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ゾロアスター教(4)本朝では穴遅(あなむち)として神代に現れた


ゾロアスター教(4)

本朝では穴遅(あなむち)として神代に現れた



画像出典 ウィキペディア
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これはゾロアスター教の守護霊 ブラワヴァシ。
「輪っか」持ってます。



ゾロアスター(2)で紹介した画像の上、左右の人の上にブラワヴァシが描かれていました。
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それぞれに守護霊がいるということでしょうね。

ブラワヴァシは盂蘭盆(うらぼん)に変化したそうです。
仏教語もインドから来たので、ルーツを辿っていくと
中東文明に行き当たるのも当然ちゃ、当然でしょう。

だんだん純粋な日本語は何なのか分からなくなってきました。(^_^;)




さて、ゾロアスターシリーズの真鍋の最後の文です。

< 本朝では穴遅(あなむち)として神代に現れ、天平の頃は穴師(あなし)あるいは賀名生(あのう)と呼ばれ、溶鉄錬金の橐師(たくし)工人の氏族の別名となった。炉の火口(ほくち)の色がまさに火星そのものの遠見(とおけん)であった。

ここに「あなしぼし」が約されて「のちのほし」に生れ変る歴史がいきていたのである。(※橐=ふいご)『儺の国の星』143>

日本に入って来ると、大地の火の神は穴遅と呼ばれ、
熔鉄錬金のフイゴの工人の氏族の別名となったといいます。

のちに、「天平の頃は穴師、賀名生と呼ばれた。」とあるので、賀名生を検索すると、
奈良県吉野にある地名で、元は「穴生」と書いたとあります。

吉野の穴で思い出すのは、イワレビコの東征で出会う不思議な人たちです。
イワレビコはのちに神武天皇となります。(日本書紀から、るな訳)

<イワレビコの命は教えの通りに、八咫烏の後から行軍し、吉野河の川尻に着いたとき、梁(やな、竹の仕掛け)を伏せて、魚を取っている人がいた。
そこで、イワレビコの命は「そなたは誰か。」と尋ねると、「私は国つ神、名はニヘモツの子と言います。」と答えました。(これはアダの鵜飼の祖である。)

そこからさらに進むと、尻尾がある人が井戸から出て来ました。その井戸に光が有りました。そこで、「そなたは誰か。」と尋ねると、「私めは国つ神、名はイヒカと言います。」と答えました。(これは吉野首らの祖である。)

そこでその山の中に入って行くと、また尻尾がある人に会いました。この人は岩を押し分けて出て来ました。そこで、「そなたは誰か。」と尋ねると、「私めは国つ神、名はイワオシワクの子と言います。今、天つ神の御子が来られたと聞いたので、御迎えに来ました。」と答えました。(これは吉野の国巣の祖。)>


井戸から尻尾がある人が出てきました。国津神の「イヒカ」です。
井戸は「穴」と言い換えてもいいですね。
尻尾とは腰に下げた毛皮で、井戸とは坑道ではないかと考えています。
国津神とは光を灯しながら鉱物を掘る人たちのことではないでしょうか。

次に会った尻尾が在る人は岩を押し分けて出てきますが、
この人は「吉野の国巣の祖」と書いてあります。
国巣(くにす・くず)は石を組む人たちでしたね。
湊の石組(磯城・しき)を作ったり、古墳を作ったりしました。

この章は、神武天皇が入る前に、すでに鉱山や磯城を作る人たちが
入植していて、国津神と呼ばれていたことを示していると私は解釈しています。

この中の溶鉄錬金の工人を穴遅(あなむち)、穴師(あなし)、賀名生(あのう)
と呼んだことになります。

筑紫で言えば羽白熊鷲がその代表かな。

その「あのう」を変換すると「安納、安濃、穴太、阿納」と出てきました。
「あのお」を変換すると「穴生、穴太」。

共通する「穴太」を検索すると「石工衆」と出てきます。

<穴太衆は、近江の比叡山山麓にある穴太(穴太ノ里[あのうのさと]などとも俗称。現在の滋賀県大津市坂本穴太。延暦寺と日吉大社の門前町・坂本の近郊)の出身で、古墳築造などを行っていた石工の末裔であるという。寺院の石工を任されていたが、高い技術を買われて、安土城の石垣を施工したことで、織田信長や豊臣秀吉らによって城郭の石垣構築にも携わるようになった。それ以降は江戸時代初頭に到るまでに多くの城の石垣が穴太衆の指揮のもとで作られた。彼らは全国の藩に召し抱えられ、城石垣等を施工するようになったというが、不明な部分も多い。(ウィキペディア)>

