ひもろぎ逍遥

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エジプト太陽の船と筑紫野の五郎丸古墳壁画



エジプト太陽の船

筑紫野の五郎丸古墳壁画





エジプトのクフ王のピラミッドの脇から二つの太陽の船が出土しているが、そのサイズが違っていて、大小二つあるのがずっと気になっていた。
一つは帆船で、もう一つの船を曳くようになっているらしい。




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曳かれる船はキャビンだけで、太陽神ラーとファラオが乗るようになっているそうだ。

これと同じ二艘の船の壁画が南アメリカのピラミッド関連の壁画にも描かれていることがRKBテレビであっていた。










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(画像出展)
http://www.city.chikushino.fukuoka.jp/furusato/sanpo14.htm


これを知った後に筑紫野市の五郎丸古墳壁画を見ると、上の船の四角の構造物は棺ではないのかもしれないと思うようになった。
棺にしてはサイズ感が違うのだ。
これは王の為のキャビンの可能性はないだろうか。

エジプトの壁画と同じ思想の船が浮羽市と筑紫野市にあるのは、
有明海から入って来た渡来人が居をなしたからか。

彼らは石室の空間を埋めずにはいられない観念を持っている人たちだと思う。



<2017年12月27日 >



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by lunabura | 2017-12-27 21:33 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(0)

三星堆―古蜀国―イ族2 鳥居か?




三星堆―古蜀国―イ族2 

鳥居か?


メモが出てきたので、もう少し記録しておこう。







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アーモンドアイを持つ三星堆の巨大な神像。










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これは額にある文字。
イ族が読むと「パ」という発音で「先祖」という意味になるという。









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中国の「戦国時代」図。古蜀国とは蜀のことのようだ。

紀元前316年、秦は軍資金を得るために蜀を攻めた。
紀元前2世紀、蜀は四つの郡に分割された。
3世紀に反乱を起こしたイ族は諸葛孔明によって鎮圧される。
13世紀にフビライはイ族の城を攻め、全員を殺害。





逃げに逃げたイ族は今、大涼山の頂上に3万人の少数民族として蕎麦や羊で暮らす。
姓にはアユ、ムポがある。
名にはテル、アブ、グフ、マル、アカ、マショ。
神の言葉を伝えるピモは100人以上いる。

前回書いた、死者の魂に故郷の道を教える歌は「指路経」という。
その指し示す地は馬牧河(ムンプク)。すなわち蜀の地。






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彼らの文字。








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羊毛節には生きた鶏を高く掲げる。鳥居か、あるいはソッティなのか。








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羊たちに、松で作った「浄化の門」をくぐらせると浄化されるという。
この松が日本では藁と紙垂(しで)になる。

イ族が武装を解除したのは、近年のこと。
その掟は「人の和を大切にする」だという。

蜀の文化は古代日本に通じている。





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by lunabura | 2017-12-11 20:40 | メモ | Trackback | Comments(0)

三星堆―古蜀国―イ族 



三星堆―古蜀国―イ族 




秘境中国謎の民「天頂に生きる」(NHK)の再放送があった。初回も見たのだが、これが驚いたことに、三星堆(さんせいたい)の遺跡を生んだ人々が追われて山の上に住むようになった話だった。

あの「三星堆」をタイトルに何故入れなかったのか、不思議で仕方がない。今日見ていても、惜しいと思われてならなかった。「三星堆」なら、誰でも見たいと思うのに。







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「三星堆」の巨大な青銅の像は数年前に九博にも来ていたので、その裏もじっくりと観察したことがある。これほどの技術を持った人たちはいったいどうなったのか。テレビではその答えが見事に説明されていた。








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三星堆は古蜀国にあった。
繁栄していたため、紀元前316年にその富を狙った秦に攻められて移動し、次には諸葛孔明に攻められて移動、と何世紀もの間、幾度となく攻められて逃げていった人々が「イ族」だった。
今は登山に6時間はかかる山の上に住んでいる。








