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タグ:古墳・遺跡 ( 135 ) タグの人気記事

岩戸山古墳と今城塚古墳の相似性 磐井VS継体?配布したのはどっち?



岩戸山古墳と今城塚古墳の相似性 

磐井VS継体?

配布したのはどっち?




9月20日に行く宇土半島のピンク石の石棺について、岩戸山古墳と今城山古墳の相似性について書いたところ、チェリーさんと酔石亭主さんが詳しい内容を知らせてくださいました。

コメント欄だけではもったいないので、こちらに載せておきたいと思います。

by チェリー
lunaさん、こんばんは。
私の生活圏になるんですが、熱田神宮のすぐ隣にある「断夫山(だんぷやま)古墳」(愛知県最大)と、春日井市にある「味美(あじよし)二子山古墳」も、今城塚古墳の相似墳みたいです。
調べてみたら、群馬県藤岡市にある「七輿山(ななこしやま)古墳」もそのようです。

by luna
けっこうあるんですね。
新たな謎解きでしょうか^^

by チェリー
他にもあるのでしょうか?私が知っているのはこの三つだけです。

断夫山古墳の断夫というのは、夫を断つという意味だそうです。
ヤマトタケルを失った宮簣媛(ミヤズヒメ)が、独身を通したという意味のようです。
熱田神宮は、今もこの古墳をミヤズヒメの御陵として祀っているのです(御陵墓祭)。

しかしながら、5世紀末から6世紀初頭の築造とされますので、年代が合いません。
ですので、当時の尾張氏の首長「尾張連草香(くさか)」の墳墓と想定されているようです。

この方の娘さんが継体天皇の妃となった「目子媛(めこひめ)」だそうですので、継体天皇との関連が考えられているようです。

同じ謎になります。断夫山古墳はなぜ岩戸山古墳と同じ設計なんだろう?

るな
このコメントを読んで、地元にはそれぞれ内容の濃い伝承が伝わっているのに驚きました。

継体天皇の妃が愛知県とは全く知りませんで、少し調べてみたいなと思いました。
実は纏向遺跡を40年掘った方が、纏向からは邪馬台国らしきものは出なかったと話されました。

邪馬台国なら、中国の物が一つでも出るはずなのに、全く出なかったそうです。

そして、出土したものの特徴の一つは福岡系の羽口、そして敢えて言うなら、遺物の傾向としては三重や愛知を見ていると言われたのです。

時代も、場所も違う話ですが、愛知への視線が気になりました。

岩戸山古墳と相似性の古墳についてはネットでも論文を見ることができますが、
チェリーさんの質問に答えるには少々本格的に調べないと無理だなあと思っていたら、酔石亭主さんが助け舟を出してくれました。


Commented by 酔石亭主 at 2018-09-15 15:55 x

lunaさん はじめまして。横から失礼します。
チェリーさん ご無沙汰しております。

今城塚古墳(摂津)の相似墳には、断夫山古墳(尾張)、七輿山古墳(上野毛)、岩戸山古墳(築後)、五ヶ庄二子塚古墳(山城)、西山塚古墳(大和)、味美二子山古墳(尾張)などがあって、墳丘長が190mの今城塚古墳を10とした場合、それぞれ8、8、7、6、6、5と見事な序列関係になっています。しかも各古墳の被葬者は継体天皇の后や支持勢力の可能性が高いとされています。

これらから学術的には、今城塚古墳のマスタープランが論功に応じて配布され相似墳が築造されたと見られています。そこから導き出せる結論(あくまである一面から見ただけの結論)は、磐井の乱以前の継体と磐井の関係は非常に良好だった、となります。これでチェリーさんの疑問の答えになるでしょうか?

また両者の関係が良好なら、今城塚古墳の石棺に馬門ピンク石が使われていてもおかしくはありませんね。まあ、ピンク石は継体天皇よりかなり以前から関西の各古墳で使用されていますので、その流れで今城塚古墳でも使用されたと考えてもいいとは思います。あ、それから今城塚古墳の石棺石材としては、兵庫県高砂産の竜山石、馬門ピンク石、二上山白石の3種類が使われています。