この穴太衆は熊本の石橋なども造ったという話をIさんから聞いたばかりだったので、
驚きました。(*_*;
こんな所でもシンクロ?!
つまり、「穴太」に注目しなさいってこと。(^_^;)

穴太衆がもともと古墳築造を行っていた石工の末裔なら、
さらに昔は国栖(くず)氏だったのではないでしょうか。
先程書いたように、国栖は湊の石を組むのが巧みで、
のちには大王の古墳も造ったと真鍋はいいます。

彼らは古墳の石室の築造を担当したのではないでしょうか。
土を盛るのは土師(はじ)氏です。

この二氏の組み合わせは、鉱山でも力を発揮します。
穴を掘る人たちと、穴を補強する人たちです。
これに加えて、堀った土から錬金する人たち。それが穴遅。

「穴遅」に「大」がつけば「大穴遅」。「おおなむち」です。
大己貴は宗像三女神の姉姫二人と結婚しましたね。
三神の新婚の住まいは?
英彦山の北嶽!

大己貴が訪れたという老松神社は飯塚市の出雲の近く。
そこの土師氏は菅原道真公が太宰府に左遷された時、援助した人たち。
道真公は土師氏。

何度も、この考察を繰り返し書いてしまいます。

古出雲のエリアは遠賀(おんが)川の上流から下流にかけて。
そして玄界灘の福津市津屋崎方面まで。

オンガさま、オオガさまとは大己貴という思いがさらに強くなりました。

遠賀川と玄界灘の連結点に熊鰐(くまわに)がいます。
熊鰐は大国主命と少彦名命を祀る氏族。そして、神武天皇の末裔でもある。
出雲と天皇家の連結点でもある。

八幡東区の仲宿神社にその熊鰐の館がありました。
熊鰐はイワレヒコの磐境神籬を守り続けました。(一宮神社参照)
神功皇后はそこに何度か訪れたことから、その地名は皇后崎(こうがさき)となりました。

その近くには穴生、鉄竜、鉄王などの地名が連なります。
そこに陣営を張ったのが武内宿禰で、旗頭(はたがしら)神社となりました。

むむ。解けますな。
そこは古出雲の中でも、最先端の地域だったのでしょう。
武内宿禰が守ったのはもちろん神功皇后だけど、
あの地点を選んだのは、鉄がらみですね。


今週の14日(土曜日)は神功皇后がその熊鰐を祝福して祈った
豊山八幡神社の隣でお話会なのです。
御縁を感じます^^

遥か遠いゾロアスター教の大地の神は日本に来て穴遅となった。
その始まりは遠賀川から玄界灘にかけての古出雲ではないか。
その末裔が熊鰐一族。

やっぱり今日もこの結論になってしまいました。(^_^;)




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by lunabura | 2019-01-17 19:00 | 真鍋大覚ノート | Comments(4)

五郎山古墳壁画の予習 6世紀後半分布図




今月末(1月31日)に行くバスハイクで装飾古墳を見学しますが、現場ではテンションが上がって写真を撮るだけで終わりそうなので、今日は予習です。






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画像出典 筑紫野市HPより
http://www.city.chikushino.fukuoka.jp/kyouikubu/bunka-joho/gorouyamakohun.html

これでは良く見えないけど、キャビン付の船が三つほど左右にあるようです。

正面には双胴船っぽい船。遠賀川でもいくつも見ました。
型式化して描かれているようですね。
専門家によると双胴船では無いようですが、その船の名は忘れちゃいました。
(また教えてください)


左に両手を挙げて祈る女性がいます。
その前にあるのは祭壇とされていますが、彼女の視線は空を見ている。

祭壇ではなく殯屋(もがりや)のような気がします。
空中にあるのが祖先神とか、魂とか?

