った人たちはいったいどうなったのか。テレビではその答えが見事に説明されていた。








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三星堆は古蜀国にあった。
繁栄していたため、紀元前316年にその富を狙った秦に攻められて移動し、次には諸葛孔明に攻められて移動、と何世紀もの間、幾度となく攻められて逃げていった人々が「イ族」だった。
今は登山に6時間はかかる山の上に住んでいる。








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紀元前4世紀ごろの文字を今も伝えているイ族に三星堆の出土物の文字を読んでもらうと、読めるのだ。

人が亡くなると、その魂は三つに分かれるという。

一つは天に。一つは守護霊となって村に。そしてもう一つは元々住んでいた国に。

神の声を聴くピモが死者にそこへの道筋を教えるのだが、それを辿ると三星堆がある古蜀国につくという。









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祭りの時の娘の頭にはあの「かふり」がある。
そう、埴輪女子が被っている例の「かふり」だ。
上着も無地なら埴輪と同じ打ち合わせ方。

顔も日本人そっくりだね。



蛇足だが、熊本にイ(井)さんが集中する町があるという話を思い出した。






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by lunabura | 2017-12-10 20:46 | メモ | Comments(2)

ひめちゃご103 検見谷遺跡付近地図に画竜点睛を



ひめちゃご103

検見谷遺跡付近地図に画竜点睛を
 


前回、検見谷遺跡の場所が分からないと書いたが、
チェリーが出土したという佐賀カントリー倶楽部の地図を作製してくれた。








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以下はそのコメント。

<いろんな地図を合成して、マウスでなぞったという荒い地図ですけど…
黒い線が佐賀カントリー倶楽部の範囲です。

赤い線が標高20mの等高線、暗い赤の線が標高30mの等高線です。

佐賀カントリーの左上の端あたりに、西から入って南に登る谷がありますが
(白石神社・白石焼窯元への道を登り詰めて、
クラブハウスへの道に合流して、南に進むのですが)、
佐賀カントリーに達する前に標高30mを超えてしまいます!
該当する場所が見つかりません!!>

赤い標高線のラインより4m高い所に遺跡があるという。
<背振山地南麓から白壁地区に向かって延びる丘陵の西側に位置している。

この一帯の斜面にはたくさんの谷が複雑に入り込んでいるが、
銅矛出土地点は、その谷の一つの最奥部、南へ入り込む小支谷の斜面上で、
標高約24メートルの場所である。>

これを追求するのも面白そうだが、これは是非とも地元の方にお願いしたい。


今、12本の銅矛は文化庁にあるという。
文化庁や他県の大学に行ったものは地元から忘れさられる可能性がある。

そうやって、九州の歴史は失われていく。

背振山系の南麓にはずらりと古代の最高レベルの文化が花開いている。

奇跡的に保存された吉野ケ里遺跡レベルのものが
台地ごとに存在して、古代人の営みがあったのだ。
その古代人の心の支えが神社だった。

佐賀の奇跡はもう一つ「肥前風土記」が伝わっていることだ。

景行天皇の時代を軸にして、古代道を今でも感じることができる。

誰か、チェリーの描いた地図に赤い点を打ってほしい。

画竜点睛。

方法は、検見谷遺跡の発掘報告書を手に入れるか、
佐賀カントリー倶楽部に問い合わせる。

そうして、その人には、新たな旅が始まるのだ。
古代の歴史がアイデンティティとなり、
次世代の子供たちのチカラとなっていくのだ。



<ひめちゃご>
<2017年11月1日>






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by lunabura | 2017-11-01 23:24 | 「ひめちゃご」 | Comments(2)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25