るな
酔石亭主さんがすごく分かりやすくまとめてあったので、勉強になりました。
ありがとうございます♪




ところで、「学術的には、今城塚古墳のマスタープランが論功に応じて配布され相似墳が築造された」とあるように、近畿の朝廷が「配布する」という解釈が学会で見られます。


ところが、『旧唐書』には「日本国は倭国の別種である」と書かれ、「日本は古くは小国だった」とあります。のちに「倭国の地を併合した」とも。
倭国は冬でも緑なす国と書かれていましたね。
阿蘇山の影響がある地域です。

中国正史から見ると、九州にあった倭王朝が設計図を「配布」したという解釈が成り立ちます。

最近思うのは、
磐井の時代もそうですが、邪馬台国論争では、魏志倭人伝だけでなく、『隋書』や『旧唐書』を読んでから論を立てるのが肝要かと。


以下はいただいたコメントの元記事です。







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by lunabura | 2018-09-16 17:18 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(10)

金立で金龍(*’▽’)




金立で金龍(*’▽’)



金立とは地名で「きんりゅう」と読みます。
佐賀市にありますが、高速のサービスエリアの名前でもあります。

この高速道路建設の時に、古墳群が発見されて、移転されています。
「上り」にあると聞いていましたが、ようやく訪れました。

サービスエリアから歩いていけます。









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う~ん。
これは只者ではない。
すごい古墳群です。
久保泉丸山遺跡といいます。


イクヒは「相島の積石塚みたい」と言い、私は「ケルトみたい」と言いました。

よく考えると同じような連想です。
相島とケルトの墓はそっくりさんですからね。









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で、帰りしな空を見ると金龍が(^^♪

で、タイトルの「金立で金龍」となったのでした(;’∀’)
きんりゅうできんりゅう、と読んでね(笑)


金立は徐福が上陸した所でもあるので、
古代は最先端だったと想像しています。

この古墳群について詳しい事は資料を見て調べたいと思います。
ここは、與止比咩神社と吉野ケ里の間にあります。

何気に、佐賀ってすごい。
佐賀には何もないって、昔言ってなかった?

とんでもない。
宝庫。
佐賀は史跡の宝庫ですね。




コメントありがとうございます。
返事、少しお待ちくださいね。




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by lunabura | 2018-06-12 21:04 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(2)

エジプト太陽の船と筑紫野の五郎丸古墳壁画



エジプト太陽の船

筑紫野の五郎丸古墳壁画





エジプトのクフ王のピラミッドの脇から二つの太陽の船が出土しているが、そのサイズが違っていて、大小二つあるのがずっと気になっていた。
一つは帆船で、もう一つの船を曳くようになっているらしい。




c0222861_21284112.jpg









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曳かれる船はキャビンだけで、太陽神ラーとファラオが乗るようになっているそうだ。

これと同じ二艘の船の壁画が南アメリカのピラミッド関連の壁画にも描かれていることがRKBテレビであっていた。










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(画像出展)
http://www.city.chikushino.fukuoka.jp/furusato/sanpo14.htm


これを知った後に筑紫野市の五郎丸古墳壁画を見ると、上の船の四角の構造物は棺ではないのかもしれないと思うようになった。
棺にしてはサイズ感が違うのだ。
これは王の為のキャビンの可能性はないだろうか。

エジプトの壁画と同じ思想の船が浮羽市と筑紫野市にあるのは、
有明海から入って来た渡来人が居をなしたからか。

彼らは石室の空間を埋めずにはいられない観念を持っている人たちだと思う。



<2017年12月27日 >



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by lunabura | 2017-12-27 21:33 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(0)

三星堆―古蜀国―イ族2 鳥居か?




三星堆―古蜀国―イ族2 

鳥居か?


メモが出てきたので、もう少し記録しておこう。







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アーモンドアイを持つ三星堆の巨大な神像。










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これは額にある文字。
イ族が読むと「パ」という発音で「先祖」という意味になるという。









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中国の「戦国時代」図。古蜀国とは蜀のことのようだ。

紀元前316年、秦は軍資金を得るために蜀を攻めた。
紀元前2世紀、蜀は四つの郡に分割された。
3世紀に反乱を起こしたイ族は諸葛孔明によって鎮圧される。
13世紀にフビライはイ族の城を攻め、全員を殺害。





逃げに逃げたイ族は今、大涼山の頂上に3万人の少数民族として蕎麦や羊で暮らす。
姓にはアユ、ムポがある。
名にはテル、アブ、グフ、マル、アカ、マショ。
神の言葉を伝えるピモは100人以上いる。