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紀元前4世紀ごろの文字を今も伝えているイ族に三星堆の出土物の文字を読んでもらうと、読めるのだ。

人が亡くなると、その魂は三つに分かれるという。

一つは天に。一つは守護霊となって村に。そしてもう一つは元々住んでいた国に。

神の声を聴くピモが死者にそこへの道筋を教えるのだが、それを辿ると三星堆がある古蜀国につくという。









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祭りの時の娘の頭にはあの「かふり」がある。
そう、埴輪女子が被っている例の「かふり」だ。
上着も無地なら埴輪と同じ打ち合わせ方。

顔も日本人そっくりだね。



蛇足だが、熊本にイ(井)さんが集中する町があるという話を思い出した。






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by lunabura | 2017-12-10 20:46 | メモ | Trackback | Comments(2)

辺津宮―大島―沖ノ島 海底に沈んだ陸と遺跡




辺津宮―大島―沖ノ島

海底に沈んだ陸と遺跡


 

いまだに信じられない。
かつて大島は陸続きだったという。





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神湊の頓宮から大島を撮ったのだが、この間は陸地だったというのだ。
しかも、この海が出来たのは475年。倉良の瀬戸という。
今から約1500年前のことだ。
そんな話を伝えるのは、もちろん真鍋大覚ぐらいしかいない。






しかし、海底に沈んだのはこちらだけではない。
大島の向こう、沖ノ島の手前にも海底に沈んだものがある。







30mほどの石柱が四本。一本には螺旋階段がついている。
これは真鍋の口碑の裏付けになろう。

もしかしたら、両方とも同じ時期に沈んだのだろうか。





鼻栗瀬もそのとき、一部が崩壊したのか。






合わせ鏡の舞台だ。


話は逸れるが、大島には洞窟が沢山あるそうだ。
かつてそこで金を採掘していたという。
陸地の方も孔大寺山は金を産出していた。
金の鉱脈が繋がっているのか。


<2017年12月4日>




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by lunabura | 2017-12-04 19:29 | 大島 | Trackback | Comments(7)

ひめちゃご104 始まりの宮へ



ひめちゃご104

始まりの宮へ
 

物部神社から姫方若宮八幡宮へ向かった。

「ひめちゃご」の始まりの宮だ。







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真直ぐの古代道が綾部八幡宮まで続くという。
その途中に姫方若宮八幡宮がある。

狭い車道を北上した。

この日、ウメとタケと私は現地でミノリ一家と合流した。

ミノリこそ「ひめちゃご」という言葉を生み出した人だった。






民家の前を通って
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狭い参道を上っていくと、









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見慣れた姫方若宮八幡宮に出た。
銀杏が輝く季節だった。


ここもまた古代の岬の先端に建っていた。
ここから見える山々は古代の天文観測の名残を教えてくれた。



この宮の祭神は『中原町史』によると、
住吉大神、仁徳大神、武内大臣となっている。

八幡三神でも、次世代の三神ということか、
応神天皇の名が見られない。










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その拝殿にはめずらしい葡萄が彫られていた。
江戸時代の建造なのか、明治に入っての建造かは不明だが、
葡萄とはこれまた瀟洒な西洋的モチーフだ。