現地でこの辺をしっかりと見てきたいと思います。
三世代にわたって埋葬された可能性があるそうです。




「五郎山古墳は、直径約35メートルの装飾壁画を持つ6世紀後半の円墳です。」
とHPに書かれています。

円墳が6世紀後半に増えて、壁画も描かれるパターンが出てきますが、これもその一つですね。


ということで、6世紀後半分布図を更新しました。







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散らかった6世紀の分布図を前半と中~後半に分けてみましたが、ほとんどは後半のものでした。


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by lunabura | 2019-01-04 19:58 | バスハイク | Comments(0)

北部九州の古墳 3、4、6世紀 分布図 2018年版だよ


北部九州の古墳分布図 

3、4、6世紀 2018年版





この年末は古墳を学んできましたが、更新中の分布図を並べてみようと思います。

私が行った古墳を中心にしているので、学術的なものではありませんよ。

取りあえず、2018年度版として並べてみます。


まだまだ在庫はあるし、ブログに書いていて洩れているものもあります。
でも時代感というのが分かって凄~く面白いです。






3世紀後半

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4世紀後半


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ピンクは女性と判別しているもの。







6世紀

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□は群集墓。※訂正 仙⇒仙道古墳。小竹町 竹原古墳 ⇒ 宮若市 竹原古墳。

不思議に、他の時代はほとんど行っていません。
これらの古墳は破壊されずに残されていて、一般人が見学しやすい環境だという条件をクリアしたものばかりです。
個人的な縁で訪問したものに限っているので、先程書いたように学術的なものではありません。

でも、通してみると古墳の形の変遷がよく分かります。
前方後円墳は柄鏡型からバチが開く形へ変化しているのは間違いないでしょう。



また、磐井の乱後、八女や糟屋ではまだ大きな前方後円墳が造られますが、その後は美しい円墳に横穴石室、その中に装飾画が施すのがブームになっていくのもよく分かります。

6世紀が多すぎて、この先どないしようと思ってしまいます。
三つの時代に分けるのが良いのかな。

でも、資料で年代がはっきりしないのがあるので、それをどうするのか、という問題があります。



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by lunabura | 2018-12-29 21:29 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(2)

小正西古墳 飯塚市 6世紀後半 美人巫女 円墳 二つの石室 



小正西古墳 

飯塚市 6世紀後半 美人巫女 円墳 二つの石室 



小正は「おばさ」と読みます。
飯塚市小正の丘の上、住宅に囲まれて古墳公園として残されています。




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何よりも、巫女の埴輪が魅力的な古墳です。
頭に「かふり」を付けていますね。これが島田髷という髪型ではないのがよく分かる埴輪です。アジアの民族衣装に残されている「布製のもの」です。







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かわいい古墳です。






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石室が二つあるのが印象的でした。







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正面にあるのは1号石室です。掲示板に
「盗掘のため奥壁の一部と右壁が破壊されていました。長軸4.5m、短軸2.1~2.9mを測る平面羽子板形の横穴式石室です。奥壁より約0.7mの位置に碓井板石を立て、屍床として区画し、石室壁面には赤色顔料が塗布されていました。
出土遺物 木芯鉄張鎧、壺鐙、f字形鎧板、鉄刀、鉄鏃、翡翠製勾玉、碧玉製管玉、ガラス玉等」
とあります。

6世紀後半で鎧や馬具などが出ています。磐井の乱527年ですから、その後も武具が副葬される時代が続いていることになります。



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これに直角に造られた石室は2号石室で、盗掘犯も気づかず、未盗掘でした。

こちらは小ぶりです。人骨が四人分検出されています。

主な出土品は銅鏡(珠文鏡)、鉄刀、鉄鏃、鉄刀子、鉄鉇、鉄鑿、鉄鋸、水晶製勾玉、瑪瑙製勾玉、石炭性算盤玉、ガラス玉等
となっています。

武器以外にノコギリ、ヤリガンナなど、大工道具が納められていますね。

当初から石室を二つ設計したと想像していますが、一家が埋葬されているのか、DNA検査など進むといいですね。

これらの出土物や埴輪をどこで見学できるのでしょうか。不明です。







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これまでブログに挙げたもの、訪問してまだ挙げていないものを載せてみました。