前回書いた、死者の魂に故郷の道を教える歌は「指路経」という。
その指し示す地は馬牧河(ムンプク)。すなわち蜀の地。






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彼らの文字。








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羊毛節には生きた鶏を高く掲げる。鳥居か、あるいはソッティなのか。








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羊たちに、松で作った「浄化の門」をくぐらせると浄化されるという。
この松が日本では藁と紙垂(しで)になる。

イ族が武装を解除したのは、近年のこと。
その掟は「人の和を大切にする」だという。

蜀の文化は古代日本に通じている。





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by lunabura | 2017-12-11 20:40 | メモ | Comments(0)

三星堆―古蜀国―イ族 



三星堆―古蜀国―イ族 




秘境中国謎の民「天頂に生きる」(NHK)の再放送があった。初回も見たのだが、これが驚いたことに、三星堆(さんせいたい)の遺跡を生んだ人々が追われて山の上に住むようになった話だった。

あの「三星堆」をタイトルに何故入れなかったのか、不思議で仕方がない。今日見ていても、惜しいと思われてならなかった。「三星堆」なら、誰でも見たいと思うのに。







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「三星堆」の巨大な青銅の像は数年前に九博にも来ていたので、その裏もじっくりと観察したことがある。これほどの技術を持った人たちはいったいどうなったのか。テレビではその答えが見事に説明されていた。








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三星堆は古蜀国にあった。
繁栄していたため、紀元前316年にその富を狙った秦に攻められて移動し、次には諸葛孔明に攻められて移動、と何世紀もの間、幾度となく攻められて逃げていった人々が「イ族」だった。
今は登山に6時間はかかる山の上に住んでいる。








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紀元前4世紀ごろの文字を今も伝えているイ族に三星堆の出土物の文字を読んでもらうと、読めるのだ。

人が亡くなると、その魂は三つに分かれるという。

一つは天に。一つは守護霊となって村に。そしてもう一つは元々住んでいた国に。

神の声を聴くピモが死者にそこへの道筋を教えるのだが、それを辿ると三星堆がある古蜀国につくという。









c0222861_2044639.jpg

祭りの時の娘の頭にはあの「かふり」がある。
そう、埴輪女子が被っている例の「かふり」だ。
上着も無地なら埴輪と同じ打ち合わせ方。

顔も日本人そっくりだね。



蛇足だが、熊本にイ(井)さんが集中する町があるという話を思い出した。






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by lunabura | 2017-12-10 20:46 | メモ | Comments(2)

辺津宮―大島―沖ノ島 海底に沈んだ陸と遺跡




辺津宮―大島―沖ノ島

海底に沈んだ陸と遺跡


 

いまだに信じられない。
かつて大島は陸続きだったという。





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神湊の頓宮から大島を撮ったのだが、この間は陸地だったというのだ。
しかも、この海が出来たのは475年。倉良の瀬戸という。
今から約1500年前のことだ。
そんな話を伝えるのは、もちろん真鍋大覚ぐらいしかいない。






しかし、海底に沈んだのはこちらだけではない。
大島の向こう、沖ノ島の手前にも海底に沈んだものがある。







30mほどの石柱が四本。一本には螺旋階段がついている。
これは真鍋の口碑の裏付けになろう。

もしかしたら、両方とも同じ時期に沈んだのだろうか。





鼻栗瀬もそのとき、一部が崩壊したのか。






合わせ鏡の舞台だ。


話は逸れるが、大島には洞窟が沢山あるそうだ。
かつてそこで金を採掘していたという。
陸地の方も孔大寺山は金を産出していた。
金の鉱脈が繋がっているのか。


<2017年12月4日>




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by lunabura | 2017-12-04 19:29 | 宗像大社・むなかた・宗像市 | Comments(7)

ひめちゃご104 始まりの宮へ



ひめちゃご104

始まりの宮へ
 

物部神社から姫方若宮八幡宮へ向かった。

「ひめちゃご」の始まりの宮だ。







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真直ぐの古代道が綾部八幡宮まで続くという。
その途中に姫方若宮八幡宮がある。