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神殿の方には龍と桐。天皇を祀るにふさわしい。










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ところが、他はどうだ。










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波と花に埋め尽くされていた。

いかにも女神の装いなのだ。

ミノリが参拝する時に現れるのは女神だという。


この姫神が誰なのか、それを探す旅でもあったのだろうが、
市杵島姫命が最有力候補だった。


町史も
「原始八幡信仰の神籬から、宗像女神に、宇佐八幡系が入りこみ、
若宮八幡の占有する姿を漂わせている気がする。」
と書いている。

この「中原宿は姫方村の枝村であった」ので、
そこと同じ神を祀っていた可能性があると考えているようだ。

この点は氏子からも「同じ神を祀っている」と聞いている。

町史はさらに、次のように鳥栖の「姫古曽神社」を引き合いに出していた。

<鳥栖市旧基里邑に「姫古曽神社」があって、集落を姫方とよぶ。
祭神は「市杵島姫命、住吉大神、八幡大神」である>

総合すると、この「姫方若宮八幡宮」は鳥栖の姫方の飛び地なので、
「市杵島姫命」を祀っていたと考えられるのだ。

時代は違うが、ここには「中原宿」があり、伊能忠敬が宿泊していた。

<肥前国三根郡なる堤村、寒水村字中島姫方村内中原町駅場止宿>
と書いていることから、当地は「姫方村」と称していたことが分かる。


明治になって、鳥栖の方の祭神は元の形に復元されて
市杵島姫命が再び祀られるようになったが、
この枝村には及ばなかったのだろう。

市杵島姫命の名は公には出ないままとなった、と考える。



神殿に彫られた「波と花」。
それらは市杵島姫命が「水」を司ることを象徴していると思われた。

恵みをもたらす側面と災害をもたらす側面の
二つの顔を持つ「水の女神」
それが市杵島姫命だったのではないか。







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さて、私たちは参拝を済ませると、
中原中学校の校庭にある前方後円墳に向かった。

『中原町史』は以下のように、被葬者を女首長と考えていた。


<中学校前提の前方後円墳に収めた墳主は、
この地の部族の女の首長ではなかったかと考えられる>
さらに、
<この神社のある姫方原一帯は広い範囲に、世代を異にする弥生住居跡が、
多数出土する遺跡である>
とも記す。

これは6世紀の古墳だそうだ。
グラウンドには弥生の墓地もたくさんあったのだろう。



このあと、私たちはさらに、北浦天神社と雌塚に行った。
日が沈む時間が近づいていた。

晩秋の姫方郷をそぞろ歩きして戻ってくるとき、ミノリが
「あの綺麗な女神は市杵島姫」
と言った。
やはり、そうだったのか。

ミノリは鞍手に行って星読とも会っている。

星読が、
イチキシマ姫は佐賀に逃げた、と言ったことを思い出す。
不思議な附合があったことになる。
こうして、ヒメコソ神の三社参りは五社参りとなった。


この「ひめちゃご」は2016年8月から書き始めていて、
いつのまにか一年以上も経っていた。

この始まりの宮で筆を置こうと思う。

すでに、次の巻物が開かれている。

何が書かれているのか、先はわからないが、
これからも日々の記録を残していこうと思う。





        終




                      <2017年11月3日>




メールやコメントの返事が遅れています。
少々お待ちくださいね。




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by lunabura | 2017-11-03 21:11 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(0)

ひめちゃご103 検見谷遺跡付近地図に画竜点睛を



ひめちゃご103

検見谷遺跡付近地図に画竜点睛を
 


前回、検見谷遺跡の場所が分からないと書いたが、
チェリーが出土したという佐賀カントリー倶楽部の地図を作製してくれた。








c0222861_23225581.jpg


以下はそのコメント。

<いろんな地図を合成して、マウスでなぞったという荒い地図ですけど…
黒い線が佐賀カントリー倶楽部の範囲です。

赤い線が標高20mの等高線、暗い赤の線が標高30mの等高線です。

佐賀カントリーの左上の端あたりに、西から入って南に登る谷がありますが
(白石神社・白石焼窯元への道を登り詰めて、
クラブハウスへの道に合流して、南に進むのですが)、
佐賀カントリーに達する前に標高30mを超えてしまいます!
該当する場所が見つかりません!!>

赤い標高線のラインより4m高い所に遺跡があるという。
<背振山地南麓から白壁地区に向かって延びる丘陵の西側に位置している。

この一帯の斜面にはたくさんの谷が複雑に入り込んでいるが、
銅矛出土地点は、その谷の一つの最奥部、南へ入り込む小支谷の斜面上で、
標高約24メートルの場所である。>