6世紀の前半と後半に分けたいのですが、「6世紀」だけしか書かれていない古墳があるので、取りあえず100年分を載せました。 

大型古墳からだんだんシンプルな円墳に変化していくようです。小さな古墳群や横穴も出てきて、磐井の乱後は首長中心の世界観から、個人や集団を第一に考える意識が芽生えていくようにも見受けられます。価値観が変化していくような気がします。

この分布図を作成していると、行った所が多いので驚きました。神社巡りの時に近場の古墳もついでに回る程度でも、意外に沢山の古墳を見学していました。

これに加えて歴史資料館の出土物も見るように心がけていますが、こうして掲示されていないとすご~く困難な作業となります。

「古墳―出土物―歴史資料館」この連動が大切ですね。


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by lunabura | 2018-12-27 20:17 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(0)

焼ノ峠古墳 絶景の前方後方墳 四角だよ 3世紀後半


焼ノ峠古墳 

前方後方墳 3世紀後半






 広~い筑後平野の真ん中にポツンと見える独立丘。
それが花立山(城山・じょんやま)です。






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隼鷹神社 上巻34)
どこからも見えるのですが、その丘に前方後方墳があります。









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四角と四角が組み合わさったものです。「やきのとうげ古墳」です。


保存していた画像が行方不明(-_-)
撮らなかったのかも知れないなあ。ま、1月のバスハイクで撮り直してきます。




この珍しい古墳は3世紀後半となっています。
前回の光正寺古墳と同じ時代なのです。


確か掲示板には発掘のためにトレンチをいれたものの、埋葬施設が見つからなかったという内容が書かれていたと思うのですが、古墳の本では墓壙の輪郭のみ確認されたと書いてあります。曖昧なので、来月、掲示板を確認してきます。


3世紀後半ですから、卑弥呼が死んで(248年)、男王が立ち、それから壹與が立てられる頃になります。

被葬者はやはり卑弥呼の事を知っていることになります。



ここは朝倉郡筑前町四三嶋(しそじま)です。
「四三」は北斗七星を指す場合があります。
「三」は南北を指す場合もあるので、いずれなのか検討を要します。

この朝倉郡筑前町からは1世紀の硯の破片が複数発見(再評価)されたので、かなり古くから文字を知った人たちがいることが分かっています。

大己貴神社からも4キロほどなので、羽白熊鷲の滅亡が3世紀初頭(日本書紀による)とすると、それから朝倉は平穏になっていたかもしれません。

それからしばらくして3世紀後半にここの豪族は前方後方墳を選んで埋葬されました。







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同じ3世紀後半に宇美町では前方後円墳の光正寺古墳が造られたのですから、二種類の形が存在するのは興味深いですね。





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で、グーグルなどを見ていると、近くには前方後円墳の痕跡がいくつも見えるのです。消失した古墳もあるとのことですが、どれを指しているのかは分かりません。
確か、石室が残っている古墳もあります。



焼ノ峠古墳 前方後方墳
【クロスロードふくおか】より
城山の北麓にある古墳時代前半(3世紀後半)の前方後方墳です。全長40mで前方後方墳としては九州最大です。当時この地方一帯を治めていた首長の墓と考えられています。





来年、2019年1月31日(木)のバスハイクは小郡や鳥栖方面ですが、この焼ノ峠古墳(やきのとうげ)にも行く予定です。



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by lunabura | 2018-12-25 20:24 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(2)

光正寺古墳 3世紀中~後半 前方後円墳 箱式石棺・割竹形木棺



光正寺古墳 

卑弥呼を知る世代





光正寺古墳は福岡県糟屋郡宇美町にあります。








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施設入り口から、後円部がど~んと目に入ります。



博多湾に注ぐ宇美川の右岸の丘陵の上で、宇美川流域を見下ろしています。


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後円部から前方部の中心ライン上で撮りました。







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これは前方後円墳ですが、柄鏡型なので、これまで見て来た4世紀後半の古墳に繋がっていくような存在になります。