狭い車道を北上した。

この日、ウメとタケと私は現地でミノリ一家と合流した。

ミノリこそ「ひめちゃご」という言葉を生み出した人だった。






民家の前を通って
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狭い参道を上っていくと、









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見慣れた姫方若宮八幡宮に出た。
銀杏が輝く季節だった。


ここもまた古代の岬の先端に建っていた。
ここから見える山々は古代の天文観測の名残を教えてくれた。



この宮の祭神は『中原町史』によると、
住吉大神、仁徳大神、武内大臣となっている。

八幡三神でも、次世代の三神ということか、
応神天皇の名が見られない。










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その拝殿にはめずらしい葡萄が彫られていた。
江戸時代の建造なのか、明治に入っての建造かは不明だが、
葡萄とはこれまた瀟洒な西洋的モチーフだ。











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神殿の方には龍と桐。天皇を祀るにふさわしい。










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ところが、他はどうだ。










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波と花に埋め尽くされていた。

いかにも女神の装いなのだ。

ミノリが参拝する時に現れるのは女神だという。


この姫神が誰なのか、それを探す旅でもあったのだろうが、
市杵島姫命が最有力候補だった。


町史も
「原始八幡信仰の神籬から、宗像女神に、宇佐八幡系が入りこみ、
若宮八幡の占有する姿を漂わせている気がする。」
と書いている。

この「中原宿は姫方村の枝村であった」ので、
そこと同じ神を祀っていた可能性があると考えているようだ。

この点は氏子からも「同じ神を祀っている」と聞いている。

町史はさらに、次のように鳥栖の「姫古曽神社」を引き合いに出していた。

<鳥栖市旧基里邑に「姫古曽神社」があって、集落を姫方とよぶ。
祭神は「市杵島姫命、住吉大神、八幡大神」である>

総合すると、この「姫方若宮八幡宮」は鳥栖の姫方の飛び地なので、
「市杵島姫命」を祀っていたと考えられるのだ。

時代は違うが、ここには「中原宿」があり、伊能忠敬が宿泊していた。

<肥前国三根郡なる堤村、寒水村字中島姫方村内中原町駅場止宿>
と書いていることから、当地は「姫方村」と称していたことが分かる。


明治になって、鳥栖の方の祭神は元の形に復元されて
市杵島姫命が再び祀られるようになったが、
この枝村には及ばなかったのだろう。

市杵島姫命の名は公には出ないままとなった、と考える。



神殿に彫られた「波と花」。
それらは市杵島姫命が「水」を司ることを象徴していると思われた。

恵みをもたらす側面と災害をもたらす側面の
二つの顔を持つ「水の女神」
それが市杵島姫命だったのではないか。







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さて、私たちは参拝を済ませると、
中原中学校の校庭にある前方後円墳に向かった。

『中原町史』は以下のように、被葬者を女首長と考えていた。


<中学校前提の前方後円墳に収めた墳主は、
この地の部族の女の首長ではなかったかと考えられる>
さらに、
<この神社のある姫方原一帯は広い範囲に、世代を異にする弥生住居跡が、
多数出土する遺跡である>
とも記す。

これは6世紀の古墳だそうだ。
グラウンドには弥生の墓地もたくさんあったのだろう。



このあと、私たちはさらに、北浦天神社と雌塚に行った。
日が沈む時間が近づいていた。

晩秋の姫方郷をそぞろ歩きして戻ってくるとき、ミノリが
「あの綺麗な女神は市杵島姫」
と言った。
やはり、そうだったのか。

ミノリは鞍手に行って星読とも会っている。

星読が、
イチキシマ姫は佐賀に逃げた、と言ったことを思い出す。
不思議な附合があったことになる。
こうして、ヒメコソ神の三社参りは五社参りとなった。


この「ひめちゃご」は2016年8月から書き始めていて、
いつのまにか一年以上も経っていた。

この始まりの宮で筆を置こうと思う。

すでに、次の巻物が開かれている。

何が書かれているのか、先はわからないが、
これからも日々の記録を残していこうと思う。





        終




                      <2017年11月3日>




メールやコメントの返事が遅れています。
少々お待ちくださいね。




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by lunabura | 2017-11-03 21:11 | 「ひめちゃご」 | Comments(0)