これを追求するのも面白そうだが、これは是非とも地元の方にお願いしたい。


今、12本の銅矛は文化庁にあるという。
文化庁や他県の大学に行ったものは地元から忘れさられる可能性がある。

そうやって、九州の歴史は失われていく。

背振山系の南麓にはずらりと古代の最高レベルの文化が花開いている。

奇跡的に保存された吉野ケ里遺跡レベルのものが
台地ごとに存在して、古代人の営みがあったのだ。
その古代人の心の支えが神社だった。

佐賀の奇跡はもう一つ「肥前風土記」が伝わっていることだ。

景行天皇の時代を軸にして、古代道を今でも感じることができる。

誰か、チェリーの描いた地図に赤い点を打ってほしい。

画竜点睛。

方法は、検見谷遺跡の発掘報告書を手に入れるか、
佐賀カントリー倶楽部に問い合わせる。

そうして、その人には、新たな旅が始まるのだ。
古代の歴史がアイデンティティとなり、
次世代の子供たちのチカラとなっていくのだ。



<ひめちゃご>
<2017年11月1日>






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by lunabura | 2017-11-01 23:24 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(2)

ひめちゃご102 検見谷遺跡 12本の綾杉文様の銅矛は出雲より多かった



ひめちゃご102

検見谷遺跡 

12本の綾杉文様の銅矛は出雲より多かった
 


さあ、弥生時代に遡ろう。

やけに遺跡が多い北茂安町だが、出土は22号線以北に集中するという。
そこまでは海が上がってこなかったのだ。

丘という丘は甕棺や住居跡だったのではないか、と想像したくなるほど多い。

そして、あの麗しき12本の中広型銅矛がこの地域から出土していた。








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この12本の銅矛が出たのは旧北茂安町だったが、場所が特定できない。

町史にその記述を見つけたが、
住所は「大字白壁字一の幡」としか書かれていない。

HPでも場所が示されていないという異常事態だ。

この場所について、町史では
<背振山地南麓から白壁地区に向かって延びる丘陵の西側に位置している。
この一帯の斜面にはたくさんの谷が複雑に入り込んでいるが、
銅矛出土地点は、その谷の一つの最奥部、
南へ入り込む小支谷の斜面上で、標高約24メートルの場所である。>
と書かれている。

これではいったいどこから出土したのか、全くわからない( ;∀;)

手掛かりは
<銅矛の発見は、(略)その土地を所有するゴルフ場の職員による
樹木移植作業中のことであった。>
とあり、そのゴルフ場が佐賀カントリー倶楽部だ
ということだけが分かった。

地図をいくつも照らし合わせるが、わからない。









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チェリーの地図だと、画面右下の丘陵地帯がゴルフ場らしい。