やはり竪穴式の墓壙がありますが、何よりも特徴的なのは三種類の棺が並んでいる点です。これを見て何としても見たいと思ったのです。

そして、驚いたことに、沖出古墳の真西にあることをチェリーさんが発見しました。
埋葬施設も東西軸です。今日のキーワードは「東西」ですね。


埋葬の様子がよく分かる絵が掲示板に掲げられています。








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番号順に埋葬されているそうです。
注意してみると、1→2、それから3→4→5なので、二つのグルーブには少々時間差があります。

一つずつ見ていきましょう。

①は川原石を敷き詰めて箱式石棺を組んでいます。これは福岡では各地でよくみられる棺ですね。

そして興味深いのは、その石材が能古島、月隈、若杉山から持ち込まれたものだという事です!これはいったい何を伝えているのでしょうか。

能古島も月隈も奴国のエリアにあります。

若杉山はどうでしょうか。神功皇后がこの木の杉を香椎宮に植えたという話があるように、地元では聖山です。当然ながら、この被葬者は神功皇后の話を知っています。

三ヶ所から運び込まれた石は被葬者の縁がその三ヶ所に繋がっているから使用したのでしょうね。

しかもこの人が一番最初に埋葬されています。男性か女性かは分かりませんが、立地からは首長なのでしょう。

②の小さな箱式石棺はその人の子供と思われます。地元の砂岩の石棺に納められました。親に続けて亡くなったのでしょうか。すぐそばに埋葬されています。






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この復元レプリカは宇美町歴史資料館にあります。朱のようすが良く分かりますね。

宇美八幡宮の右手にある資料館です。隣接しています。




③は割竹形木棺です。配偶者と思われますが、自分の故郷の埋葬型式を持ち込んだのだと思います。

割竹形木棺で、これまで出会ったのは糸島市、那珂川市、宗像市です。もちろんこのほか沢山の地にあるので、特定はできないのでしょうが、印象としては福岡県の西部や西南部の感じがします。この人の脇にも子供が一人埋葬されているんですね。それが④です。

④の甕棺はやはり奴国や伊都国のイメージと重なってしまいます。子供が甕に埋葬されるケースは板付遺跡でも見ましたね。ちなみに宗像市では甕棺は出ないそうです。
(一点のみ吉備式が出土している)

⑤の箱式石棺も小さいですね。一人だけ方角が違っています。両親の上座に埋葬されたような印象です。

これらを見ていると、夫婦と子供たちの家族が一緒に埋葬されているように見えます。子供が小さいので若夫婦だったのでしょう。流行り病などで短期間の内に亡くなったのかとも思いました⑤の子だけは少し生き延びたけど、やはり幼くして亡くなったような。

この夫婦は、別の国の首長同士の縁で結ばれたように見えますが、仲が良かったのでしょうね。

そして、この埋葬の優しさからは、あまり男女の格差が無いクニの姿が思い浮かびます。


さて、二つ目の特徴は「東西のライン」です。
古墳自体は東西軸ではないのですが、埋葬施設が東西軸で造られ、頭は西向きだそうです。

西が開けています。被葬者は自分の治めた国を向いているのでしょう。
でも、完全な東西なら、また何らかの思想があるのかもしれませんね。仏教に西国浄土の思想があるように。


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もう一つ、特徴は、沖出古墳の東西ラインに重なっている点でした。

何故一致しているのかは謎です。
るな的には血縁関係があったのだろうかと、考えたりしています。

この光正寺古墳が造られて100年ほど経ってから、真東の嘉麻市に沖出古墳が造られたんですね。古墳の形は同じ柄鏡型で、竪穴式石室です。でも棺は板で造ったものから、石を削って造ったものに変わりました。