ひめちゃご103 検見谷遺跡付近地図に画竜点睛を



ひめちゃご103

検見谷遺跡付近地図に画竜点睛を
 


前回、検見谷遺跡の場所が分からないと書いたが、
チェリーが出土したという佐賀カントリー倶楽部の地図を作製してくれた。








c0222861_23225581.jpg


以下はそのコメント。

<いろんな地図を合成して、マウスでなぞったという荒い地図ですけど…
黒い線が佐賀カントリー倶楽部の範囲です。

赤い線が標高20mの等高線、暗い赤の線が標高30mの等高線です。

佐賀カントリーの左上の端あたりに、西から入って南に登る谷がありますが
(白石神社・白石焼窯元への道を登り詰めて、
クラブハウスへの道に合流して、南に進むのですが)、
佐賀カントリーに達する前に標高30mを超えてしまいます!
該当する場所が見つかりません!!>

赤い標高線のラインより4m高い所に遺跡があるという。
<背振山地南麓から白壁地区に向かって延びる丘陵の西側に位置している。

この一帯の斜面にはたくさんの谷が複雑に入り込んでいるが、
銅矛出土地点は、その谷の一つの最奥部、南へ入り込む小支谷の斜面上で、
標高約24メートルの場所である。>

これを追求するのも面白そうだが、これは是非とも地元の方にお願いしたい。


今、12本の銅矛は文化庁にあるという。
文化庁や他県の大学に行ったものは地元から忘れさられる可能性がある。

そうやって、九州の歴史は失われていく。

背振山系の南麓にはずらりと古代の最高レベルの文化が花開いている。

奇跡的に保存された吉野ケ里遺跡レベルのものが
台地ごとに存在して、古代人の営みがあったのだ。
その古代人の心の支えが神社だった。

佐賀の奇跡はもう一つ「肥前風土記」が伝わっていることだ。

景行天皇の時代を軸にして、古代道を今でも感じることができる。

誰か、チェリーの描いた地図に赤い点を打ってほしい。

画竜点睛。

方法は、検見谷遺跡の発掘報告書を手に入れるか、
佐賀カントリー倶楽部に問い合わせる。

そうして、その人には、新たな旅が始まるのだ。
古代の歴史がアイデンティティとなり、
次世代の子供たちのチカラとなっていくのだ。



<ひめちゃご>
<2017年11月1日>






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by lunabura | 2017-11-01 23:24 | 「ひめちゃご」 | Comments(2)

ひめちゃご102 検見谷遺跡 12本の綾杉文様の銅矛は出雲より多かった



ひめちゃご102

検見谷遺跡 

12本の綾杉文様の銅矛は出雲より多かった
 


さあ、弥生時代に遡ろう。

やけに遺跡が多い北茂安町だが、出土は22号線以北に集中するという。
そこまでは海が上がってこなかったのだ。

丘という丘は甕棺や住居跡だったのではないか、と想像したくなるほど多い。

そして、あの麗しき12本の中広型銅矛がこの地域から出土していた。








c0222861_20394149.jpg

この12本の銅矛が出たのは旧北茂安町だったが、場所が特定できない。

町史にその記述を見つけたが、
住所は「大字白壁字一の幡」としか書かれていない。

HPでも場所が示されていないという異常事態だ。

この場所について、町史では
<背振山地南麓から白壁地区に向かって延びる丘陵の西側に位置している。
この一帯の斜面にはたくさんの谷が複雑に入り込んでいるが、
銅矛出土地点は、その谷の一つの最奥部、
南へ入り込む小支谷の斜面上で、標高約24メートルの場所である。>
と書かれている。

これではいったいどこから出土したのか、全くわからない( ;∀;)

手掛かりは
<銅矛の発見は、(略)その土地を所有するゴルフ場の職員による
樹木移植作業中のことであった。>
とあり、そのゴルフ場が佐賀カントリー倶楽部だ
ということだけが分かった。

地図をいくつも照らし合わせるが、わからない。









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チェリーの地図だと、画面右下の丘陵地帯がゴルフ場らしい。