物部神社の東に谷がいくつもあるが、そのいずれかだろう。
さすがの、るな探偵もお手上げだ。

出土状況は12本を刃先と袋部を互い違いにして埋納していたという。
このような埋納法は
春日市岡本辻遺跡や那珂川町安徳遺跡と同じだそうだ。

銅矛の長さは82・2~83・8センチ。
綾杉状の文様が研ぎだされている。

これと共通点が多いのが島根県斐川町の荒神谷遺跡だという。
銅剣が358本出土したが、そのほかに16本の銅矛が出土している。

互い違いに置かれ、刃を立てた状態は検見谷遺跡と同じで、
丘陵斜面の中腹であり、
等高線とほぼ並行した状態で埋納されたという点でも一致しているそうだ。

荒神谷遺跡の16本の銅矛のうち、中広型は14本で、
綾杉文様があるのは7本だというので、検見谷遺跡の方が多い。

鋳型は北部九州や四国の西部に限られるということだが、
たしか、出雲の銅矛の鋳型は春日だと聞いたことがある。

出雲の銅鐸と「吉野ケ里遺跡から出土した銅鐸の鋳型」が一致した話もあり、
この佐賀東部と出雲との関連は検見谷の銅矛の出土から、
さらに深いものになった。

それにしても、どうしたことか。
荒神谷遺跡の出土地は簡単に見学できた。
それなのに、検見谷遺跡は出土地の確認さえ、一般人には出来ない。

さらに、六の幡遺跡の29号甕棺は弥生後期初頭で、
完形の連弧文昭明鏡という中国製の鏡が出ている。

なんだか、すごい出土品の数々なのだ。
こんな情報が今どき、ネットでも見られないのは問題だと思う。


さて、ここは風土記にも登場している。
どうやら、佐賀カントリー倶楽部は『肥前国風土記』では
三根郡に当たるようだ。

町史によると、
「三根郡は、『肥前風土記』によれば、海部直鳥が望んで、
神崎郷の一部をさいてつくったとされる。
郷は千栗・物部・米多・財部・葛木・漢部の六郷があるが、
風土記では物部・漢部・米多の三郷しか説明されていない。>
とある、

葛木郷は物部神社の南にあった。

葛城氏について、町史は「大和の大氏族」と書いているが、
小倉北区の篠崎八幡神社は葛城襲津彦の末裔の宮で、
葛城氏はもともと九州の氏族だったと思う。
(『神功皇后伝承を歩く』下巻96番篠崎八幡神社)

そして、巨大な銅矛が制作できたのは加茂氏ではないかと
最近は考えるようになったが、
この地域の南西にはなぜか「加茂」という信号があったのを思い出した。


佐賀カントリー倶楽部



<ひめちゃご>
<2017年10月31日>





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by lunabura | 2017-10-31 21:03 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(6)

(祝)福岡県がついに神社と古代史のHPを出したよ (^^)/【「ご来福」しよう】



(祝)福岡県がついに
「神社と古代史」のHPを出したよ (^^)/

その名は【「ご来福」しよう】










このHP、入口が二つあるみたい。
どっちがいいかな♪


すごく躍動的で楽しい^^
二次元なのに動きがあって、ワクワクする。


福岡県が福岡の神社と古代史を全国に伝える企画を始めましたよ!
嬉しいですね。

私も行ったことのないスポットが沢山紹介されています。
寄り道のグルメスポットも。

福岡って総本社も沢山あって、ご利益もパワフル。
そんなワクワク感があふれています。

人々の願いと神社は密接に繋がっているんですね。

ご利益はあまり願わない私ですが、
神功皇后のガイドブックを素人が出せたという事自体が、
ご利益かもしれないなあ。



実は、わたくしこのHPの作成に当たって、
少しお手伝いしました。
投稿文も数本、寄せています。
少しずつUPされていくので、見つけてくださいね。

ヒント。
画像がいっぱい♪

私が撮った写真も切り取り方でこんなに変わるの?
と、目から鱗です。



以下は福岡県大阪事務所のフェイスブックからの引用です♪

【福岡古代の旅「ご来福」しようホームページがオープン!】

福岡では、知人が来ると、「◯◯さんご来福!」と言います。
なんと縁起の良い響きだと思いませんか!
実際、福岡は歴史的にも究極のパワースポットが集まる地。

今回、そんな福岡県内のご来福スポットを紹介する、
「ご来福」しようHPがオープンしました。
ご利益・歴史から見る古代スポットを随時更新予定です。

トップページの鈴を鳴らせば…
あなたにおすすめのご来福スポットが表示されます!
皆さまに多くの幸が訪れますように!

この機会に、あなたもご来福しませんか?