築造時代は3世紀中頃~後半です。ということは、卑弥呼の死248年の同世代か次世代の人たちです。

被葬者たちは卑弥呼について知っている人たちです。







粕屋郡宇美町 光正寺古墳




見学するのは古墳が先か、宇美町歴史資料館が先か。悩みますね。
宇美町には宇美八幡宮があり、その西には巫女たちではないかと思っている古墳群があります。またいつか紹介します。

【宇美町HPより】
光正寺古墳の築造年代は、第1主体部から出土した古式の土師器で甕の制作年代が3世紀中頃から後半であり、県内の前期古墳の中でも最古期の古墳に位置づけられます。また、光正寺古墳は糟屋郡内最大の前方後円墳であることから古墳の被葬者は、当時糟屋地域を支配した豪族(王?)の墓と考えられます。

墳丘規模は全長約54m、後円部径約34m、前方部長20mで前方部2段築成、後円部3段築成の糟屋郡内最大の前方後円墳です。





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by lunabura | 2018-12-21 20:12 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(1)

北部九州 古墳分布図 四世紀後半



北部九州 古墳分布図 

四世紀後半



 「四世紀後半」の向野田古墳と沖出古墳を続けて投稿したら、やたら「四世紀後半」のキーワードが目につきまして。

 自分の過去ブログを見るといくつかUPしていました。それを整理してみると、みんな柄鏡型古墳でした。

 柄鏡型古墳だから四世紀半なのか、埴輪が朝顔形だからそうなのかは分からないのですが、地図に落としていくと、何となく倭国の力学関係も見えるような感じがして、ちょいと面白い。









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小郡市の消滅した三国の鼻一号墳が四世紀中頃ということなので、この中では一番古いです。沖出古墳は四世紀の終わり頃なので、一番新しいと思います。

 名前の後の数字が全長で、メートル単位です。

 大きさでは一貴山銚子塚古墳がダントツで、副葬品も一番多いです。一度行ったことがあるのですが、あまり価値が分からない頃だったので、今はこの古墳をもっと知りたいと思っています。埋葬状態がそのまま残っていたのです。

多数の鏡など、出土品は京都大学が持ち去ったので、地元の私たちは見ることが出来ません。平原遺跡と共に博物館で見られるようにしていただきたいなと焦がれている古墳です。

せめてカラーのパンフレットが欲しいですね。いつも書いていますが、持ち出した大学や資料館は地元に還元して啓蒙する義務があると思います。年に一度の里帰り展などを積極的に企画してほしいですね。

 さて、免ケ平古墳は現在、西日本新聞で掲載されているのですが、三角縁神獣鏡が出ています。卑弥呼より100年以上経っても、銅鏡が愛されているのが良く分かります。
 
 この分布図は今現在出会っている古墳ばかりです。これから少しずつ更新していくことになると思います。

謎の四世紀と言われますが、神功皇后を支えた豪族たちと重ね合わせていくと、誰がここにいたか良く分かりますね。

次の時代になると鎧や兜が見られるので、四世紀後半はまだまだ弥生の彩りが残っているような印象があります。

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by lunabura | 2018-12-19 22:48 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(0)

比較:向野田古墳と沖出古墳3 玉類と埴輪



比較:向野田古墳と沖出古墳3 

玉類と埴輪



嘉麻市と宇土市という離れた所にある前方後円墳の比較シリーズ、副葬品の続きです。


8 玉類







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向野田古墳は勾玉、管玉、小玉です。勾玉は緑色。大きいのと小さいのが一緒なのは珍しいと思いますが、どうでしょう。玉類のセットは弥生時代のものとそう変わりがないような印象です。

沖出古墳は残念ながら盗掘されていますが、きっと目立つような宝だったんでしょうね。もし玉類が沢山あったなら、被葬者が女性ではないかと推測できたんですがね。残念です。





9 埴輪を比較しましょう








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向野田古墳の埴輪はやや厚いそうです。朝顔形の円筒埴輪が出ています。

沖出古墳の円筒埴輪も朝顔形というそうです。これを見ると、向野田古墳の埴輪も想像できますね。
この朝顔形が4世紀後半の特徴だと、朝倉市の宮地嶽古墳の説明板にありました。