物部神社の東に谷がいくつもあるが、そのいずれかだろう。
さすがの、るな探偵もお手上げだ。

出土状況は12本を刃先と袋部を互い違いにして埋納していたという。
このような埋納法は
春日市岡本辻遺跡や那珂川町安徳遺跡と同じだそうだ。

銅矛の長さは82・2~83・8センチ。
綾杉状の文様が研ぎだされている。

これと共通点が多いのが島根県斐川町の荒神谷遺跡だという。
銅剣が358本出土したが、そのほかに16本の銅矛が出土している。

互い違いに置かれ、刃を立てた状態は検見谷遺跡と同じで、
丘陵斜面の中腹であり、
等高線とほぼ並行した状態で埋納されたという点でも一致しているそうだ。

荒神谷遺跡の16本の銅矛のうち、中広型は14本で、
綾杉文様があるのは7本だというので、検見谷遺跡の方が多い。

鋳型は北部九州や四国の西部に限られるということだが、
たしか、出雲の銅矛の鋳型は春日だと聞いたことがある。

出雲の銅鐸と「吉野ケ里遺跡から出土した銅鐸の鋳型」が一致した話もあり、
この佐賀東部と出雲との関連は検見谷の銅矛の出土から、
さらに深いものになった。

それにしても、どうしたことか。
荒神谷遺跡の出土地は簡単に見学できた。
それなのに、検見谷遺跡は出土地の確認さえ、一般人には出来ない。

さらに、六の幡遺跡の29号甕棺は弥生後期初頭で、
完形の連弧文昭明鏡という中国製の鏡が出ている。

なんだか、すごい出土品の数々なのだ。
こんな情報が今どき、ネットでも見られないのは問題だと思う。


さて、ここは風土記にも登場している。
どうやら、佐賀カントリー倶楽部は『肥前国風土記』では
三根郡に当たるようだ。

町史によると、
「三根郡は、『肥前風土記』によれば、海部直鳥が望んで、
神崎郷の一部をさいてつくったとされる。
郷は千栗・物部・米多・財部・葛木・漢部の六郷があるが、
風土記では物部・漢部・米多の三郷しか説明されていない。>
とある、

葛木郷は物部神社の南にあった。

葛城氏について、町史は「大和の大氏族」と書いているが、
小倉北区の篠崎八幡神社は葛城襲津彦の末裔の宮で、
葛城氏はもともと九州の氏族だったと思う。
(『神功皇后伝承を歩く』下巻96番篠崎八幡神社)

そして、巨大な銅矛が制作できたのは加茂氏ではないかと
最近は考えるようになったが、
この地域の南西にはなぜか「加茂」という信号があったのを思い出した。


佐賀カントリー倶楽部



<ひめちゃご>
<2017年10月31日>





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by lunabura | 2017-10-31 21:03 | 「ひめちゃご」 | Comments(6)

(祝)福岡県がついに神社と古代史のHPを出したよ (^^)/【「ご来福」しよう】



(祝)福岡県がついに
「神社と古代史」のHPを出したよ (^^)/

その名は【「ご来福」しよう】










このHP、入口が二つあるみたい。
どっちがいいかな♪


すごく躍動的で楽しい^^
二次元なのに動きがあって、ワクワクする。


福岡県が福岡の神社と古代史を全国に伝える企画を始めましたよ!
嬉しいですね。

私も行ったことのないスポットが沢山紹介されています。
寄り道のグルメスポットも。

福岡って総本社も沢山あって、ご利益もパワフル。
そんなワクワク感があふれています。

人々の願いと神社は密接に繋がっているんですね。

ご利益はあまり願わない私ですが、
神功皇后のガイドブックを素人が出せたという事自体が、
ご利益かもしれないなあ。



実は、わたくしこのHPの作成に当たって、
少しお手伝いしました。
投稿文も数本、寄せています。
少しずつUPされていくので、見つけてくださいね。

ヒント。
画像がいっぱい♪

私が撮った写真も切り取り方でこんなに変わるの?
と、目から鱗です。



以下は福岡県大阪事務所のフェイスブックからの引用です♪

【福岡古代の旅「ご来福」しようホームページがオープン!】

福岡では、知人が来ると、「◯◯さんご来福!」と言います。
なんと縁起の良い響きだと思いませんか!
実際、福岡は歴史的にも究極のパワースポットが集まる地。

今回、そんな福岡県内のご来福スポットを紹介する、
「ご来福」しようHPがオープンしました。
ご利益・歴史から見る古代スポットを随時更新予定です。

トップページの鈴を鳴らせば…
あなたにおすすめのご来福スポットが表示されます!
皆さまに多くの幸が訪れますように!

この機会に、あなたもご来福しませんか?

福岡古代の旅「ご来福」しようホームページはこちら↓

https://goraifuku.jp

(上の画像でリンクしてます^^)

(鈴を鳴らすとおみくじが出た(;'∀'))


コメントありがとうございます。
返事はお待ちくださいね。


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by lunabura | 2017-09-28 20:40 | ご来福しよう | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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