福岡古代の旅「ご来福」しようホームページはこちら↓

https://goraifuku.jp

(上の画像でリンクしてます^^)

(鈴を鳴らすとおみくじが出た(;'∀'))


コメントありがとうございます。
返事はお待ちくださいね。


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by lunabura | 2017-09-28 20:40 | ご来福しよう | Trackback | Comments(0)

上大利小水城2  積雪による洪水を防ぐ堤として形成された話に納得する


上大利小水城 2

積雪による洪水を防ぐ堤として
形成された話に納得する

 

福岡には『日本書紀』に書かれた水城(みずき)という
古代の土塁が実存しているが、
ほかに「小水城」(しょうみずき)が複数存在する。

このたび、大野城小水城の現地説明会に参加したが、
それは真鍋の記録の検証のためだった。

人間が灌漑と耕作に努力をはじめた時代は氷河期以前にあったらしい。肥前三根で2万3500年前と推定される。今も堤を水城という。昔は「みなつき」であって、「つき」は築ではなく雪であったはずになる。

氷河期の人類が最も恐れたのは怒涛のごとき積雪の崩壊であった、その勢いは一瀉千里で山麓から遠くはなれた平地も、雪解けの洪水に漂没することが多かった。

祖先は子々孫々にいたるまで幾段も堤を築きあげてこれを支えた。氷河がなくなる頃には池となり田となり、畑となって天に至る景観となったのである。   『儺の国の星拾遺』p141


氷河期が終わったのは1万年ほど前のことらしい。
真鍋は氷に閉ざされた時代の話をよく書いている。


脊振山系では、近年まで雪で道路が不通となる話をよく聞いた。

積雪が崩壊して洪水となると、
山麓離れたところまで洪水に没したと真鍋はいう。

私たちはこの現象を今夏、まざまざと見た。
雪が木に変わっただけだ。
朝倉の水害ははるか有明海まで及んだ。

はるか遠い昔、積雪が山津波を起こすのを止(とど)めるために
人々は堤(水城)を造ったという。

のちにはこれが池や田、畑となって「天に至る景観」になったということは、
段々畑の形成は積雪の山津波を食い止めるための営みだったことになる。

佐賀側ではこの堤が円形になってウロコ状に発達したものを見られるが、
福岡側の小水城や水城は直線構造だった。


水城は瀦水塘(ちょすいとう)と呼ばれた。
瀦水塘はほかに、上田(かみだ)、水雪田(みなつきた)、水盡田(みなつきだ)
といった。
「つき」とは「雪」の古語だったという。
積雪のイメージから来たらしい。

夏になると上田から下田(しもだ)に水を送る。
上田に水がなくなったために、「水無月」(みなつき)の名が起きたという。


万葉の頃までは、山の麓の平坦な谷間を上手(かみて)と下手(しもて)の二つに別けて、その堺の狭く縊(くび)れたところを仕切って、ここに堤と閘門(こうもん)を置き、冬場は上手に水を蓄え、下手に麦を播き、夏場はここに水を通して早生の水稲を植え、やがて上手の水が空閑(こが)になると、そこに晩生(おくて)の陸稲を植えた。貯水の面積までが活用される仕組みであった。『儺の国の星拾遺』p140

水城の築造場所は山の麓で平坦になった所、谷間の狭くくびれた所を選んだ。
そこに堤を築造して、閘門を設置したという。

閘門(こうもん)とはコトバンクによると、
水位差のある水面間で船を就航させるための構造物。
上流端と下流端に扉 lock gateをもつ長方形の一種の部屋 (閘室) である。
とある。

水城には土塁の下に木樋が四本以上敷かれていて、水を通すようになっている。
木樋にあるL字型の構造が閘門に当たるのか。

板で開閉するようになっていたのだろう。
これをイタドリと呼んだ。

谷は水城で仕切られ、冬には上手に水が張られ、下手に麦が蒔かれた。
夏になると、上手の水が下手に貼られて水稲が植えられ、
空っぽになった上手には陸稲(おかぼ)が植えられたという。