沖出古墳の円筒埴輪に舟の線刻が見つかっています。これはキャビン付の二本の櫂(?)というエジプト太陽の船風のデザインですね。浮羽の装飾古墳などに沢山描かれています。

家形埴輪のレプリカを載せましたが、現物には直弧文があると、ある本に書かれていました。確認したいな。碓井郷土館にあるそうです。近場の人見てみてください。




さて、以上で主だった副葬品の比較を済ませました。

一つずつ比べていくと、これから何を基準に見学したらいいのか、少し分かったような気がします。


遠く離れた同じ時代の二つの古墳が古墳の形が同じ前方後円墳の柄鏡型で、副葬品も同じような雰囲気でした。同じような価値観を持っているような印象を受けました。

古墳を造る氏人に土師氏がいますが、自由に招かれて長たちのために造ったのでしょうか。それとも通説の許可制なのでしょうか。西暦300年代後半、卑弥呼から150年後頃の世界をもっと知りたいですね。

宇土市立歴史資料館では撮影許可をいただき、どんどんSNSに載せてくださいと言われました。ほんの一部の紹介でしたが、テーマを決めて蔵出しもしていきたいと思います。



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by lunabura | 2018-12-17 20:32 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(0)

向野田古墳 宇土市 4世紀後半 前方後円墳 竪穴式石室 舟形石棺 女性 



向野田古墳 宇土市 

4世紀後半 前方後円墳 竪穴式石室 舟形石棺 女性 




前回は早く比較したかったので、いきなり二つの古墳の比較を始めましたが、今日は落ち着いて熊本の向野田古墳の探訪記を書きたいと思います。4世紀後半の前方古墳です。






 熊本県の宇土半島の根元に走る鹿児島本線と国道3号線の間、不知火御領簡易郵便局を目指して行きました。そこから東の山に向かって曲がります。








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バスの中から撮りました。正面の山ではなく、右の山のもう一つ奥を目指して歩いて行きます。
すぐに左手に案内板があり、いきなり赤土の山を登ります。

今思えば後円部を登っていたようです。
落ち葉と雨で滑りながら登っていくと少々フラットな所に出ましたが、それも後円部の段の一つだったのでしょう。







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まもなく墳頂に出ました。
周囲の地山を削って前方後円墳の形にして、削った土を円墳上に盛り上げているそうです。


この窪みが竪穴式石室の跡で、395cmの石棺がここに埋め戻されています。








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埋葬されていたのは30代後半~40代の女性です。






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石棺の中には頭の周囲に鏡が3面、右手元に碧玉製車輪石、胸にヒスイの勾玉、ガラス小玉などが添えられていました。足から1メートルほどの所には奄美、沖縄産のイモ貝製の貝釧が置かれていました。

石棺外には鉄刀や鉄剣、ヤリ、鉄斧などの武器類が置かれていました。

この古墳も破壊される直前に高校生が掘って石室を掘り出したそうです。
その後、前方部が削られてしまい、現地は円墳のような形になっています。



この日は、この後、雨が大降りになり雷まで鳴り始めたのですぐに下りました。
手荒い歓迎ぶりでした。


副葬品は宇土市立図書館の歴史資料館に置かれています。人骨は熊本大学にあるそうです。

熊本地震で宇土市市庁舎が壊れたのをテレビで見ましたが、見事に再建されていました。資料館はこれからですね。

最初に目に飛び込んで来たのが甕棺でした。
「懐かしい!こんな所に甕棺がある!」
と声を挙げたら、甕棺の南限がここだそうです。甕棺を持ち込んだのか、現地で造ったのかは不明だそうです。


地形を見ると分かりますが、古代において九州を北から南に下る時、船でも陸でも必ず通らねばならない所で、両脇の山間部に古墳群があり、今回の向野田古墳は東の方に築造されていました。



宇土市向野田古墳 赤マーク






20181214






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by lunabura | 2018-12-14 20:06 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(0)

比較してみた 向野田古墳と沖出古墳1 4世紀後半 竪穴式石室 石棺


比較してみた 

向野田古墳と沖出古墳1 

4世紀後半 竪穴式石室 石棺




熊本県宇土市にある向野田古墳(むこうのだ)は4世紀後半で竪穴式石室です。
全長が約86メートルの前方後円墳ということで、先日紹介した福岡県嘉麻市の沖出古墳とキーワードが重なります。

重なるのは「4世紀(後半と終わり頃)、前方後円墳、竪穴式石室、石棺」です。

沖出古墳は全長68メートルだったので、向野田古墳の方がずっと大きいです。

が、向野田古墳の石棺は「舟形石棺」なので、沖出古墳の「割竹形石棺」と似ています。

舟形石棺と割竹形石棺の差というのはそれほど明確ではないそうですが、遠く離れた宇土市と嘉麻市に造られたほぼ同じ時代の古墳について比較してみたいと思います。



1 北を上とした場合の比較

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地図上で北を上にした場合、二つの古墳は同じ方向を向いているのか。
それを比較した画像です。

宇土市の向野田古墳は後円部が南にあり、主軸はやや傾いていますが、石室だけは南北を採っているようです。現地説明でも石室の向きが重要だと言われていました。

これに対して嘉麻市の沖出古墳の主軸は全く南北を意識していません。主軸は田川の位登八幡神社と名の無い山のピークを意識していました。少しずらして脊振山頂と位登八幡神社のラインも候補に上がりましたね。

向野田古墳は地山を整形して削った土を円墳の墳丘に盛ったというので、地形に影響を受けたのかもしれませんが、あるいはやはり何かのライン上に築造されたのかもしれません。(チェリーさんの宿題が増えますねえ)






2 主軸を揃えて形を比較 石棺の方向は?
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今度は主軸を水平にそろえてみました。
形がそっくりですね。柄鏡形でいいのでしょうか。円墳に向けて細長い方形墳があるのは古式だそうです。そのあと段々バチ形に開いていくとN氏に習ったのですが、ネットで検索すると、バチ形→柄鏡形→バチ形と変貌していました。

もちろん、一番左のバチ形は箸墓古墳のことですね。ずいぶん無理な変遷史に変貌していますね。

脱線はこれまでにして、二つの古墳の、主軸と石棺の方角を比較しましょう。
全く違っていますね。法則性はあるのでしょうか。謎が出てきました。







3 竪穴式石室の比較

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どちらも竪穴式石室なので、設計を比較してみましょう。
向野田古墳は床を整形して石を並べ、石棺ギリギリに石を置いています。蓋は石を並べています。
沖出古墳は崩れていたせいか、少し乱雑に積まれてみえます。







4 石棺の比較
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向野田古墳は舟形石棺です。沖出古墳は割竹形石棺です。
いずれも縄掛け突起(なわかけとっき)は付いていますが、その違いは底の形です。

ウィキペディアで両者の違いを調べました。
〈【舟形石棺】刳抜式の石棺の一種であり、身と蓋を合わせた断面は扁円形をしており、同様の方法で作られた割竹形石棺より安定性があり、両端が斜めに切られている形状が船に似ていることからこの名称が付いている。

割竹形石棺の変容形と目されており、縄架け突起が付けられていたり、石枕が作り出されていたりする。

主に4世紀中葉~6世紀前葉に熊本・佐賀・宮崎・香川・島根・福井・群馬・茨城などの各地で在地の石材を用いて首長の棺として造られ、各地に普及した。〉

以上からは「割竹形石棺→舟形石棺」と変化しているようです。
弥生時代の糸島市の平原遺跡が割竹形木棺なので、木から石に変化していくのでしょうか。

向野田古墳(4世紀後半)と沖出古墳(4世紀終わり頃)の年代を比較すると
向野田古墳の方がやや古いのでしょうが、石棺の時代変遷は逆転しています。
時代が接近しているので、どちらが古いとは一概に言えないようですね。

が、二つをじっと見ていると、形に込められた思想があるのではないかと思えて来ました。

木の中に永眠するのと、船の中に永眠するのとでは、葬送の思想が違うような気がしてきたのです。

私は一般人ですから、考古学的な素養はありません。
ですから自由な素の観点で印象を記録しておきたいなと思います。


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by lunabura | 2018-12-12 21:30 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Comments(0)

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