1・2キロもある水城ではなく、小水城の形成ではないかと思われた。


この話から、上大利小水城を見てみよう。


c0222861_2251342.jpg

この土手が小水城で、全景だ。
約90mで、やはり谷の狭い部分に築造している。

土塁は本来もう少し高く、手前にせり出していた。

土塁の右手は自然丘陵を利用して形成している。
さらに右手には現代の川が流れていた。

全体は左手(奥)の方に傾斜していて、
現在、上流から下流に水を通すパイプが設置されている。

手前が下流で、この前まで田んぼがあった。


閘門や木樋は確認されていない。
閘門を設置するとなると、奥が良いだろう。

今は9月だが、古代の様子を想像すると、
土手の向こうでは水稲が実り始め、
手前では陸稲が育っているということになる。





c0222861_226117.jpg

これが奥の方の第一トレンチ。
水たまりがあるが、基盤まで掘り下げると、
雨が降らないのに自然と水が出てくるという。

トレンチ左手に版築が出ている。
版築とは種類の違う土を段々に重ねる工法だ。
ここから古墳時代の土器の破片が出土している。

しかし町の見解では、665年の築造のはずだから、
この土器片は土取場に古墳時代のものがあったのだろうということだった。

ほかに、飛鳥時代の土器片も出ている。

外敵を防ぐための土塁だが、外濠の存在は無かったという。

この上大利は大宰府からみたら、川の反対側に当たる。
何故、離れた所を防御するのかと尋ねたら、
大宰府に通じる道があったからということだった。


感想としては、小水城は真鍋の話をよく説明していると思われた。


前文の続きを載せておこう。

この農法は今も大陸では保存されており、瀦水塘と今も呼ばれている。

天平の昔までは、倭人はこれを「ゐみづ」或は「いほと」といった。さきほどに出た射水も那珂川の岩戸(いわと)も、かつての瀦水塘の和訓を教える地名である。唐門(からと)がひらかれ、浅い水位からしずかに流れ出る水は、二月かかって土を潤す。これを祖先は入水(いりみ)田(だ)といった。その頃南の空に見えるのがこの浥(いみ)理(りの)星(ほし)(鷲座γタラゼット)であった。
『儺の国の星拾遺』p140








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by lunabura | 2017-09-07 22:12 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(2)

卑弥呼より400年前の奴国は青銅器製造が花盛り 春日市須玖 岡本遺跡とタカウタ遺跡



卑弥呼より400年前の奴国は青銅器製造が花盛り

春日市須玖 岡本遺跡とタカウタ遺跡

テクノポリスだった奴国が具体的に見えてくる



2017年7月26日付け西日本新聞より




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【把頭飾の鋳型の出土】

春日市の須玖タカウタ遺跡で「把頭飾」(はとうしょく)を造るための
土製鋳型が発見されました。

把頭飾とは銅剣の柄の先端に付ける飾り。





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この「把頭飾の土製鋳型」の発見は国内で初めてとか。
把頭飾は従来、半島や大陸由来説が主だったので、
歴史観の見直しが必要になるのでしょうね。

紀元前2世紀頃のものなので、卑弥呼より約400年ほど前の工房。







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【把頭飾の出土】
同じ春日市須玖の「須玖岡本遺跡」で
紀元前150年ごろの銅剣と青銅製の「把頭飾」が出土しています。

国内産の可能性も視野に入ってきました。
卑弥呼から約400年前の人物です。シルクや水銀朱も出てますね。












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【多紐協の鋳型】

須玖タカウタ遺跡からは、多紐鏡の鋳型も出てますよ。
これも輸入品とされていたのが、国産品の可能性を示しています。


これまで歴史講演で、把頭飾や多紐鏡が出てくると、
朝鮮半島や中国大陸製と決めつけている印象があって、
その論拠が分からなかったのですが、
やはり、輸入品と決めつけることが出来ないのを知って納得です。

春日市、大注目ですね。



ちなみに奴国(なこく・ぬこく)の「奴」には「大きい」という意味があります。
博多湾を囲んだ「大きい国」という意味かも。
もちろん、志賀島も入っていますし、
香椎宮は儺(な)の県(あがた)ですし、
那珂川町も儺の国の一部です。
古代は海や山を中心に考えると分かりやすいです。





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by lunabura | 2017-07-31 21:29 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(0)
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